11月23日(火)から25日(木)まで、クラブツーリズム社主催の[錦繍の京都紅葉全周]に参加しました。
23日の朝、東京は小雨模様でしたが、途中から晴れて絶好の行楽日和になりました。
*
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
京都駅から観光バスに乗り、最初に訪れたのは[金戒光明寺]でした。
この秋のJRキャンペーン『そうだ 京都、行こう』のポスターに掲載されているので、JRの駅
でご覧になった方も多いと思います。
光明寺のパンフレットによりますと、
『くろ谷(京都市左京区黒谷)の地は、法然上人(浄土宗祖源空)43歳の承安5(1175)
年、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時、紫雲全山にたなびき、光明があたりを照らし
たことから、浄土宗最初の念仏道場を開かれた場所である。浄土宗7大本山の一つで、[山越阿弥
陀仏(重文)]など、数多くの文化財を所蔵する』とあります。
バスを降り、参道を歩くと、早くも紅葉の一部が見えてきます。
早速それを撮る方々がいて、前へ進むのに苦労するほどです。

昭和19年に再建されたという大きな[御影堂【大殿】]の拝観のため内陣に入ると、座像の法然上人75歳の御影が奉安されています。
御影を拝観の後、御庭を巡ることにしました。
心憎いばかりの紅葉の配置が、御庭の景観を一層引き立たせています。


JRのポスターにある[山門]は、急な階段の中程にあり、万延元(1860)年落成、楼上正面
には後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額があります。
この楼上からは、京都市内が一望できます。
そのためか、幕末には京都守護職、会津藩1000名の本陣になったとのことでした。
*
光明寺の境内は、西山連峰、黒谷の西2kmの京都御所、西10kmの小倉山を望み、山門、阿弥陀
堂、本堂など18もの塔頭寺院が建てられています。
*
拝観の後、これらの塔頭を眺めながら、歩いて10分ほどのところにある[真如堂]へ向かいまし
た。
*
真如堂(しんにょどう)
その総門前は参拝客で大混雑、総門の写真を撮るのに一苦労でした。
総門前で、現地ガイドの川上氏から真如堂拝観についての案内があり、約1時間の自由時間となり
ました。
総門を潜ると右側に、紅・黄葉に囲まれるようにして三重塔があり、これを撮るカメラマンが大勢
いて、通行の邪魔になるほど。無理もない、この景観はどうしても画像に収めたい場所なのです。
本堂への参拝の気持ちもあるが、その前にも一枚ということのようです。
こうなると群集心理で、小生もとカメラを構える。それにしても観光客が多い。
人影なしで撮影するには、三重塔の上部だけ写すしかないような状態でした。

入場券とともに頂いたパンフによると、真如堂は、正式には鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらく)寺といい、真如堂は大本堂
のことをいうとのことです。
永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいざん)が、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を、現在の地近くにあった、東三条女院(藤原詮子(せん
し)、円融天皇女御・後一条天皇の御母)の寝殿に堂荘厳を施して安置したのが始まりとのことです。
その後、一条天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として浄土宗の開祖法然上人や、浄土真宗の開祖・親鸞上人を始めとする多くの念仏行者
や民衆の篤い信仰を集め、特に女人の深い帰依を受けてきたという。
1万2,000坪の境内には、15間四方の堂々たる本堂の他、総門、元三大師堂、鐘楼堂などが並び、文化年間に再建された三重塔が趣を添えていま
す。
*
ここで靴を脱ぎ、本堂へ入り、阿弥陀如来を拝礼。
本堂から渡り廊下を経て書院へ。ここに[涅槃の庭]がある。
この庭は、1988年、曽根三郎氏によって作庭された。ガンジス川支流の沙羅の林の中で、北(左手)を頭にしたお釈迦様が入寂され、その回
りを弟子や生類が囲んで嘆き悲しんでいる様子が、石組や白砂、植栽などによって表現されているという。垣根の向こうには大文字山などの東山
が横たわっています。

再び渡り廊下を経て本堂の裏手に回ると、御庭の紅葉が見頃になっており、多数の参拝客(?)が思い思いの場所でカメラを構えている。何処を
構図しても絵になるように思え、シャッターを切る。
ここで外へ出て、三重塔付近の紅葉を眺めながらそぞろ歩く。
その近くの[吉祥院]も、紅葉に囲まれて静かに佇んでいました。

