「若狭の奥様」
「若狭? 誰だい、それは?」
「副頭取の若狭さんの奥様よ」
城水は腕を見た。これ以上、話を続ければ、遅刻だった。教師が遅刻しては様(さま)にならないばかりか、生徒達のいい笑いものだ。
「帰ってからにしてくれっ!」
怒り口調でそう言うと、城水は慌(あわ)てて玄関ドアを開け、家を飛び出した。しかし、靴を片足、履(は)き忘れていた。車のドアを開けたところで気づいた城水は、急いで玄関へと駆け戻(もど)った。一人息子の雄静(ゆうせい)は20分も前に家を出ていた。同じ小学校だから、教育者の城水としては何が何でも遅れる訳にはいかない。我が子ならまだしも、先生である自分が遅刻は出来なかった。
その一日、城水は授業が手につかなかった。
「先生! どうかされたんですかぁ~?」
いつもハイテンションの到真(とうま)が椅子から立ち上がり、格好をつけて訊(たず)ねた。教壇に立つ城水としては、立場もある。そこはそれ、教師の威厳を示さねばならない。
「ああ、ちょっとな! 出来が悪いお前らで、俺は夜も、ろくろく寝られんのだ」
ここは方便だと、城水は出鱈目(でたらめ)を言った。だが言ったあと、我ながら上手(うま)く言えたぞ…と、内心で北叟笑(ほくそえ)んだ。それ以降の生徒達の追及は、なんとか馴れで凌(しの)ぎ、城水は担任としての面目をかろうじて保った。
その日を終え、城水が帰宅した途端、雄静が奥の間から玄関へ飛び出してきた。
城水には連れ添って10年になる妻の里子(さとこ)と、今年、小学校へ入学した雄静(ゆうせい)がいた。本当は静雄と名付けたかった鳥雄だったが、今どきの名じゃないと里子に反対され、仕方なく雄静と名の前後の漢字をひっくり返した経緯(いきさつ)があった。決して城水の体内で眠るUFOの潜在意識がその名にさせた訳ではない。
城水の家は山の手の高級住宅地にあった。場違いだったな…と、城水が気づいたときは家の契約が纏(まと)まったあとで、すでに遅かった。引っ越しで空いた一軒家で、物件としては申し分ない! と即決したのが運の尽(つ)きだった。周囲のすべての家が会社重役、大富豪、芸能人の類(たぐい)で、ブルジョア階級の真っただ中の家だったのである。大聖小学校の一教師とは、とても釣り合いがとれたものではない。それでも、引っ越した最初の頃は、まだよかった。お隣と朝の出勤どきに出食わしても、軽い挨拶程度で済んでいたからだ。それが、半年ばかりした頃、問題が起き始めた。
「あなた、大変!」
出勤しようと靴を履(は)き終え、城水がドアを開けようとした矢先だった。
「なんだ、出がけに…」
城水は動きを止め、出鼻(でばな)を挫(くじ)かれた機嫌悪そうな声で里子を見た。
「奥様会だって!」
「…奥様会? なんだ、それは?」
「この町内の決まりだって言ってらしたの」
「誰が?」
城水は、帰ってからでもいいだろうが…と煙(けむ)たく思った。
「先生は、いつも腹ペコなんですね」
誰が言ったか城水には分からなかったが、そんな声が生徒達の中からして、教室内は笑い一色となった。
「ははは…そうだ! 俺は減るんだよ、腹が!」
城水は悪びれず、居直った。城水の腹は、妙なことに一定の周期をもって減り続けた。ただそれは、普通人間の生理的なものとは違い、どこか異質だった。当の城水自身も現象を自覚していたが、それがなぜなのかは、本人の城水にも分からなかった。それには、生前に遡(さかのぼ)る深い理由があった。何を隠そう、城水の両親は諸事情により地球へ我が子を置いて飛び去った異星人だったのである。
昼食のあと、城水はふと、校庭で考えていた。生徒に言われたひと言が甦(よみがえ)ったのだ。
━ そういや、いつも昼前の11時、夕方の6時、朝の7時と決まった時間に腹が減る…なぜなんだ? ━
本人に分からないのだから、当然、他人に分かる訳がない。
「別に異常はありません。ははは…余り気にされないことですな。腹が減る・・結構なことじゃないですか!」
