nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

ロシア紀行 3ー1

2018-06-11 21:36:09 | 旅行記

平成13年5月14日(月)晴 28℃

 朝食は1階レストランでビュッフェスタイル。2日目のこととて料理の配置も分かり、効率よく食べることができました

 今日は『エカテリーナ宮殿』の観光で、ホテルを8時半に出発しました。天気予報によると今日は暑くなりそうです。

     * 

   バスは宮殿近くまでは入れないため、手前に路上駐車し、そこから宮殿まで歩くことになりました。

 バスを降りて新緑の映える道を歩き、左折するとお年寄りのバンドがいて、我々を見て何と『君が代』を演奏してくれま

 した。

 その先の左手の林の中に『プーシキン』の銅像があり、近くには白い桜が咲いていました。

  

 エカテリーナ宮殿の設計者建築家ラストレッリの像、エルミタージュ宮殿も彼の設計。

 入場門前に到着し、開場時間まで少々待たされましたが、その間ここにもバンドがいて『カチューシャ』などを演奏して

 くれました。 

  

 入場すると、左手に全長310mのロシア・バロック調の華麗な宮殿と裏庭が展開しています。

 右手には広大な芝生が広がり、目に優しい景観となっています。

  

 我々が一番先に入場したので、人影もない宮殿前を正面入口まで建物などを眺めながら歩いて行きました。

  

 入場すると、セキュリティゲートがあり、靴カバーを受け取って着用し、いよいよ各部屋の見物となります。

 まず目に入ったのは、豪華な部屋の調度品です。

   

 右の画像は青の部屋です。

  

 部屋の装飾も見事ならば、天井画も見ものです。

  

 豪華な食堂です。

   

 大広間(玉座の間)です。

 美しい天井画が目を引く長さ47m、幅17mの大広間、左右に大きな窓、窓の間に配された鏡、磨かれた床が光っていま

 す。

 大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁し、帰国の許可を得たのもこの大広間です。

 

大黒屋光太夫

 1782年、嵐に遭いロシア領アリューシャン列島に漂着した、伊勢国白子港を拠点とする廻船の船頭。

 カムチャッカ半島を経てシベリアを横断、数年かけて首都ペテルブルグに辿り着いた。エカテリーナ宮殿で、エカテリー

 ナ2世に拝謁し、帰国許可を嘆願。

 日本との通商を希望していた女帝の思惑もあり、1792年帰国を許可され,遣日使節ラクスマンに同行して帰国を果たし

 た。

 井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」で彼の生涯が描かれている。

     *

 正面玄関の階段です、壁には伊万里焼や時計がありました。

 有名な琥珀の間の一部。撮影禁止なので隣の部屋から一部を撮影しました。

  

琥珀の間

  琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られましたが、1979年から始まった復元作業に

 より、2003年に完全に復元されました。

     * 

    当時の衣装を展示した部屋、肖像画もありました。

  

 絵画の間 壁一面が絵画によって埋め尽くされています。

    

 宮殿内部の見学を終わり、宮殿の外にある美しい庭園を歩いてバスの駐車場まで行くことになりました。

  

 右の画像は池の岸辺に建つ小宮殿グロットです。グロットは、ラストレッリの手による建築です。

  
 
 暑い日差しに、バスの駐車場までの歩きに汗が流れ落ちるほどでした。
    

     *

エカテリーナ宮殿( Екатерининский дворец

 サンクトペテルブルク 中心部から南東25kmの郊外の避暑地ツァールスコエ・セローに存在する、ロシア帝國時代のロコ

 コ建築の宮殿。

   宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカテリーナ1世(在位:1725年 - 1727年)に由

 来する。

 エカテリーナがドイツの建築家 Johann-Friedrich Braunsteinを雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせた

 のが最初のもので、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730年 - 1740年)がロシア人建築家に命じ増築させた

 第6代ロシア皇帝となったエリザヴェータ(在位:1741年 - 1762年)は、母のエカテリーナが建築させたものが時代遅

 れで不便であるとして抜本的に作り直すことを決定、壮麗・壮大なロココ調建築に入れ替えるよう、既に冬宮殿建設に関

 わっていた宮廷付き建築家バルトロメオ・ラストレッリに命じた。建設は1752年5月から4年の歳月をついやし、1756

 年7月30日に全長325mの現行規模の宮殿が完成した。

 とりわけ「琥珀の間」(en: Amber Room)が有名である。

   琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたが、1979年から始まった復元作業により

 2003年に完全に復元された。

 1791年、日本人の漂流民・大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカテリーナ2世(在位:1762年 - 1796年)に謁見した

