蛸山が予想したように、研究所の新年度予算は鳴かず飛ばずの予算額で調停され、波崎の折衝努力は水泡(すいほう)に帰した。とはいえ、減額とならなかったのは不幸中の幸いで、良くもなく悪くもない・・という結果になった訳である。
春五月、新ワクチン・モレアの治験は第二相[探索的試験]段階へと進んでいた。分かりやすく例えるなら、第一弾ロケットが切り離され、大気圏へ向けた第二弾ロケットが点火された・・ということになる。
「順調には進んでいますね…」
「ああ、まあね…。プラセボ[有効成分が入っていない疑似薬]との比較結果が良好だったのは喜ばしいことだよ」
「ええ、よかったです。変わりなければ、薬効面で意味を成しません…」
「幸い、副作用も軽微に推移し、安全性を銀視されるほどの副作用じゃなかったからね…」
「1%にも満たない微熱者でしたから…」
「ああ、それも一時的な微熱に終始したからね」
「ええ、このままいけば、夏までには第三相[検証的試験]に入れます」
「ああ、そうなることを望むよ。ただ、目に見えない世界は、先に何が起こるか分からんからね…」
「ですね…。まあ、そのときはそのとき・・ってことで…」
「ははは…海老尾君の楽観論が出たなっ!」
「すみません。楽観している訳じゃないんですが…」
海老尾は恐縮し、弁解した。
「まあ、いいさ…。私だって成るように成る・・と思ってるんだから」
「所長も、でしたか…」
研究の実証成果は、時にして期待を裏切ったり、予期せぬ好結果を招くのである。
続
市街を走る衆議院議員選挙の街頭演説カーが忙(せわ)しなくガナっている。海老尾は、ふと眼下に広がる人だかりに視線を落とした。
『ワクチンは効くんですっ!』
須下(すげ)前総理が多くの聴衆を前に熱弁をふるっている。海老尾はその光景を第三者の目で見ていた。
「今のは…。これからのは効きますよっ!」
海老尾は、暗に治験が始まったモレア効果を思い描きながら呟(つぶや)いた。しかし、一瞬、テンション高く思った海老尾だったが、承認されるのは、いつのことやら…と、現実を思い、すぐローテンションになった。
「そろそろ選挙だね…」
「ですねっ…。しかし、どうなんでしょう?」
「なにがっ!?」
蛸山は電子顕微鏡のモニターから目を離し、訊(たず)ねた。
「投票結果ですよ…」
「投票結果? そんなの決まってるだろ…。全然、変わらんよっ! 財源のムダ遣いっ! ははは…これは少し、言い過ぎか」
蛸山は肩が凝ったのか、首を蛸のようにグニャリと回した。
「ですよね。与党以外は政策集団化してますから…」
「ああ。与党の思う壺(つぼ)だよ。与党に勝つには小異を捨てて大同につかんとなっ!!」
「それが出来ないのは、与党以外の議員の責任だと!?」
「ああ、まあ、そうだ…。波崎さんの予算折衝[ヒアリング]もショボくなるように思える」
「変化がないと?」
「そう! 変化がないならまだいいが、当初の調定額が減額されるようなことにならんといいが…」
「それは、ないでしょ!」
「いや、分からんぞ。一強は、何でも出来るから怖いっ!」
「なるほど…」
一強の独裁政治を思う二人は沈黙し、話はその後、途絶えた。
続
正月が明け、三月の年度末がやってきた。蛸山や海老尾が指摘していた研究所予算の予算要求がされる季節である。総務部長、波崎の腕の見せどころなのだが、当初予算が希望通り調停されるか否(いな)かは、彼の手腕に委(ゆだ)ねられていた。だが、研究所の研究執務は、そんなこととは関係なく進められるのである。新ウイルスワクチン、所謂(いわゆる)、蛸山や海老尾が話していたモレヌピラニアの第一相治験が始められようとしていた。
「所長…モレヌピラニアでは少し呼称が…」
「だねっ! モレヌピラニアを略そう! で、前と後ろの文字を取って、モレアというのはどうかね?」
「モレアですか…。僕は別にいいですが…」
