第1章 登場
1.親英王政としての誕生
イラクという国は、1921年、英国により、第一次世界大戦の戦後処理としてオスマン帝国を解体しバクダード、バスラ、モースルの3つの行政州を統合して作った国である。
行政州とは名ばかりで、帝国の威令が及んでいたのはごく一部の都市で、地方は有力部族が跋扈する、諸侯乱立状態であった。
イスラーム教徒が住民の大半であったが、北部はスンナ派イスラーム教徒社会がユーフラテス河沿いにシリアに抜ける交易圏にあり、南部のナジャフ、カルバラーはシーア派イスラム教徒の聖地であり、イランやインドのシーア派が巡礼、留学に行き来し、一定の経済圏を作り上げていた。(私注:西はシリア、ヨルダン、南西にサウジアラビアと次々に接し、南部はクエイート、ペルシャ湾までいく。北はトルコ、北東にイランに接している)。また北部山岳地帯(私注:トルコ国境)には、クルド民族がいくつかの有力封建領主を中心にし、自立的な社会を維持していた。
さらにバクダードから南はオスマン帝国とペルシャの長年の抗争の最前線にあり、社会は疲労し荒れ果て、停滞していた。そこがイラクという一つの国として成立したのは、第一次世界大戦でイギリスが湾岸から進軍し、次々に陥落させていった地域をまとめた結果にすぎない。
イラクは歴史的には”バグダードから南を「メソポタミア(アラビア語ではラーフィーンダン」すなわち「二つの河(の間の土地)」と呼び、以北を「ジャズィーラ」、すなわち二つの河の中洲に見たてて「島」と呼ぶのが一般的であった。”
イギリス支配の下で
イギリスの委任統治は、1921年から32年まで続き、その後は王国として正式に独立するが、常にイギリスの間接支配下におかれた。王政期の急速な近代化、経済開発の不均衡は、さまざまな不満を生み出した。
これらの不満分子は、イラクに流入してきた西欧思想に感化され、30年代後半以降、共産主義、民族主義という外来思想が青年たちを魅了した。イスラーム社会では、共産主義は無神論につながるとされ忌避され、他の途上国に比して伸張があまりみられないが、例外的にイラクでは、1934年に設立された共産党がめざましく勢力を拡大した。シーア派の聖地ナジャフとカルバラーにおいても入党者があとを断たなかった。のちにナジャフを中心としたウラマー界での、イスラーム復興を促す契機となる。
共産主義と並行して、アラブ民族主義もまた一つの主流となっていく。
アラブ民族主義とは、概括して言えば、西はモロッコから東はイラクまで広範な地域に居住するアラブ民族が、第二次世界大戦後、英仏によって分断され別々の国家になったことを批判する、アラブ民族の統一・連帯と真の独立を目指す思想である。50年代以降、エジプトのナセル大統領の活躍によって一世を風靡するが、英仏の植民地政策によって「祖国」が分断されたという問題意識は、第一次大戦直後からすでにいずれのアラブ諸国によっても抱えられていた。
特に30年代、ユダヤ人のパレスチナへの移住の急増によって、パレスナ人との衝突が頻繁になるにつれ、パレスチナ問題をめぐるアラブ間の協力と連帯への希求がアラブ各国で高まった。
軍人に人気があり、30年代のイラクでは、反植民地運動=反英運動の延長から、当時の国際的枠組みのなかで親独・親ナチス的形態をとり、41年成立のラシード・アリ・アル=ガイラーニー政権は、その典型である。イギリスは軍事によってガイラーニー政権を打倒。再度親英政権をイラクに立てたが、このときの「民族主義+軍+反英」という組み合わせは、欧米諸国にとってトラウマとなったようだ。以降イラクに成立する軍事政権、あるいはアラブ民族主義は、すべて「ナチス」視されて欧米諸国に忌避されることとなる。
共和制革命
