蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『支配日本少壯軍人思想之 日本改造法案』 北一輝著 艾秀峰譯 天津大公報社 (1932)

2024年02月06日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

    

   北一輝著 艾秀峰譯 
 支配日本少壯軍人思想之 日本改造法案 1932 
               天津大公報社印行
  
    目錄
  
 譯者序言   
  一、國民之天皇
  二、私有財産限度
  三、土地處分三則
  四、國家統一之大資本
  五、勞働者之權利 
  六、國民之生活權利
  七、朝鮮及其他現在與將來領土之改造方針 
  八、國家之權利
 附錄
  深入民間之日本軍閥勢力
  封建式之日本法西斯團體
  一個有聲有色的日本法西斯團體
  
  訳者序言
  
  這本書是日本一個法西斯團體的首領北一輝所著、他是日本老壯會猶存社等多年醞醸的法西斯團體的精神指導者。這本改造法案、可以説是他們的行動指南、建國鋼領。會員們視之如最高理想、尤其近來気燄萬丈、操縦政權的少壯軍人派中、更有人奉之如聖經寶典、極表同情、這種事實、就是譯者認爲有譯出必要的唯一前提。我們知道此次「九一八」事件的發生、固然是日本幾十年來傳統政策的路線、遲早有實現的一天。然而這種抹煞一切國際條約、中日信義、明目張膽地斷行武力侵佔的横暴手段、却是日本少壯軍人派的使動、因爲他們有武裝的力實、有在郷軍人團的後援、又有産業凋敝、生計困窘的農民羣衆的擁護、以致政府勢難制止、緩進策略、在所不容。這本改造法案、就是他們用以籠罩日本民衆精神的文章、恣意横行的準則。我們研究這本書、就可以知道日本最近當權的一部分少壯軍人派與日本大部分民衆的中心思想,正在演變、在不久的將來、日本的國情、將要演到何種地步?同時可以看出來日本的内部矛盾、階級對立已經發展到如何程度?
  這本書的理論、不消説是法西斯主義的思想、當然不是無産階級的澈底的革命思想。關於財産制度、採用限制財産制、明明是保護中産階級的制度、絲毫沒有解除無産羣衆的桎梏。關於國權問題主張占我滿蒙、奪取西伯利亞、及澳洲、顯明是極端的國家主義派。關於民權問題、否認婦人人權與男子的權利完全平等顯然帶着日本傳統的封建色彩‥‥‥‥‥‥在理論上都犯着 絕大的錯誤。因此譯者須向讀者聲明:就是譒譯這本書的目的、換言之這個譯本的價値、在於使讀者了解現在一部分有力的日本少壯軍人思想的核心、和他們的具體方策、以及此後日本的可能的演變。簡言之、紹介全盤事實、不論理論怎樣。
  此外在附錄内附有「一個有聲有色的日本法西斯團體」和楊敬慈先生的「深入民間之日本軍閥勢力」「封建式之日本法西斯團體」兩篇、盡量叙述事實、説明日本法西斯團體的史的發展、和近来的活躍情況、以供讀者參考。

  支配日本少壯軍人思想之
   日本改造法案
  
    一、國民之天皇
  
天皇之意義 天皇乃國民之總代表、國家之根柱。
(註一)
(註二)
(註三)
廢止華族制 廢止華族制、並撤削阻隔天皇與國民之藩鎭、以貫徹明治維新之精神。
廢止貴族院 設置審議院、以審議衆議院之決議案。審議院得否決衆議院之決議、但只限一次。
審議院議員 於各種功勳者間、依互選或勅選決定之。
(註一)
(註二)
普通選舉 二十五歳以上之男子得享有一般日本國民之權利、有衆議院議員之被選舉權及選舉權。
地方自治會亦然
女子無參政権
(註一)
(註二)
(註三)
恢復國民自由 廃止一切拘束國民自由及牴触憲法精神之各法律、如文官任用令、治安警察法、新聞紙條例、出版法解除。

    二、私有財産限度

私有財産限度 日本國民一家所有之財産、以一百萬元爲限、海外之日本國民亦然。
嚴禁以財産贈與血族、或以其他任何手段、授與他人等破壊上述財産限度之行爲。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
改造前私有財産超過額之沒収
凡超過私有財産限度之財産、無代價収歸國有。
不得請求現行法律之保護、拒絕沒収。
(註一)
(註二)
(註三)
改造後之超過私有財産限度者
國家改造後、擁有超過私有財産限度之財産者、當將超過額繳納國家。
國家認此繳納之財産、爲對於國家之獻金、得以某種方式、表彰其功績。
不得將超過額分析血族或贈與他人。
對於違犯者之執刑、因此係紊亂國家根本法之罪名、得另行訂之。 
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
(註五)
    三、土地處分三則
    四、國家統一之大資本
    五、勞働者之權利
  
勞動者之任務 應於内閣設立勞動部、以保護依國家生産及個人生産所傭僱之一切勞動者之權利。
關於勞動爭議、依法律之規定、勞動部有裁決權、此項裁決案、生産各部、個人生産者、及勞動者、應一律服從之。
(註一)
(註二)
勞動工資 労動工資、以自由契約爲原則。
其爭議依前述法律之規定、得由勞動部決定之。
(註一)
(註二)
勞動時間 勞動時間一律以八小時爲限、星期日及記念日休假日等照常發給工資。
農業勞動者 於農期繁忙中、因勞動時間之延長、得追加工資。
勞動者之利益分配被私人生産僱傭之勞動者、得領受純利之二分之一。此項分配包括所有智力勞動者與勞力勞動者、依薪俸與工資之比例分配之。
勞動者得選擧 代表參與事業之經營計畫及収支決算。農業勞動者與地主間亦如是。 
被國家生産各部僱傭之勞動者、不領取純利的分配、得増發半期薪俸。至於參與事業之經營収支決算時、須通過衆議院、以國民之資格、向國家之全生産建議。
(註一)
(註二)
勞動者之股東制、使被僱於股東組織之私人生産事業之肉體或精神之勞動者、享有充任股東之權利。
(註一)
(註二)
(註三)
佃農之擁護 爲擁護向限度内私有土地之小地主借耕土地之佃農起見、國家應另制定以國民人權爲基礎之法律。
(註一)
(註二)
禁止幼年勞動 禁止十六歳以下之幼年勞動。
違法僱傭者重罰大之罰金、並處以體刑。
在貴族保護下、被僱於貴族家庭之勞動者、不在此限。
(註)
婦人勞動 婦人之勞動與男子平等、但改造後之大方針、國家須決定並設施使婦人脱離社會勞動之設備。
國家處於非常之際、婦人得替代男子之勞動、故須使之受與男子平等之國民敎育。(參照國民之生活權利)
(註一)
(註二)
(註三)  

    六、國民之生活權利
 
兒童之權利 未滿十五歳之無父母或無父之兒童、得享受國家兒童之權利、愛國家之養育與敎育。國家將費用交付兒童之保護者。
父雖生存、但被遺棄之兒童、亦得受同等待遇、但國家須命其父賠償費用、不從時、課以勞動、充當賠償。
繼承父母遺産之兒童或因母有資産、或特殊能力、得自己敎養之兒童、亦可與國家協議、放棄此項權利。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
(註五)
國家扶養之義務 國家對於貧困且無親生子或養子之六旬以上之男女、及無父無子且不堪勞動之殘廢者、應負扶養之義務。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
國民敎育之權利 國民敎育之期間、以滿六歳至滿十六歳之十年爲限、男女受同等之敎育。根本改革學制、以十年一貫之精神、以養成日本精華爲基礎之世界常識、充實各個國民之心身、發揮各個人之天賦爲基本原則。
廢止英語、以世界語爲第二國語。 
廢止女子之特種課目、取消小學、高等小學、中學之重複課程、完成一貫之順序。
今後體育男女一律施行丹田之鍛錬、以謀心身之充實、廢止從來機械與外國輸入之運動及兵式訓練。 
男女之遊戲以撃劍、柔術(類似摔跤)、弓、劍等具有個人及團體興味者爲主、廢止從來外國輸入之遊戲。
此項國民敎育係國民應享之權利、國家得籌設不収學資發給敎科書及供給中餐之學校。
對於男學生不必強制服裝之劃一。
校舎前期可以建設各町村之小學校舎、後期建設高等小學校舎、禁止一切物質設備之浪費。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
(註五)
(註六)
(註七)
(註八)
(註九)
(註十)
(註十一)
(註十二)
婦人人權之擁護 丈夫及子弟袛重視自己之勞動而侮蔑婦人分科勞動之各種言行、認爲蹂躙婦人人權。國家須規定保護婦人人權之法律。
有婦之夫有妾或與其他婦人通姦者、經婦人之告發、課以通姦罪、廢止娼妓之罰則、得拘留或處有妻男子遊蕩者罰金。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
(註五)  
國民人權之擁護 國家須保障國民之自由平等之人權。如有侵害此項人權之各種官吏、得另定法律、課以半年以上三年以下之徒刑。
官制定不侵犯尚未判決之刑事被告人人權之制度。被告者於律師以外、有委託足以保證自己之知己友人爲辯護者之完全權利。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
功勳者之權利 對於國家或世界有功勳者、無論關於戰爭、政治、學術、發明、生産、藝術等任何方面、一律授與勳位、領受審議院議員之互選資格、給與顯著增額之年俸。
婦人亦然、但依不干與政治之原則、故免除審議員之互選資格。
(註一)
(註二)
私有財産之權利 限度以下之私有財産、國家及其他國民不得侵犯。將來國家應以使大多數之國民擁有數十萬數萬之私有財産、爲國策之方針。
(註一)
(註二)
繼承遺産之平等分配制 除遺産者有特殊意思之表示外、父之遺産、子女等得平均承繼、母亦同是。
母之遺産、父得全部領受之。
(註一)
(註二)
(註三)

        七、朝鮮及其他現在與將來領土之改造方針
        八、國家之權利
  
徴兵制之維持 國家爲保持國際間生存與發達之權利、須永久維持現行之徴兵制。
廢止徴兵延期一年之志願制。
對於現役兵、國家給與薪俸。
在兵營或軍艦内、廢止除表彰階級以外之物質生活之階級。
對於現在及將來領土内之異民族、可採用義勇兵制。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
(註五)
(註六)
開戰之積極權利 國家在防衛自國外、爲保護其他國家或民族被不義之強力壓迫、有開戰之權利(當前之現實問題如印度之獨立及中國之安全等而開戰、皆係國家之權利)。
國家因自身發達之結果、對於占有不法之大領土、漠視人類共存天道之國家、亦有開戰之權利(當前之現實問題如爲領有澳洲或遠東西伯利亞、與其現領有者開戰、亦係國家之權利)。
(註一)
(註二)
(註三)
(註四)
(註五)
(註六)
(註七)

    附録
  
  深入民間之日本軍閥勢力   敬慈
  
最近日本政治、日趨法西斯化。此項運動之主動人物、爲日本軍閥。自田中義一於一九一二年設立在郷軍人會以來、更組織靑年團及靑年訓練所、勢力深入民間、全受軍人操縦、其組織之嚴密、殆可媲美蘇俄共産黨及義太利之法西斯黨。吾人讀此篇後、即知日本軍閥對内之異常跋扈、對外之横衝直撞、實有有力之奥援在也。
(一)日本軍權支配政治之由來
(二)在郷軍人之緣起
(三)在郷軍人現勢及組織

   

(四)在郷軍人會之活動
(五)最近之趨向
  
   封建式之日本法西斯團體   敬慈

(一)原起
(二)過去
(三)現在
(四)國粹會國本社和生産黨
 
   一個有聲有色的日本日本法西斯團體
 
 一、日本法西斯運動的起因
 二、日本法西斯黨的一般思想
 三、活躍的愛郷塾
 四、五一五事件的始末

  
 
  中華民国二十一年十月十五日出版
  著作者 北一輝 
  発行者 天津大公報社出版部  

〔蔵書目録注〕

 上の文は、一九三二年に天津で発行された編訳本『支配日本少壯軍人思想之   日本改造法案』の一部抜粋で、原著は、北一輝の『日本改造法案大綱』である。
 また、この編訳本は、昭和十二年二月二日に、日本の発禁処分を受けている(『増補版昭和書籍雑誌新聞発禁年表 下』)。
 なお、編訳者の艾秀峰は、留日学生として、東京高等師範学校で学んだことがある。


『雄叫』 第一號 士林莊本部 (1928.10)

2021年02月18日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 

雄叫

〔第一面〕

    宣言 
 
 今や日本國民は對内的にも對外的にも、奴隷解放戰を戰はざるべからざるの秋を迎へた。實に見渡す限り、全世界を荒掠し全人類を支配するものは人間生存の理趣と其の躍進的活歷史の無視否認以外の何物があるか。過去若くは未來を現在に須いんとする錯誤と人間ならぬ物慾偽理とは普く世界を横行して、今の時に値せざる人間と其の世界とを造り出して居る。
 然して今日、人類が嘗めつゝある慘苦と惱悶とを最も深刻に體験しつゝあるものは吾が日本だ。日本を包んで外より之れを絞らんとするものは、老獪なる英米的資本主義、狂妄なる露國的共産主義の双頭の毒蛇である。日本を内より崩壊せんと企つるは、是等の模倣直譯と反動的錯誤とである。然も日本は國際的に、白人專制の世界に於て呪はれたる特殊部屬たり同時に首たる無産階級だ。
 -此の世界的苦悶のどん底にある吾等こそ、選ばれたる人類最後の戰士として解放戰を戰はざるべからざる運命の兒であるのだ。
 吾等は天の道法に則り、人間生存の理趣に基き、物慾偽理錯誤の憎むべき臣妾奴隷及び其等の荒掠によりて人間的一切を抑奪されたる痛ましき多數の人々を匡救すべく、遂に人間奪還の聖戰を戰はざるを得ぬ。
 然して現代人類の是くの如き悲命亡運を轉回すべき最後の戰場は、選ばれたる戰士吾等が立てる日本だ。吾等の誓願は此の日本に於ける現狀打開ー奴隷解放戰の遂行克服なると共に、再建したる日本を旋風的中心とする世界革命戰の遂行にある。
 茲に『日本』を透して普く世界に宣言要求する。-人間生存の理趣を殘賊する一切の錯誤と物慾と偽理と去れ。正義の太陽輝く『光の國』現はれよ。
 頭なき政治家の齷齪、脚なき思想家の喧噪、理なき資本家の横暴、誠なき社會運動家の跋扈、道なき藝術家の獣行に超出して、吾等は吾等に適はしき國民の日本、吾等の日本に適はしき世界を實現すべく、普く戦士を全國に求む。

