ここは、とある男子高である。
「おい! あいつ、また食ってるぞ。さっき、食ったばっかじゃねぇ~か!」
よほど腹が立ったのか、同じクラスで悪ガキの首領、石田が校庭のベンチに座って弁当を食べている畑口を野次った。その声に教室の生徒達は反応し、全員が校庭を見下ろした。そんなことはまったく知らない畑口は黙々と弁当を食べ続けた。石田が言ったとおり、二時間ばかり前、確かに畑口は弁当を食べたのだった。それが、また食べている。石田には同じ弁当に見えた。ということは、少し食べて、またその続きを食べているんだ…と、石田は単純に、そう思ったのだ。だがその考えは間違っていた。
授業開始のチャイムが鳴り、皆が席へ着いた。畑口が教室へ駆け込んできたのは数学教師の谷村が教室へ入る直前だった。息を切らして起立し、礼、着席するのが畑口のいつもの日常で、他の生徒達は、またか…程度で、さして気にすることもなかった。ただ、畑口が、なぜそんなに腹が空くのか? という疑問だけは皆の心に残った。畑口の弁当は食べても食べても尽きない食べ物が湧き出る弁当だったのである。畑口は腹が空(す)いて食べている訳ではなかった。食べないと、弁当の蓋(ふた)が増えるおかずや御飯で押し上げられ、鞄(かばん)が食べ物だらけになるからだった。
ある日、石田が、ある計略を手下二人と謀(はか)った。
「お前は畑口を釘づけにしろ。で、お前は見張りだ。その間に俺は奴の弁当を食べる! いいか、奴を机へ近づけんじゃねえぞ!」
「分かりました…」
二人は返事をして頷(うなず)いた。
三時限目が終わるチャイムが鳴った。いつもは教師が出たあと畑口は駆けだし、校庭で弁当を食べるのだ。だが、その日は違った。石田に命じられた手下の一人が畑口を呼び出した。
「お前、職員室で谷村先生が呼んでるぞ」
「有難う…」
二時限目が終わって少し食べておいたから、まだそう増えてないだろう…と思える心の余裕が少し畑口にはあったから、言われたとおり職員室へ向かった。その隙(すき)に石田は畑口の弁当を小脇に抱え、体育倉庫へ向かった。誰もいないことは調べさせていた。体育倉庫で畑口の弁当の蓋を開けると、驚いたことに手つかずだった。いや、それより幾らか蓋が押し上がっているように思えた。ギクッ! とした石田だったが、腹が空いていたから、まあいいか…と、瞬く間に弁当を平らげ、教室へ戻った。そして、何もなかったように畑口の鞄(かばん)へ空にした弁当を入れた。そこへ、足止めされた畑口が首を傾(かし)げて戻って来た。
「先生、呼んでないって言ってたぞ」
「そうか…おかしいなあ。あっ! 今日じゃなかったんだ!」
石田の手下は、なんとなく暈(ぼか)して席に着いた。
昼になった。皆がそれぞれ好きな場所で昼食を食べ始めた。だがその頃、悪ガキ三人は、恐怖の冷や汗を流していた。眼下の校庭には弁当を美味そうに食べる畑口の姿があった。
完
仕事仲間で近所の幹夫と健太がいつも寄る風呂屋の湯舟に浸かりながら話していた。
「昨日さ、ラーメン、食ったんだけど、美味(うま)かったな。お前も食ったことあるか?」
幹夫が赤ら顔の健太に訊(たず)ねた。
「この辺(あた)りの店か?」
「いや、店じゃない。夜鳴き屋台さ」
「夜鳴き屋台? 知らないなぁ…。どの辺で?」
「俺の家の前を出たとこさ。斜め向かいの丸太(まるた)小路」
「丸太小路?」
訝(いぶか)しげに健太が返した。それもそのはずで、健太の家も丸太小路のすぐ近くだったからだ。
「ああ…。おかしいなあ? お前も来々軒のチャルメラ、聞いただろ?」
「いや、知らない。来々軒っていうんだ」
健太は、はっきりと全否定した。
「そんな馬鹿な話はない。夜、十時頃だぜ」
「いや、いやいやいや、それはない。その時間ならまだ起きてたからな」
「そんな馬鹿な! お前ん家(ち)と俺の家はすぐ近くだぜ。絶対、聞いてるはずだ」
「いや、聞いてない!」
押し問答で、切りがない…と、少し逆上(のぼ)せ気味の健太は浴槽から出た。幹夫もこれ以上、言っても仕方がない…と思ったのか、黙って浴槽から出た。
