どんなことでも、新しいことを行えば当然、リスクが増える。スムースに行けばいいが、その新しい行動に対する未知の抵抗が予測されるからだ。
高波静夫は今までより少し遠くで釣りをしようと考えていた。そこは地図では知っていたが、まだ行ったことがなく、少し不安ではあった。要は、少しのリスクがある釣りをしようということだ。地図を広げながら高波がテレビを点(つ)けると、司会者を中央にして有識者達が政治座談会をやっている画面が映った。地図をひとまずテーブルの上に置き、なんだ? と高波が視聴していると、集団的自衛権の話し合いらしかった。話は佳境に入っているようで、自衛隊員のリスクが増える…とかの、ゴチャゴチャした話になっていた。高波は俺のリスクはどうなるんだ! と思いながら、また地図を見て地形と交通ルートを綿密に計算した。しばらくして、ああ、これならいいだろう…と、調べたルートをメモ書きし、その日は眠ることにした。
一週間が流れ、いよいよ高波はその地へ行くことにした。以前、行ったところまではよく知っていたから、高波は列車に揺られて眠っていた。妙なもので、そこから先の未知の区域に入った途端、高波の目は冴(さ)え、眠気も消えた。その港がある駅に降り立ったとき、高波の胸は予想されるリスクで昂(たかぶ)った。
「あの…ここはよく釣れるんでしょうか?」
「ええ、釣果(ちょうか)は上々のはずですよ、普通に釣れば…」
ニタリと笑い、地元の男が返した。この瞬間、高波のリスクは明らかに小さくなったはずだった。
「店とかは…」
「釣り関係のですか? えっ? 違うんですか? はい! はいはい。休憩するだけですね? それなら、ほら、あすこに…」
地元の男は一軒の旅館らしき建物を指さした。
「どうも…」
高波は教えられた旅館らしき建物へと近づいていった。
旅館へ着くと、高波は玄関で手続きを済ませ、番頭に部屋へ案内された。高波のリスクは、ほぼ消えたようだった。そのとき、なにげなくズボンに手を忍ばせ、おやっ? と高波は思った。あるはずの財布がなかった。切符は先に予約買いをしてポケットに入れていたから、こうしてここまで来れたのだ。財布は? 高波の胸の動悸は急に高まり、リスクもまた高まった。そうだ! 出がけに着替え、前の服へ入れたままだった…と高波は思い出した。リスクは、とんでもないことで高くなった。高波は旅館の主人に事情を説明し、旅費を借りてUタ-ンした。リスクは思わぬところで発生するものなのだ。高波の釣り気分はいつの間にか消え失せていた。家へ戻った高波は、出直さず、家にいた。リスクはリスクを考えたばかりに、思わぬところでリスクとなった。リスクがリスクを発生させたのだった。
THE END
日曜の朝、徳山光二は退屈まぎれにスーパーで買物をしていた。もう買い残しはないな…と思え、徳山はレジへと向かった。レジの空いたところで勘定を済まそうと入ると、手ぶりから見てまだ馴(な)れていないと思える若い店員が対応した。次々にレジ価格が入っていくPOSシステムはいつもながら便利だ…などと、偉(えら)そうに思っていると、すでに清算に入っていた。
「¥4,033です…」
ここで徳山はミスった。いつもなら¥5,100を出し、おつりは¥1,000札で貰(もら)うシステムを徳山はとっていた。ところが、である。ついつまらなく思っている間に¥5,000札のみを出していたのである。当然、店員は機械に清算させ、お釣りの¥967を手渡した。このとき徳山は、ハッ! とミスに気づいた。清算は終わっていたから、もうあとの祭りである。徳山の脳裡(のうり)に悲しい演歌のカラオケが侘(わ)びしく流れた。財布にお釣りを入れ、硬貨を残念そうに掻き回していると、¥500硬貨が二枚あった。
