スキー發祥當時の思ひ出
-レルヒ少佐に親しく指導を受けた頃ー
陸軍大佐 鶴見宣信
今を去る二十餘年前、墺國杉村公使の盡力が因となり、高田第十三師團は墺國參謀フォン・レルヒ少佐(現少將)を敎官として迎へ、日本スキー史に輝く第一頁を踏み出したことは人も知るところ、當時同師團に在り、レルヒ少佐に直接指導を受けられた鶴見閣下に請ふて、スキーの驚異を日本人として最初に満喫された當時の模樣に就き、具に物語つて戴きました。
(記者)
◇
◇レルヒ少佐大汗となる
最初、レルヒ少佐にスキーの指導を受ける將校は十人だけといふことであつたが、十二個中隊ある中で一師團から一人づゝ選抜してゐると、二個中隊が餘ることになるので、苦情が出たから十二將校となり、また騎兵、砲兵、輜重兵からも三人、それに聯隊長堀内大佐も加はられたので、意外の大勢となつた。困つたのはスキー具で、前に十臺程、陸軍砲兵工廠に注文したのは到着してゐたが、それでは足りなくなつた。レルヒ少佐に話をすると自分のが四、五臺有るといふのでそれを借りても未だ足りない。ーそこで慌てゝ當地の大工に賴んで作らせたやうな次第であつた。‥‥
さて其の第一日、明治四十四年一月十日の午前八時半に、レルヒ少佐は一分の違ひもなく、時間キツチリに、營庭に整列して待つ日本將校達の前に姿を現した。
三、四尺の雪が、營庭を眞つ白に埋めてゐる。
そこで一場の挨拶をレルヒ少佐がやつて、愈々實習となるのだった。通譯は取敢ず現子爵の山口參謀が受持つことゝなつた
ー先づ一同にスキーを持たせ一列に立たせた。そして、
「メテレスキー」といふ。‥‥山口參謀は難しい顔をしてもじもじ遣 や つてをつたが、軈 やが て「スキーを附け!」と言つた。山口參謀は佛語が解るとはいへ、スキーテクニックは耳慣れてをらぬので、大分面喰つたらしかつた。
ところで、「スキーを附け!」だが、その號令が掛つても、一同はたゞ困つた顔附をしてマゴマゴしてゐる。それも無理はない一體何 ど うしてスキーを附けてよいものか、それが第一の疑問であつたのだから。
「オイ山口君、解らんぢやないか、穿き方を説明して貰はんことには‥‥」
「成程左樣だナ」といふことで、それからレルヒ少佐に實演して貰ふ。左足を金具に通し、後で締 し める、其前に踵 かかと の 邊 あたり に金具があるが、其の高い所へ足をもつて行つて、コンコンコンと靴をニ、三度叩いてから靴を突込むといふわけ。此のコンコンコンは何の爲かと大分不思議であつた。
それを眞似 まね て皆がスキーを穿くとレルヒ少佐は一人一人を丹念に點檢して廻つて正しく改める。漸くそれが出來る樣になると、少佐は列の前に立つて、
「オテレスキー」と言ふ。ハヽア、これはスキーを脱げといふことだナと、今度は通譯されぬ前にも容易に想像された。
それが濟むと、亦もや號令が掛つてスキーを穿く、脱ぐー其の同じ動作を七、八度も繰返したであらうかー日本人は一度敎へてみて工合が良ければそれで止めるが、外人の物事に徹底せねんば止まぬ氣質の現れで、如何にも念入りな敎へ方であつた。終りには此方 こつち も可笑しくなつた位で、然もレルヒ少佐は汗だくとなつてしまつた。第一日の午前中はそれだけで終り、午後は雪の上を歩くに就 つい ての説明がある。‥
一本の長いステツキ(アルペンスキーは兩杖ではない)を横に寢せて、それを押しながら歩くので、それを先づレルヒが試みてみせて一同にやらせた。皆一列となり營庭を歩いて廻る。
兵舎の窓といふ窓は、見物の兵士達の頭で眞つ黑に埋 うづま つてゐる。
營庭の中央に小さな溝があつた。堀内聯隊長が先頭に立つて其の溝にかゝると、物の見事に引つ繰り返つてしまつた。するとレルヒ少佐は笑つて、
「聯隊長殿、轉 ころ んでは不可ません」
其のあと、また誰も誰も其地點に掛ると尻持 しりもち を突く。「尻を落しては不可 いけ ません」で、またまた大笑ひ。
◇一同閉口のこと
第二日目。
此の日も午前八時半に一同は營庭に集つた。そして漸く我々は、スキーの金具にコンコンと靴を當てゝ叩く意味が解つた。靴に附着してゐる雪を拂ふ爲めであつたのだ
廣い練兵場のたゞなかで、前日の復習をやる。靴が埋まらずに、新雪の上を歩くのは初めてのこととて、兎に角驚異と興味とを覺えるのであつた。さういふ風に練兵場を歩き廻ると、レルヒ少佐は「今日は山に登ることゝしよう」と言ふ。それから少佐は私に向つて、
「君と山口大尉と何方が古參だ?」と訊く。で、私は
「僕の方が一年ばかり古參だ。」と答へる
「それならば、君と山口大尉と通譯を交替せよ、新參の方で古參の將校に号令を掛けることは、軍規上宜しくないから」と少佐は力説するのであつた。然し僕は、
「それは少しも構はぬ。何も山口君が僕に號令を掛けてゐるものとは思つてゐないのだから‥‥‥」といふのだが訊かない。
此の事を山口大尉に話すと「それは尤もだ。早速君と代らう」と言ふ。「イヤさうしなくともよい」と私は固辞したが「實は通譯の役は苦しくて閉口してをるのだ、代つてくれ」と拜むやうに言ふ。「それなら」といふわけで、私は山口大尉に代つて、通譯の任に當ることゝなつたのである。レルヒ少佐は、英、佛、獨語を自由に操り得る人であつたので、私の知つてゐる英語を話して貰ふことゝなつた。
さてそれより亦一列になつて練兵場を過ぎ、陸軍墓地の裏の山へさしかゝつた。するとレルヒ少佐は言ふ。
「今は山が左だ、ステツキを左の方に持て!」
それを聞いた一同はキヨトンとした顔附をして、腹の中では、山が左だなんて變なことを言ふものだと思つてゐる。
レルヒ少佐は先頭に立つて雪の上を登つて行く。それから今度は「山は右だ!」でステツキを右に持ち變へ、卽ちキツク・ターンで電光形に登つて行つた。僅か百五十米位の山だが、一同はもう汗だくだくとなつて少佐の後から漸くの思ひでついて行つた頂上に着くと、レルヒ少佐は至極洒々とした容子で、自分の着てゐた毛皮附の暖かさうな外套を脱ぎ、堀内大佐の肩に掛けてやつたものである。
然るに堀内大佐は大汗で、頭からぽツぽと湯毛を出してゐる位なので、慌てゝ脱がうとするとレルヒ少佐は遠慮と感違ひをし「オー、オー」と言つてそれを押し止める。
其の大きな少佐の外套を羽織つた堀内大佐の姿は、恰で子供が親爺の上着を借りてゐるやうで、奇抜な漫畵的光景であつた。
それから山を滑つて降る説明に移る。
「眞つ直に降りるには右足からでも左足からでも良い。今、左足から説明する、初めは一歩踏出し、右足を輕く出して兩足を揃へ、上體を心持前に掛ける、重心は後に七分、前に三分おく。解つたか?」
‥‥で先づ其の手本を示す可く、見るも鮮やかに滑つて見せた。
「巧 うま いもんだなア」
我々は思はず放つた感嘆の聲と共に吸はれたやうに見惚れてゐた。
レルヒ少佐は百米ばかりの下でグルツと横に廻つてぴたりと止つた。そして其處で「解つたか?解つたなら降りて来い。」といふ。然し之を聞いて誰も我から進んで滑らうとするものはない。遂に少佐の指名に依つて、第一に高橋中尉が滑ることゝなつた。だが僅か三尺ばかりも行つたと思ふと引つ繰り返つてしまつた。次は小暮少尉だつたかと思ふがこれも無論轉 ころ んでしまふ。それから堀内大佐が行くと某少尉の身體の上に打つ突かる。叉それに高橋中尉が大佐の頭の上に乗るといふわけで、
「止せ、ひでえひでえひでえ」と、お互 たがひ に言合ひながら、皆してごろんごろんとごろんごろん廻りで降りて行つた。それから叉元に歸つた
レルヒ少佐に「轉 ころ ばぬ樣に降りろ」と叱られながら再び滑ることゝなる。-前に一同の轉んだ大穴が空いてゐて危險だから、今度は一人づゝ滑つた。叉しても、皆してこゝをせんどと轉んだものだが、何しろ一番猛烈であつたのは松本中尉で、雪の中に完全に頭を沒し、足を二本、ニヨツキリと空中に出してしまつた。漸くのことで匍ひ上つたが帽子を雪の中に置いて來た。「何處だ何處だ」といふわけで皆してステツキで突つくもので「有つた有つた」と寶物でも掘當てたやうに拾ひ上げてみると、ステツキの先端に着いてゐるカネの爲に穴だらけとなつてゐる。レルヒ少佐も大笑ひをした
其日は其麽具合で暮れた。
翌くる日になると、少々一同は閉口垂 へこた れ氣味となつてゐる。
ーもう少し何とか樂に敎へて貰ふ譯には行かぬものであらうか。
と、泣言を言ひ出す者さへある。
ーバカな事を言ふナ、敎へる先生は外國人であるのに、我々日本人の身で意氣地なくも弱音を吹くといふことは國辱だ。足腰の立つ間は遣れ!
といふ事に歸着して、一同は勇氣を奮ひ起した。
其朝、練兵場を眞直ぐに出ると前日とは反對に射撃場に向つて左に行き、現今は松林が在るが、其脇の廣場の緩斜面で、滑走の要領を丁寧に敎へられる。基本的に姿勢を正し、手を執り足を執つて指導を受けたので、十米、十五米と滑走が出來る樣になつた。もう餘りひどくは轉ばぬ。
「今日はどうにか滑れさうになつたので有難いが、昨日のやうなのは困る」と私はレルヒ少佐に言つてみると、彼は笑つて、
「初めて、スキーの練習をする人には、第二日目は誰でも高い山へ連れて行くのだ。私の國でも必ず遣るのだ。竟 つま りスキーヤーの度胸試しなのだ」と言つた。
次いで、四、五、六日目と、練習は順序立てゝ着々と行はれた。まる四週間、規則正しくそれは續けられた。たゞ日曜日は課外散歩だから八釜しくなく、愉快に遊んだ。斯くしてアルペンスキー術も一通り卒業だ
最後に卒業試驗が行はれた。
難波山に登る途中の山で、其の頂上から射撃場の邊までレースを遣れといふことになつた。其時、最初に加わつてゐた騎兵、砲兵、輜重兵は旣に落伍してゐた。我々歩兵將校は矢張り足が強い爲めか一人も落伍者は無かつた。
此處で轉んだり引つ繰り返つたりしては卒業出來ないのだから、我々十三人は一生懸命であつた。其の途中「七曲りの險」といつて、一歩誤れば谷底に墜落するといふ樣な險處もある。
レルヒ少佐に私は「一番後から滑つて来て轉んだ人間を見て來い」と命ぜられた。
スタートが切られる。レルヒ少佐も一緒になつて滑つた。私も一同の後について滑つた。流石に誰一人轉ぶ者もない。
斯うしたことが未だ昨日の出來事の樣に私の腦裡にはまざまざと殘つて居るのに、私の當時の知己達が一人去り二人去りして、今はまことに尠くなつた。些か寂寞の感に堪へない。‥‥(談)
ー文責在記者ー
〔蔵書目録注〕
上の文は、昭和九年二月一日発行の雑誌 『旅』 二月號 第十一卷 第二號 通卷一一九號 日本旅行協會 に掲載されたものである。
氣がついた時は海の中
ー助かつた人達に十圓札を配つた話ー
米山菊太郎
汽車が根府川驛の構内にすべり込んだ。降車する者の二三人は仕度をして立ち上り、汽車の停まるのを待つてゐる者もあつた。自分はその當時、蜜柑の各地轉賣をしてゐたので、當日は山の買出し(樹 き になつてゐるまゝ豫想で買ふこと)のため、七百圓を小風呂敷に包んで懐中に入れてゐたが、風景は目慣れて居つたし、ぼんやりと外を眺めてゐた。
すると、初めにぐらつと列車が揺れた。『はてな』と思ふ間さへもなく、急に烈 はげ しい音がすると、列車がひつくりかへつた。そして夢中になつてしまつた。
とにかく列車が、海岸へごろごろ轉 ころ がつて行くやうなことだけは感ぜられた。といふのは、根府川驛が、海を瞰下 みおろ す斷崖 だんがい 三百尺の上に建つてゐることを知つてゐたからで、後で聞くとこの際にも列車から飛び下 お りて助かつた者があつたさうだ。よくそんな暇があつたかと思ふ位である。そして二三回轉がつたことは知つてゐるが、後は氣を失つてしまつたらしく、何も能く覺えてゐない。
氣が着くと、列車の中に激しく水が飛び込んで來てゐる。『出なければならぬ』、自分はさう思つて、夢中で這 は ひ出した。たぶんそれは窓からであつたと思ふが、同じ車室の中にゐた四五十人がどうしたか、それも覺えてゐない。一人三十二三の紳士が、白い眼を向いてゐたのだけ知つてゐるが、それが死んでゐたのかどうかもわからないのである。
自分は直ぐに海の中に居た。周圍には材木がごつちやになつてゐて、打突 ぶつか るといふよりか、その中で一緒に揉 もま れてゐた。
自分は盛夏に際しては、鮑 あはび を採 と るために毎日海に出るのが好きであつたが、その經驗から、その材木の中に揉まれてゐることが、危險であると考へた。波は前夜からのしけで小さくないし、岸に上るよりか沖に出る方が、この地方のものとして普通なので、自分もすぐに材木の中から抜けるつもりで、必死になつて沖へ泳ぎはじめた。 顳顬 こめかみ のところと頭との怪我は、この時に受けたらしいのである。
が、これは自分が運よく助かつた原因で、材木の中を抜け出してから陸を見上げると、崩れた土の斷崖を昇つて行く者がかなり澤山ある。と思ふと、それらが上からまた崩れて來た土に埋 うづ まつて。手だけがもがいてゐるかと思ふと見えなくなつたり、そのまゝすぽりと埋まるのもあつた。自分は恐ろしいといふよりも、たゞ夢中になつて、沖をめがけて泳いだ。
不思議なことに、その中に海が乾いてしまふかと思はれるほど、見なれてゐる海岸の岩などが根を現はしてしまつた。
自分は至極落着いたつもりで、懐中を探つて見ると、小風呂敷がほどけて、札が出てゐるらしいので、それをしつかりと左手に摑 つか んで、幾度 いくたび も(三度位かと思ふ)攀 よ ぢ登らうとしては、崖に埋められてしまふ人達があるのを見た。が、自分の助かつたのは、それを見てからまた沖に出たからで、岸に遠い處 ところ にゐなかつたら、次のことで矢張りやられてゐたと思はれる。それは振り返つて見付けた、崖よりか高い大波 おほなみ があつたことである。
(この大波は後で聞くと、根府川全村が埋もれて、大半の人達が死んでしまつた、地震のあとの大山海嘯 おほやまつなみ が、海に落ち込んだ時に起つたものとのことである)
大波を見付けると同時に自分は『もう助からない』と思つたが、波に慣れた者の癖で、すぐその大波をめがけて突き進むと、三角のてつぱんから落ちて來る白泡 しろあは に卷き込まれてはたまらないから、鮑採 あはびと りで慣れてゐるもぐりで、その前に波の底に潜り込んでしまつた。そして二度も浮 うか び上がらうとして、卷き込まれてはまた潜つてから、三度目に顔を出した時には、息が咽喉 のど まで詰 つま つて、その苦しさのあまりどうでもなれと思つた。が、その時には一波 ひとなみ すんだところで、嬉しいといふかよりか、靑い空にでも浮き上 あが つたやうな氣がした。
すぐに前よりか小さいが、また大波がやつて來た。
それを潜 くゞ つてやり過 すご すとまた一つ、しかしその後は、三角のてつぺんから崩れてくるやうな波はなく、段々靜かになつて來た。自分はやつと安心して、すぐに陸をめがけて泳ぐと、まだ材木の散らばつてゐるのを掻 か き分けて、土崩 つちくず れのしてゐない方へ泳ぎ着いた。
兎に角何のためにかうなつたのか解 わか らないが、土崩れのする處は危ない、自分はそれを見定めると、それでもぷか〱する土の中を攀登 よぢのぼ つてから、やつと南側に崩れないで殘 のこ つてゐる雜木 ざふき の岩根 いはね がある、そこへ辿 たど り着いて三四十人の人達がかたまつてゐる仲間になつた。
氣がつくと、自分は札をまだ握つてゐる、かぞへて見ると百九十圓ある。五百圓の束 たば と一枚だけがない譯 わけ であるが、落ち合つた人達の中では、自分をまぜて六人だけが、泥塗 どろまみ れになつて着物もずた〱になつてゐる。自分はすぐ海に陥 お ち込んだ中から、助かつた者はこれきりだと判 わか つた。そして外の五人に十圓札を一枚づゝ配つた。
こゝで可笑 をか しいのは、それだけの人がゐながら、何が原因でさうなつたかゞ、誰にもわかつてゐなくて、それに就 つ いては驛だけがたゞ崩れたことゝ、皆んなで極 き め込んでゐたことである。
『こんなことをしてゐたつて仕樣がない、歸りませうか』さう言つて立ちかけた、商人風の五十位の人があるので、自分もその後について、林を分けて上へ攀登つた。そしてよく見ると、汽車の道はすつかり崩れて通れさうもないので、人道が山の方に通じてゐるのを行くことにした。
その人は小田原の者であつた。『だから鐡道省はいけない』、その人は頻 しき りに驛の不正工事のことを攻撃して、このことは必ず鐡道省に持ち出してやると憤慨してゐる。自分も頗る同感で、道々崩れてゐる處があつて、道でない畑や林を通らなけれなならなかつた癖に、大地震とは少しも考へがない。
山の上まで來ると、小田原、大磯などが見渡 みわ たせる。
『火事だ!』二人は茫然としてゐたが、すぐに一緒に叫んだ。
『こりやあ大變だ』『大地震だ』。自分の村はそこから、米神をこえての次である。
そして向ふから來て呼ぶ者があるので、見ると弟と友人で、汽車の落ちた話が傳 つた はつたので、自分を心配して駆けつけて來てくれたのである。米神に辿り着くと、こゝでは村の五分の一ほどが山海潚 やまつなみ に埋まつて、鐡道線路の上の家は一軒も見えない。岩や土や樹 き がその上にかぶさつて、みんな死んだといふのである。自分は恐ろしいのよりか、ぼんやりしてしまつたが、それからまた山を越えて村に歸ると共に、怪我と疲れとですぐさま倒れてしまつた。
汽車もろ共に海中へ
ー根府川遭難記ー
對木敬藏
熱海線根府川驛で、あの時列車が三百七十有餘名の乗客諸共 もろとも 數十丈の斷崖から海中へ轉落し、加ふるに直 す ぐあとから襲來した山津浪のため、人も列車も海中深く埋没し、奇蹟的に生命 いのち を拾つたのは僅か二十一名の少數にすぎなかつた。私は實にその二十一名の生存者の中の一人として今怖 おそ ろしかつた當時を靜かに追想しながら、あの不幸にも『死』のサイコロを振り當てられた幾多の氣の毒な人々に、心からなるはなむけとしてこの手記を綴 つゞ るのであります。
私の生家は熱海温泉場で古くから旅館を經營してをります關係上、その長男に生まれた私は當時料理の心得の必要から、舊幕時代このかた東海道の割烹料理で名高い三島町の魚半に寄寓し、專心料理の研究に没頭してゐたのでした。そして震災の當日はまる一年振りで故郷の熱海へ歸省する豫定でした。前日から前々日にかけて續け樣に大きな婚禮仕事や宴會が澤山あつた爲めに、私は非常に疲れてゐましたので車中ぐつすり寢込んで終 しま ひました。
小田原、早川とすぎ、米神 こめかみ の邊 へん へ來ると流石 さすが に熟睡後の頭が快 こゝろ よく冴えかゝつて、時々眼を上げては車窓から見はろかす相模灘の紺碧を眺めたりしました。この日は海が朗らかに輝いて、三浦房總の岬から初島、大島の御神火までなつかしく眼底に映るのですが、直ぐ亦ウト〱としてゐました。
『根府川!根府川!』遠くの方から車掌の呼聲 よびごゑ が夢現 ゆめうつゝ の間に聞えて、汽車は靜かに構内に向つて徐行し初めた樣 やう に感じてゐました。すると數秒の後、突然列車はドシン!と云ふ何物かに強く衝突した樣な激動を起した。私はその時、列車がよくある例で、後尾に於 おい て貨物を連結したその衝動だらうと思ひ、何氣なく車外 そと を覗 のぞ いて見て、アツ!と叫びました。構内の建物や電柱が屛風の如く揺れ動いて、プラットホームには驛員や大勢の人達がまるで蟹の樣に地面に匍 は ひつくばつてゐるのではありませんか!!
