小次郎が股旅(またたび)の話を伝えたとき、里山は腕を見た。
「おっ! いけない、忘れてた。小次郎、戻るぞ! あと10分ほどで、家(うち)へ取材が来るっ! 先生! いずれまた小次郎の立国話でも…」
言葉と同時に里山の足は公園の出口へ向かっていた。出口とはいえ、荒れ放題となった今は、どこからでも出入りできたのだが…。
『ニャァ~~!』
股旅は猫語で、どうも有難うござった・・と里山へ返した。だが、その時すでに里山の姿は用具入れ場にはなかった。
『立国話と言ってござったのう…』
『そうですね…。じゃあ、先生! 僕もこれで。結構、忙しいでしょ?』
『そのようじゃのう…。また、いずれ』
小次郎は股旅の言葉を聞いたあと、疾風のように里山家をめざし駆け去った。
里山家に詰めかけた週間誌の取材陣は夜分(やぶん)のこともあり2名だった。女性記者とカメラマン1名である。取材内容は、小次郎がふたたび学会でもて囃(はや)されている種の起源に関するものだった。学会説は二分(にぶん)したまま時が流れていた。その説とは、いつやらも登場した突然変異説と進化説である。進化説を唱える学者達は、ガラパゴス諸島にみられるような独自の進化を辿(たど)った・・というものだった。しかし、里山が住む近郊は他の地域と隔離されているとも言い難(がた)く、最近では突然変異説が有望視され、学者達の間に定着しつつあった。
「先生は今の我が国を、どうお思いでしょう?」
小次郎はすぐに通訳し、股旅(またたび)へ伝えた。
『ふ~む…そうですな。まあ、なんと言いますか、それ、アレです、ナンですな。つまり、ひと言で言えば、今の平和でなんとなく生きれる日本には覇気(はき)がないといいますか…』
股旅は猫語でニャニャァ~~と語った。小次郎はそれをすぐ里山に通訳した。
「なるほど…」
『平和でなんとなく生きることが出来ない国々、それらの国々に生きる人々は日々、必死なんですぞ。今の日本人は極楽でござる。そんな極楽の国で生きられることを皆、喜ばニャ~いけません。ポイ捨てて、このような素晴らしい国を自(みずか)らの手で汚(けが)しておる。私(わたくし)から言わせれば、アホ、バカ、チャンリンでござるよ。昔風に言えば、ウツケ、間抜け、タワケ! でござるかな、ホッホッホ…』
長々と流暢(りゅうちょう)にニャゴった挙句(あげく)、股旅は軽く口毛(くちげ)を動かして笑った。
「ははは…、それはまあ、正論でしょうが。人間には、いろんなのがいますから…」
小次郎は、すぐに里山の言葉を猫語で股旅へ通訳した。
『う~む、さようでござるな。いろいろのがいるようです。大の大人にポイ捨てられ、我々、動物達は弱っております。…そうかと思えば、大事にされるみぃ~ちゃんみたいなのもおりますからな。人間、様々でござるよ』
股旅は、ふたたび長々と流暢にニャゴり続け、喉(のど)が渇いたのか、里山が缶詰の横に置いた空き缶の水をぺロぺロとやった。
『僕が通訳しましょう。先生は、[いや、こちらこそ。私が俳猫の股旅です]と申されております』
「俳猫ですか?」
里山は思わず笑いそうになったが、グッ! と我慢した。そして、手に持参した夕飯用の缶詰3缶のプルトップを引いて缶の蓋(ふた)を開け、股旅(またたび)の前へと静かに置いた。その途端、股旅の顔色が変化した。風雅を重んじる俳猫とはいえ、腹が減っては・・である。股旅は缶詰に頭を飛び込ませるような勢いで缶詰の中身を食べ始めた。と言うより、食い始めたと表現した方がよいような荒っぽさで、風雅な俳句の道に生きる老先生ぶりも消え去り、ただの野良に変身したのだった。里山と小次郎は呆気(あっけ)にとられ、その変身した股旅の食いっぷりを、ただ茫然(ぼうぜん)と見つめるだけだった。
しばらくして3缶を食べ終えた股旅は、元の風雅に生きる俳猫へと落ち着きの姿をとり戻(もど)した。
『有難うございました。お恥ずかしいところをお見せいたしましたな…』
股旅は口の周(まわ)りを舌でぺロつかせながら、猫語で言った。もちろん、小次郎の耳にはそう聞こえたのであり、里山の耳にはニャ~ニャ~~と聞こえていた。
『先生が、[有難うございました]と申されております』
「ああ、そう…。それはよかった。一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
里山は屈(かが)むと、猫目線に合わせ、股旅を見た。
『ニャ?』
『[なんですかな?]と申されておられます』
小次郎は里山と股旅の通訳に徹した。
『先生、こののちはどうなされるんです?』
『そうですな…。これといって行き方を持たぬ身、しばらくこの用具入れ場で小次郎殿のその後を見守りますかな。ホッホッホッ…』
股旅はまたゆったりとした笑い声でニャゴった。
