とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

イラク女性の占領下日記:リバーベンド   5(食べるために働く))

2008年02月16日 10時47分56秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
2003年8月24日
   「リバーベンドのこと」
 大勢の人が、私の経歴や英語がじょうずな理由を聞いてくる。私はイラク人。イラク人を両親としてイラクで生まれた。子どもの頃、数年を海外で過ごした。10代初めに帰国し、英語の勉強を続けた。手に入る本はみんな読んだ。さまざまな民族、宗教、国籍の友だちがいる。バイリンガルだ。私みたいな人はイラクには何千人といる。外交官、学生、元愛国者などの子どもたち。
 欧米文化の関わりは.........たくさんのイラクの若者がアメリカやイギリスやフランスのポップ・カルチャーをものすごくよく知っているって信じられないでしょ。アーノルド・シュワルツネッガー、ブラッド・ピット、ホイットニー・ヒューストン、マクドナルド、映画『メン・イン・ブラック』のことも、なんだって知っている。イラクのテレビは最新のハリウッド映画の海賊版を流し続けていたのだから(その効用といえば、米海兵隊が彼らより先にやってきた『ランボー』や『ターミネター』の評判を裏切らなかったということかしら)。


    「食べるために働く」
 イラク国民の65%が失業している。どうしてこうなったのか。ブレマーのとんでもない政策のせいだ。最初の大失策は、イラク軍の解体。ワシントン(訳注:ホワイトハウス)では理解を得られることなのかもしれない。でも、ここイラクではみんな唖然とした。そして今や40万人の訓練された武装した男たちが、家族を抱えながら養う手段がないのだ。どこへ行けというのだろう。彼らは先行き真っ暗だ。
 彼らは町を歩き回る。仕事を求めて、答えを探して。その姿勢、歩み、体全体から困惑と怒りが見てとれる。このどうしょうもない事態の責任を負うべきは誰か、わかるでしょ?
 ブレマーはさらに情報省と国防省を解体した。どんな理由があったにしろ、これらの省庁にいたのは普通の仕事をする普通の人たちだ。会計係、管理係、事務員、技術者、技師、文書係、オペレーターなど、こうした人たちがみんな職を失った。企業は ”首切り”を要求され続けている。
 この他にも企業、団体、事務所、工場、商店は、戦後の混乱の中で略奪と破戒に遭って、休業・閉店している。何千人もの労働者が職を失った。どこへ行くべきか。何をするべきか。
男たちは、仕事を求めて毎日何週間も何千人もの長い列をなして「アルウィヤ・クラブ」の外に並んだ。

*(訳注「アルウィヤ・クラブ」:バグダッド中心部にある、レストランやテニスコートなどを備えた高級娯楽施設。イラク戦争後、施設内に「バグダード再建事務所」なるものができて、仕事を求める人たちが行列を作ったが、米軍が正式に認可したものではなかったのですぐに閉鎖された。)

 男たちはイラク警察には応募したくなかった。警察官であるというのに携帯すべき武器をもらえなかったから。イラク警察は、恐ろしい都市を武器なしで巡回し警護することとされた。説得だけで、盗賊、人さらい、殺人鬼のゆがんだ道徳観念に訴え、思いとどまらせることが求められたのだ。

 私の失業の顛末も別にめずらしい話ではなく本当に今ではごくありきたりの話で聞くだに気落ちする。それはこんな具合――
 私は大学でコンピューター・サイエンスを学んだ。戦争前、バグダッドのイラク資本のデーターベース・ソフトウェア会社で、プログラムネットワーク管理者(そう。要するにオタク)として働いていた。
 私は仕事が好きだった。そして ”優秀”だった。一人で、朝8時に、いつもCDやフロッピー、ノート、ちびた鉛筆、クリップ、ねじ回しを詰め込んだバックパックを背負って歩いて出かけた。ビル・ゲイツを喜ばせるために。男の同僚2人と同じだけ働き同じだけ稼いでいた。上司からも同等の処遇を受けていた(つまり、上司はプログラミングに関しまったく無知だったので、できる人は誰でも、女の子でも、それなりに扱っていた。そういうこと)
 私が言いたいのは、 ”どんな”話が流布していようとも、イラクの女性は他のアラブの国々の女性よりも格段に恵まれていたということだ(西欧社会のある国々よりも――男女同一賃金だったのだから)
 女性は、労働人口の50%以上を構成していた。医師、弁護士、看護婦、教師、大学教授、建築家、プログラマーなどとしてさまざまな分野で働いていた。