『地震だ!地震だ!大きな地震だぞ!!』車内の人達は、期せずして蜂の巢を突いた樣に騒ぎ初めました。
『あなた!貴方 あなた ッ!大丈夫でせうか!』『あッ!あぶないッ!荷物が落ちる!』『泣くぢやない!泣くぢやないッ!今に止むから!』『健坊!シッカリ!、シッカリ摑 つかま つて!』『逃げろ!逃げろッ!大きくなるぞーウ!!』列車内の動揺は益々 ます〱 激しく、果てはいまにも横樣 よこざま に轉覆 てんぷく するかと思ふ許 ばか り強く揺れて、網棚に乗せてあるトランク、バスケット、洋傘 かうもり の類まで、まるで生物 いきもの の樣に左右に混亂して飛び違ひ、窓硝子 まどがらす はメリ〱破れて實に危險な狀態に陥り、皆々先を競つて車外 そと へ逃れ出 いで んと焦燥 あせ りましたが、大激動のため立てば轉 ころ び、歩けば倒れ、逃れ出られゝばこそ、辛うじて腰掛臺の一端を兩手でシッカリ握つて危險物の散亂を防ぎ乍 なが ら、生きた心地もなく、激動の止むのを今かゝと念じて居りました。私の乘つてゐた箱は國府津から殆 ほとん ど滿員でしたが、此の時はみんな私の樣に中央 まんなか の歩道に四ッ匍 ば ひになつて腰掛けの一端を兩手でシッカリ握りながら、口々に呶鳴り喚 わめ いてゐましたが、刻一刻と動揺が激しくなりますと、いまは最 も う誰一人として口をきく者もなく、私も心に暗い大きな不安を抱きながら、それでも今に止 や むかとそれ許 ばか り期待してゐました。フト火の付く樣な激しい泣聲 なきごゑ に我に返つて側 そば を見ますと、丁度七八歳の水色の簡単服を着た可愛らしい女の子が、お母ちやん、こわいよう!こわいよう!と叫びながら、その母親と思はれる三十七八歳位の上品な婦人にシガミ付いてゐるのです。婦人はも眞蒼 まつさお な顔をして、一生懸命に腰掛け臺につかまりながら『泣くぢやない〱、ミイちやんはいい子、いい子よ!』となだめてゐたが、私と視線がぶつかると『あなた、止むでせうか!主人は!!主人はどうなるのでせう!』と半狂亂に唇をワナ〱震はせる。私は返事もうはの空で、フト背伸びをして車外 そと を一瞥 いちべい した瞬間、直ぐ前の煉瓦造りの建物がドッと崩壊したののに悸然 ぎよつ として俯伏 うつぶ せになりましたが、その時一町と離れてゐない根府川の大鐵橋 だいガード の邊 あたり で、轟 がう !と云ふ實に何とも名狀し難い一種異樣の大音響が起つたかと思つた一刹那!!列車は依然大激動を續けながら非常な急速度で奔 はし り初めた樣に感じました。(これは後で判つた事ですが、大法螺山 おほほらやま が崩壊し蜿蜒 えんえん 拾數丁に亘る大山つなみが押し寄せ、根府川大鐵橋 おほガード の下に在る戸數二三百戸の根府川村落を一瞬の間に埋没し、一方私共の乗つた列車を數十丈もある斷崖から海の方へ轉落させたのでした)その時の心地は!この受難の洗禮を受けたものでなければ判りませんが、凡 あら ゆる不安、恐怖が渦卷いて、暗い死に凝乎 ぢつ と直面してゐる樣な心持でした。
二秒!三秒!四秒!瞬間列車の轉落がハタと止み皆ホッとしました。此の時逸早 いちはや くも數人の人がドヤ〱私の前を通り、この死地より逃れる可く車外 そと へ飛び出した樣に覺えてをりますが、氣の毒にもこの人々は山つなみのために一人殘らず生埋 いきうめ となり、今以てその遺骨すら掘出せぬさうです。
間髪を容れずすぐ轉落は續きましたが、今度は前より非常に激しく、殊に前列車か後列車かが何かに衝突したらしく、大震動を傳へて來て、私は摑 つか んでゐた腰掛を摑み切れず、ヒドク跳ね飛ばされ、何かの角でシタタカ腰背部 えうはいぶ を打 ぶ つけました。その時死物狂ひで起上りフト氣付くと、何時の間にか窓が頭の上になつてゐましたので、何か知ら全身全靈をゾツとさせ、無我夢中で天井の窓口の方へシガミ付き、幾度 いくたび も跳ね飛びされ突き落されながら、天井の硝子 がらす 窓から外へ逃出 にげで やうと必死にもがいてゐる中、實に今考へても身が悚 すく みますが、その硝子窓目がけて海水がドーッと瀧の樣に侵入して來るではありませんか!!
『最 も う駄目だッ!』私は奔騰 ほんとう する海水を頭から肩に浴びながら、その渦卷きが流れ込む強い力に、窓際へかけた兩手を幾度か離しさうになりながら尚必死で摑んでゐました。
あゝあの時、私が絶望のあまり兩手を窓際から離したらどうでせう。列車内で奔騰狂亂する怒濤 どたう の渦卷きに捲き込まれて逃口 にげぐち を失ひ、氣の毒な三百數十名の同乗者と同じ死の道を辿つたに違ひありません。
窓際へ両手をかけて凝乎と怒濤と鬪つてゐたその𢖫苦 にんく の長かりし事よ!二時間も三時間も經つた樣に思はれました。そしてそれから先は一切無我夢中ででした。唯どうしたはづみか、兩手をかけてゐた窓口が不圖 ふと 通常 もと の位置にかへり、私は波の中で大きく眼を開 あ いたまゝ、割合樂にその窓口から逃れ出たまでは覺えてゐますが、それからは氣がボーツと遠くなり、今自分は何處 どこ で何をしてゐるのかさへ判らなくなり、最後に誰か遠くの方で太鼓でもたゝいてゐる樣な感じがして、無意識に足を蹴つたのでせう、頭がポカリと海面へ浮 うか び上つた時は、ヒドク眠氣が差して手足が自由にならず、亦 また 海の中へ沈んで行きさうになりましたので、氣を引き立て引き締めてゐました。
幾時間か海面を漂 たゞよ つた後、フト見ると體 からだ は數丁沖へ流されてをり、列車は旣に影も形も見えず、先刻 さつき までは靑々 あを〱 と草木の繁つた山が一變して、延々十數丁に亘り全部不氣味な赭土山 あかつちやま と化してゐるではありませんか。實に夢に夢見る心地でした。意識がハッキリして來ると、海水を多量に嚥 の んだので胸苦しかつたが、水泳は子供の時から相當自信があつたので、泳ぎながら着てゐた着物を脱ぎ捨て、襦袢一枚になつて米神寄りの海岸へ漂着しました。午後の三時頃でした。
海岸の松の根方 ねがた へよろめきながら漸く辿り着き。ホツと一息ついてゐると、其處へ早川驛の驛長と驛員二三名が遭難者救助に駆けつけて來て、用意して來た葡萄酒を飲ましてくれ、豆入りの煎餅を頂戴したが、あの場合あの好意は實に嬉しく思ひました。
さうかうしてゐる中、他の遭難者も一人二人と集りましたが、あゝ遂に私の隣りにゐたあの子供連れの婦人はその姿を現 あらは しませんでした。『主人は?主人はどうしたんでせう?』と叫んだその言葉、それは何を意味するか判りませんが、あの可愛らしい子供の姿と共に私には永久に忘れられない幻となつて終 しま ひました。
其の夜炎々と燃え盛る小田原の大火を眺めながら、打ち震ふ大地に戰 をのゝ きつゝ、十五六人の遭難者と山中で一睡もせず夜を明かし、翌二日の午前四時と云ふ未明に他の人々と袂 たもと を分ち、單身私は熱海へと向 むか ひ、途中幾多の危難を冒しつゝ根府川、赤澤、湯ヶ原を經て、同日の午後二時頃無事に歸宅する事を得ました。
私の父は大の日蓮信者ですが、九月一日のその日は虫が知らせるか、朝から佛壇に向つて私の爲めに祈つてゐてくれたさうです。私が萬死に一生を得たのも、かうした父の信心に依つて神佛の見えざる加護があつたに違ひないと私は信じてをります。
〔蔵書目録注〕
上の文は、昭和五年三月十五日發行の 『十一時五十八分 ー懸賞震災實話集ー』 震災共同基金會編 東京朝日新聞社 に掲載の三十四篇の内の二篇で、関東大震災による根府川駅列車転落事故関連のものである。
なお、関東大震災による熱海線(現在は東海道線の一部)の被害については、脇水鉄五郎の論考があり、転落した列車や山津波の跡の写真等もあり貴重である。
震災による熱海線の被害と復舊
理學博士 脇水鐵五郎
一 はしがき
昨年九月一日の相武大地震によつて我國鐵道の被 かうむ つた損害はかなり著しいものであったが、熱海線の被害はその中でも殊に甚しいものであつた。この熱海線は筆者が曾て本誌に記載した通り、(大正十二年三月號熱海線と丹那大隧道參照)將來我國鐡道の本幹たる東海道本線の一部となるべき重要なる線路であるのに、その線路の一部には大正十年四月と本年一月との二回に各十數名の犠牲者を出して、世上の問題となつた丹那の大隧道があるので、今回の被害を動機として本線の復舊或はその全部の開通が、一部の人々より疑倶の眼を以て問題視さるゝやうになつたのは遺憾の極である。それで私はこゝにその被害の實況を記し、併せてその復舊の必ずしも難事でないことを記述して、聊 いさゝか 世人の疑惑を一掃したいと思ふのである。
二 被害區間
熱海線は國府津眞鶴間の一一・三哩 まいる は一昨年十二月までに旣に開通して居り、その延長たる眞鶴湯河原間も、震災前工事は旣に完成して開通するばかりになつてゐたのである。湯河原以西は今尚ほ工事中であるが、その中 うち 熱海まではほぼ七分通り出來上がつて居る。
損害を被つたのはその開通區間だけで、工事中の區間は幸 さいはい に損害を免 まぬか かれた。又開通區間でも損害の甚しかつたのは早川眞鶴間だけで、その他の部分は問題となるほどの被害はなかつた。
現に國府津早川間は旣に復舊して列車を運轉して居るのである。それで私は早川眞鶴間の被害狀況に就いてのみ述べることとする。
三 被害の原因
早川眞鶴間の旣成區間が被害の甚しかつた原因としては、この區間が相模灣内の震源に近かつたこともその一に數へなければならぬが、根本的原因はその地形と地質の惡かつたことに歸せねばならぬ。
元來この區間は、箱根火山の裾野が相模洋 さがみなだ の荒波に削られて、多年の間に斷崖絕壁を形成したる所で、地形上鐡道工事地として我國有數の難場といはねばならぬ。しかも將來東海道本線たる重大なる使命を有する線路たるだけに、極めて入念に設計し巧に地形を利用し、工費には一哩平均百萬圓の巨額を投じて、技術の妙と精とを盡して築造してはあるが、地形上の難關は如何ともする能はず、僅 わずか 六哩の區間に大小十個の隧道 とんねる と、幾多の切割・橋梁築堤を要して居るのである。かゝる難工事に被害の多かつたのは實に已 やむ を得ぬ次第と言はねばならぬ。
次に之を地質上より見れば、これまた決して良好であつたとはいへない。線路に當る主なる岩石は、箱根火山より噴出したる熔岩と、その上を被 お ふて居る火山灰とから成つて居る。
右の熔岩は箱根火山の外輪山の一部を構成して居るもので、之れには平林博士が堅石 かたいし 熔岩と名づけたものと、根府川熔岩と名づけたものと二種類ある。兩溶岩とも箱根火山がまだ海底火山であつた頃に、水中に噴出凝固したものであるから、堅實なる熔岩部の外に、ラバブレクシヤ Lava-breccia と稱する片塊狀をなせる部分が割合に多くなつて居る。ラバブレクシヤ は凝集力の極めて弱いものであるから、このものゝ厚く山腹に現はれて居る所には、大抵山崩れができた。又熔岩の堅實部にも大小數多 あまた の割目があり、殊に地表に近い所では風化作用のため割目が廣く大きくなつて居るから、山崩れを起す可能性は十分備はつて居る。殊に根府川熔岩は、薄く平たい板のやうになつて剥 へ げる性質があるから、堅石熔岩よりも一體に崩れ易い。
火山灰は、箱根火山が隆起してすつかり陸上に現はれてから後に富士・天城などの火山から噴出したもので、厚さ一二丈の層をなして一面に山の表面を掩 お ふて居る。このものは今は全く分解して赤褐色の土のやうになつて居り、關東地方に特有の通稱赤土と同じく、之が火山灰であることは、素人目には殆 ほとん ど解らぬ狀態になつて居る。このものも切取面では屡 しばしば 山崩れを起すことがある。
右の熔岩と火山灰の外に、平林博士が石橋集塊熔岩と名づけた一種の熔岩と、凝灰岩及び集塊凝灰岩が堅石熔岩の下に現はれて居る所がある。しかしこれ等は線路の建設に直接關係して居るところは少ない。
四 山崩による被害
一體山崩は、重力が岩石土壌の凝集力に打勝つた場合に起るものであるから、熱海線の場合に於てはラバブレクシヤ又は火山灰層の如き凝集力に乏しい物質が、線路脇の切取面又は天然の急斜山腹に出て居る場所に專ら起つて居る。
隧道の入口は、隧道の長さを少なくする爲に大抵急な切取面を作つてあり、その切取面には大抵赤土層か又は熔岩の風化土層が出て居るもので、それ等が崩壊して隧道の入口を塞 ふさ いで居る。
根府川驛附近山崩のため列車海中に墜落す
根府川驛附近の山崩、駅建物の列車と共に海中に落ちた跡
早川眞鶴間に起つた山崩の最も大なるものは根府川驛の附近に起つたものである。これは根府川の停車場の西にあつた山が、非常に厚い根府川熔岩のラバブレクシヤで出來てゐた爲に起つたもので、このラバブレクシヤはその間に挾んでゐた二枚の熔岩層と、その上に被 かぶ つてゐた厚い火山灰層諸共 もろとも に海の方に崩れ落ち、停車塲も線路も皆高さ百尺ばかりの海濱の斷崖を飛び越え、海中に落ちて影も形もなくつてしまつた。又折から停車場構内に進入して將に停車せんとしつゝあつた下り列車は、土砂と共に海中にはね飛ばされてメチヤクチヤに破壊し、乗客中列車の窓から飛出して九死に一生を得たものは僅に數人に過ぎなかつたやうな始末で 、實に惨憺たる光景を現出したのであつた。
この山崩 やまくづれ の跡を見ると、山手 やまのて の方には高さ二百尺もあるかと思はるゝ 絕壁を殘し、もと停車場のあつた附近は一面に土砂石塊の堆積場となつて、參差 しんし 凹凸 おうとつ 足の踏み場もない有樣となつて居る。又根府川の民家の山崩の近くにあつたものは、或は壊れ或は傾いたまゝ、元の位置より數間乃至數十間も海の方に押出され、軌條 レール は線路面と共に海中に陥り、その一片が海濱の斷崖にぶら下がつて居る奇觀を呈し、海底は元の波打際から一町餘りも崩落 くずれお ちた土砂石塊のために埋められてしまつたのである。
この山崩の慘害はかくも 絕大なるものでありその大 おほい さからいつても相武地震の爲に發生した凡ての山崩の中で、大なるものゝ一つに數へられる位偉大なるものであつたが、鐡道線路の復舊は案外容易に行はれるものと思ふ。その譯 わけ は山崩のあつた場所には、崩壊堆積物の下に、幸に堅固な岩盤が存在するからである。その堅い地盤といふのは凝灰岩と集塊岩の互層で、海岸の 絕壁にその水兵層が能く露はれて居る。この堅い地盤のある以上は、線路を元の位置に築き直してもその路面が再び山崩を起して絕壁の下に落ちる患 うれひ は 絕對にないと思ふ。たゞ山崩の跡にできた山手寄 より の二百尺の絕壁は、ラバブレクシヤと火山灰層のやうな脆 もろ いものでできて居るから、この崖が再び崩れて線路を埋めるやうなことがないやうに、十分用心をしなければならぬのである。
次に山崩の害の甚しかつた所は、江ノ浦隧道と長坂隧道の間である。この間は主に堅石熔岩の中を線路が通じて居り、地盤は比較的堅固であつたけれども、何分海岸に沿うた 絕壁を切取つて線路を布 し いた爲に、切取面が高く且つ急であつた關係から、多數の山崩を生じて線路が埋められたのであつた。
この區間の線路面が堅固な熔岩から成つて居るから、元の線路を修築して復舊されぬことはないのであるけれども、將來の安全を期するには隧道に改むるに若くはないと思ふのである。なぜかといへば、切取面に露はれて居る熔岩が可なり割目に富んで居るから、將來の大地震又は大雨のため再び山崩を發生して線路を埋却される患があるからである。
五 轉石による被害
線路筋の切取面又は急斜山腹から、大小の堅い轉石が軌條面に轉 ころ げ落ちて、列車の運轉を不能ならしめることは、大雨・地震などの爲に起る鐡道障害の最も普通なるものである。
線路に落ちた大石(江ノ浦にて)
熱海線に於ては、地表面の風化帶中に介 はさ まつて居る熔岩片、又はラバブレクシヤの上に載つて居る熔岩盤の一部、又は溶岩盤の割目 われめ によつて、母體から離れ易い状態になつてゐた熔岩の一部などが、盛 さかん に轉落して線路を塞いだのを尠 すくな からず見た。
かくの如く多數の轉石があつたのは、早川眞鶴間の地質關係が、上記のやうに轉石を容易ならしむる狀態になつて居るからで、その責 せめ を工事の杜撰 づさん に歸することは酷である。
しかし熱海線は、將來東海道本線として列車往復の極めて頻繁なる線路であるから、一片の轉石も事故を發生せしむる恐れがある。復舊に當つては、セメント張 はり などの方法によつて、 絕對に轉石の障害がないやうに施設するの必要を認める。
