日々、仕事に追われる野上は弱音を吐かない性格からか、窶(やつ)れながらも頑張っていた。帰宅するのがやっとで、いつも玄関で靴を脱がず、崩れるように爆睡しているのだった。気づけばいつも深夜帯の十時を回るのが常であった。空腹対策はそうなることを見越して、駅近くにある常連の食堂で済ませ、改札を潜(くぐ)った。そんな毎日が続いていたが、この日もいつものように残業を済ますと野上は常連の食堂で食事を済ませ、箸を置いた。すでに野上の意識は時折り朦朧(もうろう)とし、睡魔が忍び寄っていた。
『あっ! お客さん。揃(そろ)えて下さい!』
野上は、辺りを見回した。客はもう一人いたが、その男は少し離れたカウンターで静かにラーメンを啜(すす)っていた。声はこの男ではない…とすれば誰だ。野上は店主を見た。店主は調理に集中していた。どうも店主でもなさそうだ…と思った。残るのは若い店員だけだった。調理待ちで、金属トレイを片手に隅に立っている。
「今、なにか言った、君?!」
「…?」
野上に声をかけられ、店員は怪訝(けげん)な顔をして自分を指さした。
「そう!」
「えっ? なにも言ってませんが…」
「揃えて下さい、ってさ」
「はあ?」
「まあ、いい…。親父さん、勘定、ここへ置くよ!」
「へい、まいどっ!!」
店主は野上を見ず、声だけ投げた。信用というほどのことではないが、注文や支払いの額が同じという、いわば常連客という馴染みの愛想だ。野上は空耳の内容が気になったのか、乱雑に置いた器を整えて立った。野上が後ろ向きになったとき、また声がした。
『そうそう…』
「えっ?!」
野上は振り返った。
「お客さん、どうかされました?」
店主が訝(いぶか)しげに野上を見た。
「いや、どうも…」
野上は眠気のせいだ…と思った。駅→車内→駅と、どうにか耐えたが、家へ戻った途端、やはり野上は睡魔に襲われた。気づけば、いつものように靴を履(は)いたまま眠り、玄関に横たわっていた。気づいた野上はフラフラと立ち、靴を脱いで奥の間へ行こうと後ろを向いた。そのときである。
『あっ! 旦那さん。揃(そろ)えて下さい!』
「んっ? …」
野上は突然、声を背に受け、振り返った。だがそこには、静まり返った玄関があるだけである。やはり、睡眠不足のせいだ…と野上は思った。野上は、ふたたび後ろを向いて歩き始めた。
『だめだめ! 揃えて下さい!』
野上は確かに声を聞いたぞ、と再々度、振り返った。しかし、状況は同じで、静まり返った玄関があるだけである。野上はひと通り辺りを見回し、最後に玄関下へ視線を落とした。すると、乱雑に脱ぎ捨てた革靴が散らばっていた。野上はきちんと揃え、下駄箱の上へ置いた。
『そうそう…』
「えっ!?」
『それでいいですよ、もう…』
「ええっ?!!」
野上は置いた靴をじっと、見つめた。
『だから、もういいんですよ。今後もきちんと、揃えて下さい』
野上は自分の耳を疑ったが、声は厳然と聞こえていた。
『そうすれば、仕事も捗(はかど)り、片づきますよ』
「はい…」
野上は靴に返事をしていた。
それ以降、野上は物をきちんと置くことにした。すると、不思議なことに野上は仕事に追われなくなり、野上から疲れや眠気は消え失せていった。
完
三日前に降ったのだから、もう一度くらい降るだろうが、ここしばらくは降らないだろう…と山並は軽く思っていた。だが、その考えは甘く、朝起きたとき、雪はまた降り積もっていた。
「なんだ! またかよ…」
静かな佇(たたず)まいの雪景色は好きだが、また疲れるか…という雪 掻(か)きをする自分の姿がふと、頭を過(よぎ)り、山並の口からため息が洩(も)れた。まあ、そんなことを思っても仕方がないか…と思いなおし、山並はふたたび深いため息を吐(つ)きながら、とりあえずベッドを出た。
それからの小一時間は山並にとって重かった。だが、身体が勝手に動き、いつの間にか山並は雪掻きを終えていた。ふと、腕を見ると、もう昼近くになっていた。山並が、やれやれ…と家の中へ入ろうとしたとき、天から声がした。