 場所としても知られる。

 一般に夏の間過ごしたことから「夏の宮殿」とも呼ばれる。

 名称として冬宮殿と対になる「ペテルゴフ宮殿」( Ле́тний дворе́ц )は、サンクト・ペテルブルク中心部から30km

 離れたペトロドヴォレツの100以上の噴水があることで著名なペテルゴフにピョートル大帝時代に建設されたものである

 が、冬宮殿と同じく壮麗なロココ建築のエカテリーナ宮殿の完成以降、実質的に本宮殿が夏の宮殿として用いられた。

 現在は、両宮殿とその周辺は世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」に登録されている。    

                                            【Wikipedia】 


ロシア紀行2-3

2018-06-11 17:54:30 | 旅行記

平成30年5月13日(日)晴 26℃

 夕食はホテルの3階にあるレトランでいただきました。メニューは以下の通りです。

  

 「フレッシュベジタブル サラダ」「シュリンプ コキール(海老のグラタン)」

  

 「ポークカツレツと焼きベビーポテト」「アソートアイスクリームとソルベ」

     *

 今晩はバレエの鑑賞で『ミハイロフスキー劇場』へ、15人乗りリムジンが待ち構えていました。

  

 今晩の演目は、アドルフ・アダン作曲、ジャン・コラリ、ジュール・ペロー振付の『ジゼル』です。

バレエ・ジゼル Giselle

 ロマンティックバレエ/貴族アルブレヒトと村娘ジゼルの恋。

  1841年6月28日、パリ・オペラ座で初演された。後の改訂時にヨハン・ブルグミュラーレオン・ミンクスが曲を追加している。

  『ラ・シルフィード』、『白鳥の湖』とともに「三大バレエ・ブラン(Ballet Blanc;白のバレエ)」の一つに数えられる

  ロマンティックバレエの代表作。

  ドイツの詩人ハイネによって紹介されたオーストリア地方の伝説に着想を得て作られた。

  2幕物で、第1幕の昼間の森の場面と、第2幕の夜の場面の対照が印象的。主人公が死装束で踊る唯一のバレエ作品といわれる。

                                              【世界の民謡・童謡】より

 現在でも最も愛されている作品のひとつであり、ロマンティック・バレエの最高峰と言えます。

 主演ダンサーには並外れた演技力が必要とされ、気が狂ってしまったジゼルが楽しかった日々をたどるかのように踊る場面は、

 ダンサーの演技力の全てが見られるといっても良いでしょう。

     *

 バレエ上演中は撮影禁止ですので、開演前の客席の様子を撮っておきました。

   

     *

 上演が終わり、カーテンコールの様子を撮ってみました。

   

 かくして長い1日を大満足のうちに終えることができました。

     *

 9.30. ホテル発(バス)→ 9.40.ワシリー島岬 9.50. → 10.00. 青銅の騎士像 10.20. → 10.30. 聖イサク寺院 11.00. →

 11.10. 血の上の教会 11.50. → 12.15. レストラン・Po Grib(昼食)13.15. → 13.30. エルミタージュ美術館 … 15.00. 

 ゴールデンルーム 16.10. → 16.45. ホテル … 17.00. ホテル・レストラン(夕食)18.15.(リムジン)→ 18.45.

 ミハイロフスキー劇場 19.00. バレエ・ジゼル 21.30(リムジン)→ 21.45. ホテル着 

     *

エルミタージュ美術館( Эрмитаж )

 サンクトペテルブルグにあるロシアの国立美術館。

 1990年に世界遺産(サンクトペテルブルグ歴史地区と関連建造物群)に包括登録されている。 

  「エルミタージュ」とはフランス語でHermitage、(隠遁者/世捨て人の部屋)という意味である。

概 要 

 小エルミタージュМалый Эрмитаж)、旧エルミタージュСтарый Эрмитаж)、新エルミタージュНовый Эрмитаж)、

 エルミタージュ劇場Эрмитажный театр冬宮殿Зимний дворец)の5つの建物が一体となって構成されており、

 現在本館となっている冬宮殿はロマノフ朝時代の王宮である。 

       
 