     士林莊同人

   綱領

人類ヲ正導スベキ則天日本ノ建設
 一切ノ奴隷的思想ト其レヲ根基トスル組織、運動ノ根絶
 國民理想ノ闡明ト其ノ信仰的情熱ノ激成
 國民人權ノ確立ヲ以テ國民國家ノ完成
 人生ノ理趣ニ基ク社會ノ實現
 經濟ノ國家的統制ニヨル國民生活ノ安定向上
 道義的對外策ノ遂行ト其ノ爲メニ軍備ノ躍進的充實
白人種ノ隷從ヨリ全有色人種ノ解放
國家生存權ノ國際的主張
日本文明ノ世界的宣揚

〔第二面〕

    主張  

  人間奪還の戰途に立つ

      一

 人間の生存は單なるパンのみによりて營まるゝものでない。單なる個人主義でゞもない。と同時に個人の一切を否認する共産主義でゞもない。
 人間が他と特異なる点は、一に『よりよき生存』を希求し歩一歩之れを實現して行く所にある。开は『よりよからんとする心』あるに因る。然して此の心はパンのみによりて其の自然的生命の保續をなす所の他の一般生物に對して明かに人間の特別者なることを意味するものである。同時に、不斷なる『よりよからんとする心』が不斷なる『現在に甘んぜざる心』なることに於て、即ち、其の各々の慾求の限りなきことである。此の心は何物と雖も否認することを得ぬ。是れ自己本位、個人主義が人間の心に永存する所以の根本である。然るに、生物の一個である点に於て人間はパンより離るゝ能はざること、生物としての自然的生命を享有せるが故に他と等しく其の生存の境域資源範圍に限界があり制限があること、集團生活を營むこと、等々の幾多の條件は、『よりよき生存』のために斷じて各自の單なる個人的絶對性を其儘に放任するを得なかった。
 斯くて、人間生存を組立つるものは、向上的精神生活でありパンの物質生活であり、個人本位の生活心理であり社會公共的生活心理であり、同一の根據に出でゝ複數なる是等の諸相は有限なる生活環境に對して必然相互の間に秩序と統制とを導びき來りて政治生活を齎して居るのだ。是の生活諸相の諧調されたる所に、始めて人間の眞實なる生活がある。

     二

     三

     四

 嗚呼、吾等は人間なるが故に人間生活をなさんことを熱望する。日本に生を育まれて居るが故に日本國家に國民としての人間生活をなさんことを祈る。然るに現狀正に是くの如し。ー今や吾等は、内外共に是の奴隷の鐵鎖を寸斷し禁制の鐵扉を打開すべく、唯一つ解放戰あるのみである。
 國民よ起て。同志は征旗を押立てよ。
 國内に蔓る資本主義と共産主義とを驅逐せよ。
 人間を奪還して國民日本を建設せよ。
 國民日本を旋風的中心として世界革命に前進せよ。
 
 斯くて、吾人は聖戰を戰ふべく茲に士林莊同人に團結した。ー同志は士林莊に集まれ。國民は我等を支持せよ。

〔第三面〕

    士林春秋 

  不戰条約の成立
  政黨の動揺
  米価暴騰
  思想善導案

 「日本改造法案大綱」
    ポケット型普及版近刊

 著者は吾等が戰ふ聖戰の指導的中心だ。同時に本書は此の著者によりて指示されたる改造方針であり指導精神である。經典である。
 今や時運の大濤狂瀾沖天の勢をあげんとするの時、吾等は本書が普く全國に熟讀理解されんことを切望せざるを得ぬ。少くも同憂同志の人々の懐中不斷に本書の存在せんことを祈るものだ。
 茲に熱烈なる同志田中操氏の幾年血涙の努力に財源を得て、ポケット型縮刷普及版の初版千部を公刊する。從來の型を一變して縮小したのは携帶に便ならしむる意味だ。定價を付して有償にしたのは、此の賣上金を以て更に第二版第三版出版の經費に充當せんとするからである。
 同志は各地書店と協力し各々其の數部數十部を分擔して思想理解の普及、同志の糾合養成、行動の便に資せられたい。廣く賣って戴きたい。
 詳細なる事は、本紙添付の印刷物によって御承知ありたい。尚、必要なる事項については左記宛に御照會の上、萬事遺憾なき連絡の下にそれゞ御協力御奔走あらんことを祈る。
      士林莊本部

〔第四面〕

    消息 〔下は、その最後の部分〕

 一人の同志は少くも卽時新しき五人の同志を作れ。十人の同志を作れ。-混乱が加速度を以て進行する時、吾徒同志はそれ以上の加速度を以て増大されて行かねばならぬ。
 「雄叫」 は聖戰を戰ふべき戰士同人を求めんとする戀文である。全國同志の消息戰況を彼此通ずる書簡である。單に呈示して足るべき吾徒の理想方針信條の集錄である。相互鍛錬のための研究論議の書物である。時に經典である。吾徒戦鬪のための指示書であり訓令文である。
 然も此の片々たる印刷紙は、今の時窮苦の中にある吾等有志の血と汗との結晶ででもある。同志諸君は本紙が負へる使命と有志の微衷とを諒察し同時に吾徒戰線の擴大進展のために、本紙の永續と發展とのために、確實に規定の月額經費を負擔して戴きたい。一と月、ゴールデンバット一個半の節約を以て足るべき負擔に過ぎない。
 同人氏名は逐號紙上に掲載するであらう。參加者はどしゝ本部に御通告ありたい。尚各地の御近況を通報せられたい。
 嗚呼、遂に久しき隱忍自重から蹶起する秋は來た。無限の希望と無量の感慨を以て茲に第一號「雄叫」を送る。

 全國の同志は即時士林莊同人に團結せよ! 一人の同志は即時少くも五人の同志を作れ!
 「雄叫」を支持せよ! バット一個半を節約して國民運動に參加せよ!

    規約

一、士林莊同人ハ目的信條ノ体現貫徹ヲ期ス。
  同人ハ一切ノ艱苦ヲ冒シ肝腦ヲ竭シテ戰フコトヲ誓盟ス。
二、士林莊同人ハ對外責任ヲ負荷スヘキ代表一名ノ外役員ヲ設ケス。各員ハ相互ニ密接ナル連絡ヲ保持シツヽ分ト質トニ應シテ各々其ノ十全ヲ竭スヘシ。
三、士林莊同人タラントスルモノハ參加書ヲ本部ニ送付スヘシ。一地方ニ同人二名以上アル塲合ハ互選ヲ以テ代表一名ヲ置キ本部トノ直接連絡ニ當ラシムヘシ。
    附則
一、本部ハ「雄叫」ヲ頒布ス。同人ハ其經費月額金拾錢ヲ納入スルモノトス。
ニ、特別ノ計畵、事變等アル塲合ハ其都度本部ヨリ告知シ行動ス。

 昭和三年九月三十日印刷 (以印刷代謄寫)
 昭和三年十月 一日發行
     東京市外代々木山谷一四四
  發行者   士林莊本部
    代表   西田税
     東京市芝區金杉川口町二四
  印刷所   士林莊印刷所


「帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料)」 2 (1938.5)

2021年02月08日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

(3)警視廳交換台のスリルを偲ひて

 事件勃發當初、警視廳の交換室にあって、誰よりも先に擴大して行く不安を總身に感じながら、よく職場を護りつゞけた交換嬢たちは、思ひ出の廿六日には職場の休憩室で、茶話會を開き膝つき合せて「あの日」を偲んださうであるが、當時籠城組の一人として悲壯な經驗をした、新監督岸田さがさん(二四)を訪ねて、當時の感想を叩くと、岸田さんはまざゝと事件當時の情景を眼前に想ひ浮かべて、感慨を新にしながら語る。
 「警備係から事件があるといふので、私達八人が杉田監督代理に起されたのはたしか、朝の五時廿分ごろだったと思ひます。警視廳の交換台は全部で十六台ですが、繼續して交換事務を執ってゐた四人と合せて、當時の全員十二名が部署について、大急ぎで各警察署へ、非常招集の通知の連絡をし終ったのは六時五分ごろでした。そのとき十五、六人の兵隊さんが着劒した銃を持って、ドヤゝと交換室へ入って來ました。」岸田さんはしばしば當時を追懐してゐる樣であった。
 「最初はアラ兵隊さんが入って來たわ。といったやうな輕い氣持ちだったのですが、十人位室から出て行って、殘りの兵隊さんがうしろに並んで、交換事務に干渉し始めました。」
 何しろ餘計なことを言ふと劒で突き殺すと云ふので、私達はこれは大變と感じ覺悟をして一層緊張しました」
 「公衆電話で度々何かあったのかと尋ねて來るのですが、何も判りませんと答へる外、どうも出來ないのです。常より歸りが遅くなったので、心配して家から問合せがあっても、何も話すことが出來ません、七時ごろ『一切交換を中止しろ』と命ぜられましたが、石田さん(當時の監督)が兵隊さんに交渉して、『通話を止めたら火事その他の事件があった場合大變なことになるから‥‥‥』と職務の重大な事をお話して、約十五分位で再び連絡を始めました。
 兵隊さんは四五十分おき位で交代して、監視してゐましたが、その後は干渉が一層やかましくなって、モシゝとかハイハイといふ事務の用語以外は、何もしゃべれませんでした」。かうして朝五時から夕方の六時近くまで、恐怖と緊張の十二時間餘が過ぎたのである。其の間食事はどうしましたと聞くと、「食事は前日の夕方食べたきりで、夕方交代して歸る迄カタパンを少し食べただけですが、緊張し切ってゐたので、疲勞も空腹も感じませんでした。夕方五時半ごろでしたか、電話係の事務の宿直員から交代の話があったときは、一同ホットしました。併し佐伯さん達の交代組十八人の顔を見たら、このあとどうなるだらうと思ふと氣の毒で、思はず涙が出て來ました」と岸田さんは當時の複雑した心境を語るのだった。
 「特に印象の深かったのは當日の午後特別警備隊の方が、一人交換室へ來られたことです。あのときはどんなに氣強く感じたことでせう。それでその後もその方に會ふ度毎に二・二六事件のことをすぐ思ひ出します」と語り終って如何にも感慨深さうであった。
  
(4)岡田總理を助けた三憲兵の殊勲記(事件當時の秘錄)

