nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

ロシア紀行 6

2018-06-14 21:45:48 | 旅行記

平成30年5月17日(木)晴時々曇 19℃

 サンクトペテルブルグでの最後の朝は、モスクワへのフライトの関係で3時半に起床、流石に外はまだ暗い。

 身支度をして、昨日の夜に用意されていたお弁当を食べることにしましたが、まだ食欲もなくジュース、ヨーグルト、ク

 ッキーなどを口に入れました。

 出発は5時45分、昨日の雨も上がり今朝は青空が広がっています。

     *

 早朝なので流石に車の渋滞はなく、スムースにプルコーボ空港に着きました。

 建物入り口に1回目のセキュリティチェックがあり、搭乗続きが済んで搭乗券を受け取ると、2回目のセキュリティチェ

 ックがある。

 ここではベルトコンベアー方式のゲートがあり、右を向いた状態でベルトコンベアに乗り、止まったら降りる方式で、こ

 れは初めての経験でした。

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 8時20分、ほぼ満席のフライトではサンドイッチのサービスがあり、遅めの朝食となりました。飲み物はコーヒーか紅

 茶のみで、1時間半ほどのフライトですので、ゆっくり食べるわけにはいきませんでした。

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 2度目のモスクワはドモジェドボ空港、相変わらずの混雑で、バスに乗るまでに1時間ほどの時間がかかりました。

 ガイドは先日と同じリューバさん、目的のセルギエフ・ポサードまではモスクワ市内の渋滞が酷く、途中休憩はなく2時

 間半かかってレストラン・トラペッツナヤに到着しました。

セルギエフ・ポサート Се́ргиев Поса́д

   モスクワの北北東70km、トロイツェ・セルギエフ(聖セルギー三位一体)大修道院を中心とした街。

 若き日の聖セルギーが1345年後に修道院となる僧院を立てたのが始まり。彼はタタールとのクリコヴォの戦い(1380

 年)で、精神的な指導者としてロシアを勝利に導き、やがて修道院はロシアの文化的中心に。

 皇帝もしばしば訪れ、若き日のピョートル大帝が、政敵から身を隠したこともあったという。現在も修道院には300人の

 修道僧が生活している。主な産業としては、古くからのミニアチュールと木製玩具の製作が盛んである。

 「黄金の輪」を構成する都市のひとつとしての観光業も盛んで多くの観光客が訪れる。

 ロシア正教会の中心地のひとつでモスクワ神学大学、同神学校が設置されている。

                   

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 ここでの昼食は、『マッシュルームヌードルスープ』とメインは『シャシリク』。

シャシリク】

 肉の串焼き料理。羊肉あるいは牛肉を角切りにし,塩,コショウ,サラダ油などに浸しておいてから金串に刺し直火で焼

 く。

 タマネギ,ピーマンなどをともに刺すこともある。ロシア料理として知られるが,もとはタタール人の野外料理で,羊肉

 を長剣に刺して焼いたという。いわゆるバーベキューで、トルコのシシカバブーのようなものです。これは美味しかった

 です。

  

 デザートは『ポンチク』、これはロシア風ドーナツで、食べ残したものはお土産に頂いてきました。

 あっさりした甘さで、オヤツに最適でした。

  

     *

 レストランからは歩いて『トロイツェ・セルギエフ修道院』に向かいました。

  

     * 

トロイツェ・セルギエフ大修道院 Троице-Сергиева Лавра 至聖三者聖セルギイ大修道院

 調和のとれた建物群は、15〜18世紀に建設されたもので、中心部のウスペンスキー大聖堂は、1584年イワン雷帝の名に

 より、モスクワの大聖堂を模して設立された。金色屋根のトロイツキー聖堂(1423年)が最も古く、天才画家アンドレ

 イ・ルプリョフがイコンを描いたことでも知られる。教会美術品や寄贈品を展示した博物館(聖器所)も興味深い。

 18世紀、修道院は女帝エリザヴェータから『大修道院』の称号を与えられた。

 その諸建築はロシア教会建築の優品として知られる。1993年、ユネスコの世界遺産として登録されており、登録名は、

 「セルギエフ・ポサードの至聖三者セルギイ大修道院の建築的遺産群」。

  

