金五郎の洋行
茲で一寸金五郎の洋行の御話をしてをきます。兄の歿後その一子增次郎に襲名させたことは前にもお話しましたが、將來表面に立って働いてもらふ上でも、また旁〻兄の素志を遂げさせる意味でも歐米の新知識を仕込むことが必要だと考へましたので、明治三十六年の二月に店員及職工數名を随へて外遊させました。金五郎は歐米諸國の著名な諸工場を視察して一旦歸國しましたが、又々要務を帶びて歐米を巡回し、三十七年の一月に歸朝しました。この際に各地から色々新商品の見本を仕入れて來ましたが、その中で特に有望だと思つて賣出しましたのは平圓板寫聲機でした。
寫聲機命名の由來
さうして米國のコロンビア會社と東洋一手販賣を契約しまして平圓板寫聲機を賣り出しましたのは明治三十七年の四月でした。寫聲機といふのは今では一般に蓄音機と云つてをりますが、當時でも蓄音機といふ名は旣にあつたのです。しかし、以前の蓄音機は蠟管と申しまして蠟で作つた圓筒用ひるので、その音も聞き取りにくい程低かつたものです。ひところ手廣くやつてゐた淺草の三光堂の主人などは、この蓄音機を街頭に引き廻して宣傳しながら賣つたものです。しかし、何分不完全なもので世間でも評判がわるく、いつとはなしに頽 すた れて了ひました。それで新たに今のやうな平圓板を用ひる蓄音機を賣り出しましても「何だ蓄音機か」と云つて餘り耳目を惹きません。それでことさら寫聲機といふ新語をを用ひました。そして蠟管を用ひる蓄音機と區別したのですが、初めのころは私どもも改良蓄音機といふ名で蠟管のものを賣つてをりました。序手に申し添へておきますが、この平圓板といふ言葉も後にはどうも面白くないので、記錄盤とか言ふやうな字をあててみたり色々考へて見た末、とどのつまり原語のレコードと言ふ言葉をその儘つかふことにしたのです。
寫聲機の吹込み
さてかうして賣出すことになり、コロムビア會社から技師を二人招いて吹込みを行ひ、之を先づ手初めに數百枚種板に作つて更に米國に發送して仕上げさせたのです。吹込みについては色々な話があります。はじめは藝者の唄を入れましたが、普通の藝者は聲が弱くてサッパリ入りません。何でもよく賣れたので憶えてゐますが、札幌の歌次とか云つた藝者の「追分」と新橋の喜代次・すま子といふ藝者の「かつぽれ」は仲々うまく入りました。これ以外では吉原の藝者でなければ駄目でした。吉原がヒケるとよく夜遲く婆さん藝者や太鼓持の連中がぞろぞろやつて來ましたが、仲々元氣がよく聲がよく通るのがゐまして吹込みは吉原の藝者に限りました。しかし、一流の藝人も勿論吹込みましたので、常磐津では林中、淸元では延壽太夫・彌生太夫、謠曲では寶生九郎・觀世淸廉・梅若萬三郎・觀世淸之・梅若三郎、義太夫では、呂昇・昇之助・和廣・殿太夫・小淸・東猿・小豊後・春子太夫・攝津大椽・大隅太夫・染太夫・津太夫・昇太夫・綴太夫・源太夫・津バメ太夫・文太夫・南部太夫・小土佐・七五三太夫・七五三之助、長唄では大薩摩文太夫(芳村伊十郎)・吉住小三郎、新内では富士松加賀太夫、といつた手合 てあひ です。音曲の外には詩吟、琵琶、軍談、唱歌、落語、浪花莭、芝居臺詞などを入れました。芝居の臺詞 せりふ には雁治郎・高麗藏・芝翫・左團次が入つてゐます。澁澤さんや島田三郎氏の演説なども入れて見ましたか、これはサッパリ賣行がないのでやめました。かうした吹込をする時には、例によつて櫻痴先生の御世話になつたことは非常なものですが、先生自身も道樂半分に平家琵琶を吹込まれたことがありました。
寫聲機の發賣