「よしっ! じゃあ、それで決まりだ。となると、いよいよ第一相の治験に入る訳だが…。準備は出来ているのかい?」
「ええ、その点はすでに…」
「そうか…やはりアド・ホックチームのチームリーダーに君を据(す)えた甲斐があったというものだよ、海老尾君!」
「はあ、有難うございます」
海老尾は蛸山の言葉を聞き、自分を誇らしく思った。
そうして、新治療薬モレアの第一相・治験[臨床薬理試験]が始まったのである。
続
料亭を出た蛸山と海老尾は、酔いを醒(さ)まそうと川べりの歩道を漫(そぞ)ろ歩いていた。年の瀬の冷えた夜風が心地よい。今夜は十六夜で、煌々(こうこう)と月の輝きが冴(さ)え渡って明るい。
「所長、僕は研究者向きなんでしょうか?」
「んっ? なぜそんなことを訊(き)くんだいっ?」
「いや、ふと、そう思っただけなんですが…」
海老尾は訊き返されてそう答えたが、内心ではレンちゃんばかりに頼り、自分は何もしていない…と自虐(じぎゃく)していたのである。事実、新ウイルスの生成も、元を正せば夢の中でレンちゃんが言ったとおりに操作しただけだった。それで完成した新ワクチンを誇っていいものか…と、思い悩んでいたのである。
「ははは…君は新ワクチンを完成させたアド・ホックチームのリーダーじゃないか、何を言ってるんだ。自信を持ちなさい、自信をっ!」
「はい…」
蛸山に激励叱咤された海老尾だったが、今一つ煮え切らない半肉の気分を溶き卵に付けたような空(から)返事で、口へと放り込んだ。
「もう、年が変わるか…。海老尾君、この一年は瞬く間だったね…」
川べりの歩道に設置されたベンチへ座り、蛸山がしみじみと言った。
「ですね…。ところで、波崎部長はどう言っておられるんですっ!?」
「何をっ?」
「来年度の研究開発費ですよ」
「ははは…訊いてないから分からんが、来年のことを言うと鬼が笑うぞ、海老尾君」
「はあ、すみません…」
「成るようにしか成らんよ、海老尾君」
「ですよね…。冷えてきました。そろそろ帰りますか?」
「ああ…」
二人はベンチを立つと帰路のメトロ[地下鉄]へと向かった。酔い覚めの風が二人の頬を冷たく過(よぎ)った。
続
レンちゃんの従兄弟(いとこ)という例えは分かり辛(づら)いが、要するにレンちゃんの分身で+アルファの存在力を持つウイルスだったのである。
『僕をより強力にすればいいだけの話ですよ』
「それは、どういう手法で生み出せるの?」
『カクカクシカジカです』
「なるほど…カクカクシカジカだったのか。僕も所長もカクカクだけでやってたからなぁ~」
『それでは無意味です。シカジカのプロセスをしないと…』
「半年も、なぜ気づかなかったんだろっ?」
『ははは…まあ、いいじゃないですか』
あなた方の才能が足らないからですよ、と思わず言いそうになったレンちゃんだったが、言える訳もなく、笑って暗闇へ姿を消した。だがそれは、飽くまで海老尾の夢の中の出来事なのだ。
その後、夢は一転、研究所へと舞台を変えた。海老尾はレンちゃんが見守る中、試験管のウイルス培養液をスボイドでスライドガラスの上へ数滴、垂らしていた。そして、そのスライドガラスにカバーガラスを乗せ、海老尾は出来上がったプレバラートを電子顕微鏡へと移動操作した。
「こ、これは…!」
『見えるでしょ。それが僕の従兄弟です。残念ながら僕なんか、とてもとても…っていうほど力強いんですよ』
「この従兄弟のウイルスだと、どうなるんだい?」
『どうなるもなにも…彼なら、ウイルス関係はすべて治(おさ)められるでしょう』
「そうなのかいっ!?」
『はい、そうなんですっ!』
レンちゃんは自信あり気に言い切った。
「よしっ! これは夢だったな…。起きたらこの操作をやってみるよ」
『夢から覚めて、忘れないで下さいよっ!』
「ああ、分かってるさっ!」
海老尾はレンちゃんに念を押され、忘れまいと決意した。
これがチームリーダー海老尾が新ウイルスを思いついた経緯(いきさつ)である。