 6月半ばのある晴れた日、大きなバッグに魔法の7つ道具を入れ、ロングスカートとシャツで、髪を後ろで束ね、期待と不安半々で家を出た。会社の前の本通りは、米軍がバグダッド入りした時の戦車の重みでできた亀裂やくぼみで通れなかった。私は半ば走り、半ば自分を抑えながら会社のドアに近づいた。仲間に、同僚に、事務の人たちに会える....。異様な悪夢のただ中にあって、かつて日常であったものに再び。
 
 ドアを入った瞬間に気がついた。なにもかもみすぼらしく、どこかみじめに見えることに。戦争前、念入りにテープを貼った窓は、あちこちひびが入ったり割れたりしていた。そこら中汚れていた。電球はみじんに砕かれ、机は引っくり返され、ドアは打ち破られ、時計は壁から引きちぎられていた。

 私は気を挫されて、入り口に立ちつくした。よそよそしい見知らぬ顔、顔。ほんの少数の見知った顔。管理職のある2階で立ち止まった。声高な男性たちの言い争う声が聞こえていた。戦争の2週目に経営トップは卒中で死んでいて、20人もの男性たちがそれぞれ自分こそボスになれると考えていた。経験があるから、地位があるから、政党(SCIRIだったり、ダーワ党だったり、INCだったり)の後ろ盾があるといった各々の思惑で。

 ビルの中は蒸し暑い(少なくとも2ヶ月間電気が通じてなかった)。私の小さな部屋は、ビルの他の部分と同じだった。机はなく、書類がそこら中に散らばっていた。しかし、Aがいた!信じられなかった。懐かしい温かい顔。一瞬、彼は見知らぬ者を見るように私を見つめていた。次の瞬間、目が大きく見開かれ、焦点の定まらなかった表情が驚きに変わった。彼は、私が生きていてよかったと喜び、家族はどうしてるかと聞き、自分は今日で辞めるのだと言った。
 「昔とは違うんだ。きみも家へ帰って安全にしているほうがいい。」  
辞めて、外国で仕事を見つけるつもりだという。
 「ここにはもう仕事はない」
以前の部長も私に、「今、女性はいらないんだ。女性は特に”守りきれない”からね」と言った。

 オーケー、結構よ。突然、そこにいた人々の顔は見知らぬものではなく、以前と同じ顔ぶれだと気がついたけれど。そこには今、打って変わって敵意があった。信じられなかった。私がここで何をしたというの?
 私が打ちのめされて見えたに違いない。同伴して来てくれた弟といとこの顔がこわばった。帰りの途中、私はさんざん泣いた。私の仕事、私の将来、ずたずたにされた町、破壊されたビル、滅びゆく人々を思って。

 私は、それでも運がいい。有力者でも重要人物でもない。1ヶ月ほど前、有名な電気工学者(イラクの最優秀の女性の一人)、ハンナ・アジズが家族(夫と2人の娘)の目の前で暗殺された。彼女はバドル旅団の原理主義者から脅かされていた。家から出るな。女なんだからでしゃばるなと。彼女は拒否した。彼女は家に留まろうとはしなかったし、留まってはいられなかった。イラクは国を軌道に乗せるために彼女の能力を必要としていた。彼女は優秀だった。ある夜、マシンガンをもった男たちが乱入して銃撃した。彼女は死んだ。でも、彼女が初めての犠牲者ではないし、これで終わりでもない。


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