『疲れさせて、すみません…。でも、私も仕事なんですよね。降らせなさい! と上から命じられれば降らさねばなりません』
山並は雪空を見上げ、耳を澄ませながら見回した。しかし、どこにもその姿は見えない。気のせいか…と山並は視線を地面へ落とした。
『ははは…私は見えませんよ!』
「あの…僕に何か用ですか?」
山並は声を探しながら雪空に訊(たず)ねた。
『いえ、そういう訳でもないんですが、少し時間が出来たもんで、声をかけたまでです』
「上って、誰ですか?」
『空を支配されておられる崇高(すうこう)な存在です。私達はお傍(そば)にも寄れません』
「ふ~ん…そうなんですか」
山並は見えない存在と違和感のない普通の会話をしていた。他人が見れば、ひとりごとを呟(つぶや)くおかしな男と映っただろう。
「でも、僕だけになぜ?」
『それはあなたが、ため息を吐かれたからです。一度ならず二度までも…。私にも見栄がありますからね。一応、雪ですから』
「確かに、あなたは雪のようですが、それがなにか?」
『ですから、あなたに働いてもらったのですよ』
「と、言いますと?」
『私の仕事は人に働いてもらって、お幾ら? という存在なんですよ』
「言われている意味が分かりません」
『私も、あなたになぜこのようなことをお話しているのか分かりません』
山並と雪の声は、ともに笑ったあと、深いため息を吐(つ)いた。
完
欠伸(あくび)をしながら新聞を畳(たた)んだ竹松末男は、妻の美弥をそれとなく眺(なが)めた。美弥は食後の洗いものをしていた。
「なんか、アフリカでは、また紛争らしいぞ。テロも起こってる…」
「ふ~~ん」
美弥は政治にはまったく興味がない。軽く聞き流す返事を末男に返した。湯呑みの茶をひと口、飲んだとき、末男はふと、疑問が浮かんだ。
「兵器がないと戦えないよな…。まあ、せいぜい殴り合うくらいだ」
「んっ? ええ、そうね…」
美弥は洗い物を終わり、ネルドリップ式でコーヒーを淹(い)れ始めた。
「太古の昔から、食べるために獣(けもの)とか魚などを獲る道具として武器が生まれたんだよ。それが歴史の中で、人を殺傷する武器と食べるための武器が分かれた訳だ」
美弥は洗い物を終わり、コーヒーカップを運んで末男の前のソファーへ座った。
「なるほど…」
「人を殺傷する武器は時代とともに、どんどん進化して兵器になった」
「本来の目的を離れて、間違った方向へ進んだ訳ね」
「そうそう…」
二人はコーヒーを啜(すす)った。
「紛争や戦争には原因がある。それを突き詰めていけば、解決策は必ず見つかるはずなんだ」
「難しいことは、よく分かんないけど…」
「まあ、聞いてくれよ。争い合う組織とか国とかの言い分の違いが原因じゃないんだ」
「どういうこと?」
「さっき言ったとおりさ。言い分が違ったって、争う兵器がなけりゃ紛争や戦争は出来ないだろ?」
「まあ、そうよね…」
「得てして、低開発国とか開発途上国でトラブルが起きている。その原因はなぜか? という訳だ」
「原因を掘り進めていくのね。少し犯人探しのサスペンスみたいで面白そう」
「馬鹿! 茶化すんじゃない」
「ごめん…」
美弥はふてくされてコーヒーを啜った。
「君が謝(あやま)るこっちゃないけどさ。原因は先進諸国の武器援助とか輸出にあるのさ」
「それは、そうね」
「国の利権とか、いろいろ絡(から)んで大変なんだろうけど、解決策は国連で地球レベルの武器輸出禁止条約を作ることが、まず第一歩だろうな」
末男は言い終え、またひと口、コーヒーを啜った。
「あくまでも、理想よね。そうなると、いいけど…」
「ああ…」
末男はテレビのリモコンを手にし、ボタンを押した。すると不思議なことに、見なれた家の全景が映し出された。
「あれっ!? これ俺ん家(ち)じゃないか?」