いよいよ準備がととのつて之を賣り出すにつきまして、最初に御得意さま方を精養軒に招待して披露しましたところ、今までの蓄音機などと違つて音聲も大きく明瞭なので大ぶ好評でした。その時櫻痴先生が色々御指圖下さつたことは前にお話し申しました。それから宣傳の爲に方々を持ち廻つて御試めしを願つたことがありましたが、どうした手違ひか機械の方は見本の一臺が届いただけで後が仲々來ない。それなのに「一時も早く一臺寫聲機がほしい、金はいくらでも出すからよこせ」と云はれる方などあつて弱つたことを思ひ出します。
かうして寫聲機の發賣は方々で大ぶ評判がよく、靑山御所、高輪御所、有栖川宮家と申すやうな高貴の方々の御買上げを蒙りました。丁度その時、日露戰爭が勃発したのですが、その折、私どもは「軍隊用寫聲機」と銘うつて賣出しました。これは戰線の兵隊を慰問する爲の寫聲機と云ふつもりなのですが、中には「日本の兵隊が寫聲機など聞きながら戰をするものか」と惡口を云ふ人も出ました。ところが、これが軍隊を慰問する上で大へん役に立つと云ふので、各師團をはじめ、赤十字社や三菱、三井、また本願寺のやうな宗敎團體から大量的に御註文を受けました。
戰爭が終つてから後は戰捷景氣で時計類などと共に寫聲機の賣行も益〻盛になりましたが、殊に明治四十年に催された東京勸業博覧會では人氣の中心でした。そればかりでなく、畏くも皇后陛下の行啓に際しては、殊の外私どもの寫聲機に御興味をお持ちなされました御樣子で厶いました。その頃の「人民新聞」の記事を御参考までに御覽に入れませう。
天賞堂の光榮 七月十二日 國母陛下東京博覧會行啓の砌り金属品及漆器等の輸出品に就ては手島部長御説明申上げしが貴賓館内御休憩中天賞堂其他の金鎖及時計指環等を御取寄せの上御覽あり時計三個御買上遊ばされ又外國館にては同堂出品の軍艦型、機關車型、潜水艇型等の置時計を御覽の後大聲蓄音機にて勸進帳、石橋、雛鷄三番、娘道成寺、軍艦マーチ等の長唄又は音曲樂譜を演奏せしに十分餘り御聴取あらせられて軈て同堂出品の梨地ルビー、ダイヤ入十八金十形時計御買上となり卽時御持歸り遊ばされたれば同堂は非常の光榮を感佩し居る由。
美音のしをり
この頃私どもは吹込みました音曲等の文句を印刷し、まとめて小冊子とし「美音の栞」と題して一般の方々にお頒ちしましたが、その第一篇は明治四十年十二月、第二篇はその翌年の十一月に出しまして、その後も逐次上梓しました。その序文をお目にかけます。初めのは明治四十年、後のは四十一年のものです。
〇〔省略:第一編参照〕
〇美音の栞り一たび出て愛顧諸君の評判好く、寫聲本機を据置かるゝ大家は固より、貴婦人令嬢さては學生達に至るまで、素本を讀みてもいと興あり、續いて次編を出せよと請求頻りなりければ、此度は少しく體裁を易へ、義太夫の外謠曲長唄、淸元常磐津、薩摩筑前平家琵琶、詩吟唱歌に軍談とその配合も樣々に、濃艶もあれば淡泊もあり、秋の山路の道しるべ、紅葉の折と見まがふべく、第三編は來ん年の春の初の櫻木に輯むることゝしつ、そが番組の數々は姑く秘めて言はぬが花やがて咲出る時を待ち、榮ある色香を愛でさせたまへや。
〔蔵書目録注〕
上の文は、昭和十四年六月三十日発行の 『商道先驅 天賞堂五十年回顧』 江澤富翁述 非賣品 四海書房 に所収のものである(上の写真は、そのうち表紙)。
『美音の栞り』は、 第一編(明治四十年九月) 及び 第三編(明治四十一年六月) の二册を所藏する。
なお、国会図書館所蔵のものは、(明治四十四年六月) で、全文デジタルで閲覧できる。