平成22年11月24日(水)曇後晴
ホテルは京都の下京区烏丸の都心にあるため、東側にある部屋の窓からの眺めはあまり良くない。
天気予報では晴と言っているが、雲が多い。
朝食はレストラン・アンバーコートで、バイキングスタイルの洋食、品数も豊富で言うことはない。
*
バスの今日の座席は最後尾、とはいっても後方は空きが多いので、一人でゆったりと座る。
今日の最初の訪問地は、いわゆる洛西からさらに奥にある神護寺。
都心から周山街道に入り、車窓からの紅葉などを楽しみながら、次第に高度を上げて40分ほどで、山あいの高雄に着く。
問題はここから清滝川を隔てた対岸にある神護寺まで、標高差100mほど下り、そしてその分だけ登らなければならないことだ。
ガイドの川上氏は、この上り下りに自信のない方は、近くにある西明寺へ行くようにと勧められる。
とはいっても、清滝川の流れまで降りるのは一緒、結局帰りにはその分だけ登ることになるのだが……。
*
ここでの自由時間は、1時間30分。のんびり歩くことにして出発。
駐車場から、お土産屋さんが並ぶ道を進むと、いきなり急傾斜の降り口になる。
この時間、すでに帰ってくる観光客がいる。
皆さん息を切らしているのを見ると、容易ではないことが分かる。
ただ、見下ろす道の両側には、いまや盛りの紅葉が見られ、これを眺めながら、写真を撮りながら
ゆっくりと歩くことにする。
空気が澄んで冷たいが、歩くのには最適、雲が次第に切れて陽が差し込むようになってくる。
*
清滝川に架かる高雄橋まで降りると、直ぐに階段の上りが始まる。
この付近の紅葉も見事で、カメラの絶好の被写体となっている。
自然石を使用している階段は、凹凸があって滑りやすく、慎重に一歩一歩登って行く。

*
つづら折りの登り道の所々には、お休みどころがあり、その店の周囲には、これまた素晴らしい紅
葉が眺められるようになっている。
店に入らなくては、その素晴らしい眺めを見ることができないのは、致し方がないが、これが商法
というもの、などと思いながら、流れる汗を拭きながら登って行く。
*
しばらく登ると、樹の間から我々の乗ってきたバスの駐車場など、対岸が見えるようになる。
山の斜面にある紅葉が、樹々の緑に映えて一段と見栄えがする。
*

行く手に山門が見えてきた、最後の曲がり角付近の一面の紅葉が見事で、多くのカメラマンが思い思いの場所でシャッターを切っている。全体的
には最盛期を過ぎているようだが、濃い紅から橙色、そして黄色と薄い緑など、グラディーションになって柔らかい陽を浴びて輝いて見える。

ようやく山門に到着、ここで拝観券を戴いて山門内に入る。
山門を潜ると、広い台地状になっている。その右手に燃えるような赤い紅葉の側に[明王堂]がある。
その奥左手には[五大堂]と[毘沙門堂]が並んでいる。
*

*
神護寺(じんごじ)
真言宗の古刹。もとは和気氏の氏寺。
建立:781(天応元)年(奈良時代)。
809年(大同4)から14年間空海(弘法大師)が住持、その後荒廃したが、平安末期、文覚上人が再興。
国宝の薬師如来像をはじめ平安、鎌倉時代の仏像、絵画、書跡などが多く残る。
梵鐘(国宝)は日本三名鐘の一つ。紅葉の名所。
とパンフレットにあります。
*
金堂で拝礼の後、紅葉越しの多宝塔や、地蔵院へ行く途中の紅葉を楽しみながら、〈かわらけ投げ〉の場所へ。
厄除けになるとのことで、前面に開けた谷に向かって2枚の素焼きのかわらけを投げる。
小さなかわらけの底を上にして、スナップを利かして投げるようにと言われたが、思うようには飛んで行かなかった。

*
地蔵院から引き返し、帰りは楼門から階段を下ることになる。
[毘沙門堂] [楼門]

