彦川(ひこかわ)はすごく偉(えら)い…と自負する県警本部長である。どんなときでも、誰にでも県警本部長の肩書きが書かれた名刺を手渡すのが常だった。その名刺の肩書き印刷がまたすごく、名前の方が返って遠慮しているように見えるド派手な名刺だった。
「県警本部長の彦川です…」
本部正面玄関で部下を従え出迎えた彦川は、今日も肩書きを強調して名刺を手渡した。[警察本部長・警視監…]と実に偉ぶった名刺である。
「阿形です…」
警察庁の役人、阿形(あがた)は、彦川の挨拶を聞き、同期の俺だっ! そんなことは分かってるわ!…と内心で少なからず怒りながらも、顔では笑って彦川の名刺を受け取った。そして、真逆(まぎゃく)に自分の名刺を楚々(そそ)と返した。世間で相場とされる日本人的名刺交換の一場面である。
「いかがですかな? 最近は?」
「ははは、相変わらずですな…まあ、中へ」
訊(き)いた方も訊かれた方も、質問と返答の意味を暈(ぼか)して話しているから、なんのことか理解していなかった。双方ともただの紋切り型挨拶として自然な流れで話したのである。二人は本部内を歩きながら本部長室へと進んでいった。
「警務部長の餅村(もちむら)です…」
本部長室内で待機していたのは本部長の側近、警視長の餅村だった。
「ああ…阿形です」
阿形は餅々した顔の餅村を見て、苗字どおりだ…と思いながら軽く会釈し、さも自然な流れで勧(すす)められた客席へドッカと腰を下ろした。
「アノ事件は、どうなりました?」
「ああ…アレですか。ははは…アレは自然な流れで時効となりました」
対面席へ座った彦川は悪びれず冷静に返した。
なにが、ははは…だっ! とまた少し怒れた阿形だったが、ここは怒ってはならんと、笑顔で頷(うなず)いた。
「ははは…時効で終わりましたか。彦川さんのとこだから、もう片づいておると思っとったんですがな、ははは…」
阿川は、やんわりとした自然な流れで逆襲した。
「いやなに…」
しまった! 一本、取られたか…と内心で渋面(しぶづら)になった彦川だったが、ここは負けられん! とばかりに笑顔で避(よ)けた。
「まあ世の中、狡猾(こうかつ)でズルい時代になりましたからな。そんな事例も時折り耳にいたしております…」
阿川は深追いしなかった。この辺りが相場と、自然な流れで彦川に助け舟を出した。サスペンス問答の終結である。
「ははは…」「ははは…」
両者は笑って話題を変え、警察学校当時の四方山(よもやま)話に花を咲かせた。
夕方になり執務時間が解かれると、自然な流れで二人の私的な懇親会開催となった。
完
雨の夜、一人の男が忽然(こつぜん)と消えた。その男は三日後、とある川の岸辺で水死体で発見された。残されていた免許証から、その男の名は梅干(うめぼし)塩味(しおみ)と判明した。梅干は殺されたのか? いや、そうではなく単なる事故死なのか? いやいやいや…そうでもなく自身による自殺なのか? 署内の捜査一課は意見が割れ、騒然としていた。
「まあ、いいさ…」
警部の紫蘇塚(しそづか)は眠そうな目を擦(こす)りながら欠伸(あくび)をし、さもどうでもいいように言った。それもそのはずで、紫蘇塚は明日で定年退職する身だったから発想が甘くなっていた。内心では、この一件さえなければ、皆に笑顔の祝福を受け、薔薇(ばら)色の気分で…と思え、描いていた筋書きが泡と消えたことにガックリしていたのだ。その潜在意識が、さもどうでもいいような投げ槍な言葉になった訳だ。
「課長…」
係長の鍬形(くわがた)は、そんないい加減な…と思ったが、そこまでは言わず、虫のように小さくなり、思うに留(とど)めた。鍬形は本庁派遣の制服組で、何も起こさなければ、この四月に異動でポストを上げ、無事に帰還(きかん)できることが目に見えていたから、したたかで狡猾(こうかつ)だった。手柄(てがら)を上げれば、さらに上のポストを狙え(ねら)えることも彼は知っていた。