六 山津波による被害
山崩が傾斜の急な山の高處に起ると、崩れてバラ〱になつた土砂石塊は、墜潰 つゐくわい の惰力によつて殆 ほとん ど液體同樣の運動を起し、非常なる速力で谷間を下り、途に當 あた つた一切のものを破壊し流失せしめて、恐るべき災害を生ずるものである。之が山津波の現象である。
根府川白糸川の山津浪
昨年九月一日の大地震によつて、根府川の部落を貫いて流れて居る白糸川の上流二里の地點に當つて、一つの大きな山崩れが起つた。この山崩れは、箱根外輪山の一高峯なる聖岳 ひじりだけ (八三八米)の東側の急斜面に露 あら はれてゐた熔岩層の一部が、一の斷層に沿うて大きく崩れ落ちたもので、その下が殆ど 絕壁に等しい急峻な白糸川の谷に臨んでゐたものだから、土石は一瀉千里の勢 いきほひ で谷を馳せ下り、僅 わづか 五分間で二里の下流にある根府川村に達し、谷間にあつた人家數十軒と鐡道の鐵橋とを一掃し去つたのである。
その山津波の通過した路を見ると、谷の屈曲に從つて電光狀に屈折反射して流れたものゝやうで、谷の曲り角の外側部には、土砂が谷底より數十丈の高さに達した跡を殘して居る。
熱海線根府川白糸川鐵橋北端の破壊
白糸川鐵橋の所では、山津波は右岸卽ち南側に向つて谷底より百五十尺の高さに打上げ、そのために高さ百二十尺の鐵橋は。唯 たゞ 北端のガード二つを殘しただけで、物の見ごとに海まで押流され影も形もなくなつたのである。
寒の目隧道北口崩壊して列車隧道内に立往生す
鐵橋を南に渡ると、そこが寒 かん の目隧道と稱する隧道の北口になつて居るが、當日午前十一時四十八分に眞鶴驛を發した上り列車は寒の目隧道に入り、その先頭の汽罐車が今や將に隧道の北口を出 い でんとする時彼の大地震に逢ひ、汽罐車は隧道入口の土層崩落のため半ば土に埋 うづ められたまゝ停車したから、車中にあつた乗客中氣の早いものは驚いて車を飛出し、急いで隧道の外に走り出ると、この時遲くかの時早く、白糸川の山津波は線路の上に驀進 ばくしん し來り、二三十人は忽 たちま ち土石の下に敢 あへ なき最後を遂げてしまつた。その危期の迫るや實に間髪を容れなかつたのであつた。
しかし列車は汽罐車が土に埋められただけで、隧道内に停車してしまつたから顚覆破壊を免れ、乗客の多くは不思議に災厄を免るゝことを得た。しかしこの隧道は南口は崩れた土砂のため完全に塞がれ、唯北口が汽罐車の上僅に四五尺の空隙 くうげき を殘存してゐた御蔭で、逃後 にげおく れた乗客は却てその生を完 まつたう したのであったが、北口の崩壊が今少し大きくて入口が全部塞がつてしまつたならば、數百の乗客は皆暗黑裡に生埋 いきうめ となつてしまうところであつた。これ等 ら をば眞に天祐と申すべき乎。免れた乗客こそ命 いのち 冥加の人々ではある。
七 泥流と石ナダレ
築堤を埋めたる米神の泥流
石橋と根府川の間に米神 こめかみ と稱する小部落がある。こゝの小さな澤にも小規模の山津波が起り鐡道の築堤を乗越えて築堤下の數戸の民家を埋沒した。この山津波はその澤の奥で、赤土の崩れ落ちたものが地下水と谷の水に混 こん じて幾分軟 やはら かとなり、下の方へ押し出して來たものであるが、その山崩の起つた場所が白糸川の場合よりも距離が短かかつたのと、土の量も少なかつただけ、その及ぼした災害も小さかつたが土砂の大量が築堤の上手 うはて に堆積して居るのを見ると、若し築堤がなかつたならば米神の部落は之に數倍する被害を免かれなかつたであらう。
この種の石片 いしきれ を交 まじ へない土ばかりの小規模の山津浪は、泥流と名づけておいた方が解りがよいと思ふ。米神の築堤の上手に溜まつて居る泥流は、停滞した水のために軟 やはら かくなつて居り、その壓力で築堤を押崩す憂がないではないかと懸念されて居るが、排水渠を造つて水はきを良くすれば、その憂 うれひ はないと思ふ。
この泥流の外に、山崩で崩れ落ちた石ばかりの塊が、小規模の山津浪を起すことがある。餘り高くない所に山崩が起つて、その下が餘り急でない斜面になつて居り、且つ崩れたものが割れた石ばかりで土が交じつてゐないと、山津浪はさほど遠方に行かない中に止まつてしまひ隨 したが つて災害も小さくてすむ。この種類の山崩は「石ナダレ」或は「石の海」と呼ばれる。
熱海線の附近では、眞鶴驛の上手にこの「石ナダレ」が起り、長さ數町に亙つて廣い土堤の形をした石河原が出來た。しかし幸に線路には損害を及ぼさなかつた。
稻村の石ナダレ
又門川と伊豆山 いづさん の間の稻村と稱する部落の山にも、同樣の「石ナダレ」が二三出來て居るのを見た。これ等はいづれも割目の多い熔岩が下のラバレクシヤと一緒に崩れて落ちたものである。
八 隧道の被害
熱海線不動山隧道南口の破壊
隧道 とんねる の被害は多くその入口に近いところに多い。これ入口に近いところは、岩石の風化帶か赤土層(火山灰層)の中を穿 うが つて居るためで、セメントブロックの内壁に龜裂のできた所を往々見かける。又隧道の内の方でも、斷層のあつた部分の内壁が龜裂墜落等の損害をかうむつたところが少しはある。
又隧道の入口の石垣が左右に裂けたり、山崩の餘勢をかうむつて崩れることは普通の現象である。
しかし熱海線の旣成隧道には、房總線の南無谷隧道のやうに大破壊をしたものがなかつたのは仕合せであつた。又建設中の丹那・泉越 いづみこし の二大隧道が、地震のため何等の損害を受けなかつたことは大なる仕合せである。
九 橋梁の被害
橋梁の中 うち 全部流失したものは、前記の白糸川鐵橋の外にはない。ガードの落ちた鐵橋には、石橋鐵橋と双龍鐵橋とがある。これ等鐵橋のガードが、下り線(旣ち海に近い方)だけ落ちて上り線が無事であることは、大震波が海の方から來たことを示すものである。又ガードの南端が外 は づれないで、北端だけが外づれて居るのは、震波が南から來たことを示すものであらう。
橋の「たもと」の石垣は、北端のものよりも南端のものに損害が甚しい。之も震波の南から來たことを示すに足るものである。
橋柱は皆方柱形に積上げた石の柱であるが、大抵地面から五六尺上がつたところで横に裂けその上の部分が左廻り(時計の針の廻り方と反對)をして居るのを見る。石橋鐵橋の橋柱が最も著しい例である。
石橋鐵橋々脚地面より六尺の處にて左廻す
石橋鐵橋の下り線ガード墜落
十 築堤の被害
熱海線では、築堤の被害が少なかつたことは不思議な位である。之は築堤を造つてある物質が切割から取つた熔岩の破片 かけら や赤土を適宜に混合したもので、割合に耐震性であることも一因をなして居るであらうが、主なる原因は、築堤の方向が震波の方向とほぼ平行してゐた爲であらう。それでも搖下 ゆりさ がり龜裂・崩落などの起つた場所はかなりある。
最も面白いのは、眞鶴驛の北十町岩村の上の所の築堤が、下り線の方だけ長さ三十間高さ五丈ほど崩れ落ちて軌條は空にかゝり、落ちた軌條面には、バラストに枕木の跡形 あとがた がそのまゝ奇麗に殘つて居ることである。
バラストに枕木の跡を殘したまゝずり落ちた線路(岩村附近)
十一 結論
要するに熱海線の被害は可なり甚大なるものであつた。その復舊の困難は東海道線の山北國府津間などの比ではない。けれども或一部の人々が杞憂するやうに、決して 絕望的ではない。局部〱に就 つい て調査して見ると、その復舊工事は見かけよりも容易であり、或意味に於 おい ては今度の震災は工事の缼點のあつた個所と、天然地盤の耐震力の強弱如何を克明に且 かつ 極めて綿密に實驗して吾人 ごじん に示してくれたやうなもので、この敎 おしへ に從つて復舊された後の線路は保險付安全となる譯であるから、一時の損害は大きくとも之を償ふだけの効果があつたとも見られる。
〔蔵書目録注〕
上の文と写真は、大正十三年四月一日発行の 『科学知識』 四月号 (第四卷第四号) 科学知識普及会 に掲載されたもである。
上文中、稻村の石ナダレ と 築堤を埋めたる米神の泥流 の写真は、掲載順序を逆にした。
なお、の根府川駅列車転落事故については、生存者二人の回想があり、貴重である。
また。回想のある同じ『十一時五十八分』には、上文地域に関連する回想「ドロッとした赤土の谷 ー一瞬にして全村影を没すー」という一文も掲載されており、貴重である。
臺所重寶記
美味しい茄子料理いろ〱
村井政善
『裏の圃畑 はたけ に、茄子 なす と南瓜 かぼちゃ の喧嘩 けんくわ が御座る。茄子は色が黑いとて、南瓜は脊 せい がひくいとて‥‥』などとあつて、茄子は夏の初めから初秋にかけて豊かに出來、色は黒くも美味なもので盛 さかん に賞用されます。茄子には中々種類が多くて大靑 おおあお 茄子、巾着茄子、佐土原茄子、千成 せんなり 茄子、中成茄子、晩成 おそなり 茄子等があり、漬物や煮物と、種々様々な用途に使用され、殊に田樂、風呂吹、或は茄子の刺身等と替 かは つた料理法もあつて、古くから食通を喜ばせた樣であります。
多くの料理法の中から、殊に手數を要せぬ、而 そ して甘 うま く出來、どんな人々にも向く樣なものを簡單に述べて見ませう。
〇茄子の衞生煮
材料 茄子 百五十匁 もんめ (百匁は三百五十瓦 グラム) バター、五匁 牛乳、百匁(二合) 小麥粉、十匁 砂糖、五匁 煮出汁一合 鹽 しほ、醤油
【料理法】茄子は、まるのまゝ強火の中に投じ、稍々 やゝ 焦 こ げる位に燒 や きます。而 そ して冷水に取り、ちよつと冷して手早く皮をむき、ウテナを切り去り、水を搾 しぼ つて鍋に入れ、煮出汁とバターを加へ、暫く煮て牛乳五十匁(一合)を入れ、一摘みの䀋を加味して、尚暫く煮て砂糖を加へ、残りの牛乳で小麥粉を溶いて、茄子の中に徐々に注 つ ぎ、中火にして度々 たび〲 鍋をゆすぶり乍 なが ら、鍋底に焦げつかぬ樣に暫く煮込み、汁 しる に粘りのついた頃、鹽と醬油とで色のつかぬ樣に鹽梅 あんばい して、程 ほど よく煮込みます。
茄子に充分味がついた時分に火から下 お ろし、四五人前ぐらゐの器に盛り分け、刻み柚子或は胡椒等を香味として進めます。若 も し牛乳又はバターを好まぬ人は、煮出汁だけで煮込むもよく、或は極 ご く少量の胡麻油を使用するのも結構でございます。
〇茄子のトマト煮
材料 茄子、百五十匁(五百二十瓦) トマトケチャップ、五十匁、牛乳五十匁 煮出汁、五十匁(一合) バター、十匁、小麥粉、五匁 鹽、胡椒少々
【料理法】茄子は前の手順にして後 のち 皮をむき、ウデナを切り除 の けておきます。而して鍋に入れ、煮出汁と牛乳とを注 さ し、一摘みの鹽とバターを加へて十分間煮ます。次に水溶きにした小麥粉を徐々に加へ、汁に粘りがついた時分に、トマトケチャップを入れ、尚暫く煮込み、鹽と胡椒とで味加減して、一摘みの味の素を加へて火から下ろし、器に盛り分け、煮汁 だし を充分に注 つ いで進めます。
此のお料理は、西洋料理でいふと、エッグ・トマトー・オフ・チュードと同じものでありますが、西洋料理の塲合には、煮出汁に代ふるにスープを用ひます。又チャップに代ふるに、トマトソースを使用する事もあります。
〇燒茄子の酢のもの
材料 茄子、百五十匁(五百三十五瓦) 玉子の黄身一個分 サラダオイル、二十匁、西洋芥子粉 からしこ 、二匁、酢、一勺 しゃく、味の素、一摘み、鹽、胡椒。
【料理法】 茄子の酢のものは、云ひ代れば茄子のサラダであります。先づ茄子は前と同樣な手順にしてまる燒きとし、冷水に取つて皮をむき、布巾に包み、俎 まないた にのせ、輕い壓 おもし をして水氣を斷 き つて置きます。次に丼 どんぶり に黄身を入れ、芥子粉及 および 一匁の鹽、味の素、少量の胡椒とを入れ、數本の箸で、 絕えず攪拌 かきまは し乍ら、サラダオイル(油)を少しづつ加へ、充分硬くなつた時、酢を加へ、少量の穂紫蘇 ほじそ を混 ま ぜ合 あは せます。これをマヨネーズ・ソースと謂 い ひます。
燒茄子を器に盛り分け、その上から程よくかけて進めます。
〇燒茄子の三杯酢
燒茄子の三杯酢は、以前の如く燒き上げて、水を斷つた茄子を、一人前宛 づつ 盛り分け、それに酢と砂糖及び醬油とを混和した三杯酢を法 つ ぎ、極く薄削 うすけづ りにした鰹節をのせて進めます。
〇燒茄子の胡麻醬油
前の料理に使用したものと同樣に、まる燒きにして水を斷り、器に盛つて、胡麻醬油を注 つ いで進めます。胡麻醬油を作るには、二十匁の黑胡麻を焙烙 はうろく で程よく炒 い つて、乾いた摺鉢 すりばち に取り、十分摺 す つてから、適宜の醬油及び砂糖と、一摘みの味の素とを加へて用ふればよいのであります。
或は味淋 みりん の少量と醬油とを混和 こんわ し、削鰹節 けづりかつをぶし を適宜に加へて一ト沸騰 たぎり させて用ひるも美味であります。
〇茄子のバター燒
(ウォイセスター・ソース)
中位の茄子を選びまして、ウテナを切り去り、竪 たて 二つ切りにして横串を刺し、金串で茄子に無數の穴をうがち、淸水 せいすい に一寸浸して、少量の䀋と胡椒とを撒布して、稍々兩面からこんがりと燒きます。そしてバターを兩面に塗り、再び炙 あぶ り、狐色になるを程度として、火から下し、串を抜いて器に盛り分け、ウォイセスター・ソース(壜詰 びんづめ のを食料品店で賣つてゐます)を適宜にかけて侑 すヽ めます。若しバターを好まぬ人は、バター代りに、胡麻油を使用すると宜しい。又フライ鍋にバターを煮溶 にとか せて、兩面から程よく燒くもよいのであります。
〇茄子の胡麻酢和 あへ
材料 茄子、百五十匁 黑胡麻、十匁(一合は約二十匁) 赤味噌、三十匁 砂糖、十五匁 酢、三勺。
【料理法】 茄子は前のやうに、燒き茄子として用ふるもよいが、一個の茄子を八つ切位にして、程よく茹でて淸水に取り、さつと晒 さら して水を搾 しぼ つて用ふるもよいのであります。どちらにしても、水を斷 き つて置き、次に焙烙 はうろく の暖 あたヽまつた中に入れ、程よく炒 い つて乾いた摺鉢 すりばち に入れ、充分摺 す つた頃、赤味噌を加へて尚よく摺り乍ら、砂糖と酢とを加へ、一度裏漉 うらご しにかけて後 の ち、下拵 したごしら へをして置いた茄子を和 あ へ、器に盛り分けて供します。又黑胡椒に代ふるに、白胡麻を用ふるにもよく、或は落花生を使用するも結構であります。
〇茄子の吉野揚げ、柚子擦 おろ し
材料 茄子、百匁 片栗粉、二十匁 鶏卵、三十匁(約三個) 胡麻油、大根、柚子 ゆず 、醤油
【料理法】 茄子は、三分厚さの輪切りにして淸水に晒 さら し、水を拭 ぬぐ うて置きます。次に、丼 どんぶり へ片栗粉を入れ、玉子を加へ、一摘みの䀋を加味してよくこね、之を衣として茄子につけ、沸騰した時、胡麻油の中に投じ、こんがりと揚げて西洋紙の上に取り油斷 き りをして器に盛り、擦 おろ し大根に擦し柚子の混合したものを採合 とりあは せ、煮出汁或は醬油を添へて進めます。
〇旨い茄子の田樂
材料 茄子、百五十匁 赤味噌、五十匁 味淋 みりん 、二十五匁(約五勺) 砂糖、五匁 鶏卵、十五匁 胡麻油、柚子少々。
【料理法】 田樂 を作るには、最初美味な味噌を拵 こさ へて置かねばなりません。先づ田樂味噌を拵へるには、摺鉢 すりばち で味噌を摺つて、味淋と砂糖及び鶏卵を摺りまぜて裏漉 うらご しにかけ鍋を取つて中火にかけ、御飯杓子で 絕えずかきまぜてとろりと煉 ね つて、火よりおろし、直 たゞ ちに他の器に移して置きます。若し急ぎでないときは、二重鍋 ゆせん で煮るとよいのであります。そして茄子が大きければ、五分厚さの輪切りとし、稍々少なる時は、竪二つに切りにして横に金串を刺し、茄子に無數の穴をうがち、稍々強火にて焦がさぬ樣に燒き、中途で胡麻油を脱脂綿にしめして一二度塗り、ほんのりと燒けた時、切り口に味噌を塗り付け、再び炙り味噌の上面 うへ が乾いた頃火より下し、串を抜き、擦 おろ し柚子を散らし、一人宛 まへ の器に盛り分けて侑 すヽ めます。
〇茄子の鍋しぎ
鍋鴫 なべしぎ を拵へますには、先づ茄子を五分厚さの輪切りにして、淸水に一寸晒 さら し、水を斷 き つてフライ鍋にて油燒をなし、若し煮出汁が溜 たま つた時は、鍋蓋を強くして汁を斷ります。而 そ して田樂味噌と同じ樣な味噌を加へ、茄子の碎 くだ けぬ樣に注意して、程よく攪 か き混ぜ乍ら、茄子に味噌が充分つくを度として、火から下ろし、器に盛り分けて侑めます。鍋鴫に用ふる味噌には、玉子も混和する必要はありません。尚味よくするには細かにした鰹節を絹 にかけて後、少量加へればよいのであります。