ナセルのエジプト共和制革命(1952年)に影響を受け、”イラクの「自由将校団」が、1958年にクーデターをおこし王政を打倒、共和制政権を樹立したときも、西側諸国は同様の拒絶反応を示した。ナセルを「中東のヒットラー」と呼んだ英仏である。”同58年に”レバノンの親米政権が、アラブ民族主義の台頭に直面して内戦の危機に陥っていた。”そういう状況下で、イラクの「革命」は、西側諸国には大きな打撃だった。
”1958年の共和制「革命」は、イラク王制の政権の親英依存体質、国内の社会経済的矛盾など、さまざまな問題を背景にして軍の青年将校が立ち上がったものであった。長年の矛盾と抑圧から解放されたイラク国民のエネルギーは、当時独裁の悪名高かった首相、ヌーリー・アッ=サイードに向けられた。” 革命軍は国王一家を処刑、そしてこの長期政権を誇った親英宰相も市民らによって殺されたという。
凄絶な私刑の噂をもって、エジプト人は、「エジプトでは革命の時でも手をふって国王を国外に見送った。国民がこぞって首相の死体を墓場から暴き、八つ裂きにしたイラク人の性格の激しさとは、ちがう」と。イラク人の国民性を他のアラブ人は「血が重い」という。訳せば「ネグラ」だろうか。楽天的なエジプト人とちがい、悲観的、ものごとを深刻に考えすぎる、圧制に立ち上がっても成功しないだろうと考えるから耐えるしかない、一方、長年耐えたものが爆発すれば、そのエネルギーたるや想像を絶する。――こうしたイラク人観の根拠は、この共和制革命だろう。青年将校は、クーデターを起こしたにすぎないが、この「怒れる国民」の参加によって、「革命」へと転じた。
ところで、クーデターの中心となった軍人は、思想的背景を持たない者から、アラブ民族主義、とくにナセル・エジプト大統領の信奉者まで、さまざまであった。そのため対立が露呈し、そのことが68年までの頻繁な軍事クーデターをもたらす。
58年の革命政権でカースィム准将が主導権を握る。が、彼とともに主力部隊を率いたアリフはナセル・シンパのアラブ民族主義だったため、当時進められていたエジプトとシリアの国家統合計画にイラクも加わるよう、積極的に推進した。だが、カースィムはこれに反対し、カーリフのアラブ民族主義グループに対抗するため、共産党に接近し、アーリフを駆逐した。「怒れる国民」を組織的に指揮でき、都市部貧困層や労働者に支持基盤をおき影響力を保持していた唯一の政党であるイラク共産党は、政権基盤をもたないカースィムにとって頼れる存在だった。この両者の権力抗争が、その後現在にまでいたるまで続くアラブ民族主義勢力と共産党の確執の端緒となる。
バアス党、政権へ
アラブ民族主義をバージして独裁体制をしいたカースィム首相であったが、クルド民族の反乱やクウェイト領有宣言に対する国際社会の反発などに手を焼き、追放したアーリフの手により63年に殺害される。
続いて政権をとったアーリフは、アラブ民族主義を掲げエジプト型の国有化政策を進めるなどするが、アラブ民族主義といっても統一的な組織があったわけではない。軍を中心としたアラブ民族主義勢力には、エジプトのナセル主義信奉者やパレスチナの左派グループと密接な関係をもつ政党のアラブ民族主義運動(ANM)などがあったが、政治組織として最大の規模を誇っていたのは、バアス党であった。
バアス党は、1940年代にシリアで成立し、その後50年代にイラクやヨルダンなど他のアラブ諸国に勢力をのばしていった。彼らは他のアラブ民族主義と同様、社会主義を標榜する。が、マルクス・レーニン主義などの科学的社会主義と異なり、私有財産を認め、唯物主義を否定するものであった。しかもイスラーム的価値観をアラブの民族文化の重要な要素として考え、宗教を否定し世俗性を強く押し出す共産党とは、同じ左派勢力といってもスタンスは大きく異なっていたのである。