*
往路で見た紅葉を、改めて見直しながら階段を下り、そして清滝川に架かる高雄橋を渡って、今度は上りに息を切らし、汗を流しながらどうにか
駐車場に到着した。
その駐車場から[西明寺]を見下ろすと、ここの紅葉はどうやら最盛期を過ぎているようだ。
[西明寺]

[西明寺]
天長9年(832)に空海の高弟・智泉大徳が神護寺の別院として開いた寺。
その後荒廃していたのを、鎌倉時代に自証上人によって再興された。
本堂は、徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によって、元禄年間に再建されたとのこと。
*
次いで向かったのは、昼食場所の洛西の嵐山、混雑するとはガイドの川上さんから聞かされていたが、桂川沿いの道に出ると大変な人出で、特に
渡月橋を渡るのに時間がかかる。
昼食はその渡月橋を渡った所にある[渡月亭]、湯豆腐を中心にした京料理でした。

*
渡月橋
大堰川にかかる全長155mの巨大な橋。渡月橋の下流側は桂川となる。
嵐山のしっとりとした景観を引き立てるべく、橋は木造である。
亀山天皇が曇りのない夜空に月が橋を渡るような様を見て、
「くまなき月の渡るに似る」と感想を漏らしたことから、その名が付けられたという。
*
昼食後は、徒歩で渡月橋を渡り、[宝厳院]を拝観の後、自由行動になると添乗員の麓氏から言われる。
橋を渡り、大堰川(おおいがわ)沿いの道を宝厳院に向かったが、とにかく観光客が多く先頭について行くことが困難なほど。
しかしながら、対岸の嵐山などの紅葉が見頃で、それをカメラに収めたりしていたことも遅れる原因でした。

*
宝厳院に入ると、直ぐに紅葉が目の前に飛び込んできます。
どこを撮っても絵になるようで、拝観の方々が至る所で立ち止ってカメラを向けています。
心が癒されるという「獅子吼の庭」では、言葉に尽くせぬ見事な紅葉の園に入った感じで、陶然として見惚れていました。そのうち気持ちが落ち 着いて、どうにか撮った写真が下のとおりです。
宝厳院(ほうごんいん)
臨済宗大本山・天龍寺の塔頭寺院のひとつで、寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった細川頼之公の財をもって、天龍寺開山・夢窓国師
より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建されました。
【獅子吼の庭】
庭園は夢窓国師の法孫である策彦禅師の作とされ、嵐山を巧みに取り入れた回遊式山水庭園。
「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴くことによって人生の真理、正道を肌で感じる。これを「無言
の説法」というが、心が大変癒される庭である。
春は桜や新緑、秋は紅葉、庭園を覆う苔など1年を通じて楽しませてくれます。
宝厳院パンフレットによる。
*
獅子吼の庭の鑑賞を終え、天龍寺へ向かうべく出口を出ると、その塀沿いの景色がまたまた素晴らしく、歩みを止めさせられました。

*
何故か次の[天龍寺]は、自由参観(?)とのことで、個別に参拝券を購入することになる。
ここも大変な混雑、本堂に入っても落着いて拝観することができないほどだ。
本堂を一回りして廊下から[曹源池]を眺める。参拝客を避けて写真を撮ることはできない。
それでもこの池の奥に広がる紅葉は、今真っ盛りだ。

*
天龍寺(てんりゅうじ)
暦応2年(1339年)に吉野で没した後醍醐天皇の霊を鎮めるため、夢窓国師を開山として、足利
尊氏が亀山離宮を禅寺に改めたのが当寺の創始であるとされている。
当初は建設のための資金調達に苦慮したようであるが、天龍寺船による対明貿易により利益を
上げ、貞和元年(1345年)に完工したようである。
当寺は至徳3年(1386年)に足利義満により京都五山の第一位に格付けされた。
因みに、第二位以下は相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の順であり、南禅寺は五山の上とされ
ている。
天龍寺は15世紀前半に最も栄えたが、足利家の没落や、戦乱により次第に衰退したようである
建築物は何回かの戦火のために焼失し、創建時のものは殆ど残っておらず、建物は明治以降に
再建された。
明治2年(1869)に滴水宜牧らが復興に努め、現在の規模になったのは1900年頃といわれている
平成6年(1994)世界文化遺産に登録。 天龍寺パンフレットによる
*
書院から改めて[曹源池]と、床の間の[達磨]の掛け軸を拝観して庭に降りる。