〇茄子の船盛り燒
材料 茄子、百匁 鶏肉、五十匁 玉葱、二十匁 胡麻油、少々 小麥粉、五匁 みりん、三勺、鹽、醤油、柚子少々。
【料理法】 鶏肉は極く細かに敲 たヽ き、みぢんに切つた玉葱と共に、胡麻醬油で色のつかぬ樣に味をつけ、水溶きした小麥粉を加へて粘りをつけ、火より下しておきます。次に、茄子は竪二つ切りにして、中央を船のやうにくり抜き、まはりに胡麻油を塗つて、中央の凹 くぼ みに鶏肉の煮物を體裁 ていさい よく詰めて、天バンに並べ、よく溫 あたヽま つた天火に納め、二十分間蒸し燒きにして一度取り出し、上に裏漉 うらご しにした玉子をふりかけ、再び天火に納め、上部 うへ に稍々焦げ目のつくを度として、皿に取り、刻み柚子を散らして侑めます。若し天火がない時は、フライ鍋に並べ、焙烙 はうろく を蓋にして、上火を強く下火を弱くして燒きます。
〔蔵書目録〕
上の文は、大正十三年九月一日發行の雑誌 『婦人倶樂部』 九月號 震災一周年記念 特別讀物號 第五卷 第九號 に掲載されたものである。
各大学箱根駅傳
本社主催、1月9、10兩日にわたつて行はれ、參加校7校、中央大が勝つた。自転車で追つかけた見たまゝを‥‥‥‥寺田生
スタートから鶴見まで
駒場の藤卷君は第一区のレコードを作るべく最初から力走した、第一仲継所たる鶴見では見事一着になつたがコースを少し誤つて、法政の橋本君がレコード・メーカーとなつた、写眞上〔上左〕はスタートで藤卷君が先頭に立つたところ、左〔上右〕は橋本君が六郷橋を過ぎて川崎市に入つたところである。
箱根の山にかゝつて
第二区で中川君が第一位になつてから、中央は始終先頭を譲らず、いよ〱小田原から平野君が山登りにかゝつた。小田原で十二分半遅れてゐた明大の八島君はこれを追ひ、次第にその差を縮めてアシノ湯では六分までつめたが、下りに平野君強く、七分四十八秒二の隔たりで中央先づ往路に優勝した。写眞左〔上左〕は出山付近の平野君で、下〔上右〕はそれを追ふ八島君
日歯大に振ふ
今度の駅傳で豫想以上の活躍をしたのは日本歯科医である。始めから優勢で山登りでは三位になつて、二日目の朝は、中大、明大に次で陶山君かスタートした。写真は芦の湖畔を走る陶山君(右)〔上〕
果然最後の大接戦
終に中大が先頭、明大二位のまゝ最後の第十区に入つた。明大の永谷君は一時間十二マイルといふピッチで湯本君を追ひ、大森海岸では中大の湯本君と並び、鈴ヶ森で完全に抜放して仕舞つたが、帝国ホテル前で追ひつき、日比谷の交差点で完全に抜返し、最後まで大接戦をつゞけて、こゝに中大最初の優勝を得たのである。写眞上〔上左〕は鈴ヶ森で永谷君が湯本君を抜いたところ、下〔上右〕は帝国ホテル前で湯本君が永谷君を抜返さんとしてゐるところ
初めての覇権を狂喜する中大應援團
ー本社前の決勝点でー
レースを終つて
競走は初めから中大と明大の大接戦となり、殊に最後の区間で、一度抜かれた中大が、決勝点前三四百メートルといふ際どいところで抜返したなどは、日本の駅傳史にも見ざる所であり、新進の日歯の活躍慶應の策戦、法政の頑張りも目に殘つた。けだし本年最初の大競走であつた。
〔蔵書目録注〕
上の写真と文は、大正十五年一月二十五日発行の 『旬刊 写眞報知』 第四卷 第三號 報知新聞社出版部 に掲載された第七回箱根駅伝の記録である。
なお、文中の〔 〕内は、このブログ記事での写真の掲載位置である。
週刊 寫真報知 第壹卷 第貳號
東京 報知社出版部
定價 金拾錢 大正十二年十月十四日發行
〔表紙〕 甘粕大尉が訣別の辞=獄中より部下に送った涙の手紙
第壹卷 第参號 大正十二年十月廿一日發行 毎日曜日発行
〔表紙〕 夕食のお拵へ=大震災のうきめに会って綿服奬励者になった森律子嬢(赤坂の避難所で)
〔写真〕
・『焦土悲劇』大地は揺ぐ=震災後最初のヒルム(河村花菱氏作)
第壹卷 第四號 大正十二年十月二十八日發行
〔表紙〕 日本の童謠をアメリカへ紹介に=本居きみ子みどりさんのお姉妹が(いよいよ来月出発されます)
〔写真〕
・天勝孃が罹災者のために十数名の大一座で野外慰安大舞踊
(下)天勝の大奇術
(右)同一座若手の野外ダンズ 二十日上野公園で
・大学生の慰問演奏
私立大学音樂部有志で組織されてるモーダン音樂研究團が九段の避難民村で
・自動車の上で中村慶子さんの独唱 本社主催の巡回慰問演奏班が(上野のバラック村で)
・オーストラリヤ シドニーの地震計に感じた今度の大地震
藝術復興週間 〔下は、最初の部分〕
▢前週は藝術復興週間であったともいひ得る。震災後約五十日ぶりで、はじめて芝居を見る事ができた。三味線を聞き、太鼓を聞き、笛の音、鼓の音を聞く事ができた。皮切りは十七日の祭日から、日比谷公園における三日間の野外劇と、牛込会館における五日間の屋内劇とであった。前者は新国劇の沢田正二郎一派で、狂言は久米正雄氏作『地藏敎由來』と、歌舞伎十八番の『勸進帳』と、長田秀雄氏作『高田の馬場』の三つ、後者は花柳、藤村、小堀、石川、松本等新派の若手幹部連で、狂言は中内蝶二氏作『大尉の娘』と、故有島武郎氏作『ドモ又の死』と、瀬戸英一氏作『夕顔の卷』のやはり三つであった。日比谷の野外劇が怪我人が出るほどの盛況であったのはもちろん、有料の牛込会館が会場二時間も前に満員となって、遂に二日間の日延をするに至ったのを見ても、いかに災後の人心が慰安に飢てゐたかを知る事ができる。
▢趣味、娯樂などといふと、衣食住の安定を得て後に起る、贅沢な欲望のやうに考へてゐるものもあるけれど、事実はむしろ衣食住の足らぬ、人心の興奮し、あるひは沈衰し、すさみきってゐる時に、最も必要であるべきはずだと論じた人があった。前者は平時の狀態にある時の考へで、非常の塲合には後の説がほんとうだといった者もあった。議論はどっちでもいゝ、人間一日も慰安がなくては、過ごせるものでない事だけは事実だ。その慰安を何にもとめるか、またもとむべきかに至っては、おのづから別の問題である。こゝにはたゞそのもとめられる慰安の一として、先づ演劇の復興した事を報ずればいゝのである。つゞいて松旭斎天勝の慰安演藝といふものも、二十日二十一日上野公園その他で催された。本社の巡回慰問演奏班も、上野公園、新宿御苑を皮きりに、連日移動的に催されてゐる。廿七、八両日には本社主催の野外舞踊が、尾上菊五郎一派によって日比谷公園にもよほされる。
第壹卷 第五號 大正十二年十一月四日発行
〔写真〕
・これが横浜の市内電車 燒けたゞれた無蓋の電車を運轉して辛くも交通の便に当てゐる
『復興のうた』を歌はせる 原っぱの学校 参宮道路に群れあそぶ
第壹卷 第六號 大正十二年十一月十一日発行
スポーツ 瑛 〔下は、最初の部分〕
◇運動界はいよゝ蓋をあけた。蓋をあけて見るとなかゝに活氣づいてゐる。あの震災にはゞまれてゐたのが、一時に発したのだ。しかし実際の面白味はこれからである。今日は早稻田へ、明日は駒場へと、ファンが奔命に疲れるのもまた、從ってこれから後である。
◇この秋にあたって、早慶野球戦の復活が傳へられるに至ったのは、喜ぶべきことであらねばならぬ。明治三十九年にあの紛擾があって中止になって以来、今まで幾度もその復活が叫ばれたことか。しかも可なり有望な筋合にまで、話が進展しながら、常に慶應方の煮え切らぬ態度の為に実現が遲くらされて、三田稻門戦といふ変形的なものが行はれるに至ったのが、今度は慶應側から復活を唱へ出したと傳へられるのも面白い。早大も無論異議のあらう筈なく、明春乃至は明秋から挙行されるといふ。
明治神宮外苑に建てられた
満鉄バッラク病院の活動
建築五萬円と満鉄会社が十二萬円を投じた臨時病院
内容の充実した模範病院の現況
第壹卷 第七號 大正十二年十一月十八日発行
〔写真〕
・=優勝の原田靑木組(慶大)のプレー振り=
カレジ・トーナメント・ダブル決勝試合(十日午後早稻田コート)
=原田選手のサーブ=
=試合を了へて=
原田(右)靑木兩選手のニコニコ
靑木選手のスマッシング
復興の歌
御歌所寄人 武島又次郎氏作歌
東京音樂学校敎授 岡野貞一氏作曲
・梅蘭芳の慈善演劇
日本震災救援義金募集の為ペキンで(右梅蘭芳、左姜妙香)
・世界的ヴアイオリンの名手
ハイフェッツ氏が初演奏(九日夜帝国ホテル演藝場で)
第壹卷 第八號 大正十二年十一月廿五日発行
〔写真〕
・来朝したハープの名手
ドイツ人のチャーレス・タイナー氏の小手調べ
・ハイフェッツ氏の野外演奏
日本罹災者の義捐金募集のために日比谷音樂堂で
第壹卷 第九號 大正十二年十二月二日発行
〔写真〕
・早慶兩大学のラ式蹴球大会=廿三日午後戸塚グランドにて
先づ前衛戦から 慶軍最初の三点を得た刹那
大市主將(慶大)の奮戦ぶり
これでまたも二点を獲得(廿対三で遂に慶軍大勝した)
第壹卷 第十號 大正十二年十二月九日発行
第壹卷 第十一號 大正十二年十二月十六日発行
〔写真〕
・女学生の野球大会
大阪で始めて行はれた女学校対抗野球大会は市岡高女十二対泉南高女二、粉川高女七対和歌山高女六、
スポーツ 瑛生
箱根駅傳
各大学專門学校の=
作戦は如何?
◇春の運動界を賑はす各大学專門学校の駅傳競走は、来年もまた一月十二(土)十三(日)の両日、東京箱根間往復百五十マイルの間に行はれることゝなり、参加学校も一昨年と昨年の二回続けて優勝した早大を初め、高師、慶應、明大、法大、中大、農大、駒場、日大、日齒の十校と決定した。かくて各校ともに参加選手を決定して、早きは旣に練習を開始し、遲きも試驗後に合宿すべき地点を内定した。正月の屠蘇も祝はず雑煮餅も食べずに、一校の名誉をかち得んと勇む若き選手は、殆ど今や無我夢中である。
◇大正九年に本社が初めて、この駅傳競走を主催して以来、今度で五回目である。最初には四校だったのが、七校となり、今また九校となって年と共に盛になって行く。各学校対抗といふ意味からいって、秋の駒場を飾るインターカレッヂエートの陸上競技と、同じく墨堤の人氣を集めるレガッタと共に、今や日本の三大対抗競技となって仕舞った。而も駒場のそれや墨堤のそれにも增して白熱的興味を以て迎へられる理由の一つは、寒風肌を刺す一月の初め、薄氷を踏みしだいて函嶺の嶮を越える所にありはせぬか。
◇駅傳競走とはどんなものか。普通の競技会に於けるリレーと同じものであると見て差支ない。リレーではたとへば四百メートルを四人の走者が各百メートルづゝ走り継いで、最後の走者が決勝線を突破した順序を以て、優劣を決定するのであるが、駅傳競走に於ては、各走者の分担して走る距離が必ずしも一樣でない。卽ち今度の駅傳で東京箱根間を五区に分つとはいひながらも、丸の内(報知新聞社前)鶴見間、鶴見戸塚間、戸塚平塚間、平塚小田原間、小田原箱根間といふやうになってゐるのを見てもわかる。そこにこそ駅傳の意義があり面白味があるのである。
◇一つの学校で十名の正選手を要するが、その十名が全部強い早い選手であれば優勝は確実であるけれど、事実としてそれは不可能のことである。また同じ長距離走者とはいひながらも、五マイル專門の者もあれば、十マイルが得意の人もあり、それ以上の距離に強い選手もある。故に陣容により地形により、それらの選手を如何に配列すべきかといふところに、各学校の作戦があり苦心があり、それが勝敗の分岐をなすことは可なりに多い。
◇これを過去の例に徴して見ても、箱根までの往路に強者を据ゑて、一氣に大勢を決し、復路は現狀維持の程度に走って勝ちを制しやうとした学校もあり、これと全然反対の作戦に出た学校もあり、更に細部についていへば、東京出発の第一走者にまで深甚な注意を拂ひ、強者をおいたのもあれば、比較的弱い走者を配ったのもあるが、何しろ往路の小田原箱根間のみは全走程中最も重要視して第一強者を据ゑたのには各校殆ど変りがない。
◇但しこゝで尚考へなければならぬことは、平地を走って強い者が、必ずしも山路にも強いとは言ひ難く、從ってこの反対の例も見逃せないし、完全な正式の競技場で優秀な成績を挙げる者でも、郊外の田舎道を走ると案外弱いこともあるなど、かう考へると走者の配列といふことは、デリケート過ぎる程デリケートなもので、これが事実の上に於ては、駅傳の勝敗を決する重大なポイントとなっているのである。
◇況して作戦の微妙を必要とするこの競争に、今度は特に例の大震災のため、湯本宮の下間の道路が崩壊し、工兵隊其他の作業により、工事は幾分復旧したとはいへ、走る選手としての苦心は一と通りであるまい。この点からいふと、第五回の駅傳競走こそは、大正九年の創始以来の大混戦を現出すべく、二年続けて優勝した早大が、長距離に於ける傳統的強みを今度もまた傾倒して、三年優勝の新記録を作って優勝旗を永久に持去るか。他校もまた早大をしてかゝる暴威を許すべき筈はない。けだし明春初頭を飾る運動界の一大警鐘となるであらう。
第壹卷 第十二號 大正十二年十二月廿三日発行
〔写真〕
・上野音樂学校の演奏会
安藤幸子女史の『競奏曲第五番』ヴアイオリン独奏新敎授バルダス氏の伴奏で(十六日音樂学校にて)
・いっせいに歳末賣出しを始めた復興の巷
あらまきの着荷 新魚河岸の大景気
好況の神田神保町通り
日本一の大混雑 本所厩橋の此の頃
・少年ケレー君の打球練習
ホームラン王のベーブ・ルース君のコーチを受けて
・花賣のパブロバ夫人
関東罹災者のために慈善舞踏会を十六日大坂ホテルで開いて
〔蔵書目録注〕
上の写真や説明は、『週刊 寫真報知』掲載のもので、そのごく一部である。
〇進水式ニ關スルモノ
一組枚数 包装 賣否別 標準價格
明治三八、 七、 四 香取 三越呉服店 一枚 ー 非 一、ニ〇
明治三八、一〇、二八 朝風 川崎造船所 一枚 袋 非 一、〇〇
明治三八、一二、二六 筑波 呉工廠 一枚 ー 非 一、〇〇
✕ 明治三九、 四、 九 生駒 呉工廠 一枚 ー 非 一、二〇
明治三九、 九、二〇 卯月 川崎造船所 一枚 ー 非 一、〇〇
◎明治三九、一一、一五 薩摩 横須賀工廠 三枚 袋 非 一、八〇
内一枚印刷地色、赤色黄色アリ
同 海軍工廠所屬 三枚 袋 賣 二、〇〇
同 三越呉服店 一枚 袋 非 八〇
同 春陽堂 二枚 袋 賣 五〇
同 角屋 二枚 袋 賣 五〇
明治三九、一二、一五 長月 浦賀船渠 二枚 袋 非 二、〇〇
✕ 明治四〇、 四、一五 安藝 呉工廠 三枚 袋 非 二、八〇
同 近藤商店寄贈 一枚 袋 非 一、ニ〇
✕ 明治四〇、一〇、二一 鞍馬 横須賀工廠 二枚 袋 非 二、五〇
同 相模新聞 一枚 袋 非 一、〇〇
◎明治四〇、一〇、二四 利根 佐世保工廠共勵會 四枚 横袋 非 三、五〇
同 同 一枚 横袋 非 三、五〇
並製ノ物アリ、中身一枚軍艦金色(特)銀色(並)アリ
明治四〇、一一、一九 淀 川崎造船所 一枚 ー 非 一、〇〇
✕ 明治四〇、一一、二一 伊吹 呉工廠 三枚 袋 非 三、〇〇
同 呉工廠倶樂部 二枚 袋 非 二、〇〇
明治四一、 三、二五 最上 三菱造船所 二枚 横袋 非 二、五〇
明治四一、 五、 二 文月 竹敷修理工場 一枚 ー 非 一、五〇
明治四一、 六、 六 櫻丸 三菱造船所 一枚 袋 非 一、五〇
同 同 二枚 袋 非 一、八〇
明治四二、 三、二七 梅香丸 三菱造船所 一枚 袋 非 一、五〇
明治四三、一〇、一〇 海風 舞鶴工廠 三枚 包 非 一、五〇
◎明治四三、一〇、一五 河内 横須賀職工共濟會 二枚 袋 非 二、〇〇
同 相模中央新聞 二枚 袋 賣 一、五〇
明治四四、 一、二一 山風 三菱造船所 二枚 袋 非 一、五〇
◎明治四四、 三、三〇 攝津 呉共濟會 三枚 袋 非 二、〇〇
同 海事協會 二枚 袋 賣 一、五〇
同 呉記念會 二枚 袋 賣 一、五〇
同 帝國海事記念會 三枚 袋 賣 一、三〇
✕ 明治四四、 四、 一 筑摩 佐世保工廠 一枚 袋 非 一、〇〇
✕ 明治四四、 六、二九 平戸 川崎造船所 三枚 横袋 非 一、五〇
同 同 一枚 ー 非 一、〇〇
明治四四、一〇、 三 矢矧 三菱造船所 三枚 袋 非 一、〇〇
◎大正 元、一一、二一 比叡 横須賀工廠 三枚 袋 非 一、五〇