翌朝、新しい課長、甲(かぶと)が捜査一課に配属された。彼は叩(たた)き上げの生え抜きで、現場の事情は熟知(じゅくち)していた。甲×鍬形の虫コンビの仲は誰の目にも上手(うま)くいくようには見えなかった。事実、甲は鍬形を無視し、直接現場の刑事へ指示を出した。ちょうど、木の幹(みき)で蜜(みつ)を吸っていたクワガタが、やって来たカブト虫の角(つの)でポトリ! と地上へ振り落とされた格好だ。事件は鑑識と科捜研の緻密(ちみつ)な捜査の結果、梅干が昆虫採集をやっている途中で足を滑らせ、坂から転落したことが濃厚となった。事件はあっけなく終結した。
「だから、言ったろう。『まあ、いいさ…』って」
退職後、のんびりと差し入れを持って現れた紫蘇塚は、部下を見回して笑った。だが事実は違っていた。梅干は妄想に苛(さいな)まれ、雨の夜にもかかわらず昆虫採集に出かけたのだ。そして現場で自分が虫にでもなった気分で両腕をパタパタと羽ばたかせ家へ帰ろうとした。その結果、坂を転落したのだった。その事実は本人以外、誰も知らない。
完
すでに定年近くなった刑事の盛岡正は犯人を追っていた。それも数十年という長い期間である。そして今もお札(ふだ)の写真一枚を手がかりに追っていた。盛岡はお札の神社で聞き込んだが、どうも偽(にせ)のお札らしかった。追っている相手は捜査本部が開かれるほどの重大事件ではないただの窃盗犯である。だが、盛岡は追っていた。手がかりとなるのは犯人が落としていった一枚のお札だけだった。今の事件捜査をしているときも、必ず最後にその窃盗犯が落としたお札の写真を見せて訊(たず)ねた。
盛岡は背広の内ポケットから、お札を撮った写真を見せた。
「さあ…? 見ませんね」
訊かれた店の主人は軽く否定した。
「いや、どうも…」
そう言われては仕方がない。まあ、盛岡も余りアテにはしていなかった。なんといっても追っているのは数十年だ。奇跡でも起こらなければ恐らく無理だろう…と思っていた。盛岡はすっかり疲れていた。身体だけではない。心身ともに疲れ果てていた。それでも盛岡は探し続けていた。その理由は・・。盗られたのは盛岡が大事にしていた宝箱だった。その箱は子供の頃から大事にしている箱だった。中にはガラスの色つきビー玉やメンコ、コマなどが入っていた。そんなものを盗る窃盗犯などいないのだが、生憎(あいにく)、その箱を手提げ金庫へ入れておいたのがいけなかった。犯人はそれを盗っていったのだ。刑事が自宅に窃盗犯に入られた・・などとは口が裂けても言えない。だから、盗難届けは出ていなかった。そうなれば、盛岡には窃盗犯だが、勤める警察は一切関知せず、事件になっていない事件なのである。だからよけい盛岡は疲れていた。それでもその箱を取り返さねば…と盛岡は思っていた。たとえ、定年になろうと疲れても…と、盛岡の決意は固かった。
余談ながら読者の方だけに、その箱の在処(ありか)を教えておこう。実は、犯人はその金庫の中の箱を開け、なにか感じるものがあったのだろう。密(ひそ)かにその金庫を盛岡の家へ返しに来たのだった。ただ、その置き去った場所が庭石の下で死角となっていた。だから当然、盛岡はその場所を知らず、疲れても
…探し続けているのである。
完
警視庁・捜査1課の元刑事だった久松は退職後、悠々自適(ゆうゆうじてき)の生活を送っていた。なんといっても、捜査が絡(から)む不規則な生活から抜け出したことが久松にとっては大きかった。そんな久松が、朝遅く冷蔵庫を開け、おやっ? と思った。ブランチ[朝食と昼食を兼ねた食事]の惣菜にと冷蔵庫の中へ入れておいた刺し身パックと丹精込めて調理した楽しみのムツ[メロ]の味噌焼きが消えていたのである。これは偉(えら)い事件が起きたぞっ! と、長年の刑事癖が出たのか、久松はそう思った。まずは状況把握、そして聞き込みである。ここはまず落ちつこう…と久松はキッチン椅子へ腰を下ろすことにした。座ったあと、はて? と、考えれば、家族の者は出払っていないことがまず頭に浮かんだ。妻の美土里と娘の愛那は観劇に出かけていた。状況を思い返せば、昨夜は…そうだ! 冷蔵庫を開けたあとスーパーで買った刺し身パックを冷蔵庫へ入れた…という記憶はあった。だが、あのときは…冷蔵庫のドアをなにげなく開けただけで中を確認せずすぐ閉じたことを久松は思い出した。当然、味噌漬けがあったかまでは分からない。ただ、あのとき刺し身バックはあったのだ。それははっきりしていた。それが今、消えている。妻も娘の愛那もアリバイが有るか? といえば、無かった。消えたのは刺し身パックを入れた夕方から今朝までの間である。夜分の犯行であることは分かりきっていた。闇の狩人(かりうど)は誰だ! 久松は益々、色めきたった。
