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あの頃カープは強かった…NO5

2012年03月22日 13時35分44秒 | カープ

古葉監督時代に行ったトレードを一言で現すと

改革しながら勝つ野球への挑戦…で、なかろうかと思う。

 

しかし全てのトレードがすんなりと球団同士で決まったものではなかった。

相手が大物になればなるほど、困難を極めたものである。

 

そのようななか、あの時代、本当に驚いたのは、江夏投手の獲得である。

それも交換でなく金銭だった。

 

いまさら理由はいるまいが、振り返ってみたい。

江夏氏の当時(昭和52年オフ)在籍していた南海ホークスの野村監督兼捕手解任騒動で、野村派に属した江夏・柏原も、「野村監督について行きたい」と、意思表明したのがトレードの始まりであった。

柏原には日ハムが早くから獲得に乗り出すも、江夏氏には問題児というレッテルからか、獲得を積極的に申し出する球団はなく、現役引退も覚悟していたようである。

野村さんは、江夏氏の能力を高く評価しており、自分のことより江夏氏を何とか移籍させることを第一に懸命に奔走された。(野村監督はロッテに選手として移籍)

 

古葉監督は、野村監督率いた南海ホークスでコーチ修行をした関係から、早くから打診を受けた。

そして、松田耕平オーナー(故人)に対し「江夏と柏原の二人を獲得したい」と申し出たのだが、松田オーナーは「柏原はまだしも、江夏は・・・」と、難色を示した。

そして一番の難関は、当時 南海ホークスの監督も経験し、オーナーよりも絶大なる影響力をもち、また出身で、広島アマチュア野球界やカープにも強い影響力のあった、親分こと鶴岡一人氏(故人)の存在であった。

松田オーナーは鶴岡氏に相談を持ちかけたが、答えは当然のように・・・「NO」

しかし当時のカープは、ここからが今のカープと大きく違った。

 

なんと・・・オーナーの反対を抑え込み、古葉監督が単身で鶴岡親分のもとに乗り込み談判を行った。

この行動は誰もが驚くことであり、鶴岡親分の機嫌を損ねた場合、古葉監督の野球人生だけでなく、その後の広島カープが終わりを告げる可能性もあった。

しかし古葉監督の強かさは鶴岡親分に談判するまえ、広島野球界のご意見番であり、鶴岡親分と刎頚の友と称されたU社長に仁義をきったことである。

U社長は、当時プロ野球界では、有力選手の大タニマチと評され、広島遠征に来た選手は何をさておき挨拶を欠かすことの出来ない存在であった。

U社長に、江夏氏獲得の必要性を延々とのべた古葉監督。

しかし、U社長もすんなりと 「よし、わかった」と言えない大きな理由が存在した。

それは野村監督解任騒動の火付け役の先鋒が、何を隠そう鶴岡親分とめされていたからである。

(つづく)


コメントへの御礼・・・

2012年03月22日 08時38分16秒 | 日本再生

毎回多くのコメントで激励してくださったり、コメントはありませんが、こんな私のつたないブログを楽しみに拝見していただいている多くの皆様に、心から感謝申し上げます。

ありがとうございます。

 

昨日から春の甲子園が始まりました。

選手宣誓を行った石巻工業のキャプテン・・・

胸にジーンとくる宣誓でした。

まだ復興は始まったばかり。

多くの被災者が、それぞれに多くの喜怒哀楽を持ちながら、前へ前へ進んでおられると思います。

多くの国民の中には、志を持ち行動を起こす人や、何を綺麗ごとを言っているなどと批判的な人もいます。

わたしのスタンスは、誰が何を言おうが被災地復興第一です。

人間だけでなく、牛や豚や犬や猫などの動物・・・そして多くの自然も苦しんでいる現実。

そのために、何とかしてやるという気持ちです。

 