「そうよね…」
美弥も訝(いぶか)しそうに画面に見入った。そのとき、画面に一人の女性が、マイク片手にしゃしゃり出た。
『竹松さん、有難うございました! 貴重な音声は放送局を通じ、国連本部へ届けられます。以上、ご意見探訪を終わります。藤崎がお送りしました!』
「ええ~~~っ!!」
二人は同時に大声を上げた。
よくよく考えると、末男は放送局から依頼を受け、了承した事実をうっかり忘れていたのだった。末男のポケットには局から預かった送信機が入っていた。
完
三河なりきり店は、依頼人をすっかりその気にさせることでストレスを解消してもらおうという企画で出来た店だ。店長の三河基彦以下、子供一人を含む全員で10名の合名会社の形をとっている。メンタル面のケアを生業(なりわい)とする店で、この手の店がまだ世間ではないため結構、評判はよく、営業利益もそれなりに出していた。初老の三河は今日も机に座りながら店員達に笑顔で指示を出していた。全員が元芸能界出身者で、それなりの演技力は持っていたが、諸事情により一般社会へ降臨した者達である。三河自身も元有名劇団員で、店ではただ一人、軽く世間に知られた男だった。
「よし! 多木君は奥様役。で、奈月ちゃんはその娘。期間は今日から一ヶ月。勤務時間は朝6時から夕方の5時まで。ただし、奈月ちゃんは紙に書いてあるとおりで結構です。で、翌月にはまた、ここへ出勤して下さい。給料はそのとき、キャッシュでお支払いします。先方にはお昼の休憩を含む休憩時間と週一日以上は休ませて下さいとは言ってあります。労働基準法があるからね。いつものように私が両手を叩(たた)いた瞬間から、君達は三河なりきり店の店員を離れます。いいね!」
「はいっ!!」「はい…」
「奈月ちゃんは相変わらず、返事がいいねっ!」
娘役の鹿山奈月はニッコリと笑った。三月に満13才となり、労働基準監督署の許可を得て四月からこの店に入った人気者だ。
「皆川家はやや上流の家だから心するように。で、これが住所と家の詳細。これが非常用の諸経費です。今日はお休みです」
三十半ばの多木緑と13才になった奈月は三河から何枚かの書類と諸経費の入った袋を受け取った。
「店長、私、今の学校でいいんですか?」
「ああ、いいよ。先方には言ってあるから…」
「は~~い!!」
「他の人は、今日もよろしくお願いします。では!」
10名全員が円陣を組み、片手を重ね合った。そして、店長の三河の掛け声とともに全員が声を出して団結感を共有した。その後、緑と奈月の二人を除く全員は店を出ていった。
「では、叩くよ!」
三河は二人の前で両手を叩いた。その瞬間、二人の態度は豹変した。
「じゃあ、行きましょう、奈月ちゃん」
「はい、ママ!」
三河は両腕を組み、いい調子! とばかりにニンマリと哂(わら)った。三河なりきり店は営業を開始した。
完
検問である。田上は車を急停車させた。
「ここから先へはいけません! Uターンして引き返して下さい!」
田上はおやっ? と首を捻(ひね)って辺りを見回した。警官が数名で検問をしている。赤色灯を点灯させているパトカーが近くに停車しており、警官の動きが活発だ。田上は、ただならぬ異様な気配を感じた。
「あのう…この先で何かあったんですか?」
田上は運転席の窓を開け、警官に訊(たず)ねた。
「国からの緊急命令が発せられたんですよ。ここから先はBD地帯です!」
「BD地帯? なんですか、それは?」
「えっ? ですから、BD地帯なんですよ!」