*
真如堂からバスまでの急な階段と坂道を下るのに汗が流れる。予定では真如堂を先に回るようになっていましたが、現地ガイドの話で、逆に回っ
た方が楽であると分かったので金戒光明寺を先にしたとのことでした。
なるほど、この坂道を苦労して登ってくるツアーの方が多かったので、これは大助かりでした。
*
2カ所の寺院を回っただけで、すっかり紅・黄葉に酔い痴れて、[ホテル日航プリンセス京都]へチェックイン。
*
一休みの後、夕食のため鴨川沿いにある料理旅館の[幾松]へ。
食事の前、料亭の支配人から、幾松の部屋で、この建物にまつわる次のような説明がありました。
*
当[幾松]は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓幾松(のちの松子
夫人)の木屋町寓居跡です。
木戸孝允が没した翌日、松子夫人は剃髪染衣し翠香院と号し、お二人の想い出に溢れた当屋敷で余生をお過ごしになりました。
国土の歴史的景観に寄与しているものとして、二棟が国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
幾松は若狭小浜生まれ。小浜藩士の木崎市兵衛と、医師の細川益庵の娘との間に生を受けました。しかし幼少の頃、藩内
の事件から父、市兵衛が妻子を残して出奔。8歳の時に京都に出てそののち三本木の芸妓になりました。
桂小五郎とのロマンスは文久のころから始まったと伝えられております。
当時、反勢力より、常に命を狙われていた桂小五郎を自らの命をかけ、機転を利かせ護りぬいた幾松の気丈さと愛の深さ、また2人の信頼関係
の強さは、維新後の明治時代の人々にも多くの尊敬を集めました。
明治維新後、桂小五郎は木戸孝允と改名し、参議など要職を歴任、政府内の進歩派の中心として、廃藩置県、藩政奉還に尽力しました。
幾松は山口藩士の岡部富太郎の養女となり松子と改名、正式に木戸孝允の妻となりました。
殺伐とした幕末動乱期に花を咲かせた2人のロマンスは、時を経た現代の私たちにも深い共感を呼ぶあでやかなエピソードとして名高いもので
す。
幕末当時、幾度となく当時の長州藩の尊王攘夷派の反勢力により詮議を受けたと伝えられている当屋敷でございますが、今も尚、抜け穴、飛び
穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存いたしております。
当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられておりました。
新撰組に踏み込まれた際に、桂を衣装箱に匿い、その前で平然と三味線をつま弾きながら小唄を歌っていたという部屋での説明の後、別室で京
料理を楽しみました。
*
下右の画像は【本日のお献立】、下左の画像はそのうちの【八寸】。
その他、食前酒・柚子酒、先付・くみ上げ湯葉・煎雲丹・オクラ、がありました。

*
今日の最後は[高台寺の夜間ライトアッブ特別拝観]です。
バスが東大路通を下るうちに、次第に渋滞が激しくなり、ノロノロ運転から遂にはしばしストップするようになりました。この時期、夜間拝観で
きる寺院が多く、高台寺やその先にある清水寺へ向かう観光客の車が原因です。
特に高台寺へ向かう車が左折すると、狭い道路の両側に車が連なり、動きが取れなくなるほどでした。
問題はこの付近に住んでいる方々で、家からの出入りに困っていると、川上ガイドの説明に、さもありなんと思われました。(翌朝の京都新聞
に、高台寺から付近住民に対するお詫びの広告が出ていました)
とにかく、一般車両の駐車場が満杯なのでどうにもならない状態です。ただ観光バス専用の駐車場は空いているので、道路が三叉路に来ると、
延々と続く一般車を通り越して駐車場に入ることができました。
ところが、今度は入場券を買う人たちの長い行列にびっくりさせられました。ここでも観光バスで来た場合は、待ち時間も無く、優先的に入場す
ることができました。
この観光バスを利用することを広く周知して、一般車の利用をストッブさせることは、できないものなのでしょうか?
*
高台寺(こうだいじ)
東山霊山(りょうぜん)の山麓にある、正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して
高台院湖月尼と号す)が慶長元年7月(1624)建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号した。
造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗さを極めたという。
しかし、寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは開山堂、霊屋(おたまや)、傘亭、時雨
亭、表門、観月台などで、現在国の指定重要文化財となっている。
なお北政所は天正16年(1588)に従一位に叙せられ、慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り、寛永元年(1624)9
月6日76歳で亡くなられた。
霊屋は、秀吉と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像が安置されている。須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施さ
れ、世に高台寺蒔絵と称され、桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。
小堀遠州作の庭園はハギの名所として知られ、傘(からかさ)亭と時雨(しぐれ)亭の2茶室、観月台は伏見城の遺構で、国の重要文化財に指定さ
れている。 [高台寺パンフレット]
*

上左の画像は、庭園から見た霊屋と、折からの月の出を撮ったもので、右は臥龍池に映る紅葉です。
*
これで第一日の観光を終わり、未だ混雑の続く東大路通りからホテルへと戻りました。
9時33分東京(ひかり507号) → 12時15分京都(観光バス)12時30分 … 12時50分金戒光明寺14時00分 → 14時10分真如堂15時00分 → 15時30分ホテル日航プリンセス京都16時30分 → 17時00分幾松(夕食)18時45分 → 19時10分高台寺20時05分 → 20時40分ホテル
【約13000歩】

