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とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

「フセイン、最後の戦い」(1)――『イラク 戦争と占領』酒井啓子氏

2008年03月11日 10時04分46秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
『イラク 戦争と占領』酒井啓子氏(2004年1月刊行) より

第二章 フセイン、最後の戦い

   ――(イラクを攻撃しようという)邪悪な軍は、その背に棺桶を担いでやってきて、恥ずべき失敗のなかで命を落とし、計画を撤回してすごすごと引き返すか、自らの墓穴を掘るかであろう――
  (2002年8月8日、イラン・イラク戦争「戦勝」記念日でのフセイン大統領演説」

      1 アメリカ、戦争の太鼓を叩き始める

       9・11から悪の枢軸へ

 アメリカのブッシュ政権が、イラクを標的とした、結果的にあまりにも無謀なこの戦争を決意するに至った最終的な理由は、いったい何だったのだろうか。この問いにはまだ確たる答えが示されていない。戦争の前でも後でも、世界各地で行われた世論調査は、「イラクの民主化」というアメリカの「善意」を人々が決して信じていないことを示している。
 その答えは、「石油利権の独占」、「ユダヤ・ロビーの影響」、「アメリカの新保守主義者による新たな帝国主義」、あるいは「ブッシュ大統領自身のあまりにも信仰熱心なキリスト教保守主義」であったりする。

 そのなかでもやはり、2001年の9・11同時多発テロ事件がなければ、その決断は下されなかっただろう。9・11事件は中東問題をアメリカの国内問題に変えてしまった。アメリカ国民が安心して暮らしていくために「テロに対する戦い」を継続し、努力しているのだということを示し続けなければならなくなった。

 だが、イラクを直接攻撃することが9・11直後から明示的だったわけではない。むしろメディアや一部の対イラク強硬派のフセイン政権糾弾の先走りに、慎重な姿勢すら見せていた気配がある。
 「イラクを叩く」という方針が具体性を帯びてきたのは、2001年末のアフガニスタン戦争での、予想外の早い軍事的成功によってであろう。
 ブッシュはイラクとイラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しして、ほとんど中止しかけていた亡命イラク人の反フセイン活動への資金援助を、いきなり増額するに至ったのである。

       戦争を準備し始める

 それでもブッシュ政権は2002年の7月頃までは具体的な対イラク行動に取り掛かろうとはしなかった。その原因には、4,5月頃のパレスチナ問題の深刻化があった。
この時期にシャロン内閣は、一気にパレスチナ自治区に軍事侵攻し、大きな被害をパレスチナ自治政府に与えていたのである。特に4月初めにジェニンで発生した大虐殺は、アラブ・イスラーム諸国のみならず世界に衝撃を与えた。このような空気のなかで、同じアラブの国であるイラクをアメリカが叩く、と発表することは、アメリカとイスラエルに対するアラブ・イスラーム諸国の不信、反発が蔓延するなかで、火に油を注ぐようなものだった。
 しかし7月に入ると、徐々にアメリカの対イラク攻撃の準備が明らかになっていく。ブッシュ大統領は7月8日、「フセイン政権は排除されなければならない」と宣言し、同じ頃、『ニューヨーク・タイムズ』紙が具体的な対イラク攻撃計画をリークした。

 米国内ではにわかに政府に対して具体的な行動計画を明らかにするよう、求める声が高まっていった。
 ここで留意すべきなのは、質問の多くが戦争そのもに反対だという観点から行われたのではなく、そのための方法と戦費コストの問題に集中したという点である。とりわけ焦点となったのは、戦闘自体もさることながら戦後処理にも多くのコストと長い米軍の駐留が必要になるのではないか、という(後から考えたら至極もっともな)懸念であった。

 こうしたブッシュ政権の明白な戦争への意思表示に対して、ちょうど同じ時期にバアス党革命記念日を迎えていたイラクでは、7月17日の革命記念日演説でフセイン大統領が、「アメリカの攻撃には抵抗する」こと、そして「政権は決して倒れない」との決意を述べていた。

