蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『国家革新運動に於ける二大潮流』 (1935)

2024年04月21日 | 二・二六事件 2 怪文書

     

 国家革新運動に於ける二大潮流

  フアツシヨ派と国体原理派

 問 現下日本に於ける革新運動は如何なる潮流をなしてゐますか。
 答 大別すれば二大潮流がありませう。其の一つは所謂フアツシヨ派で他の一つは国体原理派です。
 問 其の所謂フアツシヨ派と>国体原理派とは何処が違ひますか。
   又軍部内にも二つの流れが在るとのことですがその通りですか。

  軍部内は何うか

 答 二大潮流に就いての差異は後から申上げますが、先づ軍部々々と云ふ声ですが、軍部と雖も現実社会の一部門である以上一般社会に於ける各種の動向を反映することも又当然でせう。

  両派の差異点如何

 問 それは兎に角として前に話された二大潮流の差異点を説明して頂きたい。

  改革意識の出発点は何う異るか

 答 先づ改革意識の出発点より話しませう。
   フアツシヨ派の人々は単に現実政治経済社会等の機構の矛盾欠陥に対する認識より之が改革へと出発する。
   国体原理派の人々は現実の政治、経済、社会等機構百般即ち国家社会全機構の欠陥矛盾は実に国体原理の歪曲より来たるものと認識する事より之が国体原理性革新へと出発するのです。

  変革部門決定上の差異

 問 では変革部門決定上の差異はありませんか。
 答 いや、大いにありす。
   先づフアツシヨ派の人々は経済第一主義より目的としての統制経済の樹立を以て主眼となし他の諸部門に至つては経済部門さへ立ち直れば自ら附随的に立ち直ると云ふ風に説いてゐます。
   国体原理派の人々に在つては経済部門固より重要なりとはしてゐますが、内外百般の歪曲されたる機構を根本的に変換すること、換言すれば我が日本の特異性たる国体原理の高調発揮に依る政治、経済、社会、思想、教育等百般の機構の歪曲面に根本的変革を主張してゐるやうです。そして経済部門に於ても国体原理の本質を発揮すれば必然に十全理想的なる経済形態が生れるものとしてゐます。結果としての統制経済が是です。

  日本の特異性の認識

 問 我が国家社会の特異性と云ふ事を言はれましたが、それではフアツシヨ派と国体原理派とはそれを各々どう云ふ風に説いてゐますか。
 答 フアツシヨ派に於ては『建国の本義に基づき』等を云つてはゐるもの、頗る物足らぬものがあります。随つて欧米の寄合所帯国家我が一大家族体国家との特異点の認識がはつきりしてゐません。
   国体原理派に於ては、先づ我が民族の生成発展の特異性を強調してゐます。

  我が特異性の第一 

 問 それはどう云ふ風に説かれてゐますか。
 答 先づ我民族は同胤一裔の敷島民族を核心として軌範的に生成発展し来たつた民族であると説くのです。そして皇国日本は此の民族の固有せる民族意識と信仰とを以て護持し経営し発展し拡充し来たれる『一大家族体国家』であつてかの欧米のそれの如き『寄合世帯国家』とは似ても似つかぬ優秀なるものと認めてゐます。

  国体原理とは如何 〔下の問と答は、前の箇所に新しく紙が貼られて次の文がある〕

 問 国体原理とは一言にして言へば同う云ふことですか。
 答 我が国は此の『一大家族体』の大父に在します所の 上御一人=全体たる 陛下と、全体たる 陛下に含まるゝ部分としての赤字にして臣民たる下万民との一元的構成する所の国柄であります。一元の位置に基く御統治者としての、家族体皇国日本の全体たる 天皇は 皇祖皇宗に対する御まつろひ(随順)の大御心を以て其儘万民をみそなはせらるゝので祭即政、祭政一本であります。又万民は全体たる 陛下に含まるゝ其の部分として全体たる 陛下に只管まつろひ(随順)協翼し奉るのであります。かくて全体は部分を、部分は全体を相互牽引求心して以て『君民体を一にす』る、是れ我が万邦無比の皇国体の精華でありまして天壤と
倶に無窮であります而して斯の天壊無窮の国体は全体=(上御一人)の絶対部分=(下万民)の平等=(上=全体、絶対なるが故に、=部分が平等である)の根本義の上に立ちて彌々明徴充実さるゝのであります。此の根本義即ち『上御一人=全体の絶対と下万民=部分の平等』これこそ千古不磨の我が『国体原理』であります。

  現機構の反国体原理性とは 

 問 然らば現機構の歪曲されてゐると云ふのは、
 答 今云つた国体原理の上から見て例へば政党財閥の如きは下万民の平等を蹂躙してゐる、(陛下の赤子は自殺のみ可能である)是れ即ち上の絶対を冐し奉つてゐるのであります、最大兇逆です。即ち政党組閣制度、個人搾取資本制経済が国体原理に反すると云ふのです、現在の矛盾欠陥万悪盡く此の国体原理の歪曲の結果であるとなすのです。
   即ち九千万各々其の処を得て皇運を扶翼し此の国体を充実し世界に対し指導的地位を確立すべき使命国日本であるに拘らず内外盡く難局に在ると云ふのは要するに国体原理にもとる現在の歪曲覇道機構の結果であるとなすのです。

  国民生活苦を何う見る 

 問 両派の国民生活苦に対する見方は同う異つてゐますか。
 答 フアツシヨ派の人々は単に経済機構に矛盾があり欠陥があるから国民生活苦がある、即ち資本主義経済から統制経済に移行すれば国民生活苦は救はれるとなすのです。(金融資本高度制覇としての統制経済)〔※この()の箇所は、貼り紙〕
   国体原理派
   陛下の赤子が一人として其の処を得ず飢寒にさらされると云ふことはまことにあるべからざることである。「天下億兆于一人も其の処を得ざるは朕の罪」とまで仰せらるゝ大御心に対し奉て真に申訳がない、然らば何故に此状態農山漁村中小商工業者の生活苦が生れたかと云ふにそれは我が一大家族体皇道日本に本来在るべからざる外来の覇道経済機構を移入したからである、つまり明治維新の不徹底なりし結果で換言すれば国体原理に背反する機構を移植したからである、故に国民生活苦を救ふには一我が一大家族体皇道日本の国体原理性経済機構の本来の姿に復しなければならぬ、国体原理性経済機構の確立さるゝ暁には一人半人の飢民も在り得ない。と説くのです。

  国防観の差異は

 問 両派の国防観の差異は何処にありますか。
 答 両派とも現国防を以てしては不十分となす点は同じですが国防強化の為には政治、経済、思想、教育、宗教等の国家的一元的運営をなすべきで特に経済機構を変革すべきであると説いてゐます、世上所謂国防の鬼面を以て変革を強行せんとする国家社会主義者こそフアツシヨであると云ふのも無理からぬ処です。国体原理派にあつては国防の不充分は要するに国家全面が非国体原理性に歪曲され覇道の支配下に在るから不完全である、之を強化完備せんとすれば其の一大家族体の優秀本質の発揮即ち国体原理性復を必須とする、平易に云へば忠孝一本の特異性を十分発揮し得る如くせねばならぬ其の結果として政治も経済も教育も思想も外交も宗教も文芸等も万般のこと皆国体原理性に自ら一元的に運営せざるを得ない、是れ真の国防強化であると認めてゐます。

  国防完備と国民生活苦との関係

 問 国防と国民生活苦とに対する両派の見方は同う異ひますか。
 答 フアツシヨ派に於ては国防の完備と国民生活苦とを二元的に考へてゐる、其れは其の日常の運動に於ける実践を見れば明瞭に分る。百歩を譲るとしても国防の完備の為めには銃後の国民生活苦も捨てゝは置けぬ位の程度でせう。国体原理派に於ては国防の不全も国民生活苦も共に其の根因となす。国防の完備と国民生活苦の救済とは一にして二ならず、表より見れば国防の完備であり裏より見れば国民生活苦の救済である、即ち現在の覇道歪曲の日本を其の本来の一大家族体皇道日本の国体原理性本質に復固すれば国防も自ら完備せざるを得ないし国民生活苦も自ら救済せられざるを得ないと認めるのです。換言すれば国防の完備を期するには国民生活苦を徹底的に救済せねばならぬ、国民生活苦を徹底的に救済せんが為には対内外に亘る国体原理性根本改革を必至せざるを得ない、故に生活苦大衆に其の苦吟のドン底より国防の充実完備を絶叫せよと主張するのです。
 問 成る程フアツシヨ派の単なる矛盾欠陥の認識では不十分であることが分りました、で次には両派の政権に対する態度は同うですか。

  政権に対する態度は何う異るか 

 答 フアツシヨ派の人々は目的としての政権獲得を企図し一党独裁の形態を所期してゐます、国民大衆運動を叫んではゐますが是は作戦上の方便であつて即ち政権獲得独裁樹立の為大衆を方便に供してゐると云ふ訳です。此点がかの五・一五事件に於ける三上海軍中尉等により強烈に攻撃された事です。国体原理派に在りては目的としての政権獲得を極度に排し結果としての御親任垂下により 御親裁奉行に事欠かぬ様準備してゐるのです。一党独裁も排します、要は九千万大和して尊王協翼の本心の上に 御親政を扶翼し奉るに在りとなすのです。

  倫理観の差異は如何 

 問 倫理観の差異は何うです。
 答 フアツシヨ派に於ては何うしても俺が俺等がの意識が強烈とならざるを得ない、兎も角政権を獲らねば変革は出来ぬと考へてゐる。
   国体原理派は尊皇絶対、皇運扶翼を根本とする故に俺が俺等がの意識を極度に忌みます、政策の如きも尊皇絶対皇運扶翼の倫理性を以て貫通せるものでなくてはならぬと主張し、楠公、和気公の心根を以て勇往邁進すべきであると強調してゐます。

  対議会観の差異は

 問 両派の対議会観は同う異りますか。
 答 フアツシヨ派は固より独裁を主とする故議会はいらぬ然し方便として之を必要とし傀儡的に認めやうと云ふのです、例へば伊太利、独逸、ロシヤに於けるが如くに、
   国体原理派は議会を必ずなくてはならぬものと認めてゐます、が然し現在の如き欧米流の議会至上の覇道形態を忌み真の神集ひ神議り的議会の設立を絶対必要と認めてゐます。

  政党財閥に対する態度

 問 政党財閥に対する態度は
 答 フアツシヨ派の打倒政党、打倒財閥は要するに政権奪取の為に唱へてゐるに過ぎぬ、随つて政権さへ呉れるなら政党とも財閥とも妥協して行かう、つまり公武合体的の意図があります。
   国体原理派に於ては覇道機構即ち反国体原理機構の所産としての政党財閥に対しては之が徹底的反省解消を以て皇運扶翼即ち国体原理性皇道日本の建設に貢献する様要請するのです、而して覇道悪としての政党、財閥とは決して妥協はしません、一大家族体国家の本質に於て考へて御覧なさい、党派や財閥は存在すべからざるものではありませんか。

  フアツシヨは民主暴力革命の第一階梯か

 問 フアツシヨには下剋上の傾向がある、フアツシヨ政権の次は共産党独裁政権の出現だと云ふ人がありますがその点は何うですか。
 答 経済第一大衆動員方便本位ですから勢ひ下からの要求となり請願運動となり、下剋上的素質を帯びて来ます、一度公武合体的政権即ちケレンスキー政権を樹立すれば必ずその裡にひそむ民主的要求が活動を開始し此の政権を更に低次の民主的傾向に引きずり込む其処に所謂ボルシエビキ的政権が出現する、つまりロシヤ赤色革命の家庭を辿る可能性があるのです、ボル政権となればロシヤに見るが如く下剋上の極点にして又上剋下的独裁の極点を現はすことは御承知の通りです、国体原理派に於ては君臣即親子君民一体の一大家族体としての運動ですから下剋上もなく上剋下もあり得ないのです。

  対大衆工作の差異 

 問 国民大衆に対する両派の工作上の特長は如何、つまり我々国民をどう見てゐるかです。
 答 フアツシヨ派の人々は大衆の経済的不満、生活苦に乗じ之を煽動し各種の方法にて之を動員し以て政権獲得へと進軍します、つまり大衆国民は政権獲得の方便であり数字であると見てゐるのです。
   然し国体原理派に在りては大衆に対し
   陛下の赤子として皇民として尊皇絶対皇運扶翼を強調し現在の矛盾及生活苦は反国体原理性機構より来る所以を認識せしめ以て真の国体原理性一大家族体日本の建設により各々生活苦を脱し只管皇運扶翼に邁進すべきことを主張します。
   前者が大衆を方便とするに反し後者は飽く迄赤子として皇民としての動きを要望してゐます。

  改造団体の具体的分野は

 問 大体理解できました、では現在の改造団体の具体的分野は何うですか、どれがフアツシヨでどれが国体原理派ですか、左翼がフアツシヨで右翼が国体原理派ですか。
 答 右翼とか左翼とか、そんなことは真の変革過程に於ては全く問題になりません、内外の情勢が彌々切迫するに伴ひ強力政権を奪取して俺が俺等がの団体で変革をやつてのけやうなどゝ云ふ不心得な人達は勢ひ右翼であらうと左翼であらうと皆フアツシヨ派に固まります、つまり我が歴史上で言へば新田勢の如きが是れで、真に湊川の死戦の覚悟のない人、即ち威勢のよい方勝ちさうな方、権力のある方に付いてゐれば転んでも只にはならぬ、あはよくば何にでもありつけると、まあ斯う云つた人達がフアツシヨ派に入るのです。然しフアツシヨ新田勢の背後にはボルシエビキ足利が狼の如く待ち設けてゐることには新田勢は気がつかない、国体原理体得の不十分なる人程憐れむべきものはありません、その人達が憐れな丈ですめばいゝが此の皇国日本がボルシエビキ足利の兇逆で蹂躙されたることになつてはそれこそ大変です。フアツシヨ派は新田勢としてボルシエビキの足利勢の進軍への手引きとなり、露払ひの奴となるから十分国民は警戒してゐなくてはなりません。

  軍部にはフアツシヨ派はないか

 問 五・一五事件の海軍側の最高理論指導者と云はれる三上卓中尉は十月事件は陸軍の幕僚フアツシヨの妄動陰謀と云ふ意味のことを痛撃して国体の尊厳を説いたと聞いてゐますが、今の軍部内にはフアツシヨ派がまだ残つてはゐませんか。
 答 又軍部のことですか貴方はどうも軍部を気に病みますね。
 問 然し軍部と云ふ強力なる存在を背景として若し軍部内のフアツシヨ派と民間のフアツシヨ派とが強行突破をしたとしたら我国体は破壊せられ遂には足利の共産党が此の金甌無欠の日本を蹂躙するではありませんか。
 答 御尤もな御心配です然し前にも申した様に軍部それ自体は変革の主体たり得ない本質の上に置かれてゐます、故に若し仮に軍部内に所謂フアツシヨ分子があるとすればそれは必ず民間のフアツシヨ団体を傀儡となし或は前衛として策動してゐる筈です、要は国民の自覚如何にあります、国民が若し国体原理への眼を閉ぢてフアツシヨの吹きなす笛に躍つたとすれば其の時こそ貴方の心痛せらるゝ皇国日本の最大兇悪時機が来るえせう。
   然しはつきりすべき事は我々国民としてはお互ひに軍部を信ずべきではありませんか、将校も兵士も真つ黒になつて教練や航海に没頭滅脚してゐるあの軍部を信頼しやうではありませんか、若し我々国民に仮に知るべからざる処に一部不心得なるフアツシヨ分子がゐたとしても
   陛下の皇軍ではありませんか、将校皆がフアツシヨになる訳でもありますまい。
 問 然し我が歴史を見れば天下の軍隊が挙げて足利尊氏に味方したではありませんか百人中九十八人迄『両頭』人種です、筒井順慶です、故に自分自分等の利害関係から足利勢に味方しますよ。
 答 左様、その歴史こそ頼山陽が所謂『当時梟賊鴟張を擅にして七道風を望んで豺狼をたすく』と血を以て述べた処です。
 然し足利ありたるが故に、否足利に味方したる天下の軍勢ありたるが故にかの大楠公があるえはありませんか、そして
 明治陛下の御製『湊川懐古』に
  あだなみをふせぎし人はみなと川
  神となりてぞ世を守るらむ
 と仰せられてゐます、千歳の下極天皇基を護り奉つてゐるではありませんか。何よりも大切なのは貴方自身が大楠公湊川死の覚悟を持つことなのですぞ!!