*
大方丈の裏手を回り、曹源池の左側から入る拝観コースを巡ることにする。
ここも丘陵地に造られているので、登り降りがある。
紅・黄葉は、やや最盛期を過ぎたようだが、まだまだ見るには充分だ。
[望郷の丘]から京都市内の一部を見て、[天龍寺]の拝観を終える。
*
北口から出て背の高い竹林の中の道を[常寂光寺]へ向かう。
この竹林は、手入れが良く、夜間照明の設備もあるので、夜間に訪れる拝観者も多いと思われる。
その先左手には、かって時代劇で人気を集めた名優、大河内伝次郎の元別荘[大河内荘]がある。
30有余年をかけて造園したという約2万�の見事な回遊式庭園があるとのことだが、時間の関係で
パス。
*
やがて右下には[嵯峨野トロッコ列車]の嵐山駅が見えてくる。
先に進むと、左手に小さな[小倉池]があり、10羽余りのマガモと2羽のカイツブリ、帰りにはカワセミも見られた。
*
狭い道の左手に[常寂光寺]の山門があり、中に入って拝観券を購入。
常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
開山は究竟院日禛上人(くきょういん・にっしんしょうにん)、字は尊覚と号す。
権大納言広橋国光の息男として永禄4年 (1561) 京都に生まれた。
幼少にして京都六条堀川の大本山本圀寺第15世日栖上人に師事し、わずか18歳にして同寺第1
6世の法灯を嗣いた。
宗学と歌道への造詣が深く、加藤清正、三好吉房、小出秀政、小早川秀秋、瑞竜院日秀 (秀吉の実
姉)、その他京都町衆の帰依者も多数であった。
文禄4年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、
京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本
圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。
当地を隠栖地にえらんだのは、古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆか
りの地であったからと思われる。
‘小倉山 しぐるゝころの 朝な朝な 昨日はうすき 四方のもみじ葉’ 定家
【常寂光寺パンフレツト】による
*
仁王門を潜ると、小倉山の斜面に建てられた本堂や多宝塔を巡るのに、階段を利用することになる。
午前中から斜面の登り降りを続けているので、いささか足が疲れてきている。
それを忘れさせてくれるのが、境内の紅・黄葉と本堂の右手からの京都の街の展望だ。

*
多宝塔から本堂の左手の階段を降り、紅葉の林を抜けて拝観を終える。
とにかく参拝客が多く、ゆったりとした気分にはなれなかった。
*
集合場所の[嵯峨野トロッコ列車・嵐山駅]付近は、大変な混雑だ。
駅の案内板によると各列車とも満席で、僅かに5時過ぎの列車の立席の販売をしている。
ここでも階段を利用して狭いホームに降りると、乗客で溢れかえっている。
列車が到着して、どうにか狭い座席に落着くまでに時間がかかる。

*
列車は保津川の渓谷沿いに走るが、車窓からの眺めも始めは左側、鉄橋を渡ると右側となりどちら側に座っても景色は眺められるようになってい
る。
しかしながら、立席の方がいるので反対側を見るのは容易ではない。

嵯峨野トロッコ列車
嵯峨野観光鉄道は、JRの旧線(嵯峨嵐山~馬堀間)を利用して、京都市~亀岡市を結んでいます。
その昔、この旧線の電化・複線化が計画された時、渓谷に沿って蛇行して走るこの区間がネックとなりました。
このため、トンネルで山を貫く新線へと切り替えられ、旧線の嵯峨嵐山~馬堀駅間は1989年3月に廃線となりました。
しかし、保津峡に沿った風光明媚な景観を有するこの区間を、このまま放置して朽ち果てさせるには惜しい財産であることから、この自然美・渓
谷美を有効に活用するために、この旧線を観光用に創り上げたのです。
このような背景のもと、平成3年4月27日にトロッコ列車が誕生しました。
嵯峨野観光鉄道パンフレットによる
*

