2003年8月26日 「椅子取りゲーム」とは別のタイトルで書かれたもう一つの記事です。
「国民の祝日」
私にとって4月9日は、不安と恐怖と涙で歪んだたくさんの顔でできた汚点。バグダッド中で砲撃、爆発、衝突、戦闘機、恐ろしいアパッチ、街路や高速道路を移動するまがまがしい戦車の音が聞こえた。サダム・フセイン支持であろうと反サダムであろうと、バグダッドにあってはもうそんなことはどうでもよくなってしまった。バグダッドは燃えていた。バグダッドは爆発していた。そして、バクダッドは陥落しつつあった。4月9日は、アメリカ占領記念日だ。ブッシュが祝うのは分かる。でも、独立を大切に思っている人々が祝うわけがない。
4月9日の朝6時頃、大きな爆発音で目が覚めた。うつらうつらと眠って2時間しか経っていなかった。目が開く前から体はもう緊張して起き上がっていた。部屋は暑かった。私は前の晩にはいていたジーンズのままでベッドの上にいた。歯ががちがち鳴り、掛け布団を握りしめ、なんとか正気を保とうとした。
私たちはここいく晩か、ポケットに証明書類とお金を詰め込んで、服を着たまま寝ていた。家が壊されると思っていたからだ。その時には、ただちに家を出なければならない。
夏のこおろぎのように耳馴れた騒音(ヘリコプター、戦闘機の絶え間ないうなり音、爆発と砲撃の音)に耳をすませた。
その朝、私たちは重苦しく押し黙り、お互いを見つめ合って過ごした。唯一の人間の声はラジオだった。雑音が入ったり、消え入りそうになったりしながら聞こえていた。ラジオの声は、すでに私たちが知っていること、永袁とも感じられるほど長い間恐れ続けてきたことを伝えていた。米軍の戦車がバグダッドに入ると。抵抗はあった。でも、戦車はバグダッドを制圧した。
そして、それが「国民の祝日」の始まりだった........。
4月9日は、せっぱつまった隣人の日。人相が変わるほど不安に歪んだ顔でドアを叩き、「逃げる?避難する?すぐ近くまであいつらが来てる..........」
4月9日は、ショックに打たれ、恐怖に駆られた親族たちの日。瞳を大きく開き、唇を震わせて、ダッフルバッグ、妻、恐がる子どもたちを引きずり、安全な場所を探してやってきた。みんな慰めが必要だったが、それを与えることのできる者は1人もいなかった。
4月9日は、荷作りをしていっぱい着込んで、じっと家にいた日。戦車の音やミサイルの音が聞こえないかと耳をすませ、聞こえると家を飛び出して街路に出ようと身構えて。バグダッドを横断して移動すべきか家に留まるべきか、危険性をあれこれ量りながら間違いなくやってくるものを待ち続けていた。
4月9日は、母と”そのこと”を話し合わなければならなかった日。その日、母は私を前に坐らせると、”指示”を与えはじめた。万が一の時のために。
「万が一って?」
「もしも私たちに何かあった時.......」
「どんな?たとえば離れ離れになるとか?」
「そう。その通りよ。離れ離れになった時、ほら.......お金はどこにあるか、書類はどこにあるか、知っておかなきゃ..........」
もちろん、そんなこと知っている。だけどお母さん、あなたやお父さんや弟に何か起こったとしたら、そんなこと、もうどうでもいいこと。
4月9日は、町で迷った犬が怯えて吠え、空には鳥の群れがやたら飛んでいた日。恐ろしい音と煙を逃れようとして。
4月9日は、黒焦げに焼かれた車に、黒焦げの死体の日。
4月9日は、灰色がかった黄色の日。私の記憶の中では赤く燃えている。これまでで一番恐ろしかった日々は、と考えると、すぐ思い出されてくる日。
これが私にとっての「国民の祝日」。ほとんどの人の話は同じ。これが何百万人にとっての「国民の祝日」だったのだ。
来年の4月9日には、ブレマーと統治評議会は、ホワイトハウスでブッシュと一緒にバグダッド陥落を祝うがいい。なぜなら、その時ここバグダッドでは、絶対に祝ってはいないから。