美土里と愛那が帰ってきたのは夕方近くだった。
「ただいまっ!」
「ただいま! じゃないだろ。冷蔵庫に入れておいた刺し身はっ!」
「ああ、アレ。アレは朝、私が食べたわよ。消費期限が過ぎてたし…」
美土里は買ってきた服の買い物袋を重そうに下ろしながら言った。消費期限の云々(うんぬん)は建て前で、美味(おい)しそうだったから食べちゃった! が本音だった。
「なんだ、お前か…」
久松は、まあ仕方ないか…と思いながら続けた。
「じゃあ、味噌漬けは?」
「ああ、アレは私よ。和食もけっこういけるわね。温かい御飯に合うわよ、アレ」
アレも食われたかっ! と久松は愛那の言葉にガックリした。闇の狩人は存在せず、事実はただ家族に先を越されただけだった。久松は今度は金庫に入れて鍵をかけ、冷蔵庫に入れよう…と恨(うら)めしそうに本気で思った。
完
田崎誠は時を駆ける時空盗賊である。当然、時空警察の指名手配を受けていた。厄介なのは時代を行き来するため、現れた時代の者達による捕縛(ほばく)はまったくといっていいほど無理な点にあった。要は、時空警察による直接逮捕以外、手出しが出来なかったのである。田崎を捕らえようと時空警察の警部、堀田は必死になっていた。彼は部下の崎山警部補を手助けとして今日も捜査していた。
「潜伏している時代はココしかないですね…」
「他の時代にはすでに存在しないと本部から連絡があったからな」
堀田は手の平に映し出したタイム・マップ[時空地図]を見ながら崎山へ返した。
「この時代は…。そうだ! 確か過去に一度、ヤツが現れてます!」
崎山は堀田の手の平に映るタイム・マップを見ながら言った。
「そうだったか?」
「ええ、田崎屋誠兵衛として…」
「ああ、そうだったな…。火付け盗賊改め方が取り逃がした一件だ」
「お頭(かしら)を取り逃がし、長谷川さん、顔を赤くしてお冠(かんむり)でしたね」
「ははは…まあ、彼らでは無理だろう。なんといってもヤツは時空盗賊だからな」
「タイム・ワープされれば、おしまいです!」
「まあ、そういうことだ…。さて、時代へ飛ぶか」
「はい!」
二人がタイム・ワープすると、案の定(じょう)、田崎誠は田崎屋誠兵衛として物腰柔らかく反物(たんもの)を商(あきな)っていた。
「久しぶりだな、田崎!」
厠(かわや)へ入った田崎に堀田は声を小さくし、やや凄(すご)みのある声で囁(ささや)いた。田崎はギクリ! とし、羽織の袂(たもと)から慌(あわ)ててワープ・ムーブメントを取り出そうとした。
「おっと! そうはいかないぞ」
その手を押さえたのは崎山だった。
「おとなしく観念しろっ! 田崎」
「田崎屋です…」
逃げられないと諦(あきら)めた田崎だったが、それでも口では反発した。
「…そうだったな、田崎屋誠兵衛。おとなしく、縛(ばく)につけいっ!」
堀田は火付け盗賊改め方にでもなった気分で時代風に言い放った。崎山がレザーピーム錠を田崎の両手にはめた。三人が厠から跡形(あとかた)もなく消え去ったのは、その直後だった。
完
いやに今日は風が強いな…と思いながら、刑事の大川は犯人、小舟を潜伏先のアパートの通路で見張っていた。その横で大川付きの若い刑事、浅瀬はさっき買った焼き芋を美味(うま)そうに頬張(ほおば)っている。よくこんなときに食えるな…と腹立たしく思えた大川だったが、まあ、若いから仕方ないか…と、見て見ぬふりを決め込んだ。昨日(きのう)の深夜、小舟がアパートに戻(もど)っていることは、すでに調べがついて分かっていた。あとは取り逃がさず手錠をガチャリとやるだけだった。それが踏み込もうとしたとき、浅瀬が芋を食べだしたから、中断したという訳だ。世の中、一瞬の隙(すき)というのは恐ろしい。その僅(わず)かな間に小舟は裏の窓からアパートのベランダを伝って逃げ出していたのである。