続
その日から所長の蛸山が兼務する先端医療ウイルス科は、画期的な発見を目指し、新たな研究グループを科内に立ち上げたのである。そのアド・ホックチームのチームリーダーに海老尾が就任した。蛸山としては他の人物にするかどうかが悩ましかったが、いつも顔を合わなかった。
そして、瞬く間に月日は流れ、年が変わろうとする年の瀬である。蛸山と海老尾は料亭で鍋(なべ)を突(つつ)きながら一杯やっていた。
「ははは…どうやら来年は、いい年になりそうだな」
「はい、所長っ! 僕としても鼻高々ですっ!」
「ははは…まさか、君が新ウイルスを考えてくれるとは、実のところ思ってもみなかったんだが…」
「そうでしたか…まあ、一杯っ!」
海老尾としては、思ってなかったのかいっ! という気分で蛸山をチラ見しながら銚子の酒を蛸山に促した。
「ああ…。よく思いついたね?」
蛸山は猪口を手にし、海老尾が注いだ酒をグビッ! とひと息に飲み干した。
「えっ? ああ、モレヌグッピーを少し操作しただけなんですが…」
海老尾は夢に現れるレンちゃんが、その手法のヒントをくれた・・などとは口が裂けても言えない。蛸山が立ち上げたチームリーダーとしてのプライドも少しあった。
「いや、それは私もやったんだが、君のようにはいかなかったから…」
「ははは…まぐれですよ、まぐれっ!」
「いやいや、まぐれだけでは新しいウイルスは思いつかないよ」
「有り難うございます」
海老尾は素直に礼を言ったが、心ではレンちゃんに感謝していた。新ウイルスは、いわばレンちゃんの従兄弟(いとこ)に当たるような存在だった。それを夢の中で自己紹介され、夢の通りにウイルス変換をして生み出しただけなのである。
続
「モレヌグッピーじゃなく、モレヌピラニアの方がよかったか?」
「ははは…所長、それはいくらなんでも…」
「いや、そういう意味じゃないんだ。発明、発見にも匹敵する新薬なら、研究費は付くだろっ?」
「なるほど…。治験も完璧な薬効があり、副作用も完璧になければ、第三相くらいで足踏みせずに早く承認されますよねっ!」
「そうなんだよ。君もタマには真面(まとも)なことを言うじゃないかっ!」
海老尾は、タマにかいっ! と切れて思ったが、口には出せず笑顔で暈(ぼか)した。
「新型コロナも下火になってますが、これで終息するんでしょうか?」
「馬鹿を言っちゃいかんよ、君。ウイルスが、そんな軟(やわ)なもんかっ!」
「ですよね…」
「インフルエンザの性質ならまだしも、コロナウイルスは益々、強くなるだろう」
「ワクチン二回打っても感染する時代ですからね…」
「いや、その程度なら、まだ多くが助かるからいいんだ。問題は罹患(りかん)しただけで死に至る変異ウイルスが現れた場合だ…」
「怖いですね…」
「怖いってもんじゃない、これはもう、世界中がパニックだよ、君っ!」
「そうならないためにも、研究の成果が求められる訳ですね」
「研究の成果は、やはり財源から予算を回してもらわんと…」
「やはり、話はソコへ行きますか…」
「ああ、行くんだ…」
「ともかく、僕達が成果を挙げることが、まず第一ですね」
「そうすりゃ、家康公も関が原に向け、重い神輿(みこし)をお上げになるかっ、ははは…」
「はい! まずは先発の東軍諸将のように戦果を家康公に報告しないと…」
「海老尾君、頑張ろう!」
「はいっ!」
海老尾は、どのように頑張ればいいのか分からなかったが、返事だけは頑張った。
続
「それはそうと、総務部長の波崎(なみざき)君が言ってたんだが、なかなか予算が付けてもらえんそうだよ…」
「研究所の研究費用ですか?」
「ああ、お役所と違って予算折衝をして直談判(じかだんぱん)で予算をもらう・・ってのは出来んからねっ!」
「無理すれば出来なくはないと思うんですが、出来にくいですよね…」
「研究所だからねっ、ここはっ!」
「ですよね。白衣には不似合いです」