検問の警官も今一、分かっていないようだったが、立場上、威張って言い返してきた。警官にそう言われては仕方がない。しぶしぶ、田上は車をUターンさせた。目的地まではあと少しだったが、迂回(うかい)すればなんとかなるか…と車をしばらく走らせたところで一端、道脇へ止め、別の道をカーナビで調べた。ところが、である。目的地へ行ける迂回路がない。田上は腕を見た。取引先と会う約束の時間が一時間ほど先に迫っていた。数年通いつめ取れなかったのだが、ようやく取れた契約だった。田上は会社をウキウキ気分で出た。課長以下、課の全員が拍手で送り出してくれた。まるで結婚式の新郎の気分で会社を出た田上だったのだ。それが、訳の分からない検問である。田上は少し焦(あせ)った。先方の会社へは足繁く通っていたから、辺りの土地勘は十分過ぎるほど田上の頭の中にあった。何かよい手立てはないか・・と田上は辺りを見た。すると、不思議なことに少し錆びついてはいるが、まだ十分乗れる自転車が捨てられ、倒れていた。まあこれも偶然だな…と、そのときの田上は思った。神の助け、とも思えた。田上は車を降り、その自転車で走り始めた。田舎のことでもあり、自動車が通れる幅の道はなかったが、畦道(あぜみち)は幾らでもあり、田上は迂回しながら少しずつ目的地へ近づいていった。あと500mほど先に会社の遠景が見えたとき、田上はホッと安堵(あんど)の息を漏らした。まだ30分ばかりあった。田上があと50mほどに近づいたとき、また警官達の姿が目に入った。パトカーは停車していない。ただ、今度は白バイが赤色灯を点灯して止まっていた。
「ここから先はBD地帯ですから進めませんよ!」
「はあ?! そこの会社へ行きたいんですよ、私は!」
「ですから、ここから先はBD地帯だから駄目なんです!」
「BD地帯BD地帯って、いったいなんなんです?!」
「分からないお人だ。BD地帯は国から命令されたBD地帯ですよ!」
「…もう、いいです!」
押し問答になると諦(あきら)め、田上は自転車を一端、引き返すことにした。しばらく走ったところで警官は見えなくなった。田上はまた自転車を迂回させて走り、会社の数m先まで走った。よし! とばかりに、田上は自転車を止め、徒歩で会社の通用門へ入った。
「よく来られましたね。ここはBD地帯ですよ!」
取引先の社員が耳元で小さく田上に囁(ささや)いた。
「あの…、BD地帯って、いったいどういう意味なんです?」
「さあ? BD地帯らしいですよ」
「ですから、そのBDって?」
「BDはBDですよ! アルファベットのBD!」
「…」
田上はその後、黙々と契約を済ませ、取引先を出ようとした。妙なことに、取引先の全員が拍手で田上を送り出した。田上は、なぜか背筋にゾクッ! と寒気(さむけ)を感じた。
完
航太は幼稚園児です。ある日の夕方、航太はテレビの天気予報を観ていました。
「航ちゃん、ごはんよ!」
「えっ! もう? …パパは?」
「パパは出張だって言ったでしょ!」
「うん、それはきいたよ。でも、なぜそれで、ごはんがはやくなるの?」
「パパはね、今日は帰ってこないの!」
ママの睦美は少し疲れぎみのせいか、諄(くど)い子ね! という煩(わずら)わしそうな顔で航太を見ました。
「そうなんだ…。これさ、すぐおわるから、ちょっとまって!」
航太は睦美へ、リターンエースですぐ返しました。若い女性の天気予報士が天気概況を話しています。
『低気圧は遠ざかりますから各地で晴れるでしょう。ただ、高気圧の速度が遅いため、ところにより雲が残るでしょう」
「あしたは、はれだ…」
航太は天気予報を聞くのが最近の趣味になっていました。子供の趣味は高じやすいものです。最近では、必ず自分の絵日記にお天気を書き記(しる)していたのです。それも半端じゃないほどの懲(こ)りようで、実に詳細でした。
夕食が終わり、子供部屋へ戻った航太は、さっそく書き出しました。
「はれのちくもりだ。…いや、そうおもったけど、はれてきたんだった。まてよ! …はれてきたけど、はれるまではいかなかったんだった…」
航太はお天気欄に、 ━ はれのちくもり、とおもったら、またはれぎみ ━ と書きました。
その夜、航太は夢を見ました。夢の中の航太は雲の上で眠っていました。
『起きなさい、航ちゃん!!』