そのバアス党は、63年のアーリフ政権設立に貢献して政権の中核にのしあがったが、このとき党内で激しい内紛が発生した。このイラク・バアス党の混乱にシリアのバアス党本部が関与するに至り、アーリフはバアス党を放逐し、バアス党は地下にもぐることになる。
バアス党は内紛を反省し党内統制の強化をおこなう。混乱の種となった左派民兵集団を追放し、中道派軍人が党の主導権を握る。その中心となったのが、退役将校のアフマド・ハサン・アル=バクルであった。非党員のナーイフとダーウドという軍人をまきこみ、再度政権をねらい、1968年7月、バアス党はこうして、ようやく権力を握り、初代大統領にはバクルが就任した。
2 反米強硬派としてのスタート――バアス党政権初期
反西側姿勢の軍事政権
ところで、1958年以降の軍事政権の共通した特徴は、いずれも反西欧、反帝国主義、親ソというスタンスをとったことにある。それはある意味で、王制期に西側の反ソ戦略の駒として使われたということや対英依存に対する反動であろう。
革命前のイラクは、バグダード機構の核として、西側諸国から反ソ防衛の要と位置づけられていた。32年の独立後もイギリスとの同盟条約によって縛られていたことに対する不満に加えて、反ソ・ブロックの一端を担わされたことは、国民の間ですこぶる評判の良くないことであった。エジプトの52年の共和制革命が発生して以降は、その熱狂にイラク国民も激しく共鳴したにもかかわらず、西側諸国と親英政権が国民に求めたことは、欧米のナセル封じ込めに付き合うことであった。
こうした一連のことへの反発として成立した政権であったからこそ、当然西側諸国との関係は悪化した。その結果軍事的な強力を仰ぐ相手はソ連しかいない、ということになった。
いずれの政権も石油以外の主要産業を国有化し、農地改革を進め、社会主義型の計画経済を取り入れるとともに、対外政策においても強烈な反イスラエル政策を打ち出す。ここに反米・反イスラエル最強硬派としてのイラク、という認識が欧米諸国に定着したのである。成立まもないバアス党のバクル政権もまた、同様であった。
だがこのように西側諸国と断絶することは、財政的支援はむろんのこと、石油開発などの技術的援助が断たれることでもあった。党内、政権内での派閥抗争が続いていた70年代前半は、対外的な安定と政権の維持を確保することが絶対であったから、バクル政権は党外の政治勢力に対し驚くほど寛大であった。
国内ではクルド勢力と共産党に対する妥協が、また対外的にはソ連との友好条約締結(1972年)とイランに対する国境面での妥協(1975年)がそれである。
ソ連との条約締結へ
バアス党は、特に石油産業を牛耳っていた英仏との関係が悪化したことで、ソ連に依存するしかなかった。が、そこでの障害はイラク共産党との関係であった。
前述したように、カースィム政権を支えた共産党と、アーリフを支持しカースィム政権の打倒に手を貸したバアス党は、激しいライバル関係にあった。
また、共産党は民衆の階級意識に、バアス党は民族意識に訴えるという違いはあったが、どちらも左派政党として、最もフラストレーションの強い「中の下」から下層クラスの民衆を、支持基盤にしようと奪い合ってきた。
だが、カースィム期の共産党が中国の共産党幹部に、「中国では共産党は政権を掌握したが大衆は掌握しきれていない。イラクの共産党は、政権を掌握できていないのに大衆を掌握している」と言われるほど、国民に浸透したものであったのに対し、50~60年代のバアス党は若すぎ、指導部は混乱していた。