23日の朝、東京は小雨模様でしたが、途中から晴れて絶好の行楽日和になりました。
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金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)

この秋のJRキャンペーン『そうだ 京都、行こう』のポスターに掲載されているので、JRの駅
でご覧になった方も多いと思います。
光明寺のパンフレットによりますと、
『くろ谷(京都市左京区黒谷)の地は、法然上人(浄土宗祖源空)43歳の承安5(1175)
年、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時、紫雲全山にたなびき、光明があたりを照らし
たことから、浄土宗最初の念仏道場を開かれた場所である。浄土宗7大本山の一つで、[山越阿弥
陀仏(重文)]など、数多くの文化財を所蔵する』とあります。
バスを降り、参道を歩くと、早くも紅葉の一部が見えてきます。
早速それを撮る方々がいて、前へ進むのに苦労するほどです。


昭和19年に再建されたという大きな[御影堂【大殿】]の拝観のため内陣に入ると、座像の法然上人75歳の御影が奉安されています。
御影を拝観の後、御庭を巡ることにしました。
心憎いばかりの紅葉の配置が、御庭の景観を一層引き立たせています。





には後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額があります。
この楼上からは、京都市内が一望できます。
そのためか、幕末には京都守護職、会津藩1000名の本陣になったとのことでした。
*
光明寺の境内は、西山連峰、黒谷の西2kmの京都御所、西10kmの小倉山を望み、山門、阿弥陀
堂、本堂など18もの塔頭寺院が建てられています。
*
拝観の後、これらの塔頭を眺めながら、歩いて10分ほどのところにある[真如堂]へ向かいまし
た。
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真如堂(しんにょどう)

総門前で、現地ガイドの川上氏から真如堂拝観についての案内があり、約1時間の自由時間となり
ました。
総門を潜ると右側に、紅・黄葉に囲まれるようにして三重塔があり、これを撮るカメラマンが大勢
いて、通行の邪魔になるほど。無理もない、この景観はどうしても画像に収めたい場所なのです。
本堂への参拝の気持ちもあるが、その前にも一枚ということのようです。
こうなると群集心理で、小生もとカメラを構える。それにしても観光客が多い。
人影なしで撮影するには、三重塔の上部だけ写すしかないような状態でした。


入場券とともに頂いたパンフによると、真如堂は、正式には鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらく)寺といい、真如堂は大本堂
のことをいうとのことです。
永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいざん)が、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を、現在の地近くにあった、東三条女院(藤原詮子(せん
し)、円融天皇女御・後一条天皇の御母)の寝殿に堂荘厳を施して安置したのが始まりとのことです。
その後、一条天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として浄土宗の開祖法然上人や、浄土真宗の開祖・親鸞上人を始めとする多くの念仏行者
や民衆の篤い信仰を集め、特に女人の深い帰依を受けてきたという。
1万2,000坪の境内には、15間四方の堂々たる本堂の他、総門、元三大師堂、鐘楼堂などが並び、文化年間に再建された三重塔が趣を添えていま
す。
*
ここで靴を脱ぎ、本堂へ入り、阿弥陀如来を拝礼。
本堂から渡り廊下を経て書院へ。ここに[涅槃の庭]がある。
この庭は、1988年、曽根三郎氏によって作庭された。ガンジス川支流の沙羅の林の中で、北(左手)を頭にしたお釈迦様が入寂され、その回
りを弟子や生類が囲んで嘆き悲しんでいる様子が、石組や白砂、植栽などによって表現されているという。垣根の向こうには大文字山などの東山
が横たわっています。


再び渡り廊下を経て本堂の裏手に回ると、御庭の紅葉が見頃になっており、多数の参拝客(?)が思い思いの場所でカメラを構えている。何処を
構図しても絵になるように思え、シャッターを切る。
ここで外へ出て、三重塔付近の紅葉を眺めながらそぞろ歩く。
その近くの[吉祥院]も、紅葉に囲まれて静かに佇んでいました。