  湊川死線の覚悟

 問 愚問を重ねました、恥かしくなりました……
   大楠公死線の覚悟のないものは敵でも味方でも御免を蒙むるとどなたかが云はれたさうですが……はつきり分りました、『両党を共に裁断すれば一劍天に倚りて寒し
 答 尊いことです、尊いことです

 〔図一枚〕 軍部及民間に於けるファツシヨ的動向

   

〔蔵書目録注〕

 本冊子は、『日本革新運動秘録』(昭和十三年八月)には、怪文書リストの「皇道派擁護的ノモノ」の中に次の記載がある。

 題名              月日        要旨
 國家革新運動に於ける二大潮流  昭和十年二月六日  國体原理派ヲ賞揚シフアツシヨ派を排擊セルモノ


『弁駁書』・『獄中手記』 磯部浅一 (1937.5-6)

2021年06月03日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

  

 極秘

  辯駁書

       陸軍衛戍刑務所にて 
           磯部浅一

          12年 五月 神田局消印     

 一. 北、西田兩氏の思想 〔下は、その最初の部分〕

 法務官が(新井法務官が七月十一日安田優君に云ったのです)「北、西田は二月事件に直接の関係はないのだが軍は既定の方針に從って兩人を殺してしまふのだ」と云ふことを申しました。
 
 二.北、西田兩氏の功績
 
 三.北、西田兩氏と青年將校との関係
 
 四.尊皇討奸事件(二、二六)と北、西田両氏の関係 〔下は、その一部〕
 
  (1)青年將校蹶起の動因

 青年將校は改造法案を實現する爲に蹶起したのでもなく眞崎内閣をつくるために立ったのでもありません。蹶起の眞精神は大権を犯し國体をみだる君側の重臣を討って大権を守り國体を守らんとしたのです

  (2)二月蹶起直前北、西田兩氏と青年將校

  (3)奉勅命令と北、西田氏の関係

 奉勅命令は下達されていません 絶対に下達されていません。
 私共は誰一人として奉勅命令の内容を知っておりません。
 
 五.大臣告示、戒嚴命令と北、西田氏
 
 六.結言
 
 附記 〔下は、その一部〕

  軍部が北、西田兩氏を死刑にする理由は實にわけのわからぬものです。
  北、西田が青年将校を煽動したと云ふのです。 煽動したのは北、西田でなく三月事件、十月事件であります。

 

 極秘

    獄中手記

       於東京衛戍刑務所 
          磯部浅一

       (12年) 六月二十一日附 三田局消印アル封書ニシテ秋田市○○家(宛名)匿名ニテ送リ  

 〔下は、その最初の部分及びその一部。〕

  朝夜の愛國者の方々御願ひ申上げます 

  維新の敵軍閥を倒して下さい 

  既成軍部は軍閥以外の何物でもありません 

  寺内も杉山も川島も荒木も其の他一切の軍人は

  悉く軍閥の家の徒です 

  どうぞ彼等を根こそぎに倒して眞の維新を実現さ

  して下さい 私は何處迄もやります


  一部の法務官は北西田の立場は最も同情すべき立場だと言つて少からぬ同情をさえしていたのです 然るに兩氏に死刑を求刑する様な事になつたのは軍の幕僚共が権力のかげにかくれてどさくさまぎれに殺してしまへと云って横車を押してゐるからです。或る法務官は私に北西田が事件に直接の関係のない事は明らかだが軍は既定の方針にしたがつて兩氏を殺すのだと云ふ意をもらしました

  私は此の数ヶ月北、西田両氏を初め、多くの同志の事を思って毎夜苦しんでゐます。北、西田の両氏さへ助かれば少しなりとも笑って死ねるのです。どうぞゝ頼みます。頼みます。一言付記しておきます事は眞崎を不起訴にする様に運動してゐる御連中がたくさんいる様ですが私は此れに対して非常に反感をもちます。

  吾々が国賊ならば当然に眞崎と川島と其の周囲の人は國賊である筈です。彼等が法の制裁を受けないならば吾人も当然に法の制裁を受けない筈です。

  陸軍の親玉から貰った命令に依って動作したのに命令を受けた人が殺されたり、全く命令や告示の圏外にあった人が死刑を求刑されるのです。此んなトンチンカンなベラボウな話はありません
     
    歎願

  謹シミテ
  ○○○○○(湯浅内大臣)閣下ニ歎願シ奉リマス

               北輝次郎
               西田税  両人は
  昭和十一年二月二十六日事件ニ関シテハ絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 然ルニ陸軍現首脳部ハ故意ノ曲解ヲ以テ両人ヲ死刑ニセントシテオリマス

                恐惶謹言 磯部浅一印

 一一、大臣告示に付いて。大臣告示の宮中に於て出来た時の状況は大体先般大澤先生の所へ出しておいた書物の中にある通りです、
 二た通りあるのですが「諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む」と云ふのが第一案です、所が奴等は色々にゴマカスために大臣告示は三つ出てゐると云ふことを云ひ出してゐるのです、用心々々、最後に申ますことは眞崎が不起訴になると北、西田のためには頗る不利です、川島が告發され起訴されたら両氏が無罪になるところまで事件が發展すると云ふことです、私は信じています、どうぞ両先生の事を頼みます、 

 

 昭和十一年二月二十六日事件
  烈士磯部浅一 獄中手記 行動記録並日記
       資料提供 平石光久
       日本国憂会 謹複製 佐々木陸友
          限定貮百貮拾六部
      皇紀貮千六百参拾貮年貮月貮拾六日

 〔蔵書目録注〕

 上の『辯駁書』・『獄中手記』、また文中の「大臣告示」等について、『日本革新運動秘錄』 (昭和十三年八月)に、次の記述がある。

   

 磯部淺一署名の獄中記頒布の問題であるが其の根本動因は昭和十一年十一月頃前後三回に亘り獄中にあった磯部が村中と通謀の上執筆した獄中記を面會に來た妻登美子に渡して外部に搬出せしめ岩田富美夫が之を寫眞版として一部に頒布する等の事があり其影響を憂慮せしむるものがあったけれ共當時憲兵隊當局に於て工作を施し紳士協約的に其全部を囘収したのである。所が其一部が四月二十八日「辯駁書」五月二十三日「尊皇討奸の檄」、六月二十一日「獄中手記」等々の怪文書となって現はれ夫々多數全国に頒布されたのであって其内容は何れも「裁判の暗黒を呪ひ北、西田の無罪を主張し軍上部を怨嗟する」ものである爲に警視廳憲兵隊協力の結果七月十九日一齊に檢擧されるに至った。關係者は岩田富美夫一派、赤澤良一一派、大森一聲一派等で目下其審理は續行中である。

 世間では叛亂部隊が色々の要求を提案した樣に傳へられて居るが蹶起趣意書以外には何等の要求はなかった唯蹶起の趣意を軍事參議官に對し上聞に達して呉れと云ふ要求があった、參議官でも色々相談の結果上聞に達し次の囘答をする事になった。
 一、 蹶起趣意書ハ上聞ニ達シタ
 二、 諸子ノ眞意ハ諒トスル
 三、 參議官一同ハ時局ノ収拾ニ付キ最善ノ努力ヲスル
 之を警備司令官を通じて蹶起部隊に囘答したのが其處に飛んでもない手違ひを生じてしまった。手違ひと云ふのは阿部が警備司令官の副官(柴有時大尉)?に今話した三點を電話で復唱させて話してやったのにどう考へたか警備司令部では「ガリ版」に刷って關係方面に配った處が第二の眞意は諒とすると云ふのを行動は諒とすると印刷してあったので當時陸海軍部内に非常なる問題となって參議官が蹶起部隊の行動を諒とするとは不都合千萬だと大騒ぎになったが阿部が當時の原稿を所持して居たので間違であった事が明瞭になり問題も落着した。
(印刷配布したと云ふのは次の樣なものである)
      陸軍大臣告示
 一、 蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ
 二、 諸子ノ行動ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム
 三、 國體ノ眞姿顯現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
 四、 各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
 五、 之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

 なお、上右の写真は、事件当時の新聞記者のメモで、裏には「嚴秘 情報四月十八日」と書かれている。


『“皇道隊”蹶起事件の全貌』 (1936)

2021年02月12日 | 二・二六事件 2 怪文書

“皇道隊”蹶起事件の全貌

 一. はしがき

 粛正選挙に於ける与党大捷、政局安定の夢を破つて、二月二十六日の早暁、一面白雪に清められた帝都は、突如“皇道隊”の蹶起によつて眞赤に彩られた、岡田首相を始め斉藤内府、渡辺教育総監、高橋藏相、牧野前内府、西園寺公等要路の大官、重臣が襲撃された未曾有の突発事件は九千万国民をして驚愕せしめたことは勿論である、輦轂の下、遂に戒厳令が公布され、蹶起した“皇道隊”は抗勅の汚名を冠されて、二月二十九日、騒擾の帝都は漸やく静穏に帰した、今回の不祥事件が如何に経済界へ大きな衝撃を與へたかは云ふまでもなく、全国の清●市場は一斉に臨時休業を発表し、帝都の経済機構は一時殆んど停止状態に陥つた。
 反乱部隊の大部分が帰順し、帝都の治安維持されて以来経済界は漸く落付を取戻し、懸念された対外的影響も対外為替及び公、社債等は一時低落を見たが何れも直に反撥を示した、然し乍ら戒厳令は未だ撤去された訳でもなく、且つ“皇道隊”蹶起の中心人物たる元陸軍將校の村中孝次-予備陸軍大尉ーを始め西田税-予備陸軍中尉(三月五日東京に於て逮捕さる)ー磯部淺一ー予備陸軍一等主計ー等は行方不明にして、戒厳司令部では捜査中である、從つて謂ゆる“皇道隊”蹶起事件は、全く片付いた訳ではない、茲にその全貌を記述することは未だその時機に至つてゐないとの譏りもあるが、兎に角出来得る限り資料を蒐集して、眞相を伝へ從来の不祥事件と異なる特異性を抽出することゝした、今回の“皇道隊”蹶起は勿論予想し得ざる突発事件ではなく、起り得べくして起つた事変であるが、この点は村中孝次の執筆せる“第一”及び“第二粛軍ニ関スル意見書”並びに田中清少佐手記の“三月事件”及び“十月、十一月事件”の記述を精読すれば、軍部内の動向も判然としまた今次事件の核心を摑み得るだらう。
 
 二.“皇道隊”蹶起の経過概要

 戒厳司令部当局談として、三月四日今次の事件経過の概要は既に発表された、“皇道隊”の兵力は近歩三、歩一、歩三、野重七、所沢飛機銃に届する將兵及び民間側―陸軍予備將校―の参加を合して約千五百名に達し、先づ警視庁、内務省、を襲撃占據し、次いで首相官邸、斉藤内大臣私邸、渡辺教育総監私邸、牧野前内大臣宿舎、鈴木侍從長官邸、高橋大藏大臣私邸等を襲撃した。斉藤内大臣、渡辺教育総監は即死し、高橋大蔵大臣は重傷後薨去、鈴木侍從長は重傷を負ふた、今戒厳司令部発表の経過槪要に少しく補充を加へ二十六日以後の暦日経過を記述することとする。
 
 二十六日午後三時 第一師営戦時警備下令され、甲府、佐倉、高崎の一部々隊に上京を命じたが、市内には二十六日中に入り得ず甲府は代々木に、佐倉は両国河岸に待機した、尚ほ水戸、宇都宮等の部隊にも上京を命ぜられた。 
 同   午後九時“皇道隊”幹部野中、安藤、栗原等と荒木大将会見、蹶起の趣旨及び希望を聴取。 
 二十七日     東京市の区域に戒厳令中一部の施行を命ぜられ、香椎中將戒厳司令官に補せらる。 
 同   午前八時 歩三連隊長渋谷大佐は戒厳司令施行後自決した。歩三の連隊旗は“皇道隊”の歩三將兵が奉持してゐた。 
 同   午前十一時半 上官同僚などの原隊復帰説得奏功し警視庁、内務省占據歩三將兵約五百名は完全に撤退、首相官邸に引揚ぐ、後正午警視庁再び占據さる。 
 同   午後四時 満井中佐、流血を見ず円満解決のため陸相官邸に於て“皇道隊”の要望条件に就き会見 
 同   夜 首相官邸占據の“皇道隊”部隊は丸ノ内ホテル、山王ホテル、幸樂に分宿した 
 二十八日午前十時 軍事参議官は秩父宮殿下に対し奉り殿下の名によつて、“皇道隊”の解散を命ぜられ度き旨要請、殿下は拒絶し給ふ。 
 同        加陽宮殿下は姫路より長距離電話を以つて“皇道隊”解散の意思を問合せ給ひ、“皇道隊”は解散の意なしと奉答
 同  正午“皇道隊”幹部と岡村少將及び橋本欽五郎大佐-三島重砲連隊長-等会談し畫食をとりつゝ妥協殆んど成立してゐたが具体的問題の討議に入つて遂に決裂し物別れとなつた=行動不明を伝へられてゐた“皇道隊”幹部は正午に至つて前夜来会談せること判明したわけである
 同        西大將、阿倍大將は軍事参議官会議後首相官邸に於て野中大尉、安藤大尉、栗原中尉等、“皇道隊”幹部と重要会議を行つたが“皇道隊”幹部等は両大將に対し原隊復帰の命令は軍事参議官としてか、それとも勅命か、陛下の勅命には絶体に服從し敢て御命令に背き奉るものでない、然し軍事参議官としての命令には服し難いと強硬に主張した。 
 同  午前二時 川島陸相は勅命を奉じて香椎戒厳司令官に伝達し、香椎司令官より第一師団長堀丈夫中將に奉勅の趣旨を伝へ更に歩兵第一聯隊長小藤大佐旨を奉じて、“皇道隊”千五百の將兵に勅命を伝へたー勅命は香椎司令官に対して“速に原隊に復帰せしめよ”と下つた趣、“皇道隊”に対して“原隊に復帰せよ”と勅命が下つたのではなかつた、と云はれてゐる。
 同  午後四時 衆議院新議事堂占據の“皇道隊”部隊は万歳を三唱して香田大尉引率の下に原隊へ復帰しつゝあつたが、途中再び引返して山王ホテル、首相官邸に立籠つた 
 同  午後六時 陸軍省は階行社に、内務省は芝警官講習所に、司法省は市ヶ谷刑務省に文部省は文理科大学に夫れゝ一時移轉、戒厳司令部では遂に強行處置を決定した模様。
 二十九日午前六時 勅命に抗した“皇道隊”は遂に反徒の汚名を冠され、戒厳司令部は永田町附近居住の市民に対し避難を命じた、尚ほ前夜来反乱部隊は追々帰順す。 
 同  正午 衆議院新議事堂を中心に警備隊は土嚢を築き機関銃を据へて待機中
 同  午後四時 反乱部隊は首相官邸を占據せる一部分を残して殆んど帰順す 
 同  午後六時 反乱部隊の中心人物野中大尉は首相官邸に於て自決し、帝都の治安は完全に平静に復した。

 斯くて反乱部隊の將兵は何れも原隊に復帰し、民間側参加の村中孝次、磯部浅一の両名は行方不明であるが山本予備少尉は自首し、渋川予備少尉及び西田予備中尉は逮捕されたので“皇道隊”蹶起事件は大体に於て終末を告げた訳である、尚ほ首相官邸で自決した野中大尉の略歴を示すと左の如くである。-村中磯部は二十九日に西田は三月五日何れも逮捕されたものである。
 
 ▲野中四郎大尉(三四才)岡山市下石井四二七の生れにして実父は元下関要塞司令官陸軍少將野中克明にして、その四男、親戚野中類四郎の養子となり、美保子夫人との間に子供三人がある。
  麻布歩兵第三聯隊第三中隊長、第三十六期の卒業にして大正十三年十月二十五日少尉任官、昭和八年八月一日大尉に進級

 三.“皇道隊”蹶起の趣旨

 抗勅の汚名を冠せられ、遂に反徒と見做るゝに至った“皇道隊”は当初国体原理に基く昭和維新を図して蹶起したものであった、ニ十六日午前十時頃東京各新聞通信社に手交して、全国の新聞通信社に通信を強要した蹶起趣意書によっても明かであるが、特に襲撃された重臣、大官に対しては大体左の如き理由によるものである。

   イ.岡田首相
   ロ.渡辺教育総監 
   ハ.高橋藏相
   二.鈴木侍從長及び牧野前内府
   ホ.“皇道隊”蹶起趣意書           
 
 四.“皇道隊”蹶起の特異性

  イ、途中に於て雄図空しく、抗勅の汚名を冠せられ反徒として扱はるゝに至ったが、趣意書に示された如く飽迄大義明分を瞭かにして蹶起したものであり、“五・一五事件”と趣を異にし、“三月事件”とは勿論雲泥の相違ある点
  ロ、ニ十八日岡村少將、橋本大佐と“皇道隊”幹部の会談に於て、具体的問題に入り遂に決裂したが、具体的問題の内容は
   1、私有財産制度の限定 2、疲弊困憊の農村匡救対策の確立 3、重要産業の国家経営 4、重大時局に䖏する強力内閣々員の理想的人物
 等あげられたものゝ如くである、農村匡救対策は別として、私有財産制度の限定、重要産業の国家経営問題等は、從來單に理論の範囲を出でなかったものが、今次の事件に於て遂に新経済国策として表面に押上げられたこと
  ハ、重大時局に処する理想的人物があげられ、経済機構の大改革を、実力行使によって実現を企図したことは、論理的に大権干犯の譏りを受けるかも知れず、重臣、大官等に対する大権干犯の糾弾も国家撞盖に陷る憂なきを得ないが、信念の上に於ては、国体原理に基く昭和維新断行にあったことの意義
 等が抽出される、從って、信念的蹶起の意義は軍人精神の発揚顯現とされ乍らも、これが皇軍の国民皆兵に対する思想的影響性を、反徒としての断罪上に、今後種々の問題を提起して居るのみならず、皇軍志気の上にもまた反映すべきを保し難い、また信念的蹶起の意義は次の事実と共に思考されるべきであらう。
 イ、“皇道隊”は麻布步三の九百名が中心となして居った、全員出動参加せし第六中隊はかつて、秩父宮殿下が御訓練になったものであること
 ロ、勅令が香椎戒厳司令官に下った後に於ても事態収拾に困憊せる軍首脳部は再度秩父宮殿下に対し奉り、“皇道隊”の鎮壓要請論が起った事情
 ハ、“皇道隊”の主張に宮殿下が共鳴された際には更に事態の紛糾拡大する虞ありとして、要請中止となった点
 ニ、奉勅の奏請に際して“皇道隊”に対する勅諭か、戒厳司令官に対する勅令か、には相当議論があったこと
 