『はははっ! 僕も頑張らなくっちゃ!』
そう笑って言ったものの、小次郎に思案はなかった。
『先生、お食事は?』
『おお! そういえば、ちと腹が空(す)きましたかな…』
股旅は空腹には馴れているのか、落ちつきのある声で言った。
『しばらくお待ちください。ご主人が家にいますから、訳を言って今、お食事をお持ちします』
『そのようなお気づかいは無用でござ…』
言葉とは裏腹に、股旅の腹がグゥ~~と鳴った。
『先生、ご遠慮なく!』
『ははは…、腹は隠せませんな。では、お言葉に甘えてゴチになりますかな』
『ええ、どうぞどうぞ。では…』
言葉が終わるや、小次郎は家を目指して駆けだした。
小次郎と里山が急ぎ足で戻ったのは、それから僅(わず)か5分ばかりしてからだった。
「股旅先生! お初にお目にかかります。私が飼い主の里山です」
『ニャアァァ~~』
股旅は人間語を語れたのだが、語らぬことにした。だから、里山には当然、股旅の言葉は猫の鳴き声として聞こえた。
『ホッホッホッ…気になどしておりません。ふむ! 立国といえば、この国では建国記念日というのがござるが…。そういう意味ですかな?』
『いや、どうだか。僕には…』
小次郎には分からず、語尾を暈(ぼか)した。だが、老猫の股旅(またたび)が言うのだから、何かその辺りに里山がその時、言った意味が隠されているようにも思える。
『先生! ひょっとすると、それかも知れません』
『んっ? と、言われると?』
『僕に猫王国を作れと…』
『猫王国でござるか…。それはドでかい閃(ひらめ)きですな』
股旅は片手の毛先を舌で舐(な)め、顔を拭(ふ)きながら言った。朝の洗顔を忘れていたことを、不意に思い出したのだ。
『いや…ご主人がそんな大それたことを一瞬にしろ考えたとも思えないんですが…』
小次郎は語尾を濁(にご)した。
『それはともかくとして、里山殿はこの先も小次郎殿を駆使されるご所存かな?』
『駆使? 駆使されることはないと思いますが、今後もタレント猫としての猫生を歩むことになろう・・とは思います』
『なるほど…』
股旅は口毛(くちげ)を微細に動かして得心した。人間なら首を動かして…となる。
里山が何を思ったのか、突然、口走った小次郎の[立国]の状況は、言った本人にも分からない漠然と飛び出した表現で、その場の出任(でまか)せだった。
『ということは、ご主人もどういう気持で言ったのか思い出しておられる・・ということですな?』
『はい、そういうことです。みぃ~ちゃんと所帯を持った僕が独立する・・という意味だろうくらいまでは分かるんですが…』
『立国というのは国の独立ですからな。インディペンデンスとなります』
人間ならば俳人である俳猫の股旅(またたび)が異国の言葉を使った。小次郎はその物言いに少し驚かされた。日本のしっとりした情緒ある俳句の世界とは、かけ離れた言葉だからだ。
『僕は今、結構、疲れてるんですよ。マスコミや人々にも名が売れましたからねぇ~。それが何かにつけ、厄介なんです』
『贅沢(ぜいたく)なお悩みですなぁ~。私(わたくし)などのような、しがない放浪猫にしてみれば、その万分の一でもよろしいからお別け願いたい気分でござるよ、ホッホッホッ…』
股旅は少し寂しげなニャゴリ声で笑った。瞬間、小次郎は自分の思い上がりを自戒した。有名になりたくても有名になれない猫は多くいるのだ。自分を振り返れば、元々は里山家横の公園にいた一匹の捨て猫だったのである。それが、どうだ今は。世界から蝶よ花よ・・と、もて囃(はや)される身の上までに昇りつめられたのだ。人間なら破格の出世であった。股旅が言うとおりだ…という自戒だった。
『申し訳ありません、今の言葉は忘れて下さい』
小次郎は前言を取り消した。
『えっ?』
小次郎の言う意味が理解出来なかったのか、股旅(またたび)は首を捻(ひね)る代わりに尻尾の先を少し上げた。
『僕にもよく分からないんですが、ご主人の弁だと立国だということです…』
『誰が?』
『僕が?』
『いつ、どこで、何のために?』
股旅は矢継(やつ)ぎ早(ばや)に小次郎へ問いかけた。
『いつもどこも何のためも分かりません…』
『それは、ちと、ご不自由でござるな…立国とは、大きく出ましたな。まあ、小次郎殿も風の噂(うわさ)にお聞きしたところでは、かなりの著名猫になられたようですからな。それも頷(うなず)けますが…』
『僕はそんな大仰(おうぎょう)なことは考えてないんです。みぃ~ちゃんと慎(つつ)ましやかに暮らせれば、それで十分なんですから』
小次郎は股旅に心の奥底の蟠(わだかま)りをすべて吐きだすように言った。
『立国でござるか…。どのような状況でご主人が話されたのか、もうちと詳しゅうお話をお聞きしたいですな』
股旅は穏やかな声で囁(ささや)くように言った。