航太はその呼び声で目覚め、うっすらと瞼(まぶた)を開けました。すると、お日さまがニッコリと微笑(ほほえ)んで、航太を眺(なが)めていました。不思議なことに、いつもは眩(まぶ)しいお日さまが、ちっとも眩しくありません。
『航ちゃんは感心ですね! いつも、お日さまはあなたを見ていますよ! これからも、あなたのお天気予報を楽しみにしています。あしたは、きっと先生に褒(ほ)められるわよ』
声がなんだかママに似ているな…と航太は思いました。
「航ちゃん、起きなさいよ! 遅刻よ!」
航太が薄目を開けると、お日さまじゃなくママが航太を見下(みお)ろしていました。もう次の日の朝になっていたのでした。
「うん…」
航太は、ゆっくりとベッドから出ました。その日、航太は夢のとおり、先生に絵日記のお天気予報を褒められました。
完
今年も節分がやってきた。随分前になるが、私はこんな話を友人から聞かされたことがある。
伊坂家では節分の夜、恒例(こうれい)の豆まきが予定されていた。今年で小学四年生になる長男の聖矢には今一、豆をまくという行為が理解できなかった。食べればポリポリと美味(おい)しのに、なぜそれを大人は投げ捨てるんだろう? という素朴な疑問である。それとなく両親に訊(き)くと、節分とかいう日本の儀式だと言われた。ふ~んと、ひとまずは聞いておいた聖矢だったが、妹の愛奈にしつこく訊かれ、辟易(へきえき)していた。そこはそれ、年上だから、妹の手前、両親に聞いた通りに答えてはおいたのだが、自分自身が得心できないのだから、しっくりとしない気分だった。
伊坂家には今は使われていない土蔵があり、そこには鬼の家族が住んでいた。幸い、土蔵は豆まきの対象から外されていたため、節分の夜には家の外から多くの鬼達が逃げ込んできた。鬼の家族はその鬼達を招き入れたので、土蔵の中はなんとも賑やかだった。もちろん人間の目に鬼達は見えず、話し声も聞こえないのだから、その夜は大宴会の様相を呈(てい)していた。世間一般には、節分は鬼達の厄日(やくび)だと考えられがちだが、この伊坂家では節分が鬼達にとって一年に一度のめでたい祝祭日になっていたのである。
鬼達が飲めや唄えの大賑わいの最中、少し離れた伊坂家の玄関では聖矢が豆をまいていた。ちょうどそのとき、土蔵で酔っぱらっていた鬼の一匹が、うっかりした足下のバケツを蹴飛ばした。と同時に、ガシャン!! という凄(すさ)まじい音が辺りに鳴り響いた。聖矢が豆をまき終わり玄関の戸を閉めようとしたときで、聖矢は、おやっ? と不思議に思った。聖矢は恐る恐る土蔵へと近づき扉を開けようとした。すると妙なことに、いつもは閉まっているはずの土蔵の鍵が開いていて、聖矢は簡単に中へ入ることができた。中へ入ると、声は聞こえないものの、鬼達が浮かれる様子が聖矢の目に飛び込んできた。一定量以上の酒を飲むと妖気を失なってしまうことを鬼達はつい忘れていたのである。聖矢は驚きと恐怖で、土蔵の前で固まってしまった。バケツを蹴ってしまった鬼が固まっている聖矢に気づいた。鬼はゆっくりと聖矢に近づいた。
「坊っちゃん! 俺達が見えるのかね?」
「は、はい! …まあ」
聖矢は恐ろしさで小さく返した。
「そうかい。そんなぶっそうなものは置いて、まあ、ゆっくりしていきな」
聖矢は鬼が指さす豆入りの枡(ます)を下へ置くと、その鬼に従って奥へ入った。土蔵の奥では、鬼達が輪になって、飲めや唄えの大宴会の真っ最中である。
「おお! 新入りですかい!」
手下らしい鬼が訊ねた。
「いや、そうじゃねえ、この家の坊っちゃんだ。おい、甘酒をお出ししろ!」
聖矢は甘酒をふるまわれた。あとから分かったのだが、聖矢に話しかけた鬼は鬼達の総元締めだった。甘酒は不思議なことに本物で、聖矢はすっかりいい気分になった。
「聖矢~! 聖矢~!!」
聖矢の姿が消えたことに気づいたのか、母親の呼ぶ大声がした。
「あっ! 僕、帰らなきゃ…」
