エルサレム Jerusalem
パレスティナ地域の中心的都市。ヘブライ語でイェルシャライムYerushalayim,アラビア語でクドスal‐Qudsと呼ばれる。ユダヤ教,キリスト教,イスラムという普遍主義的 3 宗教の共通の聖都。イスラエルはこの都市を首都と定めているが,国際的には承認されていない。 人口 59 万 1000 (1996,イスラエルの統計,東エルサレムを含む)。
[位置と景観]
地中海とヨルダン地溝帯とにはさまれた形で南北につらなる山地 (その北半をナーブルス山地またはベート・エル Beth‐El 山地,南半をハリール Khal ̄l 山地またはヘブロン山地と呼ぶ) の中央部分 (ユデヤ丘陵ともいう) にあたる岩尾根の上に位置する。尾根づたいに北から南にかけて,ナーブルス (シケム),ラーマッラー R´m All´h,エルサレム,ベツレヘム,ヘブロンという都市が並んでいるが,この南北をつなぐ街道と交差する形で,地中海岸と死海の谷とを東西に結ぶ道がエルサレムで山越えするようになっているので,古来エルサレムは交通の十字路,パレスティナの枢軸の地位を占めてきた。山の上にある都市なので,そこへの旅はまさしく〈のぼる〉という表現がふさわしい。尾根の上にあるといっても,標高 800m級の丘 (スコープス Scopus 山, オリーブ山,ヘルツル Herzl 山など) と深く切り込んだ谷 (キドロン Kidron の谷, ヒンノム Ben Hinnom の谷,ソレク Sorek の谷など) とが交錯して,かなりの凹凸がある。旧市街はほぼ標高 750m程度の高さにある。冬季には降雨があり,まれに降雪を見ることもある (年間降水量 500mm) が,この都市にとって水の供給は歴史的につねに大きな問題だった。古代以来,同市唯一の水源としてギホン Gihon の泉 (のちに処女マリアの泉とも呼ばれる) が利用され,その水をヒゼキヤ隧道で引いたシロア Shiloah (シロアム) の池をはじめ,もろもろの貯水池がつくられた。ヘブロンの近くのアッルーブ al‐‘ Arr仝b 川水源から延々と水道を引く工事も行われた。ローマ時代から第 1 次世界大戦まで天水をためるしっくい張りの地下貯水槽が家ごとにつくられ利用された。サビール (公共の給水場) や街頭の水売はオスマン帝国時代のこの町の風物詩ともいえた。
八つの城門をもつ旧市街の石の周壁は 1537 年ころオスマン帝国スルタン,スレイマン 1 世の命で築造されたといわれるが,旧市街はローマ植民市の都市プランの跡をとどめている。 19 世紀半ばまでは全市民が城壁の内側で生活していたが,その北西部分がキリスト教徒地区,南西部分がアルメニア人地区,中央部の南がユダヤ教徒地区,北東部から中央部にかけてがイスラム教徒 (ムスリム) 地区と分かれていた。大きく南東隅に広い平たんなスペースをとって,イスラム教徒がハラム・アッシャリーフal‐─aram al‐Shar ̄f (高貴なる聖所) と呼ぶ区域があり,ここに金色に輝く岩のドームとアクサー・モスクとがある。この区域はもとソロモンの建立した第一神殿,またバビロン捕囚後に再建された第二神殿があった場所で, モリヤ Moriah の丘とも呼ばれた。ハラム・アッシャリーフを囲む東・南・西側の壁は,ヘロデ王時代以来のものと見られるが,その西壁 (ハ・コテル・ハマーラウィー) には第一神殿の遺構があると考えられ,近代においてユダヤ教徒はこれを〈嘆きの壁〉として特に重要視するようになった。旧市街にはイエスの十字架の死を記念する聖墳墓教会 (ゴルゴタの丘の跡にあるとも信じられている) をはじめ,キリスト教の聖地が多数存在する。イエスが十字架を担って歩んだという苦難の道〈ウィア・ドロロサVia Dolorosa〉はイスラム教徒地区を通り抜けている。かくして旧市街の内部,周辺は,3 宗教の聖地,モニュメント (記念物,遺跡) がいりくみ充満しているのである ( 図 1 )。
旧市街 (東エルサレム) に対して,19 世紀以降発展した西エルサレムは際だった対照を示している。そこには,極端に厳格な信仰生活を持するユダヤ教徒のメア・シェアリム Me ’ ah She ’ arim 地区 (外来者は婦人の場合,ノースリーブやスカート姿など服装についても規制される) などのように旧市街の延長ともいえる部分もあるが,全体としては,都市計画に基づいてよく整備されたゆったりとした郊外住宅地がひろがっている。イギリス委任統治は,建物の容積率,高さ,パレスティナ産の石材の使用など,建築基準をつくりこれを励行させた。イスラエル建国後は,新市街の拡大は目ざましく,国会議事堂や博物館や劇場やコンサート・ホールや,ホロコーストを記憶するためのヤド・ウァシェム Yad Vashem など多くの超モダンな,ときには奇抜な新モニュメントが続々とつくられた。こうしてエルサレムは,歴史を刻む旧市街も,近代的な新開地も,それぞれに多様な顔をもつが,総体として,特徴ある石壁の累積した町の雰囲気を漂わせている。工業をもたず,ひたすら巡礼の対象として生き続けようとするこの都市のたたずまいは, 3 宗教の信徒の魂のあこがれにふさわしい。まぶしい陽光のもとで輝く町並みも,夕暮れのシルエットも,石と空とが区切る地平の美観を強調するものであった。しかし 1967 年以降の都市開発によるコンクリート高層住宅群は,現代の城壁,堡塁ともいうべく,この都市固有の地平の美観を破壊しつつある。
[市域の拡大]