 五.“皇道隊”に対する批判

 国体原理に基く昭和維新断行の大旗をかざして蹶起した“皇道隊”の雄図も、中途に於て抗勅の汚名を冠せられ、その最後は、あたら憂国の士も勅令によつて制定された東京軍法会議に於て、反徒として断罪さるゝ運命にある、一千五百の“皇道隊”将兵が身命を賭して実現を念願した昭和維新の断行は、余りにも貴重なる多くの犠牲のみ払つて、再び一回遷延するの已むなきに至つたことは、軍人たると一般人たるを問はず祖国“日本”を憂ふるものら斉しく痛恨するところである。
 去る三月三日以来東京憲兵隊本部によつて反乱將兵の調書作成が行はれて居る、調書作成の衝に当れる一憲兵は“神霊の御加護によつて彼等の言はんとするところを、せめて調書の上に、余すところなく尽さしめ度い”と洩らして居る、茲では“皇道隊”の蹶起に対する批判よりは寧ろ何故彼等の雄図が、昭和維新断行の大旗かざした国体原理に基く信念的行動蹶起であつたに拘らず、中途に於て反乱、逆臣の汚名を冠せられねばならなかつたか、に思ひを囲らして見ることが、より重要であらう。
 1.再度秩父宮殿下に対し奉り“皇道隊”の鎮撫を要請せんとし然も殿下の“皇道隊”に御共鳴遊ばされた場合の事態紛糾拡大を虞れて中止、強行処置に出でことゝ、軍首脳部のスタツフ
 2.戒厳司令官に勅命が下り、“皇道隊”に勅諭が下つたものでないことは既述した、從つて抗勅の罪は一等を減じられる、とは雖も、奉勅の奏請が勅諭であつた場合に想到するとき、二十八日の西、阿部両軍事参議官と“皇道隊”幹部との会見顛末に於て瞭かなる如く、一千五百の將兵をして反徒たらしめずに終つたであらうこと、斯る論理的追求は更に
 3.破壊行動後の建設工作に就て、上層部への信頼過重、皇道派の巨頭たる眞崎、荒木両軍事参議官の奉勅奏請を繞る積極工作と、下級將兵の信頼に答へ得ざりし不信
 4.客観的には皇道派巨頭の眞崎、荒木両大將の総退却、統制派、機関説信奉の側近者等を糾合包含した現狀維持願望の捷利、維新断行の遷延
 輦轂の下、四日間に亘つて襟宸を悩し奉つた“皇道隊”の蹶起は斯くて“五・一五事件”以来の犠牲に更に多くの加重を結果することゝなつた、にも拘らず、妖雲は依然として払拭さるゝに至らなかつた、奉勅奏請を繞つて、この事は明確に云ひ得るところである、帝都の治安は戒厳司令部の強硬処置によつて平静維持確保さるゝに至つたと香椎司令官は発表して居る、果して然るか?“昭和維新断行”は、“皇道隊”蹶起事件によつて一日を遷延されたと解し得るも“遷延”は断じて“解消”にあらざることを附言して結語とする。(終)

〔蔵書目録注〕これらの文中には、以下の文〔全文または一部〕も引用・所収されている。
 
 ・「渡辺教育総監に呈する公開状」〔『大眼目』第三号増刊からの引用〕
 ・「父兄各位へ」中隊長山口一太郎〔その二.精神的後援についてのみ〕〕

 「赤坂歩兵第一連隊第七中隊長山口一太郎大尉が本年の壮丁入営に際して父兄約六百名に述べた挨拶」(昭和十一年一月十日)で、「国体明徴に関して何等誠意のなき現内閣や皇軍を国民の怨荷たらしめようとする高橋蔵相の如き私は憎みても余りあるのであります。」などと述べられているもの。

 ・「“皇道隊”蹶起趣意書」〔全文〕


『粛軍問題の経緯』 3 (1935.10.17)

2021年01月27日 | 二・二六事件 2 怪文書

     

     永田中將殺害事件

 相澤中佐は粗暴純朴全く寡黙直情の男である、彼は十月事件頃から既に國家改造の実行者の一旗頭に推された人である事は前述の通りである、永田中將も最初は同様の思想の持主であった事は三月事件の際の起案者と目されて居る事に依って推察が出来る。
 此の永田中將が軍務局長となるや此の思想実行者として僅かに殘って居る村中、磯部一味を圧迫し之を處分したのであるから相澤中佐は之に対し非常なる不快を抱く様になった、それに勤務して居った聯隊が適當でなかった某上官であった、福山歩兵聯隊長樋口大佐は彼等の一幹部であっただけに、此問題に関し純眞なる相澤中佐に間接直接油を注いだ事は爭はれない事実である、それに例の怪人物西田税の家に宿泊して居る、尚ほ永田中將は  天皇機関説には頗る微温的であり政界巨頭と近接し某時期に陸相たらんことを計畫してゐるなどと言ふ噂も誤り傳へられた、是等の事情は悉く相澤中佐を憤激せしめたに相違ない、結局永田中將は昭和維新を計畫実施する彼等の為には恰も明治維新當時の井伊掃部守である、彼を排撃せざれば到底理想の実現は覺束なきのみならず却って一味は彼の為に破滅の運命に陷らしめらるゝならんと考へる様になった、是に於て一方の旗頭を以って任じ彼等青年將校の崇拝を受けて居った彼としては一身を犠牲にして彼等一党の危急を救ふべしとなし幸に腕に覺えのある剣道を信賴し彼を一刀の下に殺害し是非の理曲直を天下に公表し天下に其の判決を仰がんとすと言う様な浅薄であるが雄々しい決心覺悟の下に此の事件を断行したのではないかと想像される。
 されば彼は軍法会議に於いて恐らく過去の三月や十月事件を堂々と発表し永田中將等の主義一貫せざる態度を攻撃するの策に出て國士を以って天下を論じ社会の腐敗を述べ之に対する矯正論を呼ぶだらうと思ふ。
 此の如くして獲るものは何か、
 結局陸軍内部の暗鬪を天下に暴露すること昭和の今日恐る可き陰謀の存在を発表して世人を驚かし國民の陸軍に対する信望を失ふに至らしむるのみである、軽擧妄動も甚しい哉と言はざるを得ない、從って陸軍當局は相澤中佐の軍法会議の内容眞相を公然世間に発表したら三月十月事件の社会改造の恐るべき陸軍の策動も暴露する事になるし陸軍内部の不統制も隠す事が出来なくなる、嚇々たる歷史のある我陸軍の名を汚し國民に対しても外國に対しても全く赤恥を曝す事になる。
 一方之を隠蔽することになると國民は陸軍を伏魔殿の如く疑ひ今迄の信望は薄らぐ様になるのは當然の帰着だ、國民戰爭國家總動員などと軍民一致を高調する御膝元が後ろ暗い事があっては相済まぬ次第である。
陸軍當局は如何に此問題を善處するだらうか。

     怪文書

 眞崎將軍勇退後第一に現はれたものは村中、磯部両將校の名に依る『肅軍に関する意見書』である、その内容は三月事件十月事件を詳細に暴露し間接に陸相及永田局長を攻撃したものである。
 之は彼等一派が士官學校十一月事件で處分されたのを豫め計劃通り暴露戰法を採用し當局を困らしてやらうと言ふ復讐の手段に出たことに過ぎないが印刷配布前に眞崎將軍若しくは他の巨頭に意見を聽取し或は督勵を受けたものではないかと思考せられる、これは想像に過ぎないが此の文書は結局眞崎秦將軍の辨護になるからかく疑はれても仕方がないと思ふ。
 續いて現はれた異動に関する經緯の詳細の如きは何と辨解しても三長官会議に出席した誰かの口から洩れなければ出来ない、資料のみでゝっち上げてある、即ち三長官会議や軍事参議官会議の内容の記錄があって一々月日を追って具体的に詳細に記述されてある、而も其の大部は眞実であると言はれてゐる事に吾人は驚かされる、一般的に見て眞崎大將の主張の堂々として條理整然たるに反し林陸相は唖然として一言も答ふる事が出来なかったと言ふ様な一方的な記錄である。
 極秘の会議の内容中には人事の内規迄引張り出されてゐる、この内容は其の席に居った人でなければ到底知る事の出来ない事実である、從って鈍感の人間をも此の怪文書が何れから出たかと言ふ事が推量し得るに足るものである。
 永田中將死去の三日前彼と面会した友人の話によれば中將は極力怪文書の出所を明かにする為め努力中であると明言したそうである全く怪文書である、一体陸軍特に憲兵の強力整備せる捜査能力を以ってして其の出所を確め得ないのであるから洵に時代の大不思議である。
 其後怪文書は次から次へと発表され永田中將殺害事件などは『永田中將伏誅の真相』と言ふ様な逆臣平將門に使ふやうな不敬不謹慎の文句が使用される様になった、まさかこんなこと迄指導されたのではないだろうと思ふが怪文書の出所をつき止めたら面白い新聞種が山の様に出て来るだらうと思ふ、聞くところによれば憲兵隊の中には尚ほ眞崎殊に秦中將の残党が尠からず存在して居るそうだ、田代憲兵司令官が如何に公平無私でも出身が佐賀出身である、其所に言はず語らずの間に憲兵隊それ自身の此問題に対する捜査研究の意気込が一貫徹底して居ないのは當然であると説く者がある、或はこれが寄った実際の眞相でないかと思ふ、それでなければ其の眞相をつき止め得ない理屈がないと思ふ、それとも林陸相のお人好は之が嚴令する事を躊躇したのかも知れない、元来林將軍は眞崎將軍の為に首になる所を救はれたる恩人であるので大恩人を勇退せしめた事は既に林の精一杯の仕事であったらうからそれ以上彼に望のは無理かも知れない。
 かくして永田中將死去するや形式的師団長会議を開催し数日ならずして陸相は川島大將と交代してしまった、正に統制派の敗北と言ふ形である、飽く迄肅軍の後始末をし然る後に辞職すると新聞紙に発表した舌の根も乾かぬ裡に辞職した林將軍の態度に対しては邦家の為甚だ遺憾に堪へない次第である。

     所見

 渺たる我陸軍の内部に派閥や勢力抗争などの有り得べきものと想像されないが事実は絶えずこの抗争暗鬪を繰返されつゝあるは洵に痛恨の至りである。
 日露戰争頃迄は薩長の勢力は驚くべきものであって陸軍の要職は殆んど大部彼等の出身に依って占領されて居った、從って他藩出身の偉才が所を得ずして恨を呑んで退いた例も尠くない、併し一方考へて見ると維新の大業の立役者は何と言っても薩長の武士である、其の余勢が残って要職に澤山の將軍が蟠居して居ったのは自然の趨勢でなかったらうか、果然是等の老將軍が世を去るに及んで薩長の勢力は蠟燭の火の様に次第に減少して行った、然るに復讐心に燃ゆる被圧迫者は薩長の勢力の漸減するに反し江戸の讐を長崎で見事に取ってしまった、其目標となったのは罪も怨みもない陸軍大學校を目指す青年將校であった、登竜門である陸軍大學入校者に薩長特に長州出身の青年將校を約八年の長年月に亘り全く入校せしめなかったそれである。
 此長洲出身の青年將校に秀才なしと言へばそれ迄だが統計學上多数の初審合格者あるに拘らず再審試験に八年間も合格者なしと言ふ常識上あり得べからざる現象である、明かに大學教官の採點に於いて感情の入ったものと推察せられる、當時大學教官には一、二名しか長洲出身者を採用して居なかった事は益々此間の消息を裏書するものと信ずる。
 公平無私を誇る陸軍は特に試験の採點に於てこんなことがあるとは驚かざるを得ない。
 次いて上層階級の目ぼしい薩長出身の將軍を何のかのと理由をつけて首斬りしたのは勿論であった。
 續いて抬頭したのは宇垣閥であった、之に代ったのが荒木、眞崎閥である。
 それ許りではない、學閥がる、兵科閥がある、更に不快なのは一部動員で出征する兵団に対する羨望嫉妬から来る凱旋將軍の早期首である、凡百の事戰爭を以って基準とする陸軍であり乍ら人事と戰功は別途なりと公言して如何に戰功があっても普通の人事の順序通り整理する、果然近時渡満する上層階級の將校は帰ったら首だと覺悟して出征する様になった、戰爭に行くのは彈丸に命中して戰死するか然らざれば帰國後首の何れかである、こんな空気を醸成せしめたのは、若かき、勢力ある中央部の主として机上論者や実戰の味を知らぬ小才子天保組の醜悪なる専横に起因する。
 かくして現時陸軍は甚だ明朗性を缼く陸軍となってしまった、御勅諭の所謂上下相信倚し邦家に勤勞せよとの御主旨は次第に疎ぜられつゝある狀態である。川島陸相は大臣就任後國体明徴論には頗る力瘤を入れ力強く首相に迫る様である。それも勿論大いにやる可し、併し陸軍内部の肅軍は如何にする積か、外に當る為には先づ内を治めるのが當然の順序ではないだらうか。
 大動員大規模の外征か或は前科者の一網打盡の徹底的處分か、何れにせよ陸軍は多事多難である。吾人は刮目して近き將来の成行を監視しなければならない。
         (畢)


『粛軍問題の経緯』 2 (1935.10.17)

2021年01月27日 | 二・二六事件 2 怪文書

     

     荒木、眞崎將軍の人事横暴

 満洲事変勃発當時は南大將が陸相であったが間もなく若槻内閣瓦解と共に教育總監本部長であった荒木將軍が陸相となった、元来荒木將軍は昔から青年將校と會見し意見を聽いたり気焔を擧げたりすることが好きであったので常に青年將校の憧憬の的となって居った、第六師団長時代には盛んに皇軍意識を強調し皇軍の志気を鼓舞発揚するに努めた、之が時代の趨向に じ益々人気を集めた、敎育總監部本部長から陸相に栄転する頃は人気の嶺頂にあって青年將校國本社員 國家主義者等門前市をなす有樣であった。
 金谷参謀總長が十月辞職するや次長二宮中將も職を退き第五師団長に転任した、次長の後任には今迄比較的逆境にあった眞崎台湾軍司令官を持って来た。
 眞崎大將は宇垣大將及長閥には之迄非常なる圧迫を受け昭和六年八月の異動には第一師団長より將に首になる所を辛うじて武藤將軍等の援助により踏み止まった將軍であるので、宇垣閥薩長閥を極度に憎み其の復讐の念に燃えた人である、而して荒木大將とは元来親交あり、長閥征伐には共に大いに働いた間柄である、両將軍相結んで宇垣閥の排撃を開始したのは無理もないと思ふ、幸に人事局長杉浦中將は有名のお人好しで如何にでも動く人であるので彼等の人事は思ふ樣に運ぶことが出来た、陸相は三月、十月事件に関係ある將佐官を盡く地方に転職せしめた、之は懲戒の意味もあると同時に宇垣閥排撃にもなったので一石二鳥の巧妙なるやり方で必しも非難すべきものではないが之に代る顔觸れが適當でなかった。
 両將軍は所謂佐賀及土佐縣の者を以って盡く要職を固めてしまったのである。
 則ち佐賀出身の柳川中將が次官に秦中將が憲兵司令官、土佐の山岡少將が軍務局長小畑少將が参謀本部第一部長朝鮮軍参謀長警備司令部参謀長其他佐官級でも目ぼしい所は皆彼等一派の占位する所となった、殊に敎育總監部系統であって唯硬骨漢であると言ふだけで手腕も頭惱も全くない山岡少將を陸軍の最も重要なる軍務局長に抜擢した如きは萬人齋しく意外とした所で痛く識者を驚かした人事の乱脈はこれから始まったと謂はれてゐる。
 小畑少將は頭惱鋭敏であるが頗る才気に富み事毎に人事に嘴を入れた樣である。
 小畑も山岡も陸軍界にては有名な狭量冷淡な感情の持主であり憎愛の念の極めて強い性癖者であるので此の両者の意見が陸相に直接若くは眞崎將軍を通じて採用せらるゝ樣になったから人事は益々極端に偏頗に傾き怨嗟の聲次第に喧しくなり流石の將軍の盛名も次第に衰へる樣になって併し公然と不平を述べ革正を叫へは忽ち要所要所の同系の上官や同僚乃至下級の者のスパイ的密告により幾許もなく左遷され或は首になった例もあるので後には硬骨の意見を吐く者もなく数人会合しても先づ其顔振れを見廻して『スパイ』の存在の有無を確め然る後快談すると言ふ様な陰惨な空気が少くとも中央三大官衙内にて醸成されて居り今尚ほ此狀態が継續されつゝある事は事実である。
 尚ほ困った現象は十月事件に於いて分離独立した尉官の一党であっても荒木、眞崎、秦、柳川等の諸將軍と近接して居る中に自ら気脈相通ずることに成り遂に荒木、眞崎將軍等の當時絶対強力なる背影を賴み所謂虎の威をかる狐となり進退横暴を極め屡々上司の目に余る行動をやり始めたことであった、其の一、この実例を擧げればこんなことがある、戸山學校の有力なる某佐官は其の一派に属する一尉官が嚴禁しあるに拘らず屡々思想的會合の席に出場するので其の命を奉ぜざる故を以って之を處罰するや、却って敎育總監部から叱られ後當然異動すべき其の尉官が學校に残って其の佐官は遂に首になった、優秀なる經歷を有する大學卒業者である、例へ些少の品格上の缼點があったとしても決して首になる人ではない、彼等の後援する一党の一人を排撃せんとしたことが眞崎敎育總監等の御気嫌を損ねた事に起因するは明白である、某戰車聯隊の某佐官と彼等一派の一將校の行動に関し命に依り調査し師団長に之を報告すると此の大切な機密に属する人事が翌日には筒抜けに本人の所に連絡されて居った、其の師団長は錚々たる柳川將軍である事に注意せば其の間の消息は自ら洞察するに難くはないと思ふ。
 即ち彼等一派に対しては直属上官の威力も及ばないと言ふ統率上有り得べからざる現象さへも所に依っては生ずる樣になって来た、
 之が昭和九年正月荒木將軍が林大將に陸相を讓る前後の内情であった。

