勇気と宗教に関する私の思考の系譜を振り返る。
・勇気のある人にはクリスチャンが多い。
・クリスチャンには勇気がある。
・クリスチャンのみならず、しっかりした宗教心・精神性のある人には勇気がある。
・(その逆の)俗物には勇気がない。
と、私の思考が発展してきた。先鋭化してきた、というべきか。
さらに思考を先鋭化させると、
勇気がない人は俗物だ
と言える。言いたい。言ってしまおう。言うべきだ。
勇気を発揮しなければ俗物に堕する。
そういう危機感・緊張感を持って暮らしたい。私は少なくともそう暮らしている。
「俗物に堕してなるものか」「自分は何者なんだ」「自分はどうありたいんだ」
…そういう「問い」を自分に発し続ける。自分を定義づける。自分を限定する。自分の輪郭を自分で定める。
それが自制であり、自律であり、人格形成であり、昔でいう「修養」ってことでしょう。
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卑しい、醜い、みっともない、さもしい人間類型に自分はなってたまるか。
その意地と美学と痩せ我慢が、自分の輪郭を形作っていく。
やせ我慢ってのは美学なんですね。
※ 昨年9月にも似たようなことを書いていた。 こちら