話は横にそれますが、今年になって独居で亡くなられた仏さんを4名預かりました。

葬儀屋は儲かる仕事のようにいわれますが、正直・・・儲けにはならない仕事です。(広島市の生活保護のように恩恵を受けないからです)

しかし・・・あの被災地に行ってからか、何というか・・・独居の孤独死される人を現実に見ますと・・・なんか妙な気合というか、俺がやってあげんと誰が葬儀をしてあげるん・・・みたいな気持ちになるんです。

昨日も孤独死の方の火葬をしたんですが、その人の面倒を見られていたケースワーカーの方が、「本人の遺留金が数万円あるんです。私の思いからすると、お寺さんにお経をあげてもらい、できれば戒名もつけてやりたい。それに、お花やたばこを買って棺おけに入れてやりたいのだが・・・」

正直一瞬・・・「エッ」と思いました。

しかし私も48年生きてきて、その半数以上の27年も葬儀屋をすれば、不思議なもので何とかしようと思えば何とかなるんです。

これまで48年間、正直言いましてロクな生き方をしてきませんでした。

お金も残していませんし、人を踏み台にして粗末にしたこともあります。親不孝は相当なもんでした。

そんな自分が偉そうに、社長になってから社員に言うんです。

「金を貯める習慣をつけろよ。イザとなったらお金がないと生活はできんないんだから。そして、人には嫌われたらいけん。好かれんでもいいから嫌われることはするな。最後に親孝行は絶対せいよ。亡くなってから後悔しても遅いんじゃ。どんなに完璧な親孝行した人でも、親が亡くなると後悔するのを見とるじゃろう。だから親は大切にせんといけん。あと、親の悪口は人に漏らすな。親がいなかったら生まれてこなかったんだから。感謝はしても、親が悲しむことだけは絶対にするなよ・・・」

これら全てが、私の後悔であり反省なんです。

だから社員は、わかってくれているんです。

 

被災地では多くの方が亡くなられ、いまだに行方のわからない人が多数おられます。

それにくらべれば天涯孤独や独居であっても、誰かが看取り、葬儀まで出してもらえることが、実は寂しいものでなく有難いことだと思うのです。

 

これからもワケのわからない主義主張や思いを綴っていきますので、末永いお付き合いよろしくお願い申し上げます。


こりゃ・・・打線は重症かな

2012年03月21日 18時34分13秒 | カープ

昨日のスタンリッジや安藤は確かに良かったが、今日の二神を打てないのは考えもの。

打撃コーチの町田や浅井は何をしてるのやら。

それと指揮官さん、投手コーチは槍玉にあげるのに、打撃コーチをナゼ批判しないのか。

 

まあ批判できない理由があるんでしょうね。

 

なんせ、自分が先頭きって指導しているんだから・・・批判できないわな。


あの頃カープは強かった…NO・4

2012年03月21日 09時33分56秒 | 野球

三篠の寮に隣接されたブルペン後方に、月ぎめ駐車場があった。(今もあるのか?)

その一角から、黄金期の投手陣が投げ込むブルペンは覗けた。

池谷、北別府、山根などの豪華投手が投げ込み、受ける捕手のミットの音・・・とても響きのいい音、いまでも鮮明に記憶している。

当時の投手コーチは、龍さん(現広経大野球部監督)や大石清さん。

そしてそのなかで、コーチと同じく異才を放ち、選手に気合をいれていたのは、背番号64をつけていた石川ブルペン捕手であった。

この人の的確なアドバイスや、選手の乗せ方には、いま思い返しても凄さを感じたものである。(いまの水本コーチも同じく)

 

石川さんを初めて見たのは、私が小学5年のとき。

当時(昭和49年)は、いまと同じく20年以上も優勝とは無縁のチームであった。

監督も一年ごとに変わる状況で、負け続けるカープに、ファンのイライラはすごかったものである。

 