     林將軍陸相就任より永田事件迄の曲折

 昭和九年正月、荒木大將は病気の故をもって陸相を教育總監たりし林大將に譲り敎育總監は軍事参議官たりし眞崎將軍が後任となった、荒木大將は陸相就任當時の聲明は実に嘖々として一世を蓋ふと言ふ有様であったが大臣としての出来榮は余り芳しい方ではなかった。
 満洲事変の波に乗って軍部の希望は殆んど大部容れられたが余りに多辨であり余りに多方面に頭を突込み過ぎた傾きがある。
 軍部以外の農村問題に対しては玄人を向ふに廻して淺薄な意見を発表し有識者の物笑を招いた。
 政治家実業家政党は殺伐たる暗殺事件の頻発並に彼のファシスト的態度に依り直接の圧迫迫威を受けた、自然の結果として口には出さないが痛く軍部に反感を持ち同時に其の首領である陸相を怨む様になった。
 口には皇軍の意識を宣傳し忠君愛國を高唱する彼の子息は皮肉にも社會主義者である事があった、幾多の人士は最早彼の能辨美辞に耳を傾けない様になった、非常なる多額に上る軍事機密費の用途に氷解し難い箇所ある事を傳へ聞いた、幾多の識者に寧ろ彼を排撃する者さへ生ずる様になった、殊に陸軍内部に対しては極端なる人事の不統制に依って全く其の信望を失してしまった、元来將軍は人事に関しては頗る恬淡公平の人であったが老獪偏狭の眞崎大將やそれに更に輪をかけた様な山岡、小畑等の意見を重用したのが最大の過失であった、此の如くして彼は病気でなくとも當然陸相の位置は保ち得なかったと見るのが至當であらうと思ふ、當時荒木大將は陸相の位置を眞崎大將に譲りたかったのは事実である。
 眞崎第一林第二の候補の順序であった、然し眞崎の人望は其時既に半を失って居った。
 當時次官たりし柳川中將其他が百方劃策した眞崎陸相の運動も遂に色々の事情に依り成功せず林大將が陸相となったのである、之は全く天意に伏せるものと見る外はない。
 林陸相は実に陸軍は勿論國民全部の信望を集めて就任した。
 其信望を集めた所以の最大は何と言っても肅軍に関する期待があった、林陸相自身も肅軍に全幅の努力を傾注すべく覺悟したと信ぜらるゝ、扨て陸相は肅軍を如何取扱ったかと言ふと陸相は肅軍に漸進主義を採用し以って極端なる反動の惹起を避くるに懸念した様である、先づ永田少將を軍務局長に次官を橋本中將に転入せしめた、併し遂に其の代償の意味かどうかは知れないが二宮將軍が首になり柳川中將は第一師団長に問題の秦憲兵司令官は第二師団長と言ふ頗る不快な異動を余儀なくさせられた、陸相就任當時尚ほ眞崎、荒木の力が偉大であると言ふ事を物語るに十分な好例である。
 次いで昭和十年三月今井中將を人事局長にし杉浦中將を歩兵學校長に榮転せしめた、前述の如く林大將陸相就任以来定期異動は三囘もあったのに肅軍の為の人事異動は全く微温的であり不徹底であるので林陸相も漸く世人から期待せられない様になり平凡お人好の彼最早賴むに足らぬと言ふ小聲が到る處識者の間に起る様になったのは當然である。
 林陸相は此聲を屡々耳にしたるは明瞭である、又白上事件で陸相の辞職を陽に奬めて陰に眞崎が其後をねっらって居った眞相は承知する様になった。
 是等の事情は八月異動では少くとも彼等巨頭の目ぼしき一二名は尠くとも何とか處置しなければならぬ、殊に眞崎大將は何と言っても總監を退職せしめねばならぬと言ふやうな心境になって来た、少くとも四囲の環境は之を陸相に強要した。
 當時永田局長は徹底的に人事の刷新を行った彼等一味を一掃する如く計劃したけれ共御人好の將軍は之を断行するを得ず半殺しの人事をやったので遂に永田中將事件の様な大事を惹起する結果とも成ったのは遺憾である。
 併し本年八月異動には恩人である眞崎大將をして總監の位置を退かしめ秦第二師団長を退職せしめた事は彼としては思ひ切った人事と言ふべきであらう。
 以下之が曲折を述べて見よう。
 大臣は意を決して七月十二日の三長官会議に於いて眞崎大將及秦第二師団長の勇退の件を切り出した、之に対し眞崎大將は先づ秦師団長の退職の件に関し異議を申出たと言ふことである。
 陸相は秦中將の政治的運動を指摘し眞崎將軍は小磯、建川、永田の行動を擧げて之を反駁して双方譲らず遂に決定せずして解散したが、更に七月十五日の會議に於て愈々両者は勇退することになった。
 此間眞崎に好感を持ってゐる軍事参議官荒木、菱刈大將などの骨折りで軍事参議官会議を菱刈大將邸に催し眞崎將軍の進退に干し眞崎援助の意見を一致せしめた、併しこんな策動も陸相の決意殊に總長宮殿下の御意見なりと大勢抗し難く遂に老獪極まる眞崎もその位置を退き其代りに林陸相と同期であり肝膽照す渡辺大將を以て敎育總監に任ぜしむる事になった、蓋し林陸相としては渡辺大將と相談して將来大いに肅軍をやる積りであったらうと思はれる、此間の消息は怪文書に詳細である、唯怪文書には眞崎の非を削除し却って眞崎の答辨の條理一貫せる如く記述し陸相の之に対する反言はシドロモドロとなって居る、之が怪文書の怪文書たる所以で、林陸相非難攻撃の目的で書かれたものである、事は推察し難くない。  (『軍閥重臣閥の大逆不逞』といふ怪文書を指す 編者)

     昭和九年十一月士官學校事件

 昭和九年初、議会開催に先立ち民間に再び五・一五事件の様な企圖があると噂され議員を戰慄せしめた事がある、こんな噂を外出した士官學校生徒が先輩青年將校の宅に遊びに行って之を耳にし驚いて區隊長に報告した事が発端となって遂に此事件が軍法会議に審議せらるゝ事になった、之を十一月事件と称して居る。
 内容は荒木眞崎將軍を仰ぐ一党が抱懐しある國家改造の主張が洩れた事であって其の實現は兎も角之を其機会に生徒に話した事は事実らしい、敎育總監、憲兵隊は軽視して居ったが陸軍省殊に永田局長は之を重視し、徹底的に調査し此の機会に此種思想や策動を根底より清掃せんと企てた所が関係將校の村中、磯部主計等は何ら語りたる事なしと主張し生徒は耳にしたと述べ水掛論となったが軍法会議の判決は是等將校を處分してしまった、この事件は相當彼等一派の反感を起さしめたらしい、此問題の起った時村中大尉一味の某中尉に面会した時の談話に依れば軍法会議の取調に於て如何に調べられても證據がないから處分することが出来ないだらう、若し萬一せらるゝ様なことがあれば三月事件や十月事件其他今迄隠蔽された事件の内容を発表し過去に於いてより以上の問題を起し何等の處分を受けざる者が澤山あるのに何故今囘に限りかゝる小問題の為仰々しく軍法会議開催し吾等を處分するか其の意を解するに苦しむと言ふ様な暴露戰法を採る、これは最も當局の痛い所であるから恐らく村中大尉一味は處分されまいと語り極力永田軍務局長の處断に対し反抗の意思を表はして居った。
 永田局長としては恐らく此問題を捕へて彼等一味を懲戒し一掃し様と計劃したのではないかと思はれる。


『粛軍問題の経緯』 1 (1935.10.17)

2021年01月26日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

 統制派ノ文書 “肅軍問題の經緯”

 統制派の文書『肅軍問題の經緯』

   本篇輯錄に就いて一言

  村中大尉の『肅軍に関する意見書』は一世を驚倒させたが就中故永田中將を總帥とする統制派をはじめ所謂本部派と目される軍中央部加ふるに建川、小磯派の愕きは想像の外にある。殊に間もなく発生した永田中將事件、川島新陸相の登場等は、所謂本部派としても緘黙しないだらうと豫期してゐたが、突然十月十七日前後本篇が極少部数軍関係へ配布された。本篇は村中大尉の意見書と背馳するものであることはもとより言を俟たぬ。両者を味讀することは國軍動向の眞諦を獲るには好個のものと思料するので、敢て本篇をも輯錄することゝした。

     肅軍問題の經緯

         序文

近時我陸軍は内部の統制大いに紊乱派閥抗争に寧日なく人事は適確を缼き思想は動搖しつゝあり。その暗闘抗争の赴く所遂に陸軍始つて以来の不祥事件たる永田中將殺害事件を惹起するに至りたりしとなし、陸軍内部の非常時を高唱するものがある。併し一般世人の見る如く陸軍内部一般の統制は決して紊れて居るとは思はれない。
 此の陰鬱不快の現象は実は單に陸軍上層部及びこれに直接関係しある地方勤務將校の一小範囲に局限せられたことであって、之に関係なき一般多数の將校は依然として一糸紊れざる軍紀軍律のもとに各自の勤務に格別精勵してゐると見るのが至當であらう、永田中將事件勃発後急遽軍司令官師団長會議の召集された大部の軍司令官師団長は肅軍に関する陸相の仰々しい御訓示を御土産に頂戴して寧ろ不思議の感に打たれたらうと思はれる位である。
 さは言へ翻って考へて見ると此問題に関係しある將校は陸軍最上層の名譽ある將軍を含む陸軍中層級の有為優秀の佐官並に活躍雄飛の泉源たる年壯尉官であるので其の数は極めて僅少であるけれども其の影響する所相當甚大なるものがある、又年少気鋭の所謂西田税の主義を崇拝する彼等一派の思想は極めて過激であって其の主義の貫徹の為には上官の命令に反抗するも恬として顧みず寧ろ高所から見て忠節を盡す所以でありと言ふ様な信念を以て行動するので此思想が一般將校に傳染したら軍の統率や軍紀の確立とは當然成立しないことになるから見方によっては決して軽視等閑視すべき問題ではない事は勿論である、以下少くとも此問題を系統的に年月を追って順序に記述して見ようと思ふ

     昭和六年三月事件

 満洲事變直前即ち昭和五六年頃の我國の情勢は実に消極的沈滯の時代であった即ち外部に対しては所謂幣原外交の方針に基き極端なる消極平和主義が採用され内部に対しては隨所不況の影響を受け國民は緊縮萎縮の生活を強要されて事業衰へ失業者續出と言ふ有樣であった、之が爲各方面に非難不平の聲が起ったが就中気概ある志士先達をして慷慨悲憤措く能はざらしめた事は日本外交の軟弱を見縫った隣國支那の排日抗日の態度であって日露戰争の結果獲得したる満洲の利権迄も将に張學良一派の爲に奪取せられんとしつゝあったこと、政党財閥が腐敗の極私利私慾の為には國を賣っても恬として恥ぢざる破廉恥行為の頻出であった。
 昭和七年三月事件は此の情勢に憤慨し我帝國を危機より救はんとする軍部一部愛國の志士が赤誠の余り現内閣を倒し政党財閥を清掃せんとした一計劃である。この計劃案は當時陸軍省課長たりし故永田中將が上長の命を受け作案したる試案だと言はれてゐるが其の真偽明かでない。兎に角此案実施の為には軍隊の一部も参劃出勤し民間の有志も加はる事になって居って、相當大袈裟なものであった、軍部では宇垣大將を筆頭に二宮、小磯、建川將軍は勿論陸軍大學出身の佐官級よりなる有力者をもって組織された所謂櫻會の會員の大部分は關係して居る事になって居た。
 併し何と言っても此案は非常なる過激性を帶び帝都の安寧秩序を一時的にもせよ紊乱する虞れ頗る大なる計劃であるので單に試案たるに止まり実現するに至らなかった。
 こんな思想は誠に極端な思想であり危険な計劃であったが極端なる消極退嬰の時勢を挽囘改革する為には矢張り當然起るべき反映であり趨勢であったのではないかと思はせられる、何となれば此計劃は実現されなかったが爾後これが動機の様左形となって昭和六年十月事件昭和七年五・一五事件民間では昭和七年一月血盟団事件昭和八年七月神兵隊事件等々が次から次へと恰も雨後の筍の様に頻出したのはこれを裏書するに足りると思ふ。
 幸に何れも計劃が未然に発見せられ或は実現されても半途にして中折されて居るので大事に至らなかった、之が計劃通り実現され帝都に戒嚴令でも布かれる樣な事があったら恰も佛国の革命當時の恐怖時代の樣な現象を呈したかも知れないと思はれる、併し一方こんな思想が外に溢れて満洲事変の樣な世界を驚かす大事件を惹起せしむる間接の原因をなしたかも知れないと想像せられる。

     昭和六年十月事件

 三月事件は一理想案として作案され同志との間に発表せられたものに過ぎなかった、血の気の多い少壯將校は如何にしても之を其儘軽視して放置することを得ずとなし橋本中佐等が巨頭となり密かに同志を糾合して種々具体的案を計畫し時期の到れるを窺ふことになった、之が十月事件の始めである。
 此の計劃は具体的のものであって其の実施に當っては近衞第一師団より武装せる軍隊が出勤するのみならず立川所澤等より飛行機迄飛来し爆撃を実施し強力を以って内閣を倒し、 大將を總理に推すことになって居った、勿論財界の巨頭や政界の注意人物は襲撃の的になって居った。
 幸に將に実施せんとする直前國家を思ふ先輩や同僚の密告若しくは憲兵自身の偵知に依り其の巨魁たる数名の將校は憲兵司令部に留置されたので大事に至らずに事件は事済みとなり當局の配慮に依り新聞にも其の眞相は記載されなかったので此の事件は天下白日の下に暴露することなく暗から暗に葬らるゝ事になったが実に危機一髪の時に克く甘く始末をつけ得たと思ふ、此の事件には後には大問題を起した相澤中佐も関係して居る、同中佐は當時東北師団の大隊長であったが軍隊の一部を指揮し何れかに行動することになって居った一人である、併し三月事件に名の出た將軍連は一人も関係せず寧ろ極力鎮定の立場にあった事は注目すべきものとして、三月事件の案は單なる計劃案に過ぎなかった事を推量する一の材料となると思ふ。
 此の事件には士官学校第四十三期附近の最年少の少尉連中も可なり参加することになって居ったが此の事件の憲兵隊に報告せらるゝに先立ち彼等は其の巨魁たる橋本中佐以下のが屡々待合に出入豪遊し眞面目ならざる態度に憤慨し共に大事をなすに足らずとなし此の盟団と分離して別に行動を取り邦家の為昭和維新を目指して精進することになった、此の連中が後に問題を起す村中、磯部、栗原一派であって彼等は好んで荒木、眞崎、柳川、秦將軍等を歷訪し将軍も喜んで 見し互に意見を吐露開陳して居るので彼等は以上の將軍を崇拝し將軍等も亦彼等に非常なる強力の後援をなす事になった。
 後に荒木、眞崎派と称するのは西田税の唱ふる主義と同一であって、現時の腐敗せる財閥政党を打破し内閣を彼等の理想とする強力内閣とする為には強力を以っても之を遂行せんとする徒輩であるので、其の危険過激の思想なる事は前者と何等変りはない、而も屡々前記將軍を歷訪し其意見に從ひ其後援を受けありし関係より推測せば荒木、眞崎將軍も亦彼等と大同小異の思想を抱懐し居った事は略洞察するに難くない事である。
 此の事件に某実業家が多額の軍資金を供給したる形勢歷然たるものあるは甚だ不快なる現象である、之が為彼等が維新の志士を気取り待合に於て大事を相談するが如き行為は寧ろ稚気愛すべきも笑止の至りであると謂ふべきである。

     昭和七年五・一五事件

 昭和七年は満洲事変勃発の翌年であり國際聯盟脱退の年である、國民は長年の平和消極生活から目醒めて世界の檜舞台に雄飛せんとする希望に燃えて居った時であるので鬱勃たる現政に対する慷慨は血なまぐさい形となって現はれた、則ち民間に於ては一月末、日召を巨魁とする血盟団事件があって財界の巨星である井上準之助、團琢磨の両氏の暗殺となり軍部に於ては所謂五・一五事件と成って海軍青年將校及陸軍士官候補生の数名に依って遂に犬養首相は殺害されてしまったのである、此の事件は時勢も時勢であったが三月十日事件等によってこんな思想が俄然醸成されて居った所に血盟団事件に依り更に刺戟され上層將校実行力なしと見て決然此擧に出たのではないかと思考せらるゝが純情至誠の奔る所とは言へ軽擧妄動の謗りは免れない。
當局及國民は之に多大の同情を與へたことは無理なく死刑にはならずにすんだが彼等が自発的に従容死を選んだら後世どれだけ世に益したかは知れないと思ふ。
 前の十月事件では金谷参謀総長が罷めて閑院宮殿下御親補されたが五・一五事件では荒木陸相は其儘であって教育總監武藤大將が責を負って林大將は其職を譲り二宮學校々長は交代した。


(怪文書集)「本篇編纂ニ就テ」 (1936.3)

2021年01月25日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

絶対門外不出

 本篇編纂ニ就テ
 “ 肅軍ニ関スル意見書  ”    村中大尉、磯部主計
 第二 “ 肅軍ニ関スル意見書  ”    村中大尉
 “ 肅軍問題ノ經緯  ”         統制派ノ文書
 軍閥、重臣閥ノ大逆不逞

 本篇編纂ニ就テ

 一、昭和維新の春の空
     正義に結ぶ丈夫が
   胸裡百万兵足りて
     散るや万朶の櫻花
 二、功名何ぞ夢の跡
     消へざるものは唯誠
   また世の意気に感じては
     成否を誰かあげつらん