ウスペンスキー寺院 Успенский Собор

 16世紀には、至聖三者聖セルギイ修道院の横に、ウスペンスキー聖堂(生神女就寝大聖堂)が建設されました。

 ウスペンスキーとは、ロシア語で「永眠」を意味するウスペニイェに由来し、ウスペンスキー大聖堂とは、カトリックに

 おける聖母マリア被昇天教会にあたります。

 ここセルギエフ・ポサードのウスペンスキー聖堂の外観は、キリストをあらわす金色屋根を中心に、周囲に聖母マリアを

 あらわす青色屋根が配された、とてもポップな色合いの美しいもので、まるでおとぎの国のお城のようです。

  

 ウスペンスキー大聖堂内に入場、多くのイコンを拝見しました。

  

 18世紀に建てられたという高さ88mの『鐘楼』と『トロイツキー聖堂』

  

 ウスペンスキー大聖堂前にある『ドゥホフスカヤ教会』とイコン。

  

 大修道院の見学を終え、バスは今日の宿泊地のスズタリへ向けて出発しました。

 ここからスズタリまでは移動時間(3時間半)が長く、途中ファエトンでトイレ休憩の後、ホテル『クニャジィ・ドヴォ

 ル』に着きました。

  

 ホテルのフロントは天上が吹き抜けの総ガラス張りで、遠く林越えにスズタリの街が望める絶好の場所にありました。

  

 夕食は、ホテルのレストランで頂きました。

 『ベジタブルサラダ』と『豚肉料理』。

   

 デザートは『プリヌイ ジャム添え』でした。夕焼けが明日の好天気を知らせてくれていました。

  

【プリヌイ】

 ブリヌイとは簡単に言うとロシア風のクレープです。 ボルシチと並び、最もポピュラーなロシア料理の一つ。

 薄く伸ばして焼いた生地にチーズやハム、イクラやサーモンを包んだり、甘いジャムなんかもよく合います。

 トルコのシシカバブーです。

     *

 今日早暁からの長い一日で、大分疲れが溜まったようで、汗を流して早々とベットへ入りました。

     *

 3.30. 起床 … 5.45. ホテル発 → 6.30. サンクトペテルブルグ・プールコボ空港 … 8.20. S7航空 S7-020便 → 9.50.

 モスクワ・ドモジェドボ空港 1040.(バス)→ 13.10. セルギエフ・ポサード レストラン・トラペッツナヤ(昼食)

 14.00. … 14.05.トロイツェ・セルギエフ修道院 … トラペツア(食堂付属)教会 … ウスペンスキー寺院 … トロイツ

 ェ・セルギエフ大修道院 15.30. → 16.30.ファエトン・スーパー 16.45. → 19.00. スズタリ・ホテル・クニジャイ ・

 ドヴォル着 … 19.30. ホテル・レストラン(夕食)20.30.

     *

スズダリ Су́здаль

 ウラジミール州の都市。モスクワ北東、ウラジミールから26km、カメンカ川沿いに位置する古都である。 

 スズダリの名が歴史的、記録上初めて見られるのが1024年である。12世紀前半、ユーリー・ドルゴルーキー(手長公)

