水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第十五回

2010年05月31日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第十五
「そうだな…」
 樋口らしい無愛想な言葉だが、その右手は左馬介の前へと出されていた。左馬介も同じように右手を出し返し、二つの手は一つに繋がった。その二人を鴨下は、ただ茫然と観望するのみであった。樋口が左馬介へ差し出した手の意味には、懐かしさの他に、もう一つの意味が含有されていた。それは、剣技で左馬介に一目置いたことを示したものだった。
 少し前に遡るが、左馬介は樋口と剣を交えたことがあった。無論、それは真剣ではなかったが、蟹谷、井上と三強の一角に名を連ねた樋口に、その時の左馬介は惜敗したのである。その樋口が左馬介に一目置いた背景には、樋口が幻妙斎の影番だった故に自ずと悟った、という事情が隠されていた。当然のことながら、幻妙斎は樋口より以前に、今や堀川一の遣い手が左馬介であることを知っていたのである。
 何故、樋口が幻妙斎の庵(いおり)にいたのかを具(つぶさ)に訊いて、左馬介と鴨下は唖然とした。樋口の話によれば、幻妙斎は確かに半時ほど前まで庵にいて、妙義山へ帰られたのだと云う。
「ということは、先生は私が戻った後、妙義山から道場へ来られたということですか?」


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第十四回

2010年05月30日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第十四
左馬介は一瞬、背筋に寒気を感じた。当然、鴨下も少し身震いをしている。
「や、やはり、灯っていますよ…」
「そのようです」
 左馬介は出来得るだけ平穏を装った。少しずつ二人は庵(いおり)へと近づき沓脱石、(くつぬぎいし)より上がる。そして、障子戸の隙間より中の様子を窺った。
「妙だ…。誰もいないようですね」
「はい…」
 左馬介が、そう返した時だった。聞き覚えのある声がした。樋口に他ならなかった。
「如何したのだ、御両所?」
 二人は声がした背後を振り返って見た。偏屈者で名が知れた樋口が怪訝な表情を浮かべて立っていた。
「なんだ…、樋口さんでしたか。いやあ、驚きましたよ」
「なんだ、は無いだろう、秋月」
 左馬介が放った言葉に、樋口は苦笑いしながら直ぐ返した。左馬介も釣られて笑った。
「いや…失礼しました。それにしても久しぶりです」


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第十三回

2010年05月29日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第十二
「はあ、…それはまあ、そのようですが…」
「今夜、そっと二人で離れへ行って確かめてみましょう。そうすれば、分かることです」
「樋口さんが先生の庵におられるとでも?」
「まさか、幽霊ではないでしょう。樋口さんは影番ですからね。先生の命で…、ということも有ります」
「先生ならば、如何されます?」
「有りのまま云えば宜しいではありませんか。灯りが灯っていたから見回ったと…」
「なるほど…。では、そのように」
 話は案外、すんなりと纏まった。その夜、左馬介と鴨下は戌の下刻に示し合わせ、離れかの庵(いおり)を見回ることにした。無論、見回るといっても、灯った形跡があるかどうか…といった程度である。
 辺りが暗闇に覆われた頃、二人は摺り足、差し足、忍び足…と、道場の裏口を抜け、離れの庵へと向かった。庵の手前には上手くしたもので、頃合いの生け垣がある。その垣から恐る恐る庵を覗くと、やはり鴨下が云ったように、障子戸に映る行燈(あんどん)の灯りが見て取れた。


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第十二回

2010年05月28日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第十二
 気の所為(せい)か…と、左馬介が思い直したのは、あれやこれやと今日は考えを巡らせた挙句に結局、的を得ぬ結果に終始したからだった。心身ともに疲れているように思えたからである。玄関を上がろうとした時、遠雷が微かに響いた。左馬介はふたたび外へと返して音がした彼方を見た。空には入道雲が、もくもくと湧き上っていた。その何とも豪快な姿に暫し我を忘れて眺めた時、左馬介は夏が到来したことを知らされた。
 幻妙斎が道場の庵にいないことは、つい先程まで左馬介が妙義山で逢っていたのだから、誰の目にも明らかに思われた。当然、左馬介もそう思っていた。ところが、鴨下から妙な話を左馬介は聞かされたのである。
「それが、夕刻ともなると、灯りが…」
 鴨下は、偶然、道場の離れにある庵の前を通った時、確かに灯りが灯っていたのを見たという。
「そんな幽霊話はないでしょう。現に、私はつい先程まで先生とお逢いしていたのですよ」
「しかし、私が見たのは夜の話ですから…。それに、庵に先生がおられたとは云ってないのです」
「先生のお食事は、客人身分ながら今も影番の樋口さんのお役目でしたよね?」