 昨年二月廿六日午後八時十五分陸軍省は左の如く發表した。
 ◬首相官舎、岡田首相即死◬齋藤内大臣即死◬渡邊‥‥
 若しもこの陸軍省の發表が、眞實を物語るものであったとしたら當時の總理大臣岡田啓介氏は、叛亂軍の犠牲として永遠に我等の世界と袂別してゐたのである。ところが事件勃發から三日目、總理の死を嘆いた國民は、意外なる發表を耳にした。廿九日午後四時五十分内閣は左の如く發表したのである。 
 「今回の事件に際し、岡田首相は官舎において遭難せられた旨を傳へられたが、圖らずも今日まで首相と信ぜられてゐた遭難者は、義弟の松尾大佐であって、首相は安全に生存せられてゐた事が判明した」
 思ひ設けない事實!數百人の叛亂軍に包圍されながら、岡田首相はかすり傷一つ受けず、首相官舎を脱出したのだ。奇蹟が行はれたのだ!福田秘書官の發表した「首相脱出の眞相」も、人々を納得させることは出來なかった。新アラビアンナイトとして、アメリカの某新聞が三萬ドルの懸賞金附で、その眞相を究めようとしたのも無理のない話である。では岡田總理救ひ出しの眞相は何うか?
 ー早くも事件の一周年を迎へ、今日まで全く秘められたゐた眞相が、茲にはじめて明かにされた。
 昭和十一年二月廿五日の午後九時ごろ、平常のごとく首相官舎日本間十二疊の寢室に寢た岡田首相は、翌廿六日の明方近くになって突如!深夜の静寂を破るたゞならぬ物音に目を覺ました。
 「重大事件が起ったに違ひない」と直感し、ガバっと跳ね起きた岡田さんは、枕元の時計を見た。時に午前五時✕十✕分である。
 「これはたゞ事ではない!」総理は中庭に面した廊下を通って、女中部屋、浴室に通ずる襖を開いたのである。この時、別棟に泊ってゐた。總理の義弟松尾傳藏大佐は、同じ廊下をすれ違って首相寢室の横に出た。松尾大佐と擦れ違った瞬間も、岡田さんは全くその事に氣づかなかった。官舎警備員(警官)詰所の邊りから響く物音は、次第に大きくなる。日頃思ひ惱んでゐたある豫感が今、事實になって起ったのである!風呂場にかくれた岡田さんは、背後に地響をたてるダッダッダツといふ機關銃の響きを聞いたのだった丁度その頃田園調布、東玉川の私邸に住む憲兵曹長小坂慶助氏(三八)は、同じく廿六日午前五時✕十✕分けたゝましいベルの音を聞いてガバと跳ね起きた。憲兵司令部からの電話ーー只事ではないのだ。小坂憲兵は明治卅三年府下國分寺町生れ、明日は俺の誕生日なので、隊の同僚も集め知己も迎へて賑やかにお祝ひをやらう、と夫人に總ての用意を言ひつけて眠ったばかりの所だった。そこへ急の電話、取るものも取敢ず勤め先の九段下麴町憲兵分隊にタクシーを走らせた。もどかしい一分、二分、五分‥‥‥隊に駈けつけた時、既に分隊長森少佐(現在京都隊長)が部下を集めて訓辭を下してゐる。「如何なる非常時に際しても、憲兵は憲兵本來の使命を果さなければならぬ。私は君達に全信賴をかける‥‥‥」小坂氏は聲涙共に下るこの言葉を聞いて早速自らの使命についた。
 「靑柳軍曹!小坂伍長集れ!」手兵は二人これから受持の首相官舎の警備に乗込むのだ。空は重い雪曇り、寒氣は次第にきびしく、帝都未曽有の恐怖の第一日が明け初めた。小坂慶助曹長、靑柳利之軍曹、小倉倉一軍曹この三氏こそ、岡田啓介大將を死地より救ひ出した、殊勲の三憲兵としてその機略、その沈勇を永遠に記さるべき事件背後の殊勲者である。三憲兵が歩哨線を突破して永田町首相官舎裏門に到着したのは朝の六時ごろ、四圍はまるで死の樣な靜けさ、朝來訪れる者もない官舎裏庭の淡雪は、鋲を打った軍靴に踏み蹂られてゐる。詰所にゐる筈の警官は何處に行ったか一人もその姿が見えない。脚下に見える溜池ー赤坂見附一帶思ひなしか電車、自動車の交通も緩慢である「恐怖におびえる帝都!」不安は益々濃くなる。一歩、二歩多數の銃劒に護られて進む毎に凄慘の氣は深まる。日本間に通ずる廊下を過ぎて、首相寢室と廊下一つ隔て内庭に出た。すると蜂の巢の樣に無數の穴の開いた杉戸を開けて、裏庭を見ると、悲慘!血が雪を點々と染めてゐるではないか。岡田首相は遂にあへなくも逝ったのであるか、やがて首相寢室に入った時、寢具の中には童顔の首相が面に苦悶の色も表はさす靜かに眼をつぶってゐるのを見たのだった。
 「岡田首相は暗殺された!」‥‥‥‥‥これが三憲兵が本部に入れた第一報だった。
 岡田總理の死はも早や一點の疑ひを容れる餘地もなかったのである。ところが靑柳軍曹が首相官舎内の各室の檢索をなし、最後に女中部屋まで來ると、官舎の女中秋本さくさん(三〇)府川きぬえさん(二一) の二人が、何故か此恐怖の場所を去らうともせず、押入の前にうっ伏して嗚咽してゐるのを發見したのだった。その後氣にかゝるまゝに、二、三度女中部屋を覗いて見たが、二人とも前と少しも位置を變へず、同じ場所にじっとしてゐる、その樣子が押入れの中に何者かを匿ってそれを必死に護りつゞけてゐる樣に思はれたので、靑柳軍曹は
 「お前達は其處で何をしてゐるのか」と訊ねると、二人の女中は消え入るやうな怖え聲で
 「御主人の死體を護るため此處に置いて下さい」といふ。その樣子その言葉の調子から軍曹は、この押入の中に誰かを匿してゐると感じたが、今それを氣付かれゝば、兵は激昴してやうやく靜まりかけた事態が、再び惡化するのを怖れ「謎の押入」はそのまゝそっとして置いて、一先づ報告のために分隊に引揚げたのだった。その日の午後交替して首相官舎に赴いた小倉軍曹は、靑柳軍曹から機會あらば「女中部屋の謎の潜伏人物」を確める使命を受け繼いでゐたのだが、叛亂軍の本據たる首相官舎は、そのころからやうやく情勢變化し、邸内深く入ることは非常に困難になってゐた。しかし執拗に機會を狙ふうち、午後五時半折柄忍び寄った宵闇の好機に乗じ、女中二人の泣き伏す部屋に近づいた小倉軍曹は、必死に取りすがる女中を斥けて、押入の襖を開けたーと同時に中から
 「射てッ!」と低いが張りのある老人の聲がし、流れ込む淡い光線に照らし出されたのは、意外にも寢室に横へられてゐる筈の死體の主「岡田總理」ではないか!
 「閣下!僕に委せて下さい!憲兵ですッ!」
 低いが確信に滿ちた強い語氣で小倉軍曹は云った。この一語に岡田總理は凡てを悟ったものか、コックリうなづいた。後は双方無言仰臥した總理には、女物羽織をかけて、襖はまた元通り閉されたのであった。ところがそれから半時間もたった頃、一大事が持ち上がった。と云ふのは行動隊の下士官が兵一人を從へて女中部屋の檢索にやって來たのだ。その下士官は
 「此處には女中二人きりか?その押入の中を調べろ!」と兵に命じた絶體絶命だ!だが小倉軍曹は平靜な態度で
 「先刻一通り調べましたが、異狀は認めませんでした」とはっきり答へた。しかし巡察下士官は「さうか。だがもう一度調べて見よう」と云ひ、突然ガラリと襖を開き、懐中電燈をつけたとパッと蒼さめた總理の顔面が照らし出されたのである。「しまった」と思った瞬間、それを認めた巡察下士官は、
 「何んだ!爺さんが一人居るではないか」といったので小倉軍曹は咄嗟に
 「これは永年官舎に勤めてゐる爺やです、さっき氣絶したまゝ入れて置いたのです」と何氣なく言ってのけると、「さうか、では君に賴むよ」と巡察下士官は輕く聞きながして行ってしまったのであった。冬の日は既にトップリと暮れ、寒々と火の氣一つない總理の寢室では、岡田首相の身代りになった松尾大佐が、肉親の通夜もなく淡い電燈の灯かげで、偉大なる犠牲者の眠りを續けてゐる。それにしてもどうして「生きてゐる岡田首相」を救ひ出せるかを小坂曹長、靑柳、小倉軍曹は、福田秘書官と共に夜っびて救ひ出し計畫の協議に耽ったのだった。焦躁のうちに時間は徒らに過ぎて行く、翌廿七日の午前中も救出工作は遂に徒勞に終った。ところが午後になって總理の近親者に對して、燒香を許すといふことが判った。これこそ待ちに待った機會である。今はもう躊躇すべき時ではない。この燒香者の出入の隙に乗じて首相を救ひ出さうといふことになり、福田秘書官は淀橋の岡田家に電話をかけ
 「廿七日午後二時、特に官舎内で燒香を許すといふことだが、老人ばかり十名を早速寄越して貰ひ度い。女は對絶にお斷りすると申込んだ。この奇妙な電話こそ總理脱出のために打った大芝居だったのである。
 親戚總代の元鐡道技師加賀山學氏は、十一人の老人を引連れ。午後一時三台の自動車に分乗して官舎を訪れた。首相の身邊係りの小坂曹長は、女中に命じてマスク、ロイド眼鏡、モーニングを押入に運ぶ。緊張に蒼白となった福田秘書官が、靑柳軍曹と共に、燒香客を招じ入れる間に、身支度は整った。機會を見て小坂曹長は、廊下を日本間表口まで駈け出し、通用門に向って
 「大變だ!燒香に來た老人が腦貧血で卒倒した早く車を呼べ!」と叫ぶと、通用門を警戒する五名の歩哨が、サット兩側に分れ自動車係小倉軍曹の指圖で、用意のフォード三五年型二一一號がスーツと車寄せに入って來た。福田秘書官に抱かれたマスクの岡田總理は小坂曹長に右肩を支へられ、其のまゝ車中に入り「病院へ」と叫ぶ聲を殘してまっしぐらに溜池に走り下り、自動車の持主淀橋區下落合三ノ一一四六元代議士佐々木久二氏邸に辷り込んだ。かくて岡田總理は三憲兵の機略と、沈勇によって紙一重の死地を脱し、奇蹟的脱出に成功したのであった。(以上秘錄了) 


「帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料」 1 (1938.5)

2021年02月08日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 

 下の資料は、昭和十三年五月一日發行(非賣品)の 『昭和十二年中における社會運動槪況  昭和十二年中に於ける左右社會運動關係者消息一般(四)』 社會思想對策調査會調査 に掲載されたものである。

附錄(四)
 帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料

二・二六事件後一年

     二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の感想集錄

(1)「幸樂」の女將佐藤らくさんの感想談

 雪の思出の日「二・二六」のカレンダーが無殘にひきちぎられてからもう一周年、さまゞの感情をこめた追憶で、無限に膨んだその日、一年の回顧を通じて、刻まれた歷史の齒車の痕を眺める多くの眼に浮ぶものは冷微な批判か、或は言葉もない感慨か、ーそれゞの立場によって異ることだらうが、先づ何よりも溢れるばかりの思出に胸をふさがれるのは、當時あの事件の空氣を最も身近に呼吸した人達だ。その一人赤坂「幸樂」の女將佐藤らくさん(三九)を訪ねてきく。「もう一年ですか、初めはあんな大きな問題だとは思はなかったし、‥‥‥何んだか暮の樣ですわ」と記憶の糸をたぐる樣に投げる眸の彼方、中庭を披露の花嫁さんが美しい晴着姿で靜かに過ぎて行くのが見える。柔かな初春の陽射が、緣側のガラス戸を通して流れてゐる。
 「私の所で忙しかったのは二月廿六、廿七、廿八の三日間、随分賑かでした。退去を命ぜられる迄は少しも恐くなかった。本當にお祭り騒ぎとでもいひたい位で、私の所は三日天下でしたわオホ‥‥‥」と微笑で語る落着には大きな時の流れが感ぜられる。
 「廿六日朝十時ごろ中橋さん(元中尉)が陸軍の自動車でやって來て、お握り五百人分、酒一樽、味噌汁、牛の串燒を注文されました。蟇口を開けたから金を呉れるのかと思ったら、またパチンと閉めちゃいました、私の所は近歩の方も、步三の方もみんな掛けでしたから、安心してゐましたが‥‥‥味噌汁は酒の空樽に入れて、うちの男が四人がゝりで、トラックで首相官舎に持って行きましたみんな何も知らんものだから喜んで行きましてね『これがすんだら、大宴會があるから女將に宜しくいっといて呉れ』なんと云はれ、歸りには官舎のガラスの碎片まで喜んで拾ってきました‥‥‥」「大きな宴會は取消されましたが、その晩は明大ラグビー部の送別會があって、お客との間になぐり合ひがあったり、慶醫會の集まりなどもあって、普段と變りはなかったが、重大ニュースがあるといふラヂオの發表もきかずに、みんな寢ちまひました‥‥‥」
 記憶の斷片が次第に生々とよみがへってくる。
 「兵の宿舎に當てたいから用意して呉れと電話のあったのは、廿七日の夜、下檢分に來た將校さんは、充分に御馳走して呉れ、酒は絶對に出してはいかん。若い連中だから、特に女中さんなどにも注意して呉れ、なんていふので随分御念の入ったことだと、そのときは思ひました。雪はやんだけど殘雪が玄關前に光ってゐる中を、陸軍の提灯をつけラッパを吹いて午後八時ごろ兵隊さんがやって來た‥‥‥お湯に入る。煙草をのむ。手紙を書く。キャラメルをしゃぶるといふ和かなもの、お客さんもどんゝやって來たし、『しっかりやり給へ』なんて兵隊さんの肩をたゝいて歸って行ったりした。若い兵卒の方は一晩中電話の周りをとりまいて『お母さん‥‥‥』『叔母さんか‥‥‥』『をぢさんか‥‥‥』などゝ一晩中寢ないでかけてゐる樣です‥‥‥家にサイン狂がゐましてね、將校さんの全部に字を書いて貰って喜んでゐました。家中の人が一番恐い人だと思ってゐた澁川さんも『俺も書くのか』といひながらサインしてゐました。
 この頃から帳場をつとめる山田君が話に加はった。
 前日に引きかへ、形勢ががらりと變ったのは二月廿八日朝のこといつのまに來てゐたか宇田川さんといふ人が、絶對に兵卒に電話をかけてはいかんと命令するし、家の交換台を私にやらせ、私の後でポケットをガチャゝさせながら立ってゐた。この人は帳場に來たときは、何時も先づピストルをポケットから出して置き、話がすむとまたそれをポケットに入れて歸って行きました!群衆心理とでもいふんですかね女中など一寸も恐がらず、キャラメルかなくなると、兵隊さんに貰ひに行ったりしてゐました。夜の八時ごろ山本さんといふ人が大きな日の丸の旗をかついで醉っぱらってきて『これから世の中が變るから、お前だちは氣の毒だなあ一々宴會などしてはいけないんだよ』などゝいってゐました。‥‥‥」『廿九日のあけ方兵隊さんはいつのまにか引揚げた樣でしたが、うちの者は誰一人知らなかった‥‥‥その朝の八時頃、憲兵と警官がやって來て、眠り込んでゐた私達を叩き起して呉れたので、それからはだしで逃げ出したんです。その後でやって來た兵卒が安藤さん(元大尉)の申付けだからといって、泣きながら新しいシャツ股引、晒布に香水をふりかけて、澤山持って行ったさうですが‥‥」語る聲も靜かに潤んでくる。
 「安藤さんのお父さんは、慶應の英語の先生で、うちの子供は幼稚舎時代から知って居りましたしお氣の毒で‥‥‥」と結んで顔を曇らせた。當時を想ひ起させる唯一の名殘は、別棟になった「アカツキの間」の後小高い丘の板塀の破れ、多分兵卒がこゝから山王ホテルに去って行ったゞらう通路である。

(2)「兵に告ぐ」の一文起草者大久保少佐の感激談

 殘りの淡雪が街々に凍りついてゐる廿九日の朝、市内の交通はピタリと止まり、叛亂軍に對して最後の行動に出でようとして、重苦しい空氣が三宅坂一帶を中心にみなぎってゐる時「兵に告ぐ」の哀調を帶びた名調子が、廣聲機から流れ出た。
 之を聞いた叛亂軍の親達は泣いた。市民も泣いた。併しそれよりも心を打たれた者は。眼の血走った兵達だった。四日間の自分達の行動が、誤ってゐたことをはじめて知ったのだー間もなく陰鬱な空も晴れて、帝都は元の「殷賑」に返って行った。
 一代の名文「今からでも遅くない」の語調は、一ヶ年回り來っていよゝはっきりとわれゝの耳朶に甦って來る。この文の作者こそは誰あらう。陸軍省新聞班「つはもの」編輯主任、陸軍少佐大久保弘一氏(四四)だ。少佐を杉並區松庵北町一一一の自宅に訪ふと「私はあの事件は初めから衝突は起きないといふ豫感がありました」と陸軍省から歸ったばかりで、軍服のまゝ物靜かに語り出した私は廿六日から憲兵司令部に居りましたが、廿八日は夜遅く九段方面の狀況を視察して歸ると、戒厳司令部から直ぐ來て呉れといふので、とんで行くと最後の手段として、
 飛行機から兵に勸告文を撒く事にしたから、書いて呉れとのこと、書き初めたのが廿九日の午前三時ごろで、五時ごろからそれを印刷して、朝の八時ごろ一應飛行機で撒布したのですが、間もなく麻布の聯隊區司令官が來て「兵の親達が聯隊に押しかけて來て、自分達の子供等は何うしてゐるのでせうかと口々にいってゐます。」と話してゐるのを聞いてゐた。當時の根本新聞班長があわてゝ兩手を振りながら
 「いゝ事があるラヂオで放送しよう」と云ひ私に放送を命じました。そこで撒布したビラを讀返へして見ると、わたしは昔から漢文で、育ってゐるので、何うも語調が堅い。直ぐ筆を取って柔かく書變へました。原稿は二枚でしたが、一枚私の直したのを、傍から中村アナウンサーがむしり取るやうに放送しました。放送してゐるのを聞いてゐると、ひとりでに涙がとめどなく出て來ました、當時は自分で自分が何を書いてゐたか判りませんでした。と口を一文字に堅く結んで、緣なし眼鏡の奥にじっと一隅をみつめて、光ってゐる眼は、一年前の「思ひ出」を呼び戻して、感慨にふけってゐるやうだ。
 「私は戦端を開かせないといふ一念からやったのです。午後四時ごろ叛亂軍が全部歸順したと聞いた時は、嬉し涙がこぼれました。これも皆誰のお蔭でもない。只御稜威の賜だと信じてゐます。これは日本の一番有難いところです。私は日頃これといふ特別の宗教は信仰して居りませんが、神を信ずる氣持は人一倍です。當時は無念無想で全く「祈り」の境地でした」
 冴えゞと冷く澄んだ月影が、空邊に忍びよって少佐の心境を照らし出してゐるやうだ。靜まり返った應接間には、ガスストーブの湯のみがしんゝとたぎってゐる。少佐は床の間に掛けてある墨畵を指して、
 「これは吉武元同といふ變り者の畵家が、私のあの文を見て、わざゝ九州の高千穂の峰に登って書いて呉れたものです」と説明したが、その傍には上海で不慮の死を遂げた少佐の恩師、白川義則大將の溫顔が少佐をじっと見下してゐる。
  昨年は大雪であんなに寒かったのに、今年はこんなに暖かいのも何かの因緣でせう。死んだ人々には種々追悼の會が催されるさうですが、全くお氣の毒にたへません。只私達はじっと世の遷り變りを見守ってゐるだけです。」と靜かに眼をふせた。