健太は座ると湯栓を緩(ゆる)め、ジャブジャブと湯を出し、頭を洗い始めた。
「だったら一度、食べないか?」
横へ座った幹夫は、健太と同じように頭を洗いながら、そう提案した。
「ああ、いいぜ…」
「じゃあ、今夜の十度に迎えに行く」
話は簡単に纏(まと)まり、二人の話は途絶えた。あとは何もなかったように、二人は頭を洗い終え、もう一度、湯に浸かると上った。衣類を身に着け終え、二人はいつものようにコーヒー牛乳を飲むと風呂屋を出た。
「でも、おかしいぞ? チャルメラ…」
急に健太が呟(つぶや)き始めた。
「まあ、いいじゃないか。今夜、分かるさ」
その夜、十時前、幹夫は健太の家の前に現れた。健太も待っていたのか、すぐ玄関から出てきた。
「聞こえるだろ?」
「えっ? 何が?」
「ははは…馬鹿な冗談はよせよ。チャルメラ、鳴ってるじゃないか」
「…」
幹夫には聞こえ、健太には聞こえていなかった。二人は歩いて、すぐ近くの丸太小路に出た。幹夫の目に来々軒の赤い提灯(ちょうちん)の灯(あか)りが映った。だが、健太の視界の先は僅(わず)かな街頭の灯り以外、暗闇が広がるだけだった。
「ここだよ! な! 俺の言ったとおりだろ」
こいつは完全にいかれてる…と健太は瞬間、思った。そういや、数日前は徹夜の仕事が続いていた…という思い当たる節(ふし)もあった。しかし、冷静に考えれば、健太だって同じ条件で徹夜が続いていたのだ。幹夫だけがいかれるのは妙だ…と健太は思った。健太はともかく、幹夫に話を合わせることにした。
「親父、二丁!」
『へい!』
親父の声は健太には聞こえなかった。幹夫は屋台の長椅子へ腰を下ろした。健太には幹夫が空間に座っているように見えた。合わせようと幹夫に続き、見えない椅子に健太は座る振りをした。だが、その必要はなかった。確かに空間に椅子はあった。健太はゾクッ! と寒気(さむけ)を覚えた。しばらくすると、闇の空間にラーメンのいい匂いがし出した。健太の額(ひたい)に冷や汗が吹き出した。
「どうした?」
「いや…」
幹夫には見え、健太には見えないラーメン。だが、それは実に美味(うま)かった。
「親父、ここへ置いとくよ」
『へい…また、どうぞ!』
店を出るとき、幹夫が金を支払った。その金がスウ~っと健太の前から消えた。健太は叫びながら一目散に走り出した。
完
世の中には何をやっても不運な男というのがいる。この男、滑山も、その中の一人だった。不運が重なれば、自(おの)ずとやる先が分かってきて引き気味に物事を停滞させる。滑山もご多分にもれず、いつの間にか停滞し、アグレッシブさが消えた低いテンションの男になっていった。
あるとき、滑山が会社帰りの電車に乗っていると、運悪く雨が降り出した。今日は降らないと天気予報が言ってたはずだが、また、これか…と滑山は思った。当然、傘は持っていなかった。電車に揺られながら、駅でやむのを待つしかないか…とも思ったが、やむ気配もなく、雨脚(あまあし)は益々強まり、本降りになってきた。長時間、待つのも嫌だな・・と思え、滑山は駅からタクシーで帰ることにした。運悪く、タクシー乗り場は混んでいたが、それでも40分待ちで、ようやく乗ることが出来た。滑山は後部座席に座ると、ともかくホッとした。
「よく降りますね…」
「えっ!? …はあ」
滑山は間をおいて返した。
「どちらまで?」
「ああ、あのビルの方向へ」
「? 方向って、あんた…?」
運転手は困惑し、不機嫌な顔をした。
「だから、あちらの方へ、ともかく走って下さい」
運転手は渋々、十字路手前でウインカーを点滅させ、その方向へとハンドルをきった。
「で、どの辺りまで?」
しばらく走ったところで、運転手は滑山に訊(たず)ねた。
「ああ、僕が言うから、そのまま走って下さい」
「…はい!」
ええ、走りますよ、あんたは客なんだから…というような気分で運転手は返した。滑山は助手席でいろいろと先を考えていた。自分の考えたことが、ことごとく裏目に出る。とすれば、決断した所で、その真逆に動けばどうなるだろう…と。