同 相模中央新聞 三枚 袋 賣 一、二〇
同 横浜貿易新聞 四枚 袋 賣 一、二〇
同 横須賀海友會 二枚 袋 賣 八〇
同 記念會 三枚 袋 賣 八〇
大正 二、 三、 三 榊 川崎造船所 三枚 袋 非 一、二〇
◎大正 二、一二、 一 霧島 三菱造船所 二枚 袋 非 一、六〇
◎大正 二、一二、一四 榛名 川崎造船所 二枚 袋 非 二、〇〇
同 海事時事社 三枚 套 賣 一、八〇
◎大正 三、 三、二八 扶桑 呉海軍共濟會 二枚 套 非 一、二〇
同 呉公論社 三枚 套 賣 一、五〇
大正 四、 二、一六 江風 横須賀工廠 二枚 套 非 一、〇〇
大正 四、 二、一六 杉 大阪鐵工所 三枚 袋 非 一、〇〇
大正 四、 二、二〇 楓 舞鶴工廠 二枚 ー 非 一、〇〇
大正 四、 三、 五 楠 川崎造船所 一枚 袋 非 一、〇〇
大正 四、 三、二六 梅 同 一枚 袋 非 一、〇〇
大正 四、 三、三一 桐 浦賀船渠會社 一枚 ー 非 一、〇〇
◎大正 四、一一、 三 山城 横須賀工廠 三枚 包 非 一、八〇
同 同 プロマイド 三枚 非 一、ニ〇
✕ 大正 五、一〇、 五 天津風、磯風 呉工廠造船部不老會 二枚 袋 非 一、三〇
大正 四、一〇、三〇 濵風 三菱造船所 二枚 包 非 八〇
◎大正 五、一一、一二 伊勢 川崎造船所 二枚、三枚 袋 非 一、ニ〇
同 雑誌「海軍」 二枚 袋 賣 一、八〇
大正 五、一一、一二 樫 舞鶴工廠 一枚 ー 非 八〇
大正 五、一二、二七 時津風 川崎造船所 二枚 袋 非 八〇
◎大正 六、 一、二七 日向 三菱造船所 二枚 包 非 一、三〇
大正 六、 六、二一 三番、四番 呉工廠 三枚 袋 非 八〇
大正 七、 三、 五 榎 舞鶴工廠 二枚 袋 非 八〇
✕ 大正 七、 三、一一 天龍 横須賀工廠 二枚 套 非 一、ニ〇
✕ 大正 七、 五、二九 龍田 佐世保工廠 二枚 横袋 非 一、ニ〇
✕ 大正 七、 七、二〇 谷風 舞鶴工廠 二枚 袋 非 一、〇〇
大正 八、 一、 七 澤風 三菱造船所 二枚 横包 非 八〇
大正 八、 二、 八 峯風 舞鶴工廠 一枚 袋 非 八〇
大正 八、 六、一〇 樅、榧 横須賀工廠 二枚 套 非 七〇
大正 八、 七、一四 球摩 佐世保工廠 二枚 套 非 七〇
大正 八、 八、二六 梨、竹 川崎造船所 二枚 袋 非 七〇
大正 八、一〇、 三 沖風 舞鶴工廠 一枚 袋 非 六〇
大正 八、一〇、二〇 柿 浦賀船渠 二枚 套 非 八〇
◎大正 八、一一、 九 長門 呉工廠倶樂部 二枚 袋 非 一、〇〇
同 呉日日新聞 三枚 套 賣 六〇
大正 九、 二、一〇 多摩 三菱造船所 二枚 横包 非 八〇
大正 九、 三、三一 島風 舞鶴工廠 二枚 袋 非 六〇
大正 九、 四、一〇 矢風 三菱造船所 二枚 横包 非 六〇
大正 九、 四、一七 栂 石川島造船所 二枚 套 非 八〇
◎大正 九、 五、三一 陸奥 横須賀工廠 各二枚 套 非 一、ニ〇
第一第二ノ二種アリ
✕ 大正 九、 六、二六 灘風 舞鶴工廠 二枚 袋 非 一、〇〇
✕ 大正 九、 七、 三 北上 佐世保工廠 二枚 套 非 一、〇〇
大正 九、 七、一五 大井 川崎造船所 二枚 横袋 非 七〇
大正 九、 七、一七 知床 同 二枚 横包 非 六〇
大正 九、 八、一五 能登呂 同 二枚 横包 非 六〇
大正 九、一〇、二二 汐風 舞鶴工廠 二枚 袋 非 六〇
大正 九、一〇、二五 襟裳 川崎造船所 二枚 横包 非 六〇
大正 九、一〇、ニ七 菊 同 三枚 同 非 六〇
大正 九、一〇、二八 佐多 横須賀工廠 二枚 折 非 六〇
大正 九、一一、 九 葵 川崎造船所 三枚 横包 非 六〇
大正 九、一一、二七 藤 藤永田造船所 五枚 横袋 非 六〇
大正 九、一二、一四 木曾・秋風 三菱造船所 二枚 横包 非 七〇
〔以下省略〕
〇陸軍特別大演習記念ノ部
〇行啓記念ノ部
お正月の儀式と饗宴
秋穂益實
祝席の設備と順序
正月儀式飲食物の由來
一、屠蘇 の由來は昔支那から傳つたもので正月初め三日間屠蘇又は白散抔 など を酒に加へて飲むのである。之を飲めば、精神が爽快にして疫病に罹 かゝ らぬとしてある、最初我邦 わがくに で之を用ひたのは奈良朝時代で、平安朝時代には尤も盛に行はれてゐた樣である。
二、餅 の由來は、精神粘力強く忍耐力を養ひ、又膽力を增して、四肢溫かくなり、如何なる嚴寒も平氣でゐる事が出來るといふことを意味し、我邦中古における在陣中の糧として用ひられたものである。故に「餈 やどり 」と書いて餅と讀むのが普通餅と云ふ本字であるといふことである。斯くの如き意味のものであるから、寒氣に向つて祝ひ事に餅を多く用ふるのである。
三、鏡餅 の由來は、これは中古以來のこと三種の神器の御神鏡に形どり、天照大神の御前に供へたものである、又武家にては武運長久を祈る爲めに軍神を祭るべく神前に鏡餅を供へたものである。
四、雜煮餅 は支那語で「ほうぞう煮」と云うたもので、之を食すれば身體を溫め、胃の中を調 とゝの ひて元氣を增すと云ひ傳へられて居る。即ち内臓を保養すると云ふ意味で「保臓煮」と云ったもので、貴重なる食物として正月の嘉禮に用ひたものであつて、正月三日の間毎日々々其の餅の數を增してゆき、喰ひ上げて稱する如き緣起を祝ふものである。
五、田作り を用ふるのは、我が瑞穂の國の誇りである、米田 こめた を作るに大切な肥料の小鰯 こいわし であり、又營養分にも富んで居る食品であるから、芽出度 めでたき 正月及其他の儀式等に用ふるのである。
六、煮豆 を用ふるのは、年中人體を健康 まめ にして暮すことの出來る、滋養分を含み、又味噌、醤油の如き原料及豆腐、麩 ふ 等の如き加工食品の原料として五穀類中最も有益な品であるから正月用儀式食品として用ひられたのである。
七、數の子 は之を食すれば、其れの如く多くの子孫繁榮を祈る意味に於て、芽出度きものとして用ひられたのである。
正月料理献立及料理法
一、雜煮餅膳部
▲橙盛
▲舟盛蝦
▲雜煮餅
イ、九州雜煮
材料 生鹽 なまじほ 鯛切身、椎茸、里芋、燒豆腐、昆布、壽留女 するめ 、京菜、餅、大根輪切。
調理法 生 いき のよき鯛を三四日位前より鹽を振りて擂鉢 すりばち の如きものに漬け置きて使用する時、適宜の大賽 おほさい の目形に切りて團子串に刺す、里芋は皮の儘 まま 十二分間茹でて皮をむき適宜に切りて鯛の刺しある串に刺す。椎茸は中位のものを水に浸して足を取り里芋の側 そば に刺す。燒豆腐も大賽の目に切り串に刺す。昆布及壽留女は短冊に切り之れも串に刺す京菜は熱湯に鹽少量を加へたる中にてザッと茹で、水に浸し一寸位に切る。大根は皮をむき二三分の輪切りとす。餅は燒かずに湯の中に入れて煮る、かうしてから鍋に水一升を入れ味の素二匁 もんめ を入れて沸騰したる時、串に刺したる材料を敷き笊 ざる 又は目笊に入れて鍋の中に靜に入れ、十分程經て靜に笊の儘出し、残りの汁に醤油三分、鹽 しほ 七分の割合に味をつけ、初めに大根の輪切りを生のまゝ椀の底に敷き其上に餅を入れたる上に串刺の材料を一つ宛 づつ 串より抜きて入れ、汁を注ぎ入れる。
ロ、京阪雑煮
材料 大根、燒豆腐、里芋、水菜、子餅。
調理法 大根は皮を剥きて縱四つ割として、小口よりニ三分位に切る、燒豆腐は大賽の目の形に切る、里芋は皮の儘十二分間茹でて適宜に切る、水菜は茹でて一寸位に切る、餅は燒かずに湯の中にて煮る。かうしてから鍋に水二升 しょう を入れ白味噌百五十匁を擂 す りて混ぜ入れ、味の素二匁を入れ大根を加へて軟かくなりたる時、燒豆腐、里芋を入れて三度沸騰せし時味をつけ椀に餅を入れたる上より材料汁共かける。
ハ、東京雜煮
材料 鷄肉、蒲鉾、人參、牛蒡、芹、海苔、熨斗 のし 餅。
調理法 鷄肉は薄く小口切とす、蒲鉾は小口より二分位に位に切る、人參は短冊切として茹でる、芹は茹でて水に洒 さら し一寸位に切る。海苔は燒きて長さ二寸巾六七分位に切る。熨斗餅は兩面とも色付く位まで燒きて熱湯の中に浸す。そこで鍋に水二升を入れて鷄肉を入れ暫時煮て掬 すく ひ出し、残りの煮汁 だし に醤油二分鹽七分の割合に味をつけ、椀に餅を入れたる側 わき に他の材料を入れ汁を注ぎ入れ、其上に海苔を浮し入れるのである。
この三ケ日雜煮は、緣起を悦ぶもの故に、九州より始めて東京に登り來る意味にて、九州京阪の雜煮餅は子餅故にあつさり食べると云ふ譯には行かぬ、東京のは、燒きたる餅を用ふる故三日の朝はあつさりと食べさせる意にて東京の雜煮を用ひたのである。
▲照田豆 てりごまめ
材料 田作 ごまめ 一升、酒一合、砂糖大匙二杯、醤油一合、水飴十匁、芥子 けし 少量。
調理法 田作の頭と芥塵 ごみ を去りて、水にてザツと洗ひ水氣を去り焙烙 ほうろく にて煎 い り、次に酒、砂糖、醤油、水飴を鍋に入れ火に掛け少しく煮つめたる中に前の田作を入れて能く混合 まぜ て器に盛り入れ、芥子少量を振りかける。
▲煮豆
材料 黑大豆 だいこくまめ 一升、栗一合、砂糖百五十匁、醤油一合。
調理法 豆を水洗ひして鍋に入れ、栗を加へ水一升二合位を入れて火にかけ、鍋蓋を去りて水氣の詰 つま るまで煮て砂糖、醤油を入れ更に煮詰めて鹽を入れ適度迄の味をつけるを冷 さま して器に入れ「チヨーロキ」を撒 ふ りて色取の配合を爲す。
▲數の子
材料 數の子一升、花麴三合、砂糖大匙一杯半、酒一合五勺、醤油一合。
調理法 數の子を米の荒い汁に浸し置き、鹽にて能 よ く揉み水にて洗ふ。次に麴、砂糖、酒、醤油を能く混ぜ合せたる中に割 さ きたる數の子を漬け、一晝夜半位漬込みて麴共に器に盛り入れる。
吸物及重詰献立
年始客の献立及料理法
お正月のお菓子 山田節
普通の家庭でお正月のお祝ひのためにと言つて、特に奥樣方の御自慢のお手製菓子を年始客にお勸めなさる程の方は幾人ありませうか。追々西洋風を學んで、奥樣方がお客樣と話し乍 なが らお手製のお菓子をお勸めになるやうにしたいものです。左に手輕で美味しいものを二ッ三ッ御紹介致しませう。
一、パンケーキ
燒き立てのスモーキング、スヰートとして誰にでも珍重されること請合ひです。先づ水半合に白砂糖半合を攪拌 かきまぜ 、煮つめて蜜を作つておきます。それから牛乳二合、メリケン粉一合、パン粉半合、食鹽小匙半分、バタ中匙一杯、鷄卵一個を一緒に鉢で混ぜ合 あは せそれをフライ鍋にオリーブ油を落した上で小判形に燒き勸 すゝめ る時先に作つた蜜をかけます。
二、クイツクケーキ
之はおいと言つて直 す ぐ拵 こしら へ出せるお菓子です。バタ一合の三分の一、白砂糖一合と二分の一、鷄卵二個、牛乳半合、メリケン粉一合半、燒粉 ベーングパウダ 小匙三杯、肉桂の粉小匙半分、ニクヅク小匙半分、干葡萄一合を一緒に二三分間に手早く混ぜ合はせ、三十五分乃至 ないし 四十分テンピで燒きます。それを勸める時手頃に切つて出します。
三、ロール、ケーキ
之はカステーラに似て居るが、一層風味あつて、誰にでも好まれる菓子です。
(イ)材料は白砂糖一合の四分の三、鷄卵三個、メリケン粉一合、燒粉 ベーングパウダ 小匙一杯半、白湯 しろゆ 一合、食鹽一掴み。
(ロ)製法、白砂糖と鷄卵とをよく混ぜ、次に食鹽とメリケン粉と燒粉 やきこ とを一緒に篩 ふる ひて先 さ きのに一緒に混ぜて、白湯一合を加へてよく混ぜ合はせます。それを十分間乃至十五分テンピで燒き、出してから上にヂヤムを薄く敷いて卷きます、冷 ひ えてから手頃に截 き つて勸めます。(賞)
上の文は、大正十年一月一日発行の雑誌 『婦人倶楽部』 第二卷 第一號 新年號 に掲載されたものの一部である。
料理 石井泰次郎
一週間の惣菜
一日
朝。《煎 いり 物》 かさご。
《汁 しる 》 摺 すり 流し魚、つみ若布 わかめ。
《香物 かうのもの 》 何にても。
《煮物》 はんぺい、つくいも、みつ葉。
《飯 めし 》
晝 ひる 。《ぬた鱠 なます 》 あさりむきみ、うど、ちさ、からし酢みそ。
《汁》 小つみ入 いれ 、五分菜 ごぶさい 。
《香物》 何にても。
《煮物》 火取 ひどり うを、れんこん、ひじき。
《飯》
夜 よ 。《皿》 今出川豆腐、すりせうが。
《香物》。
《湯漬飯 ゆづけめし》
二日
朝。《煮物》 あげ豆腐、靑菜、からし。
《汁》 干 ほし 大根、若布。
《香物》。
《千代久 ちよく 》 白和 しらあへ のうど。
《飯》
晝。《酢和 すあへ 》 油揚皮 あげかわ 、こんにやく、大こん、九年母 くねんぼ 。
《汁》 燒豆腐、小椎茸。
《香物》。
《煮物》 飛龍頭、きざみこんぶ。
《飯》
夜。《濃醬 こくしやう 》 さゝげ、里いも、蓮根、木耳 くきらげ 。
《香物》。
《湯漬飯》
三日
朝。《皿》 淺葱 あさつけ 、うど、からし酢みそ。
《汁》 干大根、ちさ。
《香物》。
《煮物》 大和芋、そぎこんにやく、せり、葛引 くづひき 。
《飯》。
晝。《膾》 わらさ、白髪大根、靑海 あをみ 海苔、せうが。
《汁》 竹輪、さゝかしうど。
《香物》。
《煮物》 いか、小口里芋、みつ葉せり。
《飯》
夜。《燒物》 せいご。
《猪口 ちよく 》 ほし大根、五分菜。
《平皿》 石燒とうふ、こんぶ、からし。
《香物》。
《湯漬飯》
四日。
朝。《平皿》 ぶり、ちりめん麩 ふ 、漬 つけ わらび。
《汁》 獨活 うど 、燒海苔。
《香物》。
《田夫 でんぶ 煮》 黑豆、氷ごんにやく、小梅干 こうめぼし 、生姜。
《飯》
晝。《三鹽漬 みしほづけ 》 わらさ、蓮根、せうが。
《汁》 くづし豆腐、若布。
《香物》。
《煮物》 つとはんぺい、にんじん、きざみさがらめ。
《飯》
夜。《蕎麥切 そばきり 》 こんにやく、紅おろし。
《香物》。
《湯漬飯》
五日
朝。《煮物》 竹輪、里いも、ひじき。
《汁》 むきみ、大根。
《香物》。
《浸物 ひたしもの 》 ほうれん草、胡麻。
《飯》。
晝。《煎物》 いしもち。
《汁》。 燒どうふ、わり菜。
《香物》。
《煮物》 たらもどきのかさご、靑こんぶ、こせうの粉 こ 。
《飯》
夜。《濃醬》 角豆腐 かくどうふ 、もみ海苔、花かつを。
《香物》。
《湯漬飯》
六日
朝。《煮物》 小串鰤 ぶり 、燒どうふ、くき菜。
《汁》 干大こん、若布。
《香物》。
《猪口》 蓮根、こま山椒。
《飯》。
晝。《和膾 あへなます 》 むきみ、うど、ちさ、酢みそ。
《汁》 小つみ入 いれ 、みつ葉。
《香物》。
《煮物》 はんぺいの餡 あん かけ、すり生姜。
《飯》
夜。《平皿》 貝の柱、とうふ、柚子。
《香物》。
《湯漬飯》
七日
朝。《平皿》 火取うを、蓮根、きざみこんぶ。
《汁》 はんぺい、春菊。
《香物》。
《猪口》 切干大根、みつ葉。
《飯》。
晝。《膾》 ぶり、たんざく大根、せうが。
《汁》 つと豆腐、わり菜。
《香物》。
《煮物》 赤貝、ぜんまい、里いも。
《飯》
夜。 八盃 はちはいとうふ 、もみのり、紅おろし。
《香物》。
《湯漬飯》。
〇摺流し魚 魚肉をおろし、皮をさり、細かくきりたゝきて、擂鉢 すりばち にてすり、汁の内に入れたるなり。
〇つみ若布 若布を水につけ洗ひて、指にてつみてもちふ。
〇半ぺい 魚のすり肉 み 半分、薯蕷 やまのいも 半分をよくすりまぜ、丸く取 とり て湯煮したるなり。
〇ぬたなますのうど たんざくに切り、からし酢みそは、味噌三十匁 もんめ 、砂糖十二匁、水六勺を合 あは せ煮て、後に酢三勺、からしとを合せてつくる。
〇五分菜 ごぶな 菜 な を五分に切りたるなり。
〇火取うを 金網にてあぶりたるなり。
〇れんこん 小口切にして、面をとりて煮る。
〇干大根 湯煮してもちふべし。
〇白和 味噌と豆腐にてつくる。砂糖を入れる。
〇あげかは あげを二枚にへぎて、中の白を出 いだ し、皮のみを切りて用ふ。
〇濃醬 白味噌を十分に、やまのいもを湯煮し漉 こし たるを五分合せて、砂糖とだしを合せ、汁に仕立てる。
〇葛引 葛粉十匁を水八勺にとき、だし四分 しがふ 、醬油とき品二勺、みりん一勺二夕 せき 、鹽五分 ごぶ を合せて煮たてたる汁の中に入れ、かきめぐらしてつくる。
〇石燒どうふ 豆腐を薄く切 きり て、玉子燒なべにて燒き、こげめをつけ、味をつけて煮る。
〇黑豆 湯煮をよくし、砂糖と水につけて、鹽少し入れて煮るべし。前夜より水につけ置き、又は蒸 むし て煮る。