 の時代にロストフ・スズダリ公国(ウラジーミル・スズダリ大公国の前身)の首都となる。

 以後、14世紀末にモスクワ大広國の支配下に入るまで、ウラジミール・スズダリ大広国をはじめとする諸公国(スズダリ

 公国等)の首都として機能し、いわゆる「黄金の輪」を形成した。

 政治的重要性が喪失された後も、ロシア正教の中心の一つとして、宗教的・文化的な役割を果たした。 

 今日、スズダリは、古代から中世期の教会、修道院などの建築を多数保有する観光都市である。

 市街には多数の教会建築のほかに、小川の流れと牧草地を有する小さな村や草原があり、こうした田園とスズダリの教会

 建築は、絵画的な風景をもたらしている。特に夏場には、こうした風景を求めて多くの観光客や絵を描く人々が訪れる。

 ソ連時代の1967年、ソ連閣僚会議によってスズダリの観光・旅行センターとしての建設が決議され、博物館都市として

 の都市整備が進んだ。

  1992年「ウラジミールとスズダリの白亜の建造物群」はユネスコの世界遺産に登録された。

     *

黄金の輪 Золото́е кольцо́

 モスクワ北東近郊にある都市群の名称。古くは、ザリエーシェとも呼ばれた。

 これらの古い都市は、ロシア史、ロシア正教会における精神文化、芸術、建築などにおける源流が形成された地域として

 重要視される。これらの都市は、11世紀から15世紀末にイワン雷帝が各地を征服し中央集権体制を構築するまで、ロシ

 ア諸公国の首都として栄華を誇った。

 都市自体が野外建築博物館とも言える。12世紀から18世紀におけるロシアの都市に特徴的なクレムリン(城塞)、修道

 院、大聖堂、教会を擁する。「黄金の環」の都市が観光地として喧伝されるようになったのはソ連時代の1974年のこと

 である。

 ソ連崩壊後も外国人向けの観光地として整備が進められている


ロシア紀行 5- 2

2018-06-14 18:28:34 | 旅行記

平成30年5月16日(水)雨後曇

 今日も相変わらず多くの観光客が入場を待っていました。

 グループの入口から入り、セキュリティチェックを受け、ガイドのAさんの案内で主に本館のイタリア・オランダ絵画を

 鑑賞しました。

            

本館中央階段上り口

  

ジョルジョーネ

『ユディト』 1504年頃

 晩期ルネッサンスの到来を告げるヴェネチアの巨匠ジョルジョーネは夭折だった。ペスト流行の犠牲となって病死した

 時、彼は僅か32歳程だった。

 『ユデイト』は、かってラファエロの作品と目されていたという。

クラーナハ

『女の肖像』 1526年

 クラーナハが描くマドンナやヴィーナス、実在あるいは架空の女性は共通して整った面長の顔に細長い目をし、髪の色は

 明るくて、常にどこか謎を秘め、無関心である。そして、その瞳は人の物ならぬ神秘を湛えている。 

『林檎の木の下の聖母子』1530年  

 聖母の切れ長の目、ややとがった顎、長く美しいブロンドの髪などは、画家の他の聖母にも見られる特徴である。

 こちらを見ている幼いキリストはリンゴとパン切れをつかんでいるが、パンはキリストが「最後の晩餐」で自らの体と見

 たもの(「聖体」)であり、リンゴとともにキリストによる救済のシンボルである。  

          

ティツィアーノ

『ダナエ』 1553 - 1554年頃    

 ダナエの子に殺されるという予言を恐れたダナエの父が、ゼウス神に恋をするダナエを監禁するというギリシャ神話の逸

 話を描いた絵に描かれているのは、金の雨となってダナエのいる塔にゼウスが降りてくる場面、内容、構図ともに壮大な

 一枚。

『 懺悔するマグダラのマリア』 1565年    

  ティッツィアーの筆致はマリアの髪が微妙に色を変えながら金色に光る様子を、白い柔肌を、そして祈りの気持ちが極

 まって重ねら れた両手の小刻みに震える細い指を、見事に描き出している。絵具を数回大きく置いただけに見えて、そ

 れだけで闇の中に高価な香 油の入ったクリスタルの器が出現する、驚くべき技である。  

   

カラヴァッジオ

 『リュートを弾く若者』 1595年

  この絵の一般的な解釈は、「生あるもの全てがやがては必ず死に至る」という『Vanitas』のテーマとのことです。

  リュートを奏でる青年の匂うような若さも永遠ではない。そのことを指摘するようにリュートの弦が一本切れている。

 また花も同じ ことを示晙している。花は必ず枯れるからだ。時がたてば乾いて瑞々しさを失ってしまう果物もまた然り

 である。 

 

 エル・グレコ 

『使徒ペトロとパウロ』1580年代

 共にイエス・キリストの12人の使徒の1人であるペテロとパウロが一緒に描かれた珍しい作品。宗教画や肖像画を得意と

 したグレコらしい1枚で、左端に鍵をもつペテロ、右端にパウロが描かれている。

 