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第十一回

2010年05月27日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第十一
 このままでは無為無策で終わってしまう…と、不意に思えた左馬介は一時、飛び降り稽古を中断することにして足を止めた。そして、腰に挟んだ手拭いで、額(ひたい)の汗を拭き取った。
「…首尾よういかぬようじゃのう。フフフ…、そう急かずともよいわ。今日のところは、これ迄と致し、持参の握り飯を頬張った後、戻るがよかろう。策を弄(ろう)するは無策と申すぞ、左馬介。未だ至らずじゃな、ワッハッハハハ…」
 左馬介の一連の所作を一笑に付すと、幻妙斎は凍りついて、また洞内の岩肌と同化した。知らぬ筈の握り飯のことまで知っている師の千里眼に左馬介は全くもって恐れ入った。
 左馬介が洞窟を退去したのは、それから暫く後である。道場へ戻る道すがら胸に去来するのは、いつも緩慢な動作の獅子童子が俊敏に身を熟(こな)した姿であった。自分も何故、あのような身軽さで動けないのか…と、左馬介は巡るのであった。
 道場の門を潜ると、鴨下と長谷川が竹刀を交える音が掛け声とともに左馬介の耳に飛び込んできた。二人の声は珍しく力が入っているように左馬介には思えた。特に、剣の上達が余り芳しくない鴨下の声が真剣で力が入っている風であった。


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残月剣 -秘抄-《霞飛び①》第十回

2010年05月26日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第十
そして左馬介を窺うと、ひと声、ニャ~と鈍く鳴いた。次の瞬間、獅子童子はヒラリと飛ぶや、左馬介の足元へ一枚の枯れ葉の如く舞い降りた。それは正に、一枚の枯れ葉が舞い落ちるようで、つい最前、幻妙斎が示した技と遜色がないように左馬介には思えた。左馬介は、猫に出来て自分に出来ぬ訳がない…と、強く心に云い聞かせた。獅子童子は、そんな左馬介の心中を知ってか知らずか、また何処かへ姿を消してしまった。左馬介が一瞬、眼を離した隙に、である。だが、猫が何処へ行ったのか…などと、悠長に考えている場合ではない。左馬介は稽古を再開した。まずは幻妙斎が注意を喚起した身体の力を取り去ることである。そうは云っても、飛び降りようとする瞬間に、どうしても身体が硬くなり力が入ってしまう左馬介であった。
 二度、三度と続けたが、結果は芳(かんば)しいものではなかった。そうなると、次第に心は焦り、益々、身体を硬くしてしまう、といった悪循環に陥ってしまう。左馬介は深呼吸を幾度となくして、心を落ちつかせようと努めた。その後、五度(たび)ほどは飛び降りたが、やはり念(おも)うに任せない。全体は既に汗でびっしょりと覆われ、額(ひたい)から滴(したた)り落ちては岩肌を濡らした。


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第九回

2010年05月25日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第九
 幻妙斎は岩棚で瞑想に耽っているかのように見える。いや、それは無我の境地なのかも知れない…と、左馬介は飛び降りた直後、上がる時に見える師の姿を観望しつつ思った。確かに幻妙斎は両眼を閉ざし無我の境地に入っていた。だが、その両耳は研ぎ澄まされ、左馬介の飛び降りて着地した音を聞いていた。
「…力を入れるでないっ!」
 突如として、幻妙斎のやや大きく発した声が洞内に劈(つんざ)いて響いた。それは左馬介が飛び降りた直後であった。驚いた左馬介は、着地した体勢のまま、思わず振り返って師を仰ぎ見た。幻妙斎の姿は先程と同じで、少しも動いた形跡などは無く、後ろ向きの姿勢で座している。自分を観ておいでなのか? と、左馬介は思えた。幻妙斎は暫し無言を保ったが、凍りついた姿勢のまま、ふたたび口を開いた。
「力を抜くとは、自らを無とすることじゃ。そなたには未だ分からぬであろうがのう。それ致し方なきことなれど、取り敢えずは、その心持ちにて繰り返し致すがよかろう…」
 そう云い終えると幻妙斎は口を噤(つぐ)み、洞穴の岩肌と同化して凍りついた。いつの間に現れたのか、獅子童子がのっそりと歩んで小高い岩肌にその巨体を見せた。