こういった対立関係にあった共産党とバアス党だが、バアス党はソ連の歓心を買うために、共産党と手を組む決意をする。国民愛国進歩戦線という名の挙国一致体制を作り、そこに野党を加えて、一部の共産党員を閣僚に登用した。が、共産党の合法化は、共産党の活動領域として大きな意味をもっていた南部の貧困農民のバアス党の開発計画の不均衡に不満のはけ口をなくし、彼らは、この時期勢力拡大しつつあったイスラーム政党に支持を向けることになる。
が、バクルは共産党の合法化とひきかえのように、72年ソ連との条約締結にこぎつけた。ソ連はイラク軍への武器調達に始まり、軍事技術開発や訓練などに協力するようになった。
クルド反乱の鎮圧
ところで、バアス党が政敵として手を焼いていたのは、共産党とならび、クルド民族主義勢力の中心であったクルディスタン民主党(KDP)とリーダーのムスタファ・バルザーニであった。
クルド語を母語とするクルド民族は、その居住地イラク、イラン、トルコなどで独立と自治を求めて早くから反乱を起こしていた。
第一次世界大戦中、アラブ民族と同じように列強の中東進出に利用され、その結果1920年のセーブル条約では、オスマン帝国から一時的にも「民族独立」が認められていた。
バルザーニは、1946年、第二次世界大戦直後の混乱中に、イラン北部に成立した初めてのクルド独立国家、マハーバード共和国の建国を支えたことで一躍有名になっていた。が、共和国が1年足らずで崩壊したため、彼は故郷イラクの北部クルド地域にもどり、KDPの党首になっていた。マハーバード共和国の軍事力を支えた勇猛果敢な闘いぶりは、彼のような封建的リーダーシップを嫌っていたはずの近代的知識人で成立していたKDP幹部をして党首として迎え入れさせるほどだった。
クルド反乱に悩まされ転覆させられたカースィム政権の二の舞をふむまいと、バアス党は、1970年に「三月宣言」という宥和策を提示し、クルドに対し一定の自治を認め、クルドの民族的存在を確認して、イラクを「アラブとクルドの二民族」で成立するものとし、クルド語を公用語とし、クルド人を副大統領に起用することに決めた。
しかし、クルド地域が期待していたよりかなり小さく、しかも有数の産油地帯キルクークが自治内に含まれないことから、クルド側から反発を呼んだ。さらに交渉を4年間続けることになっていたが、バルザーニへの暗殺未遂事件が発覚するなどして相互不信が高まっていた。結局バアス党は交渉がまとまらないうちに一方的に1974年、クルド自治法を公布し、自治区を設定した。当然クルド勢力は反発し、一斉にバアス党政権に対し軍事行動に出た。が、ここでクルド勢力はひとつ大きな読み違いをする。
クルド勢力が反政府暴動を起こす上で最大の頼みとしていたのがイランのシャー政権の援助であった。もともとイランとイラクは、両国間にあるシャット・ル=アラブ河の国境線の位置を巡り、近世抗争をくりかえしていた。この時期もイランのシャーはイラクのバアス党政権に対し、クルド勢力を通じた内政干渉を図っていた。
イランの介入を危険視したバアス党は、思い切った妥協策を出した。つまり河の国境線をイランの主張どおり、河の中央線に定めた。75年、「アルジェ協定」である。この取引で、シャーは、クルドに対し武器援助を停止し、クルド勢力は総崩れとなる。主力のKDPは瓦解状態になり、バルザニーは亡命後、失意のうちに死亡する。
ところで、このソ連との友好協約締結に向けた外交とシャーへの劇的な譲歩を実行したのが、サダム・フセインである。滅多に海外に出ず、国内の権謀術にこそ手腕を発揮する人物と思われがちなフセインだが、最初に国際社会に名前を知られたのは、こうした華々しいデビュー、特にその政策の現実性だったのだ。
このときサダムは弱冠37歳、バアス党政権が成立してから急速に名前が内外に広まった。ここへきて、サダムは「若き文民政治家」としてナンバー2の地位を得る。
