[集団主義]
日本の小集団の原型はムラである。ムラ人は共同で働くことがあり (労働集約的水田耕作,ことに田植と収穫),共同で季節的行事に従うことがある (神社の祭り)。彼らは相互に結婚することもある (その内部での結婚が禁忌とされた集団は,大陸と比べて日本では著しく小さい)。ムラ人にとって,ムラ共同体への所属感は,圧倒的に重要な価値であり,一般にその他のすべての価値に優先する。その意味で成員の共同体への高度の組込まれが,共同体内部の秩序の維持と,対外的団結に役だつことはいうまでもない。
現世主義の世界観は,現世=共同体に超越する絶対的価値を認めないから,価値としての所属感に対する挑戦は起こりがたい。ムラの全体が何かの目標を追求するとき,ムラ人個人がその目標を批判し,みずから正しいと信じるところを徹底的に主張する根拠はない。個人の意見の正しさをその当人に保証する〈天命〉も, 〈自然の理〉も,人格的な神の与える〈十戒〉もないからである。かくして非超越的な世界観は,集団主義を強め,逆に強い集団主義の内部においては,集団を超える絶対的価値への信仰が成立しがたいだろう。世界観,あるいはその背景としての信仰体系と,集団主義との,いずれが原因であり,いずれが結果であるかを問うことには,おそらく意味がない。日本文化の根本的な部分が,思想的には現世主義,社会的には集団主義として表現されるのである。
ムラの内部の構造は,一方では権威主義的なタテの人間関係を軸とし,他方では生産面での協力や贈答の形式に表れているようなヨコの関係を支えとする。集団の種類によって,ある場合にはタテの関係が支配的であり (親分・子分関係,主従関係),ある場合にはヨコの関係が目だつ (若者宿,娘宿)。近代日本の企業集団の場合には,第 2 次大戦以前にはタテ構造,大戦後にはヨコ構造が典型的である。同様のことは家族内部の人間関係についてもいえる。すなわち大戦後の日本社会に起こった主要な変化は,集団内部の構造のタテ型からヨコ型への移行である。しかし集団所属意識の変化ではない。
タテ型からヨコ型への移行は,集団内部での平等主義への傾向と切り離しがたい。制度的にみれば,世襲の身分制を廃止した明治維新は,平等主義への第 1 段階であり,男女平等を徹底した占領下の改革は,第 2 段階である。戦後改革は,平等主義に関するかぎり,第 2 段階であったから,単なる制度上の改革にとどまらず,実質的な社会的変化を伴ったにちがいない。それとは対照的に,人権と少数者の権利の尊重を要求する制度上の改革には,その方向での社会的変化が伴わなかった。なぜなら集団主義は,まさに少数者の権利の無視をその特徴の一つとするからである。集団所属感が他の価値に優先する条件のもとで,少数意見が尊重されることはない。 〈みんなと違う〉ことは,それ自身が悪である。違う意見をもつムラ人に対してムラがとる典型的な態度は,第 1 に説得であり,第 2 に,説得が成功しない場合には〈村八分〉である。
ムラ人にとって所属感が重要な価値であるためには,所属と非所属,すなわちムラ人と非ムラ人 (よそ者) の区別が明瞭でなければならない。特定のムラは,特定の地域に対応し,地域の境界は明瞭であって,その地域内に住むのがムラ人,地域外に住むのがよそ者である。ムラ人の行動様式は,同じムラの人間に対する場合と,ムラの外の人間に対する場合とでまったく違う。
ムラの外には,2 種類の空間がある。近い空間は隣ムラであり,そこには同じ言語と同じ風俗習慣がある。隣ムラとの友好的な関係は,結婚 (嫁取り) に典型的にみられる交換である。非友好的な関係は,各種の争い,ことに水利権または入会権の争いである。遠い空間は,そこへムラ人が出向かず,そこから旅人が来るところである。旅人は,ムラ人と同等の人間ではなく,ムラ人以上の存在であるか (カミ),以下の存在であり (乞食,下人,泥棒,遊女,芸人),しばしば以上にして同時に以下の存在である (山伏,巫女 (みこ),旅の法師など)。このような事情は,基本的には,江戸時代まで変わらない。