 ネヴァ川(観光客が列を作って並ぶ宮殿広場の反対側)から見たエルミタージュ美術館の建物群。
 
 左から、エルミタージュ劇場 – 旧エルミタージュ – 小エルミタージュ – 冬宮殿 (新エルミタージュは旧エルミタージュの背後にある) 。

歴史 

美術館内部 

 1764年にエカテリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションの始まりである。

 エカテリーナによって冬宮殿の隣に自身専用の美術品展示室が建てられた(小エルミタージュ、1775年)。

 エルミタージュは当時のフランス貴族が建てた個人的な離宮を意味した(例としてヴェルサイユのプチトリアノン)。

 その後もエカテリーナのコレクションは増加したため、東隣に施設が増築された(旧エルミタージュ、1787年)。

 なお、劇場も同じ頃に建設されたものである(エルミタージュ劇場、1786年)。 

 私的なコレクションであり、当時は一般公開されていなかったが、(アレクサンドル2世当時の)1863年に初代館長となった

 ゲデオーノフによって市民も自由に観覧できるようになった。

 これと前後して新たに施設が増築された(新エルミタージュ、1864年完成)。 

 1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。

 1918年には冬宮殿に存在した全ての研究、管理組織を建物共々、エルミタージュ美術館として統合することが決定された。

 この統合作業は第二次世界大戦後に完了した。

 1930年代には外貨の獲得を目的に政府によって西側諸国への所蔵品の売却が行われている。

 2014年12月、近接する旧参謀本部の建物を改修して新館がオープンし、印象派を中心に展示している。  【wikipedia】

宮殿装飾

 エルミタージュ美術館の特徴は、宮殿として実際にエカテリーナ2世をはじめとするロシア皇帝(ツァーリ)の住居であったということで

 す。

 ここが世界三大ミュージアムとともに世界三大宮殿のひとつとされている所以です。

 エルミタージュを構成する、冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、劇場エルミタージュの五つの建物は、

 19世紀から約百年かかって完成されました。

     *

ミハイロフスキー劇場 Михайловский театр、英語: Mikhailovsky Theatre

 ロシアのサンクトペテルブルグにあるオペラとバレエ専用の劇場。

   1833年、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに「帝室ミハイロフスキー劇場」として創設される。 

   1859年に建て替えが行われる。ロシア革命(1917年)までは専属のオペラ、バレエ団をもたず、主に演劇を上演。

 革命直後の1918年、ロッシーニの「セビリアの理髪師」でオペラ劇場として再出発。

 ソビエト連邦時代(1924 - 1991年)はレニングラード国立歌劇、あるいは単にマールイ劇場(ロシア語で「小劇場」の意)と呼ばれて

 いた。

 創立100周年の1933年、バレエ団を創設した。                     【Wikipedia】

              


ロシア紀行2-2

2018-06-11 15:59:23 | 旅行記

平成30年5月13日(日)晴 26℃

 午後からは待望の『エルミタージュ美術館』の第1回鑑賞となりました。

 今日は宮殿の装飾めぐりと、『ゴールデンルーム』の見学で、解説はA氏の担当でした。

 ネヴァ川沿いにあるグループ入口は大変な混雑でしたが、私達は空いている宮殿広場の入口から入場しました。

  

 ロマノフ朝の皇帝たちが暮らす宮殿だったエルミタージュ美術館、美術品もさることながら豪華絢爛たる各ホールも見も

 のと言われています。黄金に輝く調度品や豪華な客間にその栄華が感じられます。

大使の階段

 皇帝に謁見に来た大使たちが上がった大理石の階段で、吹き抜けの高さは22mで、現在は美術館見学のスタート地点とな

 っています。大理石に刻まれた紋様、壁面の雅やかな装飾が見事、天井の絵にも目を奪われます。

ピョートル大帝の間

 ピョートル大帝の栄光を讃えニコライ1世(在位1825〜55年)が建造、双頭の鷲や王冠など壁の装飾が美しい。

 正面の絵は、勝利の女神ミネルヴァに見守られたピョートル大帝、その手前の椅子はピョートルの姪アンナ女帝の玉座。

  

