あんたはすごい! 水本爽涼
第ニ百四十七回
「あのう…、常務が近々、お辞(や)めになるって聞いたんですけど、それって本当でしょうか?」
「んっ? その話、どこで聞いたのかな? まだ、ごくわずかな者しか知らないはずなんだけど…」
「はあ、風の噂です…」
「風の噂か…。ははは…、日浦(ひうら)君は上手いこと云うな。まだ決まった訳じゃないんだ。絶対、口外無用に願います」
「はい。…って、まるっきりデマじゃないんですね?」
「ああ、まあな…。ははは…、その辺で勘弁してくれよ。美人に迫られるのは苦手でね」
日浦君は少し照れて下を向いた。妙に、そそる色気があった。みかんの早希ちゃんには少し及ばないが、キャラを加味して比較すれば、逆に日浦君の方が上回るのではないか…と自己分析できた。
「今日のご予定は、多毛(たげ)本舗の平野会長様との懇談が三時からとなっております。その後、夕食会でございます」
「ああ、そう。平野さんとも親しくさせてもらって随分になるなあ…。入社の頃からだから…」
「そうでございますか…」
美人秘書との会話が長びき、私の気分は悪かろうはずがなかった。
「それじゃ、行ってくるよ」
柔和な笑みと軽いお辞儀に送られ、私は常務役員室を出た。
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第ニ百四十七回
「あのう…、常務が近々、お辞(や)めになるって聞いたんですけど、それって本当でしょうか?」
「んっ? その話、どこで聞いたのかな? まだ、ごくわずかな者しか知らないはずなんだけど…」
「はあ、風の噂です…」
「風の噂か…。ははは…、日浦(ひうら)君は上手いこと云うな。まだ決まった訳じゃないんだ。絶対、口外無用に願います」
「はい。…って、まるっきりデマじゃないんですね?」
「ああ、まあな…。ははは…、その辺で勘弁してくれよ。美人に迫られるのは苦手でね」
日浦君は少し照れて下を向いた。妙に、そそる色気があった。みかんの早希ちゃんには少し及ばないが、キャラを加味して比較すれば、逆に日浦君の方が上回るのではないか…と自己分析できた。
「今日のご予定は、多毛(たげ)本舗の平野会長様との懇談が三時からとなっております。その後、夕食会でございます」
「ああ、そう。平野さんとも親しくさせてもらって随分になるなあ…。入社の頃からだから…」
「そうでございますか…」
美人秘書との会話が長びき、私の気分は悪かろうはずがなかった。
「それじゃ、行ってくるよ」
柔和な笑みと軽いお辞儀に送られ、私は常務役員室を出た。
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第ニ百四十六回
『そんなことは、ありません。今に分かりますよ、塩山さん。…他に、何か?』
「えっ? いや…まあ、これぐらいですが」
『そうですか…。じゃあ、これで。また…』
いつの間にか私は、ウトウトとしてしまった。そうして、白々と朝が巡った。
煮付(につけ)先輩が云っていた十日は、瞬く間に過ぎ去った。その間、私は鍋下(なべした)専務、病気全快により復帰した炊口吹男(たきぐちふきお)社長とその件について話し合い、結論を得ていた。私はふたたび無報酬の顧問として社外へ去ることになった。むろん、内閣が倒れた折りには復職するという条件を取りつけた上でのことだった。
「そうか…。なら、その時はひとつよろしく頼むぞ。さっそく、小菅(こすが)さんに報告しておかなきゃいかんな。喜ばれると思うぞ、ははは…」
「いやあ、大してご期待に添えるかどうか…」
私は先輩に合わせて笑いながら云った。美人秘書の日浦(ひうら)君が別室にいる手前、聞こえない程度の小声である。
「うん! それでいい。俺だって、小菅(こすが)さんの力になれるかどうか分からんのだ。相手は世界だからなあ…、舞台がでかい!」
「たしかに…。それじゃ、失礼します」
携帯が切れた直後、別室のドアが開き、日浦君が遠慮がちに入ってきた。
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第ニ百四十五回
すると、私の念は、ものの見事に通じたようで、しばらくすると、お告げが舞い降りた。
『はい! お呼びになりましたか? 今、大玉様の方へ一週間分の報告を終えたところです』
「そんなことを、されておられるんですか?」
『ええ、これでどうしてどうして、霊界も結構、忙(いそが)しいんですよ』
「どうも…。そんなこととは知らず、お呼びだて、してしまいました」
『いいえ、忙しかろうと暇(ひま)だろうと、呼ばれればそれに応じるのが私の役目ですからね。それで、どういったお伺(うかが)いでしょう?』