球場で酔っ払ったファン同士の喧嘩。

そして聞くに堪えない野次の連発。

子どもながら嫌な雰囲気を通り越し、恐ろしさを感じた。

 

当時のブルペンはグランド内にあった。

ピンチになれば、当然中継ぎ投手の準備が忙しくなる。

毎度贔屓チームが、負けの込む内容を見せられ続けるファンのイライラが頂点を極めたのか、そのときある一部のファンがフェンスをよじ登り、履いていたゲタを手にし、石川捕手に投げつけた。

この行為に怒った石川捕手はフェンスによじ登ろうとしたが、他の選手に引き止められ、その光景を見ていた線審が試合を中断させた。

心あるファンや、駆けつけた警察官に取り押さえられた その男性が連行されるなか、一人のファンがネット越しに石川捕手に謝た。

その人は、暴挙を働いた男性と無関係の人だったと思うが、石川捕手は「大丈夫。大丈夫」というようなゼスチャーで返していたのを記憶している。

 

いつもながら話が横にそれたが、この石川さんの逸話をOBの池谷さんに聞いたことがある。(昨年の3月)

「あの人は本当に厳しかったですよ。でも、結果で物事を見ない人でした。たとえば打たれてしょげ返っている投手には、何で下を向いてるんじゃ。打たれたけど、今日のオマエの投球は責めていた。あの内容なら必ず結果は出る。上を向け・・・とアドバイスしてくれるんですよ。また、古葉監督やコーチ陣の信頼は絶大でしたよ。ブルペンのことはすべて石川さんに任せてましたから。だから黄金期にはブルペンに投手コーチはいませんでしたから。また江夏さんも、私らに言われましたからね。困ったときは石川に聞けと・・・」

 

いまのカープで、石川さんの役目をするのは水本コーチ。

しかしその水本コーチは、三軍でリハビリ組を担当する長である。

これは推測であるが、リハビリ組に駆け込む選手が多いのは、水本コーチの指導力の良さと人を見る眼のよさかもしれない。

それだけ選手から、信任のおけるコーチがいないのも、カープが低迷する一因なのかもしれない。

 

最後に定かでないが、石川氏・・・

カープを退団後に、カープOBの方に請われ愛知の会社に就職。

その後、数年前に亡くなられたという噂を耳にしたのであるが、真実をご存知の方がおられましたら、ご一報ください。 


コメントにあった・・・

2012年03月21日 08時44分08秒 | カープ

破天荒より・・・ALL IN・・・

これは全ての人の願いみたいね。

ALL INのハチャメチャな采配・・・今となっては懐かしいなぁ。(笑)

あの時は・・・本当に頭にきたけど。

 

しかし選手は楽しそうだったね。ALL INのときは(笑)

赤松や喜田に天谷と小窪・・・

それに投手陣・・・

特に永川なんか、一番輝いていたよな。

それに、故障者少なかったし・・・

 

しかし・・・破天荒

何とかしてくれよ・・・(怒)


大竹を無理させるな

2012年03月21日 08時40分43秒 | カープ

昨日の結果云々でなく、いまは大竹は三軍で調整させるべき。

交流戦をめどに調整させた方が、彼のためにも将軍様にもいいのでは・・・

いずれにしても、大竹の投手生命を優先してやってほしい。


あの頃カープは強かった…NO・3

2012年03月20日 11時08分28秒 | カープ

昭和54年開幕前のこと。

当時市民球場は、カープの練習をネット裏から見学できるサービスを行っていた。

全体練習終了後、居残り特打がおこなわれた。

そこに出てきたのは、衣笠・ギャレット・ライトルの3名であった。

 

衣笠は、しばらく打ち込んだのち自身で納得したのか、笑顔で球場を後にしたが、打てどもスタンドに飛び込まないギャレットはさかんにクビをかしげ、悩みが深そうであった。

衣笠のあとにゲージに入ったライトルも、ギャレットの打撃状態を見かねてか、何かしらアドバイスを送っていた。

しかし、ギャレットは一向に上向く気配がなかった。

するとゲージの後ろで見守っていた藤井打撃コーチが、ベンチの中に消えていった。

 