「次の通りは?」
「右へ」
「はい」
タクシーは滑山の指示どおりの方向へ進んでいった。滑山は自分で思った逆を口にしていた。右へ・・と運転手には言ったが、滑山の思考は左へと命じていたのだ。そうこうして走っていたタクシーは、ついに工事中で通行止めの標識に出食わした。
「お客さん、Uターンしますか?」
「いえ、ここで結構です」
そう言うと滑山は料金を支払い、タクシーを降りた。運転手は妙な客だ…と首を捻(ひね)り、訝(いぶか)しげな眼差(まなざ)しで車を反転させた。
滑山は通行止めの標識を越えて歩いた。すると不思議なことに、その先には滑山の自宅があった。滑山は帰宅していた。
完
「あんたねっ! 勝手すぎるんだよ! もう少し、待ってくれてもいいだろ! ほんとに、もお~! 足が早いんだから!」
山裾(やますそ)に沈もうとしている秋の夕陽を見ながら、勘一は呟(つぶや)いた。それを隣家の嫁、民江が窺(うかが)い見ていた。
「また、話してるよ、勘さん…。ほんと、変な人だよ。アレさえなけりゃ、いい人なんだけどねぇ~」
そこへ旦那の芳三が顔を出した。
「どうした?」
「ああ、お前さん。ほら、アレ、見てごらんよ」
芳三は民江が指さす方向を見た。勘一は山裾に半ば姿を隠した夕陽に向かって、まだブツブツと小言を垂れていた。
「大丈夫かねぇ~、あの人!」
「勘さんか…。まっ! アレだけだからなあ。見て見ぬふりでいいだろうよ」
「そうだね、いつものことだから…。でもさあ、なに言ってんだろうね?」
民江は首を捻(ひね)った。
「さあなあ~? なにか、願いごととかだろうよ、きっと…。さあ、飯(めし)にしてくれ、飯に!」
「あいよっ! いい人なんだけどねぇ~」
二人は奥へ姿を消した。隣では勘一が、まだ、ブツブツと話していた。
「そうでしたか…。忙しいんですね、あなたも。こっちの都合で語っちまって、申し訳ない…」
芳三夫婦だけではなく、誰が見ても勘一は変な人だった。だが、真実は変でもなんでもなかった。太陽は勘一と語っていたのだった。
『いいえ、では…。また明日!』
「あっ! おいでに?」
勘一は明日も晴れると確信した。
完
いつも他人から浮いている二郎という男がいた。二郎自身は、一度も他人がいる場で浮くようなことはしていない…と思っていた。それが、ことごとく浮いてしまうのだった。人々は、またあいつが来たぞ…と、いつの間にか二郎を避けるようになった。和んでいた場が彼が入ることによって、一瞬のうちに氷のように冷たく沈滞してしまうからだった。誰となく二郎をアウトと呼ぶようになっていた。
「あっ! アウトか…。じゃあ、話の続きはメールする」
「分かった…」
二郎がテラスのベンチへ近づくと、それまでベンチで話していた二人はすぐ立ち上がって去っていった。毎度のことだから、二郎は腹立たしくはなかった。いや、返って清々していた。誰かがいて、自分に嫌な顔をされることもないからだった。嫌な顔をされ、それを見るのは流石(さすが)に二郎も嫌だった。
二郎は自分がアウトと呼ばれていることを知っていた。アウトか…なかなか、いい響きだ。少しかっこいいしな・・くらいにしか二郎は思っていなかった。しかし、自分が加わると、なぜ浮いてしまうのかは二郎に分からなかった。実は、二郎には隠された秘密があったのである。彼の実態は宇宙人だった。生まれたのは未知の∞星だが、∞星の滅亡前に家族とこの地球へ移り住んだ経緯があった。家族はそのことを二郎には知らせず育てた。家族が亡くなった今、そのことは誰も知っていなかった。二郎自身も知らないのだから、当然といえば当然だった。その∞星人は特殊な磁波を放出し、それが地球人をネガティブ思考へと変化させた。二郎自身の出来の問題ではなく生理的な問題だった。
ある夜、二郎はついにこの星と別れるときがやってきた。∞星滅亡の危機が去り、迎えがやってきたのだった。寝入っていた二郎は死んだはずの家族に肩を揺すられ、目覚めた。
「起きなさい、二郎。そろそろ出発ですよ」
「… … ええっ!?」
