警視庁・捜査1課の元刑事だった久松は退職後、悠々自適(ゆうゆうじてき)の生活を送っていた。なんといっても、捜査が絡(から)む不規則な生活から抜け出したことが久松にとっては大きかった。そんな久松が、朝遅く冷蔵庫を開け、おやっ? と思った。ブランチ[朝食と昼食を兼ねた食事]の惣菜にと冷蔵庫の中へ入れておいた刺し身パックと丹精込めて調理した楽しみのムツ[メロ]の味噌焼きが消えていたのである。これは偉(えら)い事件が起きたぞっ! と、長年の刑事癖が出たのか、久松はそう思った。まずは状況把握、そして聞き込みである。ここはまず落ちつこう…と久松はキッチン椅子へ腰を下ろすことにした。座ったあと、はて? と、考えれば、家族の者は出払っていないことがまず頭に浮かんだ。妻の美土里と娘の愛那は観劇に出かけていた。状況を思い返せば、昨夜は…そうだ! 冷蔵庫を開けたあとスーパーで買った刺し身パックを冷蔵庫へ入れた…という記憶はあった。だが、あのときは…冷蔵庫のドアをなにげなく開けただけで中を確認せずすぐ閉じたことを久松は思い出した。当然、味噌漬けがあったかまでは分からない。ただ、あのとき刺し身バックはあったのだ。それははっきりしていた。それが今、消えている。妻も娘の愛那もアリバイが有るか? といえば、無かった。消えたのは刺し身パックを入れた夕方から今朝までの間である。夜分の犯行であることは分かりきっていた。闇の狩人(かりうど)は誰だ! 久松は益々、色めきたった。
美土里と愛那が帰ってきたのは夕方近くだった。
「ただいまっ!」
「ただいま! じゃないだろ。冷蔵庫に入れておいた刺し身はっ!」
「ああ、アレ。アレは朝、私が食べたわよ。消費期限が過ぎてたし…」
美土里は買ってきた服の買い物袋を重そうに下ろしながら言った。消費期限の云々(うんぬん)は建て前で、美味(おい)しそうだったから食べちゃった! が本音だった。
「なんだ、お前か…」
久松は、まあ仕方ないか…と思いながら続けた。
「じゃあ、味噌漬けは?」
「ああ、アレは私よ。和食もけっこういけるわね。温かい御飯に合うわよ、アレ」
アレも食われたかっ! と久松は愛那の言葉にガックリした。闇の狩人は存在せず、事実はただ家族に先を越されただけだった。久松は今度は金庫に入れて鍵をかけ、冷蔵庫に入れよう…と恨(うら)めしそうに本気で思った。
完