エブス人 (びと) の砦,ついでダビデの町というエルサレムの起源の段階では,その範囲はのちの神殿区域の南方に局限されていたと考えられている。そこから北方に延び,しだいに市域を拡大して,ローマ支配期にほぼ今日の旧市街の規模のものとなった。この間の発展の経路は 19 世紀以来の考古学的調査により明らかにされてきたが,ことに 1967 年イスラエルの旧市街占領後に強行された発掘 (これに対しては国際的に厳しい批判がある) によって明らかにされた知見も多い。
城壁の外側への拡大が始まったのは,すでに述べたように 19 世紀半ばである。拡張はまず北西の方向をとった。地中海に面したヤーファー (ヤフォ) 港と結ぶ道路沿いに,ヤミン・モシェー (モーゼス・モンティフィオアの援助による) やナハラト・シウァやメア・シェアリムなどユダヤ教徒住居区が生まれ,またロシア租界 (コンパウンド) をはじめキリスト教諸派の施設がつくられていった。この拡大局面は,西から物資,ならびにキリスト教,ユダヤ教の巡礼者が流入し,宗教・宗派間の対立が扇動されるという東方問題的状況の進展と対応していた。 19 世紀末からは,ドイツ・コロニー,ギリシア・コロニー,カタモンなど庭園に囲まれた住宅地が開発され始めた。 1948‐49 年のパレスティナ戦争 (第 1 次中東戦争) により,エルサレムは東部のヨルダン領と西部のイスラエル領とに分割され,軍事境界線が市街を分断することになる。この戦争の前後を通じて,西エルサレムはその西側のリフター村,デイル・ヤーシン村,アイン・ケリーム村などを吸収合併するにいたった。さらに 67 年 6 月の戦争でイスラエルがヨルダン西岸の全域を占領したのみならず,東エルサレムを占領・併合するとともに,行政区画としてのエルサレム市は南北に向かって著しく拡大された。 1947 年以来の市域の政治的膨張の結果うまれてきた大エルサレムは, 〈公共の目的〉の名によるパレスティナ・アラブ住民の土地の強制収用の進行過程の上に成立したといえる。 67 年以降の南北への延長では,パレスティナ・アラブ市民の吸収すべき人口を最小におさえつつ,かつ収用地を最大化するような線引きが施行され,また〈再統合〉され拡張された区域のなかにユダヤ人専住集合住宅の大ブロック地帯を要塞として戦略的に配置・建設する政策が推進された ( 図 2 )。
[象徴的性格]
この都市が歴史的に担ってきた宗教的象徴性はまことに独特なものである。イスラエルの民の宗教にとって,それはダビデの町であり,母なる都市であった。ユダヤ教の展開のなかで,エルサレムは,神殿の再建と破壊の歴史を記憶することを通じて,また 19 世紀以降は〈嘆きの壁〉 (西壁) を記念することを通じて, 〈約束の地〉エレツ・イスラエルを象徴するものであった。キリスト教の成立にとって,この都市はナザレ人イエスの死と復活の舞台であり,またこの都市の破壊に関する予言および〈新しきエルサレム〉の約束の成就すべき場なのであった。イスラムにおいては,この都市は,ムハンマドに先立つユダヤ教,キリスト教にも共通する預言者たちの系列のなかで意義づけられ, キブラ (礼拝の方向) がメッカのカーバに変更されるまでは礼拝はエルサレムに向かって行われていた。そして何よりも,預言者ムハンマドが夜の旅 (メッカからエルサレムへの旅〈イスラー〉と天国への上昇〈ミーラージュ〉) に導かれたところであって,イスラム教徒の説話のなかでは天国と地獄の接点にあたる場所であった。ヘブライ語のイェルシャライムはしばしば〈平和の基礎〉と解釈された。また,この都市は,ギリシア語ではヒエロソリュマHierosolyma,アラビア語でクドス (いずれも〈聖〉を意味する) と呼ばれるように,その呼称においてもたえず〈聖〉なる性格が強調されてきた都市である。エルサレムはラテン語でウンビリクス・ムンディ umbilicus mundi (世界の中心) と認識されたごとく, 3 宗教において宇宙論的に,また終末論的に象徴化されつづけた。ヨーロッパにおけるエルサレム税も,千年王国の思想も,〈罪人〉たちの武装巡礼としての十字軍も,聖墳墓教会の〈解放〉をめざす大航海も,そしてキリスト受難劇とその行進も,さらには各地にエルサレムの〈分身〉 (たとえば村はずれのカルバリオ礼拝堂といった) がつくり出されることも,みな上記のことと深く関係していたのである。 3 宗教がそれぞれに人類に向かって開かれた普遍主義の立場に立つものであり,また世界にその信徒をかかえ,かつそれら 3 宗教のいずれもがエルサレムを象徴化するものであるところから,都市エルサレムのあり方は,ただちに世界全体の問題と化すことになるのである。
板垣 雄三
[歴史]
エルサレムの名は前 19 ~前 18 世紀のエジプトの〈呪詛文書〉に Rushalimum という形で出てくる。前 14 世紀のアマルナ文書では Urusalim,ヘブライ語旧約聖書では Yerushalayim と記される。原意は〈シャレムの礎〉 (シャレムはセム系諸族の黄昏と美の神) で,伝統的に〈平和〉と結びつけて解釈され,エルサレムは古くからシャレム神礼拝の中心地であった。
前 4 千年紀から居住の形跡が見られ,中期青銅器時代には町が形成された。前 1000 年ころ,ダビデ王が,エブス人が支配していたエルサレム南東の丘の要害シオンを征服して新しく〈ダビデの町〉と名づけた。エルサレムは統一されたばかりのイスラエル王国の首都となった。ダビデの死後王位についたソロモンは, 〈ダビデの町〉の北側に延びるモリヤの丘に,フェニキアから輸入した高価なレバノン杉や南方オフィルの地から運んできた金銀をぜいたくに使用した王宮やヤハウェ神殿を 20 年の歳月をかけて建てた。エルサレムは政治的だけでなく宗教的にも国家の中心となり,人々は毎年イスラエル全土からエルサレム巡礼に出かけた。