「坊っちゃん、これからもよろしくな! 鬼の俺が言うのも、なんだが…」
鬼の総元締めは頭の角(つの)を撫(な)でながら照れて笑った。聖矢も釣られて笑い、ゆっくりと立ち上がった。聖矢の顔は甘酒のせいで、すっかり火照(ほて)っていた。
「これ、忘れもの…」
子鬼の一匹が、置かれた豆入りの枡を聖矢に手渡した。
「あっ、有難う」
聖矢は鬼達にお辞儀すると土蔵をあとにした。
友人に訊かされたのはそんな話だった。今でも節分の日になると、伊坂家は鬼達の飲めや唄えの大宴会で大層、賑わっているという。不思議なことに伊坂家では悪いことが起こらず、幸せごとばかりが続いているそうである。
完
物事はシャンシャンシャン! と話が纏(まと)まれば前進する。鈴川はその手の名人で、彼が加われば壊(こわ)れかけた話なら上手く修復され、纏まらない話の場合でも見事に纏まった。さらに、その能力は話にかぎらず、商談、人間関係、物、現象、事象など…要は、なんでもござれの特殊能力を秘めた人間だったのである。むろん、鈴川にそんな能力があることなど世間の誰も知る訳がなく、鈴川本人さえ知らずに日々を暮らしていた。
「鈴川さん、今日、このあと空(あ)いてます?」
閉庁間際、官財課の出山が鈴川に近づき、そう呟(つぶや)いた。出山は区役所の同期で採用は一緒だったが、民間に二年いた鈴川より二つ下だった。任用直後、鈴川は抜擢人事で総務課に配属された。彼の実力は総務部人事課を通して区役所の上層部にも知れ渡っていた。
「はあ…」
鈴川は曖昧(あいまい)に肯定した。
「そうですか! じゃあ、一時間ほど付き合って下さい。ちょっとご相談したいことがあるんです。トレンドで待ってます!」
「はあ…」
鈴川はふたたび肯定し、首を縦に振った。トレンドは区役所ビルの地階に新しく出店した喫茶店である。出山は笑顔で軽くお辞儀すると官財課から去った。また、シャンシャンシャン! か…と、鈴川は思った。彼にとって、報酬のない依頼は仕事の延長のようなものになっていた。それは、依頼を受けることが嫌だという理由ではなく、首尾よく解決したという噂(うわさ)が噂を呼んで、今や連日のように依頼を受ける日々が続いていたからである。鈴川は疲れていたのだ。いつの間にか鈴川は依頼を解決するコツを知った。それは偶然だったのだが、手の人差し指を一本、上方向に立て、軽く数秒、両目を閉ざしただけで解決するというものだった。簡単に解決する要領が分かると、それ以降、依頼は急増したのである。なんといっても、解決するまでの期間が急に早まったからである。
トレンドに他の客はなく、出山はコーヒーを啜(すす)りながら、ひとり寂しく鈴川を待っていた。座ると鈴川はすぐに相談を聞いた。そして話をひと通り聞くと、鈴川は腕組みをした。
「なるほど…」
「実は、そういうことなんです」
「そうか…。よし! 俺がなんとかしよう」
出山の相談内容は家庭不和だった。妻との仲がギクシャクしているというのだ。このままでは離婚に発展しかねないから、なんとかしてもらえないか、というものだった。出山の妻の携帯番号を聞き、鈴川はすぐに電話をかけた。そして、相手が出たことを確認し、鈴川は片手の人差し指を上向けると、軽く目を閉ざした。
「もしもし! 出山の家内ですが! もしもし!」
数秒して鈴川は目を開けた。
「あっ! 失礼しました! 私、区役所で出山と同期の鈴川と申します。出山の話では、なんでも今、ご家庭が不和だとか…」
「えっ! 主人がそんなことを…。おかしいですわね? 家庭不和だなんて、ほほほ…」
「あっ! どうも…。人を間違えたようです。失礼いたしました!」
鈴川は、すぐ携帯を切った。
「おい! 安心しろ! もう、シャンシャンシャン! だ」
「シャンシャンシャン! ですか。どうも有難うございました」
その後も鈴川には依頼が殺到した。その噂は、さらに噂を呼び、ついには国レベルに達した。