車窓から見られる紅葉は、思っていたほど多くはない。
トロッコ列車の沿線には若い樹が多く、将来が期待できるようだ。
木津川の川下りの船が通ると、お互いに手を振るようにとアナウンスがある。
鉄橋を渡り、反対側が川沿いになると、座席を立たなければ景色が見えないのは致し方がない。
20分ほどで[亀岡駅]に到着。ここでもホームには乗客が溢れている。まさにフル運転の列車なのだ。
*
これで今日の観光は終わり、ホテルへ戻る。
夕食時間が早く、その後の時間がもったいないので、麓添乗員に相談すると、ライトアップしてい
る寺院の候補を教えて頂く。
このホテルから比較的近い[青蓮院]などが候補の一つだった。
*
その夕食は、6時からホテル内にある日本料理の『嵯峨野』で。
メニューは右の画像のとおりで、ゆつくりと寛ぎながら、今日の観光などを振り返りながら戴くと
いうことになる。
ところが、料理と料理の間が如何にも時間がかかるので、支配人にライトアップの寺院見学に行く
予定を告げて早めに出して貰うことにする。
それでも食事が終わったのは、7時を大きく回っていた。
*
【前 菜】 【煮物椀】 【造 り】 【焚 合】

【焼 肴】 【合 肴】 【酢の物】 【水 物】

*
支配人に夜間拝観に行くことを告げたことから、[知恩院]の特別招待券を頂戴したので、行き先を[青蓮院]から変更する。
タクシーで20分ほどで到着。
人影が少なく、ひっそりと静まり返っている大きな三門が、ライトアップされて一段と輝いて見える。
*
知恩院
華頂山を背に大小106の堂宇を構える浄土宗の総本山。
法然がこの地に設けた坊舎に始まり、法然の死後に弟子が廟堂をを建立。
後に徳川家の庇護を受けて華頂山の麓を切り開き、壮大な伽藍を形成していった。
日本最大の三門、千畳敷と呼ばれる衆会所、日本三大梵鐘の一つに数えられる巨大な銅鐘など、見どころは多数。
名工左甚五郎が残したという忘れ傘など、知恩院七不思議を訪ね歩くのも楽しい。

*
入口から坂道を上がると、右手に[友禅苑] があり、庭園がライトアップされているので、入ってみる。
友禅苑は、友禅染の始祖宮崎友禅生誕300年を記念して、昭和29年に改修造園された庭園とのこと。
東山の湧き水を引き入れた庭園と、枯山水の庭園とで構成された昭和の名園です。
苑内には裏千家ゆかりの茶室「華麓庵」と当山第86世中村康隆猊下の白寿を記念して移築された茶室「白寿庵」があり、深い緑のなかで、日本の
心を表した名園にふさわしい風情を添えています。

*
友禅苑を出て、石造りの階段を上がると、広い台地上の左手に大きな本堂がある。
来年が元祖法然上人800年大遠忌に当たるので、その立て看板が目につく。
微かに読経の声が聞こえる大きな堂内に入って、拝礼。参拝客も少なく一段と身が引き締まる思いだ。
*
本堂を出て[方丈庭園]に入る。
方丈庭園は、江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられている。
池泉回遊式の庭園で、方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景を醸します。
方丈の一室に掲げられている[華頂山]の掛け軸が目に入り、カメラに収める。
庭園の紅葉の数は少ないが、周囲の風景にマッチして彩りを添えていた。