「…もう、いいかっ!」
大川が浅瀬にそう告げたとき、小舟はすでに向かいの家の屋根に飛び移り逃走していた。
「もう、逃げられんぞ! おとなしく出てこいっ!」
管理人に前もって借りた合鍵を鍵穴にさし、大川は叫んだが、中から返答はない。慌(あわ)てて大川はドアを開けたが、部屋の中は蛻(もぬけ)の空(から)だった。大川は、しまった! と思った。窓が開いていた。
「おいっ! 外だっ!」
浅瀬に叫ぶように言うと、大川は部屋を急ぎ出て、通路から鉄製階段を走り下りた。当然、浅瀬も続いた。そのとき、一陣の風がざわつくようにまた強く吹き始めた。どういう訳か犯人の小舟はその風に吹き戻(もど)され、狭い小路を進めないでいた。大川は小路で小舟の後ろ姿をついに捉(とら)えた。だが、大川もどういう訳かざわつく風に一歩も小路を前へ進めなかった。もちろん、浅瀬も同様である。
「待てっ~~小舟! 俺の買ったウナギ弁当をどこへ隠したっ!」
大川は風に戻されながら叫んだ。
「へへへ・・馬鹿野郎! 腹の中だよぉ~~!」
小舟も風に戻されながら叫んだ。
「ちきしょ~~~!」
大川は追うのをやめた途端、ざわつく風に吹き飛ばされた。
「ざまぁ~みろ!」
小舟も油断して動きを止めた途端、ざわつく風に吹き飛ばされた。
完
三神は風呂上りにテレビドラマを観ていた。長官官房付きでなに不自由なく働くエリート審議官の一人として、将来をほぼ100%約束された三神だったが、局長と課長の間に位置するポストで繰り返されるなおざりな日々に少し煩(わずら)わしさを覚えるようになっていた。
「三神さん、大変です!」
部下の一人、神輿場(みこしば)が血相変えて審議官室へ入ってきた。
「どうした!」
「ぅぅぅ…日傘(ひがさ)が閉店するらしいです!」
「そうか…えっ! なんだって! あの日傘がっ!」
日傘はウナギの専門店で三神達の行きつけの店として公私共に重宝(ちょうほう)されていた。ときには職員間の懇親会、またあるときは極秘裏の公務の打ち合わせにと活用されていたのである・・というのは建て前で、実は日傘のウナギ料理は、どれも頬(ほお)が落ちるほど絶品で美味(うま)く、しかも安かったのである。最近の三神にとって、コレを食べるのが唯一の楽しみで生きているといっても過言ではなかった。
「ど、どうしてだっ!」
三神は怒ったように訊(たず)ねた。
「いや、それが聞いた話で、どうも腑(ふ)に落ちないんですよ」
「そうか…いや、なにがっ?」
「倒れた店主が元気になったのはいいんですがね、急に店をたたむ・・と言い出したそうなんですよ」
「そうか…それは妙だな。なにか裏があるぞっ!」
「どうします?」
「すぐ極秘で調べてくれ…。あの店がないと、いろいろと不都合だっ」
三神は組織が困ることを暗にいったのだが、その実(じつ)、安くて美味いウナギが食べられなくなるのが困るのだった。
そして一週間が瞬(またた)く間に過ぎ去った。
「分かりました…」
神輿場がやや明るい顔で審議官室へ入ってきた。
「どうだった?」
「ははは…私の早とちりでした。店は一端、閉めるそうですが、ナマズ専門店で出直すんだそうです」
「そうか…理由は?」
「天然モノが品薄で対応できないそうでして…。店主の話によれば、味を落としてまでは・・とかだそうです」
「そうか…だが、それは困る。ウナギがナマズじゃいろいろと拙(まず)いからな。引き続き、なんとかならんか調査してくれ…」
三神は暗に会合に影響が・・とでも言いたげだったが、その実、美味いウナギに未練たっぷりだったのだ。三神は今朝も、そうか…と言いたげに、神輿場の朗報を待ち続けている。
完