「はい、そのことなんですが、今夜、私の先輩から電話があったんですが、実は…」
『ああ、そのことでしたか。大玉様のご指示がありまして、私が霊力を使ったのです。小菅(こすが)さんが、ふたたび総理になられるように…』
「そのようなことが出来るんですか?」
『ええ、もちろんです。いつぞやも申しましたが、私に出来ないことは何もありません』
「それは、すごい!」
『ははは…、すごいのは塩山さん、あなたです。霊力を出すのは私達ですが、世の中を動かすのは塩山さん、あなたなんですよ』
「いやあ…私はそんな器(うつわ)じゃないと思うんですが…」
偉く買い被(かぶ)られたもんだ…と、私は思った。
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第ニ百四十四回
「長話になるから切るぞ。また、かける。今回も十日ほど待つから、それまでに考えといてくれ」
「はいっ! 態々(わざわざ)、どうも…」
なぜか、煮付(につけ)先輩には頭が上がらなかった。私は礼を云いながら電話を切っていた。
「なんなの?」
ママがグラスを拭きながら訊(たず)ねた。
「ああ…、いつやら話した先輩です」
「国会議員さんの?」
「えっ? ああ、まあ…」
私は曖昧(あいまい)に濁(にご)した。ボックス席のカラオケは相変わらず盛り上がっていて、別世界のようであった。しばらくの間、しんみりとグラスを傾けて、私は勘定を済ませた。
「それじゃ、ママ。また来ます…」
「お気をつけて…。またねっ」
早希ちゃんがボックス席から手だけ振った。私は軽く片手を上げて返した。ママの方はニコッと愛くるしい笑顔を見せた。美形だから、どこかそそるものがあるが、やはり同性かと思えば、すぐ萎(な)えた。下ネタではなく、プラトニックなものである。
眠気(ねむけ)駅まで漫(そぞ)ろ歩いて、酔いもほどよく醒め、心地よかった。煮付先輩の電話は、やはり玉の霊力によるものだろうか? などと思いながら、私は夜道を歩いていた。
帰宅して眠りにつく前、私はこちらから玉にコンタクトをとろうと、ベッドに横たわりながら集中して念じていた。
あんたはすごい! 水本爽涼
第ニ百四十三回
しかし私は、煮付(につけ)先輩の携帯で興冷(きょうざ)めしていた。まったく飲んでる相場の話ではなかったからだ。
「文科省と私に、いったいどういう関係が?」
「ああ、それだ。実は、ここだけの話なんだが、小菅(こすが)さんは首班指名されれば地球語の開発提言を全世界へ発信したいとお考えなんだよ」
「ええっ! 地球語って何です?」「いやあ、これは話せば長くなるからな。…要は、国や民族を越えて人間なら誰でも通じる地球の言葉だよ。世界の言語学者が一堂に会して国連のユネスコなどの機関で特別プロジェクトを組み、共同開発するというものだ」
「わあ~、偉(えら)くスケールのでかい話ですね」
ママが水割りのおかわりを前へ置き、私の話を興味深そうに聞いていた。
「あっ! どうも…」
「んっ? どうかしたか?」
「いえ、こっちの話です」
「そうか…。それで、出来た言語は世界各国で教育システムに取り入れて必修にする・・と、まあ、こういう訳だ」
「すると、どこの国でも通じる言葉って訳ですか?」
「ああ、そうだ。結果として、国連総会などの同時通訳、国と国との首脳会談などもスムースにいく、って寸法だ」
「なるほど!!」
アイデア的には最高で、私は少し乗ってきた。
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第ニ百四十二回
その時、胸の携帯が激しくバイブした。こんな時間に電話とは…。私にしては珍しかった。
「煮付(につけ)だよ。しばらくぶりだなあ~。どうだ、元気にしてるか?」
「わあ~、先輩でしたか。どうも、ご無沙汰しています。どうかされました?」
「んっ? まあな。…カラオケか? 偉(えら)く賑(にぎ)やかじゃないか」
「ああ…今、行きつけのスナックですから」
「なんだ、そうか…。なら、あとからにしようか?」
「いえ、別に…」
「いいのか? それなら簡略して云っておく。詳しくは孰(いず)れまた、ということに…。それじゃ、さっそく用件だがな、この前と同じだ」
「えっ? この前って…。内閣はもう終わったんですよね?」
「それがだ…。小菅(こすが)内閣がまた復活しそうな雲行きなんだ」
「まさか…。それは本当ですか?」
「お前に嘘を云ってどうする。まあ、いろいろ、あってな」
「そうでしたか。…それで、私にどういった?」
「今度は文科大臣だ」
「文科大臣? 文科大臣って文部科学省のですか?」
「ああ、その文科省だ」
