玄徳道

道を語るブログです。

師道

2012-12-31 18:05:53 | 天道
道院における先天坐法の特色の一つは師と呼ばれる坐の指導者が至聖先天老祖の云われる神様ただ一柱である事です。厳密にいえば数多の神使、先輩修方(こちらは人間)が協力され、坐道を示されていますが。

今、世にある瞑想では、グルと呼ばれる指導者が瞑想を指導するらしいですね。その弟子たちは常に師を意識し、その師の高い?霊性に合わせることにより自分も高い霊性を得られやすくなる、そうです。
仮にその師なる人物が霊覚、霊格、霊性、共に優れておられれるのであれば問題がないと考えられる方もおられるでしょう。しかし、人がこの天地間に生まれた以上、自己の宇宙をより明らかにする使命もあります。例えその師が神の如きであっても、その方が明らかにする神性があり、もしその方の神性の流れを受けるだけであれば模倣であり、自己を明らかに出来ない怠惰でもあると言う事でもあります。当然人生の師は持つべきであり多くの学びがあります。しかし、多くの瞑想が師の追従のみであれば、何十年瞑想しようとも、そこで得られるものは何があるのでしょうか。「坐道」とは自分が悩み、定め、止め、魂を振い歩む道であります。そこに求めるべきは他人ではありません。真の自分自神なのです。
当然、スケベな師、お金が好きな師、名誉が好きな師等に付く事は、論外でございます。

道院の坐も多くの人が機縁を与えられている筈ですが、おそらく真剣に坐をされている方はごく僅かではないかと考えます。人は日々の習慣で、即効性のある事柄であれば(例えば御蔭がある。病気がすぐ直る。運気が良くなる)喜んでします。しかし、坐道には即効性はありません。日々の生活の中で時間を取り(先天坐は最短で16分)毎日することが大切であります。徐々に気質を変じ気の運行を正常化し精を溜め神を得る。間無く断無く、歩み続ける堅実な意志、そして、心中は誠、真心を持って為す行為が大切なのであります。

私の師、老祖さま。もとより私は不肖の弟子であり、坐に対しても長年、何の価値も見出せませんでした。しかし、優れた人との出会い、多くの文献により援けられて、私はなんとか坐を継続することが出来ています。人と書物に感謝です。

「道は何を以って能くこれを離れさせないようにするか、要は中を出でず。中とは喜怒哀楽の未だ発せざるをいい、既に発して皆その節に中る、これを和という。」
「炁を練るの要点は、心を清くして以て情を制し、情を忘れて浄に帰するにあらざれば以て成を観るに足らざるなり。老祖訓」

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大道

2012-12-30 18:32:20 | 大道
「大道廃れて仁義あり」とは老子のお言葉です。
当然、我々修道を志す者から観れば仁義は人が神から与えられた本性であります。そして道とは本来名がなく、あえて名付けて道と云う言葉とし、自然万物に法(のっと)る事ににあります。
太古の時代人は純朴であり、魂である神性が全面に体中から出ておりました。仁や義等と云う言葉を学ばなくても人の行いは神と合し常に天地の運行に添って生きていました。
平和な時代は人の天性の気が形を成し、真理を授かりて。自己の本性を知り、仁義を発して中庸に至りました。それが無為を変じて礼嬢となり、形を重んじる風習となり、礼嬢が変じて武力、我良しなる心で誅するようになりました。是により人の本性である天性、神性が日々削られ、道を語れども、見向きもされない世界へと変じています。ここに人は娯楽や快楽に興味を示し、我良したる素地が出来、人心、人欲が盛んとなり、道心、神なる魂はそれに覆われてしまう現状なのです。欲望は業を作りたちまちに世を乱す刧となります。そして刧を化するは大道による霊光であります。

至聖先天老祖の降臨と真経受経心印への意志は「大道」による救済であります。

この至聖先天老祖と云う神霊がどうも合わないと言われる方もいるかもしれません。中国式呼び名が気に入らんと云う方もおるでしょう。しかし、この神様は「吾に本来形も姿も名も無く各自好きなように唱えれば良い」とフーチの壇で示されています。
あくまでも先天の炁胞です。神なる働きをする真神です。是により自分が真心で受け入れられ感化される神であればどのような名で呼ぼうが構わないのです。惟神のままに。