「おい、鈴川君。総理から極秘裏(ごくひり)の電話だ!」
「はあ…」
区長室に呼び出された鈴川は区長より受話器を受け取った。
「…なるほど! 分かりました。日本国のため、なんとかやってみましょう!」
いつものように鈴川は片手の人差し指を立て、目を数秒、閉ざした。
「もう、大丈夫でしょう。総理のご心配は解決したはずです。シャンシャンシャン! です」
次の朝、マスコミ各社が、日本に発生した国際的な重大問題の解決を一斉(いっせい)に報じた。
完
川戸ほど間抜けた男は恐らく世界に一人もいないだろう。これは天然とかの次元を超越していた。あるときなど、買いものの支払いをし、数十万入りの財布を忘れたのである。まあ、こんなことは誰にもあるのだろうが、この男の場合は尋常ではない忘れようだったのだ。
「お客さま、あのう…お包みした方が?」
「あっ! それはいい。でも、袋にだけは入れといてよ」
「かしこまりました…」
店員はそう言うと、川戸が指定した指輪入りの小ケースを袋へ入れて手渡した。川戸はその袋を受け取ると、店員に軽く頭を下げ格好よく店を出た。そのとき、分厚い財布が邪魔になり、袋へ放り込んだのである。俄(にわ)かの入り用でキャシュが必要だったから、財布は分厚い札で膨らんでいた。馴れない厚みに川戸は嫌悪感を感じていたから、渡りに舟の袋だった。そんなことで、買った指輪が入った袋へ財布も放り込み、気分よく出入り口へ向かったのである。いつも通う一流ブランドを取扱う店だからか、店員も川戸にはビップクラスの対応である。
「有難うございました…またのお越しを!」
定員は平身低頭で歩き去る川戸の後ろ姿に声を投げかけた。川戸は、さも当然とばかりに振り返らず、軽く左手を上げると格好よく店を出た。店を出ると、川戸は手に提(さ)げた袋が格好悪く思えた。出逢うのは婚約した彼女である。身重の彼女に川戸は結婚を迫られていた。好きな相手だから、まあいいか…と軽く了解した相手だった。その彼女に手渡す指輪なのだ。どうせ手渡すなら格好よく…と、単純に思い、背広の内ポケットへ指輪の小ケースを納めた。そこまではよかった。少し歩いた歩道にゴミ箱が設置されていたのがいけなかった。川戸は財布入りの袋をそのままゴミ箱へ捨てたのである。腕を見れば、約束の時間が近づいていた。間抜けな川戸は鼻歌を口ずさみながら歩を速めたのだった。
日常くり返される間抜けに、川戸自身もつくづく嫌になっていた。川戸は自分で何もしないでおこう…と、ついに決断し、で、そうした。もちろんその前に自分専属の有能な執事を一人雇った。金には不自由しない資産家の川戸だから、そんなことは訳なかった。結婚もすることだし、これ以上トラブルを起こすのは、彼女の手前、憚(はばか)られた。その結婚式の日、川戸はまた間抜けをした。式場を間違え、花嫁や自分の関係者達を待ち続けたのである。この日、いつもは執事が付き従って出る車だったが、今日は格好よく式場へ…と、川戸は別の高級外車で乗り付けたのである。乗り付けたのはいいが、そこは間抜けにも場違いの式場だった。そこは、川戸の記憶にあった以前結婚し、すぐ離婚した相手との結婚式場だった。離婚原因が川戸の間抜けだったことは言うまでもない。だが、そんな間抜けな川戸が世界を救うことになろうとは…。いや、間抜けな川戸だからこそ、世界を救えたのかも知れなかったのだが…。
世界はある出来事を境に恐慌へと突入していた。恐慌が起こる直前、川戸はあるヘッジファンドを買収していた。資産家の川戸なら簡単なことで、軽く小指を動かして執事に命じたのである。そして、川戸は世界的な額の利潤を得た。国家レベルをはるかに上回る地球規模の利潤であった。世界恐慌の発端はその直後に発生した。以後、世界各国は喘(あえ)いでいった。
「…気の毒なことだな」
「援助、いかがいたしましょうか?」