 〔蔵書目録注〕

 上の文中にあるラヂオ放送やビラについては、『昭和十一年中ニ於ケル社會運動ノ狀況』 内務省警保局 にその内容などの記載がある。下の写真参照。

 


「故永田鐵山中将銅像除幕式記念」 絵葉書(1938.11)

2020年01月25日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

    

      昭和十三年十一月十三日
 故永田鐵山中将銅像除幕式記念
                   永田鐵山中将記念会
 
  永田鐵山中将ハ明治十七年一月十四日上諏訪町本町ニ生マル郡立高島病院長永田志解理氏ノ四男ナリ高島尋常高等小学校ニ学ブ年少志ヲ立テテ東京陸軍地方幼年学校ニ入リ進ミテ
陸軍士官学校陸軍大学校ヲ卒フ天稟ノ優秀ニ加フルニ非凡ノ勉励ヲ以テシ各校ノ卒業毎ニ成績抜群ニシテ恩賜賞ヲ授与セラル夙ニ上司ノ屬望ヲ受ケ官命ニ由ッテ渡欧スル事三度入ッテハ陸軍省参謀本部教育総監部ノ諸要職ニ就キ出デテハ歩兵第三連隊長第一旅団長タリ遂ニ陸軍軍政ノ中心軍務局長ニ補セラル中将頭脳明晰識見高邁裁決流ルルガ如ク思慮周到造詣深遠難局ニ処シテ苟モ挙措ヲ謬ラス最モ独創企画ニ秀デ軍隊教育令青少年訓練国家総動員等中将ノ立案献策ニ係ルモノ少ナカラズ国軍ノ進展ニ寄与セル所絶大ナリ陸軍ノ至宝トシテ永田ノ前ニ永田無ク永田ノ後ニ永田無シト称セラル多年意ヲ大陸国策ノ研究ニ注グ満州事変以来ノ非常時局ニ際シ其蘊蓄ヲ傾ケ枢機ニ参画シテ所信ニ邁進セル間妖言累ヲ及ボシ昭和十年八月十二日不慮ノ災禍ニ遭ッテ執務中ノ局長室ニ斃ル享年五十二歳ナリ中将ノ死ハ真ニ身命ヲ君国ニ致セルモノ正ニ戦場ノ死ト擇ブ所無シ因テ同郷ノ有志協議地ヲ此所ニトシ中将ノ胸像ヲ建テ以テ此偉材ノ英姿ヲ永遠ニ伝ヘントス

  昭和十三年十一月十三日
              永田鐵山中将記念会

  附記
     銅像製作 長田平次氏
     篆額揮毫 坂本俊篤氏
     略歴撰文 今井登志喜氏
     銅板揮毫 津金鶴仙氏
     銅板彫刻 宮坂房衞氏
     臺石工事 三原三松氏

 東京本郷 高林スタヂオ謹製


『朴烈文子 怪写真の真相』 (1926.11)

2018年05月10日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 表紙には、「朴烈文子怪写真の真相」とある〔右上に「秘」の赤い角印のあるものもある。〕。18センチ、112頁。発禁処分:大正十五年 〔一九二六年〕 十一月八日。

 ・口絵 〔写真3枚〕

     

 〔上左〕

 この写真は……
 椅子に腰掛けてゐる朴烈が、予審終結決定書を読んでゐる文子を、左の膝に腰かけさせ、そして、朴烈が自分の左手で、軟らかく膨らんだ、文子の乳をいじくつてゐる所である。
 本写真原版は縦二寸五分二厘横一寸八分五厘のものを拡大されたものである。

  
 〔上中〕

 予審終結決定書(本文参照)

 〔上右〕

     註
  十月のよく晴れし日の朝まだき彼の友は逝けりギロチンの下に
  先に行つて貴君達を待つてます壁越にかく彼はいへりき
  何時なりけんふと廊下で会ひやといひて、握手交せし事もありしがその時に傍らに付いてゐた看守の可かぬゝと顔をしかめしかも
  雲出てゝ風の冷たき秋の朝空に飛び交ふ飛行機のある
  空に飛ぶ飛行機を見てふと思ふ飛行機乗りにテロはなきか

 発行の辞

 天下憂国の諸君、私はここに所謂怪文書なる一文を以て国家の重大事件を、諸君に伝へるの光栄を有す。
 諸君、先進文明国の如く我が日本に於ても、言論の自由が尊重され、正々堂々言論を以つて天下に事理曲直を正す事が出来るならば、私は敢て法律に触るるの危険を犯してまで、怪文書を発行しやうとは思はない。しかし現代の日本に於ては、政府の都合の好い事なれば論外、聊かでも政府の批政、醜悪を指摘する言論であつたならば、如何に憂国の至情に燃ゆるところの叫びであつても忽ち官憲より禁止解散の圧迫を蒙らなければならない。であるから、絶対言論の自由が許されない限り、政情を糾弾問責すべき国家の重大事を、一般国民に伝へる方法としては、この怪文書なるものに因るより他に道がないのである。
 諸君、今後怪文書が頻出して、社会秩序を紊だし、国家を毒するものがあつたとしても、それは決して発行者の罪悪でなくして言論の自由を保證せざる政府当局の責任であると断言する。
 さて、私は諸君に伝へんとする国家の重大事とは、現下天下の問題となつてゐるところの、朴烈文子の所謂怪文書に就いてである。この事件に関しては、既に政治的法理的には専門の学者によつて論議され、また各方面の権威ある知名の識者に、厳正なる批判されてもゐる。また責任ある諸君によつて政府糾弾問責演説会が屢々催され、国民大会まで開かれもした。しかし一般国民が其の何れによつてでも、そもゝこの問題の主因となつた、朴烈文子の怪写真の真相を知る事が出来ないために、怪写真に因つて曝露された国家の大事も、単なる政争のために騒ぐものとしか思はないのである。殊にこの問題に対して発した司法省の声明書及び一大期待を持つた立松前判事の声明書は、共に国民を欺瞞する虚構捏造のものであるにもかかはらず、事件の真相が解からないために、国民より看過し去られんとするは実に遺憾至極である。私は、事茲に想到して、朴烈父子の写真とは如何なるものか、そしてその写真が添附されてあつた文書には如何なる事が書かれてゐたか、このれによつて如何なる件々が誘起されたかの詳細を知らせるの必要を痛感したのである。倖にして本書により一般国民が、この事件の真相を知らされたならば、政党政派を超越して、恬然赦さぬ失政を重ね、いたく社会人心を動揺せしめながら、何等国民に謝意を表示しないばかりか、政権に恋々として国家を○○の危機に導く、斯る現怪内閣に対して、速かに引責処決を促し、国民の向ふところを明かにされるならば、邦家のため、私の本懐之れに過ぎない。以上蕪言を弄して怪文書発行の辞に代ふ。  

 今日の重大事を誘起した怪文書の原文

  単なる一片の写真である。
 此の一写真に万人唖然として驚き呆るゝ現代司法権の腐敗堕落と、皇室に対する無視無関心なる現代政府者流の心事を見ることが出来る。
 此れは大逆犯人朴烈と文子の獄中写真である。此の足袋と此の草履とは監獄だけに存する刑務所の支給品である。日本の東京の真中で、監獄の中で、人も有らうに皇室に対する大逆罪の重大犯人が、雌雄相抱いて一種の欲感を味ひつゝ斯んな写真を写せる世の中になつたのだ。日本の司法権はな斯これほど滅茶苦茶になり、司法部の役人共には皇室の尊厳も安危も一向頭になくなつてしまつたのである。
 どの室で誰が取つた写真であるかを問ふ要もなく、又誰に責任を負はせうかと調査を厳命するにも当るまい。予審判事や刑務所長や看守等の三人五人の首を切つたとて此の写真が已に不逞鮮人の各所に渡つて居り、今頃は已に露西亜政府の極東宣伝部の許に届いて居るだらうから、何事も後の祭である。成人が見たとき吃驚して此れはレニン政府が飛行機に乗つて映したのかと問うたそうな。正に是れ江木司法大臣閣下の発しそうな疑問である。
 或者は上品な春画写真だ、これならば禁止になるまいと言つたそうな、一見春画と誤られる如き風態をして恥とせざる当人同志は論外である。已に未決監にしろ、日本帝国の刑務所ではないか。正当な夫婦でも、純真な愛国関係者でも、獄窓に繋がれて居る間は男女的交渉が許さるべきものではない。而も爆裂弾を以て皇室に危害を加へんとした二人ではないか。露西亜だらうが亜米利加だらうが、刑務所長や予審判事様の御取持で、獄窓の中で鴛鴦の懽会を楽しみ得る楽園天国が何処の監獄にあるだらうか。-理由は唯一つ、則ち大逆犯人であるから刑務所でも最大特権を附與しなければならぬといふ司法省の方針が、下級官吏に伝達さるゝに従つて終に春画写真となつたのである。
 或る未決に居た一労働運動者(名を秘す)が不起訴になつて出て来た。彼は敬意か同情かを寄せて居る朴烈と文子とを彼の鐵窓より眺めることが出来た。金子文子の出入の時の如き幾人かの女看守が女王殿下に対する如き敬礼をなしつゝあるのを見た。朴烈が悠然傲然として通るのに看守等が従者の如く随つて歩いてるのを見た。彼は不幸にも司法高官の内命によることを知らず、自ら飛んでも無い信念(?)を固めた。吾々のやうな小ッポケなことでは何処に行つても馬鹿にされるだけだ。どうせやるならばデカイ事に限る。×××××××××××××××××。オレは朴烈文子を見て×××××××××××××××。オレは朴烈を見て×××××××××××××××。(何たる恐るべき影響を当時の在監者幾百人に與へたことか!)
 〔以下省略〕

 なお、もとの怪文書について、次の記述がある。

 右の文書は、巾五寸五分、長さ二尺(鯨尺)の印刷紙に、最初に巻頭一の写真を添付し、一行抜きの距離で、五号活字三十九字詰七十三行にわたって書かれたものあつた。
 これを七月二十九日の夕ー晩かもしれない、兎に角新聞の夕刊がしめ切り後ーに各所へ発送されたらしく、翌三十日の朝刊報知新聞に、二号活字三段抜きにて左の如く掲載された。

 参考

  

 :下の文は、大正十五年十月二十日発行の「法律新聞」第二千六百四号に掲載されたのものである。

 朴烈文子事件の真相発表

 朴烈文子怪写真事件に付きて司法当局は其影響各方面に重大なるものあるを以て去る十三日付左の如き内容の真相を発表せらる。

 第一 準植及文子の被告事件の顛末

 第二 準植及文子の写真を添附したる秘密出版物頒布の経過

 (一)事実の経過

 ニ 添附に係る該写真は大正十四年五月二日準植及文子等の被告事件を担任せる東京地方裁判所予審判事立松懐清が同裁判所予審第五号調室に於て撮影したる写真を拡大複製したるものに係る而して同判事が右写真を撮影するに至りたる主たる動機は同判事の始末書等に徴すれば該事件は刑法第七十三條の罪を構成すべき重大なる案件なるを以て日夜心血を●(そそ)ぎて之が審理に当り幾多の日子を費したる所漸にして事実の真相を明にすることを得其の手続終結に近きたるに因り斯る稀有の案件を再び処理するの絶無なるべきことを思ひ回想の資として自ら是を後日に残さむが為監督官其の他に何等謀ることなく専ら独自の思料に依り被告人両名の写真を撮影せむとしたるものにして先づ同人等を別異の椅子に座せしめ焦点距離を測定し将に撮影せむとするに当りて被告人文子は突如として被告人準植の椅子に移りて併座し同時に準植は其の左手を被告人文子の肩に掛けたるに因り之を制したるも同人等は之に応ぜざるに不用意にも其の儘撮影したるものなり
 三 該写真は現像の上同判事の手許に保管せられたろが其の後被告人準植を訊問せるに際し其の請に因り之を示したる所同人は隙を窺ひ巧に入手したるものとす
 四 該写真は其の後市谷刑務所内に於て同年七月七日付予審決定謄本其の他の紙片等と共に巧に監視を脱し隠密の裡に同所に収容中なりし被告人某の手に交付せらるゝに至り同人は同年十月二十九日保釈出監に際して窃に之を刑務所外に帯出したるものとす而して今般準植及文子の写真等が世上に頒布せらるゝに至りたる径路等に関しては尚取り調べ中に属す

 (ニ)前掲の事実を断定したる理由

 附記 本年九月一日の公表後取調の結果に依り該写真は市谷刑務所内に於て雑役夫小林七四郎の手を経て被告人某に交付せられたること判明したり

  第三 準植の待遇に関する事項

  第四 関係官吏の責任


『宮中重大事件に就て』 盡忠義会同人 (1921.3)