いつやらも病院で医者に診(み)てもらい、快活にそう言われたことがあった。城水の脳裡にふと、その映像が過(よぎ)った。そんなことが今までに何度もあったから、城水は、さほど気にしていなかった。とはいえ、その都度、生理的現象が定まった周期で巡ると、どうしても奇妙には思えた。城水は、たぶん先天的な体調なんだ…と思うようにした。そう思うことで、すべての疑問が吹っ飛び、心の蟠(わだかま)りが消えたのである。
大聖(たいせい)小学校、四年二組の教室である。教師の城水(しろみず)鳥雄は黒板に白チョークで[四捨五入して、千の位までのがい数で表しましょう]と書き、その下に、
[1]3546219 [2]168275
[3]268723 [4]25463
と書き終えた。
「[1]の答えが分かる人!」
「は~~い、先生!」
「おお! なかなか、いい返事だ、到真(とうま)」
到真は先生に褒(ほ)められたものだから少し自慢げに皆を見回し、したり顔をした。女子に人気があるそのイケメン顔を城水は見逃さなかった。
「答えが合ってからだろ、自慢するのは」
しまった! と到真は頭を掻いた。一斉(いっせい)にドッと笑いが起きた。バツが悪そうに到真は立ち上がった。女子に格好をつけたつもりが、とんだ空振りの三振だ。
「354万6000です…」
到真は気を取り直し格好よく言ったが、その声は少し弱かった。
「ははは…元気がないぞ。さっきの勢いはどうした! 到真。…まあ、正解だがな」
そのとき、授業終了のチャイムが鳴り響いた。
「よし! 今日はこれまで! ははは…昼だ昼だっ! あとの問題は、明日までにやっておくように!」
実のところ、城水は内心で、こんな問題は出来ても出来んでも、どっちでもいいんだ…と思っていた。自分の子供時代の成績を思い返せば、2ばかりが目立ち、さっぱりだったからである。それが、今ではどうだ! 曲がりなりにも大学を卒業し、立派に教壇に立っているではないか。城水には問題の正解など、どうでもよかったのだ。それよか、朝が食パン1枚だったせいで、腹が減って仕方がなかった。結果、つい本音(ほんね)が生徒達に出た、という訳だ。よくよく考えれば、小食が中年太りを抑(おさ)える・・というメリットもあり、どっちもどっちだな…と城水には思えた。
『ここは、やはり寛(くつろ)げますねぇ~』
小次郎は大欠伸(おおあくび)を一つうって、長閑(のどか)な声で里山に言った。
「しばらく帰ってなかったんだから、まあ、ゆっくりしてってくれ。…ゆっくりしてってくれと言うのも、なんだが」
『有難うございます』
小次郎はペコリと頭を下げた。小次郎に合わせるかのように、みぃ~ちゃんも、『どうも…』とばかりに首を二度、縦に振った。モモだけは、新しい家が珍しいのか、アチラコチラと動き回ってはしゃいでいる。
『おじいちゃま?』
突然、止まって里山の顔を見上げたモモが訝(いぶか)しげに訊(たず)ねた。
「ははは…、俺もじいちゃんか。参ったなぁ~」
里山は後頭部を手で弄(まさぐ)りながら苦笑した。
「あらっ? モモちゃんも話せるのね?」
沙希代が朗(ほが)らかに言った。
『そうなんですよ奥さん。僕に似たみたいでしてね』
小次郎は、まんざらでもなかった。
その後、一時は[時の猫]として世界中の学者達が追い回した追跡の手も遠退いていたし、業界の仕事も里山マネージャーのお蔭(かげ)で最初の頃に比べれば随分、楽になっていた。世は桜が満開乱舞する春たけなわ。一介の捨て猫が…と思えば破格の出世である。小次郎は、しみじみと幸せを噛みしめ、尾っぽの先を軽く振った。
<特別編> 完
あとがき
連載(全五編)は一応、終結を見た。登場者の労をねぎらい、特別編を加えさせて戴いた。本作は、動物の視点から面白く書かせてもらったつもりである。よく考えれば、人間の方が動物に見 倣(なら)わねばならない時代に至っているのかも知れない。
世界の趨勢は益々、殺伐とした色合いを加えつつある昨今である。そうだから、という訳でもないが、笑いが込み上げる小説の創作に燃える日々である。
水本爽涼
沙希代の手料理は小鳩(おばと)婦人に勧(すす)められない。豪華なオードブルを口にしながら、里山はそう思った。沙希代の出汁(だし)巻きや料理も、味として文句のつけどころがなかったが、三ツ星評価された一流店シェフ特注のオードブルと比較すれば、どこか貧相に見えたのである。