私はしばらく絶句した。ママが怪訝(けげん)な顔でこちらを見ていた。カラオケ連中はお構いなしに盛り上がっていた。
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第ニ百四十一回
やはりその日も麺坊(めんぼう)へ寄り、美味いラーメンを食べてから、みかんへ行った。
「それじゃ、明日も八時にお迎えに参りますので…。ご馳走さまでした、失礼します!」
腹が満たされたせいか、エンジンを噴(ふ)かす夕闇(ゆうやみ)君は偉(えら)くテンションが高かった。私は降りたみかん近くの道を数分、歩いて、店がある街の雑居ビルへと入った。常務室を出る直前にお告げがあったこともあり、酒棚の玉の様子を見ておこう…と思ったのが自宅へ直帰しなかった理由だが、━ 私は沼澤さんに、とうとう置いてかれました… ━ と告げた玉の声が脳裡に残っていたのもその一因であった。
みかんへ入ると、私が訪れる日にしては珍しく、数人の客がボックス席にいた。彼等はある程度、出来上がっていてカラオケを唄っていた。私が余り好きじゃない熱唱調で、お世辞にも上手いとは云えない唄いようだった。それでも客だから、早希ちゃんはキャッキャッと騒いで飲んでいた。カウンターに立つママはお通夜な顔でグラスを拭いていた。私が近づいて、ようやくニコリと普段の陽気さが復活し始めた。
「まあ! いらっしゃい。お久ねえ~、満ちゃん」
「ママもお元気そうで何よりです…」
カウンター椅子(チェアー)に座り、前の酒棚を徐(おもむろ)にみると、置かれた玉は以前とまったく同じで、少しの変化もなかった。
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第ニ百四十回
「そうでしたか…。まあ、お元気ならそれで結構です。ところで、私の立場なんですが、また変わるんでしょうか?」
『はい…。近々、またお忙しくなると思われます。まあ、悪いお話じゃなく出世話、とだけ申しておきましょう。では、この辺で。孰(いず)れまた…』
お告げが途絶えたのには訳があった。話をしているうちにエントランスが近づいてきたのだ。お抱え運転手つきの車は正面玄関に横づけされていたから、否応(いやおう)なく通用門ではない正面玄関へ回ることを余儀なくされていた。禿山(はげやま)さんの姿を見なくなったこともあり、通用門から出ることに抵抗はなかったが、なんとなく偉(えら)ぶっている風な自分が嫌だった。
「あのう…、今日も途中でお降りなんでしょうか?」
「えっ? ああ…いつものところで止めて下さい」
「はい! かしこまりました」
お抱え運転手の夕闇(ゆうやみ)君は、苗字とは真逆の明るい声で云った。若々しいアグレッシブな運転手で、このまま運転手にしておくのは惜しい…と、私には思えた。車はスムースに会社を離れた。夕闇君が明るいのには別の意味でもうひとつ、理由があった。いつものところというのは、みかん近くの道で、そこで降りる前には必ず途中の麺坊(めんぼう)でラーメンを奢(おご)っていたからだった。
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第ニ百三十九回
「ご苦労さん。それじゃ、あとを頼みます」
「お疲れさまでした。明日(あす)は十時から多毛(たげ)本舗の平野会長様とのお食事会がセットされておりますから、お忘れなさいませんように…」
一瞬、また太るな…と、私は思った。
「ああ…。はい! 分かりました、それじゃ」
私は少し横柄(おうへい)な態度になりそうな自分に気づき、云い直していた。人間の脆(もろ)さを垣間(かいま)見た瞬間であった。常務役員室を出ると、玉のお告げがあった。
『聞いておりました。さすが、塩山さんです。大玉様が見込んだだけのことはあるようです。並のお方なら、今頃は好き勝手に、し放題でしょう』
「いいや、私だって大したことはないですよ。ただ、自重しておるだけです。それに余裕もありませんしね」
『余裕があれば、豹変(ひょうへん)されますか?』
「そりゃ、私だって人間ですから、秘書に手も出しましょうし、高価な品を日々、買いまくり、美味いものを食べまくることでしょう」
『いいえ、塩山さんは、なさらないと…これは酒棚に置かれた私が云っているのではなく、大玉様が申しておるのですよ。あっ! そうそう。私は沼澤さんに、とうとう置いてかれました。その点、なにぶん、よろしく』
「よろしく、と云われましてもねえ。私は消えた沼澤さんのような霊術師じゃないですから…。そういや、沼澤さんですが、今は?」
『霊界の決めで、いつぞやも申しましたように詳細は語れませんが、異次元の眠気(ねむけ)会館で頑張っておられますよ』
そ、そんな世界があるのか…と、私は驚いた。