*
これで長い一日の観光を終え、ホテルへ戻ったのは9時を回っていた。
【ホテル・ロビー】

8時40分ホテル発(バス) → 9時20分高雄・神護寺10時50分 → 11時30分昼食
(渡月亭)12時25分 … 宝厳院 … 天龍寺 … 常寂光院 … 15時10分嵐山駅
(トロッコ列車)→ 15時40分亀岡駅(バス)→ 16時40分ホテル着
18時00分夕食(嵯峨野)19時30分(タクシー)→ 19時50分知恩院21時00分
(タクシー)→21時20分ホテル着 【約20,000歩】
ホテルは京都の下京区烏丸の都心にあるため、東側にある部屋の窓からの眺めはあまり良くない。
天気予報では晴と言っているが、雲が多い。
朝食はレストラン・アンバーコートで、バイキングスタイルの洋食、品数も豊富で言うことはない。
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バスの今日の座席は最後尾、とはいっても後方は空きが多いので、一人でゆったりと座る。
今日の最初の訪問地は、いわゆる洛西からさらに奥にある神護寺。
都心から周山街道に入り、車窓からの紅葉などを楽しみながら、次第に高度を上げて40分ほどで、山あいの高雄に着く。
問題はここから清滝川を隔てた対岸にある神護寺まで、標高差100mほど下り、そしてその分だけ登らなければならないことだ。
ガイドの川上氏は、この上り下りに自信のない方は、近くにある西明寺へ行くようにと勧められる。
とはいっても、清滝川の流れまで降りるのは一緒、結局帰りにはその分だけ登ることになるのだが……。
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駐車場から、お土産屋さんが並ぶ道を進むと、いきなり急傾斜の降り口になる。
この時間、すでに帰ってくる観光客がいる。
皆さん息を切らしているのを見ると、容易ではないことが分かる。
ただ、見下ろす道の両側には、いまや盛りの紅葉が見られ、これを眺めながら、写真を撮りながら
ゆっくりと歩くことにする。
空気が澄んで冷たいが、歩くのには最適、雲が次第に切れて陽が差し込むようになってくる。
*
清滝川に架かる高雄橋まで降りると、直ぐに階段の上りが始まる。
この付近の紅葉も見事で、カメラの絶好の被写体となっている。
自然石を使用している階段は、凹凸があって滑りやすく、慎重に一歩一歩登って行く。

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つづら折りの登り道の所々には、お休みどころがあり、その店の周囲には、これまた素晴らしい紅
葉が眺められるようになっている。
店に入らなくては、その素晴らしい眺めを見ることができないのは、致し方がないが、これが商法
というもの、などと思いながら、流れる汗を拭きながら登って行く。
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しばらく登ると、樹の間から我々の乗ってきたバスの駐車場など、対岸が見えるようになる。
山の斜面にある紅葉が、樹々の緑に映えて一段と見栄えがする。
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行く手に山門が見えてきた、最後の曲がり角付近の一面の紅葉が見事で、多くのカメラマンが思い思いの場所でシャッターを切っている。全体的
には最盛期を過ぎているようだが、濃い紅から橙色、そして黄色と薄い緑など、グラディーションになって柔らかい陽を浴びて輝いて見える。


ようやく山門に到着、ここで拝観券を戴いて山門内に入る。
山門を潜ると、広い台地状になっている。その右手に燃えるような赤い紅葉の側に[明王堂]がある。
その奥左手には[五大堂]と[毘沙門堂]が並んでいる。
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神護寺(じんごじ)
真言宗の古刹。もとは和気氏の氏寺。
建立:781(天応元)年(奈良時代)。
809年(大同4)から14年間空海(弘法大師)が住持、その後荒廃したが、平安末期、文覚上人が再興。
国宝の薬師如来像をはじめ平安、鎌倉時代の仏像、絵画、書跡などが多く残る。
梵鐘(国宝)は日本三名鐘の一つ。紅葉の名所。
とパンフレットにあります。
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金堂で拝礼の後、紅葉越しの多宝塔や、地蔵院へ行く途中の紅葉を楽しみながら、〈かわらけ投げ〉の場所へ。
厄除けになるとのことで、前面に開けた谷に向かって2枚の素焼きのかわらけを投げる。
小さなかわらけの底を上にして、スナップを利かして投げるようにと言われたが、思うようには飛んで行かなかった。




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地蔵院から引き返し、帰りは楼門から階段を下ることになる。
[毘沙門堂] [楼門]