小鳩婦人達が花見に加わってからというもの、里山達から言葉が消えていた。それに比べ、小次郎一家は実にニャニャゴニャニャゴと賑やかで、大いに盛り上がっていた。もっぱら、小次郎、みぃ~ちゃん、モモの家族間は猫語での会話だ。一応、場所取りは里山と沙希代夫婦用、小鳩婦人用、小次郎家族用の分が約2㎡ずつ、三か所確保されていた。飲み物として小鳩婦人はワインを嗜(たしな)み、里山と沙希代はビール、小次郎一家は猫用特製ドリンクである。桜の花びらが里山のコップにフワリと舞い落ちた。昼下がり、寒くもなく絶妙の花見条件である。堤防越しに流れる微(そよ)風も暖かく、里山に久々の解放感が訪れていた。ただし、里山のこの気分に小鳩婦人は含まれていない。含めば、ただの仕事場気分に戻(もど)るからである。幸い、小鳩婦人も少し理解しているのか、お付きの老女や老運転手と話している。このまま、時間が止まれば、いいがな…と里山はふと、巡った。
堤防上の草叢(くさむら)での花見の会も3時過ぎには終わり、小次郎一家は久しぶりに里山の家へ戻った。というのも、里山の出迎えで小次郎は小鳩婦人が建ててくれた新宅から仕事に出ていたから、しばらく里山家はご無沙汰だったのだ。
つづく
「この出汁(だし)巻き、美味(おい)しいでしょ?」
沙希代が卵の出汁巻きを摘(つ)まみながら、さも自慢げに里山を見た。
「ああ…」
里山としては、このひと言がなければ満点だったが、興(きょう)を削(そ)がれた気分になり普通の出来となった。だが、ひとまず沙希代の機嫌を損なわないように素直に首を縦に振った。小次郎達、親子三匹も美味(おい)しい出汁(だし)巻きを一切れずつ頂戴し、満足この上なかった。
来なくてもよいのが…と思った小鳩婦人が現れたのは、その数分後だった。すぐ分かったのは、小鳩(おばと)邸で見た超高級外車の到着で、である。里山の車も一応、高級外車の部類だったが、小鳩婦人の外車には足元にも及ばなかった。随行は、年老いたお抱え運転手と婆や風の老女の二名だった。
「遅くなりましたわ、ほほほ…」
「ああ! やっと、来ていただきましたかっ!」
遅くて助かりましたよ…が里山の本音(ほんね)だったが、さすがにそうは言えず、快活な声で迎えながら愛想笑いをした。
「奥さま、こちらへ。あっ! お二人も…」
沙希代は事前に準備してあった場所へ小鳩婦人を導いた。もちろん、草叢(くさむら)の上には汚れないよう、柔らかな高級布が敷かれていた。
「ほほほ…こんなもので、およろしければ、お手にお取り下さぁ~まし…」
そう言いながら小鳩婦人が老女に高級感が漂う籠バッグから出させたのは、ミシュラン社で三ツ星評価された一流店シェフ特注のオードブルだった。里山と沙希代は余りの豪華さに絶句し、頭だけ下げた。
つづく
欄漫(らんまん)の桜が咲く堤防上の小道の草叢(くさむら)に里山、小次郎、みぃ~ちゃんそれに新顔の娘猫、モモがゆったりと座っている。モモは小次郎似でもないのだろうが、人間語が話せた。それが遺伝子を受け継いだということなら、これはもう学会で論議を呼んでいる突然変異説が消えることになるのは必然だった。ただ、里山はモモが話せることを、まだ発表したくはなかった。
「手話通訳がいるんだよな…」
里山がポツンと言った。みぃ~ちゃんは手話を勉強していたから、手ぶり、尾ぶり、口毛(くちげ)ぶりで気持を里山と小次郎、モモに伝えることが出来た。これは、みぃ~ちゃんの猛特訓で、同じように小次郎達も野球のサインの要領で覚えるうちに意志が通じ合えるようになったのだ。孫娘を見るような目つきで沙希代がモモを見た。みぃ~ちゃんは、いつものように手ぶりならぬ尾ぶりで里山達のご機嫌を窺(うかが)う。
『里山家はいいお家(うち)ですね…とか申しております』
「ははは…小次郎邸に比べりゃ、お粗末この上ないんだけどね」
『いいえ、寛(くつろ)げますわ…と申しております』
「それだけが我が家(や)の取り柄(え)だからね」
里山は少し満足げに返した。