「あのう…これ¥1,000札に交換してもらえませんか?」
「…それは出来ません」
店員の愛想ない返事が返ってきた。まあ、店員には悪気はなく、店のマニュアルどおりに言ったのだろう…と徳山は思った。経済学でいえば確かに取引は済んでいた。だが、徳山はまだ取引の場を離れた訳ではなかった。その状況は、その場を去ってから換金を願い出た場合と明らかに相違しているのだ。まあ、出来ない・・と言われればそれまでだが、その辺(あた)りがサービスのように思え、買ったものを袋に入れると、徳山は店をあとにした。今ではレジ袋もお金がいる時代になっていた。家に帰り、徳山が財布の中のおつりを見ると、いつ入れたのか、その中に印籠(いんろう)が入っていた。何を隠そう、恐れ多くも、このお方こそ先の副将軍、従三位中納言、水戸光圀公にあらせられる…訳がなかった。
THE END
注:¥500硬貨2枚を¥1,000札に換金する一つの方法として、2枚を金融機関へ預貯金で預け、¥1,000引き出せば、¥1,000札は入手できます。^^
須山竹夫は一般の人間とは少し違う物が見えた。過去や未来を含む真実の映像だ。だから時折り、変なやつ! と言われた。それを避(さ)けるため、ここ最近は見えても口を噤(つぐ)んで答えないようにしていた。だが、ストレスが鬱積(うっせき)し、これは捨て置けないぞ…と思うようになった。
「あそこに新しい薬局が出来たの知ってるか?」
そう言って、友人の児玉が指をさした少し離れた前方を須山は見た。そこに須山が見たもの・・それは草が生い茂る荒れ地だった。こいつの気分を害するのもな…と瞬間、須山は思えた。それに今はそこに薬局は存在し、あるのだ。それを荒れ地が云々(うんぬん)とは言えない。変人に思われかねないし、絶交されるのも困まる。
「んっ? ああ…見えなくもない」
須山は咄嗟(とっさ)に出た言葉で方便を使った。
「お前、目が悪くなったのか?」
「おっ、おお…。まあな」
さらに方便を使い、須山は難(なん)を、どうにか逃(のが)れた。
「そうか…、まあ大事にしろよ」
「ああ…」
児玉に慰(なぐさ)めともつかぬ言葉をかけられ、須山は苦笑した。ただ、[見えなくもない]という文言(もんごん)はいいぞ! と思え、以後は多用することにした。
そんなある日のことである。
「どう! 私、綺麗?」
自信あり気に、同じ課で働く年増(としま)のOL、三崎加代が須山に訊(たず)ねた。手がつけられないほどブサイクな顔が須山の目へモロに飛び込んできた。当然、須山は常套句(じょうとうく)を使った。
「見えなくもない…です」
「見えなくもない・・って、どうよ! そこは、見えるでしょうがっ!」
ムカッとしたのか、加代は須山に噛(か)みついた。
「いや、すみません! 別人に見えなくもない、って意味でして…」
「ああ、それほど綺麗ってこと? なら、そう言いなさいよ、ちゃんと!」
須山の目には整形以前の手がつけられないほどブサイクな顔が映っていたが、むろんそうとは言えず、心に留め置いた。ただ、須山が別人に見えなくもないと言ったのは本心だった。他人の目には加代が美人に映っていることだろう。だとすれば、俺が見えているのは別人だ・・と思ったのだ。ある種のコジツケによる逃避心理だ。そこまでして真実を隠す必要があるのか! と、須山の心が叫んだ。
「いいえ、三崎さんはブサイクです」
「まあ! 言ったわねっ。覚えておきなさいよ!」
加代は怒って、小走りに去った。須山はあとの恐さ以上に心がスゥ~っとして、胸の閊(つか)えが取れた。