*
真如堂からバスまでの急な階段と坂道を下るのに汗が流れる。予定では真如堂を先に回るようになっていましたが、現地ガイドの話で、逆に回っ
た方が楽であると分かったので金戒光明寺を先にしたとのことでした。
なるほど、この坂道を苦労して登ってくるツアーの方が多かったので、これは大助かりでした。
*
2カ所の寺院を回っただけで、すっかり紅・黄葉に酔い痴れて、[ホテル日航プリンセス京都]へチェックイン。
*
一休みの後、夕食のため鴨川沿いにある料理旅館の[幾松]へ。
食事の前、料亭の支配人から、幾松の部屋で、この建物にまつわる次のような説明がありました。
*
当[幾松]は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓幾松(のちの松子
夫人)の木屋町寓居跡です。
木戸孝允が没した翌日、松子夫人は剃髪染衣し翠香院と号し、お二人の想い出に溢れた当屋敷で余生をお過ごしになりました。
国土の歴史的景観に寄与しているものとして、二棟が国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
幾松は若狭小浜生まれ。小浜藩士の木崎市兵衛と、医師の細川益庵の娘との間に生を受けました。しかし幼少の頃、藩内
の事件から父、市兵衛が妻子を残して出奔。8歳の時に京都に出てそののち三本木の芸妓になりました。
桂小五郎とのロマンスは文久のころから始まったと伝えられております。
当時、反勢力より、常に命を狙われていた桂小五郎を自らの命をかけ、機転を利かせ護りぬいた幾松の気丈さと愛の深さ、また2人の信頼関係
の強さは、維新後の明治時代の人々にも多くの尊敬を集めました。
明治維新後、桂小五郎は木戸孝允と改名し、参議など要職を歴任、政府内の進歩派の中心として、廃藩置県、藩政奉還に尽力しました。
幾松は山口藩士の岡部富太郎の養女となり松子と改名、正式に木戸孝允の妻となりました。
殺伐とした幕末動乱期に花を咲かせた2人のロマンスは、時を経た現代の私たちにも深い共感を呼ぶあでやかなエピソードとして名高いもので
す。
幕末当時、幾度となく当時の長州藩の尊王攘夷派の反勢力により詮議を受けたと伝えられている当屋敷でございますが、今も尚、抜け穴、飛び
穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存いたしております。
当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられておりました。
新撰組に踏み込まれた際に、桂を衣装箱に匿い、その前で平然と三味線をつま弾きながら小唄を歌っていたという部屋での説明の後、別室で京
料理を楽しみました。
*
下右の画像は【本日のお献立】、下左の画像はそのうちの【八寸】。
その他、食前酒・柚子酒、先付・くみ上げ湯葉・煎雲丹・オクラ、がありました。


*
今日の最後は[高台寺の夜間ライトアッブ特別拝観]です。
バスが東大路通を下るうちに、次第に渋滞が激しくなり、ノロノロ運転から遂にはしばしストップするようになりました。この時期、夜間拝観で
きる寺院が多く、高台寺やその先にある清水寺へ向かう観光客の車が原因です。
特に高台寺へ向かう車が左折すると、狭い道路の両側に車が連なり、動きが取れなくなるほどでした。
問題はこの付近に住んでいる方々で、家からの出入りに困っていると、川上ガイドの説明に、さもありなんと思われました。(翌朝の京都新聞
に、高台寺から付近住民に対するお詫びの広告が出ていました)
とにかく、一般車両の駐車場が満杯なのでどうにもならない状態です。ただ観光バス専用の駐車場は空いているので、道路が三叉路に来ると、
延々と続く一般車を通り越して駐車場に入ることができました。
ところが、今度は入場券を買う人たちの長い行列にびっくりさせられました。ここでも観光バスで来た場合は、待ち時間も無く、優先的に入場す
ることができました。
この観光バスを利用することを広く周知して、一般車の利用をストッブさせることは、できないものなのでしょうか?
*
高台寺(こうだいじ)
東山霊山(りょうぜん)の山麓にある、正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して
高台院湖月尼と号す)が慶長元年7月(1624)建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号した。
造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗さを極めたという。
しかし、寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは開山堂、霊屋(おたまや)、傘亭、時雨
亭、表門、観月台などで、現在国の指定重要文化財となっている。
なお北政所は天正16年(1588)に従一位に叙せられ、慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り、寛永元年(1624)9
月6日76歳で亡くなられた。
霊屋は、秀吉と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像が安置されている。須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施さ
れ、世に高台寺蒔絵と称され、桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。
小堀遠州作の庭園はハギの名所として知られ、傘(からかさ)亭と時雨(しぐれ)亭の2茶室、観月台は伏見城の遺構で、国の重要文化財に指定さ
れている。 [高台寺パンフレット]
*


上左の画像は、庭園から見た霊屋と、折からの月の出を撮ったもので、右は臥龍池に映る紅葉です。
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これで第一日の観光を終わり、未だ混雑の続く東大路通りからホテルへと戻りました。
9時33分東京(ひかり507号) → 12時15分京都(観光バス)12時30分 … 12時50分金戒光明寺14時00分 → 14時10分真如堂15時00分 → 15時30分ホテル日航プリンセス京都16時30分 → 17時00分幾松(夕食)18時45分 → 19時10分高台寺20時05分 → 20時40分ホテル
【約13000歩】