ソロモンの死後イスラエル統一王国が南北に分裂すると,エルサレムは南のユダ王国の首都となる。前 586 年,ユダはバビロニアのネブカドネザル王の率いる軍隊によって征服され,エルサレム全市が破壊されて炎上,人々はバビロニアの地に連れ去られる。その時から,エルサレムおよびその別称シオンはバビロン捕囚あるいはそれと同じ悲運に見舞われたユダの民にとって,パレスティナ帰還とユダ王国再建の希望の象徴となった。前 538 年,世界の新しい覇者となったペルシアのキュロス王がユダの民のパレスティナ帰還を許可すると,捕囚された人々の一部はエルサレムに戻り,ヤハウェ神殿の再建にとりかかった。前 515 年工事は完了し,〈第二神殿〉時代が始まる。
続くヘレニズム時代,ユダヤ教徒がギリシア人から主権を奪い還したハスモン時代 (前 167‐前 63) を経て,エルサレムはローマ帝国の支配下に入る。アントニウス,のちアウグストゥスの信任を得てパレスティナの統治を任されたヘロデ大王 (在位,前 37‐前 4) は,エルサレム市とエルサレムのユダヤ教神殿の一大改築工事を行った。あらゆる意味でローマ趣味であったヘロデは,エルサレムをローマに似せて大理石の町にしようとして,大理石をわざわざ地中海の島々から輸入した。こうして金に糸目をつけず長年月をかけて建てたヘロデの神殿の美しさは,当時ヘロデとその専制を心から憎んだユダヤ教の学者たちでさえ感嘆して, 〈ヘロデの神殿を見ないうちはだれも壮麗な建物を見たことにはならない〉と言ったほどである。当時神殿の周囲を囲んでいた堅固な石壁の一部が現在も残っており,それに使用された石の大きなものは高さ 1m,長さは 10 ~ 12mもある。最近の考古学的発掘の結果,さらに大きな石や何本もの大理石の柱,神殿の内庭と外を結ぶ巨大な石段,幅広い石畳と歩道橋式階段など,ヘロデがエルサレム改造に注いだエネルギーの巨大さを証明するものが数多く明るみに出された。しかしイエスはその美しい神殿の建物もやがて破壊されてしまうことを予言した。事実,ゴルゴタにおけるイエスの処刑から 40 年ほど経た後 70 年,ローマの圧制に対して立ち上がったユダヤ教徒はエルサレムに集まってティトゥス将軍の率いるローマ軍と熾烈な戦いをしたが (ユダヤ戦争),結局ユダヤ教徒側の敗北に終わり,神殿を含むエルサレム中の建物は破壊され燃え落ちた。ユダヤ教徒はその後もう一度反ローマ革命を試みるが (バル・コホバの乱,132‐135),これも失敗,エルサレムはローマ風の町に建て直され,名前もアエリア・カピトリナAelia Capitolinaと変わった。ローマ人はかつてユダヤ教神殿のあった場所でユピテル神を祭り,ユダヤ教徒は原則としてエルサレム市内に住むことを禁じられた。
池田 裕
コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認するとともに,ローマ帝国におけるエルサレムの地位は一挙に重みを増した。同帝の母ヘレナ Helena は 326 年ここを訪れたが,ウェヌス (ビーナス) 神殿が破壊されその地下から十字架が発見されるに及んで,そこに聖墳墓教会が建設されることになった (335 献堂)。ユリアヌス帝はユダヤ教神殿の再建を企てたが,地震と同帝殺害とによりこの計画はついえた。その後エルサレムはキリスト教都市として発展し,多数の教会が建てられた。ビザンティン帝国のテオドシウス 2 世の妃エウドキアEudocia はエルサレムに定住し (444‐460),この動きを促進した。 614 年ササン朝ペルシアのホスロー 2 世の軍がエルサレムを占領し,イエス磔刑に用いられたと伝えられる十字架を持ち去る事件がおき, 629 年ビザンティン皇帝ヘラクレイオスが十字架を奪還してエルサレムへの勝利の帰還をとげるが,イスラム教徒のアラブ軍がエルサレムを包囲するのは,それからわずか 8 年後の 637 年であった。
638 年,エルサレム総大主教ソフロニウス Sophronius はカリフのウマル 1 世に降伏し,カリフは自ら同市に赴いた。彼はソフロニウスに会見し,キリスト教徒住民にジンミーとしての安全と教会の保護とを保証するとともに,預言者ムハンマドのミーラージュの出発点とされた岩を堆積物の下から発見して,そのかたわらでの礼拝を指揮したといわれる。メッカ,メディナに次ぐイスラム第 3 の聖地としてのエルサレムの地位は,こうして確立された。同市は初めアエリアからきたアラビア語でイーリーヤとも呼ばれたが,やがて〈聖なる家〉al‐Bayt al‐Muqaddas, Bayt al‐Maqdis (クドスはこれらを簡略にした形) と呼ばれるようになった。 ムアーウィヤ 1 世が同市でカリフたることを宣言しウマイヤ朝を開いた後,アクサー・モスクの前身にあたるモスクが建造され,さらに第 5 代カリフ,アブド・アルマリク (在位 685‐705) は問題の岩を中心に据える岩のドームを建立した (691 完成)。こうしてウマイヤ朝のもとで,ハラム・アッシャリーフが形を整えることとなった。イブン・アッズバイルによる第 2 次内乱 (683‐692) でウマイヤ朝がメッカ・メディナを失った時期があったことにより,それらとエルサレムとを巡礼の地として同等視するハディース (伝承) も引照されつつ,エルサレムの地位はいっそう高められた。マンスールをはじめアッバース朝初期のカリフたちもここを訪れたが,イスラム教徒の巡礼者の名も多く記録されている。バスラの女性の神秘思想家ラービアもここに住んで瞑想の生活を終えた。