なぜ『勝って兜の緒を締めよ』ができないのだろうか?
緊張と緩和は必要だけれど、それぞれ程よいのが私の好み。
しかし緊張が大きいほど、緩和も大きくしないといけないのだろうなと国際色豊かなW杯は教えてくれる。
金星あげた翌日は祝日にする国。
自分の能力をおどけたパフォーマンスで自慢しながら相手を嘲笑う選手。
どんなプレッシャーが彼らにのしかかっているのかは誰にも分からないけれど、その反動で起きる結果は言葉として映像として世界中の人に伝わってしまう。
そして日本人ならこう言うだろう。
『なぜ、勝って兜の緒を締めなかったのか』
それは、
締められないのだ。
緊張の後に必要な緩和だから、締められないのだ。
だから彼らを一方的に責めるのはかわいそうな気がする。
お国柄や人柄なのだ、と考えた方が良いだろう。
筆を持って紙に向かう時、程よい緊張感がある。
また、それは必要だ。
でも程よい緊張感なので、緩和も小さくため息つく程度の程よい物でじゅうぶんだ。
書道の国際大会があって、君が多くのサポーターに囲まれて試合するとしたら?
その緊張感から解放されたい為に、意図的に何かやらないとダメになってしまう?
想像しにくい?
だよね(⌒▽⌒)
酒とノリで荒れる数千人ぐらいの前で演奏した事が何度もある。
昼間の屋外でのLiveだったから、観客一人一人の荒くれた表情も見える。
それが押し寄せる波の様にうねっている。
まるで巨大な生き物だ。
そんな怪物と向き合った経験値は私の大切な財産のひとつ。
怪物と対決するための準備の大切さと、それを怠った時の悲惨さを知っている事がお宝。
ガッツリやってきたバンド活動で得た物はかなり大きい。
『武士道とは死ぬ事と見つけたり』ならば、サムライJapanは何を『死』として捉えているのだろうか?
多分それは全てを出し尽くして試合終了のホイッスルを聴く事だろう。
毎試合毎試合、きちんと死ぬ事を目指しているのではないだろうか。
話が飛躍しすぎたかな?
でも、そんな気がする。
人生、決めた目標に向かって自分の全てを出し尽くして終わりたい。
どんな目標?
音楽事業では、
日本のライトミュージックシーンの底上げをする事
書道では
高橋鵞翠の書体と書法の流布とそれを学ぶ者の背骨と生活を作る事
そしてそれぞれに従事する者一人一人の夢の実現に近づけながら社会に貢献する事
こんな感じ、、、、
今日もサムライJapanと共に、死力を尽くしていこう!