二郎は絶句した。目を開けると、目の前に死んだはずの母がいた。
「あなたが驚くのは当然です。私達は∞星人なのです。死んだのではなく、一人ずつ星の再建に帰っていたのですよ。今夜は、最後のあなたを迎えに来ました」
何も知らされず育った二郎には、俄かにその話が信じられなかった。すべてが夢の中だと思えた。
「もう、この星で嫌な思いはしなくて済むんだ、二郎!」
父がそういい、祖父や母も頷(うなず)いた。夢の中なら従うしかないか…と二郎は思った。二郎は起き上がり、皆が歩く方向に続いた。
次の日の朝、二郎は∞星で目覚めた。家族全員がいた。
「ここが、∞星?」
「なに言ってんの!」
台所に立つ母は、笑って二郎にそう返した。そういや、建物もちっとも変っていない。夢だったんだ…と、二郎は思った。父も祖父も揃(そろ)い、家族の朝食が始まった。二郎は夢の話は黙っていようと思った。二郎がいつものように職場へ出勤すると、皆がやさしく話しかけてきた。二郎は、もはやアウトではなかった。やはり、ここは∞星だった。
完
健次郎は借りてきたVTRの時代劇を観ていた。ちょうど、佳境に入ったところで、いよいよ悪党どもが正義の主人公に斬られる見せ場である。健次郎は思わず片方の拳(こぶし)を握りしめ、もう片方で煎餅(せんべい)を掴(つか)もうと菓子鉢へ手を伸ばした。ところが菓子鉢には、もう煎餅は残っていなかった。無意識に手が伸び、いつの間にか全部、食べてしまったのだ。健次郎は仕方なく、リモコンのスイッチを一時停止にして立ち上がった。立った途端、主人公になりきっている自分を感じた。感じるだけで、まだ自分だという意識は残っていた。それでも、かなり辺りが気になりだしていた。ひょっとすると、悪党どもが部屋の物陰やキッチンの机下から現れ、斬りかかってくるんじゃないか…という緊迫感に襲われた。
「う~む、殺気はねえな…」
健次郎の話し方や仕草は、さっき観た瓦版屋風になっていた。だが、話し方が妙だ…と思う深層心理は、健次郎にまだ残っていた。辺りに気を配り、台所の戸棚からすばやく菓子袋を出すと、健次郎は茶の間へと戻った。茶の間のテレビでは、今にも主人公が悪党達の一家へ入ろうとする入口の場面で停止していた。主人公が入口の戸へ右手をかけようとする瞬間である。健次郎は菓子袋を破って菓子鉢へ入れたあと、リモコンのスイッチを解除した。途端、主人公は動き出し、戸を開けた。いよいよかっ! と、健次郎は固唾(かたず)を飲んでパリッ! と菓子の一枚を齧(かじ)った。その瞬間、悪党達全員の視線がカメラ目線となった。
『誰だ! でかい音を出しやがったのはっ! 静かに観てろいっ!!』
健次郎は仰天したが、思わず「どうも、ご迷惑を…」と、瓦版屋になりきって言った。
『分かりゃ、いいんだ。静かに観てろい!』
親分肌の悪党の頭目(とうもく)がカメラ目線で画面から健次郎に言った。健次郎は素直に頷(うなず)いた。すると、主人公が『ははは…そなた、謝ることはないぞ。こ奴らは拙者がすぐに斬り捨てるゆえ、安心めされい!』と言い放った。
主人公がそう健次郎に言ったあと、壮絶な斬り合いが始まった。主人公が言ったようにバッタバッタと悪党どもは斬られて倒れ、ついに、頭目を残し数人となった。一歩、また一歩・・主人公が悪党どもに迫る。悪党どもは背水の陣となり、テレビ画面には迫る主人公と悪党どもの背中のアップが映りだされた。次の瞬間、悪党どもはテレビから消え、健次郎が観る目の前に突如として現れたのである。健次郎は卒倒し、一歩、下がった。そして、主人公もテレビ画面を抜け出して健次郎の部屋へ現れ、悪党の頭目に刀を振り下ろした。
『ウウッ!!』
悪党の頭目は、叫び声とともに健次郎の前へ崩れ落ちた。健次郎はギャ~~! と叫んで後退(あとずさ)りした。残った悪党はテレビ画面の中へ一目散(いちもくさん)に逃げ込んだ。
『お怪我はござらぬか。これは些少(さしょう)じゃが、ご迷惑料!』