第 5 代カリフ,ハールーン・アッラシード (在位 786‐809) がカール大帝に聖墳墓教会の鍵を贈ったという物語は後世の創作であると見られるが,しかし,それはキリスト教徒の巡礼や宗教活動が十分に保護されていた事実を反映している。ユダヤ教徒についても同様であった。トゥールーン朝 (868‐905) 以降,十字軍の時期を除いてエジプトの支配者がエルサレムの統治者となったが,この間にユダヤ教徒のコミュニティも徐々に拡大した。 10 ~ 11 世紀のイブン・ハウカル,マクディシー, ナーシル・ホスローらの旅行家,地理学者は,この都市の重要性に関する知見を記述したが,そこではムスリム支配下でエルサレムが 3 宗教の共存する都市としての性格を発展させていたことが示されている。 1095 年バグダードでの輝かしい地位をなげうったガザーリーがまず赴いたのはエルサレムであり,アクサー・モスクはイスラム思想史に画期をひらく彼の新しい思索の場となったが,そのわずか 4 年後の 99 年,同市は十字軍に占領され, エルサレム王国が建設されることになる。
十字軍イデオロギーは,聖地がイスラム教徒によって奪われているという認識に立脚していたが,奪回すべき聖地におしよせた十字軍は,そこに東方教会のキリスト教徒が,アラブとして平和裡に生活していることを発見することになる。しかしこの共存は無視され,多数の住民が殺され,イスラム教徒とユダヤ教徒は同市からまったく駆逐された。岩のドームは〈主の神殿 Templum Domini〉に変えられた。しかし,こうしてエルサレムがキリスト教一色に塗りつぶされる 1 世紀を経たのち, 1187 年サラーフ・アッディーン (サラディン) はこれを奪回し,アクサー・モスクでの集団礼拝が盛大に行われ,ハラム・アッシャリーフは清掃・再建された。やがて同区域の西の壁に沿って,夜の旅でムハンマドを運んだ天馬ブラークをつないだとされる場所に, マガーリバ Magh´riba モスク (別称ブラーク・モスク) も建てられた。エルサレム回復後は,サラーフ・アッディーンが十字軍との戦争継続状態のもとでも,同市へのキリスト教徒の来訪・居住を許したように,ムスリム支配下のエルサレムは,再びキリスト教徒にもユダヤ教徒にも開かれた都市とされた。
1516 年にエルサレムはオスマン帝国の支配下に入るが,スレイマン 1 世は城壁の建設をはじめ都市施設の再開発を図り,この時代に住民の数はイスラム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒いずれも倍加し,とくにスペインの異端審問を逃れてアンダルスのユダヤ教徒 (セファルディム) が同市に移住してくるようになった。こうしてエルサレムは,それぞれにその象徴性を重視する 3 宗教の共生の場として,アラブ都市 (アラビア語で生活する諸宗教の人々の都市) という性格をいっそう発展させることになるのである。
しかしこのような都市のあり方に宗教,宗派対立のくさびをうちこみ,紛争を惹起させることによって,ヨーロッパ諸国がエルサレムを含む歴史的シリア地域に勢力を浸透させようとして競争しあったのが東方問題であった。オスマン帝国でフランスがカピチュレーションの先例を開いたことにより, カトリック教会はエルサレムにおいて優位な立場を得るが,これへのギリシア正教会の対抗,聖地管理権をめぐるフランス,ロシアの対立はクリミア戦争を招いた。また,イギリス領事の保護下で進出したアシュケナジム・ユダヤ教徒は,嘆きの壁で祈るために,ムスリム居住区であるマガーリバの袋小路に舗石や幕やベンチを持ちこんで紛争を起こした。 シオニズム運動が展開する 20 世紀になると,エルサレム問題はパレスティナ問題の最も深刻な局面となった。ユダヤ人の組織的植民の進行のなかで, 1929 年嘆きの壁事件が起きるが,紛争は,嘆きの壁がハラム・アッシャリーフの西の壁にあたるということに起因した。
47 年,国際連合総会は,パレスティナ分割決議により,エルサレムをアラブ国家にもユダヤ人国家にも属さぬ特別区域として国際化することを目指したが,翌 48 年イスラエル国家成立とともに起こったパレスティナ戦争 (第 1 次中東戦争) の結果,エルサレムはヨルダンとイスラエルとによって東西に分割された。そのためユダヤ教徒はヨルダン領に入ったユダヤ教聖地を訪れることができなくなった。しかしこの分断状況は 67 年六月戦争 (第 3 次中東戦争) によって大きく変化し,ハラム・アッシャリーフのある東エルサレム (旧市街) は,イスラエルに併合された。これに反対する国際連合のたび重なる決議にもかかわらず,イスラエルはマガーリバ地区のアラブ住民を立ち退かせて嘆きの壁に面する広場をつくるとか,電力,水道,流通などの施設面でも同市の〈再統合〉による都市の改造を推進した。 69 年オーストラリア人の放火によるアクサー・モスクの火災はムスリム世界を動揺させ, イスラム諸国会議成立の契機となった。 77 年エジプト大統領サーダートのエルサレム訪問とアクサー・モスクでの礼拝参加とともに開始されたエジプト・イスラエル間の和平交渉は, 80 年イスラエル国会によるエルサレム基本法 (統一された同市をイスラエルの永久の首都と宣言) の可決へとつながり,これに対抗してサウジアラビアは,81 年,エルサレムをパレスティナの首都とする要求を含んだ 8 項目提案を行うなど,混迷はいっそう深まり,エルサレム問題は,パレスティナ問題の解決をはばむ最も困難な課題として残されている。エルサレムの歴史が暗示する〈聖〉なる性格と〈平和〉ならしめる力とは,依然として人類の危機とそしてまたそれからの出口とを象徴しているともいえよう。 ⇒聖地問題