2014年09月14日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 

 宮中重大事件に就て

 拝呈 

  益々御健勝に渡らせられ候趣為国家奉欣賀候、然ば兼御同様心痛罷在候宮廷に係はる不逞権臣等が不届き極まる陰謀は其の第一着手として東宮妃御婚約御破談を企て候儀は御承知の如く、東宮御用係御学問所出仕杉浦重剛氏が平生殿下に御進講申上げたる学問上の見地より真先に反対し一身を賭して力争せられ候も其の効力をなかりしを以て、之を頭山満翁に譲られしかば至忠至誠国士の模範たる翁は之を以て、国家風教の根源を破る容易ならざる事態と為し直ちに噴起して一方山縣公に厳談せらるゝと共に一方同志をして極力陰謀打破に尽くさしめられ、大隈侯は大義名分、人倫の大本を以て大に正論を高調せられ、又国民議会の先輩押川方義、大竹貫一、五百木良三、佃信夫、松平康国、牧野健次郎の諸氏も国体上容易ならざる重大事件と為し決然蹶起して書を山縣公に贈り、極力其の反省をを催すと共に書を御皇族方各宮殿下に奉呈して御婚約御破談然る可らざるを論ぜられ、内田良平氏も浪人会一派の志士佐々木安五郎、伊藤知也、田中舎身、中西正樹氏等の同志数十名を結束して立ち書を各宮殿下各元老い呈して御婚約御破談の不当を鳴らし、東宮御外遊の御延期を極論せられ、又栗原彦三郎氏等義人会一派の青年は尽忠報国の一念を禁じ難しと為し先師田中正造翁の遺教を奉じて立ち以上先輩諸氏の間を奔走すると共に各宮殿下の別当御用係及元老諸公を歴訪して民論の在る所を委曲陳述し、紀元節には国民義会の先輩諸公御指導の下に明治神宮に於て学生及青年団の国民祈願式、浪人会同人の祈願宝刀奉納式等催さるゝ等、正論轟々として民間に起りしを以て、不逞の権臣等も流石に国民の激昂を恐れ十日午後に到り急に東宮御婚約は変更無之趣宮内省より発表せしめ候へ共、権臣閥族の陰謀は其の根底深くまだゝ油断相成難く又東宮殿下の御外遊も世界の人心最も険悪の折柄にて是非御延期御願申上度且つ輔弼の臣は其職を曠うして専ら自己の栄利にのみ没頭する場合に候へば、上皇室の御尊栄と下国民の福利とは一に国民各自の忠勤自衛に拠るの外無之義に候條平生忠君愛国の御志強く知慮分別も万人に優れ候貴下に於ては何卒臣民としての最善の御考慮有之度、今回の事件に関係せる元兇山縣有朋、松方正義、西園寺公望及び之を協賛助成したる原敬等の罪を糺弾し是迄宮中府中に蟠居し常に上は聖上の御聖徳御英明を蔽し奉り、下は国民誠忠の志を仰塞し、専恣横暴を極め、憲法を無視し輿論を冷笑したる不逞の徒を一掃し、以て大正維新の実を挙げて我憲法の光輝を発揚し、内に在りては上天壌無窮の皇運を翼賛ひ奉り、下億兆保全の道を講じ、外に在りては人種平等の大義を徹底せしめて、世界の平和を保障し人類の幸福を増進するの策を御立て被下度、左に本件に関して小生の見聞の事実を摘録して御座右に呈し候間御一読給り候はば幸甚に候
  尚ほ本書は便宜上印刷仕り候へ共本件は性質上最も慎重の態度を要すべきものに付漫りに他人へ披見せしむる等の事無之様篤と御注意申上候
 大正十年二月 日        
           盡忠義会同人拝
  殿
    玉机下

 ◎某志士団より同志に贈りし信書

 大正八年六月十日久邇宮邦彦王殿下の第一王女良子殿下を 皇太子殿下妃に冊立の御治定ありしことは内外の共に知る所なり 皇太子殿下の英明仁厚と王女殿下の温慈婉淑とは謂はゆる乾坤徳を合するものにして七千萬の国民は千載の嘉●一代の好述として頌祝して已まず翹首して大婚の日を待たざるはなし
 然るに昨今に至り俄かに御破談の議あり其事たる上は皇室の尊栄に関し下は国民の休戚に関するが故に之を宮廷の御私事として視るばからざるものあり況んや其此に至りたる経路に就いても奇恠詭異にして皇室の為めに憂ふべく国家の為めに概すべき事実自ら掩ふべからざるをや是れ吾人が極力調査して知り得たる梗概を発表し我が同法諸君と君国に対する義盟を同じくせんことを冀ふ所以なり。
 去年三月の頃或る陸軍々医より突然波多野宮相に上書して久邇宮家の外戚たる島津家に色盲症遺伝性あり、現に良子女王殿下の御同胞に在らせらる朝融殿下には同症の疑あれば王女殿下の東宮妃冊立は御中止ありて然るべしと具申せり、其後中村男継いで宮相となるに及び宮内省の保利侍医は其旨を承けて之を東京帝国大学教授永井博士に諮り具体的に色盲遺伝の恐るべく憂ふべきことを取調の上復命に及び問題は遂に発展して元老間の密議となりしが山縣公は固く主張して曰く、速に冊立の御治定を中止して皇室の御血統に不純分子の混入することを防ぐべしと松方西園寺の両元老も又之に賛同し元老会議に於ては決定の事となれり是に於て山縣公は伏見大宮殿下を経て久邇宮家よりして冊立御辞退の奏請あらんことを諷示したるに久邇宮殿下よりは大要下文の如き意味の答書を呈せられたり。
 〔以下省略〕 

 ◎内田良平氏が山縣、大隈、松方、西園寺四元老及原首相に贈りし書簡
 ◎押川、大竹、五百木、佃外二氏より各宮殿下に上りし書 〔下はその最初〕

 誠惶頓首謹みて    殿下に言ず、曩久邇宮良子女王の東宮妃に冊立の御治定あるや帝国臣民は両殿下の乾徳坤儀を想望し奉りて誠に千載の嘉●なりとし嘆欣抃舞せざる者なく翹首して大婚の日を待てり、然るに近来突如として宮廷に御不諧の議ありと
と聞き恐●疑惑殆ど何の謂はれなるを知らず、臣等憂嘆の余り僭妄の罪を顧みるに暇あらず敢て台聴を瀆し奉るものは是れが為めなり。
 聞くが如くならば此の御破約の主張者は公爵山形有明にして其の理由は久邇宮家の御外戚たる島津家には色盲の遺伝症あるが故に皇室の御血統上誠に畏れ多しと云ふに在り、此の言をして御治定の前に発せしは何より審議を要すべしと雖も今日に至りては復た穿鑿を容るべきに非らず、且つ島津家の病系は不明にて良子女王殿下の御体質が健全にましますことは明白なる事実なり、然るに曖昧なる病系により推して女王殿下の将来を妄想し遂に皇室の為めに憂慮すべしとなすは牽強の論のみ、縦令真実 皇帝の御血統を重んずるものとするも大義より之を考ふるときは道に悖り仁を害し 皇室の尊厳を傷くるものなり、何となれば色盲症の如きは遺伝と否とに論なく人身の一微患に過ぎざれども不信不義に至りては人格の大疵に非らずや、小利害の為めに約を破り盟に違ふことは、少しく恥を知る者の為すを屑とせざる所なり況や億兆の君師として道徳の模範を示し給ふ我が皇室に於かせられて豈に此の如き不祥事あるべけんや、冊立の御治定は忝く勅裁を経て天下に公表せられたるものなるに、今忽ち御中止とならば獨り民心を悦服せしむべからざるのみならず遠く海外にまで失體を示す恐れなきか。
 〔以下省略〕

  上山縣老公書

 ◎山縣公が押川氏に與へし返書
 ◎各宮殿下に奉呈し、原首相、中村首相、松方内大臣 山縣、西園寺両公に贈りし書
 ◎浪人会宝刀献納祈願式
  祈願文 〔下は祈願文、日時署名者〕

 大正十年辛酉二月十一日

 頭山満    内田良平  大久保高明 永岡哲三郎 井上武三郎 高村謹一 岩橋鴻堂 知野秀夫  田代順一
 小美田隆義  末永節   寺尾亨   中西正樹  小笠原元榮 宮川一貫 堀通夫  岸本重任  永岡哲三郎
 伊藤知也   小幡虎太郎 田中弘之  今田主税  今村勝太郎 葛生能久 赤羽隆二 大崎正吉  篠塚秀雄
 佐々木安五郎 長崎武   小川運平  酒巻貞一郎 内藤順太郎 高橋秀臣 中島通盛 栗原彦三郎 川合徳三郎

  不詳事一掃  頭山満氏謹話
 ◎御婚約問題と原首相の関係   途中より権兵衛と相談して山縣公を人身御供に上ける奸計に早変した
 ◎東宮殿下御外遊決定の内情 可驚是れ政友会の党略に出づ 〔下は、その最後〕

 中村宮相から東宮御外遊のことを山縣公に話したのは已に御勅許後であったから山縣公は如何ともすることは出来なかったけれども、原首相が東宮の御外遊を自己の功名と党略との具に供せんとして居る一事に付ては山縣公は甚しく憤慨して居る。

〔蔵書目録注〕

 本冊子は、赤字で字の大きさや省略箇所などの校正が書き入れられている。
 なお、本小冊子について、『禁止単行本目録』 内務省警保局 に、次の記載がある。
 
 題号         著者     発行所 発行人住所氏名 処分年月日    訓令通牒番号
 宮中重大事件に就て  盡忠会同人  東京          大正一〇、三、一 警秘 五四四   


『秘 告発状 (被告発人 北一輝 西田税)』 (1936.2)

2013年06月29日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 

  告発状
      告発人  ○○市○○町○○通○丁目○○ ○○○○
      被告発人 北一輝 西田税

   不敬罪ノ告発
    告訴ノ事実

 一 〔省略〕

 二 然ルニ被告人北一輝、西田税ハ欧米ヨリ輸入シタル不逞極マル民主思想ニ●ズレ「日本改造法案大綱」ナルモノヲ著シテ最モ兇悪ナル民主々義ニヨル皇国ノ革命ヲ企図スルコト既ニ十数年革命ノ手始メトシテ先ヅ天皇ノ皇軍ヲ己レニ革命奪取シ此ノ武力ヲ以テ皇国ノ兇悪民主革命ヲ為サントシ皇軍将校内ニ巧妙ニ潜入流布シ表面国家主義ヲ粧ヒテ国体観念明確ナラザル将校ヲタブラカシ宗教ニ結ビツケテ宗教的邪信ト親分乾分的契リトヲ以テ批判能力ヲ喪失シタル盲信ト順逆ニ拘不離ルベカラザル絶対服従ノ兇徒ト化シ不逞民主革命ノ使徒走狗タラシメ「汝等ヲ股肱ト頼ム」トノ有難キ御信倚ヲ辱クセル皇軍将校ヲ己レノ股肱トシ天皇絶対ニアラズシテ己レ絶対タラシメ天皇親率ノ下皇基ヲ恢弘シ国威ヲ宣揚スベキ神聖任務ニ生クル皇軍将校ヲシテ被告発人等親率ノ下皇基破壊国威失墜皇軍革命奪取ノ先陣タラシム
 斯クテ天皇親率ノ皇軍内ニ被告発人ノ「日本改造法案大綱ニ依ルニ非ズンバ統帥命令ト雖モ肯ゼズ」ト狂号スル将校ヲ生ズルニ至リ而モ該書ハ今尚続々トシテ全国青年将校間ニ密送セラレソノ使徒走狗養成ニ狂走シツヽアリ
 現今ニ於ケル皇軍内ノ一切ノ混乱、対立、相剋、無秩序、無軍紀ガ総テ被告発人等ノ煽動ニヨリテ起サレツヽアルハ周知ノ事実ニシテ永田中将ヲ暗殺シタル相澤中佐ノ軍法会議ニ於ケル陳述ヲ見ルモ被告発人等ガ如何ニ深刻ナル統帥破壊ノ陰謀煽動ヲ為シツヽアルカヲ認識シ得ベク而モ皇国未曾有ノ危機逼ル当今一瞬ヲ空シクシテ皇軍ヲコノ儘ニ放置センカ皇軍ハマサニ革命崩壊ニ陥ルベク皇国亦遂ニ崩壊革命ノ外ナカルベシ皇軍唯一ノ支柱タル皇軍ヲ崩壊ノ危機ヨリ救済スルハマサニ焦眉ノ急務ナリ

 三 被告発人北一輝西田税ハ其ノ著「日本改造法案大綱」(北一輝著西田税発行)ニ説イテ曰ク

  イ. 国民ガ本隊ニシテ天皇ガ号令者云々……十四頁
  ロ. 日本天皇陛下ニノミ期待スル国民ノ神格的信任ナリ……十四頁
  ハ. 日本国体ハ三段ノ変化ナセルヲ以テ天皇ノ意義又三段ノ変化ヲナセリ……四頁ー五頁
   第一期ハ藤原氏ヨリ平氏ノ過度期ニ至ル専制君主国時代ナリ此ノ間理論上天皇ハ凡テノ土地ト人民ヲ私有財産トシテ所有シ生殺與奪ノ権ヲ有シタリ
   第二期ハ源氏ヨリ徳川ニ至ルマデノ貴族国時代ナリ此ノ間ハ各地ノ群雄又ハ諸侯ガ各々其ノ上ニ君臨シタル幾多ノ小国家小君主トシテ交戦シ連盟シタルモノナリ従ッテ天皇ハ第一期ノ意義ニ代フルニ此等小君主ノ盟主タル幕府ニ光栄ヲ加冠スル羅馬法王トシテ国民信仰ノ伝統的中心トシテノ意義ヲ以テシタリ 此ノ進化ハ欧洲中世史ノ諸侯国、神聖羅馬法王ト符節ヲ合スルガ如シ
  〔以下省略〕

 四 被告発人等ハノ執筆発行ニ係ハルト思惟セラル左ノパンフレツト
 「順逆不二之法門」(昭和十年配布)ニ説イテ曰ク
  〔以下省略〕

 五 告発人ハ畏クモ明治天皇ヨリ下シ給ヘル軍人勅諭ヲ奉戴シ挺身奉公ノ誠ヲ尽サントスル皇国軍人ニシテ被告発人北一輝、西田税ハ刑法第七十四條ニ該当スル不敬行為ナリト思惟スルモノナリ
 六 「順逆不二之法門」ハ日本改造法案参考文「第三回ノ公刊頒布ニ際シテ」……一五二頁「支那革命外史序」……一八七頁ー一九〇頁等ノ記述並ニソノ文意及作文形式等ニヨリテ被告発人ノ著作及ビ発行ニ係ルコト明白ニシテ又無届出版タルヲ推知シ得ルヲ以テ出版法第三條違反ニ該当シ更ニ同第二十四條第二十六條ノ行為ナリト思惟スルモノナリ
 七 皇国ノ支柱タル皇軍マサニ被告発人等ノ為メ革命崩壊ノ危機ニ瀕シ皇国ノ前途深憂ニ堪ヘザルノ時被告発人北一輝、西田税ヲ疾風迅雷的ニ御審訊ノ上厳重其ノ処分相成度此段及告発候也

   證據
  一、日本改造法案大綱 一
  一、順逆不二之法門  一
   昭和十一年二月二十四日
               告発人○○○○

 東京刑事裁判所検事局
         検事正 猪股治六殿


   上申書
        ○○市○○町○○通三丁目三十九番地
                             ○○○○

  東京刑事裁判所検事局
             検事正 猪股治六殿

   今般北一輝、西田税両名を不敬罪として告発致しました真意を申上げます
   私は在郷軍人でありまして明治天皇より賜はりました勅諭を奉戴し一死君国に殉ずる覚悟を以て皇国の現状に深憂を抱いておる一人で御座います
   〔以下省略〕