そう言うと、主人公は健次郎に小判を一枚、手渡して画面へ戻った。嘘だろ! と健次郎は思った。画面に戻った主人公はカメラ目線で健次郎に品を作って微笑むと立ち去った。画面に「終」の、どでかい白文字が現れ、VTRは切れた。その瞬間、悪党の頭目は、スゥ~っと健次郎の前から消え去った。健次郎は暫(しば)し茫然(ぼうぜん)としていたが、ようやく我に返った。すべてが夢の中の出来事に思えた。しかし、健次郎の手には一枚の小判が握られていた。健次郎の手は震えた。
後日、健次郎がその小判を鑑定してもらうと、紛(まが)いもない本物だった。いつしか、健次郎は心身とも瓦版屋になりきっていた。髷姿(まげすがた)の健次郎を世間は変わり者と見たが、都会のファッション街ではそれが流行(はや)りとなっていった。いつしか、違和感なく時代劇言葉が若者の間で話されるようになった。
完
道彦は歩くのを常としている。ジョギングなどと世間でもて囃(はや)されるその手の行動ではなかった。飽くまでも手段として・・なのである。長閑(のどか)に辺りを散策していると、なぜか気分が落ちつくのだ。無心でゆったりと流れる風景を眺(なが)めていると心地よくなる・・その感覚を大いに気に入っていた。世の中への迎合で運転免許も取ったが、使わないのに更新料や写真代が無駄に思え、二十五年ばかり前に返上した。自分ではタクシーの運転手気分でテクテクと歩いている。だから、家を出るときはテクシーを始動します・・と、心に言い聞かせるのが常だった。テクシーで家を出て、駅に着く。少し離れた会社への通勤は、もっぱらこの手である。休日は当然、テクシーで、あちらこちらとブラリ旅を決め込む。腹が空けばテクシーを駐車場へパーキングした気分で止め、適当な店へ入るのだ。自分は運転手気分なのだからお客さんが乗る可能性もあったが、道彦はそう気に留めていなかった。そんなことがある訳がない・・と深層心理が働いていたからに違いない。ところがある日、異変が起こった。その日は会社の休日で、道彦はいつものように適当な額を財布へ詰め込み、テクシーを始動した。
長閑な小春日和で、寒からず暑からずの快適さである。
「あっ! すみません! 麻布十番までお願いします!」
急に後ろから声がかかり、道彦はギクッ! と振り返って止まった。一人の笑顔の中年男が立っていた。
「? …」
道彦は首を傾(かし)げた。
「だって、空車なんでしょ?」
「ええ、まあ…」
道彦は心を見透かされているようで、薄気味悪くなった。
「じゃあ、お願いします」
「分かりました…」
一列縦隊で歩くテクシーが始発した。
「いい天気ですね。もう長いんですか? このお仕事」
「ええ…。もう、かれこれ二十五年やってます」
「と、いえば、大ベテランじゃないですか」
「ははは、まあ…」
二人はしばらく、歩いた。やがて麻布十番へ近づいてきた。
「お客さん、どこで降りられます?」
「ああ、その辺で結構です」
中年男は前方に近づく信号を指さした。
「ありがとうございました! お金は結構ですよ。うちのテクシーはお足がいりません」
「歩いてますから、お足がいらない…上手い!」
信号の前で二人は止まった。
「それじゃ、お元気で!」
中年男は笑顔でそう言った。二人は信号で二手に別れた。そのとき道彦は異変に気づいた。道彦は制帽を被り、タクシー運転手の服装で歩く自分の姿に気づいた。
完
2065年・・日本は海域及び空域に完璧な防衛網を敷いていた。国会は紛糾し、一時は改憲論も出た憲法九条も危ういところで逆転ホームラン的勝利となり守られたが、それから早くも30年が経過していた。さて、そうなれば、国防の根幹と領土の保全を如何なる観点に求めるかが論議の対象となった。
「馬鹿言っちゃいけない!! ウッ! …」
「…だ! 大丈夫ですか!? 先生!」
委員会の質問の席で、ある国会議員などは余りの剣幕で卒倒し、病院へ担ぎ込まれる事態も起きたりした。しかし、結果として与党は野党側との五分の折衝で防衛大綱の改定とそれに伴う法改正を実現し、国会で可決成立させた。野党側も譲るべきところは譲り、政府与党も妥協すべきところは妥協した挙句の成立であった。
