とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『イラクとアメリカ』酒井啓子氏著をざっと読む  3-2

2008年02月06日 02時50分25秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
3.「イラン革命」の衝撃
    「湾岸の憲兵」の喪失
 イランのシャー政権が1979年、イラン革命によって転覆させられたことは、アメリカの対湾岸政策を根幹からゆるがす大事件であった。
 革命後のホメイニー氏を核とするイスラーム政権は、徹底した反米政策を掲げ、さらにアメリカ大使館占拠事件により、対米関係は最悪の状態に陥った。この事態の展開が、湾岸君主制国をも震撼させたことは、まちがいない。79年という年は、メッカで占拠事件が発生したり、バハレーンで大規模なシーア派住民の暴動が発生し、湾岸の安全保障に大きな激震が走った年である。突然、従来の「左」からの革命の輸出ではなく、「イスラーム国家の樹立」を目指すイスラーム主義という「右」からの革命の輸出に晒されることになった。

    フセイン、政権につく
 だが問題は、当時の大統領バクルが地理的な「西」、つまり、パレスチナやシリアの対イスラエル戦線を見ていたことである。78年にエジプトがイスラエルとキャンプ・デービッド合意を結んだことによりアラブ連盟から放逐されたが、その放逐を決定したアラブ連盟首脳会議はバグダードで開催されたものであった。
 エジプトが抜けたあとのアラブの主導権をにぎるのは、誰の目にもシリアとイラクの急進派路線であろうと思われた。ポスト・エジプトのアラブ連盟の核として、シリアとイラクとの国家合併計画を進めてイスラエルに対する戦線を強化しようと考えた。バクルもまた同様であった。両者は、統合国家の長をバクルにすることに合意、79年6月には両国合同政府指導部を設置することが決定された。これにより、シリアは、イラクの豊かな石油収入をバックに、対イスラエル前線として大いに軍備強化できるはずであった。

 そこで、これまで父子のように二人三脚で歩んできたバクルとフセインの間に、齟齬が生じる。他の産油国とともに東のイランを敵国と考えるフセインか、シリアとともに西のイスラエルを敵国とするバクルか。「社会主義反米強硬派」から「産油国共同体」の一員へと質を変化させていたバアス党政権にとって、「東」を向くか、「西」を向くかの岐路におき、大統領交替という政権内の大きな政治的変化に直面したのである。
 バクルは長年糖尿病を患ってきたことは、周知の事実であった。70年代半ばからは実質的にフセインが実力者であることも、誰の目にも明らかであった。そのバクルは突然、1979年7月の革命記念日の前日に辞任を発表した。そしてフセインがバアス党第二代大統領に就任した。イラン革命から半年後のことだった。

       「シーア派」は連鎖しない
 ところで、フセインがイランの新政権に敵対心を抱いたのは、ただ「産油国共同体」や西側先進国の期待に応えるためや領土的野心からだけではない。イラクには、他の湾岸産油国以上にイラン革命を脅威として捉える理由があったのだ。イラクという国の人口の半分以上がイランと同じシーア派イスラーム教徒だということだ。イランが「革命の輸出」を謳うとき、真っ先に呼びかけの対象とされたのが、イラクのシーア派であった。

 イスラーム世界全体で見ると、スンナ派イスラーム教徒は全体の9割を占め、シーア派はイラン、イラク南部、バハーレン、サウジ東部、レバノン南部など、少数派にすぎない。だが、イラクではシーア派が半数を超える形になっている。そのため、イラク在住のシーア派のなかには、イランと密接なつながりを持っている者も少なくはなかった。