大道によって世を救う要諦は真理の闡明と真実の修養にあります。ここで残念に思うのがあくまでも先天坐の修養により真理を悟り真霊を挽回し天地の一体となることにあります。また、大道の真諦を明らかにし真理を究める学府たる道院にのみ多くの経典があると言う事です。私は縁があり道院を知り、不肖ながら老祖の弟子として先天坐を授けられましたが、多くの人は交通の便(東京にしか道院がないため)や諸事情、怪しげなところに行けるかいな等気軽にはいけませんね。正に縁です。

このブログで何度も紹介させていただいていますが、きらく仙女さんの著書「生きる意味と方法」が早く電子ブックになる事を期待する所以です。

しかし、日本にも様々な神々が降臨され善なる働きを為そうという動きは今も活発です。道院にこだわることもなく、各自が自分の神に目覚めこの世に安寧を与える働きが少しでもある以上、日本は神の国です。一人一人の御魂の輝きに期待します。
「老祖、妙山より臨む。妙山の妙風に乗りて、神島を漫遊して来る。諸神も亦会す。今日は如何なる日と云う。十二万年前の神国記念日なり。昔は北洋にも神国あり、南冰にも神国あり、皆善を好む。…神の国は昔も道の国と称したり…。道の結束する所の果は。和平、博愛、空虚、寂滅、慈悲、歓喜、清真、忠恕なり」(1924年3月6日神戸道院訓)

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アセンション 回光道

2012-12-30 11:55:12 | 天道
「世は乱れず。常に人の心が乱れるのみ」

どうも今月の12月21日が次元上昇、アセッションとされる日であったようです。このアセンションは現実的社会変化は見受けられません。振り返ってみますと、私はこの日も仕事が忙しく、懸命に働いておりました。
アセンションを信望する側からすると批判する側の人は波に乗られず、肯定する者のみが波に乗れると言う事らしいです。またアセンション出来る人材から順番に次元上昇する。そしてそれに伴う闇の神々の妨害があるともされています。

「蓋し天の生民を降すよりは即ちすでに与うる仁義礼智の性をもってせざる莫し。然れどもその気質の稟、或いは斉しきに能わず。是をもって皆その性の有する所を知ってこれを全うするある能わざるなり。…大学より」

真剣に次元上昇が起きていると信じ自分を戒め、善なる働きをされている方もおられるでしょう。そして、それも一つの道であり素晴らしいと思います。しかし、私は大いなる根源なる神が人を選び、アセンションを信じぬ人を死や更なる輪廻の苦しみ等を与えるのか疑問でもあります。確かに人には魂の高低正邪があります。しかしそれは人間側から観た観測であり、役割でもあります。大いなる根源なる神から観れば人は皆可愛い吾が御子であるように感得してしまいます。

神の働きとは無為自然に在ると考えます。ビックバーンより、神の計画をなされたと伊勢白山道リーマン氏は述べていますが私はそれに反目します。天上で神々が計画を立てて、人類をどうこうしよう等と云う事は一部の幻覚者が観る霊界(想念界)の世界であり、本来の神は無形無声無限であり絶えずこの世の運行をされています。神の計画を知ると自称される方は常に霊的世界にのみ重きを置き偏ります。

いずれにしろこの世を悪くも善くもするのは人間であります。故に人が自己の本性を覚神し、自分が尊敬されたい、崇められたいと云った欲心を遠ざけ、真の自己の役割に徹することです。神人合一とは有名な神と神憑りする事ではありません。自己の神性を明らかにすることであります。高次の自身が、低次の自身を従える。魂が魄を従える。自らが神を明らかにする事は根源なる神との繋がりも明らかになり、根源なる神が生命の光を先天炁を与えて下さります。そして我々が道を歩む中で得た真理の光は根源なる神に還ります。この光の循環こそが地球に滞る万刧を弭化することが出来るのです。

「わが体は心に合し、心は気に合し、気は神に合し、神は無に合す。」

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