珍味(ちんみ)は追われていた。自分が犯人ではないことは珍味自身が一番よく知っていた。だが、刑事の冷酒(ひやざけ)は珍味を食い逃げ犯として追っていたのである。実は追っている冷酒自身が真犯人だということを彼以外には誰も知らなかった。まさか! の事実はあり得たのである。
話は一年前に遡(さかのぼ)る。休日の日、珍味は山の尾根伝いにある峠の茶屋にいた。腹が減っていた珍味は具も何も入っていない葱(ねぎ)だけのかけうどんを注文し、啜(すす)っていた。そこへひょっこりと現れたのが刑事になったばかりの冷酒だった。美味(うま)そうにうどんを食べる珍味を見ながら冷酒は珍味の横へ座った。冷酒は笑顔で軽く珍味に会釈(えしゃく)をした。そこへ年老いた店の主(あるじ)が盆に茶の入った湯のみを乗せて現れた。
「なににされます?」
「そうだな…美味そうだから、コレにするか」
冷酒は張られた品書きをチラ見したあと、視線を珍味が食べるうどん鉢(ばち)に移し、主にそう言った。
「かけでごぜぇますね? へい、しばらくお待ちを…」
今日の客はセコイな…とでも言いたげに、主は声を小さくして言うと店の奥へ消えたが、すぐにうどん鉢を持って現れた。
「へい、お待ち…」
腹が減っていた冷酒は珍味を追い抜き、いっきにうどんを食べてしまっていた。下山途中で少し急いでいたこともある。食べ終えた冷酒はお代を置いて去ろうとした。ところが、である。財布がどうしても見つからない。ひょっとすると頂上で昼を食べたときに…と思えた。だがもう遅い。これから頂上へ戻(もど)れば、陽はとっぶりと暮れてしまうだろうと思えた。
「なにかお探しですか?」
そのとき、運悪く珍味は冷酒に声をかけてしまった。
「ああ、いやなに…財布がね。怪(おか)しいなぁ?」
冷酒はポケットをまさぐりながら、そう言ったが、財布は出てこなかった。幸い小銭入れはあったから額を確かめると30円足りなかった。
「あの…すみません。30円足らないんですが、立てかえてもらえませんかね、後日、お支払いいたしますので…。どうも、財布を落としたようなんですよ…。私、こういう者です」
偉(えら)そうに冷酒は警察手帳を見せた。冷酒はかねてから、この所作を一度、やりたいと思っていたのだ。
「いや、私も生憎(あいにく)自分の分しか持ち合わせが…」
厄介(やっかい)なのに出会ったぞ…と思いながら、珍味は食べ終えた鉢の置くと代金を置いて去ろうとした。
「親父、ここへ置いとくよっ! それじゃ、お先に…」
『ありがとやした!』
珍味の姿が消えると、冷酒は置かれた代金から30円を失敬した。奥から主が代金を取りに現れたとき、珍味はもう姿を消した後だった。主は置かれた代金を見て30円足りない…と蒼くなった。これでは明日が・・・とまでは思わなかったが、おやっ? とは思った。
「今の人、逃げるように走り去りましたよっ! こういうものです。私が捕(とら)まえましょう! それじゃ!」
後ろめたかったのか、冷酒は代金を手渡すと茶屋から逃げるように去った。
「あのう、もし! …行っちまったよ。私ゃどうでもいいんだがね」
主は冷酒が去ったあと、そう呟(つぶや)いた。そんなことで、珍味は冷酒に30円のツマミとして今日も追われている。だが事実は追っている冷酒の方が珍味にツマミにされ追われていたのだ。30円をくすねた後(うし)ろめたい自分自身は欺(あざむ)けない。完全犯罪はあり得ないのである。
完
花川戸 (はなかわど)署に棚田(たなだ)家のひとり息子が行方不明になったとの電話が父親から入り、署の刑事達は俄(にわ)かに色めきたっていた。なんといってもここのところ事件らしい事件が起こらず、ふてくされぎみの刑事達は鼻毛を抜く者、新聞を読み漁(あさ)る者、ウツラウツラする者・・といった具合で、すっかり箍(たが)が緩(ゆる)んでいたのである。
「おい! 事件だっ!」
捜査一課長の虫干(むしぼし)は、鼻毛を一本一歩抜いて机に植えつけている鋤畑(すきはた)の顔を見ながら叫んだ。お前は植えるものが違うだろう! と思う心も、その叫びの中に含まれていた。虫干が叫んだ途端、鋤畑の植える手がピタリ! と止まった。それも当然で、他の刑事達も鋤畑と同様、いっせいに身を正した。虫干はすでに事件と断じていたが、よくよくあとから考えてみれば、まだ分からなかったのである。