〇紅おろし 大根の中にあなをほそくつくりて、蕃椒 とうがらし をさしこみ、おろし金にておろしたる物。
西洋菓子の製法 畔居田郎
日本流の臺所では、歐米諸國の樣に、ストーブの設備がないので、七輪とテンピとで代用させるのですから、勿論立派な大袈裟な事は出来ないのみならず、加減の判らぬ初めの程は兎角失敗するものです。然し乍ら苟 いやし くも二十世紀の新家庭に主婦たらむ方々は、大膽に毎度仕損じる覺悟で試して御覽なさへ。
●珈琲 こーひー のたて方
珈琲をたてる器に、二重になつて居て、中のに珈琲粉を入れて、湯を注 つ ぎ込む樣に出來てるのがある。此器を用ふる時には、茶を出す時の樣に、善く激 たぎ つた湯を一旦湯冷ましに移し、暫くして注ぐ方宜し。煮立ちて居る湯を注ぐ時は、一度に色が出過ぎて香りが乏しくなる。
然し此器の缼點は、最初湯を注いだ當座は、夥 おびたゞ しく早く通るけれど、珈琲粉が漸く濕 うるほ ふて膨 ふく れて來ると、底の小孔 こあな が塞 ふさが りて湯の通りが悪くなる。之を自然に任せて置けば冷め過ぎるし、攪き立てれば粉が一所に下 お りるのである。
其れ故、木綿の袋に珈琲粉を包んで煮る方が宜し。其法、先づ湯を沸かし、暫らく煮立たせたる後、珈琲の袋を入れ、遠火で煮立たない限りで溫 あたヽめ置く。此中に鷄卵 たまご を一個割りて、身も殻も諸共 もろとも に入れば、黒き濁りが取れて澄んだ良き色に出る、若し何なら殻計り入れても宜し。
珈琲の粉 こ と湯の分量は、コップ一杯の湯に對し、スープの匙 さぢ に山盛一杯の珈琲粉の割合で丁度宜し。
珈琲粉は、永くも一週間位で気が抜けて香りが無くなるから、時折にしか用いない家では、豆の儘 まま で買ひ求め置き、珈琲挽 ひき 機で其時々必要丈け挽いて用ふる方宜し。
珈琲挽機の最小のものは、壹圓貮拾錢位、銀座の龜屋、其他西洋食品等を販賣する店にあり。
●ドーナツ
是は米利堅粉 めりけんこ に砂糖や鷄卵等を混ぜて、油煎 あぶらいり した菓子の總称で、數種ある。其一つ
ニュー、エングランド、クッキング
スクール、ドーナツ
原料
米利堅粉 めりけんこ コップ 二杯
鹽 しほ 茶匙 四分ノ三杯
酒石英 くりーむたーたー 仝 一杯
肉豆蒄 なつめぐ (粉にしたるもの) 仝 四分ノ一杯
肉桂 しんなもん(粉にしたるもの) 仝 四分ノ一杯
バタ 仝山盛 一杯
砂糖 コップ 半杯
腐敗牛乳 仝 半杯
鷄卵 たまご 一個
曹達 そうた 茶匙 四分ノ三杯
若し腐敗せざる牛乳を用ふる時は曹達を用ひず、之れ曹達は牛乳の腐敗を戻す為に用ふるものなればなり
丼 どんぶり の中に、砂糖とバタとを入れ、二本の指にて能 よ く練り混ぜ、之れに
鷄卵を割りて加へ、どろどろになる迄攪 か き混ぜ、
米利堅と酒石英とを一所に篩 ふる ひ込み、
鹽、肉豆蒄、肉桂、牛乳、曹達等を加へ、五本の指先にて、静かに軽くまんべんなく濕 しめ り気が通る樣に攪き回し、
板の上に粉を少し振り散 ま き、其上に取り出し、
猶 なほ 又其上より粉を少し振りかけ、熨棒 ろーらー にて輕く押 おさ へ乍 なが ら、厚さ三分位に熨 の す、次に
ドーナツ抜 ぬき にて、一つ宛 づヽ 輪に抜き取り、
脂 へつど を沸かしたる中に入れて狐色に揚げる、ふつわりと膨 ふく れるなり、
抜き取りたる中のぼちも揚げて良し、
揚げたらば直 す ぐ砂糖にてまぶせる、
●スチウアップル
林檎 りんご を煮て食する法なり、
林檎の皮を剥 む き、程よく割りて核心 しん を去り、各々を薄く削 そ ぎ、
鍋に入れて、林檎の七分目程水を入れて煮る
煮立ち始めたら、焦げ付かぬ樣絶へず匙 さじ 又は杓子にて攪き回す、
林檎は煮へるに従って軟 やはら かになり、熔 と けてどろゝとなる、
其時火より下 おろ し、好みに砂糖少し加へ丼に移して冷 さま す、
茶匙 ちゃさじ にて食す、暖きより冷 さ めたる方味宜し、
●ビスケット
ビスケットにも色々の種類がある、
●ウエーファービスケット
煎餅の樣に薄く小さく作るビスケットなり。
米利堅粉 一斤
砂糖 二百匁 もんめ
バタ 七匁
を一所に丼に入れ、両手の掌にてよくゝ揉み混ぜ、
鷄卵の白味 二個 ふたつ
を鷄卵攪乱器にて充分泡となして加へ、猶
牛乳又はクリーム 少々
を加へて柔かき餅位にねたゝになし、布を掩 おほ ふて三十分計 ばか り置く、
其後板の上に粉を少々振り散 ま き、其上に取り出して又其上より粉を振りかけ、熨棍 ろーらー にて煎餅の厚き位に展 のば し
ビスケット切にて一つ宛 づヽ 抜き取り、ブリキの板に上に並べ、餘り強からぬ火加減にて、テンピにて、三四分間燒く、
ビスケット切には、大小並に種々の型あれども、體裁を撰ばざれば、ナイフにて好む樣に小さく切りて宜 よろ し、
●ス井ートワインビスケット
米利堅粉 一斤半
バタ 二十八匁
砂糖 二十八匁
を丼に入れ、両手の掌 てのひら にてよくゝ揉み合せ、
鶏卵 二個
を黄身と白味と別々に鶏卵攪乱器にて泡となして、一所に加へ、
牛乳又はクリーム 少々
を加へ、ねちゝする位の固さになし、
板の上に取り出し、熨棍 ろーらー にて折り返すゝ熨 の し、薄く展 のば し、ビスケット切にて抜き取り、ブリキ板の上に並べ、テンピの餘り強からぬ火加減にて、五六分間燒く、
上の「料理」と「西洋菓子の製法」は、明治三十八年三月一日発行の 『新家庭』 第一巻第四号 新家庭社 に掲載されたものである
〇鐵道ニ關スルモノ
(特殊日附印、色變日附印付ノモノノミ採録)
◎明治三九、 五、二〇 鐵道五千哩祝賀會記念
祝賀會 三枚 袋 非 、八〇
同 (浮出し) 三枚 袋 賣 一、〇〇
鐵道廳 六枚 横袋 非 三、〇〇
日本ペイント會社 一枚 非 三五
◎明治四〇、 九、 八 旭川釧路間鐵道全通
北海道建設事務所 三枚 袋 非 一五、〇〇
旭川郡役所 二枚 袋 非 七、〇〇
旭川町 三枚 袋 非 七、〇〇
釧路町 三枚 袋 非 七、〇〇
◎明治四二、一一、二〇 鹿兒島線鐵道全通
鐵道院 三枚 袋、套 非 六、〇〇
肥薩協賛會薩線開通 三枚 套 非 四、〇〇
同 三枚 袋 賣 三、〇〇
大阪商船 二枚 袋 非 二、〇〇
◎明治四四、 五、 一 中央線鐵道全通
名古屋建設事務所 三枚 横袋 非 七、〇〇
名古屋開通奉祝會 六枚 袋 非 四、〇〇
西筑摩郡 二枚 袋 非 三、〇〇
中津町祝賀會 三枚 袋 非 二、〇〇
藪原驛 二枚 袋 非 二、〇〇
◎明治四五、 六、 一 山陰線鐵道全通
米子建設事務所 五枚 袋 非 四、〇〇
鐵道院米子出張所 三枚 袋 非 二、五〇
同 西部管理局 三枚 折 非 二、五〇
同管理局營業課 三枚 袋 非 二、五〇
米子町役場 二枚 包、非 袋、賣 二、〇〇
杵築町 三枚 袋 非 二、〇〇
松江市協賛會 三枚 包 非 二、五〇
全國特産品博覧會 三枚 袋 非 二、五〇
鳥取市 三枚 袋 賣 一、五〇
米子市 三枚 袋 賣 一、五〇
✕大正 三、一一、 一 岩越線新發田村山線全通
若松建設事務所 七枚 袋 非 二、〇〇
郡山祝賀会 十枚 套 非 一、五〇
若松市 三枚 袋 非 一、〇〇
◎大正 三、一二、一八 東京停車場開塲記念
鐵道院東管技術課 十枚 袋 非 三、五〇
東京改良事務所 十二枚 袋 非 三、五〇
電気課 五枚 袋 非 三、〇〇
東京印刷會社 八枚 袋 賣 一、五〇
✕大正 四、 四、二五 酒田新庄間鐵道全通
新庄建設事務所 六枚 袋 非 一、五〇
✕大正 五、一〇、三〇 宮崎鐵道開通
宮崎建設事務所 三枚 袋 非 一、五〇
◎大正 五、 五、二九 北海道鐵道一千哩祝賀會記念
祝賀會 三枚 包 非 二、〇〇
北海道廳 十枚 袋 非 二、〇〇
鐵道郵便課 三枚 包 非 二、〇〇
◎大正一〇、 八、 五 根室線鐵道全通
北海道建設事務所 三枚 袋 非 一、八〇
根室町祝賀會 五枚 袋 非 一、五〇
◎大正一〇、一〇、一四 鐵道五十年祝典記念
鐵道省 十五枚 袋 非 三、〇〇
同 三枚 套 非 一、五〇
同 (藏版) 三枚 套 賣 五〇
帝國鐵道協會 説明書付 四枚 套 賣 四〇
◎大正一一、一一、 一 宗谷線鐵道全通
北海道鐵道建設事務所 三枚 套 非 一、〇〇
✕大正一三、 二、一一 松山線西條今治間開通
岡山建設事務所 四枚 套 非 一、〇〇
◎大正一三、 八、 一 羽越線鐵道全通
長岡、秋田、新庄建設事務所 七枚 套 非 二、〇〇
✕大正一三、 四、一一 益田線鐵道全通
米子建設事務所 四枚 套 非 一、〇〇
✕大正一四、一二、 五 高知線鐵道全通
高知建設事務所 五枚 折 非 一、〇〇
✕昭和 四、 四、二八 土讃北線財田池田間開通
鐵道省 五枚 套 非 八〇
◇臺灣ノ部
◎明治四十一、一〇、二四 縦貫鐵道 總督府 三枚 袋 賣 一、五〇
◎大正 三、 二、一五 阿喉線全通 鐵道部 三枚 袋 非 三、五〇
◎大正 六、一一、一一 瑞穂玉里間開通 鐵道部 二枚 袋 非 五、〇〇
◎大正 八、 三、二八 宜蘭蘇澚間開通 同 三枚 袋 非 二、〇〇
◎大正 一一、一〇、一〇 海岸線開通 同 二枚 袋 非 二、〇〇
◎大正 一三、一一、三〇 宜蘭線全通 同 三枚 袋 非 二、〇〇
◎大正 一五、 三、一七 臺東線全通 同 三枚 套 非 一、五〇
◇朝鮮ノ部
◎明治 四四、一一、 一 鴨綠江橋梁落成 鐵道局 三枚 袋 非 七、〇〇
◎大正 三、 三、二二 湖南線全通 總督府鐵道部 六枚 袋 非 八、〇〇
同 木浦祝賀會 三枚 袋 賣 三、五〇
◎大正 三、 九、一六 京元線鐵道全通 總督府鐵道部 六枚 袋 非 六、〇〇
◎大正 六、一〇、 七 第一期治道並漢江橋竣工 同 三枚 袋 非 八、〇〇
◎大正 六、一一、二五 清津會寧間開通 府鐵道管理局 三枚 袋 非 六、〇〇
◎大正 九、 五、一六 咸徳線開通 同 三枚 袋 非 二、〇〇
◎大正 一五、一一、一一 鎭海線開通 鐵道局 三枚 袋 非 一、八〇
◎昭和 三、一〇、 一 咸鏡線全通 同 六枚 袋 非 二、八〇
◇樺太ノ部
◎大正 一二、 四、三〇 大泊稚内船車連絡 鐵道局 五枚 套 非 二、八〇
◎昭和 三、 九、 三 豊眞線全通 鐵道事務所 五枚 套 非 二、五〇
◇關東廳ノ部
◎明治 四〇、 四、 三 安奉線鐵道班解散 野戰鐵道提理部 六枚 ― 非 一五、〇〇
〇博覽會及共進會等ニ關スルモノ
= 雜 =
〇戰役關係ノモノ
◇戦地發行
〇内地ノ部 (雜)
〇殖民地ノ部 (雜)
◇臺灣ノ部
明治 三八、一〇、 一 臨時戸口調査 宜蘭委員部 三枚 袋 非 一、五〇
◎明治 四〇、 七、二四 兒玉總督追悼記念 追悼會 三枚 套 非 一、五〇
一〇、 一 第二囘戸口調査 宜蘭委員部 二枚 袋 非 一、二〇
◎ 一〇、二八 臺灣神社大祭 總督府 三枚 袋 非 一、五〇
、 電気作業局官制公布 總督府電気作業局 二枚 袋 非 八〇
◎明治 四一、 八、二九 警察官招魂碑除幕式 建設委員會 三枚 袋 非 五、〇〇
明治 四三、 、 ガオガン蕃討伐記念 宜蘭廳 十二枚 袋 非 一、五〇
四、 新築落成記念 臺南郵便局 三枚 袋 非 六〇
◎明治 四四、 二、一一 第一回臺灣南部物産共進會 協賛會 三枚 袋 賣 一、〇〇
◎大正 二、 九、一五 討蕃隊凱旋祝賀會 祝賀會 三枚 袋 非 三、五〇
◎ 同 婦人會 六枚 袋 非 三、五〇
◎大正 三、 九、 五 討蕃隊凱旋祝賀會 祝賀會 三枚 袋 非 三、〇〇
◎大正 四、 五、一〇 佐久間大將送別會 祝賀會 三枚 包 非 三、〇〇
◎ 一〇、三〇 第二囘臺灣南部物産共進會 協賛會 三枚 袋 賣 一、〇〇
◎大正 五、 四、一〇 臺灣勸業共進會 協賛會 三枚 袋 賣 六〇
◎大正 九、一〇、 一 地方自治制 總督府 二枚 袋 非 一、八〇
◎昭和 三、 七、一四 建功神社鎭座記念 社務所 三枚 袋 非 一、五〇
◎昭和 五、一〇、二七 臺灣文化三百年 臺南市 五枚 袋 非 一、〇〇
◇朝鮮ノ部
◇關東廳ノ部
◇樺太ノ部
◇其他ノ部
◎明治 四二、一一、 三 天長節祝賀記念 在清國福州日本領事館 三枚 袋 非 一、五〇
大正 三、一一、一〇 青島征獨慰問 陸軍省大臣官房 三枚 袋 非 二、五〇
同 愛國婦人會 三枚 袋 非 一、〇〇
大正 四、 軍政一周年 青島軍政署 二枚 袋 非 四、〇〇
編輯後に
蒐集趣味‥‥‥に於て同じ樣な系統を持つ、郵便切手、特殊通信日附印等の蒐錄は既に發行された。事實よきものは同好者の利便を齎す處大なるものである。
此の間に於て出づべくして、出てないのは即ちこのこの記念繪葉書の總目録であらうか
我が國に於て記念繪葉書の初めて發行されてより、現在に至る迄三十年、その間如何程多くが發行されたであらう、その枚舉は夙に至難であり、增して文献的に一々探求し、社會的に價値付けることは、更に困難な事業なのである。從って容易らしくして然らないのが、この類書の出なかった所以であらう。
然しながらこの幾多の記念繪葉書の中に於て、一般的に蒐集慾を起さしめるものはさう多くはない。
本書は最も著名なるもの千二百種を舉げて、概括的にどんなものが出てゐるかを知ると同時に、未知の境地を多少紹介するの用に立ち得ればそれで幸である。從って比較的最近のものは簡略にし、古き境地に努力を拂ったのである。
而して亦これ等記念繪葉書は現在何程の價値を生じてゐるかと云ふことは、蒐集家の最も知りたい處である。今迄はこれに關する指導書もなくて、價格に於て多少冒險的な蒐集を餘儀なくして來た感がある。この時價評價は非常に至難に屬することで、その公正を期する處なくては、蒐集家を冒瀆する處多い。
本書の評價に當っては、古き時代の値段、途中の變遷、現在の賣買等よろしく參酌し、再三先輩とも熟議し、最も公正を期したのである。
明治時代に於ける戦役物は當時よりは今が安く、大正初期の物は現在の方が概して高くなってゐる等その變遷は多々あるのである。
本書の頒布は特に低價を以てした。洽く行き渡り廣く利用せられんことを望むからだ。又装幀に當っても實と美の兼備に留意した。本書に對するこの値段では營利的でないことを惟ひ度い。
本書を發行するに當り忙中を短日に計畫し又遂行した、金玉の物とするには餘りに時日がなかった感がある。文献的に調査推敲の至らない點あらば、幸に諒せられ御教示あらんことを希ふ次第である。
發行の日 編者誌
昭和六年八月五日發行 【非賣品】
編者 漆畑清 神谷忠一
發行所 郵便の友社
記念繪葉書總目録
【昭和六年版】
一、本書は我國に於て發行せられたる記念繪葉書の蒐錄にして、明治三十五年繪葉書制度の制定當初より、昭和六年に至る、官公署、公共團体、新聞社、會社、個人等發行の、著名なるものを適宜採錄したり
一、本書の配列は、各記念事項別に大別し、年代順に依れり。蓋しその同一系統の品種を一目知悉せしむるに便せり
一、記念繪葉書發行の月日は明らかなるもの少し、依て特殊通信日附印、色變日附印發行あるものはその當日(數日使用のものはその初めの日)、日附印なきものはその記念日を記入せり
一、本書は能ふる限り文字を簡略したり。依て左記符號を用ふ
イ、日附印表示 (一段目)
◎ ‥‥‥‥ 特殊通信日附印
✕ ‥‥‥‥ 色變日附印
臨 ‥‥‥‥ 臨時局日附印
活 ‥‥‥‥ 普通日附印(黒色)
ロ、發行日 (二段目)
明治三五、六、一八 ‥‥‥‥ (年月日發行の字省略)
特殊通信日附印に限り使用數日に亘るものの中、初日と最終日を記念事項名下位に表せるものあり
ニ、記念事項名 (三段目)
記念事項を簡略表示し、特殊通信日附印名又は繪葉書包装題簽に必ずしも依らず
ニ、發行所名 (四段目) (✕✕發行の發行を省略)
ホ、數量 (五段目) 一組の枚数を表す
へ、包装 (六段目) 左の符號を以て表す
帯 ‥‥‥‥ 帯紙
套 ‥‥‥‥ 叠套の上下を折らぬもの
包 ‥‥‥‥ 叠套の上下を折りたるもの
折 ‥‥‥‥ 折本に仕立てたるもの
Ⅰ ‥‥‥‥ 包装の發行なきもの
包装に【横】と特に表示せざる以外のものは總て縦形
ト、賣否の別 (七段目)
賣 ‥‥‥‥ 賣品
否 ‥‥‥‥ 非賣品
チ、標準價格 (八段目)
一、八〇 ‥‥‥‥ 一圓八十錢の略 (單位錢)
リ、其他
記切 ‥‥‥‥ 記念切手
普切 ‥‥‥‥ 普通切手