ニコライ1世

 1825年にニコライ1世が即位した直後、デカブリストの乱がおこります。ニコライ1世は武力を行使して、この乱をすぐに

 鎮圧しました。1853年、ニコライ1世はバルカン半島への進出を企て、オスマン・トルコとのクリミア戦争に突入します

 が、戦争最中の1855年に急死します。

 彼の死後、クリミア戦争は多大な犠牲を出した末にロシア軍の敗北に終わります。

     *

紋章の間

 部屋の端にコリント式の円柱の柱があります。こちらの部屋は冬宮の中でも大きなホールで現在でも各種のイベントが開

 催されている部屋です。豪華なシャンデリアにはロシア帝国の領主の紋章が記されています。

1812年祖国戦争の画廊

 祖国戦争の勝利を記念したホール。勝利に貢献した332人のロシア将軍の肖像画がズラリと並ぶ様は圧巻でした。

  奥の一番大きな絵はアレクサンドル1世、ナポレオン軍との祖国戦争を戦い抜いた皇帝でした。

  

玉座の間

 歴代皇帝が公式レセプションを行なったホール。その広さと豪華絢爛な内装に圧倒されます。

 正面側にあるのは、赤のベルベットに金糸で刺繍されたロシア皇帝の紋章「双頭の鷲」、その手前に玉座が置かれている

パヴィリオンの間

 窓からはネヴァ川が、もう一方には2階の高さに造られた空中庭園を眺めることができます。

 18世紀イギリスの時計職人ジェイムス・コックス作の大きな黄金の仕掛け時計は必見です。ここは大変な混雑でした。

  

レオナルド・ダヴィンチの部屋

 ネヴァ川側にあるこの展示室には、「リッタの聖母」と「ベヌアの生母」の二大名作が展示されています。

 2枚の絵は小さく、窓際にある衝立の中にそれぞれ収められています

リッタの聖母 1490〜91年

  静寂の中に透明感のある輝きを放つ聖母マリアとイエス・キリストが描かれたイタリアルネッサンスの傑作で、

  イタリアのリッタ公爵が1865年に購入したのでこう呼ばれている。

ベヌアの生母 1478年

  若き日の作品で「花を持った聖母」とも呼ばれ、静寂を特徴とする「リッタの聖母」とは異なり、生き生きとした躍動

  感が特徴。

  1914年、サンクトペテルブルグのベヌア家が購入したために、こう呼ばれるが、このように題名のない絵が、購入者

  の名で呼ばれることもある。

            

ラファエロの回廊

 エカテリーナ2世がヴァチカン宮殿のイタリア人画家ラファエロの作品をコピーして造らせた美しい回廊。

 天井・壁面・支柱・扉などあらゆる所に配された絵画や装飾の美しさに目を奪われました。

ラファエロの間

 名作2点、いずれも小さい絵なので、見物客が多く見るまでに時間がかかりました。

 

 コネスタビレの聖母 1503年

  1870年フランス・ベルージェのコネスタビラ家からアレクサンドル2世が妻マリアのために購入したラファエロの聖

  母像。

  もともと絵と額縁は一枚板でできていたが、現在展示されているのは1881年に絵の部分を板から亜麻布に移したもの

 聖家族 1506年

  幼児イエスと、その両親マリア・ヨセフの家族。画題として著名。地上における三位一体を象徴する。神聖家族。

          

ミケランジェロの部屋 

 ルネッサンスが生んだ巨人の一人ミケランジェロ(1475-1564)の名作は、ほとんど全てがイタリアにあリます。

 『うずくまる少年』はエルミタージュにある唯一のミケランジェロの彫像です。 

着替えの間         

 アレクサンドル2世のために造られた部屋の一つ。夫人用の私室。

 赤を基調にした部屋で壁や天井に鏡がはめ込まれていました。

  

黄金の客間

 壁全体が黄金色の金箔で覆われたホール。その雅やかさはエルミタージュ随一とか。

 エカテリーナ2世が集めた宝石を展示、彼女は「石の病に犯された」と語るほどカメオ好きだった。

孔雀石の間

 プロイセン王女でニコライ1世の妃となったアレクサンドルの客間。柱や暖炉が見事です。

 部屋を彩るのは、ウラル地方の孔雀石を寄せ合わせたモザイクと黄金。

  