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往路で見た紅葉を、改めて見直しながら階段を下り、そして清滝川に架かる高雄橋を渡って、今度は上りに息を切らし、汗を流しながらどうにか
駐車場に到着した。
その駐車場から[西明寺]を見下ろすと、ここの紅葉はどうやら最盛期を過ぎているようだ。
[西明寺]


[西明寺]
天長9年(832)に空海の高弟・智泉大徳が神護寺の別院として開いた寺。
その後荒廃していたのを、鎌倉時代に自証上人によって再興された。
本堂は、徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によって、元禄年間に再建されたとのこと。
*
次いで向かったのは、昼食場所の洛西の嵐山、混雑するとはガイドの川上さんから聞かされていたが、桂川沿いの道に出ると大変な人出で、特に
渡月橋を渡るのに時間がかかる。
昼食はその渡月橋を渡った所にある[渡月亭]、湯豆腐を中心にした京料理でした。


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渡月橋
大堰川にかかる全長155mの巨大な橋。渡月橋の下流側は桂川となる。
嵐山のしっとりとした景観を引き立てるべく、橋は木造である。
亀山天皇が曇りのない夜空に月が橋を渡るような様を見て、
「くまなき月の渡るに似る」と感想を漏らしたことから、その名が付けられたという。
*
昼食後は、徒歩で渡月橋を渡り、[宝厳院]を拝観の後、自由行動になると添乗員の麓氏から言われる。
橋を渡り、大堰川(おおいがわ)沿いの道を宝厳院に向かったが、とにかく観光客が多く先頭について行くことが困難なほど。
しかしながら、対岸の嵐山などの紅葉が見頃で、それをカメラに収めたりしていたことも遅れる原因でした。


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宝厳院に入ると、直ぐに紅葉が目の前に飛び込んできます。
どこを撮っても絵になるようで、拝観の方々が至る所で立ち止ってカメラを向けています。
心が癒されるという「獅子吼の庭」では、言葉に尽くせぬ見事な紅葉の園に入った感じで、陶然として見惚れていました。そのうち気持ちが落ち 着いて、どうにか撮った写真が下のとおりです。






臨済宗大本山・天龍寺の塔頭寺院のひとつで、寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった細川頼之公の財をもって、天龍寺開山・夢窓国師
より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建されました。
【獅子吼の庭】
庭園は夢窓国師の法孫である策彦禅師の作とされ、嵐山を巧みに取り入れた回遊式山水庭園。
「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴くことによって人生の真理、正道を肌で感じる。これを「無言
の説法」というが、心が大変癒される庭である。
春は桜や新緑、秋は紅葉、庭園を覆う苔など1年を通じて楽しませてくれます。
宝厳院パンフレットによる。
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獅子吼の庭の鑑賞を終え、天龍寺へ向かうべく出口を出ると、その塀沿いの景色がまたまた素晴らしく、歩みを止めさせられました。



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何故か次の[天龍寺]は、自由参観(?)とのことで、個別に参拝券を購入することになる。
ここも大変な混雑、本堂に入っても落着いて拝観することができないほどだ。
本堂を一回りして廊下から[曹源池]を眺める。参拝客を避けて写真を撮ることはできない。
それでもこの池の奥に広がる紅葉は、今真っ盛りだ。


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暦応2年(1339年)に吉野で没した後醍醐天皇の霊を鎮めるため、夢窓国師を開山として、足利
尊氏が亀山離宮を禅寺に改めたのが当寺の創始であるとされている。
当初は建設のための資金調達に苦慮したようであるが、天龍寺船による対明貿易により利益を
上げ、貞和元年(1345年)に完工したようである。
当寺は至徳3年(1386年)に足利義満により京都五山の第一位に格付けされた。
因みに、第二位以下は相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の順であり、南禅寺は五山の上とされ
ている。
天龍寺は15世紀前半に最も栄えたが、足利家の没落や、戦乱により次第に衰退したようである
建築物は何回かの戦火のために焼失し、創建時のものは殆ど残っておらず、建物は明治以降に
再建された。
明治2年(1869)に滴水宜牧らが復興に努め、現在の規模になったのは1900年頃といわれている
平成6年(1994)世界文化遺産に登録。 天龍寺パンフレットによる
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書院から改めて[曹源池]と、床の間の[達磨]の掛け軸を拝観して庭に降りる。