昭和十一年二月ニ十六日、暁の夢を破って聞かれた昭和維新断行の歌は “ 尊皇討奸隊 ” 一千五百の將兵によって高唱された国体顕現への蹶起の叫びであった、輦轂の下、遂に戒厳令が施行され、 “ 尊皇討奸隊 ” の蹶起もその雄図空しく、中途に於て抗勅の汚名を冠せられ、戒厳司令官の強硬處置によって事態は漸やく平静に帰するを得た、斯くて未曽有の不祥事変後に於ける重大時局収拾の大任を負って組閣した広田内閣は政治、経済、社会の全面的国策刷新の決意を示した政綱、政策を発表し、今やこれが実現に向って邁進しつ〃ある、即ち “ 尊皇討奸隊 ” の蹶起を楔機として、政治、経済機構、社会政策等には今後逐次改革刷新が行はるヽ、とは瞭であり、その推進力は、広田内閣成立の経緯に徴しても判然たる如く、軍部に原動力があることは云ふまでもない、從って皇軍内動向の眞諦を掴むことなくしては、現下の重大時局に対する認識及び今後に対する見透しも不可能であらう、のみならず未曽有の不祥事変たる “ 尊皇討奸隊 ” の蹶起を理解し、その眞相を把握することは勿論困難である、本篇の編纂は云ふまでもなく、そのための最も貴重な資料であることを信ずる。
肅軍に関する意見書  ”は非常時皇軍振 のさなかに発表されたもので、その大膽な筆調は挙世愕然たらしめ、然も軍部内を完膚なきまでに解剖せる最も貴重な文献である、頒布僅少にして入手困難なため一部五十円と評価され、事実それ以上の価格で売買されてゐたが、現在では数百金を投ずるも尚入手殆んど不可能な有様である。
“ 肅軍の経緯  ”は“ 肅軍に関する意見書  ”及び “ 第二肅軍に関する意見書  ”の対立的関係の側からの反駁的な文書で、軍部内の極一部にのみ頒布されたものである。
皇軍内の党同異閥に関する文書は、右三篇の外十数種も見受けられるが、それ等は極めて一方的で、然も軍に嬌激であると云ふに過ぎない。尤も昭和十年十月末刊行された山科敏著 “ 皇軍一体論  ”等があり、即時発禁となったが、本篇からは省畧することゝした、その代り、永田中將遭難当時陸軍省発表にかヽる相澤中佐の “ 巷説妄信に基く行為  ”云々の謂ゆる “ 巷説 ”とは、昭和十年七月ニ十五日頒布された、“ 軍閥、重臣閥の大逆不逞 ”の文書を意味するものだと云はれてゐるので、本篇中に輯採した。
尚ほ一言附け加へて置かねばならぬことは、 “ 肅軍に関する意見書  ” の執筆者村中孝次大尉及磯部浅一一等主計は、この故を以って昭和十年八月剥官されたのみならず、十一月位階返上を命ぜられたものである、然も今次の “ 尊皇討奸隊  ”蹶起事件に於ても重要な役割を演じて居る、更に同文書中附錄第五 “ 所謂十月事件に関する手記  ”の執筆者✕✕少佐とは、前陸軍省調査員現歩兵第三十九聯隊附田中少佐と云はれて居る、また “ 肅軍の経緯  ”は現中央部幕僚と取沙汰され、執筆者の氏名は詳かにするを得ない。
昨年十月上旬謂ゆる統制派より行動派(荒木、眞崎系)に対し、 “ 対外問題  ”に就ての協議が申込まれ、之は取も直さず統制派対行動派の妥協工作の前提として尠からず注目されたが、其後何等の変化ある事態の展開を見られず、遂に今次 “ 尊皇討奸隊  ”の蹶起事件となった、昨年七月十六日眞崎教育総監の後退を楔機に、総退場を予想された皇道派は、統制派総帥永田中將の遭難により林大將の陸相辞任、川島大將の登場によって情勢は急転し、皇道派は再進出を見つゝ今次の事変では、眞崎、荒木の予備役編入となって皇道派巨頭総退却の急転回を余儀なくされた、尤も統制派としても阿部、林も同様現役を退き巨頭たる南大將の予備役編入となった。陸相寺内大將を始め現役大將として残ってゐる西教育総監、植田関東軍司令官は統制派の系統ー本庄侍從武官長は皇道派系統ーを引くものであるが、 “ 尊皇討奸隊 ”蹶起事変、広田内閣の組閣経緯等によって著しく一体化しつゝあることが観取される、然も国策刷新の上に現はれつゝある一体化はまた既に発表された政綱政策の具体的内容にも及ぼすものであるが、今後の動向はそれだけに最も注目すべきものがある。
之れを要するに現下の情勢は文字通りの重大時局にあり、此の際国家の消長に心を致す同憂の士に、時局認識の資料として頒たんと思ひ、茲に本篇を編纂復製した。

  昭和十一年三月


『皇軍本然の任務に就て』 中堅青年將校團 (1933.8)

2021年01月23日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

厳秘(日本將校の外閲覧を禁ず) 

   精神教育資料 
    皇軍本然の任務に就て    

         目次
   緒言
 一、日本軍人軍隊の任務使命
 二、軍人が任務達成の爲平素為すべき事項
 三、武力を行使すべき場合
 四、誰の命により武力を行使すべきか
 五、軍人の任務達成は總て攻撃手段によるを要す
 六、軍人の任務達成史批判
  イ、天皇皇室の御生命皇位大權の守護史批判
  ロ、國民防衞史批判
  ハ、國土國權の防護史批判
  ニ、世界皇化の神聖使命達成史批判
 七、現在の日本軍人は如何にして其本然の任務を果たすべきか  
  結論

   本資料は皇軍中堅將校の作業を蒐錄したるものにして、其内容多少推敲の餘地あるも、服務上参考とすべき點多大なりと認め之れを印刷に附し汎く頒布せしものなり。
      昭和八年八月

         緒言

 實行なき『忠節』は觀念の遊戯に過ぎず、名分なき『行動』は狂者の弄刄に等し。
 皇國三千年、軍人武士雲の如く輩出せしと雖、眞に軍人の任務使命を自覺し、行動と名分と伴ひしものは寥寥暁天の星の如く、皇室の藩屏、天皇の軍隊を以て自ら任じ、世々天皇の統率を受けし我皇軍も其使命を完全に果したるは、僅に神武建国の始、明治維新當時及其後の数十年間に過ぎずして、國史の大部分は単に權力者の私兵走狗たらずんば不逞大逆の徒として存在するのみにして、天皇の御生命も皇位大權も國民の安寧幸福も何等之を守護することなく、殊に況んや皇軍の神聖使命たる世界皇化の聖業翼賛の如きは完全に忘却し去られ、隧に夢想だも及ばざるに至り華かなる者は單に闘牛として登場し、然らざるものは禄を食み位を得るに汲々とし、只サラリーマンとして存在するに過ぎざりき、今や不逞大逆の徒は巷に滿ち厳重なる護衞を以てすら玉体を窺ふ者踵を接し一天万乗の大君は未曾有の危険に曝され給ひ、皇位大權の危機愈逼るも、軍人は只戦争の任に当るを以て全任務と誤認し天皇の御尊体皇位大權の守護は単に一部の警衛者警官等のみの任務責任なりとし、天皇を危険に曝し上りつゝ平然としてた戰鬪技術の練磨にのみ沒頭しつつあり、
 噫、上御一人すら守護し得ず、天皇を未曾有の危険に曝し上りて顧みざるが如くんば、幾百万の皇軍存在の意義果して何処にかあらん。
 是れ戰争方法の研究に急して、任務使命の研究を怠り武力行使法の教育に沒頭して之を行使すべき場合を明確に敎へざりし結果たらずんばあらず。
 抑任務使命の研究及教育は總ての研究、教育の先決問題にして、任務不明瞭にして之が遂行を誤らざらんとするは不可能なり、須く先づ千古不磨の皇軍任務を研究確立して之を現在に果すの道を明示せざるべからず。
 本然の任務使命を解せず、之を現代に果すの道を知らざる軍人武士は山田の案山子、門前の仁王のみ、安んぞ眞個の武人皇軍と云ふべけんや。
 宜しく崇高偉大なる皇國軍人の任務に眼醒むると共に眼前に山積せる未遂行の任務達成に蹶然猛進せざるべからず。

      一、日本軍人軍隊の任務使命

 『天壌無窮の皇軍を扶翼し世界に冠絶せる崇高偉大なる国體を擁護し、大業を恢弘し万民を安らかにす』是れ日本軍人軍隊の崇高偉大なる神聖使命なり、具体的に之を述ぶれば國家は天皇國民國土より成り、特殊國家たる日本は天皇即ち國民國土にして天皇を離れて日本國の存在なし、故に天皇守護は國家守護の最大任務なり。
 以下次を別けて述べん。
  一、天皇御生命又皇位大權の守護。
  二、國民の守護。
  三、國土國體の守護。
  四、人類救濟世界皇化の聖業翼賛。
 以上は最小限を示す、進んで天皇の御生命を安らけくし奉り、皇位益々搖ぎなく、大權益々伸張せられ、國内國外に益々皇威伸張、擴大せられ、國民の安寧幸福伸張し、國土國體益々海外に伸張し、皇道を世界に宣布し、世界人類を救濟するの大聖業を果さざるべからず。
 抑々我君臣の分は大地開闢以来、嚴として定まる所、神の國日本は万世一系の皇統と共に永遠に亡ふべからざるものにして、道徳を本として發達せる精神的文化たる皇道は、惱める世界人類を救濟すべき最高無二のものなり、この崇高なる國體を擁護し、文化を永遠に發達せしめて、大宏に布施するは國軍の崇高偉大なる使命なり。
 以上は日本國民全部の任務使命なれ共、軍人軍隊は專門的にこれに專任し、全責任を負ひ、殊に武力に訴ふるも、飽くまでこれを果すべく徹底せるを異なりとす。

      二、任務達成の爲平素爲すべき事項

一、軍人軍隊に其本然の任務使命又武力を行使すべき場合を明かに理解納得せしむ。
二、任務達成に充分なる精鋭軍隊の練成(精神的又物質的)。
三、天祖の理想達成を翼賛し國家を保護するに必要なる軍備を備へしむ。
四、國民全般の保護、皇威發揚的能力を充實せしむ、卽ち國民に大和民族の使命を自覺せしめ、任務を明かにして進むべき目標を示し、尊皇愛國心を熾烈ならしめ、精神及肉體力の強健を增進し富國強兵の基を築かしむ。
五、軍人任務使命を國民全般に充實理解納得せしむ。
  説明
一、古今東西の軍人軍隊皆其任務抽象不明確にして、具體的ならざるが爲、凡人の頭に明確に刻まれず、爲に世々天皇の統帥し給ひし皇軍も、何時しか權力者の走狗、或は上級軍人の私兵となり、三千年の大部は非皇軍として存在するに至れり、明治以後『皇威を發揚し國家を保護す』等の抽象的任務を附せられしと雖、尚甚だ不充分なり、任務を的確に理解せしむるは、敎育の先決問題にして、之を完全に理解せしめたる後、始めて學術の敎育卽ち戰爭の方法を敎へざるべからず。
二、從來此の事のみを以て軍人の任務と解せるもの多し。
三、軍に與へられたる兵力を以て、戰爭に從事し敗るると否とは我の關する所に非ず、責任に非ずと思惟するは無責任極るものなり、軍人は專門的智識を以て、必勝軍備量を備へしめざるべからず。
四、國民腐敗堕落し、日本國民の任務使命を忘却し、惰弱遊惰に耽り、國家を亡滅に導かんか、百萬の精鋭軍隊ありとも、國内よりの亡國に對しては、何等の價値もなかるべし、亦軍人は國民中より選ばるるものなり、國民腐敗堕落して、軍人のみ強かるべき理なし、故に國家守護の責任者として、國民を指導せざるべからず。
五、軍人の任務使命を明瞭に國民に理解せしめざれば、擧國一致國家を守護するを得す。
 
      三、武力を行使すべき場合

 右の任務達成の目的の爲、及軍人軍隊自身の自衞の為(正当防衞)に之を用ふ。

      四、誰の命令により武力を行使すべきか

 天皇の軍隊なるを以て、大元帥陛下の命によるを本則とす、然れども大命は常に下るものに非ず、神意は天の命なり、殊に兵は拙速を必要とするを以て、各級指揮官及個人は、全責任を以て任務達成の爲には、獨斷武力を行使し、積極的に任務を達成するの覺悟なかるべからず、要は任務なり、任務を基礎として獨斷決心すれば、決して服從と反するものに非ざるは戦鬪綱要の明示せる所なり。
   説明
  東郷元帥の日淸戦争に於ける獨斷開戦、關東軍の滿洲事變に於ける獨斷不逞誅戮、明治維新志士の獨斷不逞者討滅、大権擁護等、皆勅令によることなく、神意を圖り、神の御意圖を心として獨斷任務に基きて決心せられたるものにして、積極的に任務を解決し積極的に大元帥陛下に服從したるなり、吾等は神意の閃く所により任務の命する所に從ひ、大元帥陛下及上級指揮官の命令の有無に關せず、あらゆるものを犠牲として、任務を敢行するの覺悟なかるべからず。
  
      五、軍人の任務達成は攻撃を主眼とせざるべからず

 防禦は絶對的のものに非ず、攻撃は最後の勝利を博す、軍人の任務は絶對的なるものなり、故に武力行使卽ち直接行動さへも許されざるなり、苟くも武力を行使し、直接行動をなすまでに徹底せば、其方法も攻撃に徹底せざるべからず、而して絶對的にその任務を完うせざるべからず。
   説明
  攻撃の絶對必要なるは、戰鬪綱要の強調する所なり、而して獨り戰爭に必要のみならず、軍人の任務範圍に於ては、總て攻撃ならざるべからず、然るに軍隊は天皇が他より攻撃せられ、數回の危險に遭遇せられ、今尚危險に曝させ給ふに拘らず、敵の攻撃力を粉碎せんともせず、攻撃力發生の根源を絶やさんともせず、全く拱手傍觀、自己の任務外なりと言はんばかりの態度をなせり、攻撃せざるのみならず、防禦も完全にせざる狀態なり、防禦絶對的のものにあらず、攻撃は最後の勝利を博す、彈丸の命中すると否とは、單に公算の問題なり、如何に護衞を嚴重にし、鋼鐵の中に陛下を奉安し奉るも、敵攻撃力を撃滅せざる以上、永久天皇は安全ならず。
  百の防禦は一の攻撃に如ず、久しく軍人の愛國の至誠が非國民等の宣傳攻撃に壓倒せられ、祖國を危殆ならしめたるも、攻撃を知らざりしが爲なり、滿洲事變前後より始めて軍人が攻撃に轉じ、祖國の危機を興隆へ轉換するに至れり。

      六、軍人の任務達成史批判 〔以下、見出しのみ掲載〕

       イ、天皇皇室の御生命皇位大權の守護史批判
       ロ、國民防衞史批判
       ハ、國土國権の防護史批判
       ニ、世界皇化の神聖使命達成史批判

      七、現在の軍人は如何にして其本然の任務を果すべきか 

       結論

 之を要するに、總てが其本然の任務使命の研究を怠り、只その手段方法の末節にのみ沒頭しつつあるは、現代の最大弱點にして、すべての欠陷急機こゝより生ぜしなり。
 例へば、日本國民の進むべき天職使命理想を知れる日本人、又之を示したる爲政者幾人ありや、二千年間無自覺、無理想に漫然として經過し來りしため、日本人にして日本の使命を正して認識せず、目標無くして進むは、羅針盤なき航海なり、滿足なる發達を遂げる理由なし、若しあらば紛當なり、宜なる哉、日本の神聖使命が常に忘れられ日暮れて道甚だ遠しの感ありや、敎育者も亦然り、敎育手段方法の研究は進歩したるも敎育の目標を怠り、爲に國体觀念の養成徳育を怠り、今日の思想的危機頽廢を招來し、此等頽廢せる者が爲政者となり、實業家となるに及び、政黨、財閥、經濟、思想、國防の國難を招來するに至れり、軍人亦斯くの如く三千年間完全に軍人任務を理確したる者は殆んど稀なり。
 抑々軍人任務の研究はあらゆる軍事の研究の根本なるに拘らず、戰鬪及び敎育の手段方法は微に入り細を穿ち、殆んど研究し盡されしに拘らず、軍人の任務の研究せられたるもの殆んどなく爲に山積せる我等の任務、我等の權力(任務達成に從事し得る)を前にして小範囲の任務に自ら局限し、自己陶酔に滿足しつゝあり嗚呼興廢の十字街頭に立てる祖國は果して誰の手によりて救はれんとするか。
 國内國外に滿つる皇位大權の侵害者、國民の安寧幸福を食物とする國民賊奸臣及神国日本の國土國権を侵害せんとする白奴、黄奴を撃滅し國を完全に皇化すると共に、進んで特質文明の残骸に喘ぐ世界全人類を日本の精神文明により、融合統一し皇道に蘇生せしむるは一に我皇國軍人の雙肩に批せられたる神聖使命天職に非ずや、『國破れて忠臣現はれ、家貧にして孝子出づ』鎌足出でよ、楠公出でよ、松蔭出でよ、眞個の軍人蹶起せよ。
  出でゝ内外の國難を打開し、落日を卽墜に回し、神武の理想を現代に實現せよ、最早議論の時に非ず、只本然の任務を基礎とし完全なる天皇信仰に生き齋戒沐浴して神意を體し斷の一途あるのみ。  

   厳秘

 八月二十五日附中堅青年將校共編にかゝる(皇軍本然に就て)と題するパンフレット内容に対する各青年將校の率直なる意見卽ち左の如し。
 (イ) 上略、特に皇道發起の獨斷論はしかく簡單に行かぬと思ふ、卽個々具體的に獨斷の適否か決定せらるへし、固より大乗的見地より今や大義上何時改造の爲獨斷奮起するも少しの妨けなきも、しかも小乗的によく動機を吟味せされは名分立ち難し。
其の動機の一例を擧くれば、
 (1)萬々一、聖上再ひ兇漢の不敬に逢はせられた時機。
 (2)射撃演習の爲街上行進中偶々暴動事件あり之を制せむとせるに警官と衝突し終に獨斷警官を攻撃し乃至聯隊長軍旗を擁して警視廳を占領し要所を護衞するか如きは適當なる動機の一例。
 (3)政民聯合に依り政權を把握し政黨獨裁決行を表現したる時直に憤激の一隊を平然として行進せしめたるに、軍隊に對し重大なる侮辱を政黨員か加ふ卽ち立ちて之を占領す。
 要するに大義は己に立つも名分は其の動機の選定を愼重にするを要す、特に軍隊の動機はやはり中隊長聯隊長等實兵を統帥して責任ある獨斷力あるものを獲得すへく、特に軍旗なれは之か堂々たる進出を最も重大意義ありとす、而して十月事件失敗の工作なるを以て同一筆法を繰り返すは愚にして、之か爲めには在京の一個聯隊を徹底的に思想訓練し一人事を整理し置き待機するを必要とす。
 更に今後青年將校の指導精神とも称すへき方針一般要領等次の如し。

         記
  方針
 内外非常重大の形勢に鑑み擧國一致天壌無窮の皇運を扶翼し奉り擧國和榮宇内の皇化の根基を確立せん爲め皇軍一体速に皇道維新の必要を奏請し奉る。
  一般要領
 一、皇軍一體の強化
   之が爲め先つ中堅有爲の結束を堅くし、認識を深厚にして皇道維新斷行の公論を確立し浄化統制を普遍強化す。
 一、政治的運行の漸進
   之れか爲軍部政黨対立の形勢を激化し終に一部の騒擾を惹起せしむ。
 一、維新奏請
   皇軍一部の獨斷發動(暴徒にあらす)を端緒とし形勢重大化未然防止の爲め戒嚴令を敷き維新斷行の癌たる政黨財閥の妄動を制し以て聖斷を待ち奉る。
     皇紀二千五百九十三年八月

                    中堅青年將校團


『軍閥重臣閥の大逆不逞』 維新同志会同人 (1935.7)

2013年07月09日 | 二・二六事件 2 怪文書

 軍閥重臣閥の大逆不逞

   天皇機関説を実行し皇軍を撹乱し維新を阻止し国家壟断国体破壊を強行せんとする逆謀=天人共に許さざる七・一五統帥権干犯事情=国民総蹶起の秋!!