板垣 雄三
パレスティナ地域の中心的都市。ヘブライ語でイェルシャライムYerushalayim,アラビア語でクドスal‐Qudsと呼ばれる。ユダヤ教,キリスト教,イスラムという普遍主義的 3 宗教の共通の聖都。イスラエルはこの都市を首都と定めているが,国際的には承認されていない。 人口 59 万 1000 (1996,イスラエルの統計,東エルサレムを含む)。
[位置と景観]
地中海とヨルダン地溝帯とにはさまれた形で南北につらなる山地 (その北半をナーブルス山地またはベート・エル Beth‐El 山地,南半をハリール Khal ̄l 山地またはヘブロン山地と呼ぶ) の中央部分 (ユデヤ丘陵ともいう) にあたる岩尾根の上に位置する。尾根づたいに北から南にかけて,ナーブルス (シケム),ラーマッラー R´m All´h,エルサレム,ベツレヘム,ヘブロンという都市が並んでいるが,この南北をつなぐ街道と交差する形で,地中海岸と死海の谷とを東西に結ぶ道がエルサレムで山越えするようになっているので,古来エルサレムは交通の十字路,パレスティナの枢軸の地位を占めてきた。山の上にある都市なので,そこへの旅はまさしく〈のぼる〉という表現がふさわしい。尾根の上にあるといっても,標高 800m級の丘 (スコープス Scopus 山, オリーブ山,ヘルツル Herzl 山など) と深く切り込んだ谷 (キドロン Kidron の谷, ヒンノム Ben Hinnom の谷,ソレク Sorek の谷など) とが交錯して,かなりの凹凸がある。旧市街はほぼ標高 750m程度の高さにある。冬季には降雨があり,まれに降雪を見ることもある (年間降水量 500mm) が,この都市にとって水の供給は歴史的につねに大きな問題だった。古代以来,同市唯一の水源としてギホン Gihon の泉 (のちに処女マリアの泉とも呼ばれる) が利用され,その水をヒゼキヤ隧道で引いたシロア Shiloah (シロアム) の池をはじめ,もろもろの貯水池がつくられた。ヘブロンの近くのアッルーブ al‐‘ Arr仝b 川水源から延々と水道を引く工事も行われた。ローマ時代から第 1 次世界大戦まで天水をためるしっくい張りの地下貯水槽が家ごとにつくられ利用された。サビール (公共の給水場) や街頭の水売はオスマン帝国時代のこの町の風物詩ともいえた。
八つの城門をもつ旧市街の石の周壁は 1537 年ころオスマン帝国スルタン,スレイマン 1 世の命で築造されたといわれるが,旧市街はローマ植民市の都市プランの跡をとどめている。 19 世紀半ばまでは全市民が城壁の内側で生活していたが,その北西部分がキリスト教徒地区,南西部分がアルメニア人地区,中央部の南がユダヤ教徒地区,北東部から中央部にかけてがイスラム教徒 (ムスリム) 地区と分かれていた。大きく南東隅に広い平たんなスペースをとって,イスラム教徒がハラム・アッシャリーフal‐─aram al‐Shar ̄f (高貴なる聖所) と呼ぶ区域があり,ここに金色に輝く岩のドームとアクサー・モスクとがある。この区域はもとソロモンの建立した第一神殿,またバビロン捕囚後に再建された第二神殿があった場所で, モリヤ Moriah の丘とも呼ばれた。ハラム・アッシャリーフを囲む東・南・西側の壁は,ヘロデ王時代以来のものと見られるが,その西壁 (ハ・コテル・ハマーラウィー) には第一神殿の遺構があると考えられ,近代においてユダヤ教徒はこれを〈嘆きの壁〉として特に重要視するようになった。旧市街にはイエスの十字架の死を記念する聖墳墓教会 (ゴルゴタの丘の跡にあるとも信じられている) をはじめ,キリスト教の聖地が多数存在する。イエスが十字架を担って歩んだという苦難の道〈ウィア・ドロロサVia Dolorosa〉はイスラム教徒地区を通り抜けている。かくして旧市街の内部,周辺は,3 宗教の聖地,モニュメント (記念物,遺跡) がいりくみ充満しているのである ( 図 1 )。
旧市街 (東エルサレム) に対して,19 世紀以降発展した西エルサレムは際だった対照を示している。そこには,極端に厳格な信仰生活を持するユダヤ教徒のメア・シェアリム Me ’ ah She ’ arim 地区 (外来者は婦人の場合,ノースリーブやスカート姿など服装についても規制される) などのように旧市街の延長ともいえる部分もあるが,全体としては,都市計画に基づいてよく整備されたゆったりとした郊外住宅地がひろがっている。イギリス委任統治は,建物の容積率,高さ,パレスティナ産の石材の使用など,建築基準をつくりこれを励行させた。イスラエル建国後は,新市街の拡大は目ざましく,国会議事堂や博物館や劇場やコンサート・ホールや,ホロコーストを記憶するためのヤド・ウァシェム Yad Vashem など多くの超モダンな,ときには奇抜な新モニュメントが続々とつくられた。こうしてエルサレムは,歴史を刻む旧市街も,近代的な新開地も,それぞれに多様な顔をもつが,総体として,特徴ある石壁の累積した町の雰囲気を漂わせている。工業をもたず,ひたすら巡礼の対象として生き続けようとするこの都市のたたずまいは, 3 宗教の信徒の魂のあこがれにふさわしい。まぶしい陽光のもとで輝く町並みも,夕暮れのシルエットも,石と空とが区切る地平の美観を強調するものであった。しかし 1967 年以降の都市開発によるコンクリート高層住宅群は,現代の城壁,堡塁ともいうべく,この都市固有の地平の美観を破壊しつつある。
[市域の拡大]