     


『中国革命党と北一輝及び譚家との経緯』 黒沢次郎

2012年09月17日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 中国革命党と北一輝及び譚家との経緯  [北大輝ー譚瀛生ーの遺骨を中国に埋葬するの所以] 

 (一)

 明治三十七八年、日露戦争に於て、日本が露国に対し、勝利を得るに至るや 中国に夙に潜在せる清朝革命の気運 速かに勃発し、恰も燎原の火の如く全国に啓発せられたり。
 当時、清朝勢力の威圧、尚、厳として動かすべからざるものあり、革命の志士、多くは日本に亡命し、潜 ひそ かに同志相結合して、秘密結社を組織し、機関雑誌に依り、盛んに革命の趣旨を呼吹し、之を中国に密送せり。
 日本に於て相会する革命の志士は、国父孫文、黄興を始め、章太炎、張経 〔張継〕 並に宋教人 〔宋教仁〕 等、革命中枢の人物を網羅せり。
 一輝 北輝次郎は、青年時に於て、已に、国家社会学の造詣深く、二十二歳の弱冠にして『国体論並に純正社会主義』なる著書に筆を染め、翌年、その書の完成するや、日本官憲の忌憚する所となり、悉く没書の厄に遇うも、其言論の雄建にして、理路の明晰なる、以て青年の思想を啓発するもの尠なからざりき。
 官憲の吏僚にして尚、志あるもの亦陽に没書と称し、陰かに之を耽読するものあり、往々にして江湖読書子に喧伝せらる。偶々中国革命の志士中、以て談す可しと為し、之を其秘密結社に招聘して、共に相語り相論じ、更に革命鼓吹の一助となせり。
 然るに、北一輝の思想たるや、独り斬新を追ふの軽薄なるものにあらず、遠く東洋文化の根源の溯及せるものにして、前人未踏の境地を拓開せるものなりき。
 革命の志士中、宋教仁は、人も知る如く、革命の鬼才と称せられ、其論戦に於て、又組織的才能に於て、既に群を抜くの慨あり、彼亦、北一輝の才学を看破し、遂ひに莫逆刎頚の友となるに至れり。
 英雄、英雄を識ると云ふ可きか。
 然る処武漢第一革命は、孫逸仙外遊中の事に属したれば、宋教仁にその画策指図に任じ、黄興、元より革命指導の第一人者たる可かりしも、群雄統御のこと、自ら道あり、是等幾多の英才を指揮統合し、以って革命党の力をして盤石たらしめし一大人物のありしあり。
 曰く、譚人鳳その人なり。
 氏は、常に多くを語らざりき、然れども、所謂典型的大陸の英豪にして、江畔一帯の哥老会匪を卒 〔率〕ひ、虎視眈々たる所、実に恐る可きものありしなり。
 革命の志士、又深く其人物に敬倒し、自ずから革命党の元老たるの観を呈したり。
 宋教仁、深く之れと結び、従て、北一輝亦之と親交密の如くなるに至る。
 武漢第一の革命なるや、宋教仁は推されて憲法院総才たり、北一輝は、その外国人たるの故を以て同氏を援くる事となり、斯くて、彼は、民国憲法最初の草案に、その健筆を揮ふ事となれり。
 しかるに、天下の事意の如くならず、その麗筆の蓋し見る可きもの多かりしに拘らず、宋教仁の暗殺と共に、第二革命の止むを得ざるに至り、革命の志士、又再び日本に亡命するに至りたり。

 (二)

 第一革命、一敗血に塗れ、志士の日本に亡命するや、譚老人は、其第二子、貮式氏夫妻を伴ひ、東京小石川に寓居したり。
 北家も、同じく避難帰朝し、赤坂区青山に仮寓して、両家の親交日に益々親密の度を加ふ。
 時、恰も大隈内閣の際なりき。北は帰朝以来、専ら中国革命の趣旨を、日本朝野に徹底せしめむ為、奔走に寧曰なく、宰相、大隈侯に、譚老を紹介会見せしめ、大いに得る処ありしものゝ如く、公私共万全の力を致し、至らざるなき感ありき。
 而して、運命の子、大輝は、実に、この時母胎にあり、数ヶ月を閲して長崎に移転し、同所に於て弧々の声を揚げたるなりき。
 数奇なる運命児、東洋の子大輝は、幼時、瀛生 エイセイ と名けられしが、生後幾何も無くして、その生母は産褥熱を煩ひ客死し、其後下婢の手にありて、養育せられたり。
 然るに、譚家は、又々その一家をあげて、上海に帰省せり。
 而して譚老人の愛着、この兒一人いかゝりたるものゝ如かりしも、生兒は風土に適せざりしにや、その健康勝れざりき。
 かゝる時、北一家も亦譚家と相前後して、再び渡滬するの機会を得、両家との交誼毫も変る事なく、両家は将に一家の如き観を呈したり。
 譚老人は、生母を失ひし此愛孫を托す可きは、北家の他なしと、覚信し、一日、北夫人を自邸に招致し、懇托するにこの事を以てす。北夫人又北の許諾を得て、その大任を快諾し、これを抱きて、大輝出生の地長崎に帰郷し、日夜看護愛撫極りなく、その慈愛赤心の致す処遂ひに、その健康を回復するを得たり。
 而して、大輝は、日本に於て、小、中学の課程を経て大学を卒業するに至りたるも、その間、毫も健康を害する事はなかりき。
 一日、譚老人、北に対して、語を改めて曰く、
 『中国革命漸く成るを得たりと雖も、前途尚実に容易ならず、日支は必ず相援けて共存共栄の他なく、此事一にかゝって、貴下と吾責任に存す。今一男孫を以て貴下に託す、故なきにあらず、即ちこの事私事にかゝるにあらず、願くは之を掬育して他日有用の材となし、吾百年の後、吾が志を之れに継がしめむことを』と。
 北、亦之を快諾して以て握手時を久ふせしと。
 両雄の感懐はたして如何なりしか。

 (三)

 中国革命は、その後、志士の血によりて綴られ、血によりて築かれ、着々その地歩を固め、遂ひに蔣介石氏によりてその目的は達せられたり。
 然るに、一方、漸く資本主義の爛熟期に達せる日本は、批政、相次いで起り、為に先人の素志に反し、日支間、漸次相乖離するに至る。
 而して、この日本の現状を打開し、以て、世界一休〔体?〕一心の大史観に立つ、伝統日本の本然に復帰せしむ可き意図に出ずる幾多の事件生起するに至り、一代の先覚、一輝、北輝次郎も亦、その一つに連座し、その首謀者の一人として、非命に斃るゝに至る。
 この時、大輝は、北夫妻の至情の撫育により、長じて一個の偉丈夫たり。
 然れ共、大輝は、北夫妻の深き慮りによりて、未だその生を明に識らざりき。
 北夫人、苦慮する事旬日、遂ひに語るに事実を以てす。
 大輝、愕然たり。慟哭する事尋常ならず。
 嗚呼、我が祖父は、然る人なりしか、嗚呼、我が生父は、革命に斃れたりしか、嗚呼、而して又、我地上の真実の父は、今、又非命に終る。吾、 はた如何に生く可きか、と、呻吟、苦悩する事連日、一時、度を失せしものゝ如しと云ふ。
 然れ共、血流を中国の英豪、譚人鳳に享け、その訓育を、日本の俊傑、北一輝に受けたる者、斯くて止む可きにあらず、一日、覚然として、父祖の業を継がむ事を決意するに至る。
 遇々、悲しくも、中日の風雲急となるや、同志と相謀り、身を挺して、これが打開に力むと雖も、大勢に抗し難く、両国は遂ひに、干戈を交ふるに至りたり。
 然れ共、大輝の悲願は毫末もゆるがず、この上は、我が一身を中日万代和平の礎に供せむものと、去歳、日本婦人と婚を結び、益々その操守を堅固にせり、事実、日華両国の血魂によりて、人となりし大輝こそ、日華両国の国交関係を調節融和するに於て、第一の有資格者なりしなり。大輝亦、斯くの如き、満々たるの自信に立ちしものゝ如く、堂々の立論、熱烈なる行動は、北一輝の再来を見るの感なきを得ざりき。
 大東亜戦争の勃発するや、大輝も亦、従軍するの止むなきに至るも、途中、病を得て軍籍を離れ、彼、本来の目的たる、日華両国和平の恢復に、その全力を尽さむことを期し、或時は、日本外務省の嘱託となり、或時は、大使館の嘱託として、東奔西走し、親しくその調査したる事項につき、忌憚なき意見を具申し、為に却って官憲の干渉を受くる事等あり、その成績多々見る可きものありたり。
 殊に、大東亜戦争の漸く、日本に不利なるを見るや、彼の煩悶苦悩の情甚しく、或時は軍身、或時はその養母と共に、重慶に潜行し、全局和平 服幾せむとせし事一切ならざりしも、彼の建言遂ひに容れられず、日本降伏の八月十九日、従軍中の病魔再び襲ひ来り、大志をのぶる能はずして、長恨を呑み、上海に客死せり、嗚呼、惜しみてもあまりありと云ふ可し。
 昨夏、その遺骨は、黒沢二郎の女婿によりて、養母の懐へ帰る。
 北未亡人の胸中如何ぞや、然れ共、未亡人又、一個の女傑なり、徒らに悲まず 日頃側近に語り曰く、
 『大輝が骨、日本に止む可きにあらず、その父祖の地に帰すに止かず。』と。
 蓋し、その意図する処、埋骨は、その郷になすの中国の習に従ひ、譚人鳳の霊と、大輝譚瀛生の霊をなぐさめ、かつは、その霊、永へに止りて、日華提携の紐帯たれとの義に他ならざる可し。
 曩曰、目下、中国代表国、政治部主席張鳳挙閣下、及び主席顧問沈覲鼎閣下に対し大輝の遺骨、中国埋葬につき陳情する処ありしに、両閣下もその趣旨を諒とせらる。
 時、偶々、中国四川省主席張群氏、米国よりの帰途、東京に立寄られ、前記両閣下より右の報告を受けられ感慨の殊に深かりしを聞知せり。
 さもある可し、張群氏こそ、現存革命の志士中、大輝を知る唯一人の人なるべし。
 即ち、張氏は、辛亥革命当時、青年士官として、譚人鳳に私淑する処深く、北一輝とも亦交友兄弟の情も唯ならず、大輝成人の後に於ても、来朝の際は夫妻共に、特に篤を抂げて、北家を訪問せられし程の間柄なりしなり。

 〔以下は、雑誌『新勢力』では「(後略)」として省略された部分である。〕

 その父と呼びたりし、北一輝は、昭和維新を叫びて業ならず、断頭台上の露と消ゆ、而して、その遺志を継ぎし、大輝亦中道にして斃れ、今白骨となりて、養母の懐に、淋く抱かる。
 大東亜戦争破れて、青山空しく蕭條たり。各国使臣東京に会して、日夜日本の将来を論ず。
 中国代表の言々句々、日本国民の感謝注目に価せざるはなし、北父子の霊、果たして之を聴く事を得ば、多年国交に尽したる、其交績の必ずしも慫慂ならざりしを知るに足らむ。
 願くば、国交回復するの日、大輝の遺骨を故国に送り、祖父譚人鳳の墓側に葬らむことを。
 その養母の年歯漸く加り、その希求の切なる、その時期の到来を待つ、一日千秋の思ひあり。
 之、曩(さき)に、中国顕貴の考慮を煩はすに至る。至情止むなきの致す所なり。
                                      -終り-

 上の資料は、謄写版、25.5センチ、8頁。
 なお、「北一輝小伝 黒沢二郎(遺稿)」(『新勢力』 第十巻 第二号)は、その田中宏典氏の記を読むと、このガリ版刷りの抜粋なのかもしれない。

 
  北大輝君と祖父故譚人鳳氏
  

     宿命の青年北一輝の忘れ形見
  支那の血流れる身に
   纏ふ皇軍正義の征衣
       勇躍待つ大陸への首途


 体内を流れる血は支那民族の血ながら奇しき宿縁によつて真の“日本人”の魂によみがへり、しかも正義皇軍の征衣に身を固めて勇躍新東亜建設の聖戦に飛び込まうとしてゐる青年がある、この若者こそは二・二六事件に連座して極刑に処された北一輝の心の忘れ形見北大輝君(二三)である……

 国右翼運動の巨頭北一輝は約二十年前支那革命の渦中にあつて縦横無尽の活躍をしてゐた、その頃一輝は革命の倒れた中国人同志の遺児を拾ひ上げた、まもなく故国に帰つて来た北一輝はその子を自分の後継者として正式に入籍し名前も姿も心もすべてを一人の完全な日本人として育てあげた。この新しき日本男子はやがて日大工学部でひたすら学究の道にいそしんでゐたが、昨年夏父の身に起つた事件を機会に自立を決意して某会社に勤めたが、今春徴兵検査を受けた結果は見事に甲種合格!そして○○部隊に入営した彼は喜び勇んで風雲逆巻く大陸へ首途する日を待ちわびてゐるのだ。
 この宿命の子こそ大輝君その人であるが、しかもその
 潮には新支那を生み出す数奇な歴史がにじみ込んでゐる、日本人北大輝は同時に孫文と並んで支那革命史上に輝く哥老会頭目譚人鳳の孫でもあるのだ。
 大輝君は極最近はじめて自分の身の上を知つたさうだが、その時も彼は顔色一つかへず『おれは日本人だ』と腹の底からいひ切つて入営の日にも

 僕の二人の父の理想に泥を塗つた蔣政権は僕にとつて憎みても余りある敵です、僕は最大の愛を以て日支親善を必らず完成して見せます、新しいアジアを築くため僕は喜んで人柱になる覚悟です

 とれい明東亜の陰に秘められた悲しみを蹴つて悲壮な決意を力強く語つたといふ

 “念願成就を祈る
       岩田富美夫氏談

 大輝君の将来のため何くれとなく心をくだいてゐる岩田富美夫氏等は同君の栄えある人生第一歩を我事のやうに喜びながら左の如く語つた。

 大輝君はいつくしみ育てる一輝夫妻の姿はまことに涙ぐましいものでした、大輝君が自分の身の上を知つた時にも毅然として“俺は日本人だ”といひ切つたのも父母の愛情が如何に深かつたかを示すものでせう、幸ひ甲種に合格しまして晴れの軍務につくことが出来ました以上、厳格にびしゝ教育して頂き天晴れの人物にして貰ひたいものです、そして大輝君の念願を是非とも果させたいと祈つてゐます