「国民の祝日」
私にとって4月9日は、不安と恐怖と涙で歪んだたくさんの顔でできた汚点。バグダッド中で砲撃、爆発、衝突、戦闘機、恐ろしいアパッチ、街路や高速道路を移動するまがまがしい戦車の音が聞こえた。サダム・フセイン支持であろうと反サダムであろうと、バグダッドにあってはもうそんなことはどうでもよくなってしまった。バグダッドは燃えていた。バグダッドは爆発していた。そして、バクダッドは陥落しつつあった。4月9日は、アメリカ占領記念日だ。ブッシュが祝うのは分かる。でも、独立を大切に思っている人々が祝うわけがない。
4月9日の朝6時頃、大きな爆発音で目が覚めた。うつらうつらと眠って2時間しか経っていなかった。目が開く前から体はもう緊張して起き上がっていた。部屋は暑かった。私は前の晩にはいていたジーンズのままでベッドの上にいた。歯ががちがち鳴り、掛け布団を握りしめ、なんとか正気を保とうとした。
私たちはここいく晩か、ポケットに証明書類とお金を詰め込んで、服を着たまま寝ていた。家が壊されると思っていたからだ。その時には、ただちに家を出なければならない。
夏のこおろぎのように耳馴れた騒音(ヘリコプター、戦闘機の絶え間ないうなり音、爆発と砲撃の音)に耳をすませた。
その朝、私たちは重苦しく押し黙り、お互いを見つめ合って過ごした。唯一の人間の声はラジオだった。雑音が入ったり、消え入りそうになったりしながら聞こえていた。ラジオの声は、すでに私たちが知っていること、永袁とも感じられるほど長い間恐れ続けてきたことを伝えていた。米軍の戦車がバグダッドに入ると。抵抗はあった。でも、戦車はバグダッドを制圧した。
そして、それが「国民の祝日」の始まりだった........。
4月9日は、せっぱつまった隣人の日。人相が変わるほど不安に歪んだ顔でドアを叩き、「逃げる?避難する?すぐ近くまであいつらが来てる..........」
4月9日は、ショックに打たれ、恐怖に駆られた親族たちの日。瞳を大きく開き、唇を震わせて、ダッフルバッグ、妻、恐がる子どもたちを引きずり、安全な場所を探してやってきた。みんな慰めが必要だったが、それを与えることのできる者は1人もいなかった。
4月9日は、荷作りをしていっぱい着込んで、じっと家にいた日。戦車の音やミサイルの音が聞こえないかと耳をすませ、聞こえると家を飛び出して街路に出ようと身構えて。バグダッドを横断して移動すべきか家に留まるべきか、危険性をあれこれ量りながら間違いなくやってくるものを待ち続けていた。
4月9日は、母と”そのこと”を話し合わなければならなかった日。その日、母は私を前に坐らせると、”指示”を与えはじめた。万が一の時のために。
「万が一って?」
「もしも私たちに何かあった時.......」
「どんな?たとえば離れ離れになるとか?」
「そう。その通りよ。離れ離れになった時、ほら.......お金はどこにあるか、書類はどこにあるか、知っておかなきゃ..........」
もちろん、そんなこと知っている。だけどお母さん、あなたやお父さんや弟に何か起こったとしたら、そんなこと、もうどうでもいいこと。
4月9日は、町で迷った犬が怯えて吠え、空には鳥の群れがやたら飛んでいた日。恐ろしい音と煙を逃れようとして。
4月9日は、黒焦げに焼かれた車に、黒焦げの死体の日。
4月9日は、灰色がかった黄色の日。私の記憶の中では赤く燃えている。これまでで一番恐ろしかった日々は、と考えると、すぐ思い出されてくる日。
これが私にとっての「国民の祝日」。ほとんどの人の話は同じ。これが何百万人にとっての「国民の祝日」だったのだ。
来年の4月9日には、ブレマーと統治評議会は、ホワイトハウスでブッシュと一緒にバグダッド陥落を祝うがいい。なぜなら、その時ここバグダッドでは、絶対に祝ってはいないから。