   
         それから理由を考える
 
 戦費コストの問題とともに政策決定者たちの間で議論になったのは、国際社会との関係である。慎重論が次々にでたが、これらもまた、戦争遂行自体についての慎重論ではなく、戦争を単独で行うこと、あるいは入念な準備なしに行うことに対する慎重論である。
 「9・11以降、せっかく国際的反テロ同盟がアメリカを中心に確立されたのに、ここで国際社会の了解を得ずして対イラク攻撃に踏み切れば、瓦解する危険性がある」

 こうした「国際派」の意見を踏まえて、ブッシュ政権は国際社会にも納得のいく「戦争理由」を探すことになった。それがイラクの大量破壊兵器保有疑惑であり、国連の査察活動に対する非協力姿勢である。まずはこの問題を国連に訴え、武力行使に踏み切る、という手順を踏むことをアメリカは選び、パウエル国務長官が説得工作を一手に引き受けていくことになった。

         国連での攻防

 アメリカが本気で動いていることは、おそらくサダム・フセインその人が一番よく認識していただろう。すでに7月終わりの時点から、対クルド北方防衛の強化に着手したとか、大統領次男のクサイが率いる特別軍が首都周辺に非常線を張っているといった情報が伝えられるようになってきた。と同時に、国連に対する抱きこみも即座に開始された。ブッシュ政権がまだ国際社会への働きかけを始める以前の8月2日には、イラク政府はブリックスUNMOVIC委員長をイラクに招待したばかりか、同5日にはイラク国内で査察活動に参加できるよう米議会派遣団を招待する、と発表した。こうした施策は、結局「ただの策略にすぎない」としてアメリカにも国連にも一蹴されただけだったが、しかしなんとかしてアメリカの攻撃を回避しようとするフセインの真剣さだけは、はっきりしていたといえよう。
 それが最も如実に現れたのが、9月半ば以降である。フセインは9月17日、これまで4年間拒否し続けてきた査察団の入国を、一転受け入れると表明した。逆に慌てたのはアメリカであったが、新たにより厳しい条件での査察体制を定めた安保理決議を採択することが必要だ、との方針に固執した。

 だが、この頃から、アメリカの急ぎがちで強引な国連の動かし方に疑義を呈し始めていたのが、フランスとロシアである。

 新たな国連決議としてアメリカが提案した草案には、イラクが決議に違反すればすぐにでも戦争に突入できるように、武力行使を示唆した「あらゆる手段を使う」という表現が盛り込まれていた。

 これに対してフランスとロシアは、イラクに査察の受け入れを求める決議と、それに違反した場合の制裁を規定した決議は分けられるべきだ、という「2段階論」を主張した。一回の安保理で決議で戦争にお墨付きがついたら困る、問題が発生したら実際にそれが武力行使に値するかどうか、もう一度国連に諮れ、というのが両国の主張である。
 だがこの段階では、フランスもロシアも、それほど徹底的にアメリカと角をつきあわせるほどの考えがあったわけではない。

        足並み揃える安保理
 実際、フランスとロシアにとって最も大きな懸念は、自国がフセイン政権下で取り交わした利権契約、膨大な借金を返してもらえるのか、ということだった。
 10月初めに行われたロシア・アメリカ間のビジネス・エネルギー・サミットで、エヴァンス米商務長官は、「ロシアの対イラク既得権益をフセイン政権後にも認めるか」と質問されて、「そういう問いは時期尚早だ」と答えたが、その翌日には、アメリカのリードで着々とポスト・フセイン体制づくりを進めていた在外イラク人の反フセイン勢力が、「ロシアのフセイン政権下での契約は正当な権利である」と答えている。11月末には在米ロシア大使が「フセイン政権が転覆されたとしても、ロシアの対イラク債権の返済は確保できた。今後はロシアとアメリカの協力でイラクの油田開発を行うことができる」とまで言い切った。

