2010年の君子蘭。1年でこんなに増えました。
認知症になった今年87歳になる母をかわいそうがり、十年前から心をこめて介護してきた今年95歳の父がお風呂にはいっている時に心筋梗塞になったらしく、GWが始まる直前(4月27日)に突然死いたしました。(追記:やはり疲労していたのですね。なんとかすべきでした。いくら自主自立した生活をしたがり最後まで子どもに甘えたがらなかった父だとしても......悔む)
遺言には、
「どうか母を温かくめんどうみてください。残りの人生を快適に過ごせるようにしてあげてください。」
という一文がありました。「惚れた弱み」・別名「愛」ですね(本人の弁)。認知症になった母を不憫がり、どうせ自分が先に逝くだろうから残された母がどうなるかを最後まで気にしていた父でした。父の遺志を継ぎ、母にはできるかぎりのことをしたいと思います。
突然すぎ、またカクシャクとして元気で(粗暴でない)元日本兵でしたので、まだ父が亡くなったという実感は湧いてきません。が、思い出すに、父はエンジニアでしたので、数学・物理大好き人間でした。おかげで数学の私の家庭教師でありつづけ、ありがたかったですね。そのかわり数学っておもしろいという錯覚をうえつけられました。(笑)。そして父は外国語も大好き人間でして、一番 好きだったのは英語でした。(互いに好きな外国語が違っていて救われていたのかも。ほっ)。やはり、外国語に興味を持つとおもしろいことが沢山経験できるぞという妄想をうえつけられました。なにしろ父は、「数学」「外国語」はおもしろいぞ、おもしろいぞと踊ってみせるので、私は確実にだまされたようです。つい面白いと思ってしまったから。(笑)
あと、「努力する」ってものすごくダサイことだということを身をもって教えてもらったことが一番思い出ぶかいです。高校・大学の私が質問した数学の5,6題の問題を深夜まで唸って解いている父の姿ほどダサイものはなかった。その背中を思い出します。
別に解答を出すのに唸っているのではありません。学校時代の数学の問題に解答があるのは当たり前です。解答のある問題しか出さないから、だから必ず答えは出るよと励まされました。学校数学は解答を出すのが本来の目的ではない。解答は比較的すぐ出るものです(少なくとも父は)。 問題はその先。出した解答が正解か否かを証明する式づくりにエネルギーを使う。証明式は美しくなければならない。(笑)。つまり無駄がなく、論理的に1本すーっと筋が通っているということが大事。完成した証明式の美しさが問題なのだから、時間はいくらかけてもいいと言われ、スピードを要求されたことはなかった。仕上がりの質が大事であれば、作業のスピードにはなんの価値もない。一般的にはむしろ時間をかけたものが質が高くなる気がします。難問を一題、ゆったりと二週間ほどかけて、睡眠をいれつつ発想を変え、解答にせまっていく。それがおもしろい。一日に発想したことは起きている間は固まってしまい、別角度で考えることができない。そこで睡眠をいれる。目覚めると、あ~らふしぎ。昨日まで見えなかったことが見えるのだ。(この話は高3の1学期までのはなし。私は高3の2学期から数学を続けるのが嫌になり勉強をやらなくなった。文学に急に興味が移ったからだが、そのへんの話は長くなるのでやめよう)
ただ数学の「こころ」は父から教えてもらった気がしている。途中で投げ出したので口はばったいが、こうやって学校数学はゆっくりと「論理的思考力」を訓練する学科になるのではないだろうか?そして全ての思考力の基礎になる。ひるがえり、今の教育はまちがっていませんか?早く解答を出せる人が優秀で頭がいいって本気で思っている人が多いのではないでしょうか?部分的には正しいかもしれないけれど、全体的・本質的意義を大まちがいしていると思いませんか?学校教育にいる間はまだ能力があるかどうかを問う段階ではないと思う。学ぶ努力をする段階だ。たかが学校教育の段階で近視眼的に能力があるとか、頭が良いとか悪いとか言いすぎると思う。目先の成果を焦る先生の言葉は、生徒・学生は聞かなくていい。大嘘だから(笑)。心をうつ先生の言葉だけ信じよう。論理的思考力を訓練をしたり、知らないことを知って喜びで目を輝かせるためには、精神的に脅迫的でない環境が必要だ。ゆったりと、どっしり構えることが大事だと思う。そうやって「自分の頭でものを考える」訓練ができるのだ。つまり、先生などの個人的問題よりも、巨視的な制度的問題が大きいように思える。教育の目的を何に設定するかだ。
それなのにナンセンスなスピード、スピード、暗記力、反射神経の有無のみで子どもたちを苦しめているように思える。脅迫的すぎるセンターシケン。答えをマークシートに書くんだって?採点者が楽するのに協力させるため?なまけものの先生たち!出題者・採点者はバカの壁じゃないの?センターシケンがフランスのバカロレアを真似したものだと思ってる人がいるみたいだけれど、大嘘です。形式はちょっと似ていても(形式も本当は似てないけれど)精神は似て非なるものです。日本の教育の目的は一貫して自分たちのためになるものですか?私は絶対にそうだとは思えない。日本の教育を本気で考えるなら選抜試験を変えるべきだと思いませんか?つまり偏差値教育をやめることが肝心だと思っています。それだけで学校教育は劇的に変わると思います。(本気になればの話だけれど)。そんな甘いものではないと反論したいだろうか?でもね、学校が塾産業から自立するにはそれっきゃないと思う。塾が偏差値で受験生の志望大学を割り振っているのですよ。とっくに気づいていると思いますけれど。だから学校は塾の奴隷なのですよ。他の企業・制度の奴隷でもあるでしょう。偏差値教育を排除したら、どういう教育をしたらいいのかは、「自分の頭で考える」。
こんな悪条件のなかで、現場でがんばっているマトモな先生には頭がさがります。現場はひどいものねぇ。
外国語もねぇ~、父は学生の時から、95歳まで続けていたから、ダサイ、ダサイですよ!ダサイものなのですよ~。
(追記:ああ、やはり思い出を書くと美化してしまいますね。書きにくかったので何度も書き直したのだけれど、止めればよかったのか?ホトトギス)
閑話休題。
お葬式をすませ、あとは父の家を5日ほどかけ、私の兄弟、私の息子などを総動員し人海戦術でこざっぱりと整理と掃除をしてGMは終わり、戻ってきたばかりです。
ただいま口もきけないほどクタクタです。お掃除などという普段やりなれないことを集中してやったせいでしょうか。(笑)
帰ってきたら君子蘭が花ざかりでした。2009年は花は5本だったのに、今年はなんと7本花茎が立ちました。(1本に見える2か所は、2本くっついているの)。この勢いで増えていったらどうなるのでしょうか?おそろしいものがある。でも、ちょっと慰められました。
しかし、いつ父が死んだことを実感するのでしょうか?だめなんですよ。実感できないんですよ。