とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『イラクとアメリカ』酒井啓子氏著をざっと読む  3-1

2008年02月05日 01時22分21秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
第2章 出会い――石油と革命と戦争と――

 ネブカドネザルからサダム・フセインへ
       (1988年、バビロン国際学芸祭でのスローガン)

 1968年のバアス党クーデターの後、10余年間のバクルの治世を経て、79年にサダム・フセインがバアス党政権第二代大統領の座についた。このとき西側諸国が、フセイン新政権に見たものは、「西側諸国への接近」と「対外関係上の〈現実主義〉」だった。
 79年末の米誌『フォーリン・アフェアーズ』では、サダム・フセインは「42歳の法学士」と紹介され、「アメリカは彼と彼の政権を誤解し過小評価している。彼は国内政治に汲々とし外交はソ連にまかっせきり、といった偏執狂ではない」と肯定的に評価されている。
 この「フセイン評価」は、イラン革命によってイランが反米化して以降のことである。1979年2月にイラン革命が発生していなければ、フセイン政権は誕生していなかったかもしれない。1979年という年は、中東、特に湾岸地域の政治構造を大きく変質させ、特にアメリカにとって、イラン革命は中東における政策軸を担う重要なパートナーが失われたことを意味した。
 その時登場したのが、イラクのサダム・フセインだった。
 折りしもイラクは空前の石油収入を得て、未曾有の経済発展を体験していた。国内のインフラを整え、社会の底上げを行い、経済繁栄のなかで、隣国イランを倒すという軍事的野望まで抱いた。「やり手政治家」と、欧米の目には映っていく。この章では石油価格の高騰で、いかにフセインが湾岸産油国や西欧諸国に接近していったかを、イラン・イラク戦争で、いかにフセインがアメリカをまきこんでいったかを見ていこう。

1.湾岸における「冷戦」

    アメリカの湾岸政策
 アメリカとイラクの関係は、実は歴史が浅い。アメリカの駐イラク大使が王制末期に「イラクの王制は安泰だ」と期待に溢れる発言をした直後に58年の共和制革命が起こり、イラクは左派陣営に行ってしまった。
 さらに反イスラエルを強硬に掲げるアラブ民族主義政権、バアス党政権下で、アメリカはイスラエルの庇護者として敵視された。アメリカにとっても左翼民族主義を掲げるイラクは潜在的脅威であり、特に、湾岸産油国の安全保障上の問題として立ち現れてきた。アメリカの対湾岸政策を振り返ってみよう。

 アメリカが、中東地域に大きな影響力を及ぼすのは、第一次大戦以降、主要都市を支配下に入れていたイギリスが、1956年の第二次中東戦争、とりわけ71年にスエズ以東の全地域から撤退して以降のことである。例外的に深く関わってきた国がサウジアラビアであった。サウジアラビアという国は、その名のとおり、サウード家がメッカの仇敵ハーシム家に打ち勝ち1932年に建国した国である。
 ハーシム家の後ろ楯になっていたのは、イギリスであり、イラクにイギリスが支援し、サウジアラビア(サウード家)の勢力拡大を封じ込めようとしたが、結果としてイギリスは「負け馬に乗った」ことになった。
 
 このサウード家の窮地を救ったのが、アメリカの石油企業であった。後に現在のアラムコの前身となるアメリカのSOCAL社は1933年にサウジ東部の石油開発利権を得たが、これが予想外の大規模な油田開発につながり、アメリカの石油企業は一躍、世界最大の石油埋蔵量を持つ国の石油利権を独占するかたちになった。
 
 1943年のルーズベルト大統領の発言:「サウジアラビアの防衛はアメリカの防衛にとって肝要」; 冷戦期のアメリカの対中東政策の3本柱は、1.イスラエル防衛 2.石油の安定供給のためのサウジアラビアの防衛 3.これら産油地帯へのソ連の進出阻止、である。
 46年に、サウジアラビアの東部にアメリカ軍のダーラン基地が建設される。