ゴールデンルーム

 午後3時からは予約制の『ゴールデンルーム』を、学芸員の案内でガイドが通訳して観賞しました。ここは撮影禁止です 

 農夫が偶然発見した金銀財宝や墳墓の出土品、世界各国からの贈り物等など・・・ 

 金製の鹿 紀元前7〜6世紀 コストロムスカヤ近郊の墳墓より出土、鹿が神々の中で重要な意味を持っていたと考えら

 れ、鹿を表わしたものが多く見られる。 

 金製の櫛 紀元前4世紀ソローハ遺跡出土、櫛ははギリシャ神殿のような形態で櫛の歯は円柱のようであり、その上で戦

 っている兵士は神殿の破風のようにも見える。

 煙草入れ・東洋の石(18世紀)、無類の宝石愛好家エカテリーナ2世のため、7500ルーブルで購入された。

 宝石箱(1533年)

 皇帝のレガリアの模型(1900年)  

      *  

 これでエルミタージュ美術館の第1回観賞を終えましたが、今晩はバレエ観賞があり早めに夕食を摂るためホテルへと戻

 りました。


ロシア紀行 2-1

2018-06-11 10:54:25 | 旅行記

平成30年5月13日(日)晴 26℃

 7時からの朝食は1階のレストランでビュッフェスタイル。

 飲み物、生野菜、パン、ハム・ソーセジなどの種類が多く、朝から食欲が出ました。

     *

 9時30分ホテル発、サンクトペテルブルグでの観光初日は、まず、ネフスキー大通りからネヴァ川に架かる宮殿橋を渡

 り、『ワシーリエフスキー島』の岬からロストラの灯台やネヴァ川越しのペトロバウロフスク要塞』や『エルミタージ

 ュ美術館』を眺めました。

 日差しが強く、こちらでも平年を上回る気温が続いているとのことでした。

   

ペトロバウロフスク要塞

 18世紀に発生した大北方戦争の過程で、スウェーデンから土地を防衛するために築かれた。 

 スウェーデンの脅威が低下した19世紀には、政治犯収容所としても利用され、一時はドストエフスキー、レーニンらも

 収容された。

 要塞の中央に、首座使徒ペトル・パウエル大聖堂(ペトロパヴロフスキー大聖堂)があり、ピョートル大帝以降の皇帝が

 葬られている。 

 黄金に輝く尖塔の高さは122.5m、要塞内には最高裁判所が置かれている。

フョードル・M・ドストエフスキー (1821〜81年)

 ペテルブルグ工兵士官学校をを卒業後、間も無く「貧しき人々」でデビュー、高い評価を受ける。

 しかし1849年、急進派のサークル活動に参加したことで逮捕、シベリア流刑となる。

 その流刑先で大恋愛の末結婚、過酷な体験を元にした作品「死の家の記録」で文壇に復帰した。以後、海外放浪と賭博に

 のめり込み、2回目の結婚生活を送る中から「罪と罰」、「白痴」、「永遠の夫」、「悪霊」など傑作の数々を生み出す

 最後の長編「カラマーゾフの兄弟」を発表した後、1881年栄光の生涯を閉じた。

     *

 バスは宮殿橋を渡り返し、ネヴァ川沿いの道を右折して『元老院広場』前で停車。

 広場に立つピョートル大帝がモデルという『青銅の騎士像』を見物。

  

青銅の騎士像 ( Медный всадник

 ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンがこの騎馬像を題材にした長編叙事詩『青銅の騎士』を1833年に発表し、有

 名になって、この像自体もこの名で呼ばれるようになった。

 騎馬像の建設は女帝エカテリーナ2世大帝の命により1770年に開始され、おもにフランスの彫刻家エティエンヌ・モー

 リス・ファルコネによって作られ、1782年に完成した。

アレクサンドル・プーシキン(1799〜1837年)

 1799年、中級貴族の子としてモスクワで生まれ、サンクトペテルブルグの創立間もない学習院に編入後、弱冠15歳の時

 の詩作が絶賛される。

 ロマン溢れる詩や文学作品で近代ロシア文章語の基礎を確立した。1830年「エヴゲーニー・オネーギン」、1833年「青

 銅の騎士」、1834年「スペードの女王」、などを相次いで発表、存命中から大変な人気を博した。国民詩人と呼ばれ、

 今も尊敬を集めている。

エカテリーナ2世

 在位1762〜1796年、ドイツ貴族出身。ピョートル大帝の孫で、エリザヴェーター女帝の甥ピョートル3世の妻。

 夫を無能な皇帝と判断しクーデターにより夫を幽閉、自ら即位。外政ではポーランドやトルコなどに領土を拡張、内政で

 は貴族や都市の特権を強化。

 フランスの思想家ヴォルテールと文通し、その教養も誇った。 

     * 

 そのまま先へ進み『寺院広場』から『聖イサク寺院』に入場しました。画像は元老院広場からと寺院広場から見た大聖堂

 です。

  