しばらくすると藤井コーチが、両手に数本のバットをさげ登場した。

ギャレットになにやら言葉をかけ、ギャレットは思わず「エッ…ウソダロウ」というゼスチャーをした。しかし藤井コーチは、観客にも聞こえるように広島弁で「ええから、これで打てやぁ」と説得し、ギャレットはイヤイヤ手にした。

次の瞬間、打撃投手が投げた球をギャレットが打った。

すると・・・「カキーン」という金属音が球場に響き、スタンド上段に吸い込まれた。

次の球も、その次の球も、どんどんスタンドに放り込み始めた。

藤井コーチの持参したバットは、金属バットであった。

これには隣のゲージにいたライトルも、大笑いをしていたのだが、ギャレットが数分前まで極度の不振を極めていたのに、バットを変えた瞬間、人が変わったように打ち込む様子に、自身も金属バットで打ち始めたものである。

しばらくし、ギャレットが気持ちよく打ち始めたのを感じた藤井コーチは、再びギャレットに自分の木製バットで打つように指示した。

すると、木製バットから放たれた打球も、次から次にスタンドに放り込み、数分後、藤井コーチの大きな声が響いた。

「ギャレット、ライトル…ラストボールじゃ」

最後はどんな打球だったか記憶にないが、二人はそれで打ち止めにした。

藤井コーチは打ち終えたギャレットに、通訳を交え何やら言葉をかけた。

ギャレットは藤井コーチの肩をたたきながら、盛んに「サンキュー・サンキュー」と満面の笑顔を浮かべていた。

いま思えば、藤井コーチは「ええかギャレット。バットを金属にしたらムダな力を入れんでもスタンドに飛んだじゃろう。最初は何をバカなことをさせるんじゃと、思ったろうが、しばらくして木のバットに変えても飛距離は変わらんかったよの。何でかわかるか?オマエの体格なら無理に力をいれんでも楽々スタンドインするんよ。要は気持ちよ。それでなくても、相手の投手はオマエにビビッとるんでぇ。たかが野球。されどベースボールよ・・・のぉギャレットさんよ。」のような言葉をかけたのかと妄想する。(笑)

 

当時のコーチ陣は、指導にメリハリがあった。

時には鬼のように厳しく叱咤激励しながらも、選手がどん底で苦しんでいるときは親身になり、試合終了後でも練習に付き合っていた。

現在の栗原や東出などがブレークする前にも、試合終了後のグランドで練習する彼らには、常に内田コーチが見守り続けていた。

いまのカープスタッフは、どうなんだろうか?

風の噂では、緒方ひとりと聞くのだが・・・


ファームの野手陣へ

2012年03月19日 17時43分00秒 | カープ

今年の内田二軍監督のテーマは、「ファーストストライクから狙う」である。

一軍の将の鼻をあかしてやるつもりで、集中力を高め強く振りぬけ。

天谷・・・結果を出しているようだ。

他球団の編成も狙っている器。

 

赤松・・・腐るな。

ポップフライの短所は目をつむり、全身バネの身体を生かした打撃をさせてやった方がいいのだろうにね。(出稼ぎ4年さんのコメントにあったように)

 

それと山本・・・

なぜファームでは勝負強いのに、上ではダメなんだ?

やはりプレッシャーなのか?(結果を出さないと落とされる)

あれだけの身体能力があるのに、もったいないよな。

ファームボケするなよ。

 

井生・・・

野球に取り組む姿勢は、いつ見ても感心するよ。

しかし野村は、井生のどこが気に食わないんだろう?

この選手はキムタクそのままのスーパーサブだと思うんだが。

 

末永・・・

今年は起用されると思ったのに、また降格しているじゃないか?