久しぶりの事件と勇んで出た鋤畑達は迂闊(うかつ)にも賑やかなサイレンを鳴らし、赤い回転灯を回したパトカーで棚田家に駆けつけた。この手の電話は、事件性を考慮し、極秘裏に静かに駆けつけるのが相場としたものである。すでにこの点で花川戸署の刑事達は間違いを犯していた。まあ、数年、事件らしい事件がなかった花川戸署だったから仕方がないといえば仕方がないとも言えた。さて、その鋤畑達捜査員が現場の棚田家に到着したのは通報を受けてから約20分後だった。
「いつもなら、もうとっくに塾から帰ってる頃なんです…」
鋤畑が状況を訊(たず)ねると、棚田の妻は心配そうに鋤畑に返した。棚田はその横で心配そうに頷(うなず)いた。
「そうですか…。恐らく犯人からの電話が間(ま)もなくかかってくるはずです!」
他の捜査員達はすでに盗聴器を電話にセットし、万全の体制で待機していた。だが、いつまで経っても犯人からの電話はかかってこなかった。彼らはまだ気づいていなかったのである。その頃、ひとり息子は塾帰りにゲーセン[ゲームセンター]でゲームをしながら焼き芋(いも)を頬(ほお)ばっていた。
「怪(おか)しい…かかってきませんなあ」
鋤畑が小声で呟(つぶや)いたとき、遠くから『焼き芋~~ 甘くて美味(おい)しい焼き芋~~』のマイク音が聞こえた。
完
魚住 流清(るせい)は今どき男子の新任刑事だ。イケメンの彼はけっこう女子には人気があり、それが返って捜査の足手纏(まと)いになっていた。いいところまで見つからず張り込んでいたつもりが、通りかかった若い娘数人にキャァ~~! と黄色い声で騒がれた挙句、犯人を取り逃がしてしまったことも度々(たびたび)あった。今売れ筋の若手歌手に似ていた・・ということもある。そんな魚住は、署へ戻(もど)ると上司の警部補、鱧煮(はもに)から睨(にら)まれたが、取り分け気にせず、無頓着(むとんちゃく)に♪~♪とハーモニカを吹くように軽く受け流す性質(たち)だった。上司の鱧煮も、署内の婦人警官達に人気が高い魚住には面と向かって怒れず、伸びた顎鬚(あごひげ)を掻(か)き毟(むし)る以外なかった。
魚住はあるとき、駆けつけ警護に出かける途上、厄介(やっかい)な母子連れにバッタリと遭遇(そうぐう)した。二人は大声で罵(ののし)りあい、路上で喧嘩(けんか)をしていた。魚住は、またかよっ! と思えたが、そのあとがいけなかった。持って生まれた善人ぶりがつい出てしまったのである。魚住はいつの間にか二人の中へ割って入っていた。あとから思えば見て見ぬ振りをして通り過ぎればよかったのである。事件性のない民事には不介入が警察の原則だったからだ。それでも魚住は警察手帳をいつの間にか二人の前へ差し出していた。手帳を見た二人は急に静かになった。
「まあ、お二方(ふたかた)とも落ちついて…」
「まあ、聞いて下さいな! この娘(こ)、どうしてもイヤリングが買いたいって言うんですよ」
「だって!」
「…イヤリング?」
なんのこった? と魚住はキョトンとした。
「いえね、さっき寄ったお店のイヤリングが気に入ったみたいなんです。叱(しか)ってやって下さいな」
「ははは…イヤリングでしたか」
叱れる訳ねぇ~だろう…と、少し怒れたが、生まれ持って善人の魚住はすぐに打開の方法を模索(もさく)していた。気持は焦(あせ)っていたが、腕を見ると駆けつけ警護まで、まだ15分ばかりはあった。
「お母さん! 店に戻るからねっ!!」
「娘さん、まあ今日のところは僕の顔を立てて、このまま帰ってもらえませんかね。実は僕、急いでるんです…」
「…」「…」
母親と娘は互いに顔を見合わせると、悪いことでもしたように、軽く頭を下げ立ち去った。現実はドラマのように格好よくはいかない。なんというサスペンスの結末だ! と魚住は寂しい気分で警護場へと走り出した。
完