 天を貫くように聳え立つ総重量30万tの大聖堂、その姿は実に荘厳。

 内部に入ると孔雀石やトパーズなど40種類を超える美しい貴石と黄金の絢爛豪華な装飾に圧倒されました。

  

     *

     

聖イサク寺院(Исаакиевский собор》

 ピョートル1世が建てた教会に起源し、再建が繰り返された後、現在の聖堂は19世紀半ば、アレクサンドル1世の時代に

 フランスの建築家オーギュスト=ド=モンフェランの設計により完成。ロシアのビザンチン建築を基本とする新古典主義

 様式の重厚な外観をもつ。

 高さ101mの世界最大級の教会建築であり、帝政ロシアのシンボルとされる。

 1990年、「サンクトペテルブルグ歴史地区と関連建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。

     *

 寺院広場』には『ニコライ1世の騎馬像』があり、次いで『血の上の教会』に入場しました。

   

ニコライ1世

 1825年にニコライ1世が即位した直後、デカブリストの乱がおこります。

   アレクサンドル1世に従ってナポレオン戦争を戦い、パリに進軍した将兵は、そこで西欧諸国の文明に触れ、やがて自由

 思想を抱いてロシアの  政治体制に疑問をもつようになりました。 彼らはデカブリスト(12月党員)とよばれる秘密結社

 を組織し、ニコライ1世の即位と同時に蜂起しますが、ニコライ1世は武力を行使して、この乱をすぐに鎮圧しました。

  1853年、ニコライ1世はバルカン半島への進出を企て、オスマン・トルコとのクリミア戦争に突入しますが、戦争最中の

 1855年に急死します。

  彼の死後、クリミア戦争は多大な犠牲を出した末にロシア軍の敗北に終わります。

血の上の救世主教会Храм Спаса на Крови

 ロシア正教会の聖堂で、公式名は、ハリストス復活大聖堂Собор Воскресения Христова)。

 このほか、血の上の教会(Church on Spilt Blood)の名称でも知られる。高さは94m。

 この名称は、1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)のロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、教会が建つ場

 所は、皇帝遭難の地である。                       【Wikipedia】

アレクサンドル2世1818〜1881年)

 1861年に農奴解放令を発し「解放皇帝」と呼ばれたが、専制政治打倒を目指すナロードニキ(人民主義者)運動などに

 直面、1881年に暗殺された。

     *

 内部で目を引くのは聖像画イコン、壁や柱など教会内の至る所に掲げられている。また、外壁や屋根には浮き彫りの聖人

 像、天使像、動物像などが精密に刻まれ鮮やかに彩色された姿は見事だ。

  

     *

  

     *

 これで午前中の観光を終え、昼食場所のレストラン『Po Grib』へと向かいました。

 モイカ運河沿いにはお土産店などが並び、レストラン前の橋からは遠く『血の上の教会』を眺めることができました。

  

 昼食は「ボルシチ」「パイ付きつぼ焼きシチュー」「プリヌイ ジャム添え」などを美味しく頂きました。

  

【ボルシチ】

 ボルシチは、もともとはウクライナの郷土料理です。ボルシチという言葉も、もとはウクライナ語で草や薬草の煮汁を意

 味するものでした。

 スビョークラ(ビーツ)や玉ねぎ、ニンジン、キャベツ、炒めた牛肉などをじっくり煮込んで作る具だくさんのスープで

 す。

  

【プリヌイ】

  ロシア料理の中で、おそらくブリヌイほど愛されている食べ物はないとのことです。

 ごく普通のパンケーキですが、小麦粉やそば粉に卵、牛乳、ヨーグルト、砂糖、塩などを混ぜ合わせた生地にイーストを

 加えて発酵させ、フライパンで薄く焼き上げたパンケーキ、あるいはクレープと言ったような食べ物です。