1.親英王政としての誕生
イラクという国は、1921年、英国により、第一次世界大戦の戦後処理としてオスマン帝国を解体しバクダード、バスラ、モースルの3つの行政州を統合して作った国である。
行政州とは名ばかりで、帝国の威令が及んでいたのはごく一部の都市で、地方は有力部族が跋扈する、諸侯乱立状態であった。
イスラーム教徒が住民の大半であったが、北部はスンナ派イスラーム教徒社会がユーフラテス河沿いにシリアに抜ける交易圏にあり、南部のナジャフ、カルバラーはシーア派イスラム教徒の聖地であり、イランやインドのシーア派が巡礼、留学に行き来し、一定の経済圏を作り上げていた。(私注:西はシリア、ヨルダン、南西にサウジアラビアと次々に接し、南部はクエイート、ペルシャ湾までいく。北はトルコ、北東にイランに接している)。また北部山岳地帯(私注:トルコ国境)には、クルド民族がいくつかの有力封建領主を中心にし、自立的な社会を維持していた。
さらにバクダードから南はオスマン帝国とペルシャの長年の抗争の最前線にあり、社会は疲労し荒れ果て、停滞していた。そこがイラクという一つの国として成立したのは、第一次世界大戦でイギリスが湾岸から進軍し、次々に陥落させていった地域をまとめた結果にすぎない。
イラクは歴史的には”バグダードから南を「メソポタミア(アラビア語ではラーフィーンダン」すなわち「二つの河(の間の土地)」と呼び、以北を「ジャズィーラ」、すなわち二つの河の中洲に見たてて「島」と呼ぶのが一般的であった。”
イギリス支配の下で
イギリスの委任統治は、1921年から32年まで続き、その後は王国として正式に独立するが、常にイギリスの間接支配下におかれた。王政期の急速な近代化、経済開発の不均衡は、さまざまな不満を生み出した。
これらの不満分子は、イラクに流入してきた西欧思想に感化され、30年代後半以降、共産主義、民族主義という外来思想が青年たちを魅了した。イスラーム社会では、共産主義は無神論につながるとされ忌避され、他の途上国に比して伸張があまりみられないが、例外的にイラクでは、1934年に設立された共産党がめざましく勢力を拡大した。シーア派の聖地ナジャフとカルバラーにおいても入党者があとを断たなかった。のちにナジャフを中心としたウラマー界での、イスラーム復興を促す契機となる。
共産主義と並行して、アラブ民族主義もまた一つの主流となっていく。
アラブ民族主義とは、概括して言えば、西はモロッコから東はイラクまで広範な地域に居住するアラブ民族が、第二次世界大戦後、英仏によって分断され別々の国家になったことを批判する、アラブ民族の統一・連帯と真の独立を目指す思想である。50年代以降、エジプトのナセル大統領の活躍によって一世を風靡するが、英仏の植民地政策によって「祖国」が分断されたという問題意識は、第一次大戦直後からすでにいずれのアラブ諸国によっても抱えられていた。
特に30年代、ユダヤ人のパレスチナへの移住の急増によって、パレスナ人との衝突が頻繁になるにつれ、パレスチナ問題をめぐるアラブ間の協力と連帯への希求がアラブ各国で高まった。
軍人に人気があり、30年代のイラクでは、反植民地運動=反英運動の延長から、当時の国際的枠組みのなかで親独・親ナチス的形態をとり、41年成立のラシード・アリ・アル=ガイラーニー政権は、その典型である。イギリスは軍事によってガイラーニー政権を打倒。再度親英政権をイラクに立てたが、このときの「民族主義+軍+反英」という組み合わせは、欧米諸国にとってトラウマとなったようだ。以降イラクに成立する軍事政権、あるいはアラブ民族主義は、すべて「ナチス」視されて欧米諸国に忌避されることとなる。
共和制革命