      イラクからの「社会主義革命の輸出」

 ところで、王制のサウジアラビアはサウード一族が「王族」として国の要職を占め、西欧式の憲法や民選議会を持たない。一方、他の多くのアラブ諸国は、70年代初めまでには封建的王制から共和制に衣替えし、エジプト、イラク、シリア、南北イエメン、リビア、アルジェリア、チュニジアなどが、次々左派民族主義国家となった。よって、50-60年代には、サウジアラビアなどの保守的な君主制をとる国は、アラブ民族主義・共和制革命のなかで、心もとなく取り残された。

 サウジアラビアは他のアラブ諸国で「革命」がいずれも軍主導のクーデターによって行われたことから、君主制政権は強大な軍を保有することの危険性を身にしみて感じていた。そうした事情から、対外軍事依存、特にアメリカに依存を深めることになった。

 なかでも最も脅威だったのが、60年代のイラクであった。サウジアラビアであれ他の湾岸諸国では、当時アラブ世界を席捲していたアラブ民族主義思想の波を被らなかったはずはないが、どこからそうした思想を受容してきたかというと、ナセル期のエジプトと、シリア、イラクのバアス党からであった。バアス党は湾岸諸国の各地に支部を設立して勢力を拡大していった。湾岸産油国の政権安定を求めるアメリカにとって、こうした民族主義勢力の拡大、特に社会主義イラクの政策は眉をひそめさせるものであった。特にバアス党政権が成立直後に「イスラエルのスパイ」と称して大量の逮捕者を出し、これを処刑したことは、アメリカの危機感を強めた。

 だが、そこでアメリカが対イラク対策として依存したのは、隣国イランであった。50年代石油国有化を推し進めたモサッデク政権をCIAが露骨に関与し転覆して以来、イランのシャー体制はアメリカの忠実な協力者となってきた。そのイランが、共和制革命後のイラクの群雄割拠状況を利用し、強力な反米政権が成立しないよう、見張ることになった。バクダッド機構の後身、CENTO(中央条約機構)の主軸としてアメリカとイランの軍事協力協定が締結されたのは、イラクで王制が倒れてからわずか半年後の59年3月だった。
 
 前述したようにバアス党政権成立直後に、イランとアメリカは、クルドの反政府勢力に積極的に武器供給し、クルドがイラク中央政府に反旗を翻したが、この直前の72年、シャーとニクソン米大統領の間で、イランが湾岸での西側の利益を守ることと引き換えにアメリカから最新の軍事技術と指導を得ることが約束されている。

        国境での不協和音
 イラクの湾岸産油国に対する「脅威」が具体的に表面化するのは、国境紛争においてである。イラクの共和制政権がこれら湾岸諸国を批判するとき、常に主張された点は、植民地時代に引かれた国境の恣意性という問題であった。
 アラブ民族主義の立場から、君主制諸国に「アラブの統一」を呼びかけ、サウジアラビアやクウェイトとの国境を認めない方針をとり続けた。
 「アラブ民族主義革命の輸出」の対象になったのが、のちに問題になるクウェイトである。クウェイトは、オスマン帝国下でバスラ州の一部であったが、イギリスと保護条約を結び、自立的な立場を確保した。
 イラク政府首脳の一部には、「クウェイトもバスラ州の一部だったからイラクに属するべきだ」との主張が生まれた。こうしたイラクの「失地意識」は、イギリスの圧力が除かれた時に噴出する。
 まずはカースィムが、クウェイト独立の61年に領有権を主張したが、バアス党もまた、70年代初めに同主張をくりかえした。その主張を全面に押し出したのが、90年のクウェイト侵攻であった。

2.金利生活国家(レンティア)としての繁栄

        石油収入の急増
 だが、こうしたイラクと湾岸諸国との緊張関係は、70年代の二度の石油価格高騰の「幸運」で一変する。73年にアラブ諸国が第四次中東戦争で取った石油戦略と、79年のイラン原油の輸出落ち込みで発生したものである。 この「幸運」によって、バアス党政権イラクは莫大な石油収入を手にした。政権は財政的に安定し、対外政策も大きく変化した。
 