ここは、衆議院、本会議場である。白富士首相は施政方針演説で熱弁をふるっていた。
「防衛でございます。我が国を今風で言うところのシールドで守ります。電磁バリアであります。電磁バリアは目に見えない訳でございます。日本列島をドーム状のシールド、すなわちバリアでスッポリと囲む訳でございます。いつぞや隣国と物議を醸(かも)し、揉(も)めたこともあります海空の識別圏を線(ライン)といたします。この中へは、一発のミサイル、一機の航空兵力、一艘(いっそう)の軍艦、一匹の怪獣をも進入できなくする訳でございます。陸上の防衛力は自然、地震等の国土及び生活保安等の組織を除きすべて海空へ移管いたします。今般、国家行政組織法の改変整備に伴い、設置されました防衛保安省内の三組織、すなわち航空、海上、陸上保安庁、特に海、空保安庁の充実を図って参る所存でございます。怪獣に日本は屈しないのであります」
議場のあちこちで、野次ならぬクスクス…という笑声が湧き起っていた。
「むろん、日米同盟は堅持し、両国の関係をより密にする努力を怠ってはなりません。集団的自衛権の行使につきましては、2020年に解決いたしました憲法の許容範囲内での後発支援、すなわち軍事物資、軍事燃料補給等の戦闘の危惧が及ばない範囲での支援による自衛権行使の方針を堅持して参る所存でございます。我が国は怪獣に食われる訳には参りません。また、食うことも出来ません。平和に越したことはございませんが、♪身に降ぅるぅ~~火の粉はぁ~払わにゃならぬぅ~~♪なのでございます」
白富士首相が得意の渋い喉(のど)で唄い、演説を終えた。議場は爆笑の渦となった。
「静粛に願います!!」
大仏(おさらぎ)議長の声は掻(か)き消され、効果がなかった。いつしか、議長も笑いの渦に引き込まれ、笑っていた。
完
朝早く、会社へ出勤すると、開口一番、部長から呼び出されました。そして、「君ねぇ、来年からさ、浜松の出張所の方へ行って貰おうと思ってんだが…」と、言い渡されました。
「浜松? …」と、一瞬、私の脳裏は真っ白になりました。
実を云いますと、私の会社というのは、東京に本社を持つ大手企業系列の関連子会社なのですが、最近は企業競合の荒波に押され、事あるごとに業績改善、業績改善と社内で叫ばれている時期でもありました。
私は企画部総務課の課長代理でして、と云いましても課員数が十数人なのですが、代わり映えしない日々を、鳴かず飛ばず勤めておりました。
そう、今振り返れば、そうした日々は感動がないと云いますか何と申しますか、胸に突き上げるような喜びがない、いわば、働き甲斐のある職場ではなかったのです。そして、世渡りが下手、また運もなかった…いえ、実力がなかった所為(せい)もあったのでしょう。十数年の間に、出世していく同僚社員を仰ぎながら、本社からリストラでこの子会社へ派遣されたという粗忽者なのです。
その無感動の一場面をお見せしましょう。
お茶を淹れて盆の上へ置き、それぞれのデスクにはこんでいる女事務員の姿が見えます。彼女の姿は、机上の書類に目を離し、顔を上へ向けた刹那、私の視線に飛び込んだのです。
机に湯呑みを置きながら、なにやら話しているのが小さく聞こえてきます。
「ホントはねぇ、お茶汲み、なんかしなくってもいいんだけどさぁ…、なんか習慣になっちゃってるのよねぇ」
話し相手の男性社員は、たしか同期入社組だったと思うのですが、笑って頷(うなず)いています。
私はというと、机上の書類に目を通していたとはいえ、実は眠気でウトウトしていたのが事実でして、事務員の話す姿が見えたのは、まどろみから目覚めた、すぐ後だったのです。
結局のところ、私の会社での立場といいますのは、その程度のものでして、大した役職を与えられている訳でもなく、課長代理という名ばかりの肩書きを与えられ、かといって、疎んじられているというのでもないのですが、昼行灯の渾名(あだな)をつけられておる、いてもいなくても影響力のない存在でした。
話を元に戻しましょう。