ナセルのエジプト共和制革命(1952年)に影響を受け、”イラクの「自由将校団」が、1958年にクーデターをおこし王政を打倒、共和制政権を樹立したときも、西側諸国は同様の拒絶反応を示した。ナセルを「中東のヒットラー」と呼んだ英仏である。”同58年に”レバノンの親米政権が、アラブ民族主義の台頭に直面して内戦の危機に陥っていた。”そういう状況下で、イラクの「革命」は、西側諸国には大きな打撃だった。
”1958年の共和制「革命」は、イラク王制の政権の親英依存体質、国内の社会経済的矛盾など、さまざまな問題を背景にして軍の青年将校が立ち上がったものであった。長年の矛盾と抑圧から解放されたイラク国民のエネルギーは、当時独裁の悪名高かった首相、ヌーリー・アッ=サイードに向けられた。” 革命軍は国王一家を処刑、そしてこの長期政権を誇った親英宰相も市民らによって殺されたという。
凄絶な私刑の噂をもって、エジプト人は、「エジプトでは革命の時でも手をふって国王を国外に見送った。国民がこぞって首相の死体を墓場から暴き、八つ裂きにしたイラク人の性格の激しさとは、ちがう」と。イラク人の国民性を他のアラブ人は「血が重い」という。訳せば「ネグラ」だろうか。楽天的なエジプト人とちがい、悲観的、ものごとを深刻に考えすぎる、圧制に立ち上がっても成功しないだろうと考えるから耐えるしかない、一方、長年耐えたものが爆発すれば、そのエネルギーたるや想像を絶する。――こうしたイラク人観の根拠は、この共和制革命だろう。青年将校は、クーデターを起こしたにすぎないが、この「怒れる国民」の参加によって、「革命」へと転じた。
ところで、クーデターの中心となった軍人は、思想的背景を持たない者から、アラブ民族主義、とくにナセル・エジプト大統領の信奉者まで、さまざまであった。そのため対立が露呈し、そのことが68年までの頻繁な軍事クーデターをもたらす。
58年の革命政権でカースィム准将が主導権を握る。が、彼とともに主力部隊を率いたアリフはナセル・シンパのアラブ民族主義だったため、当時進められていたエジプトとシリアの国家統合計画にイラクも加わるよう、積極的に推進した。だが、カースィムはこれに反対し、カーリフのアラブ民族主義グループに対抗するため、共産党に接近し、アーリフを駆逐した。「怒れる国民」を組織的に指揮でき、都市部貧困層や労働者に支持基盤をおき影響力を保持していた唯一の政党であるイラク共産党は、政権基盤をもたないカースィムにとって頼れる存在だった。この両者の権力抗争が、その後現在にまでいたるまで続くアラブ民族主義勢力と共産党の確執の端緒となる。
バアス党、政権へ
アラブ民族主義をバージして独裁体制をしいたカースィム首相であったが、クルド民族の反乱やクウェイト領有宣言に対する国際社会の反発などに手を焼き、追放したアーリフの手により63年に殺害される。
続いて政権をとったアーリフは、アラブ民族主義を掲げエジプト型の国有化政策を進めるなどするが、アラブ民族主義といっても統一的な組織があったわけではない。軍を中心としたアラブ民族主義勢力には、エジプトのナセル主義信奉者やパレスチナの左派グループと密接な関係をもつ政党のアラブ民族主義運動(ANM)などがあったが、政治組織として最大の規模を誇っていたのは、バアス党であった。
バアス党は、1940年代にシリアで成立し、その後50年代にイラクやヨルダンなど他のアラブ諸国に勢力をのばしていった。彼らは他のアラブ民族主義と同様、社会主義を標榜する。が、マルクス・レーニン主義などの科学的社会主義と異なり、私有財産を認め、唯物主義を否定するものであった。しかもイスラーム的価値観をアラブの民族文化の重要な要素として考え、宗教を否定し世俗性を強く押し出す共産党とは、同じ左派勢力といってもスタンスは大きく異なっていたのである。