特印 ‥‥‥‥ 特種通信日附印
一、本書は一般公正なる標準價格を附す
特殊通信日附印、色變日附印發行ありたるものは、その印押捺せる普通完全品を標準として評價す
特殊日附印、色變日附印發行せる記念事項にして、押捺せざる繪葉書の時價は物に依り非常に安價なるものあり
稀品、珍品は評價既に高けれども、實際上入手難又は特に好條件の美品等は、實價一定し難し、現品そのものに依る外なし
記念繪葉書總目録目次
遞信省發行ノ部
殖民地施政記念ノ部
進水式記念ノ部
陸軍特別大演習記念ノ部
行幸啓記念ノ部
鐵道ニ關スルモノノ部
博覽會及共進會等ニ關スルモノノ部
◎雜◎
戰役關係ノモノノ部
戦地發行
内地ノ部
殖民地ノ部
記念繪葉書總目録
〇遞信省發行ノ部
一組枚数 包装 賣否別 標準價格
◎明治三五、 六、一八 萬國郵便加盟廿五年 六枚 帯 賣 一、八〇
同 (来賓用) 六枚 厚袋 非 四、〇〇
✕明治三六、一一、一〇 特別大演習姫路地方 三枚 袋 非 一二、〇〇
明治三七、 九、 五 日露戦役 第一囘 六枚 帯 賣 六〇
同 贈呈用 六枚 厚袋 非
明治三七、一二、一一 同 第二囘 三枚 帯 賣 三〇
同 贈呈用 三枚 厚袋 非
明治三八、 二、一一 同 第三囘 十五枚 帯 賣 一、五〇
同 贈呈用 十五枚 厚袋 非
明治三八、一〇、一五 同 第四囘 十五枚 カード付 賣 一、五〇
同 贈呈用 十五枚 厚包 非
〇第一回ヨリ第四回ニ至ル別ニ恤兵用トシテ【軍事郵便】アリ、約二割高ナリ
◎明治三八、一〇、二三 日露凱旋觀艦式 二枚 薄袋 賣 五、〇〇
同 恤兵用【軍事郵便】 二枚 袋 非 六、〇〇
◎明治三八、一二、 七 滿州軍凱旋記念 一枚 薄袋 賣 八〇
◎明治三九、 四、二九 日露凱旋觀兵式 甲 一枚 薄袋 賣 二五
〇一部ニ「戰歿記念」ト誤刷セルアリ、變種トシテ珍重セラル
日露凱旋觀兵式 乙 一枚 説明書折紙 賣 八〇
明治三九、 五、 六 日露戦役 第五囘 三枚 厚袋 賣 五、〇〇
◎明治三九、 五、 六 靖國神社大祭 贈呈 一枚 厚袋 非 三、五〇
◎明治四一、一〇、一〇 米國艦隊觀迎 二枚 横型薄袋 賣 六〇
◎明治四二、一〇、 二 遷宮式年 二枚 袋 賣 八〇
◎明治四三、 五、一四 日英博覽會 三枚 厚袋説明書付 賣 七〇
◎大正 四、一一、一〇 大禮記念 二枚 袋 賣 二五
◎大正 八、 七、 一 平和記念 二枚 袋 賣 二五
◎大正一〇、 四、二〇 通信五十年 二枚 タトウ 賣 三〇
同 贈呈用 二枚 案内書一枚付 非 七〇
◎大正一二、 未發行 皇太子殿下御成婚 二枚 袋説明書記切付 二五、〇〇
同 二枚 同 空押 一二、〇〇
◎大正一四、 五、二〇 大婚廿五年 二枚 厚袋説明書付 賣 三〇
◎昭和 三、一一、一〇 大禮記念 二枚 タトウ 同 賣 二〇
◎昭和 四、一〇、 二 遷宮式年 二枚 タトウ 同 賣 二五
〇殖民地施政記念ノ部
◇臺灣ノ部 記念日 六月 十七日
◎明治三八 臺灣始政十年 臺灣總督府 三枚 袋 二種 賣 三、〇〇
◎明治三九 十一囘 同 二枚 袋 賣 七〇
◎明治四〇 十二囘 同 二枚 袋 賣 八〇
◎明治四一 十三囘 同 二枚 袋 賣 一、〇〇
◎明治四二 十四囘 同 二枚 袋 賣 一、二〇
◎明治四三 十五囘 同 二枚 袋 賣 一、二〇
◎明治四四 十六囘 同 二枚 袋 賣 一、二〇
◎明治四五 十七囘 同 二枚 袋 賣 一、二〇
十八、十九囘ハ記葉特印共ニ發行ナシ
◎大正 四 二十囘 同 三枚 袋 賣 一、二〇
◎大正 五 二十一囘 同 二枚 袋 賣 八〇
◎大正 六 二十二囘 同 二枚 袋 賣 九〇
◎大正 七 二十三囘 同 二枚 袋 賣 八〇
◎大正 八 二十四囘 同 二枚 袋 賣 八〇
◎大正 九 二十五囘 同 二枚 袋 賣 六〇
◎大正一〇 二十六囘 同 二枚 袋 賣 六〇
◎大正一一 二十七囘 同 二枚 袋 賣 六〇
◎大正一二 二十八囘 同 二枚 袋 賣 五〇
◎大正一三 二十九囘 同 二枚 袋 賣 五〇
◎大正一四 三十 囘 總督府交通局 三枚 袋 賣 七〇
◇朝鮮ノ部 記念日 十月 一日
◎明治四三 朝鮮始政記念 朝鮮總督府 二枚 袋 賣 一、〇〇
◎明治四四 一周年 同 二枚 袋 賣 九〇
◎大正 元 二周年 同 二枚 袋 賣 九〇
◎大正 二 三周年 同 三枚 袋 賣 一、〇〇
◎大正 三 四周年 同 三枚 袋 賣 一、〇〇
◎大正 四 五周年 同 三枚 袋 賣 一、〇〇
◎大正 五 六周年 同 三枚 袋 賣 八〇
◎大正 六 七周年 同 三枚 袋 賣 八〇
◎大正 七 八周年 同 三枚 袋 賣 七〇
◎大正 八 九周年 同 三枚 袋 賣 八〇
◎大正 九 十周年 同 二枚 袋 賣 七〇
十一周年ヨリ十四周年マテ發行ナシ
◎大正一四 十五周年 同 三枚 套 賣 六〇
同 同 五枚 袋【統計】賣 三〇
◇關東廳ノ部 記念日 九月 十日
◎明治四〇 關東始政一周年 關東都督府郵便電信局 二枚 袋 賣 一、五〇
◎明治四一 二周年 同 二枚 袋 賣 一、八〇
◎明治四二 三周年 關東都督府通信局 二枚 袋 賣 二、〇〇
◎明治四三 四周年 同 二枚 袋 賣 二、二〇
◎明治四四 五周年 同 二枚 袋 非 二、〇〇
六周年ヨリ十四周年マテ特印アルモ記葉發行ナシ
◎大正一〇 十五周年 關東廳遞信局 二枚 袋 賣 六〇
十六周年ヨリ十九周年マテ特印アルモ記葉發行ナシ
◎大正一五、 九、二四 二十年 關東廳 三枚 袋 賣 七〇
同 大連市役所 三枚 袋 賣 八〇
◇樺太ノ部 記念日 八月二十三日
◎明治四〇、 六、一五 樺太始政記念 樺太廳郵便電信課 二枚 袋 非 二、〇〇
◎明治四一、 八、二四 移廳式 樺太廳 二枚 袋 賣 一、五〇
◎明治四二 始政三囘 同 十六枚 袋 賣 八、〇〇
◎明治四三 四囘 同 五枚 袋 賣 四、〇〇
◎明治四四 五囘 同(樺太神社鎭座式)二枚 袋 賣 二、〇〇
◎大正 元 六囘 同 三枚 袋 賣 二、五〇
◎大正 二 七囘 同 二枚 袋 賣 一、五〇
八囘特印アルモ記葉發行ナシ
◎大正 四 九囘 同 二枚 袋 賣 一、〇〇
◎大正 五 十囘 同 二枚 袋 賣 一、〇〇
◎大正 六 十一囘 同 二枚 袋 賣 六〇
十二囘十三囘特印アルモ記葉發行ナシ
◎大正 九 十四囘 同 三枚 套 賣 八〇
◎大正一〇 十五囘 同 三枚 套 賣 八〇
◎大正一一 十六囘 同 三枚 袋 賣 八〇
◎大正一二 十七囘 同 二枚 袋 賣 六〇
◎大正一三 十八囘 同 二枚 袋 賣 五〇
十九回特印記葉共ニ發行ナシ
◎大正一五 二十囘 同 二枚 套 賣 五〇
◎昭和 二 二十一囘 同 二枚 袋 賣 五〇
◎昭和 三 二十二囘 同 二枚 袋 賣 三五
◎昭和 四 二十三囘 同 二枚 袋 賣 二五
◎昭和 五 二十四囘 同 二枚 袋 賣 三五
◇南洋ノ部 記念日 七月 一日
◎大正一四 南洋廳始政七年 パラオ郵便局 甲四枚 袋 賣 六〇
同 同 乙四枚 袋 賣 六〇
八年九年特印記葉共ニ發行ナシ
◎昭和 三 十年 南洋廳 三枚 套 賣 四〇
〇進水式ニ關スルモノ
〇陸軍特別大演習記念ノ部
〇行啓記念ノ部
大福帳 昭和十二年正月吉日
尚美堂総型録 1937年版
百花の譜
創業明治三十年以来尚美堂の隆盛は絶へて変らざる貴家の御愛顧御後援の賜と深く深く感謝いたします
明治、大正、昭和と揺籃時代幼年時代少年時代青年時代を経て絵画の中に生れ絵画の中に生活する尚美堂四十年の経験と努力は現在発行品総数一千五百余種華と咲き実を結び百花繚乱の感が有ります
この花園を御逍遥御気入りの品有之らば何卒御用命の程願上げます。
旧に倍し御愛顧御引立の程願上げます
尚美堂本店
店主 田中良三
額畫の部
御尊影御額畫
STH印中コロム型
D印八丸型
A印小原色
B印ブロ四ツ
C印五七型
全紙ブロマイド
E印國の華額畫
G印小衣大衆版
御尊影御額畫
御取扱上不敬に渉らざる様特に御注意願ひます
極上四ツ御額畫
用紙光澤ポスト紙・金御紋章打上ゲ上紙付
寸法一尺三寸✕九寸五分
卸 正味 金十二錢
クリーム台紙
兩陛下御御尊影
輝く菊花(御三人) 〃
菊花の輝( 〃 )(淡色版)
天長地久(兩陛下)( 〃 )
天壌無窮( 〃 )( 〃 )
ポストカード御寫眞 卸 正味 金六錢
カビネ型御寫眞 卸 正味 金五錢
●御註文により燒增調整可仕候(一種百枚以上)
中コロム型
用紙 光澤ポスト紙
寸法 一尺四寸✕一尺二寸
卸 金二十錢
國の華額畫
E印 (中コロム型)
墨色ライトタイプ
卸 正味 一枚 十六錢
D 八丸型
用紙 光澤ポスト紙
寸法 一尺三寸✕九尺五寸
卸 正味 十二錢
A印 小原色額畫
ヱハガキの部
原色版繪葉書
墨色十二入ヱハガキ
一色十六枚ヱハガキ
漫畫ヱハガキ
雜種ヱハガキ
東京名所
軍歌ヱハガキ
詩吟ヱハガキ
國際ポストカードコレクション
原色版繪ハガキ
美麗原色版印刷 石版意匠袋入 各八枚一組
卸 正味 十二錢
〔F1~F144は、地球印絵ハガキ縮写型録参照〕
F. 145(教育資料)人體生理 解剖圖
F. 146 重砲兵(原色)
F. 147 昆蟲繪葉書A(原色)
F. 148 同 B(同)
【奉仕品】●十大戰艦 原色版 十 枚組 卸 正味 十二錢
●軍艦全集 淡色版 十六枚組 卸 正味 十二錢
墨色十二入ヱハガキ
コロタイプ印刷 各十二枚一組 卸 正味 十二錢
怒濤中の航進
聖畫集
世界の偉人
主力艦隊
明治聖代人傑集(一) 同(二) 同(三) 同(四) 同(五) 同(六) 同(七) 同(八)
軍用飛行機集
一色十六枚ヱハガキ
卸 正味 九錢
軍隊生活(野外) 同(營内)
忠臣四十七士
大西郷
新編美麗袋入
水彩スケッチ 各八枚一組 卸 六錢
トテモ賣れる
漫畫ヱハガキ 【改訂新版】
☆入營から除隊まで (卅二枚組)卸十二錢
☆各兵科新兵器演習漫畫 (同 )同
☆營内生活全集 (同 )同
☆滿洲いろは漫畫 (同 )同
☆入團から滿期まで (同 )同
☆モダン彌次喜多東京見物(同 )同
☆出兵から凱旋まで (同 )同
☆陸軍漫畫通信(十六枚組)卸 六錢
☆海軍漫畫通信(同 )同
☆漫畫の兵隊 (同 )同
☆軍隊の一日 (同 )同
雜種ヱハガキ
△花くらべ三十二相(原色版 三十二枚箱入)卸 正味 五十 錢
△日本名所三十二景(同 )同
△日本名所五十景 (原色大光澤 )卸 正味 七十五錢
△日本風俗(其一)(原色版 五十 枚箱入)同
△同 (其二)(同 )同
△日本歴史 (同 )同
△水彩風景 A (オフセット 百枚箱入)卸 正味 六十 錢
△水彩風景 B (同 )同
△水彩風景 C (同 )同
△動物類 (同 )同
△果實類 (同 )同
△日本草花 (同 )同
△西洋草花 (同 )同
△花鳥類 (同 )同
△日本アルプス (コロタイプ刷 三十二枚箱入)卸 正味 三十 錢
東京名所
エハガキ・手札・カード 寫眞帖・枝折等各種
軍歌ヱハガキ
戰友
各兵科の歌
獨立守備隊の歌
道は六百八十里
詩吟ヱハガキ
皇軍詩吟集 第一集
同 第二集
國際ポストカードコレクション
卸 正味 六錢
P. 1 ベートーヴエン
P. 2 リンコルン
P. 3 西郷南洲
P. 4 ナポレオン1世
P. 5 晩鐘
P. 6 穂拾
P. 7 彫刻 ガラテ
P. 8 同 ウエヌス
P. 9 ゲツスマンノキリスト
P. 10 懐胎のマリヤ
P. 11 セクスピヤ
P. 12 歌麿 大首
P. 13 同 海女
P. 14 清長美人
P. 15 戦陣中のナポレオン
P. 16 マリヤ
P. 17 浴後
P. 18 乳搾りの娘
P. 19 水と裸婦
P. 20 蠅を追う裸婦
P. 21 乃木将軍
P. 22 モルトケ將軍
P. 23 バイロン
P. 24 ガルバルジイ
P. 25 ナイチンゲール
P. 26 風景
P. 27 爐邊
P. 28 母と子
P. 29 エンゼル
P. 30 ピアノ
P. 31 日蓮上人
P. 32 豊臣秀吉
P. 33 羊飼
P. 34 海の裸婦
P. 35 裸婦「泉」
P. 36 裸婦「讀書」
P. 37 ベートヴエン
P. 38 水を飲む女
P. 39 最後の晩餐
P. 40 クリストの首
P. 41 ビスマルク
P. 42 東郷元帥
P. 43 ワシントン
P. 44 ペスタロッチ
P. 45 孫中山
P. 46 裸婦「ともし灯」
P. 48 愛の女神
P. 50 聖母
P. 51 昇天のクリスト
P. 52 マグダレナのマリヤ
P. 53 幼時のクリスト
P. 54 踊り子
P. 55 ジャンダルク
P. 56 鳩を持つ乙女
P. 57 彫刻「海の裸婦」
P. 58 彫刻「習作」
P. 59 同 「ダナイト」
P. 60 デッサン
P. 61 大隈重信
P. 62 ユーゴー
P. 63 ネルソン
P. 64 ワット
P. 65 モナリザ
P. 66 悔悟せるマグダレナ
P. 67 愛の矢
P. 68 たそがれ
P. 69 艦上のナポレオン
P. 74 十四才のクリスト
P. 75 マドンナ
P. 76 クリスト
P. 77 ダンサー
P. 78 彫刻「海の歌」
P. 79 同 「獵の女神」
P. 80 同 「周作」
P. 81 同 「姉弟」
P. 82 彫刻「傷ける燕」
P. 83 同 「マノン」
P. 84 カイゼル
P. 85 トルストイ
P. 86 伊藤博文
P. 87 スチブンソン
P. 88 フランクリン
P. 89 羊飼の男
P. 90 刺 (トゲ)
P. 91 リンゴ採り
P. 92 マドンナ
P. 93 サミエル
P. 94 聖母
P. 95 海上のクリスト
P. 96 線の習作
P. 98 バラを持つ女
P. 99 湖上
P.101 明治天皇
P.102 維新の三傑
P.103 日露戦役の三傑
P.104 天使の遊び
P.106 裸婦
P.107 春
P.109 ハンカチのクリスト
P.110 仔牛
P.111 ひとり
P.112 嘆き
P.113 おそれ
P.114 椅子に寄る裸婦
P.115 目覚め
P.116 朝
P.117 希望
P.118 アローン
P.119 殘されたるもの
P.120 母と子
▼番號の無き分は全部發賣禁止
ニッポン紹介繪葉書
◆現代日本の風景風俗 數種
-出版豫定-
手札六枚組
寫眞
手札型大光澤燒付寫眞
六枚組 卸 十二錢
泰西名畫家 デッサン集
教育カード
原色版 三十二枚組
美麗箱入卸六錢
教育
寫眞カード
寫眞式カード ブロニー型 十六枚一組 卸 六錢 小賣 十錢
フランスカード
枝折
屏風用繪紙と掛軸・色紙
満蒙向出版物
御肖像御額畫 満蒙額畫 満蒙ヱハガキ カード 枝折 寫眞帖
江戸料理と通人 八百善主人 栗山善四郎
江戸ッ子料理の濫觴 らんしょう
江戸ッ子料理の最も栄えたのは、文化文政の頃ですが、私共の先祖が此の商売を始めたのはずッと其以前からです。元と山谷附近は一帯にお寺ばかりでしたから、其の寺院を得意に青物店を開き、傍ら寺院の精進料理の手伝ひなどをして居ました。する中 うち に吉原が段々繁昌し出すにつれて、八百屋だけでは気が利かないと云ふので、店の片隅に一品料理を商ふことにした。それが八百善の元祖です。その後江戸ッ子料理と称するものが江戸中に数十軒も出来ましたが、私共が特に名の売れたのは、文化文政時代の善四郎といふ人が却々 なかなか の才物だつたからです。この人が抱一上人、蜀山人その他当時の諸名士と深く交 まじは り、一方には全国を遊歴して各地の料理法を研究し、又江の島の石段を造つたり、各地の神社仏閣に奉納額を配つたりして広告に力めた結果、追々繁昌するやうになりそれから料理に丹精を凝 こら して江戸ッ兒の人気を集めると共に、時の将軍家斉公の御成があつたので、非常の評判となり、遂に今日の隆盛を見るに至つたのです。
献立の苦心と雇人
他の料理店では主人自ら魚河岸へ買出しに行くのは稀です大抵は其日々々の献立によつて必要な品数を書附 かきつけ にして使の者をやるやうです。けれども私共では先代からの遺法で、必ず主人自ら魚河岸へ出かけて、原料の選定をする事にしてあります。若し献立通りの魚が調 ととの はぬ場合には、其場に予定の献立をさしかへて、有合せの品を買入れるのです。それに何処の割烹店でも献立は大概似たものですが、私共ではヨシ同じ原料でも其日ゝに使ひ方を変へます。而 そ して大体の献立は月に二三度も変更するものだから、永年勤めてゐる料理番でも、私の献立ばかりは当りがつかぬと云つてゐます。此処がまア特色と申せば特色ですが、その代り私は献立の意匠で年中頭の休まる事はありません。