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ここも丘陵地に造られているので、登り降りがある。
紅・黄葉は、やや最盛期を過ぎたようだが、まだまだ見るには充分だ。
[望郷の丘]から京都市内の一部を見て、[天龍寺]の拝観を終える。
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北口から出て背の高い竹林の中の道を[常寂光寺]へ向かう。
この竹林は、手入れが良く、夜間照明の設備もあるので、夜間に訪れる拝観者も多いと思われる。
その先左手には、かって時代劇で人気を集めた名優、大河内伝次郎の元別荘[大河内荘]がある。
30有余年をかけて造園したという約2万�の見事な回遊式庭園があるとのことだが、時間の関係で
パス。
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やがて右下には[嵯峨野トロッコ列車]の嵐山駅が見えてくる。
先に進むと、左手に小さな[小倉池]があり、10羽余りのマガモと2羽のカイツブリ、帰りにはカワセミも見られた。
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狭い道の左手に[常寂光寺]の山門があり、中に入って拝観券を購入。

開山は究竟院日禛上人(くきょういん・にっしんしょうにん)、字は尊覚と号す。
権大納言広橋国光の息男として永禄4年 (1561) 京都に生まれた。
幼少にして京都六条堀川の大本山本圀寺第15世日栖上人に師事し、わずか18歳にして同寺第1
6世の法灯を嗣いた。
宗学と歌道への造詣が深く、加藤清正、三好吉房、小出秀政、小早川秀秋、瑞竜院日秀 (秀吉の実
姉)、その他京都町衆の帰依者も多数であった。
文禄4年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、
京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本
圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。
当地を隠栖地にえらんだのは、古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆか
りの地であったからと思われる。
‘小倉山 しぐるゝころの 朝な朝な 昨日はうすき 四方のもみじ葉’ 定家
【常寂光寺パンフレツト】による
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仁王門を潜ると、小倉山の斜面に建てられた本堂や多宝塔を巡るのに、階段を利用することになる。
午前中から斜面の登り降りを続けているので、いささか足が疲れてきている。
それを忘れさせてくれるのが、境内の紅・黄葉と本堂の右手からの京都の街の展望だ。


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多宝塔から本堂の左手の階段を降り、紅葉の林を抜けて拝観を終える。
とにかく参拝客が多く、ゆったりとした気分にはなれなかった。
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集合場所の[嵯峨野トロッコ列車・嵐山駅]付近は、大変な混雑だ。
駅の案内板によると各列車とも満席で、僅かに5時過ぎの列車の立席の販売をしている。
ここでも階段を利用して狭いホームに降りると、乗客で溢れかえっている。
列車が到着して、どうにか狭い座席に落着くまでに時間がかかる。


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列車は保津川の渓谷沿いに走るが、車窓からの眺めも始めは左側、鉄橋を渡ると右側となりどちら側に座っても景色は眺められるようになってい
る。
しかしながら、立席の方がいるので反対側を見るのは容易ではない。