エブス人 (びと) の砦,ついでダビデの町というエルサレムの起源の段階では,その範囲はのちの神殿区域の南方に局限されていたと考えられている。そこから北方に延び,しだいに市域を拡大して,ローマ支配期にほぼ今日の旧市街の規模のものとなった。この間の発展の経路は 19 世紀以来の考古学的調査により明らかにされてきたが,ことに 1967 年イスラエルの旧市街占領後に強行された発掘 (これに対しては国際的に厳しい批判がある) によって明らかにされた知見も多い。
城壁の外側への拡大が始まったのは,すでに述べたように 19 世紀半ばである。拡張はまず北西の方向をとった。地中海に面したヤーファー (ヤフォ) 港と結ぶ道路沿いに,ヤミン・モシェー (モーゼス・モンティフィオアの援助による) やナハラト・シウァやメア・シェアリムなどユダヤ教徒住居区が生まれ,またロシア租界 (コンパウンド) をはじめキリスト教諸派の施設がつくられていった。この拡大局面は,西から物資,ならびにキリスト教,ユダヤ教の巡礼者が流入し,宗教・宗派間の対立が扇動されるという東方問題的状況の進展と対応していた。 19 世紀末からは,ドイツ・コロニー,ギリシア・コロニー,カタモンなど庭園に囲まれた住宅地が開発され始めた。 1948‐49 年のパレスティナ戦争 (第 1 次中東戦争) により,エルサレムは東部のヨルダン領と西部のイスラエル領とに分割され,軍事境界線が市街を分断することになる。この戦争の前後を通じて,西エルサレムはその西側のリフター村,デイル・ヤーシン村,アイン・ケリーム村などを吸収合併するにいたった。さらに 67 年 6 月の戦争でイスラエルがヨルダン西岸の全域を占領したのみならず,東エルサレムを占領・併合するとともに,行政区画としてのエルサレム市は南北に向かって著しく拡大された。 1947 年以来の市域の政治的膨張の結果うまれてきた大エルサレムは, 〈公共の目的〉の名によるパレスティナ・アラブ住民の土地の強制収用の進行過程の上に成立したといえる。 67 年以降の南北への延長では,パレスティナ・アラブ市民の吸収すべき人口を最小におさえつつ,かつ収用地を最大化するような線引きが施行され,また〈再統合〉され拡張された区域のなかにユダヤ人専住集合住宅の大ブロック地帯を要塞として戦略的に配置・建設する政策が推進された ( 図 2 )。
[象徴的性格]
この都市が歴史的に担ってきた宗教的象徴性はまことに独特なものである。イスラエルの民の宗教にとって,それはダビデの町であり,母なる都市であった。ユダヤ教の展開のなかで,エルサレムは,神殿の再建と破壊の歴史を記憶することを通じて,また 19 世紀以降は〈嘆きの壁〉 (西壁) を記念することを通じて, 〈約束の地〉エレツ・イスラエルを象徴するものであった。キリスト教の成立にとって,この都市はナザレ人イエスの死と復活の舞台であり,またこの都市の破壊に関する予言および〈新しきエルサレム〉の約束の成就すべき場なのであった。イスラムにおいては,この都市は,ムハンマドに先立つユダヤ教,キリスト教にも共通する預言者たちの系列のなかで意義づけられ, キブラ (礼拝の方向) がメッカのカーバに変更されるまでは礼拝はエルサレムに向かって行われていた。そして何よりも,預言者ムハンマドが夜の旅 (メッカからエルサレムへの旅〈イスラー〉と天国への上昇〈ミーラージュ〉) に導かれたところであって,イスラム教徒の説話のなかでは天国と地獄の接点にあたる場所であった。ヘブライ語のイェルシャライムはしばしば〈平和の基礎〉と解釈された。また,この都市は,ギリシア語ではヒエロソリュマHierosolyma,アラビア語でクドス (いずれも〈聖〉を意味する) と呼ばれるように,その呼称においてもたえず〈聖〉なる性格が強調されてきた都市である。エルサレムはラテン語でウンビリクス・ムンディ umbilicus mundi (世界の中心) と認識されたごとく, 3 宗教において宇宙論的に,また終末論的に象徴化されつづけた。ヨーロッパにおけるエルサレム税も,千年王国の思想も,〈罪人〉たちの武装巡礼としての十字軍も,聖墳墓教会の〈解放〉をめざす大航海も,そしてキリスト受難劇とその行進も,さらには各地にエルサレムの〈分身〉 (たとえば村はずれのカルバリオ礼拝堂といった) がつくり出されることも,みな上記のことと深く関係していたのである。 3 宗教がそれぞれに人類に向かって開かれた普遍主義の立場に立つものであり,また世界にその信徒をかかえ,かつそれら 3 宗教のいずれもがエルサレムを象徴化するものであるところから,都市エルサレムのあり方は,ただちに世界全体の問題と化すことになるのである。
板垣 雄三
[歴史]
エルサレムの名は前 19 ~前 18 世紀のエジプトの〈呪詛文書〉に Rushalimum という形で出てくる。前 14 世紀のアマルナ文書では Urusalim,ヘブライ語旧約聖書では Yerushalayim と記される。原意は〈シャレムの礎〉 (シャレムはセム系諸族の黄昏と美の神) で,伝統的に〈平和〉と結びつけて解釈され,エルサレムは古くからシャレム神礼拝の中心地であった。
前 4 千年紀から居住の形跡が見られ,中期青銅器時代には町が形成された。前 1000 年ころ,ダビデ王が,エブス人が支配していたエルサレム南東の丘の要害シオンを征服して新しく〈ダビデの町〉と名づけた。エルサレムは統一されたばかりのイスラエル王国の首都となった。ダビデの死後王位についたソロモンは, 〈ダビデの町〉の北側に延びるモリヤの丘に,フェニキアから輸入した高価なレバノン杉や南方オフィルの地から運んできた金銀をぜいたくに使用した王宮やヤハウェ神殿を 20 年の歳月をかけて建てた。エルサレムは政治的だけでなく宗教的にも国家の中心となり,人々は毎年イスラエル全土からエルサレム巡礼に出かけた。