 上の写真と文は、(十八日夕刊) 昭和十三年十二月十九日 (月曜日) 報知新聞 第二万二千二百六十九号 A(二)面 に掲載されたものである。日曜夕刊


『新勢力』 二・二六事件三〇年記念号 (1965.2)

2012年09月02日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 昭和四十年 〔一九六五年〕 二月五日発行の『新勢力』 第十巻 第二号 通巻第七十八号 は、「二・二六事件三〇年記念号」である。

 ・二・二六事件記念慰霊像建設までのあれこれ …… 河野司
 ・ひと“二。二六”を反動と呼ぶ …… 田々宮英太郎
 ・「国体論」への回想  ‥‥ 佐藤正三

 ・北一輝小伝      ‥‥ 黒沢二郎(遺稿)
 ・北一輝君の思ひ出   ‥‥ 小笠原長生
 ・北先生を偲ぶ     ‥‥ 田中宏典

 ・二十四才までの西田税 ‥‥ 末松太平
 ・渋川さんと軍人精神  ‥‥ 三角友幾
 ・二・二六事件異聞   ‥‥ 市倉徳三郎
 ・北先生の面影     ‥‥ 馬場園義馬

   北一輝先生ト最後面謁記録 
     東京陸軍衛戍刑務所ニ於テ、昭和拾弐年八月拾八日午前十一時四十分頃ヨリ約四十分間。
     面謁者 北大輝 黒沢次郎 馬場園義馬

  ・面謁直後ノ感想
  ・北先生ノ面影
  ・御老母ノ先生兄弟評
  ・先生ハ飢餓大将デアツタ -(後藤氏談)-
  ・北先生ト読書
  ・先生ト支那革命  
  ・先生勝手ニ古本ヲ売却ス
  ・先生怒ル
  ・先生閉口ス
  ・先生運転手ヲ叱ル
  ・地球ノ皮
  ・(昭和九年)
  ・北先生、西田氏等ノ死刑執行
  ・先生ト磯部氏ノ最後ノ談笑
  ・天台道士ト先生
  ・先生ノ死刑執行
  ・平等ノ礼儀

・小学生の見た二・二六事件 …… 伊沢甲麿
 ・風塵雑記 …… 編集後記

 なお、「陸相辞職の期愈よ迫る」 〔昭和十一年十二月頃〕 というビラには、次の記載がある。

 二・二六事件関係者にして 尚ほ 軍法会議に残存する人々は 二十五名であるが 是らの人々に対する判決は 十二月十九日に行はれるはずの処 その独り菅沼大尉(和歌山連隊)に対する刑の軽重如何は 同大尉の××関係などから 各方面に影響する点もある程に 同氏は複雑な立場にあるらしく 遂に 同日までに判決を下すことが出来なかったといはれる。が然し 遅くも 来る二十五日までには 裁断を見るはずで その判決あり次第 他の人々と共に 直ちに公表の運びとなる模様であるが 聞くところに拠れば

 ・真崎大将 香椎全司令官  證據不十分として 不起訴 無罪
 ・満井大佐 十年 ・齋藤劉予備少将 十五年
 ・西田税 死刑 ・北一輝 死刑は免れる
 ・石原廣一郎 起訴

 西田氏と殆んど同じ立場にあったと見られる北氏が 死刑を免れたのは 同氏過去の関連は別として 氏が 蹶起軍を支持したのは 蹶起軍が叛乱軍となる直前までゞあることが 時間的に証明されたので 叛乱軍支援といふ立場から外れ得たからである と
 久原房之助が“叛乱”そのものとは 無関係で 不起訴になったことは 謂はゞ“案外”の感を 世に與へたと同じやうに 残余の関係者の処罰も 少からず“政治的解決”の臭ひ多きを想はしめるやうな態度であるといはれる。例へば 満井氏の十年に対し 齋藤氏の十五年の如き 一般人の常識から見れば 当時 前者は“現役”であり 他は“予備”であったといふ一点だけから推しても 右判決は 寧ろ逆ではないかと 考へさせられるやうに。  


『牧野内大臣、関屋宮内次官、東久世内匠頭等の大逆不敬事件』 (1926.5)

2012年08月26日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 牧野内大臣、関屋宮内次官、東久世内匠頭等の大逆不敬事件 (以印刷代謄写)

 牧野内大臣、関屋宮内次官、東久世内匠頭等の大逆不敬事件。
 宮中巨頭が赤化共産党と結托せる大逆不敬事件。-莫大なる賄賂の為めに皇室財産を盗窃せる、故松方正義、牧野伸顕等の犯罪事件等ー全国の同志死を決せよ。

 全国の同志に告ぐ。同志各其の率ゆる所の系統、各其の属する所の団体結社に告げよ。
  田中山梨等帝国陸軍の中枢に蟠居して数百万円の窃盗を働いた『陸軍機密費事件』にも驚いた。三大政党といふ暴力団詐欺横領団体が各五十万円八十万円三十万円といふ大泥棒を仕組んだ『松島遊郭事件』にも愕いた。まさかと思つた者でも晴天白日に晒された正体を眼前に見せつけられては今更の如く呆然としたのである。暗夜を幸ひとして横行跳躍せる百鬼千魔が今一整に旭日の光明に照らされて其の化けの皮を剥がれ正体を現はしたのである。
 同士に告ぐ。 吾々三十八名の者が責任を明かにし官憲の迫害を覚悟して今茲に摘発糾明せんとする大逆不敬事件に至ては殆ど信ずるにも信じかぬる程『恐れ多い』事実である。
 難波大助が出た時に、朴烈が出た時に其他幾多の皇室の御一身御一家に係はる不敬事件大逆事件が現はれたる時に吾々も全国民も否、彼等自身天子皇族に奉仕する者が常に言ふのである。-日本人として斯る心事皇道は信ずることも想像することも出来ないと。吾々が幾人かを往来せしめ事実の確かなる證據書類等をシカと吾々共の手に握るまでは假りにも天子皇族の御身命御財産に人一倍の重責ある身分を以てして、あらうことか皇室の御財産を持出して赤化共産党のシタタカ者に生活費遊蕩費を貢いだり、賄賂を取るに事を欠いて其の御財産を二束三文に処分させるなど、実は半信半疑であったのである。共産党が宮中の大巨頭と結んで其の運動費を皇室財産其者からセシメたり、大官巨頭亦悪家老か悪番頭の如く八十万両の賄賂の為めに主家の田野山林を噛ぢって平然として居る。聳雲摩天の楼閣長城ロマノフ王朝も其実外部からでなく皇室内部の白蟻に依りて腐朽し尽されて居たからの滅亡であった。難波大助を憎むならば牧野伸顕を、朴烈夫妻を怒るならば則ち関屋東久世を怒り憎むべきである。
 全国の同志よ。 吾々は陸軍機密費事件に於て其の犯罪者が大臣大将なるが故に吉例によりて不起訴に終りつゝあるのを見た。又松島遊郭事件に於ても大官巨頭や総裁閣下の階級に向っては法網を免れる申合せ證據煙滅の余裕を與へるために、一面笛太鼓で世間の耳目を聾しつゝ其裏では一切を揉み消しさんとする奇術師の芸当が行はれつゝあるのを見て居る。これも吉例によりて不起訴、免謝、證據不十分で終結しやう。然り。詐欺泥棒をしやうと人殺しをしやうと犯人が大官巨頭であらば悉く治外法権で不可侵権の範囲であるとする現行法律と現在の司法官の下に於て、-吾々が牧野関屋東久世等を監獄に繋がうと企図するなどは明かに空想である。特に現内閣に取りて或は恐らくは今後の内閣争奪者の凡てに取りて、内大臣牧野伸顕の恐しさ有難さは十人の田中機密費君三十人の床次遊廓閣下にも値する治外法権の者不可侵権の者であるからである。
 一例が牧野内大臣の汽車旅行の風を見ても分る。停車場毎に七八名の警官が直立不動挙手の最敬礼を以て停車から発車までを立ち尽して居る。乗客目を見張り耳に咡 ささや きて何の宮様の御乗りかを相問ふのである。皇族のみの受けらるゝ警戒と最敬礼とを如何に感謝を表はし媚を献ぜんが為めにしても、これを敢てする現内閣も卑しむべきであるが、平然として此の不敬を嘉納する牧野の僣上沙汰に至ては言語道断ではないか。是れ維新以来の元老なる者今や一人残れる西園寺公爵だけとなったが故に、而して内閣授受の時公爵一人が責任の矢面に立つを憚かるに至たが故に、肥大豚の如き牧野伸顕を礼するに皇族の儀礼を以てするのである。咄!出入往来皇家に擬するに至て蘇我の入鹿は其の居宅を皇居に擬し其の子女を皇子王孫に擬した!内閣争奪者の上に権力富貴を與へ権力富を奪ひ得る者として将に第二大御所たらんとする彼牧野に対して、牧野あるが故に内閣を惠まれた今の若槻内閣の下に於て、彼を拘禁問罪する如きは(仮令政府党の長老箕浦は犠牲にし得ても)若槻総理江木法相に取りて夢想だになし得ざる大不敬罪である。彼の道途が皇族の礼遇である如く彼の失態も彼の犯罪も皇族と同一なる不可侵権の範囲内に置かるゝのである。申ずも畏こし。 皇室の御中から紫宸殿上奸臣を斬るの宝剣閃めかざる限り、吾々は法律を以て彼等逆徒の上に刑罰を課ずることに絶望して居るのである。正義の絶望、国家生命の望絶である。
 否、吾々には絶望が無い。豚児二三頭、男児の大決心の前に何等の妨げをなし得るものぞ。
 先づ、吾々に報告せられ吾々が更に調査挙證せる事件から説述しやう。

 第一。-無政府共産主義者に皇室御料地を払下げたる事情。-関屋宮内次官、東久世内匠頭と元労働総同盟幹部杉本彌助との結托。

  〔省略〕

 第ニ。-賄賂八十万円の為に皇室御料地を払下げたる事情。-故松方正義、牧野前宮内大臣、市来前大蔵大臣等の大逆犯。

  〔省略〕

 大正十五年 〔一九二六年〕 五月 血盟同志代表 東京市芝区南佐久町1丁目三番地 馬場園義馬

 この小冊子の発禁処分は、大正十五年 〔一九二六年〕 六月十二日。活版、21.8センチ、25頁。

 なお、斉藤昌三編の『現代筆禍文献大年表』によれば、この怪文書とともに、宣伝印刷物一枚も添付頒布された。

 〔大正十五年〕八月 宣伝印刷物 一枚 (安)

「盟友西田税君の拘禁せられたるに奮起し(牧野、関屋、東久世の大逆不敬事件)なる此の文書を小生責任に於て配布します」云々と記載せるもの 大正十五年八月十三日 馬場園義馬(右は去る六月十二日禁止せる「牧野内大臣関屋宮内大臣久世内匠頭等の大逆事件」と題する冊子に特に添付頒布したるものなり)


「北一輝を語る」 長田實 (1940.10)

2012年08月17日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 北一輝を語る 長田實

  前書

 上海に在ること三十有余年、支那第一次革命以来大陸に馳駆する支那革命家を陰に陽に援け、「日支融和結合せざれば天下治まらず」の信念の下に已に今日の亜細亜再建に具えて当時の微々たる青年を、前維新政府大官にまで育て上げたほか、現中央政府の中堅として活躍する人材多数を送り出した陰の功労者長田翁こそは亦一世の風雲児北一輝が父とも頼んでゐた人である。
 翁は天職医師、渡支以来、慈恵医院、実費治療院、博当会診療所、長田医院と次々に経営し、天衣無縫の天性にこれ等の医院はすべて日支両国革命家の集合所となり、休息所ともなつたもので、今猶翁の家に残る古色蒼然たる圓茶卓台は、大川周明氏をはじめとし、譚人鳳、宋教仁、北一輝等、壮途半ばに客死し、或は非業の死を遂げた人々が圍んで語り且つ論じたものである。
 今次上海戦に医療救護班としての御奉公を最後に、上海狄思威路の自宅に悠々自適する翁を訪ふて、北一輝が日本改造法案、或は雄揮無比なる文章として知られてゐる支那革命外史の序文を書いた当時の模様を具 つぶさ に聞きまとめ、僅か乍 なが らもあまり世に知られてゐないその一断面をこゝに紹介する次第である。

 ・北一輝の渡支

 支那第一革命時分には、支那の革命家を援助する日本側の志士たちの間にも各々、各党各派がありその圍 かこ む中心人物によつて派閥を異にしてゐた。孫逸仙、黄興などを中心とする宮崎滔天、山田順三郎〔山田純三郎〕、或は譚人鳳、宋教仁、陳基美〔陳其美〕、章太炎などを援助良導〔領導〕して池断水を中心とする親中議会〔振中義会〕などその中の最たるものであつたが、私や北一輝等も親中議会の組織の内にあつて現早大教授中村進午、当時の麻布連隊長與倉喜平、山本権兵衛の懐刀 ふところがたな として知られた大田三次郎、気学者の名も高かつた報知新聞記者佐藤天風等とと共に、某方面の支援を受けて活躍してゐたのであつた。当時の各党各派の対立、争派〔争覇〕には、かなりに激しいものがあり、然も猶、船頭多くして船山に上るの害までも生じたものであつたが、孫文が臨時大総統を追はれたのを契機として、之等革命援助の志士たちも、一時は失望落膽から、チリゝバラバラになつてしまつた。
 この時私は、この親中議会の負債を一手に引受けて支那に残り、それと同時に当時已に一方の旗頭としての貫録を示し、党派争ひの真只中に一種超然としてゐた北一輝に目をつけ、何か役に立つ者として支那に引留めておいたのである。然しこの時の革命援助の連中はいずれも借財が多くて宿屋の支払 しはらひ にも困つてゐたもので勿論北一輝とても同様に金銭的に非常に困却〔困窮〕し、こんな事情から彼も以来私の家に寄食することになつたのである。
 大正三年十一月、第三革命と称される蔡鍔の討袁の兵が雲南に挙げられ、風雲は動いて革命党の連中の活躍も激しくなり此の間東京に在 あ つた彼は譚人鳳の上京に次いで大隈内閣との交渉斡旋、支那革命外史の著述等と専 もっぱ らその方面に活躍してゐたが、翌五年 〔一九一六年〕 六月、袁世凱の急死に依つて又々革命が頓挫したため、同月再び単身渡支して文路の太陽館と称する旅館にしばらく滞在、間もなく生活難から又もや私の家に引移り、この頃から法華教〔法華経〕に非常に帰依して、譚人鳳から貰ひ受けた法華教々本を朝に夕に大声で読だりなど外見にはかなり狂人めいた風に映つてみえたのである。 