THE END
今日は日曜の朝である。答動(とうどう)久男は肉を入れてスキ焼の下準備を始めていた。答動は世間の既成概念の打破に燃える男で、朝からスキ焼き・・というのもその一つだった。世間の一般常識では、家族を囲んで夕飯に・・だからだ。答動家ではその常識が通用しなかった。妻の夏美も三人の子供達も、答動の理路整然(りろせいぜん)とした方針に感化され、今では完全に諦(あきら)めていた。日曜の朝はスキ焼きのブランチ[朝食と昼食を兼ねた食事]というのが答動家の相場となっていた。
割り下は作り置きがあったから問題はなく、答動はいつもの手順で楽しみながら準備をしていた。当然、鼻歌なども出て、気分は上々だった。ふと、外の庭を見れば、植えられた庭木の梢(こずえ)に雀(すずめ)の群れが舞い下りるのが見えた。まあそんなことはよくあることで、さして気にも留めず答動は準備を進めた。準備は答動の専売特許で、いい匂いがしてグツグツといい塩梅(あんばい)に出来上る頃になると、夏美と子供達が現れるというパターンが定着していた。だから、「おい! できたぞっ!」と、声をかける必要など、まったくなかった。
焼豆腐、葱、肉、白滝などの具材をそれぞれ皿に盛って、答動はテレビのリモコンを押した。画面には政治座談会の熱弁合戦の様子が映し出されていた。一人の識者が意見を話し始めたとき庭の雀がチチチ…と囀(さえず)った。そして、意見が終わると雀の囀りは止まった。まっ! そんな偶然もあるさ…と答動は気にも止めず、具材の皿を茶の間の長椅子へと運んだ。運ぶ途中ですでにテレビはリモコンを押して切っていた。長椅子の上にはガスコンロが置かれており、その上には鍋が乗っている。答動は小型ガスボンベを捻(ひね)ってコンロに火を点(つ)け、テレビのリモコンを押した。その途端、ふたたび政治座談会が映し出された。テレビの観る場を変えたのだ。当然、識者達と司会者が映り、熱弁が聴こえてきた。それに合わせるかのように、庭がチチチ…チチチチ…と賑(にぎ)やかになった。賑やかなことだな・・雀達も座談会か…と、答動が思ったとき、夏美や子供達が現れた。まだまだ賑やかな座談会になるな…と答動は、また思った。
THE END
鳥橋(とりはし)拓也は、今年の春、新入社員となった若者だ。その鳥橋が朝からお小言(こごと)を課長の浪岡から頂戴(ちょうだい)していた。
「お前なっ! こんな書類どおりにコトが運ぶとでも思ってんのかっ! 少しは身体で覚えろっ! お前のは、頭デカの発想だっ!」
今日の浪岡は、二日分を怒っているように他の課員達には見えた。
「頭デカですか…。すみません、僕はこれだけのものですから…」
鳥橋は浪岡に下手投げを食らわした。そのひと言が余計だった。火に油を注ぎ込んだようなもので、浪岡の怒りは一層、大きくなった。浪岡の顔が赤くなったのを見て、鳥橋は、しまった! と思ったが、もう遅かった。浪岡が逆に上(うわて)投げを、うち返した。
「馬鹿野郎!! これだけのもので済んだら、会社は倒産だっ!! 情けない…少しは反省しろっ !!」
「はい…」
鳥橋は完全に萎(な)えていた。
次の日から鳥橋の身体で覚える仕事が始まった。それまではパソコン入力後に印刷していたものを、手書きしてコピーに切り替えた。手書きだと頭と同時に手指が動いているから身体で覚えているんだ…と鳥橋は思った。
「馬鹿野郎!!! そうじゃないんだっ、鳥橋」
少し哀れに思えたのか、浪岡は少しトーンを落として言った。
「えっ? どうなんでしょう?」
「とにかく、身体を動かせっ!」
「はいっ!」