「まあ、波崎君は事務屋だから一般所員とは違う訳だが…」
「確かに…。しかし、どことも研究分野の予算取りは大変らしいですよ」
「PCR検査に相当の予算が付いてるが、私にはその辺がよく分らんのだ」
「どういうことです、所長?」
「君もよく考えてみるといい。毎日、○〇○人の陽性者が出た・・なんて報道されてるが、アレにどれだけの意味があると思うかね?」
「はあ…まあ、ドコソコでは△△△人の感染者が出たんだな…くらいですか」
「そうなんだよ。多い少ないだけだろっ!? 感染の増加を止めることは出来ん訳だ。そんな検査に予算を付けて、いったい何になると思うんだっ!?」
「そんな赤い顔で言われましても…」
海老尾は蛸山が蛸のような赤ら顔で攻めてこないよう、見えないシールドを張った。
「ああ、つい興奮した。君に愚痴っても仕方ないんだが…」
「でも、所長が言われるのも、よく考えれば一理ありますね。極端に増えている地域やその周辺の地域を重点的に検査するとかでしたら話は分かるんですがね…」
「君もそう思うだろっ? そうなんだよっ! その分の財源を研究所の研究、開発費に回してもらえると助かるんだがな」
「波崎部長にもそこまでの力はありませんよねっ!」
「ああ、永田町のお歴々は、そういう根回しの力はお有りのようだが、ははは…」
「ははは…料亭で予算が動く。困ったもんです」
永田町が別世界のように二人には思えていた。
続
『分かりました。じゃあ、今日はこれで…』
レンちゃんは、スゥ~っと姿を消した。よくよく考えれば、夢の中だから当然と言えば当然である。
レンちゃんが消えると、海老尾はハッ! と目が覚めた。まだ窓サッシに映る外景は薄暗く、枕元の置時計の針は六時前を指していた。
もう起きるか…と海老尾はベッドから出ると寝室のクローゼットで出勤前の軽装に着替えた。
その後はマンネリのように研究所へ通う時間が過ぎていった。
「おはよう! 珍しく早いじゃないかっ!」
いつもは海老尾より早く研究所へ入る蛸山が、訝(いぶか)しげに声をかけた。
「おはようございます! 少し早く目が覚めたもので…」
海老尾は事実を有りのまま口にした。
「そう…。私も目覚めは早くなった…」
蛸山は海老尾に同調した。
「睡眠時間は短いのに、それでも眠くならないのはどういう訳なんでしょう?」
「齢(とし)の所為(せい)なんじゃないか? 私にはよく分からんが…」
「訊(き)いときましょう」
「誰に…?」
「いや、何でもありません…」
「ははは…面白いことを言うね、君は」
「よく言われます」
海老尾は危うくレンちゃんのことを口にしそうになり、自虐(じぎゃく)して誤魔化した。
続
夢の中なのでレンちゃんとの会話は、当然、朧(おぼろ)げな映像である。現実の海老尾はベッドに横たわって眠っているのだが、夢の中ではベッドに腰を下ろした状態で座っていた。
『どうなんです?』
「なにが…?」
『夢の中なんで、分かってらっしゃると思うんですが…』
「ああ、そのことか…。それは、なんとかなったんだ」
『と、いいますと?』
「抗生物質的じゃないことが判明してね」
『効果はズゥ~っと続くということですか?』
「そう! 問題は今後の国の方針次第なんだ」
『治験の進み具合ですか?』
「ああ、国が承認しないと製造許可が下りず、市販されないからね…」
『ですよね…』
「残念ながら薬剤の安全性からか、承認がなかなか下りないんだ…」
『困ったことですね。僕には分からない世界ですが…』
「ははは…僕にも君達の世界は分からないよ」
『お互い、分からない訳ですね』
「そうそう…。と、いうことで、先々のことはお国のお偉方にお任せするしかないと、まあ、そういうところだね」
『分かりました海老尾さん。…海老尾さんは呼び辛(づら)いですね。海老さんでいいですか?』
「ああ、構わんよ」
海老尾は一瞬、油で揚げられた美味(うま)そうな海老を想像したが黙認した。
続