 ベラスケス 

 『昼食』1617〜18年

 セビーリャ派の影響を受け写実風作品を多く残したスペインの画家の若き日の作。人間の生涯を世代の違う3人の男で表

 現した有名な作品。右端の青年は当時18歳だったベラスケスであると言われる。テーブル手前にはキリスト教のシンボ

 ルであるざくろとパンが置かれている。

 

ムリーリョ

『少年と犬』1650年代

  『少年と犬』は初期、つまり「寒色スタイル」の作例である。この時期ムリーリョの絵画は密度が高いことが特徴で、色

 彩は寒色が多く使われたため、このように呼ばれる。

『無原罪の御宿り』1670年代

 スペイン絵画黄金期の17世紀を代表するムリーリョの『無原罪の御宿り』は、「空気スタイル」の秀逸たる一例とされ

 る。

 この作品の聖母が白と水色を着用しているので画題は無原罪の御宿りに違いない。

  

ゴヤ

『アントニア・サラテの肖像』 1810 - 1811年

 スペインの女優ドニャ・アントニア・サラテ(1775年生?1811年没)を描いた作品です。1810〜1811年頃、スペイン

 の画家フランシスコ・デ・ゴヤとその工房の弟子たちとで制作したもので、アントニア嬢は女優としての才能よりも美貌

 で名高かった。

 36歳で結核で他界したが、もしゴヤが残した2枚の肖像ががなければ、遠い昔に忘れていられたとのことです。

 

 ルーベンス 

 『大地と水の結合』1618年

  この寓意画は命の源である大地と水の融合を称えている大地はキュベレに、水は海神ネプチューンによって象徴され

 る。

  この絵を通してルーベンスは愛する祖国が直面している最も重要で危急の問題を提示し、フランドルの貿易にとって致

 命的だった オランダによるシェルド川封鎖が解かれるよう自分の希望を吐露した。

 『ペルセウスとアンドロメダ』1620年代

  オウディウスの叙事詩『転身物語』の題材で、ゼウスとダナエの間に生まれたギリシャの英雄ペルセウスが、海上を飛

 んでいると美しい娘が岩に括りつけられている。それはエチオピア王の娘で、海獣に人身御供として差し出されたのだ。

 ペルセウスは怪獣を倒し、王女を救う。その恩賞は彼女の愛だった。

  

ヴァン・ダイク 

 『自画像』1620年代末〜1630年代初

  驚くべき技によって質感が描出された高価な正絹に若々しい顔色と金色がかった髪がよく映える。「時代の寵児」と言

 われ、一世を風靡した30歳の肖像画家にふさわしい自画像と言える。

『家族の肖像』1620年代末

 ヴァン・ダイクは自分に似た気質の、教養の深い内面の豊かな人々に興味を惹かれていた。『家族の肖像』に描かれてい

 るのは風景画家 J・ヴィルデンスとその妻子と考えられている。

『トム・ウォールトン卿の肖像』1630年代後半

 1632年末、英国王チャールズ1世がロンドンに招いた時期の肖像画で、英国貴族の容姿の典型となった被写体は、どれ

 も上品なエレガントを湛え、高貴で自尊心に満ちている。 

   

レンブラント 

 『フローラに扮したサスキア』1634年  

 1634年レンブラントは、アムステルダムの裕福な名家の娘サスキアと結婚する。同年彼は花の女神フローラに扮した新

 妻の肖像画を制作する。彼の最高傑作とも目される作品である。

 『ダナエ』1636年 

   1985年、この作品は精神異常者の手によって硝酸をかけられ、ナイフ傷を2ヶ所に受ける。損傷は酷く、この名作の美

 術品としての歴史は幕を閉じたかに思われた。

 しかし、エルミタージュの修復員による12年間の必死の努力の末、ダナエは蘇り、展示室に戻ることができた。

 『放蕩息子の帰還』1666〜68年。

 この作品は彼が晩年に描いたものです。原題は新約聖書ルカ福音書の「放蕩息子」です。聖書の逸話を題材としたこの絵

 には酒色に溺れた放蕩生活の末に、悔い改めて父親の下に戻った息子と、その息子を許し暖かく迎え入れる父の姿が描か

 れています。

   