  ・改造法案の執筆

 そんなことが暫く続いた後、何と思つたか突然に“人間は喰はずにどれだけ生きれるものか断食をしてみる”と云ひ出して、最初は酒ばかりで一週間、次に卵ばかりで一週間(日一個或は二個)それから砂糖ばかりで一週間支那の駄菓子で一週間次いで水ばかりで一週間といふ計画を以て、即座に実行に移つた。かうなると勿論止めても聞かずそうかといつて捨てゝも置かれぬのでこの間毎日診療して様態を注意し、又看護婦にも注意して彼の馬桶(便器)を別にして捨便を続けてゐる中遂に四週間目には血便さへ見えだした。勿論身体の衰弱は非常なもので、事こゝに到つては打捨てゝおく譯にもゆかず、断食を止める様幾度も注意したのであるが、『どうしてもあと一週間続ける』と云つて頑として應じない。そこで止むなく折よく上海に在住してゐた譚人鳳を呼びにやり、二人でもつて懇々と諭して暫く断食を思ひ止まらせたのであるが、この時已に内深くかの国家改造法案を書く決意を蔵してゐたものらしく、この断食に依つて精神統一を計り、案を練つたものである。
 多分ゐに人間的なところがあり、一面強情でもあつた北一輝も不思議に譚人鳳の云ふことだけはよく聞いた。そして身体の衰弱もまだ恢復しきらない中に、改造法案 執筆に着手したのであるが、この時分、私は社会主義者のシンパとして官邊の誤解を受けてゐた頃とて、執筆に際しても、何事も皇室中心主義でなければならぬと云ふことをくれゞも注意し、書き上げた原稿は一々自分が目を通すと固く云ひ渡したのであつた。
 それから毎日一頁書いて見せ、二頁書いては見せといふ風で、執筆を続けたのであつたが、その間一冊の参考書とてもなく、然もわずかに二ヶ月といふ極めて短時日の間にあれだけのものを書き上げてしまつたもので彼の超人的な一面はこんなところにもよく現はれてゐた。

 ・大川周明来る

 満川亀太郎と共に三兄弟の契りを結んだ大川周明氏が、支那革命概史 〔支那革命外史〕 によって上海に彼のあることを知り、川村某船長の石炭船に乗って海に渡って来たのもこの頃であった。先づ焦眉の急は日本の改革にある。と、内地からわざゝ連れ戻しに来たのである。こゝで両名始めて会談し天下国家を論じて共に悲憤慷慨し意気相投じて彼は大川氏より一足遅れて日本に帰ることになったのだが、彼が『大川公、満川伯を得て日本の事、亜細亜の事、手に唾 つば して成すはこの秋である』と云ったのもこの頃のことである。又この頃、永井柳太郎氏が第一次欧洲大戦の講和談判の帰途上海に立寄ったが、当時の滔々たる恐米、親英主義の中にあって一人、英国との開戦を主張してゐた彼とは意見が合はないやうであった。
 こんなことがあって大正九年の末、妻女のすゞ子さん共々日本に帰ったのが上海を去った最後となったのであるが、彼が私の家に寄食中も、彼の天性は随所に発揮され、奇行奇言も多く、又思想家によく見受られる非常な我儘であった。岩田富美雄 〔岩田富美夫〕 氏、清水行之助氏等も彼と起食を共にしてゐたが、岩田氏等は常に彼を評して
 「君は常識に欠けてゐる、然しその非常識は自他共に許されるものであらう」
 と云って居たが、彼は只笑ってゐるるのみであったといふ。
 誰が議論を吹っかけても、「まだ若い」「もっと勉強してこい」と頭ごなしに一蹴して超然としてゐたが、一度彼が口を開けば、その鋭い舌峰に誰も匹敵する者がなかった。

 ・人間北一輝

 彼が最も怖かったのが私の妻であり、又最も小遣をせびったのも私の妻からであった。
 一日秋も終りに近い頃、猿又一つの素裸かで腕を組み、ベランダをへ出て、行ったり、来たり数時間も続けてゐるので見兼ねた妻が
 『北さん、風邪を引いたらどうします。それにそんな所に裸で見っともないじゃありませんか』
 と注意すると、
 『奥さん、人間は生れた時は、皆裸じゃないですか』
 と、平気でそのまゝ続けてゐた。又ある時、
 『北さん、貴方そんなに、えらそうにしていて一体何になるつもりです』 
 『総理大臣になりますよ、そうなったら奥さんも来て下さい』
 『貴方が貧乏な時なら行ってもいゝけれど総理大臣なんかになったら行きませんよ。』
 『僕が総理大臣になったらよく治まるよ、奥さんが来たら旗を持って迎へに出る』
 母親のりくさんが非常に厳格で、やはり困窮時代、着る物もなくて、つい
 『あゝ、寒い』
 と、こぼすと
 『輝(彼の本名輝次郎を略して常に輝と呼んでゐた)、腹に力を入れりゃ、いっちゃ』
 と、佐渡訛 なまり でたしなめた。こんな時彼は例の顔をクシャゝにしかめて笑ってゐた。こんな反面に又母親は、彼が昼寝なぞしてゐると、とても喜んで、人が訪問してもなるべく起さないやうにしてゐた。それは彼が非常な煙草好きで、何時ものみ過ぎる為〃寝てゐる間は煙草を喫まないから〃とのせめてもの優しい心遣ひであった。

 ・猶存社時代

 この時分は、彼が、大川、満川両氏等と共に、千駄ヶ谷の猶存社で活躍してゐた頃で、彼の帰国一年後、招かれて私が日本に赴いた際、猶存社の押入の中に、細引き、蝋燭、日本刀などが随分しまってあったので、
 『脱線行為だけは、絶対いしてはならぬ』
 と、固くいましめて帰った。その際満川が
 『必ず何もさせませぬから、北のことは私に委せて下さい』
 と、彼の身を引受けたのだが、この頃から自分に対する官辺の見解も『長田は社会主義者の善導者である』と云ふ風に変り、私も又『北は色眼鏡で見られてゐる』として、お互に文通せぬまゝに爾来数年 彼はあの様な最後を遂げたのである。
 大川周明氏が彼を評して『彼は泥中の珠であった、しかも泥のしみ込んでゐない珠 たま である…惜しいことをした』と嘆じたといふ。
 彼が私に送った十数通の書簡は、私の家が数度の上海の戦火に焼かれた為、今は無くわずかに弾痕も鮮やかに焼け焦げた一通が残ってゐるのみであるが、巻紙数尺に亘って躍るが如き大文字で書かれてあり、私と北一輝との関係を語る一助として、こゝに原文のまゝ掲載する

 拝啓、其の後は無沙汰申上候、過日青木老突然上京に、消息を承り安堵仕り候 日本も大変の淵に進行致し居り、此分 このぶん ならば、水火の渦中に投ぜられる日を見んと存じ候
 支那も今年から愈々の本舞台が開かるべく、今は毎日学校通ひにて写真を譚家に送附仕度く、依然上海に居住とは真実に候や、御返事の節知らせ御願申上候
 令閨に御伝言被下度、御角を突出せしむる婦人患者も無之候由、天下泰平を嘉奉候  敬白
      十一年五月九日    北 一輝
  長田老兄侍史

 この手紙にもある通り何時の便りも必ず私の妻のことが書いてあった。猶こゝに附記して置きたいのはこの手紙い英生坊主とある、今は北家の相続人北大輝君のことである。

 ・北大輝君のこと

 青島に於ける支那第二革命に際して不幸虜れの身となり、湖南の獄より遁れんとして背後より銃殺された譚二式(譚仁鳳〔譚人鳳〕二男)を父に持ち、生後十日にして已に母を失ってゐた革命の兒は、年四歳に満たずして天涯の孤児となり、奇しくも隣国の北一輝の手にその身を委ねられたのであった。
 支那革命概史に〃朝々暮々の禱は、汝の健やかに長じて、汝の父と祖父の遺志を汝の故国に継ぐことであるぞよ、此書は汝一人の為にも世に留むべきものである〃と書かれた革命の兒は如何に育ったか。
 大正九年八月、最後に残って祖父譚仁鳳さへも上海に失ったこの天涯の孤児は、当然祖父の死に水をとってもらった私の家にと引取られたが、丁度その折身体の衰弱が激しく、転地を絶対の必要とした為、折よく日本に帰る北夫妻に連れられて内地に帰り、彼の実子として日本の小学校に学び日本人として育てられたのであった。
 自分が、かゝる運命の兒であることも露知らず健やかに育てられた彼大輝は、その後はからずも帝都に捲き起された、二・二六事件に依って、支那の血を引くことを知り、自己に荷せられた運命の苛酷さに憐み、遂に素行がガラリと一変した。
 その後、母親すゞ子さんの非常な努力によって翻然心気一転、自ら志願して軍隊に入り、早くも本年十一月陸軍少尉に任官する筈であるが、烈々支那革命の血に燃える父と祖父との血を継いだ彼は、今、見習士官として、誤まれる故国を常道に復さすべく、雄々しくも北満の曠野に守りの銃を執ってゐる(文責在記者)  

   

 ・長田實翁 〔上左の写真〕
 ・〔上右の写真〕
  (上)宋教仁の遺墨、革命勃発と同時に武漢に去らんとして一輝に遺せる住所書。
  (下)陳其美の遺墨、盟友宋教仁を暗殺して第二革命成らず、その一周忌に会し友を悼む文字を列ねて一輝に贈る。

 上の文と写真2枚は、昭和十五年 〔一九四〇年〕 十月一日 発行の雑誌『揚子江』 第三巻 第十号 揚子江社 に掲載されたものである。


『嗚呼朝日平吾』 (1922.1)

2011年10月09日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

 嗚呼朝日平吾 親友奥野貫著

  頭山満 武富時敏 野口権大僧正 田中捨身 内田良平 佐々木照山 諸先生 題字 序文 
  嗚呼朝日平吾
   東京 神田出版社発行

      大正十一年壱月十日発行 〔19.4センチ、364頁他〕

 口絵 〔写真14葉〕

 ・嗚呼朝日平吾君
 ・頭山満翁題
 ・野口権大僧正題 武富時敏先生題
 ・田中捨身居士題
 ・佐々木照山先生題
 ・意気衝天(馬賊軍出発の際の朝日君、全面白袴は朝日君)
 ・思出多き山門 (大石寺)(福島民報所載)
 ・(呪われし家)大磯安田氏別邸
 ・朝日平吾君筆跡 宿縁深き菅野君 著者(収骨)
 ・告別式(其一)贈花山の如きを見よ
 ・告別式(其二)志士雲の如し
 ・国士水へに眠る (向つて左は西信寺住職中村廣道師、中央は著者、右端は久保蘇堂氏)

 叙 大正十年十二月二十日 内田良平

 嗚呼朝日平吾君目次 〔目次7頁、本文364頁、附録:旅順下獄記(朝日君遺稿)、跋、後記〕

 一、暗示

  一、気がゝりの電話
  二、僕の瞳の黒い中
  三、労働ホテルの失敗
  四、『秘密書類だ』

 二、意気

  一、其の前夜
  二、『僕は旅行する』
  

 三、決行

  一、浅草橋で号外
  二、電報通信社へ
  三、『アッ、朝日君だ』
  四、大日本救世団の冷淡
  五、武士の情
  六、菅野氏兄弟の義侠
  七、大磯警察署に於て
  八、深夜の墓地発掘
  九、長生館の一夜
  一〇、別邸椿事の真相
  一一、死の叫声

 四、遺骨

  一、遺骨を収めて
  二、山内の鴨緑江節
  三、富士の裾野の大石寺 … (『福島民報』所載)
  四、馬賊生活の回顧

 五、同情

  一、新聞紙の発売禁止
  二、藤田邸の通夜
  三、中村廣道師
  四、内田良平氏
  五、北一輝氏
  六、名士と無名氏

 六、告別

  一、湿やかなる通夜
  二、悲壮なる告別式

 七、骨肉

  一、人目を避けて
  二、少年時代の朝日君
  三、雨の安田家墓所にて

 八、葬儀

  一、野口日主師の引導
  二、骨を埋めて
  三、美人の紅涙
  四、遺稿と遺書

 九、追悼

  一、安田翁と共に
  二、『誰だらう』

 一〇、事業

  一、渋沢氏との関係
  二、森村氏との関係
  三、平民青年党
  四、達人館
  五、神洲義団
  六、労働ホテル

 一一、逸話

  一、子供みたいな朝日君
  二、食堂に寝せろ
  三、小指の壜詰
  四、別れの電話

 一二、年表
 一三、嗚呼朝日君
 十四、世論

  附録 旅順下獄記(朝日平吾遺稿)  

 

 斬奸状

  奸富安田善次郎巨富ヲ作ルト、雖モ富豪ノ責任ヲ盡サズ国家社会ヲ無視シ貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓ユルト雖モ改悟セズ由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警ト為ス

     大正十年九月
       神洲義団々長 朝日平吾印

〔蔵書目録注〕

表紙には、「朝日平吾先生之遺書」、副題「日本改造第一ノ犠牲者ー古今絶倫ノ道義的刺客ー屠腹碧血ヲ注ギテ後ノ義人烈士ニ大教訓ヲ残シ給ヘルー」とある。謄写版、18頁。
 内容は、「斬奸状」1頁と「死ノ叫声」18頁で、「斬奸の理由」はない。 
 なお、『昭和十年 〔一九三五年〕 中に於ける出版警察概観』〔内務省警保局〕には、同じ題名のものが、記載されている。

  〔発行月日及禁止月日 題名 納本又ハ届出ノ有無 発行責任者ノ住所氏名記載ノ有無 印刷形式 内容ノ概要〕

   九、二五 一二、二六 朝日平吾先生之遺書 ナシ ナシ 国体使団 謄写 所謂朝日平吾ノ遺書ナリトシテ安田善次郎ニ対スル斬奸状ヲ掲ゲ重臣等ガ財閥ト通款シテ聖明ヲ蔽フガ如ク揣摩臆測シ除奸ノ大義ナルヲ煽動セルモノ

 また、『昭和十年以降頒布セラレタル不穏文書調』の「六、天皇機関説又ハ重臣ブロック攻撃ニ関スルモノ」に、次の記載がある。

  番号 題名 納本又ハ届出ノ有無 発行責任者ノ住所氏名記載ノ有無 印刷形式 内容ノ概略

  18、朝日平吾先生ノ遺書 ナシ ナシ 国体便団 謄写

   所謂朝日平吾ノ遺書ナリトシテ安田善次郎ニ対スル斬奸状ヲ揚ゲ重臣等ガ財閥ト通款シテ聖明ヲ蔽フガ如キ揣摩臆測シ除奸ノ大義ナルヲ宣伝煽動セルモノ