近代日本では,中央集権的な政治,同質的な文化,全国的市場の成立などの条件が,〈近い空間〉を拡大した。かつての隣ムラが日本全国に広がった,ということもできる。しかし江戸時代 300 年の鎖国に慣れた多くの日本人の意識にとって,拡大されたムラの境界は,日本の国境を超えない。ムラ人=日本人と〈外人〉=非日本人との区別は,今日なお大きな意味をもちつづけ,〈外人〉は,日本人以上か以下である。たとえば中国人,朝鮮人は,1868 年 (明治 1) を境として,日本人以上から以下に変わった。アメリカ人は,1945 年を境として,〈鬼畜〉から崇拝の対象に変わった。 〈外人〉が日本人と同等の,もう一人の人間であったことはない。そのことから〈一辺倒〉が生じ,またそのことから〈外人〉との意思疎通の困難が生じる。
集団主義の一面は,その全体の構造・枠組みを変えることが,内部のだれにとっても困難だということである。なぜなら枠組みを変えることは,少数意見の貫徹を意味し,原則としてそれを不可能にするのが,集団主義の特徴そのものだからである。不変の枠組みを前提とすれば,集団内部での個人の行為の善悪は,当人の〈心〉の問題,意図の問題に帰着するだろう。
江戸時代の後半期に流行した石門心学の要点は,第 1 に,行為の評価は,その結果よりも意図によるべきこと,第 2 に,善意は,利己的でなく,社会から与えられた役割を果たそうとする意志として定義されること,第 3 に,最高の倫理的価値は,つねに善意の生じるような心的状態を培うことであった。 赤穂浪士の復讐の圧倒的な人気――それは歌舞伎や映画を通じて 200 年以上も持続した――も,主君への忠誠という動機 (家臣の役割に忠実な自己犠牲という善意),および彼らの集団の団結とかかわり,その行動の結果 (私的暴力の行使による多数の犠牲者) とはかかわらない。石門心学の〈正しい心〉 (善意) は,またしばしば〈誠〉 (誠心誠意) と呼ばれる。明治以後の大衆は,勤王の〈至誠〉に殉じて江戸幕府を倒そうとした醍長の志士たちと, 〈誠〉の旗を掲げてその志士たちを暗殺して幕藩体制を守ろうとした新斤組とを,同時に好んでいた。幕府を倒すか守るかが問題ではなく,当人の心・意図,つまるところ〈誠〉が問題である。
集団主義とともに,この倫理的主観主義は,今日なお日本社会の中で機能している。議会で野党の議員が予算案について質問すると,大臣が〈その問題には誠心誠意対処してゆく所存でございます〉と答える。この国では,だれもその答えを冗談とは受け取らないのである。
[競争原理]
日本社会に長く存在し,多かれ少なかれ今日の日本にもかかわる文化の基本的な特徴は,およそ以上のごとくである。しかし今日の日本社会がもつ活動的性格は――それが 1960 年代以降の産業の分野で著しいことはいうまでもない――,伝統的条件のみからは説明されないだろう。江戸時代の社会は,集団主義的であり,必ずしも活動的ではなかった。多くの分野においては,むしろ停滞的であったとさえいえる。維新以後の社会の活動性は,維新以後に加わった新しい条件と密接にかかわっていたにちがいない。その新しい条件は,おそらく競争原理である。
競争が成り立つためには,当事者が同じ目標を追求すること,当事者相互の間にある程度の平等の条件が存在すること,競争が社会的秩序の中に一つの持続的要素として組み入れられるためには,目標を追求する行動に当事者の合意した規則性のあることが必要である。明治以後,さらにサンフランシスコ条約発効以後日本が国際社会に復帰してから,教育の分野での入学試験競争,産業の分野での自由市場における企業間競争は,明らかにその必要を満たす。個人間の競争を通じて訓練された労働力が産業に供給され,企業間の競争に参加すると同時に,企業内部での昇進競争を強める,というのが,その結果である。企業間競争に勝つためには,企業の能率を高めなければならず,企業の能率を高めるためには,適材適所の人員配置が必要だろうから,企業の集団主義 (終身雇用,年功序列,共同体的性格) はそれ自身の内部に一種の能力主義を発達させ,そのことが個人間の競争を激しくする。
かくして今日の日本社会の活動性は,単に集団主義によってではなく,まさに競争的集団主義によって特徴づけられるのである。