そのバアス党は、63年のアーリフ政権設立に貢献して政権の中核にのしあがったが、このとき党内で激しい内紛が発生した。このイラク・バアス党の混乱にシリアのバアス党本部が関与するに至り、アーリフはバアス党を放逐し、バアス党は地下にもぐることになる。
バアス党は内紛を反省し党内統制の強化をおこなう。混乱の種となった左派民兵集団を追放し、中道派軍人が党の主導権を握る。その中心となったのが、退役将校のアフマド・ハサン・アル=バクルであった。非党員のナーイフとダーウドという軍人をまきこみ、再度政権をねらい、1968年7月、バアス党はこうして、ようやく権力を握り、初代大統領にはバクルが就任した。
2 反米強硬派としてのスタート――バアス党政権初期
反西側姿勢の軍事政権
ところで、1958年以降の軍事政権の共通した特徴は、いずれも反西欧、反帝国主義、親ソというスタンスをとったことにある。それはある意味で、王制期に西側の反ソ戦略の駒として使われたということや対英依存に対する反動であろう。
革命前のイラクは、バグダード機構の核として、西側諸国から反ソ防衛の要と位置づけられていた。32年の独立後もイギリスとの同盟条約によって縛られていたことに対する不満に加えて、反ソ・ブロックの一端を担わされたことは、国民の間ですこぶる評判の良くないことであった。エジプトの52年の共和制革命が発生して以降は、その熱狂にイラク国民も激しく共鳴したにもかかわらず、西側諸国と親英政権が国民に求めたことは、欧米のナセル封じ込めに付き合うことであった。
こうした一連のことへの反発として成立した政権であったからこそ、当然西側諸国との関係は悪化した。その結果軍事的な強力を仰ぐ相手はソ連しかいない、ということになった。
いずれの政権も石油以外の主要産業を国有化し、農地改革を進め、社会主義型の計画経済を取り入れるとともに、対外政策においても強烈な反イスラエル政策を打ち出す。ここに反米・反イスラエル最強硬派としてのイラク、という認識が欧米諸国に定着したのである。成立まもないバアス党のバクル政権もまた、同様であった。
だがこのように西側諸国と断絶することは、財政的支援はむろんのこと、石油開発などの技術的援助が断たれることでもあった。党内、政権内での派閥抗争が続いていた70年代前半は、対外的な安定と政権の維持を確保することが絶対であったから、バクル政権は党外の政治勢力に対し驚くほど寛大であった。
国内ではクルド勢力と共産党に対する妥協が、また対外的にはソ連との友好条約締結(1972年)とイランに対する国境面での妥協(1975年)がそれである。
ソ連との条約締結へ
バアス党は、特に石油産業を牛耳っていた英仏との関係が悪化したことで、ソ連に依存するしかなかった。が、そこでの障害はイラク共産党との関係であった。
前述したように、カースィム政権を支えた共産党と、アーリフを支持しカースィム政権の打倒に手を貸したバアス党は、激しいライバル関係にあった。
また、共産党は民衆の階級意識に、バアス党は民族意識に訴えるという違いはあったが、どちらも左派政党として、最もフラストレーションの強い「中の下」から下層クラスの民衆を、支持基盤にしようと奪い合ってきた。
だが、カースィム期の共産党が中国の共産党幹部に、「中国では共産党は政権を掌握したが大衆は掌握しきれていない。イラクの共産党は、政権を掌握できていないのに大衆を掌握している」と言われるほど、国民に浸透したものであったのに対し、50~60年代のバアス党は若すぎ、指導部は混乱していた。