巷の噂では西武とのトレード、最初は末永だったとか?

それが末永の評価、意外や劣化していた・・・

野球界を舐めないほうがいいぞ。

野球技術だけで評価されるのは昔の話。

いまは各球団、野球以外の調査が厳しくなったんだから。

トライアウトで、「ナゼあの選手、どこも獲得しないの?」っていうのは

1に私生活、2に練習態度、3・4がなくて、5に協調性らしいぞ。

孤高の侍などは過去の遺物。

もっと今以上にガムシャラさを出さないと。

 

「それでダメならどうしてくれる?」って・・・

そんなこと自分に聞けよ。

チャンスは、かなりもらったじゃないか。


永川…もっと執念を持ち前進あるのみ。

2012年03月19日 17時33分50秒 | カープ

カープサイトのファームコーナーで、登板した投手の評論が書かれてある。

そのなかで、永川の昨日の内容の欄「スピードは出ていたが、空振りが取れなかった」と、あった。

平均で145前後も出ているのに・・・

しかし、課題である四球は2イニングで0.

 

こうなったら永川・・・あとは執念を今以上にもち、開き直りで投げようじゃないか。

もっと走りこみ、今以上に下半身を鍛え、今はファームであるが、やがて上にあがってきたとき相手を威嚇する雰囲気を醸し出せばいい。

今年は最後と覚悟を決めた身。

なにも恐れることはない。

ガムシャラに、前進あるのみ。

永川の復活を祈る。


あの頃カープは強かった。NO2(スタッフ)

2012年03月19日 13時06分28秒 | カープ

田中 尊(故人)…緻密な戦略家(影の名将)

阿南準郎…守備育成の名手で名ノッカー

藤井 弘・・・打撃コーチ。長所を伸ばし短所は捨てる指導。

寺岡 孝(故人)・・・穏やかに見える風貌だが、熱血漢

龍 憲一・・・投手陣のまとめ役

備前喜夫…二軍監督として育成しながら勝つ教育を注入

木下強三(故人)・・・三篠の寮長兼打撃コーチ

山本一義…打者育成の名伯楽

大石 清…投手王国を作り上げた名コーチ

柴田 猛…熱血漢で男気あり。気のない投手には鉄拳も辞さない。

大下剛史…鬼軍曹。

 

このOBの方が、カープの強豪時代に指導者として尽力された。

あえて古葉監督は除いたが、個性の強い指導者が監督と喧嘩しながらも

追い求めたのは、カープを強いチームにすること。

その結果が、1979年・1980年の二連覇達成。

 

その後、古葉監督と袂をわけた人もいたが、他チームでも指導者として多くの選手を育成されただけに、当時の赤ヘルは やはり強豪チームだった。

 

今のコーチ陣と比較するのには無理もあろうが、上記の指導者は、いつも選手より早く球場入りし、選手よりあとにグランドを去るほどの人たちであった。

 

私が特筆するコーチは以下のふたり。

 

山本一義氏・・・1979年には、球場でも三篠の練習場でも長内を熱血指導。また高橋慶彦、山崎隆造をスイッチヒッターに育成。妥協なき指導者。

 

大石清氏・・・2軍コーチだったが、不調の池谷が居残りで広島にいたとき、石川ブルペン捕手と共に、三篠のブルペンでミニキャンプを。また北別府、大野、山根、川口、金石など投手王国と呼ばれたのもこの人がいたからである。

 

みなさんの思い・・・コメントお待ちしております。


野村監督に付ける薬はなし。

2012年03月19日 08時21分36秒 | カープ

毎回コメントを聞くたび、「この監督は成長していない」と思う。

野村謙二郎に付ける薬はないのだろうか?