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第八回

2010年05月24日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第八
そして次の瞬間、幻妙斎は元いた岩棚に悠然と杖を突いて立っていた。
「…と、まあ、そんなところじゃ。左馬介ならば、決して出来ぬ、というものではない。直ちに、という訳にはいかぬがのう、ははは…」
 云い終わると、幻妙斎は元のように左馬介に背を向け、ゆったりと座った。そして、そのままの姿勢で動かず、氷の人となった。
 左馬介としては、師の号令や指示がなくとも稽古を始めねばならない。但し、過去でもそうであったように、洞内での稽古を止めるよう指示するのは幻妙斎によってであった。だから、最後を除けば、全て自らの判断による。途中で休みたければ休めばよし、腹が空けば握り飯を齧るもよし、なのである。左馬介は幻妙斎が舞い降りた岩場まで上がり、飛び降りては上がるといった繰返しを始めた。しかし、幻妙斎のように一枚の枯れ葉がハラリと地に舞い落ちるようにはいかず、どうも身体の重みによる衝撃が足に伝わるのである。この難問を解くには如何に身を熟(こな)せばよいのか…。二度、三度と飛び降りては上がるという所作を繰り返すうちに、左馬介の脳裡は、その一点に集約して捉われるようになっていた。分からずとも、直ぐ上に居る幻妙斎に訊ねる、というのは憚(はばか)られる。


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第七回

2010年05月23日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第七
 幻妙斎は、やはり岩棚で静穏に座しており、辺りの所々に灯る燭台の灯りも、いつもと変わりなく洞窟内を照らしていた。一見、何の出来事もなく稽古が推移し、そして終わるように左馬介には思えた。
「来たようじゃの…。では、いつぞやと同じ位置から飛び降りるがよかろう。しかし、今度(こたび)は、儂(わし)がその先駆けを致そうぞ」
 云い終えた直後、幻妙斎の姿は既に岩棚にはなく、左馬介が以前、飛び降り稽古をしていた岸壁へと移っていた。瞬時の出来事ながら、どうやら師は空中でトンボを一回、きって舞い降りたように左馬介には見えた。
「五尺ばかりは飛び降りるというより、儂には歩を進める程度のものじゃが…」
 そう云うや、幻妙斎は、ひらりと飛び降りた。いや、そういうよりか、軽く片足を前へ踏み出した風に左馬介には見えた。
「どうじゃ、よく見ておったかの? 何も力などは無用なのじゃ。ははは…、少し戯言(ざれごと)が過ぎたようじゃな…」
 その言葉を口にした直後、幻妙斎はふたたび姿を消した。今度は瞬時に軽く舞い上がったように左馬介は感じた。


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残月剣 -秘抄- 《霞飛び①》第六回

2010年05月22日 00時00分00秒 | #小説

         残月剣 -秘抄-   水本爽涼

          《霞飛び①》第六
 三段論法で巡れば、皆伝の允許(いんきょ)は即ち、霞飛びを伝えることを意味する。だとすれば、飛び降りは、やはり霞飛びを習得する第一歩なのである。左馬介は、つまらぬことを諄々(くどくど)と考えずに、実践のみにて全てを得る以外にはない…と決意した。技の習得は頭脳による理論では如何ともし難いからであった。いつの間にかうとうとと、眠気が襲い、いつの間にか眠っていた。左馬介は二十(はたち)となり、堀川入門より早や足掛け五年目の夏が近づこうとしていた。
 妙義山への道中は晴れの日ばかりではない。当然、梅雨明け前は蓑を必要としたし、雨笠も必要だった。しかも山へ着く頃には、体熱と汗で洞窟へ入る直前に束の間の猶予を余儀なくされた。勿論、山駆けをした時期もそうだったし、滝壺に浸かった時などもそうである。束の間の猶予とは、着替えとか汗を拭うとかの最小限の備えである。瞬く間に一日が過ぎ、なるようにしかならぬ…という最終的な心積もりで左馬介は妙義山への道を歩んでいた。洞窟が眼前に見え、いつもの高低広狭がある洞内の岩場の感覚を足元に受けつつ進んでいく。これも身体が自然と会得した感覚で、道場で昨日、巡っていた発想も、ここに根ざすところが大きいのである。不思議と左馬介の心は、この日、穏やかに澄み渡っていた。


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