 大昔イランから移住してきた家系もあるが、そうでなくともシーア派の聖地であるイラク南部のナジャフ、カルバラーは巡礼地であり、巡礼に伴うイランとの交易ルートとして、密接な経済関係を持っていた。イラン、イラクという近代的国家が建設されてからは、「国境」の壁に阻まれ、行き来はかつてほどではなくなっていたが、ウラマー同士の交流はある程度続いていたし、シャー時代にイランを追われたホメイニーが亡命したのは、イラクのナジャフであった。
 とはいえ、イラクのシーア派はアラブ民族であり、ペルシャ民族であるイランのシーア派とは、必ずしも同調しあうものではない。またイラクでは建国以来、世俗化、近代化政策が一貫してとられてきたために、シーア派住民の「宗教度」も、特にウラマーが一定の社会的役割を果たしてきたイランと比較して、異なっている。建国以来の歴史をみても、シーア派が自立的な政策を指向したことはない。そもそもシーア派によるシーア派のための政党や結社を結成したことすらない。むしろ、シーア派という宗教的アィデンティティよりも、地域格差によって生ずる共感意識や同属集団としてのアィデンティティのほうが支配的だ、とイラク人学者の多くは主張している。

       だがイスラーム運動は共鳴する
しかしバアス党政権は、そのイラン革命がシーア派としての連鎖をつたってイラクに波及するのを真剣に恐れた。なぜならイラクでは、むしろイランに先立ってイスラーム運動が先鋭化し、反体制派として看破できない状態にあったからである。その筆頭にいたのが、ヤトッラー、ムハンマド・バーキル・アッーサドルであった。イスラームのウラマーたちは、50年代後半以降、各国で進行する世俗化対策、共産主義や民族主義などの西欧諸思想の流入にいずれも危機感を持っていたが、サドルもまたこうしたウラマーの一人であった。
 彼は、資本主義・共産主義をも超越したものとして新たにイスラームの復興を目指し、ウラマー界が政治に積極的にかかわり指導的立場にあるべきだと考えた。そうして設立されたのが、その後のイラクのイスラーム運動の租、ダアワ党である。
 その意味では、サドルの存在はイラクにおいてホメイニーに先行するものだった。70年代前半から表面化し始めたこうしたイスラーム復興の動きに対して、バアス党政権は徹底的な弾圧をもって対処した。77年には、ナジャフ、カルバラーでの宗教儀礼の途中で行進者の間で政府批判が掲げられ、軍と衝突するという事件が起きている。
 こうした弾圧に対し、サドルはバアス党を「異教徒」と断定し、バアス党に入党することを禁ずるファトワー(教令)を発出した。さらに、サドルとその支持者たちは、隣国イランのイスラーム政権に対する賞賛を隠さなかった。1980年、政府とイスラーム勢力の間の緊張はピークに達する。4月にイスラーム勢力の一部がムスタンシリーア大学構内でアジーズ副首相に手榴弾を投げつける事件が発生、さらに4日後には同事件で死亡した者の葬儀に再度爆弾が投下されるなど、攻撃が政権中枢に及んだ。ここに至ってフセインは、これまでにもしばしば召喚していたサドルとその妹のビント・フダーを逮捕し、裁判もなく秘密裏に処刑したのである。 


4.イラン・イラク戦争(私注:1980-1988)
 
       開戦
イラク国内でイスラーム運動に対する弾圧が強化されるのと並行して、イラン・イラク国境では小規模の軍事衝突がエスカレートしていった。そして1980年9月17日、フセイン大統領は、自らが締結したアルジェ協定をテレビカメラの前で破り捨てて破棄し、その5日後の22日にはテヘランなど主要都市への空爆とイラン南部のフゼスタンへの侵攻が開始された。

 フセイン政権の狙いは、イスラーム革命の波及に対する予防的処置だったが、同時に、イラン政権が革命後の混乱期にいる今こそ、イラク側に有利な国境線を強要できるはずだと考えた。また彼は、イラン南部のフゼスタン(アラブ系住民の居住地)が、この期に乗じてイラクと同調すると期待していた。
 アラブ民族主義を唱えるバアス党政権は、ペルシャ民族に支配されているアラブ系住民の「解放」は、対イラン戦を正当化する理由の一つでもあった。