加藤 周一
日本の小集団の原型はムラである。ムラ人は共同で働くことがあり (労働集約的水田耕作,ことに田植と収穫),共同で季節的行事に従うことがある (神社の祭り)。彼らは相互に結婚することもある (その内部での結婚が禁忌とされた集団は,大陸と比べて日本では著しく小さい)。ムラ人にとって,ムラ共同体への所属感は,圧倒的に重要な価値であり,一般にその他のすべての価値に優先する。その意味で成員の共同体への高度の組込まれが,共同体内部の秩序の維持と,対外的団結に役だつことはいうまでもない。
現世主義の世界観は,現世=共同体に超越する絶対的価値を認めないから,価値としての所属感に対する挑戦は起こりがたい。ムラの全体が何かの目標を追求するとき,ムラ人個人がその目標を批判し,みずから正しいと信じるところを徹底的に主張する根拠はない。個人の意見の正しさをその当人に保証する〈天命〉も, 〈自然の理〉も,人格的な神の与える〈十戒〉もないからである。かくして非超越的な世界観は,集団主義を強め,逆に強い集団主義の内部においては,集団を超える絶対的価値への信仰が成立しがたいだろう。世界観,あるいはその背景としての信仰体系と,集団主義との,いずれが原因であり,いずれが結果であるかを問うことには,おそらく意味がない。日本文化の根本的な部分が,思想的には現世主義,社会的には集団主義として表現されるのである。
ムラの内部の構造は,一方では権威主義的なタテの人間関係を軸とし,他方では生産面での協力や贈答の形式に表れているようなヨコの関係を支えとする。集団の種類によって,ある場合にはタテの関係が支配的であり (親分・子分関係,主従関係),ある場合にはヨコの関係が目だつ (若者宿,娘宿)。近代日本の企業集団の場合には,第 2 次大戦以前にはタテ構造,大戦後にはヨコ構造が典型的である。同様のことは家族内部の人間関係についてもいえる。すなわち大戦後の日本社会に起こった主要な変化は,集団内部の構造のタテ型からヨコ型への移行である。しかし集団所属意識の変化ではない。
タテ型からヨコ型への移行は,集団内部での平等主義への傾向と切り離しがたい。制度的にみれば,世襲の身分制を廃止した明治維新は,平等主義への第 1 段階であり,男女平等を徹底した占領下の改革は,第 2 段階である。戦後改革は,平等主義に関するかぎり,第 2 段階であったから,単なる制度上の改革にとどまらず,実質的な社会的変化を伴ったにちがいない。それとは対照的に,人権と少数者の権利の尊重を要求する制度上の改革には,その方向での社会的変化が伴わなかった。なぜなら集団主義は,まさに少数者の権利の無視をその特徴の一つとするからである。集団所属感が他の価値に優先する条件のもとで,少数意見が尊重されることはない。 〈みんなと違う〉ことは,それ自身が悪である。違う意見をもつムラ人に対してムラがとる典型的な態度は,第 1 に説得であり,第 2 に,説得が成功しない場合には〈村八分〉である。
ムラ人にとって所属感が重要な価値であるためには,所属と非所属,すなわちムラ人と非ムラ人 (よそ者) の区別が明瞭でなければならない。特定のムラは,特定の地域に対応し,地域の境界は明瞭であって,その地域内に住むのがムラ人,地域外に住むのがよそ者である。ムラ人の行動様式は,同じムラの人間に対する場合と,ムラの外の人間に対する場合とでまったく違う。
ムラの外には,2 種類の空間がある。近い空間は隣ムラであり,そこには同じ言語と同じ風俗習慣がある。隣ムラとの友好的な関係は,結婚 (嫁取り) に典型的にみられる交換である。非友好的な関係は,各種の争い,ことに水利権または入会権の争いである。遠い空間は,そこへムラ人が出向かず,そこから旅人が来るところである。旅人は,ムラ人と同等の人間ではなく,ムラ人以上の存在であるか (カミ),以下の存在であり (乞食,下人,泥棒,遊女,芸人),しばしば以上にして同時に以下の存在である (山伏,巫女 (みこ),旅の法師など)。このような事情は,基本的には,江戸時代まで変わらない。