ソロモンの死後イスラエル統一王国が南北に分裂すると,エルサレムは南のユダ王国の首都となる。前 586 年,ユダはバビロニアのネブカドネザル王の率いる軍隊によって征服され,エルサレム全市が破壊されて炎上,人々はバビロニアの地に連れ去られる。その時から,エルサレムおよびその別称シオンはバビロン捕囚あるいはそれと同じ悲運に見舞われたユダの民にとって,パレスティナ帰還とユダ王国再建の希望の象徴となった。前 538 年,世界の新しい覇者となったペルシアのキュロス王がユダの民のパレスティナ帰還を許可すると,捕囚された人々の一部はエルサレムに戻り,ヤハウェ神殿の再建にとりかかった。前 515 年工事は完了し,〈第二神殿〉時代が始まる。
続くヘレニズム時代,ユダヤ教徒がギリシア人から主権を奪い還したハスモン時代 (前 167‐前 63) を経て,エルサレムはローマ帝国の支配下に入る。アントニウス,のちアウグストゥスの信任を得てパレスティナの統治を任されたヘロデ大王 (在位,前 37‐前 4) は,エルサレム市とエルサレムのユダヤ教神殿の一大改築工事を行った。あらゆる意味でローマ趣味であったヘロデは,エルサレムをローマに似せて大理石の町にしようとして,大理石をわざわざ地中海の島々から輸入した。こうして金に糸目をつけず長年月をかけて建てたヘロデの神殿の美しさは,当時ヘロデとその専制を心から憎んだユダヤ教の学者たちでさえ感嘆して, 〈ヘロデの神殿を見ないうちはだれも壮麗な建物を見たことにはならない〉と言ったほどである。当時神殿の周囲を囲んでいた堅固な石壁の一部が現在も残っており,それに使用された石の大きなものは高さ 1m,長さは 10 ~ 12mもある。最近の考古学的発掘の結果,さらに大きな石や何本もの大理石の柱,神殿の内庭と外を結ぶ巨大な石段,幅広い石畳と歩道橋式階段など,ヘロデがエルサレム改造に注いだエネルギーの巨大さを証明するものが数多く明るみに出された。しかしイエスはその美しい神殿の建物もやがて破壊されてしまうことを予言した。事実,ゴルゴタにおけるイエスの処刑から 40 年ほど経た後 70 年,ローマの圧制に対して立ち上がったユダヤ教徒はエルサレムに集まってティトゥス将軍の率いるローマ軍と熾烈な戦いをしたが (ユダヤ戦争),結局ユダヤ教徒側の敗北に終わり,神殿を含むエルサレム中の建物は破壊され燃え落ちた。ユダヤ教徒はその後もう一度反ローマ革命を試みるが (バル・コホバの乱,132‐135),これも失敗,エルサレムはローマ風の町に建て直され,名前もアエリア・カピトリナAelia Capitolinaと変わった。ローマ人はかつてユダヤ教神殿のあった場所でユピテル神を祭り,ユダヤ教徒は原則としてエルサレム市内に住むことを禁じられた。
池田 裕
コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認するとともに,ローマ帝国におけるエルサレムの地位は一挙に重みを増した。同帝の母ヘレナ Helena は 326 年ここを訪れたが,ウェヌス (ビーナス) 神殿が破壊されその地下から十字架が発見されるに及んで,そこに聖墳墓教会が建設されることになった (335 献堂)。ユリアヌス帝はユダヤ教神殿の再建を企てたが,地震と同帝殺害とによりこの計画はついえた。その後エルサレムはキリスト教都市として発展し,多数の教会が建てられた。ビザンティン帝国のテオドシウス 2 世の妃エウドキアEudocia はエルサレムに定住し (444‐460),この動きを促進した。 614 年ササン朝ペルシアのホスロー 2 世の軍がエルサレムを占領し,イエス磔刑に用いられたと伝えられる十字架を持ち去る事件がおき, 629 年ビザンティン皇帝ヘラクレイオスが十字架を奪還してエルサレムへの勝利の帰還をとげるが,イスラム教徒のアラブ軍がエルサレムを包囲するのは,それからわずか 8 年後の 637 年であった。
638 年,エルサレム総大主教ソフロニウス Sophronius はカリフのウマル 1 世に降伏し,カリフは自ら同市に赴いた。彼はソフロニウスに会見し,キリスト教徒住民にジンミーとしての安全と教会の保護とを保証するとともに,預言者ムハンマドのミーラージュの出発点とされた岩を堆積物の下から発見して,そのかたわらでの礼拝を指揮したといわれる。メッカ,メディナに次ぐイスラム第 3 の聖地としてのエルサレムの地位は,こうして確立された。同市は初めアエリアからきたアラビア語でイーリーヤとも呼ばれたが,やがて〈聖なる家〉al‐Bayt al‐Muqaddas, Bayt al‐Maqdis (クドスはこれらを簡略にした形) と呼ばれるようになった。 ムアーウィヤ 1 世が同市でカリフたることを宣言しウマイヤ朝を開いた後,アクサー・モスクの前身にあたるモスクが建造され,さらに第 5 代カリフ,アブド・アルマリク (在位 685‐705) は問題の岩を中心に据える岩のドームを建立した (691 完成)。こうしてウマイヤ朝のもとで,ハラム・アッシャリーフが形を整えることとなった。イブン・アッズバイルによる第 2 次内乱 (683‐692) でウマイヤ朝がメッカ・メディナを失った時期があったことにより,それらとエルサレムとを巡礼の地として同等視するハディース (伝承) も引照されつつ,エルサレムの地位はいっそう高められた。マンスールをはじめアッバース朝初期のカリフたちもここを訪れたが,イスラム教徒の巡礼者の名も多く記録されている。バスラの女性の神秘思想家ラービアもここに住んで瞑想の生活を終えた。