鳥橋はそう言うと、デスクを立って課内を動き始めた。他の課員達は迷惑そうに歩き回る鳥橋を通した。
「あの馬鹿、ちっとも分かっとらん…」
浪岡は怒るだけ無駄か…と、鳥橋を無視することにした。
課内を5分ばかり動き回り、鳥橋は課長席の前へ戻(もど)った。
「課長、これでよろしいんでしょうか?」
「ああ、まあ、そんなところだ…」
怒るだけ無駄と悟った浪岡は、軽く鳥橋の言葉を受け流した。浪岡は言っても無駄だと思い、鳥橋は、これが覚えるということか…と思った。二人は妙なところで納得する同じ気分を覚えた。
THE END
弥川(やがわ)憲司は痒(かゆ)さに我慢できず、ボリボリ…と、思わず首筋を掻(か)き毟(むし)った。ホームレスには決して成りたくてなった訳ではなかったが、成ってしまったものは仕方がない…とオウンゴールのように甘受(かんじゅ)していた。
今朝も早くから、空き缶を拾ってリサイクル業者に持っていった。
「アンタも、よくやるね…」
慰(なぐさ)めともつかない言葉を顔馴染みの須崎にかけられ、弥川は意味のない笑いを無言で返した。
「今日は、450円だね。正確には448円だけど、ははは…端数は私からの寄付ということでね」
「須崎さん、いつも、すいませんねぇ」
軽くお辞儀をしてボリボリと首筋を掻き、弥川は須崎から手間賃を受け取った。まあ、これだけあれば、三日分を合わせて1,500円ほどにはなる。だいたい三日が相場で、換金しては僅(わず)かな食料を買い、飢えを凌(しの)ぐサイクルを繰り返していた。ボリボリ…と掻き、その日も一日が終わるのが相場だった。銭湯へはここ2年ばかり御無沙汰していたから、時折り、首筋を掻きながらそのときの湯舟の心地よさを弥川は思い出した。身体はもっぱら公設トイレ、デパートとかで洗っては拭(ふ)き、済ませていた。それでも、ダンボールの古さからか、やはり眠っているとボリボリ…となった。
そんな弥川に転機が訪れたのは、ひょんなきっかけだった。拾った宝くじが馬鹿当たりしていたのだ。弥川は過去、空き缶を拾っていたとき、偶然、宝くじ券数枚を拾ったのである。まだ新しかったせいもあり、それを交番へ届けておいたのだが、遺失物の届けがなく、時の経過で弥川のものとなったのである。その券が当たっていた。その換金額、実に前後賞を合わせ数億円だった。
入った金が災いした訳ではなかったが、弥川はホームレスを辞めざるを得なくなった。とはいえ、これといった金の使い道もなく、弥川は金を金融機関へ預けておいた。ところがである。人生は奇なるもので、偶然出会った男にアドバイスされ、小さな店を開店した。運よくそれが、また馬鹿当たりした。瞬く間に弥川は会社の社長となり、社長席に偉そうな口髭(くちひげ)を蓄(たくわ)え、座っていた。ただ、弥川は相変わらずボリボリ…と首筋を掻いていた。
THE END
鎮守の森では、いよいよ最後の試合が始まろうとしていた。対戦するのはフクロウとカラスだ。とはいえ、双方とも、ただのフクロウとカラスではない、フクロウはフクロウの中に君臨するトップ中のトップであり、対するカラスも代表格のカラスだった。スポーツではなく喉(のど)自慢だから、審判の判定に全羽、不服を言わず、恨みっこなし・・というのがルールだった。審判は全ての鳥から選出されたコハクチョウが務めていた。二匹は予選リーグを勝ち進み、決勝リーグの決勝まで勝ち残った。開始は、双方の都合がいい夕方に設定された。カラスは? といえば夜に弱く、フクロウは真逆に昼間が苦手(にがて)というのが理由だった。苦手というのは就寝タイムだということを示す。
『では、カラスさん、どうぞ…』