ロダン 

 『詩人とムーサ』1905年

  ロダンの彫刻は柔軟な躍動感に特徴がある。『詩人とムーサ』では芸術的創作を促すのは女性的要素であるという19世

 紀初めに台頭した思想が具現化している。ムーサに身を任せるように寄りかかった詩人は夢想に遊び、創作のエネルギー

 を充填する。

 『ロミオとジュリエット』1905年

  ロダンは作品に題名を付けるのが不得意だったが、抱擁し合って接吻する恋人たちの姿は時代を超越している。唯一バ

 ルコニーの手摺らしきものが描かれていることで、これがイタリアルネッサンス期の出来事であるということが辛うじて

 推察されるばかりだ。

 『永遠の春』1905年

  2人の人物はあたかも岩の中から生み出されたように表現されているが、この岩は物質としての景色を表すのではなく、

 始まりも終わりも無い永久の時空を象徴する。しかし、真の恒久性を表現するのは、素晴らしい肉体と熱情だろう。

     

     *

イタリア派展示室 

  ジュピター像(ジュピターの間)前1世紀

 現在、ジュピターの間ではローマ肖像彫刻が展示されています。部屋名はかって主神ジュピター神殿に祀られていた壮大

 なジュピター像に由来する。19世紀にローマ近郊で古代神殿が発掘された際に出土したジュピター像。

  

     *

 コルィヴァニ壺 1847年

  ロシア石彫芸術の最高峰コルィヴァニ壺は、展示室の飾りとして制作された。アルタイの研磨工場ではこの壺の制作に

 12年もの月日を投じた。高さ2.5m以上、一枚岩から成る碗の直径は約5mにもなる。それぞれ一枚岩から掘り出された

 五つの部分から成り、分解できるようになっている。重量は19t。

 十二円柱の間

  古代の絵壺の展示用として造られたホール。2列に並ぶ円柱は天井の梁を支えており、天井は古代ギリシャの神殿のよ

 うに碁盤状に区切られている。壁の上方に施された12の装飾画は絵壺の図柄を使ったもの。19世紀中葉に美術館として

 作られた内装を唯一手付かずのまま残す貴重なホールである。

  

 これで3回に亘ったエルタミージュ美術館の見学を終えましたが、3回ともガイドのAさんに達者な日本語で案内して頂

 き、大分助かりました。ただその膨大な量に圧倒されて一つ一つの内容をハッキリと思い出すのは難しく、帰国後に改め

 て写真や参考書などを見ながら整理しました。

     *

 今日のサンクトペテルブルグでの最後の夕食は、レストラン『Literaturnoye Cafe』で頂くことになりました。

 バスで移動の途中、街頭の『フルーツ店』が、種類多く果物を並べていました。

  

 飲物はすっかり『ウォッカ』の味が気に入り注文、料理は『サリャンカ』(スープ)から始まり、メインは『チキンフリ

 カッセ』。

  

【サリャンカ】 Солянка  (酸味のあるピクルススープ)

  サリャンカは中世のロシアの料理本にも記録がある古い料理です。

  ウクライナではソリャンカと呼ばれ、旧ソ連諸国や東欧諸国でもしばしばお目にかかれる、広域で食べられているスー

 プです。 英語の「ソルト(塩)」と語源が同じで、それはすなわち、きゅうりのピクルスやザワークラウトのような発酵

 キャベツや塩漬けオリーブなどを使って、塩分と酸味がしっかりした味わいを出していることに由来します。

  近代になってトマトが定着し、サリャンカは、(中世料理本にはない)トマト入りのスープになりました。

    *

  デザートは『アイスクリーム』で、エルタミュージュ美術館の話題が中心のディナーでした。

  ホテルまでのバスを待つ間、ちょうどトロリーバスが通過したので画像に収めました。こちらではバス、市電などと共

  に市民の足になっているようです。

    

  ホテルへ戻り、明日の出発が早いので、パッキングなどをして早めに休みました。

     *

   7.00. 朝食(ビュッフェスタイル)… 9.00. ホテル発(バス)→1030. ピョトール大帝の夏の宮殿(ペテルゴー

   フ)12.10. → 12.15. レストラン・パークサイド(昼食)13.00. → 14.40. エルミタージュ美術館(3回目)

   17.20. → 17.50. レストラン・Literaturnoye(夕食)18.50. → 19.30. ホテル着