目覚めた私は、大きな背伸びをして両腕を上げ、欠伸をひとつ、うちました。そして、呟くように、「ああ、つまらん…」と漏らしたのです。
今思うと、この時が異変の始まりでした。云った瞬間、課内全員の視線が私に集中し、しかもそれは睨むような殺気がありました。そして一同は声を揃えて、「つまらん?」と、私の顔を窺(うかが)ったのです。
私は過ちを犯したような申し訳ない気持になり、思わず、「ス、スバラシイ!」とドギマギ吐いたのでした。そうしますと、全員が納得したようにニッコリして、ふたたび声を揃え、「スバラシイ!」と唱和しながら笑顔で私のデスクへ集まってきたのです。
今までは課員達から疎(うと)んじられていた私でしたが、何だか急に人気者になったようで、悪い気分はしませんでした。
それからの私は、ピンチに陥るごとに、「スバラシイ!」と連発して、それまで乗り切れなかった数々の苦境を脱していったのです。そして、いつのまにか課員達の人気者になり、課長のポストを与えられ、そればかりかリストラ対象者からも除外されました。更に、いいことは続き、本社へ呼び戻され総務部長に抜擢されたのです。トントン拍子に運がよくなった訳でして、ついには取締役に、そして社長にまで昇りつめたのでした。
それから20年が経過し、私も白髪が混ざる好々爺(こうこうや)になっておりました。
しかし、よいことは続かないものです。社長席の椅子で油断していたからでしょうか。つい、うっかり、「つまらん」と口に発してしまったのです。社長室の中は私一人ですから、まあ、大丈夫だろう…と、口を噤んだのですが、聞こえていない筈が、どういう訳か社員全員に聞こえたようで、その瞬間から内線ホーンの呼び出し音が続き、ついには私がいる社長室へ社員たちが殺到したのです。そして、「つまらん?」と、怒りの表情で異口同音に訊ねるのです。私は気が遠くなっていきました。
ウトウトと微睡(まどろ)んだようでした。
気づくと、なんと私は、20年前の未だリストラで飛ばされていない浜松の出張所におり、社員ではなくメンテナンスの清掃員として、休憩室に存在していたのでした。
服装といえば、社長の姿とは比べるべくもない惨めな清掃員の姿でした。そして、老いを感じさせる皺だらけの手に一本のモップを持ち、椅子に佇んでいたのです。
私は、愕然としてしまいました…。全てが夢だったのでしょうか? 未だに私には分かりません。
完
朝起きると、何だかいつもと状況が違うのに気づいた。
どこかザラツいた感触なのだが、それでいて気分は心地いい。
もう、勤めに出ねばならないから、そろそろ床を離れねばならない。だが、今日は目覚ましが鳴らなかったようにも思える。前夜の疲れで熟睡していた為だろうと、その時点では思っていた。
「… …」と、無言で寝ぼけ眼(まなこ)を薄く開けると、目の前の視界が塞がれている。それどころか、ベッドに寝ていた筈が、シュラフにでも寝ている感覚で、しかも身体の位置が不安定だ。よく見れば、薄い黒ビニール袋の中に自分がいる。
徐(おもむろ)に身体を立て直そうとすると、自由が利かず、窮屈この上ない。着ているものはというと、確か昨夜に着替えたパジャマであるから、これは怪(おか)しくない。
?(もが)いて袋を突き破ると、急に朝の冷気が身体を包む。辺りは早朝の静けさが覆い、通る人の姿もない。場所は? といえば、見慣れた通勤途中の風景が展開する道筋だ。私は訳が分からなくなり、一瞬、途方に暮れたが、我を取り戻して、とり敢えず袋から出た。
ふたたび、よく見れば、靴下も履いていないし靴とてない。冷えが足下から鈍く伝わってくる。夏とはいえ、早朝なのだ。当然といえば当然である。
仕方なく裸足のまま、ウロウロと、その場所を逃れた。その、というのは、勿論、ゴミを搬出する置き場所である。時計を見ると、まだ四時半近くだった。もう数時間すれば、間違いなくパッカー車がゴミを回収にやってくるだろう。私はその光景を、通勤途上でよく目の当たりにしている。