『分かりました、お話しましょう。実は、カクカクヒシャヒシャなんですよ』
『ほう! カクカクシカジカではなく、カクカクヒシャヒシャでござったか』
事の発端(ほったん)となった状況は、すぐに股旅へ伝わった。
『申し訳ありません、今の言葉は忘れて下さい』
小次郎は前言を取り消した。
春先のことだから、朝晩は冷え込んだ。ただ人間と違うのは、上手(うま)くしたもので小次郎達には天然の羽毛が備わっている。夏場は厄介(やっかい)だが、冬場は至って重宝するように出来ている。寒さは感じても人間のように風邪をひく・・といった無様(ぶざま)な事態だけは避(さ)けられた。
二匹は用具入れ場の隅にある収納ドアの下から中へと潜(もぐ)り込んだ。外からの寒気と冷風は遮断(しゃだん)され、贅沢(ぜいたく)さえ言わなければ、心地よい塒(ねぐら)ともなるブースだ。二匹は、ドッペリと腰を落とし、楽な姿勢となった。
『先生、何かよい句は浮かびましたか?』
『ええ、まあ…』
先生得意の、ええ、まあ・・が出た! と、小次郎はニヤリとした。猫の場合、人間と違って分かりづらいのだが、少し口毛(くちげ)が小震動するのである。ただこれは、よくよく注視しないと、見 逃(のが)しやすい。
『先生、何かよい句は浮かびましたか?』
『ええ、まあ…』
先生得意の、ええ、まあ・・が出た! と、小次郎はニヤリとした。猫の場合、人間と違って分かりづらいのだが、少し口髭(くちひげ)が小震動するのである。ただこれは、よくよく注視しないと、見 逃(のが)しやすい。
『ここは暖かいですな』
股旅が徐(おもむろ)に聞いた。
『ええ、まあ…。僕が捨てられていたところです』
『そうでしたか…。悪いことを思い出させてしまいましたな』
『いえ…』
思い出した訳ではなかったから、小次郎にはそれほど応(こた)えていなかった。
『実は今、立国問題が悩みなんです』
小次郎は話を続けた。
『と、言われますと、随分、以前からこちらに?』
『ええ、まあ…。何ヶ月か前でございますが…』
股旅(またたび)は相変わらず物腰が柔らかい知的な猫だった。
『風景を眺(なが)められて句作を?』
『ええ、まあ…。人間の世界では写真俳句などをやっておられる方もおるやに風の噂(うわさ)でお聞きしておりますが、私などに写真は撮(と)れませんから、ただジィ~~っとその場に居(い)るだけの、ひねり俳句でございますよ、オッホッホッ…』
小次郎は、ええ、まあ・・がお好きな方だな…と一瞬、思った。写真俳句は雑誌で知っている小次郎だったが、知らない態(てい)にして、聞く猫となった。人間なら、聞く人・・となる。
『そうでしたか…。先生、実は僕、所帯を持ったんですよ』
『ほお、そうでしたか。小次郎殿も一国一城の主(あるじ)ですかな』
『そんな、いいもんじゃないんですが…』
小次郎はニャニャニャと笑った。猫も笑うのである。
『立ち話もなんですから、公園で寛(くつろ)ぎながらお話をいたしましょう…』
股旅は懐(なつ)かしそうに公園を見遣(みや)った。公園とはいえ、今は移転して誰も訪れなくなり、荒廃だけが目についた。ただ、人気(ひとけ)がない分だけ落ちついた佇(たたず)まいを残していた。
二匹は錆びついた水道横にある崩れかけた掃除用具入れ場へ入った。雨風(あめかぜ)避(よ)けぐらいにはなる代物(しろもの)で、小次郎が捨てられていた場所である。微(かす)かに残る記憶が、小次郎を切なくさせた。
「まあ、ある意味の立国宣言ですよ、ははは…」
「はあ? …」
中宮は里山の言葉が理解できず、笑って流した。
「リハの時間が迫ってますので…」
「ああ、そうなの? それじゃ、私はこれで…」
駒井が助け舟を出し、中宮は歩き去った。駒井も里山が言った立国の意味を理解できなかったのだが、リハサール開始の時間が迫っているのは事実だった。里山と小次郎はその後、無事に収録を終え、帰宅した。局の駐車場で運転手兼雑用係の狛犬(こまいぬ)が大鼾(おおいびき)で寝ていたのは言うまでもない。
数日が過ぎ、里山の家近くに、ちょっとした変事が起きた。変事といっても里山と沙希代夫妻に直接、影響が出る悪い出来事ではない。話はかなり前に遡(さかのぼ)るのだが、放浪旅を続ける老俳猫の股旅(またたび)が立ち寄ったのだった。小次郎が住む街へ遠方からやってくる猫は、与太猫のドラやその手下のタコ、それに風来坊の海老熊といった概して悪猫だったが、股旅だけは小次郎が先生と呼べる高級猫だった。
小次郎が家前を歩いていると、ひょっこり、その股旅に出くわした。
「いやぁ~先生、お久しぶりでございます。いかがされました?」
『いや、なに…。いい風景があったもんだから、つい長居してしまいました』
股旅は俳句作家風に少し品(しな)を作って答えた。