 だが、フゼスタンのアラブ住民は、動かなかった。

 フセイン政権の読み違いはそのことにとどまらず、革命後の内紛によって弱体化したイラン軍はイラクの侵攻に耐え切れないだろうと考え、短期決着を想定したのだが、むしろイラン軍は祖国防衛で結束力を増し、最初の数ヶ月を過ぎると、戦線は膠着した。

      転機としての82年
 それでも開戦してから2年間は、イラクは、シャット・ル=アラブ河対岸のホラムシャフルなど、イラン内部に占領地を維持する優位にあった。だが1982年半ば、両者の関係は一挙に逆転する。
 まず4月に、アラブ諸国でほぼ唯一のイラン支援国であるシリアが、イランへの側面支援としてイラクと国交を断絶し、国境を閉鎖し、シリア経由の石油パイプラインを停止した。イラクは開戦後、ペルシャ湾からの石油積み出しができず、石油輸出ルートとしては、シリアとトルコ経由の2本のパイプラインに依存していたため、その大動脈の1本が途絶えることになった。
 加えて、イランがホラムシャフルの激しい奪回攻撃に出たため、6月にフセインは
イランからの完全撤退宣言を余儀なくされた。それどころか、イランはイラク南部に侵攻、イラク第二の都市バスラに迫る勢いを見せた。イラクはイランに対して停戦を呼びかけるが聞き入れられず、86年には南部のファオを占領された。
 戦況と経済の悪化は、イラクの戦争遂行方針を全面的に変質させることになった。バアス党政権は70年代後半以降、石油の富を最大限活用する形で、国民に対する慰撫政策として大規模な開発を行ってきたが、開戦後もその方針は踏襲され、「戦争も開発も」がスローガンになった。前線に赴く兵士とその家族には不満が嵩じないよう、新築住宅や新車がばらまかれた。
 だが、こうした放漫財政は戦費支出の大きさとともに徐々に国庫を圧迫し、シリア経由パイプラインが閉鎖されると急速に外貨事情の悪化が露呈したのである。開発計画は一斉に中断され、輸入代金の支払いは次々に繰り延べされていった。兵士にばらまかれる「恩賞」は、ベンツからトヨタ車になり、戦争後半にはブラジル製フォルクスワーゲン・パッサートにまで格落ちした。社会主義政策の名のもとで、補助金によって低く抑えられていた生活必需品の価格も、財政悪化から、軒並み上昇。庶民生活を圧迫していった。

         周辺を巻き込む
 この苦境で、イラク政権が真っ先に頼ったのが、「産油国共同体」である。「ペルシャの脅威」から「イスラーム革命の輸出」まで、ありとあらゆる危機感を煽って援助を仰いだ。むろん親米の君主制諸国は最初からイラクを信用していたわけではない。イラン・イラク戦争開戦直後に成立した湾岸諸国による安全保障機構、GCC(湾岸協力会議)は、イラクが熱心に加盟を希望したが、拒否された。
 だが、戦争が長引くにつれ、否応なくイラクはこれらの国々の「防波堤」になっていく。サウジアラビアやクウェイトは、イランとの間の防波堤を失ってはいけないという恐れから、湯水のごとく経済援助をつぎこんだ。総額300億ドルを超えるとされる融資は、実質的には返済不要の無償供与と見なされた。このとき、世俗社会主義国でならしたバアス党は、サウジアラビアの援助欲しさに、それまで徹底していなかったラマダーン月中に、「飲食店の閉鎖」を断行し、「イスラームらしさ」を強調している。
 イラク崩壊を恐れたのは、湾岸産油国だけではない。欧米先進国も、イラン・イスラーム政権の勝利を恐れ、イラク支援をとらざるを得なかった。イラクは旧来のソ連製品に加え、フランスからはエグゾセ・ミサイルやミラージュ戦闘機を、中国からは戦車などを得、イランに比べて劣る戦意と兵員数を補おうとするが、ほっておくと、イラン・イラク戦争は先進国の軍需産業の都合のいい市場になってしまう。勝敗のつかない状態で、常に武器実験場にされてしまう。
 長引くイラン・イラク戦争を国際社会で「忘れられた戦争」にしないために、停戦と先進諸国の利害を直接結びつけなくてはならない。そこでイラクが84年以降撮った作戦は、「タンカー攻撃」によって石油消費国を直接戦争に巻き込むことであった。イラクは最新鋭の空軍力を最大限活用し、イランの主要石油積み出し基地のカーグ島を攻撃対象とした。それは頻繁にペルシャ湾を往来する欧米先進国のタンカーに被害が出れば、国際社会は早期停戦に向け、真剣にイランに圧力をかけるだろう、と考えたからである。