 一、七・一五の経過

   一、暦日経過 〔下は、その一部〕

 六月十六日、林陸相永田軍務局長等満鮮旅行より帰京。
  新京にて南司令官京城にて宇垣総督と懇談したるは周知の通りである。
 七月八日、宇垣総督入京
 七月十日、午前八時半宇垣総督陸相訪問、十時半より陸相真崎教育総監と人事協議、陸相は突如総監の辞職を迫った。『真崎総監の勇退は軍内の輿論である』と、総督の論駁に対し陸相は苦し紛れに『これは総長宮殿下の要求である』これは実は南大将と永田軍務局長の策謀であって南は自分に火中の栗を拾はせやうとしてゐる。満州から帰ってからこの策謀で激しくなった』と弁解し総監は同意せず且永田少将等に関する参考資料準備の余裕を得た旨を述べて別れた。
 七月十一日、陸相は総長宮殿下の御召なりとて総監を招致し直に三長官会議を開かんとしたが総監は準備整はざる故を以て延期した。
 七月十二日、午前八時総監は陸相と会見し二人熟議して大体成案を得た上改めて会議を開くことの至当なる所以を力説した。陸相は別に次官次長人事局長等を召集して対策を練り、午後一時三長官会議開催を決した。席上総監は
 1統制々々と言ふも如何なる原理によるや、単に当局に盲従せよと言ふ意味の統制は真の統制に非ず、国体原理に基く軍人精神の確立によって統制するを要す。
 2輿論と言ひ軍の総意と言ふは何事ぞ、輿論により事を決し総意の名に於て事をなすは軍内に下剋上の風を作り統帥の本義に背き建軍の本旨を破壊するものなり。
 3教育総監は、大元帥陛下に直隷する親補職にして大御心により自ら処決すべきもの、軍隊教育と言ふ重大統帥事項を輔翼する重職にあるものが輿論云々に依って辞める理由なし。
 4今次の異動方針については部外よりの干渉あり、統帥権に対する此の容喙に膝を屈することは辱職にして且つ将来に重大なる禍根を残すものなり、一真崎の進退問題に非ず。
 5三長官協議の上決定すべきものを陸相単独決定の例を開かば延いて参謀総長の地位も動揺し軍の人事は全く政党政治の如く紊乱し私兵化せん。この為に親裁を経たる業務規程あり陸相の態度は統帥権の干犯を惹起する恐れあり。
 6所謂十一月事件は陸軍省を中心とする陰謀偽詐と言はれ永田少将がその中心人物なること明瞭にして、三月事件亦永田が有力なる関係者なり(永田自筆の計画文書提示)最近は新官僚と通謀して各種の政治策動を為しつゝある統制撹乱の中心たる永田を先づ処断するに非ざれば他の一切の人事は価値なし、況や今次の人事の原案が永田中心にて作られつゝあるに於てをや。
等々陸相を論難し、陸相は終ひに答ふること能はず決裂状態を以てをや。
 七月十五日、午後一時第二次三長官会議開会、総監は統帥大権中特に重大なる教育大権の輔弼者としての重要性人事に関する親裁規定等を切論したが、総長宮殿下の御威光を頼む陸相は之れに服せず、決裂して三時半散会
 陸相は既定の策戦で直に山陰地方出張中の渡邊大将に招電を発し三時四十分自動車を駆つて当日行幸遊ばされたばかりの葉山御用邸に参内し眞崎罷免渡邊後任を奏請して七時帰京した。渡邊大将は同夜濱田発

   一、宣伝機関の操縦 〔下は、その一部〕

 1六月二十日頃全国の書店停車場売店等一斉に『軍部の系派動向』と称する小冊子が発売された。宇垣、南、小磯、建川、植田一派を礼讃し林を支持鞭撻し永田、東條等をその中心部として論じ荒木、真崎、秦、柳川等を徹底的に非難した。
  某新聞班員等が永田等の内意を受けてした仕事と言はれ、今次異動の準備宣伝だと見られて居る。

 二、七・一五は統帥権干犯
      皇軍私兵化である
 

  〔省略〕

 三、背後に潜むものー戦慄すべき
           皇国壟断の大陰謀団


  〔省略〕

 嗚呼、目あるものは見よ、耳あるものは聞け。
 天皇機関説の大逆思想を抱藏し実行して上は皇権稜威を侵犯して憚らず、下は万民を残虐してぞの窮乏を顧みず、内は皇軍を撹乱し、外は国家を外侮に晒らし、維新の機運を根底より覆滅し国家を破壊の深淵に投じても明党私閥の獣心を遂げんとする戦慄すべき大陰謀が着々と進行して居るのである。
 陸軍教育総監の更迭は一真崎大将排斥ではなく反動革命の一露頭に外ならない。皇国の非常時は外患に非ず、社会不安にも非ず、此の閥族のユダヤ的陰謀の進行そのものである。皇国々民の総蹶起すべき秋は到来した。
慎んで進路を誤るなからんこと、毫末の懈怠躊躇なからんことを祈るものである。 

 昭和十年 〔一九三五年〕 七月二十五日 維新同志会同人

〔蔵書目録注〕

 表紙には、右上に四角で囲まれた「極秘」、中央に「軍閥重臣閥の大逆不逞」、左下に「(代謄写)」とある。発禁処分は、昭和十年 八月二十二日。活版、19センチ、8頁。

この『軍閥重臣閥の大逆不逞』は、翌十一年 〔一九三六年〕 二月二十五日発行の「大眼目」第四号増刊にも転載された。

 なお、『昭和十年以降頒布セラレタル不穏文書調』の「二、真崎教育総監更迭事件ニ関スルモノ」に、次の記載がある。

  番号 題名 納本又ハ届出ノ有無 発行責任者ノ住所氏名記載ノ有無 印刷形式 内容ノ概略

  6、軍閥重臣閥ノ大逆不逞 ナシ 維新同志会同人 活版

   陸軍部内ノ異動ノ経緯ニ付揣摩臆測シテ暴露的記述ヲ為シ尚参謀総長ノ宮ニ累ヲ及シ奉ル如キ言辞ヲ弄シ国民的総蹶起ニヨル大衆的行動ヲ煽動シタルモノ


「永田伏誅ノ真相」 (1935.8)

2013年07月07日 | 二・二六事件 2 怪文書

   

  陸海軍青年将校ニ檄ス

  永田事件以来頻々トシテ吾人ノ耳朶ヲ撃ツモノハ「遁ゲ出シタ人ガアツタソウデスネ」「憲兵隊長ハ腰ヲ抜シタトイフデハナイカ」「軍人モ近頃ハ余リ町人ト違ハナイ」等々ノ不快ナル嘲笑ナリ「永田伏誅ノ眞相」ナル一文ヲ接手シテ軍人腰抜抬頭ノ由来ヲ知リ痛嘆慷慨禁ズル能ハズ 偶々千葉市内○○○ニ相会セル有志十七名徹宵悲憤痛論自戒自奮ヲ誓ヒタリト雖モ皇国皇軍ノ為メ尚意ヲ安ンズル能ハズ 僭越ヲ顧ミズ敢テ陸海全軍青年将校諸賢ニ檄シテ憂憤ヲ漏シ奮起ヲ冀望ス

  一、永田伏誅ノ眞相(全文 八月十九日入手)

 時は昭和十年八月十二日午前九時稍々過ぎ勲章を帯び軍刀を佩いて陸軍省に現れた相澤三郎中佐は先ず調査部長、山下少将と整備局長。山岡部長の許に行き慇懃に臺灣赴任の挨拶を述べた。
  整備局長室を辞する時、居合せた給仕に永田局長の在室を問ふた処給仕は小走して直ぐ帰つて来て『居られます』と復命する、中佐は莞爾として悠々迫らぬ歩調を以て軍務局長室に向かつた。(以下左図 〔上の写真〕 に就いて剣光一閃永田伏誅の顛末を説明する。)  

 (1) 整備局長室から軍務局長室へと向つた相澤中佐は此の附近で抜刀して局長室へ進入した。
     一説には局長室へ入つた後左手の帽子掛に軍帽を掛けてから抜刀したとも云ふ。

 (2) 相澤中佐は室内に這ると三名を圧倒する精悍な勢を以て永田に迫り椅子から立上つた永田の両肩を見事袈裟掛に斬つた。

 〔以下、「説明」(3)から(7)は省略〕

 以上の様な阿修羅の如き奮起は一瞬の間に終つたのである。相澤中佐は刀を型の如く納めて悠々と室を出て更に一二の先輩に転任の挨拶を述べ同期生某中佐と一会議室で快談した。此の前後神色自若として少しも平常と異なる所がなかつたと云ふ。相澤中佐は其後医務室を探し求め看護婦に左手の繃帯をさせ「とらんく」を片手に悠々表門まで来た。恐るゝ附いて来る憲兵が「中佐殿あちらへ参りませう」と云ふや「ヂャア行かふ」と軽く云ひ自動車で憲兵隊に行つたのである。

  一、士風振起ヲ要ス

 桜田門外落花ノ晨大老井伊ハ憂々ノ剣戟ノ中輿中ニ留リテ自若タリシニ非ズヤ 大久保甲東ハ刺客島田一郎ニ左腕ヲ斬リ落サルルヤ大喝一聲シテ島田ヲ辟易逡巡セシメ 犬養首相ハ拳銃ヲ擬セル闖入者ヲ制止シテ対談セルニ非ズヤ
 然ルニ何事ゾ永田ノ醜状陋態子女走卒ニモ劣レルハ 然モ兇徒奉行ニ迫ルヤ與力ハ遁走シ目明シハ腰ヲ抜カス態ノ銀幕、舞台ノ悲喜劇其儘ナル山田、新見ノ醜ハ殆ンド聞クニ堪ヘザルモノアリ 嗚呼、昌平久シクシテ士風ノ頽廃弛緩茲ニ至レルカ
 而シテ何ンノ奇怪事ゾヤ鯉口三寸ヲ寛ゲ得ザリンヌ懦夫ニ叙位叙勲ハ奏薦セラレ或ハ自決退官ノ引責ヲ厚顔免カレントシテ「体力及バズ」ト弁明是レ努メ又「事件当時在室セズ」トノ事実歪曲隠蔽ヘト百方奔走シツヽアリ、 此ノ二重ノ皇軍威信失墜事ヲ坐視放任シテ縦断的、横断的連繋ヲ禁ジ怪文書ヲ厳重取締ル等ヲ以テ抜本塞源ノ粛軍ヲ庶幾シ得ルヤ
 諸賢ヲ、吾人ハ利己主義ノ権化ナル青瓢譚式中央部幕僚ト其ノ二、三ニ操縦駆使セラルヽ張子将軍トニヨツテ軍ノ統一、士気ノ振作ヲ期待シ得ベカラズ 相澤中佐ノ神的一挙ハ正ニ是レ昭和武士道ノ開闢ナリ 吾人青年将校ハ宜シク此ノ風ヲ学ビ昭和ノ薩長土肥的下級青年武士トシテ旗本八万騎ノ浮薄軽佻ヲ猛撃一蹴シ、武士道精神ノ高揚ニ努力スルヲ要ス

  一、巷説妄信乎、非。
    維新ノ烽火也


 陸軍当局ハ曩ニ盲旅行ト称シテ水郷潮来ニ新聞記者團ヲ伴ヒテー当時新聞班ハ記者一人当リ五百圓ヲ準備携行シ中四百圓ハ金一封トシテ贈與セリト云フー眞崎、荒木等ノ純正将軍ニ統制撹乱者ノ悪名ヲ以テ筆誅ヲ加ヘシムルニ成功シ今ヤ往年草刈海軍少佐ヲ狂死トシテ葬リ去リタル故智ニ学ンデ相澤中佐ヲ巷説妄信ノ徒トシテ抹殺セントシツヽアリ 当局ー恐クハ数名乃至数十名ノ幕僚群ーノ迷妄救フベカラザルハ素ヨリ多言ヲ要セザルベシ
 相澤中佐ノ超凡的行動ニ驚駭シテ狂ト呼ビ愚ト目スル者ハ中佐ガ剣禅一如ノ修練ヲ其ノ純一無難ノ天性ニ加ヘテ神人一体ノ高キ精神界ニ在ルヲ理解シ能ハザル自己ノ蒙昧愚劣ニ自ラ恥ヅベシ
 相澤中佐ノ一挙ハ實ニ天命ヲ體シ神意ニ即シテ昭和維新ノ烽火ヲ挙ゲシモノ 是レヲ部内派閥闘争ノ刃傷的結末ト見ルハ無明癡鈍宛モ現下部内ノ諸動向ヲ以テ往年軍閥時代ノ藩閥的相剋視スルト同一轍ノ愚ナリ

 〔中略〕

 天皇機関説的思想、 行歳ヲ以テ  皇威ヲ凌犯シ万民ヲ残賊スルコト茲ニ年アリ国運民命將ニ窮マラントシテ神剣一閃維新ノ烽火挙ル永田ノ剄血ヲ祭庭ニ灑イデ天神地祗ノ降霊照覧ノ下皇民蹶起ノ秋ハ到ル
 烽火一炬 嗚呼待望ノ機ハ来レリ 慎ミテ憂国慨世ノ義魂ニ訴ヘ奮起ヲ望ムモノナリ


   昭和十年 〔一九三五年〕 八月二十一日暁天ヲ拝シテ黙禱
                            在千葉陸軍青年将校有志
                            在舘山海軍青年将校有志

〔蔵書目録注〕

 『昭和十年以降頒布セラレタル不穏文書調』の「三、永田軍務局長事件ニ関スルモノ」には、次の記載がある。
   
  番号 題名 納本又ハ届出ノ有無 発行責任者ノ住所氏名記載ノ有無 印刷形式 内容ノ概略
  
  4、永田伏誅ノ真相    ナシ ナシ              謄写
    永田事件ノ現場並ニ犯行ヲ揣摩臆測シテ記述シ更ニ犯人ヲ賞恤セルモノ
  
  7、陸海軍青年将校ニ檄ス ナシ 在千葉陸軍青年将校有志 在舘山海軍青年将校有志 活版
    第四号「永田伏誅ノ眞相」ノ全文ヲ掲載シ更ニ「士風振起ヲ要ス」「巷説妄信乎非維新ノ烽火也」ノ二項ニ付軍ノ統制ヲ撹乱スルガ如キ言語ヲ弄シ一部軍人ニ対シ直接行動ヲ煽動セルモノ
  
  また、『秘 昭和十年中に於ける 出版警察概観』 内務省警保局 には、さらに発行月日「八、二一」〔八月二十一日〕、禁止月日「八、二七」〔八月二十七日〕の記載がある。
  さらに、『日本革新運動秘録』 昭和十三年八月 には、下の記述がある。
  
  永田事件の發生するや逸早く其兇行現場の見取圖迄附した『永田伏謀〔誅〕ノ真相』と稱する詳細なる文書(明かに陸軍省高官より取材せること明瞭なるもの)其他が巷間に飛び後には活版刷のものさへ横行するに至つた


『皇軍一体論』 『怪文書清算論』 『永田事件の反省』 (1935.10-36.1 )

2012年11月14日 | 二・二六事件 2 怪文書

 時局批判資料 皇軍一体論 (以印刷代謄写)

    皇軍一体論 中正観念の修正について 山科敏

 一、要旨
 
 二、偉大なる軍部の偉容 〔下は、その冒頭部分〕

  『最近皇軍軍人に二大潮流があると言ふことが、専ら信じられてゐるが、一体さうした事実はあり得べきはずがないと思ふが如何』
『さう言ふことが盛んに問題になつてゐるようであるが、『皇軍の動揺』とか『二大潮流の対立』などと言ふことは、断じてあり得ないことである。些々たる客観的情勢を捉えて、さも重大な事情が伏在してゐる様に、観察する者もないではないが、それは微々たる一起伏にすぎないのである。建軍の基調は磐石の統制を擁し、炳乎として一貫するその
大精神は、非常時日本の燈台として、ますゝ輝きを増すばかりである。
噫、偉大なる哉、皇軍の威容よーわれらはこの悠久にして不滅の栄光に輝く、皇軍の厳乎たる姿に、涙ぐましい感激を覚えるのである。』
 