 イラクはもともと農業国である。が、1908年にキルクークで油田が発見されて以降は、外国企業による国内の石油開発が進められるようになったが、利益は大きくなく、70年代初めですらGNPの石油部門比率はわずか3割であった。状況打破のため、特に共和制革命後は、どの政権も石油部門の国有化をめざした。ようやく1972年になってから、それが実現した。だが、国有化直後のイラク国営石油会社は、英仏石油企業との関係悪化により経営がうまくいかず、逆に経済停滞は深刻なものになった。
 そこで、起きたのが、1973年の第4次中東戦争とそれに伴うアラブ産油国の石油戦略発動である。これにより石油価格は急騰し、イラクの総輸出額は前年の14億ドルから22億ドルに増加、さらには74年には70億ドルまで伸びた。その後反動で一時期景気後退を見るが、79年にはイラン原油輸出の落ち込みで再度価格が上昇、イラン原油をカバーし輸出量も伸びたため、輸出額は78年の110億ドルから80年には263億ドルと、ピークを記録した。(いずれも政府統計)
 油田開発も進められ、生産量は70年代末初めの日量240万バーレルから70年代末のは日量400万バーレルまで増加している。並行してバスラにおける湾岸施設の整備拡大、シリアやトルコ経由のパイプライン開発など、送油能力の拡充も進められた。現在イラク政府の発表によるとイラクの確認石油埋蔵量は1120億バーレル、未確認分を含むと2140億バーレルで、世界第2位の埋蔵量を持つとされているが、そうした「石油大国」としての地位は、ほとんど70年代の開発によって築かれたものである。

       民政安定のための石油収入
 こうした収入増加を背景に、バクル大統領率いるバアス党政権は、70年代半ば以降、大規模なソ連型経済開発計画を進めた。1970年にスタートした第三次五ヵ年計画は、石油価格の高騰で、当初目的額が2倍に引き上げられ、続く第四次五ヵ年計画も計400億ドルという大規模な投資を想定で進められた。
 開発計画は、途中で質的に変化し、それまで重工業中心だったのが、政権安定のための社会的インフラ整備、国民生活水準の向上に焦点があてられる。工場よりも道路や住宅建設を、農業灌漑よりも通信技術の開発を重視し、国民に「目に見える」形で物質的恩恵をばらまいていったのである。アメリカのイラク専門家のマール女史は、70年代後半にはイラク人口の35%がミドル・クラスになったと分析している。
 この時点で、バアス党政権は、富の分配という機能を独占することで、圧倒的な支配力を得たと、言っていいだろう。GDPにおける国家部門と民間部門は73年を堺に大変化し、72年には35.9%だったのが、75年には70.0%、さらに77年には80.4%と、大きく民間部門を上回った。つまりバアス党は、国民に富を分配する唯一の存在であると同時に、唯一の雇用主ともなったのである。
 そして国家が分配する富が、国民からの税収ではなく、「降って湧いたような」石油収入だということは、重要である。たまたまある資源から得る不労所得に依存している国家は、「レンティア国家」、すなわち「金利生活国家」とよばれる。この国家の特徴は、国家と国民の関係が一方通行、つまり国家から国民にただ配分しがちになるということだ。「選挙権なくして課税なし」という議会制民主主義の基本の税収への依存が、みられない。

