2008年度を振り返って
ペシャワール・ミッション病院のらい病棟に赴任したのは、確か1984年5月26日だったと記憶している。あのとき、25年後に自分がアフガニスタンにいて、用水路を掘っているなどということは夢にも考えなかった。 かつてアフガニスタンを闊歩(かっぽ)したソ連軍の姿も今はなく、代わりに米軍が支配者として力をふるっている。様々な出来事があり、様々な出会いと別れがあり、様々な死と生き様があった。敵も増えたが味方も増えた。責任も年の数だけ重くなってきた。波瀾万丈も、ここまでくると日常になってしまった。
25年前、ペシャワールでさえ、日本との通信は専(もっぱ)ら手紙が頼りで、早くても一週間かかった。電話は3分もつながれば幸運で、滅多に使うことはなかった。それはそれで、何とかなっていたのである。今はどうだろう。電話どころか、現場の映像さえ瞬時に送れる。情報の伝達は飛躍的に進歩した。悪いことではない。
だが、それで人間が利口になった訳ではない。気が短く、関心が転々と移ろいやすくなっただけのことである。現地の人々の実情は相変わらず伝わりにくいし、世界中が力に屈しやすい実情は変わらない。謀略と戦争は続き、罪のない人々が大勢殺され、数百万人単位で新たな難民が発生し続ける。まことしやかな評論が横行し、幼稚な手段で人はだまされる。世界中が何かにとり憑(つ)かれた様に、「テロの脅威」を語り、そのテロの巣窟をアフガニスタンだと思いこまされている。
はっきりしているのは、こんなフィクションは長続きせず、力は力によって倒されるという鉄則である。現在アフガニスタンとペシャワールで起きている事態は、世界的な破局の入り口にすぎない。疑わなかった足元の土台が揺らぐとき、世界は再びアフガニスタンを思い出すだろう。
幸か上幸か、同じく変わらないのがわれわれの現地活動である。医療活動から用水路建設まで、ずいぶん変わったではないかと言われればその通りだ。しかし、精神は器ではない。人間にとって何が必要かを追い求めてきた点は、少しも変わらない。困窮にある人々と泣き笑いを共にし続けてきたという事が大切なのである。
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灌漑前(2005年5月)の砂漠化したスランプール地区 下写真は灌漑後2009年5月の同地区 |
おかげで自分たちもずいぶん楽天的になった。人のことばは運命的に虚構を抱えている。美しい理念、何かの使命感や信念などという代物に縛られるのは上自由だ。アフガン農村の人々と苦楽を共にし、人為に信を置かなくなった分だけ、恵まれた25年間だったと思っている。
やはり24キロメートルの水路が完成しつつあるのが、一番うれしい。多くの人々の生命と生活を保障し、自然の恵みを証し、日本人もアフガン人も一体となり、国境や政治宗教を超えた結実を、言葉によらず、直(じか)に示してくれる。そして、それを支える良心が日本や現地にあるという事実が、いっそう楽天的にしてくれる。
水路の完成は節目ではあるが、今後も変わらずに仕事が続くことを祈る。それがまた、伊藤和也君、そしてこのアフガンの騒乱で犠牲になった多くの人々を弔う道でもあろうと信じている。
2008年度の概況
◎無政府状態のアフガニスタンとパキスタン北西辺境州
2008年度は、前年度の混乱がさらに拡大、とくに地方に於いて政府は事実上権力を失った。米国の方針転換に一(いち)縷(る)の望みを託していた人々は、より大きく、より複雑な情勢悪化に戸惑っている。外国軍がうちだした「新戦略」とは、反政府勢力の分裂工作と謀略で、これまで死角になっていたパキスタン北西辺境州への積極的な戦火拡大であった。
反政府勢力の一部に米軍から巨額の資金と武器が流されていると現地の人々は信じている。実際、パキスタンの国境地帯、バジョワル自治区では、住民退去勧告が出される数カ月前に、米軍が「自衛のため」3万丁のライフルを配布している。
この結果、各派が入り乱れて抗争が激化し、かつて「タリバーン」と呼ばれた勢力は、殆んど見わけがつかなくなっていると言ってよい。他方で無人機による国境地帯の爆撃が頻度を増し、パキスタン側は多大の迷惑をこうむっている。犠牲者は殆んど民間人である。
2008年夏、既に「住民退去勧告」が出されたバジョワル自治区を皮切りに、国境地域の人々は続々と避難民と化した。2009年6月現在、その数は300万人以上だと発表されている。
一連の流れを眺めれば、この混乱は明らかに意図的に作り出されたものだ。一例をあげれば、2009年春、ペシャワール近郊で起きたモスクの爆破事件がある。「自爆テロ」と発表されたが、目撃した職員たちは、間違いなく爆撃の跡だと証言している。その他、タリバーン勢力が嫌うビデオ店や女学校の爆破・襲撃は、どこまでがタリバーンで、どこまでが謀略なのか分からなくなっている。敗戦後の日本で起きた三鷹事件や松川事件を思わせる。かなりのものが外国軍の謀略だと現地の人々は考えている