昨日の試合終了後は「投手陣はコーチを含め、まだキャンプ中なんでしょう」

この自虐的なコメントは、これから開幕するチームの指揮を下げるのみで、何ら特効薬も生まない。

このような発言は外部に公表するのでなく、大野や山内に話し、改善策を講ずるべきものである。

 

監督たる仕事を請け3年目。

自分の思う通りにならないからなのか、ますます人間力が低下していると感じる。

これで今年のカープは、戦う前から敗戦を決めたも同然。

なぜ野村監督は、自身の感情をコントロールできないのか?

いまさら周りにいるコーチを云々言っても仕方がないのだが、松田オーナーの昨年末の弱腰が、カープを魅力ないものにと、一層の拍車をかけた。

 

野村監督の持論は何であろうか?

これが鮮明に見えず、朝令暮改以上に変わる芯のなさが、チームが躍進できない大きな理由のひとつに思う。

現有戦力で戦うと決めたのであれば、選手全体の状態をコーチ陣はじめ裏方と意見交換してもよかった。

しかし、すべては自身の独断で行っている現状。

キャンプではブルペンで大野と珍しく会話をしている模様があった。(あの1回だけかもしれないが)

しかし今では、高コーチが間に入り投手交代をつげている。

このような状況をベンチにいる選手は見ている。

「あ~あ。また今年も一年、面白くないよな…」

そのような空気が蔓延すると思うと、ファンは悲劇である。

 

主力選手が契約更改で要望したことのなかに、練習場の改善は表に出たが、ベンチが一丸となりモチベーションの向上をし、優勝できるチームに…は、表に出ないし、現状では改善される傾向も見えない。

これでは選手が可哀想である。

監督の表情や、新聞に載るコメントには選手は敏感に反応する。

それでなくても大半の選手は、自身の結果次第で 一、二軍をいききする恐怖と葛藤している。

現役時、そのような経験が皆無だった野村監督には理解できないことであろう。

 

いまさら野村に、それらトータルで考え、采配や発言に気をつけろと言える人間は球団内では誰もいない。

野村監督に「何をやっている。人間は感情の動物だ。そこをうまく生かし采配しないと、オマエの現役時代の功績はすべて無になる。もっと人の痛みを理解しろ」などと進言できるのは、大分にいる野村父しかいないのだろう。


あの頃カープは強かった…第1回(カープOB の思い出)

2012年03月18日 09時53分18秒 | カープ

昭和54年春・・・私は高校一年だった。

当時住んでいた場所は、カープ三篠寮の近く。

開幕前、暇を見つけては寮へと通った。

連日通いつめる私に、ある選手が親しく声をかけてくれた。

その選手は九州の高校から入団し、背番号もいい番号をもらっていた。

 

「おまえ学校は?」

彼が発した最初の言葉であった。

 

それから数日後、毎日ひとりで練習している彼に頻繁に出会うことになった。

「おまえ、前から気になったんじゃが、学校にいかんでええんか?」と彼が聞いた。

わたしは、彼に親しみを感じていたので本心を話した。

「受験に失敗したんよ。それでいま定時にいきようるから」と言うと、彼は「そうなんか。定時か・・・」と、答えた。

「オマエ野球好きか?」と聞く彼に、わたしは「大好きじゃね」と答えると、キャッチボールせんかと言ってくれた。

生まれて初めて、プロ野球選手とキャッチボールをした瞬間。今でも鮮明に覚えている。

彼は軽く投げてくれたのだろうが、私にめがけてくるボールは驚くほど速いボールだった。

そのとき、(これがプロなんだ)と感激というか、恐ろしさを感じた。

「どうしたら、あんな凄いボールを投げれるん?」と聞くと、「自分でも正直ようわからんのよ。手首の使い方とか肩が強いとか、昔から言われているんだが、こどもの頃からそうだったんで、何でと聞かれても説明できんのよ」と、言った。

「プロ野球選手って凄いよね。本当に憧れるよ」と聞くと、彼は「そうかなぁ?規則や色々なことが多すぎて、面白くないわ」と、語った。

 