 この発言は、イラク政府を激怒させたにちがいない。これまでロシアを対イラク協力につなぎとめておくための最大の「頼みの綱」、ロシアの大手石油会社のルク・オイル社が受注していた北ルメイラ油田開発契約を、12月8日にイラク側が一方的に破棄したのである。フセイン政権が、これまでアメリカの武力阻止するために最も期待していたのがロシアであった。だからこそ、アメリカの「攻撃」意図が明白になってきた8月半ばに、400億ドルにものぼる対ロシア五ヵ年経済協力協定を結んで、絆を太くしておこうとしたのである。この時点でロシアは頼りにならず、とイラク側が認識した、ということだろう。

 いずれにせよ、こうしたフランスやロシアの二段階安保理決議案もさほど熱心に追及されず、アメリカが表現上の妥協を行い、「武力行使」の明言から、「(違反行為があれば)深刻な事態を招く」に変えることで対イラク決議案は11月8日、ほぼアメリカの原案通りに採択された。安保理非常任理事国であるシリアすらも賛成させたというのは、このときのパウエル国務長官の外交努力がいかに熱心であったかを示すものである。

      必死に折れるフセイン
 11月8日に新たに採択された国連決議1441号の内容は、それまでのイラク政府の対応を見る限りでは、到底受け入れられるようなものではなかった。まず、「決議採択から1週間以内に査察を受け入れ、30日以内にすべての大量破壊器に関する情報を開示し、提出すべし」という日程自体が、どだい無理な要求である。さらには査察団が、「イラクの陸空の交通を自由に封鎖できる」、「無人偵察機を自由に飛行させられる」、「自由に口頭・文書での情報にアクセスでき、これらの情報を自由に差し押さえできる」ものとしており、力ずくでも彼らが「自由」に国内を動き回れることになっている。そもそもイラク政府が「スパイ」と談じる査察官が勝手にイラク国内の要所を家捜ししてまわること自体、これまでイラク政府が「主権の侵害」と避難してやまないことだった。
 主権侵害という点で言えば、次の項目はその最たるものだろう。「イラク人科学者など、査察に協力してインタビューに応じた者に対しては、希望があれば家族ともども亡命できるよう保障する」この条項に関しては、さすがのブリックスUNMOVIC委員長自身も相当な抵抗を示した。再三アメリカに「より厳しい査察を行え」と圧力をかけられても、「我々は亡命エージェントではない」として、実行したくない意志を露にしていたのである。
 ともあれ、これらの内容が意図していたことは一つであった。イラク政府に対する挑発である。あくまで国連決議は、フセインを躓かせて「決議違反」の口実を得るためのものでしかなかった、と見てよかろう。まずフセインが決議受け入れを拒否すれば、それが武力行使への最短距離となる。
 だが、ここでも意外なことに、フセインは決議を受け入れた。当然イラク国内ではメディアを通じて轟々たる避難の嵐が吹き荒れ、国会では11月11日、フセインの判断を待たずに「国連決議を拒否する」との決議がなされた。だが、フセインは同月13日、「ひどい内容であるが」と断った上で、国連決議の受諾を「不承不承」表明したのである。

        100%の支持
 フセインの国民への慰撫政策は、この時期内政面でも頻繁に行われている。10月15日には任期の7年目に当たっていた大統領信任投票が行われ、フセインは「有権者100%の投票率で100%の得票」結果で信任された。この「100%」は前代未聞であり、かつ「後のない」数字だったといえよう。これを乗り切れば二度と信任投票などしなくてすむようになるか、それともできなくなるかのどちらかしかない、という状況判断は、正しく「背水の陣」にほかならない。
 そしてその「国民の支持」に応える形で、同月20日には政府は政治犯に全面的な恩赦を発表した。「刑務所がカラになった」と評されるほど、これまた前代未聞のものであった。一緒に一般の重罪犯も釈放されてしまったが、それが戦後の途方もない略奪の横行を呼ぶことになったのは、フセインが最後に放った「恩赦」の皮肉な効果であろう。
 が、いかに「べた折れ」状態とはいえ、フセイン自身の亡命あるいは政権委譲という選択肢は決して考えられることがなかった。フセイン自身は「戦争を望むものではないが、どんな闘いにも勝つ。我々は従属するために生まれたのではない」(2002年10月初めの軍幹部への演説)と、政権維持に強気の姿勢を示し続けた。
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