なんという情けない格好で歩いているんだろう…と、思いつつ、両足は確実に我が家の方へ向かっている。何故、あんな所にいたのか? こんな状況になったのは何故なんだろう? と、不可解な事実に対しての様々な疑問が脳裏を交錯した。
幸い、家からはそんなに離れていなかった。これには助かった。早朝で人の動きはないのだが、出来るだけ人目を避けようと、足早に歩き、とにかく家へ辿り着いた。
家族はまだ寝静まっているようだった。起こさないよう、静かに二階へ上がり…、そうだ、これも不思議なことなのだが、玄関の鍵は施錠されていた筈なのだが、妙なことに開いていた。
ベッドに横たわると、これも妙なことに温かみがある。夢遊病にでもなって辺りを徘徊していたのだろうか…と、寝つけぬまま、つまらなく考えた。だが、そんな風でもないようだった。
その日は別に変わったこともなく、いつものように会社へ出勤した。
ただひとつ驚いたのは、例のゴミ置き場の前を通りかかったとき、私が入っていた黒のゴミ袋は綺麗に整っており、しかも破れた痕跡が全く残っていなかったということである。私が?(もが)いて破り、そこから出たのだから、当然、辺りはゴミが散乱している筈なのだが…。
会社へ着き、デスクで考えると、そのゴミ置き場の辺りで思い当たることといえば、煙草の吸殻を投げ捨てたことぐらいであった。
『そんなことはある訳がない…』と思い、夢を見たんだ…と、自分に言い聞かせた。それでも、裸足で家へ帰ったという記憶は残っていた。
その後、数日が経過していったが、これといった異変はふたたび起こらなかった。
次にその妙な出来事が起こったのは、私が意図的に吸殻を投げ捨てたことに起因する。勿論これは、その後、異変が起こらなかったから、敢えて思い当たる行為をしてみた迄なのだが、その愚行の背景には、私自身がこの出来事を真実とは捉えていなかったという節もある。そして、その日も就寝する迄は何事も起こらなかった。いや、だった筈である。
次の朝、目覚めると、やはり例のゴミ置き場に私はいた。
時間は? というと、前回の時間よりも遅く、六時半近くであった。そして前回とは違い、人の気配も少し、し始めていた。状況は前回の経験則で理解されているから、避難しようと素早くその場を離れ、今度は小走りでその場を離れた。
家へ戻ると、妻が起きたようだった。キッチンで物音がしていたからだが、気づかれぬよう、泥棒足で二階へ上がった。そしてその日も、その後は何事もなく過ぎていった。
二度あることは三度ある、とはよく云うが、私は半分、依怙地になっていたのだろう。元来の負けず嫌いの性格が、ふたたび私を挑戦させるかのように、その異変に立ち向かわせた。
次の日の朝、私は通勤途上の例のゴミ置き場で立ち止まり、意識的に煙草を投げ捨て、しかも靴で踏みつける仕草で火を消した。
その日の夜は起こるであろう異変に備え、パジャマに着替えず床に着くことにした。
ウィスキーをストレートのオンザロックで飲み、ベッドへ横たわる。緊張感からか眠気が訪れない。そこで、ステレオのジャズを聴いて気を紛らわせる。そして漸(ようや)く深い眠りへと吸い込まれていった。
気づくと、音楽を耳に感じた。だが、昨夜のそれではない。しかも、自動車のエンジン音すらする。そして、妙にざわついた動きを感じる。
危機一髪であった。奏でられていた音楽は、パッカー車のカーラジオの音だった。
車から降りてきた二人の清掃員が、私のいる近くのゴミ袋を車中へ放り込んでいる。私は必死で袋を突き破り、脱出した。
急に袋から現れた人間に、二人は一時、唖然としたが、ホームレスとでも思ったのだろう。
「なにやってんだ! こんな所で。…危ねぇじゃねえか!」と、私を一喝した。
「すいません…」と、縺(もつ)れた足で足早にその場を抜け、走り去る。そして、一目散にひた走った。
『何故、自分だけが…』という想いが、脳裏を駆け巡っていた。
家へ着くと、なんと! …家がない。私の家がないのだ。そこは巨大なゴミ捨て場と化している。そして、そこには巨大な立て札が…。
━次は貴方を捨てますよ。ゴミを馬鹿にしてはいけません。━ …と。
完