それから数ヵ月後の夏、市民球場で行われていたウエスタンリーグを観戦した。

当時の二軍は強かった。

一軍は常勝軍団でレギュラーが固定されており、今のようなチャンスは当時のカープにはないと言っていいくらい、一軍昇格の切符はなかった。

ファームには長内や木本に木山、そして達川や山崎に小川がいた。

長内のパワーは凄かった。

山崎のショートも高橋慶彦よりうまく感じた。

木山の守備力や打率の高さ、木本のガッツなど、いまのファームとは全然比較にならないくらい、選手の目つきが違った。

特にサードの木山は、よく声の出る選手で、当時ファームの中心的な存在であった。

 

そんな選手を尻目に、彼はベンチでも存在感がなかった。

カープの選手が守備に着くときに、外野でキャッチボールの相手で姿をみせるくらいで、私がその後も観戦した試合で、レギュラーはおろか代役での出場機会もなかった。

ある試合の終了後、球場の表で彼の帰りを待っていた。

多くの選手が出てくるなか、彼は一番最後に出てきた。

そこで私は驚いた。

彼の姿は野球選手でなく、当時のツッパリ兄ちゃんに変貌していたからである。

また、大半の選手は自転車であったが、彼は球場前を流すタクシーを止め乗り込んだ。

 

あまりの変わりように驚いた私に、「元気にしとるんか」と彼が言った。

「どうしたん。変わったね?」と聞くと、彼は「大人になったんじゃ」と吐き捨てるように発してタクシーに乗り込んだ。

その年カープの一軍はリーグ優勝を飾り、日本シリーズでは伝説となった江夏の21球で日本一になり、連日報道はスターにばかり焦点が当たっていた。

彼の退団の記事も、見落としそうな小さなもので、ショックはなかった。

 

思えば幼少から野球一筋で、小さな町から独り立ちし、いきなり大きなお金を手にしたことで、彼の野球人生は、その瞬間に終えたのかもしれない。

それなりに野球に打ち込んだ春先から、プロの壁にあたり、試合にも出場できない挫折。

プロ入り前は常にレギュラーであり続け、挫折の経験もなかったはず。

それが、プロ入り後には一転し、気がつくとそれまでの反動からか、遊びをおぼえ 違う方向に進んだ結果、球団から早々と見切りをつけられたのかも知れない。

昨年末、カープOB会のコンペに参加させてもらったとき、ある人から「野球をやめたあと、いばらの道を歩む者が多い」と聞かされた。

そのとき見せられたOB会名簿には 彼の名前はなかった。 


過去のドラ1 鈴木将光に見る競争原理の虚しさ

2012年03月18日 08時14分45秒 | カープ

なぜか、この選手には魅力を感じるのは、私だけかも知れない。

まだ一軍経験はないのだが、一度起用してみてほしい選手である。

プロの眼からみると、「一軍レベルに達していない」選手かもしれないが、私が生でみたファームの試合では、彼が一番バットを強く振る選手に思える。(今年は見てないが)

また右にも強い打球を打てる技術も備えており、ここらあたりは配球に対する打席での心構えは出来ていると感じた。

ドラフト1位で入団し7年目。

チーム編成によっては今年が最後になるかもしれないと、本人も危機感を持っているであろう。

鈴木のようにファームには埋もれた選手がたくさんおり、スポットライトを一度も浴びることなく引退していく選手がいる。

今更だが、本来はオープン戦の初期に、鈴木のような新顔を実戦適応力が備わっているのかテストする余裕がほしかった。

いまだに外野手が固定しないカープ。

現有戦力のなかで、一部選手のみ限定でテストする指揮官。

昨日の岩本をみて思ったが、チャンスを与えられるのは一部の人間である。

カープの真の競争原理とは何であろうか?

「いくら頑張っても無駄だ」という思いが蔓延し、ファームボケする選手を憂う。