嵯峨野トロッコ列車
嵯峨野観光鉄道は、JRの旧線(嵯峨嵐山~馬堀間)を利用して、京都市~亀岡市を結んでいます。
その昔、この旧線の電化・複線化が計画された時、渓谷に沿って蛇行して走るこの区間がネックとなりました。
このため、トンネルで山を貫く新線へと切り替えられ、旧線の嵯峨嵐山~馬堀駅間は1989年3月に廃線となりました。
しかし、保津峡に沿った風光明媚な景観を有するこの区間を、このまま放置して朽ち果てさせるには惜しい財産であることから、この自然美・渓
谷美を有効に活用するために、この旧線を観光用に創り上げたのです。
このような背景のもと、平成3年4月27日にトロッコ列車が誕生しました。
嵯峨野観光鉄道パンフレットによる
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車窓から見られる紅葉は、思っていたほど多くはない。
トロッコ列車の沿線には若い樹が多く、将来が期待できるようだ。
木津川の川下りの船が通ると、お互いに手を振るようにとアナウンスがある。
鉄橋を渡り、反対側が川沿いになると、座席を立たなければ景色が見えないのは致し方がない。
20分ほどで[亀岡駅]に到着。ここでもホームには乗客が溢れている。まさにフル運転の列車なのだ。
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夕食時間が早く、その後の時間がもったいないので、麓添乗員に相談すると、ライトアップしてい
る寺院の候補を教えて頂く。
このホテルから比較的近い[青蓮院]などが候補の一つだった。
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その夕食は、6時からホテル内にある日本料理の『嵯峨野』で。
メニューは右の画像のとおりで、ゆつくりと寛ぎながら、今日の観光などを振り返りながら戴くと
いうことになる。
ところが、料理と料理の間が如何にも時間がかかるので、支配人にライトアップの寺院見学に行く
予定を告げて早めに出して貰うことにする。
それでも食事が終わったのは、7時を大きく回っていた。
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【前 菜】 【煮物椀】 【造 り】 【焚 合】




【焼 肴】 【合 肴】 【酢の物】 【水 物】




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支配人に夜間拝観に行くことを告げたことから、[知恩院]の特別招待券を頂戴したので、行き先を[青蓮院]から変更する。
タクシーで20分ほどで到着。
人影が少なく、ひっそりと静まり返っている大きな三門が、ライトアップされて一段と輝いて見える。
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知恩院
華頂山を背に大小106の堂宇を構える浄土宗の総本山。
法然がこの地に設けた坊舎に始まり、法然の死後に弟子が廟堂をを建立。
後に徳川家の庇護を受けて華頂山の麓を切り開き、壮大な伽藍を形成していった。
日本最大の三門、千畳敷と呼ばれる衆会所、日本三大梵鐘の一つに数えられる巨大な銅鐘など、見どころは多数。
名工左甚五郎が残したという忘れ傘など、知恩院七不思議を訪ね歩くのも楽しい。


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入口から坂道を上がると、右手に[友禅苑] があり、庭園がライトアップされているので、入ってみる。
友禅苑は、友禅染の始祖宮崎友禅生誕300年を記念して、昭和29年に改修造園された庭園とのこと。
東山の湧き水を引き入れた庭園と、枯山水の庭園とで構成された昭和の名園です。
苑内には裏千家ゆかりの茶室「華麓庵」と当山第86世中村康隆猊下の白寿を記念して移築された茶室「白寿庵」があり、深い緑のなかで、日本の
心を表した名園にふさわしい風情を添えています。


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友禅苑を出て、石造りの階段を上がると、広い台地上の左手に大きな本堂がある。
来年が元祖法然上人800年大遠忌に当たるので、その立て看板が目につく。
微かに読経の声が聞こえる大きな堂内に入って、拝礼。参拝客も少なく一段と身が引き締まる思いだ。
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本堂を出て[方丈庭園]に入る。
方丈庭園は、江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられている。
池泉回遊式の庭園で、方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景を醸します。
方丈の一室に掲げられている[華頂山]の掛け軸が目に入り、カメラに収める。
庭園の紅葉の数は少ないが、周囲の風景にマッチして彩りを添えていた。


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これで長い一日の観光を終え、ホテルへ戻ったのは9時を回っていた。
【ホテル・ロビー】

8時40分ホテル発(バス) → 9時20分高雄・神護寺10時50分 → 11時30分昼食
(渡月亭)12時25分 … 宝厳院 … 天龍寺 … 常寂光院 … 15時10分嵐山駅
(トロッコ列車)→ 15時40分亀岡駅(バス)→ 16時40分ホテル着
18時00分夕食(嵯峨野)19時30分(タクシー)→ 19時50分知恩院21時00分
(タクシー)→21時20分ホテル着 【約20,000歩】