       湾岸の「雪解け」
 この「レンティア国家」としての傾向は、イラクに限らず、湾岸産油国、ひいては産油国からの援助や出稼ぎ収入などに依存する非産油国の中東諸国にも当てはまる。それが、イラクと湾岸諸国の間で統治パターンを近似させることとなった。イラクの共和制、湾岸諸国の君主制という違いにもかかわらず、「臣民」にいかに多くの富を分配するかが、「長」の統治能力の最重要要素とみなされるようになったのである。 
 外交的にも同政策を指向するようになり、特に石油輸出に余裕のあるサウジアラビアは、OPEC全体の産出量を調整できる、いわばスウィング・プロジューサーとして石油市場を左右する政治力を発揮することとなった。こうしたなかでイラクは、特にサウジアラビアなど周辺産油国の動向に、「産油国共同体」の一員として常に関心をもち、共同歩調を取るようになったのである。
 このように体制の違いを超え、イラクと湾岸君主国が「産油国共同体」として接近することにより、両者の国境を巡る緊張は解け始める。1974年にはサウジのファハド皇太子(当時)が共和制イラクを初めて訪問し、翌年、サウジ・イラク間で国境確定交渉が行われた。イランとのアルジェ協定の締結も含め、一連の展開は、それまでのイラクの湾岸親米国に対する敵対的な関係からすれば、画期的な事態だったといえよう。70年代末には、急進派の南イエメンから、穏健派の北イエメンに支持を転換し、パレスチナへの支援も、強硬派からアラファトらPLO主流派に対象を移すなど、穏健路線が顕著になっていった。

     脱ソ
 石油という「不労所得」を得たバアス党は、外国からの援助に依存する必要がなくなり、その最たるものがソ連である。70年代後半以降は対ソ依存の必要性は大幅に減った。逆に、ソ連の対外政策がむしろイラクの国策と齟齬をきたし、中東周辺地域で頻繁に生じるようになった。
 その第一は、ソマリエとエチオピア(アフリカの角)の間を巡る対立である。ソ連は、ソマリエの社会主義政権を支持してきたが、ソマリエと対立するエチオピアに社会主義政権が成立すると1977年にこれと軍事協定を結んだ。結果、ソマリエは対ソ条約を破棄、代わってアラブ産油国に支援を求めた。イスラエルの支援するエチオピアと、人口のほぼ100%がムスリムでアラブ連盟に加盟したソマリエとの対立となれば、ほとんどのアラブ・イスラーム諸国は、ソマリエを支援する。イラクもアラブの同胞ソマリエを支援し、ソ連のエチオピア支援政策と対立した。
 このイラクのソ連不信感は、少々先の話となるが、1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻で決定づけられる。アフガニスタンでは73年の王政転覆以来、左派政権が続いていたが、78年に成立した人民民主党政権は対ソ友好条約を締結した。が、この政権の急進的政策が国内に混乱をもたらしたため、ソ連は友好条約を口実に直接介入し安定的な親ソ政権の維持を図った。
 急進派の伸張に乗じてソ連が介入したアフガニスタンの事例は、バアス党政権にとって他人事ではなかった。むしろバアス党政権は、辛くもアフガニスタン型の介入を直前に予防していたと言えるかもしれない。70年代末に共産党が軍内にシンパを増やしていたため、政府は79年春に共産党を非合法化していたのである。国内での共産党との決別と、ソ連の中東外交に対する不信と脅威の高まりで、バアス党は急速にソ連離れを進めていた。

      入欧
 イラクがソ連離れを進めたのと対照的に、西欧諸国との経済的関係は70年代後半以降急速に深まった。取引先として、フランス、イタリア、やや遅れて日本が主な買取先になった。対イラク輸出も同様で、日本とドイツが一、二を争い、フランス、イギリスがそれに続いた
 西欧諸国にとってイラクは、開発ブームに乗り大規模プラントを次々に発注する、即金払いの気前の良い顧客であったといえよう。主要幹線道路や国際空港の建設、石油化学コンビナートから最新式医療器具を揃えた近代的病院の建設計画など数億ドルにのぼるプロジェクトが次々に発注された。武器・兵器関連はソ連・東欧諸国から輸入するにしても、機械類、車両、鉄鋼を中心とした工業製品は、もっぱら西欧先進国から輸入されるようになった。が、アメリカとの関係は冷たいままだった。
 アメリカにとって最も重要なのは、隣国イランの親米シャー政権であり、「湾岸の憲兵」としてアメリカの利益を守ってきた。イラクはどうでもよかった。だが、この状況を一変させたのが、イラン革命である。

(3-2へ続く 3.「イラン革命」の衝撃 4.イラン・イラク戦争)
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