とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

「鎮静剤」マリー・ローランサン

2006年12月15日 05時49分32秒 | 

    「鎮静剤」 マリー・ローランサン(堀口大学訳)                   原詩         絵画

 退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です

 悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です

 不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です

 病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です

 捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です

 よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です

 追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です

 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です

 ----------------------
別訳です。  
    「鎮静剤」(大島辰夫訳)

 もの憂いよりは悲しくて

 悲しいよりは不仕合わせ

 不仕合わせよりは苦しくて

 苦しいよりは捨てられて

 捨てられたよりは天涯孤独

 孤独の身よりは流浪の身

 流浪の身よりは死んだ者

 死んでるよりは忘れられて。

★ここで、例のシャネルの言葉のギロッチン。
「マリー・ローランサンの母親はチョッキの仕立て屋でね、パンタロンや娘を作ってたってわけ。ここに青を少し、ピンクを少し....あんなのデッサンじゃないわ、ただのしみよ」(『ココ・シャネル』クロード・ドレより)
シャネルは、舞台活動もしていて、衣装担当となり、舞台装置担当のピカソと張り合い、観衆の感動をピカソを打ち負かして奪い取るなどのこともしていたようなので、画家も仲間だったらしく、かような辛口エールとなるらしい.....
まあ、いずれも1900年代前後のベルエポックとよばれる古いお話でした。フランス人は17世紀の建物なども大事にしているようなので、彼らにとっては、どのくらい古いかどうかは分かりませんが.......

ふろく:
マリー・ローランサン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


マリー・ローランサン(Marie Laurencin, 1883年10月31日 - 1956年6月8日)は、20世紀前半に活動したフランスの女性画家・彫刻家である。
[編集] 生涯
マリー・ローランサンは1883年にパリで私生児として生まれた。ラマルティーヌ高校に学び、画家を志し、アカデミー・アンベールで絵を勉強する。ここでジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けた。1907年にサロン・ド・アンデパンダンに初出展。このころ、ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)という安アトリエで、パブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合った。
アポリネールと出会った時、彼は27歳、ローランサンは22歳。二人は恋に落ちた。だが1911年にアポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者として警察に拘留された頃には(彼は無罪であったが)、ローランサンのアポリネールへの恋愛感情も覚めてしまった。その後もアポリネールはローランサンを忘れられず、その想いを歌った詩が彼の代表作『ミラボー橋』であるという。
1912年に開いた最初の個展は評判となり、その後、次第にキュビスムから脱する。ローランサンが30歳になる頃にはエコール・ド・パリの新進画家として知られるようになった。1914年に31歳でドイツ人男爵と結婚。これによりドイツ国籍となったため、同年に第一次世界大戦が始まると、はじめマドリッド、次にバルセロナへの亡命生活を余儀なくされた。戦後、1920年に離婚して単身パリに戻る。
パリに戻ったローランサンは、パステルカラーの簡潔で華やかな、夢見るような少女像という独特の画風を作り上げ、フランス史上狂乱の時代(Les Années Folles)と称された1920年代にあって、時代を体現した売れっ子画家となった。パリの上流婦人の間ではローランサンに肖像画を注文することが流行となったという。また、舞台装置や舞台衣装のデザインでも成功した。関わったものとしては、フランシス・プーランクのバレエ『牝鹿』や、オペラ・コミークの『娘たちは何を夢みる』、コメディ・フランセーズ、シャンゼリゼ劇場で上演されたローランド・プティのバレエなどが知られている。
第二次世界大戦の際はフランスを占領したドイツ軍によって自宅を接収されるといった苦労もありながらも、創作活動を続けた。1956年にパリにて死去した。
[編集] マリー・ローランサン美術館
長野県茅野市の蓼科湖畔にあるマリー・ローランサン美術館は、世界でも唯一のローランサン専門の美術館である。館長の高野将弘氏が収集した個人コレクションをもとに1983年に開館し、現在では収蔵点数は500点余りを数える。
[編集] 代表作
• 『招待』(1908年)(ボルチモア美術館)
• 『二人の少女』(1915年)(テート・ギャラリー)
• 『ココ・シャネル嬢の肖像』(1923年)(オランジュリ美術館)
• 『接吻』(1927頃)(マリー・ローランサン美術館)
• 『花摘む少女』(1948年)(個人所蔵)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ミラボー橋」アポリネール... | トップ | 今年、最後の投稿 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

」カテゴリの最新記事