執事が川戸に伺(うかが)いを立てた。有能な執事のお蔭で、川戸は恐慌をすぐに止められる資金を動かすことが可能な世界的資産家になっていた。川戸は執事に右手の親指を一本、立て、ジェスチャーをした。間抜けにも川戸はガウンを羽織り、優雅な椅子へ後ろ向きで座っていた。川戸は後ろ向きだから…と、左手を立てたつもりだった。
「かしこまりました。左様に…」
執事はすぐ、退席した。左手を立てたときはNOで、右手の場合はOKという暗黙の決めごとが川戸と執事の間には出来ていたのだった。
次の日を境に世界は恐慌を脱した。川戸は不思議でならなかった。
「私の力は必要なかったな…」
「いえ、川戸さまのお蔭でございます」
「えっ?!」
川戸は優雅な椅子から立ち上がり、後ろを振り返った。
完
『まあ、人間達のやることですから、許してやってくださいな』
『ははは…、さすがは紅一点! 弁天さまの仰せは実にすばらしい!』
『あら、いやですわ、寿老人さまったら。ほほほ…』
棚引く雲の宝船に乗られた七福神さまの会話が続いております。ことの発端は、人間達の余りの横暴ぶりに業(ごう)を煮やされた毘沙門さまがお怒りになり、言われたひと言が発端でございました。
『いや、私も少し我を失ったようですな、ははは…。しかし、このままでは、いづれこの国も、いや世界は破滅するでしょう』
『まあまあ毘沙門さま。そう深刻に物事をお考えにならずに…。少し黄金(こがね)を降らせ過ぎた私(わたくし)の責任でもありますから…』
毘沙門さまを宥(なだ)められながら反省されておられる福禄寿さまを尻眼に、虚空へ釣り糸を垂れておられるのは恵比寿さまでございます。
『今日は、いい鯛話が釣れませんなあ…。二日前なんか、大鯛の福話が釣れましたのに。ほっほっほっ…』
恵比寿さまも皆さまのお話にご参加されました。皆さまと少し離れた船べりでは、布袋さまと大黒さまが何やら話しておいでになります。
『日の本(もと)も少し豊かになり過ぎましたかな。人間達が浮かれ過ぎておりますが…』
大黒さまは、そう仰せになり、深いため息をおつきになりました。
『ほほほ…、まあまあ大黒さま。人間ですからな、それは仕方ありません。しかし、人間というのは、貧しいときの方が実に生き生きとして優しいですなぁ~』
弁天さまと同じようなことを、布袋さまが仰せになりました。
その頃、下界では、余りの天気のよさに、一人の男が、じっと天を仰いでおりました。この男、感心なことに国に貢献する陰の立役者でありながら社会からは見離され、一人、侘(わ)びしい人生を送っていたのでございます。それでも、めげず、日々、活躍しておりました。
「天気はいいが、私には地位、金、名誉、なにもない! まあ、あるのは健康くらいか。ははは…」
その男の小声が、ふと寿老人さまの耳に届いたのでございます。
『そうそう。それがなによりですじゃ、ほっほっほっ…。おっ! この男、なかなか感心な男ですぞ!』
寿老人さまは天眼鏡をその男に向けられそう仰せになりますと、右手にお持ちの杖を虚空へ向け、ひと振りされました。虚空にはたちまち、一陣の風が舞い起こり、その男へ一直線に降下しました。そして、男の体内へスゥ~っと吸いこまれたのでございます。
『ですなぁ…』
寿老人さまの言葉をお聞きになり、福禄寿さまも頷(うなず)かれたのでございます。そして、片手を広げられますと、その男に向け、軽くお動かしになられました。
『どうです、皆さま方も!』
寿老人さまは他の神さま方を見回され、そう言われました。他の神さま方も頷かれ、それぞれがその男めがけて手をお動かしになりました。
「? 体がなんか軽くなったぞ! …それに、なんだ、これは!!」
その男の家の庭には、純金の小判が天空より雨よ霰(あられ)と降り注いだのでございます。
それ以降、さまざまな幸せが男の周辺に訪れ、長寿を全(まっと)うしたと聞いております。家の屋根には、その男が亡くなる寸前まで、人の目には見えない宝船が留まっていたそうにございます。
完