           アメリカ、ついに登場
 この作戦は、功をなした。両国からの攻撃に巻き込まれることを恐れたクウェイトが、アメリカに自国タンカーの「護衛」を依頼したのだ。こうしてアメリカは、ついに「水平線の彼方」からペルシャ湾内に入り、湾岸の安全保障に直接関与していくことになる。さらに87年にアメリカは、48隻からなる大艦隊を派遣し、続いてイギリス、フランスなども産油国タンカーの護衛に駆けつけた。
 そもそもイラクがイランと開戦する際に、「イラクーアメリカ共謀説」の情報がまことしやかに語るが、いずれも確証はない。ただ前述したように、フセイン政権が誕生した際に、西欧諸国にある種の「期待」があったことは、確かであろう。カーター政権期の国家安全保障担当補佐官であったブレジンスキーは、戦争開始5ヶ月前に、「イラクとアメリカの関係は敵対関係のまま凍結されているべきではない」と述べ、同時期の『ウォールストリート・ジャーナル』紙のコメントは、「イスラエルを除けば、イラクは他のどの中東諸国よりも西欧的価値と技術を持つ」となっている。
 だがそれ以上にアメリカは、イラクの戦況の悪化にともない、急速にイラクとの関係を改善していった。レーガン政権は82年の段階で、議会協議ぬきでイラクを「テロリスト関与国」リストから外した。84年には長年の外交断絶に終止符をうち、国交を回復する。
 その上で、イラクはアメリカにソ連製武器情報を供与するのと引き換えに、アメリカからイラン軍の配備状況の偵察衛星情報を得た。また、経済的にもアメリカは、商務省の信用つきで農産物を中心とした対イラク輸出を伸ばしていった。つまり、イラクとアメリカはこの時期、「イランを勝たせてはいけない、という共通利害のもとに」(リチャード・マーフィー;当時の米国務次官補の言)実質的な同盟関係にあったといえよう。
 こうしてアメリカを筆頭とした国際的イラク支援体制のもとに、1987年、国連にて即時停戦を求める決議598が採択された。イラクは即時に受諾を表明。イランは拒否。だが、1年後「毒を飲むより辛い」という有名なホメイニーの言葉とともにイランに受諾を決意させたのは、やはりアメリカの存在だったといえよう。88年7月にペルシャ湾内を航行していた米艦がイランのエアバスをF14戦闘機と誤認し撃墜した。この事件は、イランにアメリカの湾内での存在感を見せつけることとなった。この2週間後に、イランは停戦決議を受けいれたのである。
 8年間にわたるイラクとイランの戦争はようやく終結し、停戦後1年足らずでホメイニーは死去し、「イスラーム革命の輸出」は未完に終わった。その意味では、親米湾岸諸国も欧米諸国も、所期の目的は達したと言えよう。だが「イスラーム革命」の脅威が遠のいたのちに、残されたのは、経済的に困窮しながらもありとあらゆる武器を装備した軍事大国になった、イラクだった。アメリカはといえば、この新しいパートナーとの「蜜月」を楽しもうとしていた。

 (私注:酒井啓子氏の文章は、まるで結晶のようです。最適語を選んであるので砕けず、要約が難しく、苦戦中です。引用しすぎは、分かっております!Excusez-moi,Madame Sakai!)

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