こういった対立関係にあった共産党とバアス党だが、バアス党はソ連の歓心を買うために、共産党と手を組む決意をする。国民愛国進歩戦線という名の挙国一致体制を作り、そこに野党を加えて、一部の共産党員を閣僚に登用した。が、共産党の合法化は、共産党の活動領域として大きな意味をもっていた南部の貧困農民のバアス党の開発計画の不均衡に不満のはけ口をなくし、彼らは、この時期勢力拡大しつつあったイスラーム政党に支持を向けることになる。
が、バクルは共産党の合法化とひきかえのように、72年ソ連との条約締結にこぎつけた。ソ連はイラク軍への武器調達に始まり、軍事技術開発や訓練などに協力するようになった。
クルド反乱の鎮圧
ところで、バアス党が政敵として手を焼いていたのは、共産党とならび、クルド民族主義勢力の中心であったクルディスタン民主党(KDP)とリーダーのムスタファ・バルザーニであった。
クルド語を母語とするクルド民族は、その居住地イラク、イラン、トルコなどで独立と自治を求めて早くから反乱を起こしていた。
第一次世界大戦中、アラブ民族と同じように列強の中東進出に利用され、その結果1920年のセーブル条約では、オスマン帝国から一時的にも「民族独立」が認められていた。
バルザーニは、1946年、第二次世界大戦直後の混乱中に、イラン北部に成立した初めてのクルド独立国家、マハーバード共和国の建国を支えたことで一躍有名になっていた。が、共和国が1年足らずで崩壊したため、彼は故郷イラクの北部クルド地域にもどり、KDPの党首になっていた。マハーバード共和国の軍事力を支えた勇猛果敢な闘いぶりは、彼のような封建的リーダーシップを嫌っていたはずの近代的知識人で成立していたKDP幹部をして党首として迎え入れさせるほどだった。
クルド反乱に悩まされ転覆させられたカースィム政権の二の舞をふむまいと、バアス党は、1970年に「三月宣言」という宥和策を提示し、クルドに対し一定の自治を認め、クルドの民族的存在を確認して、イラクを「アラブとクルドの二民族」で成立するものとし、クルド語を公用語とし、クルド人を副大統領に起用することに決めた。
しかし、クルド地域が期待していたよりかなり小さく、しかも有数の産油地帯キルクークが自治内に含まれないことから、クルド側から反発を呼んだ。さらに交渉を4年間続けることになっていたが、バルザーニへの暗殺未遂事件が発覚するなどして相互不信が高まっていた。結局バアス党は交渉がまとまらないうちに一方的に1974年、クルド自治法を公布し、自治区を設定した。当然クルド勢力は反発し、一斉にバアス党政権に対し軍事行動に出た。が、ここでクルド勢力はひとつ大きな読み違いをする。
クルド勢力が反政府暴動を起こす上で最大の頼みとしていたのがイランのシャー政権の援助であった。もともとイランとイラクは、両国間にあるシャット・ル=アラブ河の国境線の位置を巡り、近世抗争をくりかえしていた。この時期もイランのシャーはイラクのバアス党政権に対し、クルド勢力を通じた内政干渉を図っていた。
イランの介入を危険視したバアス党は、思い切った妥協策を出した。つまり河の国境線をイランの主張どおり、河の中央線に定めた。75年、「アルジェ協定」である。この取引で、シャーは、クルドに対し武器援助を停止し、クルド勢力は総崩れとなる。主力のKDPは瓦解状態になり、バルザニーは亡命後、失意のうちに死亡する。
ところで、このソ連との友好協約締結に向けた外交とシャーへの劇的な譲歩を実行したのが、サダム・フセインである。滅多に海外に出ず、国内の権謀術にこそ手腕を発揮する人物と思われがちなフセインだが、最初に国際社会に名前を知られたのは、こうした華々しいデビュー、特にその政策の現実性だったのだ。
このときサダムは弱冠37歳、バアス党政権が成立してから急速に名前が内外に広まった。ここへきて、サダムは「若き文民政治家」としてナンバー2の地位を得る。