天気は快晴で心地よい。桜の花びらがそよ風に揺れ、なんとも優雅だ。里山達は沙希代が作った花見用のお重を食べる。小次郎達は小鳩(おばと)婦人が花見用に作らせた特注の猫用パックを食べている。なんでも、断れない財界の挨拶があるそうで、「そちらが済み次第、参りますざぁ~ます」ということらしい。里山としては来て欲しくない気分だったが、みぃ~ちゃんの立場上、無碍(むげ)に断れなかった。だから、まあ、今のうちに楽しんでおこう…と、里山は考えた。気疲れすることは目に見えていた。
「この出汁(だし)巻き、美味(おい)しいでしょ?」
沙希代が卵の出汁巻きを摘(つ)まみながら、さも自慢げに里山を見た。
つづく
小次郎の小鳩(おばと)婦人が建ててくれたみぃ~ちゃんとの新居の暮らしも平穏無事に流れ、一頃(ひところ)に比べると生活も安定していた。里山も何かと小次郎の生活には協力的で、スケジュールもみぃ~ちゃんと所帯を持つ前に比べれば半分程度に調整していた。むろん、オファーは目白押しで、丁重に辞退したり、延期したりしてもらっていたのである。そこはそれ、里山の腕である。時が流れることでマネージャー業も板についてきていた。
小次郎には随分と時が過ぎ去ったように思えたが、小次郎が思うほど時は流れていなかった。里山のひと月と小次郎のひと月は感覚的に異なる。人間の平均寿命の約83齢[2012年の我が国]の中のひと月と小次郎のような猫の平均寿命の約15齢[2013 日本ペットフード協会 ※ 過去10年に飼育された猫。野良、ブリーダーやショップで亡くなった猫は除外]の中のひと月は違う訳だ。
「どうだい。みぃ~ちゃん!」
久しぶりに里山が小次郎宅へ出向いていた。小次郎夫婦とひとり娘猫のモモの三匹のケアは小鳩婦人に頼んでいた。最初は里山が通っていたのだが、さすがに里山家から小鳩家までの日参は里山も疲れたからだ。
小次郎一家は幸せだった。なんといっても、心配事がないのがよかった。小鳩婦人は、「いかが、ざぁ~ます?」と時折り声をかけてくれたし、食事のケアも万端、抜かりがなかったから小言(こごと)を挟(はさ)む余地がなかったのだ。仕事も週、2~3度と、こちらも里山の気遣(づか)いが見られた。
つづく
股旅(またたび)の姿が消えた瞬間、小次郎は思った。
━ そうだ! 僕は考え違いをしていた…大望を果たすより、まずは、小さく平和な家族だった。[立国]とは家族だ ━ と。
上手(うま)くしたもので、対談形式の収録は途中退席した学者、酢味(すあじ)のせいで撮り直しとなっていた。その対談の収録日、小次郎は自重し、股旅(またたび)風に前の収録の際、猫語で語った立国論を取り消すと、いつもの内容を人間語で短く言うに留めた。学者の中に酢味の姿はなく、幾つかの学者の質問もボツにされた収録内容と同じだったから、割合スンナリと終了した。
収録が終わり、夕方前に里山達を乗せた車が家へ着いた。春先である。少し日没が遅くなり、まだ辺りは暮色(ぼしょく)のオレンジに染まり、明るかった。
「お疲れさまでした。ごゆっくりお休み下さい。え~と…三日後の朝10時前、お迎えに参ります。車はいつものところへ戻しておきます」
狛犬はスケジュールを書いた手帳を見ながら運転席の窓からそう言うと、車で去った、車が去るのを見届け、里山はキャリーボックスから小次郎を出しながら感慨深げに言った。
「私もいい勉強をさせてもらったよ、小次郎。股旅先生が言ったとおり、[立国]って、そう大きいことじゃなかったんだな…」
『そうですね…』
「今日は、このままみぃ~ちゃんのところへ帰りなさい。仕事はないから明後日(あさって)の夜、来(く)りゃいいさ。しばらく会ってないんだろ?」
『みぃの所へ? いいんですか?』
里山は黙(だま)って頷(うなず)いた。ニャニャァ~![それじゃ!] と猫語でニャゴり、小次郎は喜び勇んで駆けだした。
『只今(ただいま)…』
小次郎は久しぶりに仕事から解放され、里山の家から小鳩(おばと)婦人が建ててくれた新居へと戻(もど)った。すぐ現れたのはみぃちゃんと、すっかり大きくなった我が子だった。
『あら、あなたぁ~…お帰りなさい!』
みぃ~ちゃんに[あなたぁ~]と呼ばれた小次郎は、悪い気がしなかった。股旅が言った[立国]の、いい匂いがした。華々しい業界の疲れが嘘(うそ)のようにスゥ~っと小次郎から消えていた。
第⑤部 <立国編> 完
里山家横の公園にいた捨て猫
完