総合司会のコハクチョウがサッ! と舞い下りて、そう言った。その言葉に促(うなが)され、カラスは♪カカア~カアカア~~♪と美声を披露した。審査するコハクチョウ数羽は池の水辺を優雅に旋回しながら耳を澄ました。約3分が経過し、歌は終った。
「はい、お見事でした。では、フクロウさんどうぞ…」
フクロウは軽く羽根を羽ばたかせると、♪ホホウ~ホウホウ~♪と歌い始めた。そして、その歌も、やがて終わった。
「お二羽とも、ありがとうございました。では審査の間、私めがお粗末な喉を披露させていただきます」
総合司会のコハクチョウがそう言った。二羽は、どうでもいいのに…と、つまらなそうに思った。そんなことも知らず、総合司会のコハクチョウは高域の喉で一節(ひとふし)唸(うな)った。無視する訳にもいかず、二匹は仕方なく聴いていた。いや、聴かされていた。そうして、その歌も終わった。すると、水辺から別のコハクチョウが飛んできて結果を伝えた。
「はい、なるほど…。では、結果を発表いたします!」
盛り上げるドラムの替わりに、係の鳥達が羽根を羽ばたかす音がした。
「双方とも甲乙つけがたく、この試合は歌い分けといたします」
歌い分けとは、人間の世界で言う引き分けである。鳥の世界ではよく、こんなケースがあった。鳥だけに、とりとめがない・・ということのようである。
THE END
シトシトと今朝も梅雨の雨が降っていた。平坂(ひらさか)透は外の畑仕事も出来ず、さてどうするか…と、茶の間の畳に座り、腕組みをしながら考え倦(あぐ)ねていた。細かい砂を空から落とすような雨音だけが平坂の耳に聞こえ続けている。結論は出ず、いつまで考えていても仕方がない…と、平坂は湯呑みの冷たい茶を口に含むと立ち上がった。台所炊事場へ行き、洗い忘れた食器類を洗おうと蛇口を捻(ひね)った。そのとき、少し雨音が激しくなったように思えたが、偶然、タイミングが合ったんだろう…と、そのまま洗い続けた。洗い終えて蛇口を閉めると、妙なことにピタッ! と雨が止(や)んだ。まあそれでも、そんな偶然はよくある話だ…と思いながらふたたび茶の間へ戻(もど)ると、溜息(ためいき)が一つ出た。止んだ雨はそのまま忘れたかのように降ることはなかった。おお! これなら畑仕事が出来るぞ…と平坂は腕を見た。まだ昼には1時間以上あった。平坂は勇んで畑へ出ると軽く除草を済ませた。家へ入ろうとしたとき、葱が目に入った。貰い物の肉があったことを思い出し、今夜はスキ焼きにでもするか…と幾株かを引き抜き、外の洗し場で洗おうと蛇口を捻った。水が蛇口から勢いよく流れ出た途端、雨がザザーっと降り出した。タイミングのいいことだ…と平坂はニタリとし、蛇口を締(し)めた。それと同時に雨はピタリと止んだ。平坂はこのとき初めて、おやっ? と思った。洗い物はなかったが、蛇口を捻ると、ふたたびザザーっときた。平坂は少し怖(こわ)くなり、葱を片手に家の中へと駆け込んだ。
冷蔵庫を開けると、中に肉はなかった。
「ははは…馬鹿なっ!」
平坂は三日前、肉を食べてしまったことを思い出し、独りごちた。それを笑うかのように日が射した。長かった梅雨は明けた。
THE END
まさか、こんな地へ左遷(させん)されるとは…と、吉岡久司は、がっくりと肩を落とし、溜息(ためいき)混じりに社屋(しゃおく)の窓から外を見た。リストラされなかっただけでも、まだよかったじゃないか…と心の片隅で慰(なぐさ)めるもう一人の自分が呟(つぶや)いた。まあ、それもそうだな…と吉岡は、ふたたび書類に目を通し始めた。