誰がどんな画策をしたのか、推測の域を出ないが、動かせぬ事実は、反乱があるから外国軍が進駐したのではなく、外国軍が進駐してから混乱が広がったことだ。これはいくら強調しても過ぎることはない。いったい、「テロリスト」とは誰なのか。テロリストを相手に大軍を繰り出すことが対策なのか。本当にアフガニスタンが「テロとの戦いの主戦場」なのか。人々は懐疑的であると同時に、膨大な犠牲に疲れ切っており、あらゆる武力干渉に敵意を抱いていることを肝に銘ずるべきである。欧米軍は敵を混乱させるのに成功したかもしれないが、より大きな破局を準備したとも言えよう。 この動きの中で、2008年8月、日本人職員・伊藤和也君の殺害事件が起き、アフガン人職員に対する脅迫が続いているが、混乱に乗じた強盗・殺人、身代金目当ての誘拐が増える中、真相は明らかではない。
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2008年9月9日、地元農民や郡長ら約800吊が参列し伊藤和也さんの現地葬儀が執り行われた
◎パキスタン北西辺境州の内乱
アフガニスタンと隣接する北西辺境州とペシャワールでは、事態はより深刻である。2007年夏に始まる自治区の反乱は、他地域にも拡大し、パキスタン国家解体にもつながりかねない勢いを見せている。「対話路線」を掲げて権力の座についた現パキスタン政府は、米軍と反乱軍との間で揺れ、結局、大規模な出血を強要された。ワジリスタンに次いで、スワトやコハートなど、至る所で市街戦が展開し、ペシャワールは戦火を避けて避難する人々の群れで溢れている。2009年4月、その数は200万人とされたが、6月現在「最低300万人」と発表された。
◎アフガン復興と国際社会
民衆にとって、政情以上に脅威なのは、食糧上足である。2006年の段階で「食料自給率60%以下(WFP=世界食糧計画、発表)」とされたが、欧米側は徒(いたずら)に軍事力強化を図ることに終始した。 欧米軍のPRT(地域復興支援チーム)の実態は、軍事活動を円滑にするための宣撫工作と言えるもので、少なくともPMSの活動するニングラハル州では、弊害が目立っている。実態は日本で知らされているものとかけ離れている。良心的な国際団体は、軍事活動に巻き込まれる危険性を強く訴えているが、その声が届いているとは言えない。
PRTは2002年、米軍によって作られた。「米軍民政局」と言えるもので、初めの頃、診療所で薬品を配ったり、ワクチン接種を行うのは欧米軍兵士の役目であったが、最近は方針転換し、直接矢面に立たなくなっている。ニングラハル州ではUSエイド(アメリカ国際開発局)が資金供与団体となり、地域復興に必要と思われるプロジェクトを地方政府を通して支援している。 問題は、立案の段階で調査を十分に進めず、書類審査が中心となっていることである。米軍の中にも良心的な者はいるが、結局、政府の役人と現地請負師との山分けとなり、実があがらない。政府内の実力者たちは、しばしば軍閥と関係があったり、自ら請負会社を抱えていることもある。
PMSが行っている水利施設現場にもPRTの影が現れ始めている。2009年2月、「養魚池計画」でマルワリード用水路の溜池(D池)を借りたいとの申し出があった。しかし、PRT側が指定した溜池は重要な沈砂池で、水量調節に欠かせぬ場所である。猛反対の末、住民たちの圧力を背景にこれを拒否した。その後、怪電話や脅迫めいた噂が流されたが、棚上げになったまま現在に至っている。 ある取水口改修現場では、ボロボロになったコーランが数冊、ずだ袋の中から見つかった。穴があいていたり、無造作にちぎられていた。現地では大変なことである。作業員が周辺の土くれもていねいに拾い集め、モスクで「供養」を行った。本当のことは分からないが、これも「PRTの仕業(しわざ)」ということになった。これは一例にすぎないが、PRTと欧米軍の活動は、住民たちの間で同一視されているのは事実である。
◎現地活動への影響
このような情勢の中で、われわれの活動も大きく制約を受けた。
1. ペシャワールの無政府状態で、カイバル峠の往来が困難となり、PMS病院の運営管理が事実上不可能となった。PMSの主力はジャララバードで孤立していると言える。予測していたことではあったが、これほど急激な変化はかつてないことであった。 ペシャワールを本拠地とするPMS病院が、「難民救済団体」として合法性を得ていたため、パキスタン政府の定めた期間(2009年12月まで)内に、ジャララバード側へ移転を迫られていた。しかし、北西辺境州は内乱そのものであり、アフガン難民どころではなくなってきたというのが真相で、速やかな対応が要求された。
2. 脅迫や外国団体職員の拉致が多発、2008年9月から、地元警察や住民と協力して自警団を作り、職員を守る態勢を敷いている。伊藤和也君の事件は大きな波紋を呼び、9月日本人ワーカーの漸次引き上げとなった。報道が与えた印象ほど危険な治安状態ではなかったが、このために職場が一時混乱した。
3. 大都市を離れると殆んど中央の権力が届かず、地域共同体との絆が更に大きな比重を占めるようになっている。地方行政機構の中には軍閥の影響力が強く、時には直接軍閥と交渉せざるを得ない局面もある。また、ニングラハル州北部全域にわたる水利施設の管理は、現政府の状態では無理であり、PMSが全面的に協力態勢を敷かざるを得ない事態である。
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