 三、革新を阻む三大勢力
 
 四、永田事件とその人形師

  『そこでもう少し細部に就て聞きたいのだが、私兵化の一団があるとか、永田中将が現状維持派と結んで国家改造を阻止してゐたために皇軍の統制が紊 みだ れたのだ。とか言ふことを耳にするが、果してさういふ形勢はあつたのか』。
  『おれが既成勢力や、職業的革命屋や、コミンタンの陥穽 に陥らせて仕舞ふ。そして対立的な先入主であらゆる動きを斜眼視うるやうになると、デマをデマとして批判出来ない様になる。所謂「巷説妄信」と言ふ奴だ。裏で糸を引いてゐる者から見れば『思ふ壺』なのだ。私兵化の一団などと言ふことは代表的な悪質の巷説で、皇軍将校の断じて口にすべからざる言葉である。永田中将の立場にしてもだ、軍務局長の要職にあれば、内閣書記官長と折衝することもしばしばあらうし、いろんな権力者と意見を交換することもあらう。それを一つ一つ捉へて近眼視覚的に批判したり、針小棒大に非難してゐたら際限のないことだ。国事を憂ふるほどのものー国家改造を志すほどのものが、些事に抗泥したり小利や栄達を嫉むなど、およそ児戯に類うる業である。歴史を創造せんと志す大丈夫は、まづ小我を棄てゝ大同に赴くべきである。況や三月事件にしろ、十月事件にしろ、殉国の赤誠の流露だ。それを殊更曲解誹謗して、人心を誤らしめることは、すでに物を観る態度が敵本主義の私情に出発してゐるからなのだ。まことに卑しむべき自己撞着といはねばならぬ。』
  〔以下省略〕
 
 五、皇魂派と国体原理派
 
 六、社会民主主義の忠僕 〔下は、その冒頭部分〕

『皇軍団破壊の禍根が何処にあるかといふことを明らかにすることは急務である。この禍根を認識しない所にすべての禍は生ずるのである。そこで北一輝、西田税両氏に利用せられている青年将校の動向がつねに問題になるのだ。「北一輝先生の日本改造方案に拠るに非ずんば統帥命令と雖も肯せず」と絶叫しつ々ある一群があるといふのだから、この「生き神様」は余程の魅力乃至は功徳があるらしい。
『さうすると日本改造方案とかいふのが、皇魂派や国体原理派の指導原理といふわけなのか』
『さういふ見方が正しからう。ところがおかしなことには天皇機関説を排撃する限り、北、西田一党の革新理論なるものも大いに問題になるのである。この「生き神様」達の思想は社会民主主義といふ機関説を生んだ温床なのだからーこゝに問題の本があるから読んで見給へ。』

 七、十一月事件と粛軍意見書 〔下は、その冒頭部分〕

肅軍に関する意見書ーといふ文書が相当に広く頒布されてゐるやうだが、一体どういふ内容なのだ。』
『あれは十一月事件に関与した某々将校が、十一月事件に対する処分は公正を欠くものだ。最近の皇軍の乱脈は所謂三月事件十月事件を隠蔽したのを動因として、軍内の撹乱はその極に達してゐる。しかもその思想も行動も大逆不逞のものであつた。これを剔抉処断して懲罰の適正を期するのが肅軍の第一の策であるーといふ意味のもので、三月事件と十月事件の傍証として「00少佐の手記」といふものが引用してある。この手記といふものにも奇々怪々な物語が潜んでゐると言ふことだが、兜町辺りでは此の意見書が四五拾円で売買されたと言ふ噂もある。』
 
 八.絵画的実行力の正体
 
 九.中正観念の修正を要す

   昭和十年十月二十九日発行 (非売品) 編輯兼発行人 山科敏 印刷人 伊藤満重 印刷所 帝都印刷株式会社

 

 皇軍一体論補遺 怪文書清算論 以印刷代謄写

         怪文書清算論 山科敏 皇軍一体論補遺

   怪文書清算論

 一、緒言 〔下は、その前半部分〕

 満州事変を契機として、一切の古き機構を清算し、新しき全体主義的改革が、政治、経済、社会の全局面に強く要求せられるに至った。
 この国家の進路に起ちて、従来の守勢より転移し、絶大なる実力的作用を発揮し、国体の線に添ふ国家機構の樹立をめざす老廃機構の改革に躍出し、政治、経済、外交、文化、の諸領域に伸展して、「国家全体の更生」を企図したのは軍部であつた。
かヽる国家の転換期に際し、軍部の歴史的地位、役割が、改革的勢力を形成するものであることは勿論であり、限られた部門を通じて、全国的な改革態度に出ることは、「国権維持」を使命とし、「広義国防観」に立つ軍部の必然的な部外事項への進出過程でもあつた。
 この情勢に呼応して、国民大衆は軍部の改革態度に合流し、その国家改造への発言を支持して、自由主義諸機構に反撃し、惟神の大道に立脚する「天皇政治」の顕現を仰ぎ迎えんとしたのである。
 然るにこの国内情勢を利用し、貪欲飽くなき魔の手を伸ばして、営利をむさぼらんとする職業改的命屋と称せらるる怪物の一群は、赤色ロシヤを背景とする売国的不逞分子と共に、皇軍部内に潜入し、社会民主主義を「尊皇愛国」と偽装し、マルクス主義の実践を、「××××」の美名に蔽ふて××せんと企て、光輝ある皇軍を目して、権謀術数私閥私闘の府の如き疑惑を深からしめるに至つた。
 やがて、これらの怪物の作為によつて縦横に張り繞らされた陥弊の絲に操られて、改革勢力の実行的中心たる皇軍は撹乱せられ、民間改革勢力は各派各層に乱脈を暴露して、収拾すべからざる蓬乱流離の混乱に転落しつつあるのである。
   
 二、桜会と革新勢力の登場
 
 三、満州事変の発生とその表裏
 
 四、昭和維新への口火を切る
 
 五、巷説に現れた重大非違 〔下は、最初の部分〕

 以上の記述を以て、維新を阻止しつゝある者が何人であるかを知ることが出来たと思ふ。
 蓋しわれらが「怪文書清算論」などといふ一見奇異なる表題の下にこの小論をものした所以は、実に世上に流布さるゝ「怪文書」なるものによつて、革新の実行的勢力の主体が、深く蔽ひ隠され、或は誤り伝へられ、甚しきは大逆不逞の徒の如く曲歪して印象せられつゝあるを見て、痛憤を禁じ得ないからである。即ち正統なる革新勢力の実体を明示し、維新の天業を亜流の附焼匁者流に求むることの愚を反省して、まづ皇軍一体化の実践に協力し、捏造せられたる怪聞、醜聞によつて汚毒蹂躙せられつゝある軍部並に革新陣営を浄化せんと欲するからである。
 而して殊更に論旨を、満州事変を中心とする当時の説明に置いたのは、いまや三月事件並に十月事件に関する歪められたる流説が盛んに横行し、これが皇軍一体化を妨げつゝあるからに外ならぬ。怪聞流布の目的が皇軍の攪乱にあることは言ふまでもないが、これらの怪文書により『大逆不逞』と喧伝せられつゝある三月事件乃至十月事件が如何に敵本主義のデマであるかを指摘して置きたい。

 六、人事を正統化し国民に応えよ
 
 七、国民は強く昭和維新の正統を把握せよ

   昭和拾年拾壱月拾八日 発行 非売品 編輯兼発行人 山科敏 印刷所 帝都印刷株式会社 印刷人 伊藤満重

 

 皇軍一体論続編 (以印刷代謄写) 永田事件の反省

      永田事件の反省 不祥事件移禍転福の献策

 一、緒言 〔下は、その最初の部分〕

 満州事変を楔機とせる皇軍の維新的躍進は、今や逆転的兆候を露呈し来れり。この現象を以て国民思潮の反動と称し、或は現状維持諸勢力の再編成と看る者あり。これらの観察は敢て不当なる批判にあらざるも、いづれも盾の反面に過ぎずして、遂に盾の両面に非ざるべし。
 蓋し現下の革新諸陣営の行詰りは、それ自体の反省に依るにあらざれば、その真相を把握し得ざるべしと信ず。而してその代表的現象は皇軍人事の変局を基調とする上層部の弱体化を以て一切の禍根となすべくこの情弊の実態を認識し、その変態的動向を清算せざる限り、皇軍は国民信倚の中枢的位置より転落を余儀なくせしめらるべしと断言して憚らざるなり。
 
 二、永田中将論 〔下は、その一部〕

 吾人は永田中将を目して軍の至宝の一人、一世の英材たるの定説に相違なかるべきものなりしを信ぜむとす。特に或る意味に於て近代国防の組織者として決定的なる功績と権威とに輝きその英邁の才器と高風大度の人格とは期せずして部内人望の中枢に座し、何人も将来を刮目せざるものなし。
 而して中将に対する非常時国軍の輿望こそは、中将が国家革新に対し、必至緊要の認識と之が指導経綸とに関し極めて真剣且つ責任ある意識と努力と能力とに欠くる処なかりし證左なりとす。蓋し今日国軍要路に於て其度の深浅、認識の如何は別とするも、一応昭和維新断行を願はず、意識的に反対するが如き要路将校のあり得べき理なかるべしと信ずればなり。

 三、相沢三郎
 
 四、国家革新の過程と軍内維新派の主流情勢 〔下は、その一部〕

 北、西田一派は皇軍青年将校をその影響下に置き、職業的革命屋の膨大を衒はんとして、その金看板として巧みに真崎将軍らに接近し、いわゆるそのかつぎ上げに成功し、
  
 五、大御心と維新工作 〔下は、その一部〕

 蓋し北一輝氏は明白なる社会民主主義革命の御本尊にして最も徹底せる天皇機関説主義者なり、何ぞ身の程を知らず国体明徴を口にするを許さむや。而して西田税氏はその主義の免許皆伝のみ。
 
 六、八月人事問題と統帥権不安時代の到来
 
 七、事件の総合的観察

   昭和十一年一月二十日 (非売品) 責任者 山科敏 印刷人 深井誠治 印刷所 開文社印刷所

 なお、この『永田事件の反省』の一部は、後に『右翼思想犯罪事件の総合的研究』(1939)に附録として掲載された。。


『諫抗議録』 (1935.6)

2012年10月01日 | 二・二六事件 2 怪文書

 一、青年将校ヲ中心トシタル国家改造運動ノ概要 
    「昭和二年九月頃ヨリ同七年迄ノ経過ニシテ軍部ノ調査ニ関ハルモノ」

  一、天剣党事件概要
  二、三月事件概要
  三、四月兵火事件ノ概要
  四、十月事件ノ概要

 ニ、軍部ノ暗流ヲ暴露シテ正義派ノ大英断ヲ促ス
    「軍部ノ粛清意見ヲ荒木陸相ニ進言セルモノ」

 三、檄
    「荒木、眞崎、秦三将ヲ排撃シ宇垣大将ヲ推賞セルモノ」

 四、全国ノ憂国青年将校及政治家ニ檄ス
    「荒木、眞崎、秦、三将排撃論」

 五、無題
    「宇垣大将、大川周明、小磯中将ノ陰謀ヲ排撃セルモノ」

 六、斬奸状
    「牧野内府、齊藤首相、伊澤多喜男等ニ対スルモノ」

 七.日本国民ニ檄ス
    「五、一五事件当時ノ檄文」

 八、我等ガ敬愛スル第四拾四期諸兄ノ胸底ニ訴フ
    「五、一五事件ニ参加セル第四拾四期士官候補生ノ行為ヲ讃美シ先輩将校中ニモ彼等ニ追随セントスル決意アルヲ示セルモノ」

 九、先輩各位ニ青年将校ノ哀情ヲ訴フ
    「第八ト同趣意ノモノ」

 十、五、一五事件ノ眞義ヲ解明シ軍民一致皇道維新断行ニ奮起セヨ
    「略第八、第九ノ趣意ニ似タルモノ」

 十一、五、一五事件ニ対スル我等ノ覚悟  一青年将校
     「前項同断」

 十二、目標ヲ定メテ
     「目標ヲ三井、清浦、安達ノ三者ニ定メテ先ヅ之ヲ打倒スベキ陸海軍青年将校等ニ教唆セルモノ」

 十三、時局認識ニ就テ
     「昭和八年三月師団長会議ノ際陸軍首脳部ノ宣明セルモノ」

 十四、歩兵第一連隊幹部候補生教育ノ状況 
           教官陸軍歩兵中尉 栗原安秀
    「過激不穏ノ字句多シ」

  一、既成概念打破
    金力ニ依リ単ニ形式的ノ肩章ヲ與ヘラレルモノガ幹候(一年志願兵)デアルガ如クニ一般ニ解釈セラレテ居ツタ是ノ概念ヲ一掃スルベク特ニ激烈ナ訓練ヲ施シ流石将校教育ノ実際ハ苦闘ノモノデアル事ヲ的確ニ認識セシム
  二、過度ノ訓練
    本年ハ特ニ思想的ノ混乱ニヨリ近キ将来ニ事変アルヤモ知レズ各自ニ於テモ此ノ時ニ堂々善処出来得ル丈ケノ自信力ヲ此ノ訓練中ニ於テ養成スル
  三、思想的ニモ最モ尖鋭ナル教育ヲ施ス
    天皇陛下ヲ中心トスル国家社会主義ノ建設
    錦旗革命ノ必要
    対満政策ノ誤謬
    現在満州ニ於ケル政治的指導者ノ実質ハ極度ノ腐敗デアル当地ニ於テ第一線ニアル同志ヨリ此ノ真相ガ頻々ト到来スル依テ吾々ハ是ノ改革ヲ必要トスル
    大官連ノ堕落
    齋藤首相ノ不敬
    牧野其他ノ高位者ノ良心ノ磨滅
    天皇陛下ノ御年ノ御若イヲ寧ロ利用シテ居ル現在ノ高位高官連ノ大半ハ売国奴ニモ等シキ行為ヲ為シテ恥ズル所ヲ知ラヌ
    議会ノ不浄
    若シ現在ノ儘議会政治ガ続行セラレルモノデアレバ世界一トモ誇ル議事堂ハ全ク無意味ノ存在デアル須ラク各階級ヲ通ジテ真ニ国家ヲ憂フル青年ノ舞台トスルナラバ議事堂ノ存在ハ必要デアルガ
    然ラザレバ破壊シテ了ヘ
    暗殺ハ最高ノ道徳デアル
    プロレタリヤ意識
    今日ノ老人ブルジヨア政治デハ全ク無益ノモノデアル必ズ青年ニ依ル溌溂タル指導者ヲ確得スベシ同志ハ結成シテ居ル而シテ此ノ指導者ヲ得ル最近ノ道ハ軍部ノ力ニヨル一ニ青年将校ノ気魄ニ待ツノミ。     
    
 十五、陸軍首脳部対立干係
     「荒木派対宇垣派、中立派ノ主タルモノヲ列記ス」

 十六、敢テ陸軍士官ニ告グ
     「五、一五事件ニ関シ激励セルモノ」

 十七、国家改造ハ北ノ国家改造案ニ依拠スルニ非ザレバ
           ××〔統帥〕権ト雖モ之ヲ奉ゼズヽヽ」ト

 噫之何タル兇暴無漸ノ言ゾ之ヲ読メル皇軍将校何故匕首ヲカザシテ彼ガ腐腸ニ加ヘザリシカ。吾人ノ以ツテ遺憾トスル処デアル。
 戦友被告諸氏ハ今日ノ吾人等ノ如ク渠ノ醜悪面ヲ認識シナカツタサレバ西田ノ術中ニ陥ツテ渠ヲ真正無二ノ憂国ノ志士ト信ジ其ノ商売ノ犠牲トナツタ貴重ナ人物ハ尠少デハナイ。吾人ハ渠等如キニ操ラレテ五度此ノ聖戦ヲ金銭ニ代ヘシムルノ寛容ヲ捨ネバナラヌ。陸軍士官ヨ、公等ノ身辺ヲ顧ミヨ。ソコニ人格神ノ如キ赤誠鉄火ノ如キ志士ヲ幾人カ発見スルデアロウ。然ルヲ何ヲ苦シンデカ這個売国奴ヲ棟首ト仰ギテ公等ノ赤血ヲ無為ニ犲狼ノ渇ニ供フルノ必要アラン。渠ガ呈示スル所ノ改造案内書トハ渠自身之ガ達成ヲ欲セヌ所ノ露艦引揚助成会趣意書ト同断ダ。
 渠ハ改造断ノ意思ヲ持タス。唯其ノ過程ニ於ケル一時期ヲ狙フモノダ。吾人ハ渠ヲ現代ノ暗黒政治時代ノ生メル寄生虫ト断ズル。吾人ハ現状ヲ座視スルニ忍ビズシテ茲ニ陸軍士官諸氏ノ深省ヲ要求スル。皇国ノ興廃ハ一ツニ陸海軍志士ノ双肩ニカヽツテヰル。希クバ皇国恢弘準備工作ノ第一歩トシテ渠ガ毛生セル肝腑ヲ白日ニ摘羅シテ之ヲ清算シ更メテ緊親ナル提携ノ下ニ光輝アル大聖戦ヲ断行センコトヲ。
 謹而檄ス

  月 日   横鎮 世鎮 呉鎮  有志

 各位

 十八、無題
     「荒木中将ヲ古賀中尉ノ指導者ナリトシテ攻撃セルモノ」  

 本資料は、『二・二六事件研究資料Ⅲ』にある「題名:諫抗議録  体裁:美濃紙百枚 謄写版印刷 発送月日:一〇・六 〔昭和十年六月;一九三五年〕 文書ニ記載セラレアル記名:ナシ 摘要:「青年将校ヲ中心トシタル国家改造運動ノ概要」外既発ノ此種檄文十七種ヲ蒐録セルモノ」である。謄写版刷、24.1センチ、和綴じ、目次3枚・本文86枚。


『軍部の系派・動向』 小林住男 (1935.6)

2012年09月02日 | 二・二六事件 2 怪文書

はしがき
 
 目次

 一、改革線上の軍部
 二、軍部の改革思想と国防観 〔下は、その一部〕

 要は、近代国防における、国防と、一般国策との連関性を充分に認識することである。端的に言へば、軍部が該パンフレットにより、国防の強化を提唱したことは、直接的な戦争準備といふことを除外して考へても、現在の政治並に経済機構をもつて、『国家生成発展の基本的活力の作用』
を甚だしく阻害するものなりとし、これが改革を強調したのである。つまり、現時の政治の貧困化、行詰りが、『国防』を使命とする軍部をして、奮起せしめた。
 かくて、陸軍の国家改造的思想は、『近代国防』観念の具現的延長の裡に育成されたのである。