近代日本では,中央集権的な政治,同質的な文化,全国的市場の成立などの条件が,〈近い空間〉を拡大した。かつての隣ムラが日本全国に広がった,ということもできる。しかし江戸時代 300 年の鎖国に慣れた多くの日本人の意識にとって,拡大されたムラの境界は,日本の国境を超えない。ムラ人=日本人と〈外人〉=非日本人との区別は,今日なお大きな意味をもちつづけ,〈外人〉は,日本人以上か以下である。たとえば中国人,朝鮮人は,1868 年 (明治 1) を境として,日本人以上から以下に変わった。アメリカ人は,1945 年を境として,〈鬼畜〉から崇拝の対象に変わった。 〈外人〉が日本人と同等の,もう一人の人間であったことはない。そのことから〈一辺倒〉が生じ,またそのことから〈外人〉との意思疎通の困難が生じる。
集団主義の一面は,その全体の構造・枠組みを変えることが,内部のだれにとっても困難だということである。なぜなら枠組みを変えることは,少数意見の貫徹を意味し,原則としてそれを不可能にするのが,集団主義の特徴そのものだからである。不変の枠組みを前提とすれば,集団内部での個人の行為の善悪は,当人の〈心〉の問題,意図の問題に帰着するだろう。
江戸時代の後半期に流行した石門心学の要点は,第 1 に,行為の評価は,その結果よりも意図によるべきこと,第 2 に,善意は,利己的でなく,社会から与えられた役割を果たそうとする意志として定義されること,第 3 に,最高の倫理的価値は,つねに善意の生じるような心的状態を培うことであった。 赤穂浪士の復讐の圧倒的な人気――それは歌舞伎や映画を通じて 200 年以上も持続した――も,主君への忠誠という動機 (家臣の役割に忠実な自己犠牲という善意),および彼らの集団の団結とかかわり,その行動の結果 (私的暴力の行使による多数の犠牲者) とはかかわらない。石門心学の〈正しい心〉 (善意) は,またしばしば〈誠〉 (誠心誠意) と呼ばれる。明治以後の大衆は,勤王の〈至誠〉に殉じて江戸幕府を倒そうとした醍長の志士たちと, 〈誠〉の旗を掲げてその志士たちを暗殺して幕藩体制を守ろうとした新斤組とを,同時に好んでいた。幕府を倒すか守るかが問題ではなく,当人の心・意図,つまるところ〈誠〉が問題である。
集団主義とともに,この倫理的主観主義は,今日なお日本社会の中で機能している。議会で野党の議員が予算案について質問すると,大臣が〈その問題には誠心誠意対処してゆく所存でございます〉と答える。この国では,だれもその答えを冗談とは受け取らないのである。
[競争原理]
日本社会に長く存在し,多かれ少なかれ今日の日本にもかかわる文化の基本的な特徴は,およそ以上のごとくである。しかし今日の日本社会がもつ活動的性格は――それが 1960 年代以降の産業の分野で著しいことはいうまでもない――,伝統的条件のみからは説明されないだろう。江戸時代の社会は,集団主義的であり,必ずしも活動的ではなかった。多くの分野においては,むしろ停滞的であったとさえいえる。維新以後の社会の活動性は,維新以後に加わった新しい条件と密接にかかわっていたにちがいない。その新しい条件は,おそらく競争原理である。
競争が成り立つためには,当事者が同じ目標を追求すること,当事者相互の間にある程度の平等の条件が存在すること,競争が社会的秩序の中に一つの持続的要素として組み入れられるためには,目標を追求する行動に当事者の合意した規則性のあることが必要である。明治以後,さらにサンフランシスコ条約発効以後日本が国際社会に復帰してから,教育の分野での入学試験競争,産業の分野での自由市場における企業間競争は,明らかにその必要を満たす。個人間の競争を通じて訓練された労働力が産業に供給され,企業間の競争に参加すると同時に,企業内部での昇進競争を強める,というのが,その結果である。企業間競争に勝つためには,企業の能率を高めなければならず,企業の能率を高めるためには,適材適所の人員配置が必要だろうから,企業の集団主義 (終身雇用,年功序列,共同体的性格) はそれ自身の内部に一種の能力主義を発達させ,そのことが個人間の競争を激しくする。
かくして今日の日本社会の活動性は,単に集団主義によってではなく,まさに競争的集団主義によって特徴づけられるのである。
加藤 周一