吉岡が異動した商社は本社の子会社で、課長の吉岡は、形だけは次長ポストという昇任人事で、子会社へ遷(うつ)されたのである。
「まあ、そうガックリしなさんな。また日の目を見る日もあるさ…」
一杯飲み屋、蛸足(たこあし)で杯(さかずき)に酒を注(そそ)いでくれた同期入社、小野辺(おのべ)の言葉が、ふと浮かんだ。
「俺は、もう駄目だよ…」
吉岡は突き出しの蛸足の酢ものをつまみながらショボく言った。
「俺達は会社の物だ、流れるだけさ。帰ってきたやつもいる、諦(あき)めるなっ!」
「ああ…」
吉岡はこの言葉に勇気づけられ、会社を辞(や)めず努力した。その結果、吉岡の実績は積み上げられていった。右肩下がりだった子会社の営業利益は飛躍的に(の)伸び、会社経営は立て直されたのである。
それから一年が経(た)とうとする春先だった。
「あっ! 吉岡君。君、四月から本社へ戻(もど)れることになったぞ! おめでとう」
部長の烏賊墨(いかすみ)は握手を求めながら笑顔でそう言った。
「ありがとうございます!」
吉岡の脳裡(のうり)にふと、同期、小野辺の顔が浮かんだ。あいつのお蔭(かげ)だっ! 戻ったら礼を言わなきゃな…と吉岡は心に記(しる)した。
「それで、私のポストへは誰が?」
「ああ、それな。よく分からんが、本社からの電話では、確か…そうそう、小野辺とか言ってたな」
「ええっ!」
吉岡は物流として本社へ返送され、本社から入れ換わりに小野辺が流れてくる・・という物流がすでに出来ていた。
春先、一杯飲み屋、蛸足で小野辺の杯に酒を注ぐ吉岡の姿があった。
「俺達は会社の物だ、流れるだけさ。帰ってきたやつもいる、諦(あき)めるなっ!」
「ああ…」
どこかで聞いた言葉だった。
THE END
雲上(くもがみ)快晴は小学2年生だ。今朝は日曜で、時間の空(あ)きが出来た快晴は家の勉強部屋で、ゴミ置き場に拾てられていた不思議な本を読んでいた。出版社も作者名、値段も何もない、それでいて本らしい体裁(ていさい)を整えた不思議な本だった。小学生の快晴が読めない難(むずか)しい漢字には、ちゃんとルビが振ってあり、小学2年の快晴にもスラスラと読めるのが、不思議といえば不思議だった。
━ 妖怪・田舎(いなか)もどしは田に出て稲刈りをしていました。かつて田畑の畔(あぜ)に集(つど)い、昼の食を使う農家の人々の姿は消え、荒廃した田畑に妖怪・田舎もどしは住みつくようになったのです。妖怪ですから人間のように疲れることも全然なく、それはそれは野良(のら)仕事が捗(はかど)りました ━
『ふ~ん、疲れないのか…それは便利だな』
快晴は不思議な本だということも忘れ、読み進んだ。そして、次第に本の世界へと吸い込まれていった。
『ほお、アンタは…子供さんか?』
『はい、小学2年生に成りたての雲上快晴ですっ!』
『ほお、成りたてか? 刈りたての新米じゃ、ふふふ…。どれ、ひとつ、刈っていかんか』
田舎もどしは足がなく、スゥ~~っと快晴に近づくと、持っていた鎌(かま)を手渡そうとした。
『少しなら…。僕、勉強があるから』
気づけば、快晴はアッ! という間に一反(いったん)の稲田を刈り終わっていた。
『ほお、やるのう…』
妖怪・田舎もどしは感心した。
『いえ、それほどでも…』
快晴は取り分け怖(こわ)がりもせず、罰悪く、はにかんだ。
『いやいや、なかなかのもんじゃ。まあ、お礼といってはなんじゃが、これを取っておかんか』
妖怪・田舎もどしが鎌を受け取ったあと快晴に手渡したもの、それは、お米の引換券だった。そんな、馬鹿な! これは夢だよ…と思えたところで快晴は目が覚めた。目覚めた快晴の手に、お米の引換券が握られていた。
THE END