 三、軍部の政治経済機構に対する改革意見 〔下は、その一部〕

 政治が経済の上層建築である限り、現在の経済機構に対する軍部の改革的要求は、必然に政治機構に対しても向けられる。否、真に大衆の窮迫を救ひ、国家の生産力を高め、国民全部の上に理想を実現せしめる所謂経済改革を確保するものは、政治改革でなければならないのだ。
 これには、既成の組織機構を維持せんとする既成政治勢力に望むことは不可能な相談だ。若し、これに実行を促すとせば、余程の強力な要求を表明し、決意を示さねばならない。
 内閣に対する軍部の意図は、強力挙国一致内閣である。従つて、その内閣は衆議院に絶対多数を有つことを要しない。要は真面目な改造的国策を実践に移す強力内閣の出現を待望する。
 経済機構の改革を具体的に実践し、また対外的には、所謂国際危機に際し、国家国民を確実に保障し、国威を発揚し、国民生活の安定に資する為には、計画統制ある国家改造的強力内閣が絶対必要である。この強力内閣は、即ち、国家が一団として全能力を発揮する為めの協力の上に置かねばならない。
 この意味から、軍部は自由主義的観念に立つ政党政治を極力排撃するのである。政党政治は民主々義的立場から運用され、国内政治を分裂に導き、党利党略の為めには、国家国民の利害休戚を念頭に措かなかつた過去の業跡並に傾向あるに鑑み、これを国家国民的立場から排撃するも亦已むなしとしてゐる。
 議会における多数、それも、真に国民の政治的意思を正当に反映したものでなく、買収、干渉による所謂偽造多数、また多数故に『絶対』なるかの振舞は、彼等のいふ憲法政治そのものまで毒した。

 四、軍部の政治進出と統帥権
 五、軍部の各系派はどうして発生したか
 六、軍部内諸勢力推移の展望 〔下は、その一部〕

 この所謂統制派なるものゝの実体は、甚だ複雑なる関係に置かれている。即ち、軍人の何人も統制派なる字義に対しては、異論を挟むものもなく、原則的には宇垣、荒木両派を除くものは統制派でなくてはならない。
 が、所謂統制派なるものは、所謂荒木派、所謂宇垣派等と同様な意味の勢力的観察の対象にしかなつていない。しかも、各人の主観によつて、中心勢力の範囲並にその影響力も異り、他の二派の如く個人名が冠せられてゐないだけに、一層その正体を捕捉するに困難である。
 一般には、統制派の発生には松井大将、建川中将、小磯中将等が、有力に作用した為め、彼等と濃厚なる関係にあるものを指したやうである。また林を中心とする現陸軍首脳部等を目して、統制派と称してゐるものもあるが、それは林の国軍の統制的態度を指していふものである。

 現在、林等に対し最も猛烈に、突喊を試みてゐるのは、荒木に代ふる真崎及びその一派である。彼等は一般には、国家改造の急進的ー彼等によれば忠実なるー意思、行動の把持者だと見られてゐる。林の不徹底な微温的な改革的態度に、政治工作に、不満を感ずるものたちには、彼等は巧妙に、働きかけて不満ー反林的空気の醸成に努めてゐるやうにみられてゐる、かくして真崎派は陸軍政権の次期担当者をめざしてゐるやうだが、部内の大勢は、寧ろ反対的に動き、真崎派が焦れば焦る程、部内における地位は孤立化しつゝある。そは、注目を要する。

 結論的には目下部内には、中心勢力なしとするのが、一般的な定説である。従つて、林政権の後継者は、予測するに困難だ。それは、その時の客観的状勢によつて定るところである。
 しかし、こゝに注目すべきものは、部内の新興勢力の動向である。即ち、それは部内中堅以下の與望に立つ、建川、小磯両中将等の勢力と、目下中央部の実質上の指導権を握つてゐる永田少将等の一派、等の動向である。そして、これら新興勢力は、状勢の進展と共に合流の可能性が多分にある。
 一般には、これ等両勢力の合従連衡するとき、はじめて陸軍の指導的主体勢力が確立されるものとみられてゐるが、いまのところ、真崎派はこれ等勢力に対して、対立的抗争の場面を展開してゐる。即ち、中央部にある永田派の失脚を策し、一方建川等の中央進出を阻止するものは、正しく真崎派であるとされてゐる。こゝに、両派は真崎派に対する作戦として、否、部内の統制強化に資する大局的見地より、合流を希望するものが、部内において中堅以下の綜合的な要望となつてゐる。
 勿論、今日のところはこの両派に対して超越的態度に出てゐる所謂中間派的人材は、中央に地方に雌伏してゐるが、差し当つて新興勢力として少壮将校等を中心に、勢力圏を形勢してゐるのは、この辺であらう。
 これを要するに、宇垣系、荒木派、或は真崎派、統制派、及び新興勢力といふも、軍部全体よりみるときは、極一部分の権力圏に近き軍人の動きにしか過ぎない。大部分の軍人は、かゝる分派的行動に超越して、国防の充実に寧日なき奮闘をつゞけてゐるのである。
 林を中心とする現首脳部は、勿論かゝる大部分の軍人の見地に立つて『鉄の国軍』の建設と背後の国力充実に向つて、改革線上を追つてゐる。

 七、軍部上層部の宇垣系と其のシンパ 〔下は、その一部〕

 すでに、彼も現役を去り、部内に対し直接発言権をもたない。従つて、宇垣系が現存するや否やといふことも、問題であるが、いま、彼に同情的態度にある主なるものを、ザツと一瞥すると、先づ関東軍司令官南大将をはじめ、阿部参議官、寺内台湾軍司令官、杉山参謀次長、畑第十四師団長、林教育総監本部長、古荘第十一師団長、梅津支那駐屯軍司令官、谷東京湾要塞司令官等の錚々たる諸将星あり、未だに往年の盛時を偲ばしむるものがある。
 この他宇垣の兄弟分鈴木在郷軍人会長の関係で、陸軍新興勢力の旗頭、建川第十師団長、また小磯第五師団長等の部内切つての剛将をはじめ、曾つての荒木時代の極端なる反宇垣運動に対し、寧ろ統制上嫌悪の気持を抱いてゐたものゝ宇垣への同情的態度も漸次にみられて居り、他面、宇垣自身のその後の性格的変化は、宇垣空気好転を助長して、仲々侮り難い一勢力をもつてゐる。たゞ、遺憾なことは、退役の関係もあるが、中堅以下に確固たる支持がみえないことである。おそらく、この階級の将校は、宇垣を直接知らずして、悪宣伝ばかり耳にしてゐる関係もあるだらう。

 八、荒木派没落の経緯
 九、孤立化せんとする真崎とその一統
 十、中間派の巨星は誰々か
 十一、新興派の巨頭、建川と永田 〔下は、その一部〕

 新興系派の他は、永田鉄山少将を首脳とするもので、現陸軍の実質的な指導的勢力である。陸軍の国内改革陣営を分析して、建川派を左派とせば、永田派は右派と称すべきもので、一般には合法改革派と呼ばれてゐる。といつて、建川派が非合法でもなんでもないが、歴史的にそう言ひ慣されて居り、建川の方は、フアツシヨ派をもつて呼ばれてゐる。
 しかし、大体において、かゝる名称は意味のないことで、荒木、真崎派を目して国体原理派と呼ぶものもあり、これが陸軍の改革的な正統であり、他は異端として排撃してゐるものもあるが、実際は、その名称の如何に拘らず、事実によつて判断すべきものである。そして、これ等の名称は、概(おほむ)ね部外のものが附したもので、従つて部外と関係の深いもの程、体裁のよい名称が冠せられることゝなるであらう。
 兎に角、永田派が合法派と呼ばれる所以のものは、常に永田が主張する合法的改革論に由来するやうだ。彼の合法改革論の一端が、具体化したものが、内閣審議会調査局であり、これこそ永田が吉田内閣書記官長等、新官僚との合作によるもので、国家総動員に関する彼の年来の研究の政治的分野が、こゝに現実化したものである。
 過般の臨時及び通常議会を通じて、陸軍のとれる態度は、部内にも相当反首脳部的空気を醸成した。殊に、在満機構改革を繞る関東軍幕僚声明と、関東庁職員の官紀紊乱の事実の有無、床次遞相を繞る五十萬元事件等において、陸軍は首脳部のとれる態度は、政府援助を第一義とし、陸軍の立場を第二義としたやうにみられた。このことは、部内の反首脳部気勢を上げ、それが結局永田排撃の空気を造つて行つた。
 尤も、排撃の空気の底には、純粋なる気持ちでなく、反対派の陸相、永田軍務局長間をさかんとする意識的な策動があつたことも想像されるところである。加ふるに、所謂去る事件の発生は、一層永田に対する誹謗中傷の声を放たしめ、彼を繞る怪文書は頻々と飛ばされ、デマは横行した。
 ところが、このことは反つて第三者には永田を大きなものにしたやうにみえた。一体、何故に一軍務局長である永田に対し、かくまで度を超えた批難攻撃を繰り返されるのであるが、先づ、この疑問は当然起るであらう。が、それは部内状勢が語つてくれる。
 中立派として、中心勢力のない林は、結局永田等の勢力の上にのつかつた。或はまた、反対に林陸相の庇護の下に、永田は中立分子を自然と自己に吸引し、結集したといはれるが、その何れにしても現在において、林は永田派の上にある。従つて、陸相が議会その他でなす言動は、永田の膳立になるものだと解する。事実はそうでなくても永田がしたことになる。
 こゝで、林不満の空気は反永田熱に転移する。永田をやつゝければ、林政権は実質的には倒れるんだ、とばり、反対派の具体的には真崎派の策動が、彼に対して向けられたのであつた。
 永田は今日、都内でこういふ方面に対しては、防戦的立場にある。が、彼の軍政的手腕は、同期の三羽烏小畑、岡村、等と比べ物にならない程卓越してゐる。しかも彼の外柔内剛の性格は、よくのこの難境を切りぬけて、将来のより大物たるには、よき試練として、彼は甘受してゐる。
 彼の陣営は、彼が少将であるだけに、将官級には乏しいが、十七期の英才東條英機少将(久留米旅団長)が、恰も建川、小磯の関係の如く、ピツチを合せて居り、その他大佐級の中堅分子をはじめ、相当数の支持を得てゐる。
 現在中央部の中堅将校は、多少の鞭撻的な不満は彼に対して抱いてゐても、彼の支持的空気は外部の批難に反比例して増大してゐることは注目を要する。

 十二、陸相、林首脳部と其の動向

〔蔵書目録注〕

 表紙には、「小林住男著 10セン 軍部の系派・動向 軍部は如何に動きつつあるか? 」などとある。奥付には、「『今日の動向』 No.19 (定価10銭) 昭和十年 〔一九三五年〕 六月二十日発行 発行所 今日の問題社」などとある。18.8センチ、60頁。
 なお、発禁処分は、昭和十年七月十日で、表紙には「発売頒布禁止 10.7.10」などとある検印が捺されている。


『相澤中佐の片影』 (1936.2)

2012年09月01日 | 二・二六事件 2 怪文書

  

 目次

相澤中佐の片影

 目次

 一、中佐の略歴  〔下は、その一部〕

 五、六歳の頃中佐は父君に従つて、郡山市(当時町)郊外の一小庵寺に起居して居た。其頃父君は旧藩の先輩同輩で維新の際に死んだ人々の故事を仔細に調査し、其の埋れた孤忠を留め彰すべく、全く独力で附近の遺跡に石碑を建てられたと言ふ。常々中佐に語つて言はれた。
 「わしは仙台の藩士で、御維新の時には小義に捕はれて官軍に抗し申訳ないことをした。お前はどうか何時迄も 天皇陛下に忠義を尽し、此の父の代りをも勤めて呉れ。これがわしの遺言じや」と。

 二、中佐の片影 
 三、中佐最近の書信 
 四、雑録 

 昭和十一年二月八日印刷 昭和十一年二月十日発行 定價金拾銭 編輯兼発行者 尾榮太郎 発行所 國際探訪通信社出版部

 本書は、「相澤中佐の人格並犯行を賞恤」として、二月十三日に発禁処分となった(『増補版昭和書籍雑誌発禁年表 中』による)。

 なお、「相澤中佐の片影‥‥翠谷山人」が、『核心』一二月合併号(第三巻 第一号 昭和十一年二月一日印刷 昭和十一年二月一日発行 発行所 直心道場内 核心社)にある。


『大眼目』  (1935.11ー1936.2)

2011年09月21日 | 二・二六事件 2 怪文書

 ○ 大眼目 第一号 (毎月1回発行) 昭和十年十一月二十三日発行 発禁:十一月二十四日

            編輯発行兼印刷人 福井幸 印刷所 実業之世界社 印刷部 発行所 大眼目発行所

  ・国体明徴とは何ぞや 〔下は、その最初の部分〕

   国体明徴とは何ぞや。
   神詔を体して此の日本国を肇建し給へる神武国祖の御理想ー而して明治天皇によりて最も明白にされたるー即ち、君民一体、 一君万民、 八紘一字の謂である。
   日本国民の営む所の思想的生活、政治的生活、経済的生活、全生活は之れを大本とし之れを理想とすべく、而して日本国の制度方針は此の国民の此の生活に相応はしき所のものでなければならぬ。
   総じて日本的生活ー日本の一切は此の御理想即ち国体を生活することである。    
   
  ・対外策と国家改造 英露を敵とすべき第二大戦の秋 到来ー国家改造は焦眉の急だ
  ・国債増発積極予算の編成を要求する 当局の詭弁欺瞞を看破して 国家財政の実力に起て

  ・相沢中佐の公判について
  ・粛軍の本義 相沢中佐蹶起の真因
  ・第三軍縮会議を決裂せよ
  ・国体明徴に関する国民当面の要望
  ・順逆不二の法門 〔下は、その最初の部分〕

   維新革命とは、天皇政治が代官政治に堕落するに到るや新たなる天皇政治を再建せんとする国民的運動なり。

           

 ○ 第二号 昭和十年十二月二十五日 発行 発禁:昭和十年十二月二十四日   

   革命とは未顕現真実を現前の一大事実となす事なり。恰も地震によりて地下層の金鉱を地上に揺り出す如し。
   経に曰く大地震裂して地湧の菩薩出現すと。大地震裂と過ぐる世界大戦の如き来りつゝある世界革命の如き是れなり。地湧の菩薩とは地下層に埋るゝ救主の群と云ふ事則ち草沢の英雄、下層階級の義傑偉人の義なり。

  ・相沢中佐の公判に就いて 
  ・公判を機に全維新 戦線の前進統一へ
  ・維新史より見たる永田事件
  ・順逆不二の法門
  ・予算編成に暴露せる 軍部の非維新性
  
  ・維新途上の国家在世は 如何なる方針をとるか 国家の全富力を抵当とする公債の 大増発大予算の編成を要求せよ
  ・維新的経済組織の大眼目
  ・私有財産制の否認に非ずして その合理的制限の制度化にあり
  ・当面の対外問題
  ・戦闘的同志の道

 ○ 第三号増刊 昭和十一年一月十七日 発行納本  発禁:昭和十一年一月十六日      
 
  ・渡辺教育総監に呈する公開状 〔下は、その最初の部分〕

   教育総監閣下。
   天皇機関説が国体の反逆の不逞思想であり、其の信奉者が逆臣国賊であること、従つて是れは断じて芟除せざるべからざるものであることは、今更此処に申述べるまでもない。
   一木喜徳郎、美濃部達吉、金森徳次郎氏等が、彼等を庇護し支持する同質の勢力系統等と共に挙国的弾劾を受けて居ることは固より其の所である。
   然るに近時「陸軍に潜む天皇機関説信奉者を芟除すべし」「渡辺教育総監こそ這個の不逞漢なり」の聲日を逐うて激化。実に閣下その人が彼の一木、美濃部、金森氏等に亞いてーー否、教育総監たり陸軍大将なるが故に却て彼等よりも遥かに重大に関心され弾劾されるに至つたとは、何事であるか。

 ○ 第四号増刊 昭和十一年二月二十五日 発行 7面 発禁:昭和十一年二月二十三日   
 
  ・〔相澤中佐の写真〕
  ・相沢中佐公判記録

   相沢中佐公判の内容は、我れ人ともに今日最も知らんことを欲し又知るを要する所である。茲に其の第一回乃至第四回の公判記録を送る。本記録は速記ではないが、速記に最も近き苦心の結果であることを断言する。        編輯同人識

    「公判第一日(一月二十八日)」
    「公判第二日(一月三十日)」
    「公判第三日(二月一日)」
    「公判第四日(二月四日)」)
  ・参考(秘)教育総監更迭事情要点 七月十六日 村中孝次
  ・極秘 軍閥重臣閥の大逆不逞 昭和十年七月二十五日 維新同志会同人

〔蔵書目録〕

 『二・二六事件ー研究資料Ⅲ』に、次の記述がある。

   印刷物大眼目ヲ二十四日夜約五百部受領シ日夕点呼ノ際週番士官ニ六、七部宛分配ス其ノ際ニ於ケル山口大尉ノ言左ノ如シ①中隊長ニ見セ然ル後下士官、兵ニ分配スヘシ②単ニ(分配スヘシ)③幹部ニ見セ次テ兵ニ分配スヘシ④単ニ(兵ニマテ分配スヘシ)

 また、この「大眼目」について、『右翼思想犯罪事件の綜合的研究』には、次の記述がある。

 更に直心道場は皇道派民間団体の牙城として西田税の指導下に雑誌「核心」「皇魂」及新聞紙「大眼目」等を総動員して相澤公判の好転、維新運動の推進のため宣伝煽動に努めつゝあつたが、就中「大眼目」は西田税、村中孝次、磯部浅一、渋川善助、杉田省吾、福井幸等を同人として、宛然怪文書と異なる所なき筆致を以て「重臣ブロック政党財閥官僚軍閥等の不当存在の芟除」を力説し、「革命の先駆的同志は異端者不逞の徒等のデマ中傷に顧慮する所なく不退転の意気を以て維新革命に邁進すべき」ことを煽動し、之は軍内外に広汎に頒布する等暗流の策源地たるの観を呈して居つた。