とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

「しじみ」石垣リン 1

2006年12月16日 10時48分55秒 | 
 高専実践事例集Ⅱ
工藤圭章編
高等専門学校授業研究会
1996/7/20発行

   
 《  こんな授業をやってみたい
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  Ⅰ 魅力ある先生たち
  1 いきいきした先生たち
   ●詩を発見する授業(54~68P)

  「七つの子」はカラスの歌か?         鈴木邦彦     沼津工業高等専門学校教授

   はじめに
 
  なにげなくそらんじていたり、意味も考えずに口ずさんでいた歌や詩が、実は思ってもみなかった世界を歌っていたことに気づいて、宇宙への窓が開いたようなドキドキした気分になることがある。このような「詩の発見」を一度体験すると、もう次からは、「なにげなく」とか「意味も考えずに」などという気楽な気分では詩を読めなくなる。いつも自分なりの発見をしようと、詩の世界にくい入って行く。「詩の発見」をすることが「読むこと」の出発ではあるまいか。
 私はそう考えて、毎年その年の授業のはじめの一ヶ月ほどを、学生と一緒に「詩の発見」を楽しんでいる。以下は、私の詩の授業の、教師の説明部分だけをなるたけドキュメント風にまとめた、報告である。

 

   詩を書くことは発見だ━━石垣りん「シジミ」

     詩とは何か。いろいろな人がいろいろな言い方をしているが、僕はこう思っている。
「今まで誰も言ったことのないほんとうのことを、今まで誰も言ったことのないドキドキするような言い方で、いっとう最初に言ったもの」
 ふつうの言葉で言えば、真実の発見、だ。人間として生きていくなかで何がもっとも大切なのかということについての、新しい真実の発見が詩だ。たとえば石垣りんさんの「シジミ」という詩を読んでみよう。

 「シジミ」   石垣りん

 夜中に目をさました。
 ゆうべ買ったシジミたちが
 台所のすみで
 口をあけて生きていた。

 「夜がアケタラ
 ドレモコレモ
 ミンナクッテヤル」

 鬼ババの笑いを
 私は笑った。
 それから先は
 うっすらと口をあけて
 寝るよりほかに私の夜はなかった。

 作者の石垣りんさんは東京生まれだが、ご両親は南伊豆の人だ。だから伊豆をうたったすばらしい詩がたくさんある。昔、静岡県の高等学校の国語の先生方が研究会でどなたかに講演をしていただこうということになった。僕はそういう係だったので、石垣りんさんに来ていただけたらと考えて交渉の電話をすることにした。僕は以前、国語の参考書を書いた時に石垣りんさんの詩の一つを取り上げさせてもらったことがある。しかし、お会いしたことや直接電話をさせてもらったことは一度もない。だから電話をした時はドキドキした。「リリリーン、リリリーン」と電話が鳴る。お留守かなと思った時「はい、石垣りんでございます」という美しい声がひびき渡った。ドギマギしながら僕は言った。「あのう、初めてお電話をさせていただきますが、私、静岡高校の鈴木邦彦と申しますが……」とまで言い終わらないうちに、石垣さんの声がまた響き渡る。「あっ、鈴木先生。静岡高校の鈴木先生ですね。前に参考書で私の詩のことをよく書いてくださった鈴木先生ね」。僕はびっくりしてしまった。前にも言ったように僕は石垣りんさんにお会いしたこともなければお電話をしたこともない。それを覚えていてくださり、しかも最初の一声でそのことを思い出してくださるなんて。こういう細やかでやさしい心づかいがあるからこそ、僕らがぼんやり見逃している毎日のなかからドキッとする世界を見つけ出し僕らをハッとさせてくださることができるのだ、と思ったのだった。その時の石垣さんのご講演は、気どらず威張ったところなどみじんもないしみじみと心に伝わってくるお話しだった。ご講演の終わったあと、新聞社の友人と三人で静岡の丸子にある「待月楼」という料亭で、おいしいごちそうと越乃寒梅というおいしいお酒をいただいたが、あの時の静かで豊かな時間は今も忘れられない。
 さて、道草を食ってしまった。「シジミ」を読んでみよう。「夜中に目をさました。」そして台所を通ったのだからこの人は多分トイレに起きたのだ。トイレに行く道すがらでさえ詩人は発見してしまう。いったい何を発見したのか。そう、「シジミ」たちが「生きていた」ことを見つけてしまったのだ。僕らは「シジミ」をおみおつけの実として以外考えたこともない。「シジミ」といえばおみお 57つけ、と考えるのが当たりマエダのクラッカーと思ってしまっている。お母さんが朝おみおつけの 58熱湯の中に「シジミ」をドドッと入れるのを見ても、うちのお母さんは殺人者だなんて思ってもみない。しかし、「シジミ」の学校があったとして、「君たちは、大きくなったら何になりたいですか」と先生に聞かれた「シジミ」がいっせいに手をあげて「僕はおいしいおみおつけの実になりたいです」などと答えたりするのだろうか。「シジミ」には「シジミ」のかけがえのない人生というものがある。「シジミ」は水でっぽうのように口をとがらせて、人間どもが寝入っている夜中も「生きてい」る「シジミたち」だったのだ。
 そのことに気づいてしまった詩人は、もうきのうまでのように「シジミ」のおみおつけを平気では食べられない。私は生きものを食って生きる「鬼ババ」だった。「夜がアケタラ/ドレモコレモ/ミンナクッテヤル」とおどけてみなければとても「シジミ」のおみおつけなんか食べられない。生きものを傷つけずには生きていけない生きていくことの悲しみ。生きるものが背負っている罪の深さ。詩人はうちひしがれてしまう。
 それから先、うっすら「口をあけて」寝るよりほかはないのだが、待てよ、「口をあけて」……。そうだ、私は「シジミ」を食べずには生きられないひどい「加害者」だが、考えてみれば、私も「シジミ」と同じように「口をあけて」寝るしかない「シジミ」と同じ「被害者」なのだ。「シジミ」となんら変わることのない、かよわい存在。現代社会という「鬼ババ」どころでなく恐ろしく巨大な組織の中で、人間性をむしばまれながら生きている。
 詩を読む楽しさは、日常の多忙の中で気づかずに見逃しているほんとうのことを、ふとかいま見せてくれるところにあるのだ。
 

   「お父さんこわいよう、僕、海にひっぱられている」━━ドキドキするような表現の発見

      詩を書くことはほんとうのことを発見することだ、と言ったが、「発見」と言ってもそう大げさなことばかりではない。「今まで誰も言ったことのないドキドキするような言い方」を考え出すこともまた、「発見」なのだ。
 僕はきのうのお昼ごろ、車のラジオでドキドキするような放送を聴いてしまった。NHKで放送していた魚釣りの話に対する聴いていた人の感想らしかった。放送を聴いてその気になって、小さい男の子二人を連れて釣りに行ったのだという。二人の男の子のうち弟は釣りがはじめてだった。しばらくすると弟の方が釣り竿を引っ張りながら叫んだ。「お父さんこわいよう、僕、海に引っ張られている」。お父さんはあわてて言った。「かかってるんだよ! 魚がかかってるん」。二〇センチくらいのキスだったそうだ。
 「僕、海に引っぱられてる」━━これこそが詩だ。「かかっている」というようなカビの生えているような言い方ではない。ピッカピカに光っているのだ。こういう表現を見つけ出すことが、詩を書くことの大発見だ。》

 
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