第 5 代カリフ,ハールーン・アッラシード (在位 786‐809) がカール大帝に聖墳墓教会の鍵を贈ったという物語は後世の創作であると見られるが,しかし,それはキリスト教徒の巡礼や宗教活動が十分に保護されていた事実を反映している。ユダヤ教徒についても同様であった。トゥールーン朝 (868‐905) 以降,十字軍の時期を除いてエジプトの支配者がエルサレムの統治者となったが,この間にユダヤ教徒のコミュニティも徐々に拡大した。 10 ~ 11 世紀のイブン・ハウカル,マクディシー, ナーシル・ホスローらの旅行家,地理学者は,この都市の重要性に関する知見を記述したが,そこではムスリム支配下でエルサレムが 3 宗教の共存する都市としての性格を発展させていたことが示されている。 1095 年バグダードでの輝かしい地位をなげうったガザーリーがまず赴いたのはエルサレムであり,アクサー・モスクはイスラム思想史に画期をひらく彼の新しい思索の場となったが,そのわずか 4 年後の 99 年,同市は十字軍に占領され, エルサレム王国が建設されることになる。
十字軍イデオロギーは,聖地がイスラム教徒によって奪われているという認識に立脚していたが,奪回すべき聖地におしよせた十字軍は,そこに東方教会のキリスト教徒が,アラブとして平和裡に生活していることを発見することになる。しかしこの共存は無視され,多数の住民が殺され,イスラム教徒とユダヤ教徒は同市からまったく駆逐された。岩のドームは〈主の神殿 Templum Domini〉に変えられた。しかし,こうしてエルサレムがキリスト教一色に塗りつぶされる 1 世紀を経たのち, 1187 年サラーフ・アッディーン (サラディン) はこれを奪回し,アクサー・モスクでの集団礼拝が盛大に行われ,ハラム・アッシャリーフは清掃・再建された。やがて同区域の西の壁に沿って,夜の旅でムハンマドを運んだ天馬ブラークをつないだとされる場所に, マガーリバ Magh´riba モスク (別称ブラーク・モスク) も建てられた。エルサレム回復後は,サラーフ・アッディーンが十字軍との戦争継続状態のもとでも,同市へのキリスト教徒の来訪・居住を許したように,ムスリム支配下のエルサレムは,再びキリスト教徒にもユダヤ教徒にも開かれた都市とされた。
1516 年にエルサレムはオスマン帝国の支配下に入るが,スレイマン 1 世は城壁の建設をはじめ都市施設の再開発を図り,この時代に住民の数はイスラム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒いずれも倍加し,とくにスペインの異端審問を逃れてアンダルスのユダヤ教徒 (セファルディム) が同市に移住してくるようになった。こうしてエルサレムは,それぞれにその象徴性を重視する 3 宗教の共生の場として,アラブ都市 (アラビア語で生活する諸宗教の人々の都市) という性格をいっそう発展させることになるのである。
しかしこのような都市のあり方に宗教,宗派対立のくさびをうちこみ,紛争を惹起させることによって,ヨーロッパ諸国がエルサレムを含む歴史的シリア地域に勢力を浸透させようとして競争しあったのが東方問題であった。オスマン帝国でフランスがカピチュレーションの先例を開いたことにより, カトリック教会はエルサレムにおいて優位な立場を得るが,これへのギリシア正教会の対抗,聖地管理権をめぐるフランス,ロシアの対立はクリミア戦争を招いた。また,イギリス領事の保護下で進出したアシュケナジム・ユダヤ教徒は,嘆きの壁で祈るために,ムスリム居住区であるマガーリバの袋小路に舗石や幕やベンチを持ちこんで紛争を起こした。 シオニズム運動が展開する 20 世紀になると,エルサレム問題はパレスティナ問題の最も深刻な局面となった。ユダヤ人の組織的植民の進行のなかで, 1929 年嘆きの壁事件が起きるが,紛争は,嘆きの壁がハラム・アッシャリーフの西の壁にあたるということに起因した。
47 年,国際連合総会は,パレスティナ分割決議により,エルサレムをアラブ国家にもユダヤ人国家にも属さぬ特別区域として国際化することを目指したが,翌 48 年イスラエル国家成立とともに起こったパレスティナ戦争 (第 1 次中東戦争) の結果,エルサレムはヨルダンとイスラエルとによって東西に分割された。そのためユダヤ教徒はヨルダン領に入ったユダヤ教聖地を訪れることができなくなった。しかしこの分断状況は 67 年六月戦争 (第 3 次中東戦争) によって大きく変化し,ハラム・アッシャリーフのある東エルサレム (旧市街) は,イスラエルに併合された。これに反対する国際連合のたび重なる決議にもかかわらず,イスラエルはマガーリバ地区のアラブ住民を立ち退かせて嘆きの壁に面する広場をつくるとか,電力,水道,流通などの施設面でも同市の〈再統合〉による都市の改造を推進した。 69 年オーストラリア人の放火によるアクサー・モスクの火災はムスリム世界を動揺させ, イスラム諸国会議成立の契機となった。 77 年エジプト大統領サーダートのエルサレム訪問とアクサー・モスクでの礼拝参加とともに開始されたエジプト・イスラエル間の和平交渉は, 80 年イスラエル国会によるエルサレム基本法 (統一された同市をイスラエルの永久の首都と宣言) の可決へとつながり,これに対抗してサウジアラビアは,81 年,エルサレムをパレスティナの首都とする要求を含んだ 8 項目提案を行うなど,混迷はいっそう深まり,エルサレム問題は,パレスティナ問題の解決をはばむ最も困難な課題として残されている。エルサレムの歴史が暗示する〈聖〉なる性格と〈平和〉ならしめる力とは,依然として人類の危機とそしてまたそれからの出口とを象徴しているともいえよう。 ⇒聖地問題
板垣 雄三