夏分は魚類が悪くなり易い為に、七、八の二ヶ月間は休業いたしますが、此間には年季の小僧に実地の割烹をやらせてそれを私が味はつて見て品評をする、恁 か うして十歳位からの小僧を躾けて料理人に仕上げるのです。女中の如きも桂庵からの渡り者を使はず、身元の確乎 しつかり した十五六歳の娘を年季に置いて、客の前へ出すにも、決して虚飾 めか す事は許しません。衣裳は一切綿服に限り、唯だシトヤカで上品なのを主として居りますから、御酒 ごしゅ のお相手なら芸妓 けいしや をお呼び下さいとお客様にも申すのです。
爼と包刀の使い分け
料理をするに一番肝腎なのは爼 まないた と包刀 はうちやう の択び方です、これが悪いと、どんな手腕 うで の好い料理人でも思ふやうな味を出せません。私共で用 つか つてゐる爼は、檜の節のない、心を去つた物で、高さ一尺三寸、幅二尺二寸、長さ一間といふ大きなものです、その新しい爼は刺身を作る時に用ひ、毎月一度づつ包刀疵を去る為に鉋 かんな をかけます。恁しないと包刀目に包刀が引 ひつ かゝつて、手際よく刺身が作れません。段々削 けづ てそれが低くなると、その爼は荒ごなしや、骨たゝき用に宛 あ てて、刺身の爼は又新らしく拵へます。ですから爼の数は幾種 いくいろ もあつて、刺身、骨たゝき、荒ごなし、野菜、獣鳥肉、魚類等皆なそれゞ爼が異 ちが ひます。でないと肉類の血が野菜についたり、野菜の匂ひが魚にうつッたりして、本統の原料 もと の味が出ません。
それから包刀の種類も矢張爼と同じく幾通りかあります。刺身用、骨たゝき、荒ごなし、野菜でも菜切包刀に、葱、柚子などを切るのは皆別々にして決して他の物に流用しません
料理の食ひ頃
すべて料理は食べ頃に食べないと本統の味が解りません。食べ頃をすぎた物は、如何に名人が苦心して拵へた料理でも多少味が変ります。例へば、椀盛りのやうな物でも、温かい出来たての中に召上れば美味いけれども、時間が経つに隋 したが つて汁は鹹 から くなり、魚は鹽梅 あんばい が狂つて、折角の味が失せて了 しま ひます。殊に大一座か何かで、芸者や女中共がゴタゝ騒ぐ座敷では、埃が食物にかゝつて料理の真味は方なしです。だから腕自慢の料理を差上げやうと思つても、お客の方で食べ頃に食べて頂かないと、全く骨折甲斐がありません。それから近来流行の折詰のお土産、あれは御注文の場合は拵へますが、その場に食べるといふ料理の本来 たてまへ から申すと、実際つまらんものです。そこで私共では折詰に一々札を入れて、味の変り易い物は明日までの保證は出来兼ねますと断わつておきます而して客種によつては、其場で召上るのか、お持帰りになるのか、それを伺つた上で献立を致します。
慶喜公の遊び振り
近来は昔と異 ちが つて料理の通人といふのが少くなりました隋つて客種でも遊び方でも余程趣きが違つて来たやうです。以前私共へお出でのお客は、飲んだり喰つたりするよりも料理は味はうといふ方が重でしたが、近頃はそれと反対です。まア芸者でも招 よ んで大に騒がうといふ方が多いから、自然料理の味などは二の次です。そこへ行くと昔の通人は却々 なかゝ 凝つてたもので、少しでも包刀前や火加減が異ふと、今日の板前はどうだとか恁うだとか云ふ批評をなさる、芸者達でも随分舌が肥えてゐて、魚の産地まで鑑別するほどでした。ですから私共では骨の折れた代りに張合がありました。
旧幕時代には江戸詰の諸大名や旗本衆をはじめ、将軍家などもチヨイゝお忍びお出でになりました。殊に御贔屓に預かつたのは今の慶喜公で、この方は非常な料理通です。そのお好みの肴 さかな は鶉 うづら のそぼろと、虎きすの蒲鉾で、このニ品がないとどうも酒が旨くないと有仰 おつしや るほどです。明治になつてからよく、榎本子爵をお伴につれて入らつしやいましたが、流石にお人柄だけお座敷は清いものでした。その当時吉原におしゆんと云ふ老妓があつて、チヨイゝ慶喜公の席へ招かれて来ましたが、之がなかゝの芸達者です。最も得意なのは富本、菅垣、ニ上り新内といふやうな渋いもので、公は殊の外おしゆんの咽聲 のど を感服してゐられたやうです。ところが榎本子爵は、酒は満を引くといふ方で、酔つて来ると例の銅鑼声で詩吟をはじめられるので、おしゆんが折角の美声もその為打 ぶち 壊される、すると公は笑ひながら『榎本はヨクそんな奇な声が出るものぢや喃 のう 』と仰しやるだけで、大層御酒の可 い い方でした。
江戸ッ子式の通人
矢張り徳川公の臣下 けらい で、田村孫兵衛といふ大の料理通がム ござ いました、先づ魚類でも出すと、この鯛は松輪で獲れたのだとか、この比目魚 ひらめ は横須賀だらうとか、或は野菜類でもこの大根は宮重の本場物でないから味がないなどと、ヨク一々言ひ当てるのです。料理店では恁ういふ大通から食つて頂くと難有いのです。
当今 いま の紳士方の中 うち で、生粋の江戸ッ子料理通と云へば、徳川公、宗伯爵、大槻如電先生、幸堂得知先生、野島男爵、益田太郎さん、俳優では市川猿之助さん、有名な方では先づこんなものでせう。その遊び方ですか、それは各々 めいめい 流儀が異ひます。まア一口にいへば徳川公や宗伯爵は殿様風の通人、大槻さんや幸堂さんは江戸趣味の通人、益田さんや野島さん達は明治式の通人とでも申しませう。芸者も昔ほど腕達者なものは居ませんが、芸の方では矢張り廓内妓 よしはら が一等で、斡旋 とりなし の旨いのは柳橋でせう。
上の文と写真は、明治四十二年十月一日発行の雑誌『無名通信』第一巻 第十二号 有名号 無名通信社 に掲載されたものである。
下の写真は、同号に掲載された「味の素」の広告である。
表紙には、「鉄道画報 第貮巻 第十二號」とあり、目次も左下にある。奥付には、「〔大正元年:一九一二年〕 十二月一日発行 正価一冊金拾銭、郵税壹銭 発行兼編輯人 今村一成 発行所 神戸市兵庫(兵庫駅前西管四) 鐵道畫報社 電話長一二六一番」などとある。38センチ、18頁。
写真〔口絵〕
・汽車のいろゝ :急行列車、貨物列車、機関車海渡の奇観 和船に機関車を積載小蒸気船にて曳き行く〔下の写真は、その部分拡大〕、区間列車、混合列車 5枚
・白皚々 :富士山、福岡東公園、彦根楽々園、松江城山附近、丹後天の橋立切戸、石橋 大分 金太郎 君松、琴平神事場、近江比良峯、廣島泉邸 9枚
・大小時事画観 :陸軍特別大演習南軍の斥候、陸軍特別大演習北軍敵状視察、米国新大統領ウイルソン氏、大艦観式参列の軍艦浅間とパーセパル飛行船、墨山国将軍の出征、連敗せる土耳古皇帝メハメト五世、土国新首相キヤミルハシヤ、長三郎と結婚せる京都岸勇、赤穂義士呀頭に扮せる新婚長三郎 9枚
・寒牡丹 :〔中国・九州の芸者16人の写真〕 16枚
記事
・官僚党の末路を卜す 〔写真2枚あり:桂公爵、寺内伯爵〕
・南極探検隊は儲けたか
・電鉄界と其人物(二) △南海鉄道株式会社
・画報パツク 〔漫画は省略〕
ヤツと振上げた太刀先は頗る鈍かつたが遂々上原陸相を首にして又西園寺和尚もこゝ許大いに男振りを上げたが返す刀で自腹を切るやうなことが無ければ可いが
軍人が得意になれば国民は頭痛鉢巻
・避寒地は何処が好い 清畔 〔写真1枚あり:釜山停車場旅館〕
・狩猟地は何処が宜い 鉄砲道人
・但馬の安楽郷 =冬知らぬ城崎温泉= 漫遊博士 〔写真1枚あり:城崎温泉の旅館〕
広告 言論の時に非ず 理想的のクラブ歯磨
・川柳〔三首〕
・日本一の大停車場 赤毛布 =東京見物記の一節=
▲ 建築中の東京中央停車場が其の稜稜たる鉄骨を三菱ヶ原に曝 さら してゐたのも随分久しい間の事だ。
▲ あれぢや鉄骨も腐るだらうといふやうな、由なき非難も蒙つて居たが昨今工事大に進捗し、此の向なら大正三年、今上陛下御即位の大礼を行はせらゝ迄には、所謂ル子ッサン式輪奐 りんかん の美を見らるゝやうになつた。
▲ 何がさて七箇年の継続事業で工費参百万円といふ未来の日本一大停車場だ、一寸と覗いた位ゐで工事中の話が出来て堪るかと請負の大林組が昂然の態度。
▲ 土台を据える為めに地下六尺も掘り下げ、漸次、煉瓦を積み上げて地上三十尺に達した頃初めて高架線で往来する電車の旅客などの目に留るやうになつた、其上尚二十四尺も築き上げねばならぬ大建築、南端から北端までの距離は先づ三町、総坪数は約二千九百十坪、内部の設備装飾に至つては中々何うして大変な手数だ。
▲ 中央は帝室の停車場で其の玄関先には磨きの石柱が既に光彩を放つて居た。入つて中央の広間の左右には皇族御待合室がある、廊下を隔てた奥には平屋の御便殿がある、全部見事な緞子で張り詰め廊下や、床や、又階上の貴賓室に至る階段やは大理石の予定。
▲ 一般旅客に対しての出入は、入口は南方、出口は北方と定められてある。入口正面の屋上には高く電気仕掛の大時計が掲げられる。高きこと百二十四尺、広き事三百十坪の改札所には出札所を両側に設け右に一等待合室、 一等婦人待合室竝に食堂、左に三等待合室といふ大 でか い寸法だ。
▲ 食堂は階下のは円形の室で階上のは大食堂三室、円形小食堂二室を置く筈だ、庖厨は地下室に設けてあるから、料理は勿論昇降機で運ばれるのだ。
▲ 肝腎の料理は果して誰がやるであらう、心配御無用、それが為めには新橋の花月主人夫妻がわざゝ欧米を漫遊までをして研究しこゝでハイカラな料理を味はせようと手ぐすね引いて待つてゐらつしやるといふ事だ。
▲ 改札所から裏に抜くれば階段、それを上ると高架線の四つのプラットホームがある。其の中、三つ丈は遠行旅客列車が発着するので他の一つは市内電車に使用せらるゝさうである。断つて置くが遠行列車と云ふのは電気機関車を用ゐて現在の汽車とは稍々 やや 趣を異にするから名 なづ けたのである。
▲ 改札所の北に駅長室だの、車道だの、事務室だの、応接室だのがあるが現在は頗る狼藉たる為体 ていたらく 、二階三階は、二階の食堂の一部分を除く外は全部鉄道院か、若くは中部管理局の事務室に充てられるさうだ。ホテルの経営、それは跡形もない臆説であつた。
▲ 此の停車場の落成を期として東京の市街鉄道線は殆んど面目を一新するであらう。無論此の中央停車場には朦々たる黒煙を吐いた汽車は一切出入せぬ、すべて電気機関車で牽引せられるのである。 一時に東海道の全道の列車を電力で運転する事は一寸六箇敷いから品川の現在埋立てつゝある地面を貨車の集散地とすると共に電力機関車と通常の機関車との付替所を設くるから、東上列車は何の事はない、品川で身体を清めて入京するやうなものだ。
▲ 従て市街沿道を彼の不愉快な煤煙で汚すやうな事はない、其の電力供給には矢口渡附近一万三千坪の地を相して発電所を設ける筈で既に蒲田から六十七鎖 チヱン の支線も敷設したから明年の暮頃までには出来上るであらう。斯くて新橋は貨物専門、中央は旅客専門と二分さるゝのだが竣成の曉 あかつき は欧米の建築に比するも左程の遜色はあるまいと思はず旅日記の頁 ページ の大部分を此の為に占められて仕舞つた。
・女優朝田いよ子を訪ふ やまひこ
画報パツク 〔五コマ 解説 共に省略〕
・赤松連城の空涙 陰に向いて赤い舌をペロリ
・我国屈指の鉄工場 川崎兵庫分工場
{豪壮雄大な木鉄工場=資を費す貮百拾萬=堅牢廉価な電車汽車=機関車製造の新記録}
兵庫東尻池村の運河の辺りに数万坪の面積を占め雲を突くような大煙突の下 もと 長さ数十間に余れる広大もない大きな鉄の建物数棟建竝んで原動機や槌の音轟々昼夜を別たぬ一大工場があるこれぞ長崎三菱造船所と共に我国の二大造船所と音に聞へた神戸川崎造船所の兵庫工場である。
川崎造船所が此工場の為に費 つひや した工費は約貮百五拾萬円といふからには其規模の大きさも大抵窺 うかゞ はれるわけだが場内の工場を部類別にすると先づ各種の機関車、油槽車、鋼橋桁 てつけうけた、鋼製貨車、炭水車、スチームクレーン及瓦斯溜 がすだめ 等を製作する鋼鉄工場と機関、汽機、鉱山用諸機械及鉄骨小屋組等を製造する機器工場と船尾船首材各種、錨身、船体用鋳鋼鋳鉄品、各種車輪、水道及瓦斯用鉄管等を造る鋳鉄工場と各種客車、電車、寝台車、食堂車、郵便車、貨車、軽便台車、冷蔵車、機動車を製作する車体製造場、製材を専らする木材製造工場の外に一度に十五噸 とん の鋼鉄を溶かすべき溶鉄爐、発電所、機関室、事務室、倉庫等孰 いづ れも宏壮眼を驚かす建物が場所狭しと建竝んで前面の広地には鉄材やら鉄管やら鉄桁やら車輪やら木材やら石炭やら山と積まれて其間縦横に軌道が敷設してある遉 さすが に我国屈指の大工場其豪壮雄大な設備には何人も一見先づアット度胸膽 どけうぎも を抜かれる。
規模の宏大なのや設備の完整せる事のみが工場の誇 ほこり ではない工場第一の主眼は技術の巧拙に在る、ところが此分工場の技術的能力は我国の各鉄工場中多く其右に出づるものがないといふので今や日の出の勢 いきほひ である機関や汽器や鉄桁を作るのは固より同造船所のお手のものだが水道用瓦斯用の鉄管と各種の車両を造る事は比較的新しいけれども其成績の佳良なる事世に既に定評あり各車貨車機関車電車等の車輛を同工場から鉄道や電車会社に沢山提供して居るがまだ曾て一箇も不成績品があつた例 ためし がないといふのは鉄道院其他の技術者間の定評である。
客車貨車電車機動車等の車体を製作するは極めて熟練したもので鉄道院や電車会社に向つて既に千輛以上供給をして居るが製造の堅牢にして工費の廉なる事は確 たしか に外国製を凌駕して居る現に九州電軌、京阪電軌、兵庫電軌其他我国大半の電気鉄道会社で使用して居る同所製作の車体の如き嘖々 さくさく の評がある。
機関車の製造は我国でも近来著しく進歩して来たが悲しい事には従来はまだ其設計に外国人技師の手を借らぬものはなかつた、ところが同工場では此機関車の製作に非常なる苦心を費して昨年から全然外国人技師の手を借らず同所の日本人技師の手で設計し輸入品に少しも遜色のない立派なものを造り出した昨年鉄道院から注文を受けた四十八両の機関車其他の内に最新式の過熱器附機関車といふのがあるこれは独逸の最新式を採つたもので我国ではまだ一箇所も製造して居らぬ新機関車である此過熱器に依ると非常に炭水の量を節約して大に経済になるといふのだがそれを今度同所の設計主任の太田といふ人が設計を凝らして十数両造つたが而かも其成績は十一月の十二日から神戸馬場間で試運転を行つて完全無比といふ讃辞を得て居る序 ついで に云つて置くが今度同所で造つた機関車は孰れも車輪の直径九呎 ふいと に余る我国最大の機関車で百二十両以上の貨車を苦もなく牽 ひ くといふ素破らしいものだ機関車の設計と製造が一切日本人の手で出来るようになつたのは兎に角我工業界の新たなる記録 レコード で一に同所の功に帰せねばならぬ。
其他スチームクレーンや油槽車 ゆそうしや や石炭車や鉱山用諸機械瓦斯溜等を製作した数も尠 すく なくないが孰れも好成績で未だ曾て使用者から些 さ のお尻を食つた事がないといふに至つては同所の技術的価値の普通 なみゝ でないといふ事が知れる。
同所の主任は永留小太郎といふ人で中々経営的手腕の優れた俊才だが同氏の抱負はまだゝ此位の事で満足するものでない鉄工も木工も前途益益発展せしめて大 おほい に外国輸入品を駆逐する意気込みである。
文中に写真3枚:同工場製造の 箕面有馬電気軌道株式会社注文電車々体〔左の写真〕、●〔網か?〕千日本セルロイド人造絹絲製造会社注文二十吋 いんち 水道鉄菅、京阪電気鉄道株式会社宇治川架橋工事〔右の写真〕
・モデルの女 徳坊
十二三から二十四五まで=素裸になつてモデル台に乗せられる=美術学校の奇観
・京のお笑泣き暮す ジフテリア
・汚れ恋 中村兵衛
・美人天勝の末路 中村兵衛 〔写真2枚あり:松旭斎天勝嬢、花子〕
・癖の判断(一) 楽天博士
・汽車読本 ⦿〔目〕から見てかゝれ
日本も追々と物騒なヂゴマ式の出現=例は新しい汽車中の強盗 =転ばぬ先の杖は汽車読本
画報パツク 〔四コマ 解説 共に省略〕
・ 鉄道画報愛読者の余徳 金五拾円以上参百円迄進呈
鉄道死傷保険の開始!!
・山陰所見 蘇水生
・申告簿
=釜内駅長の事=
秋の奈良は殊の外美しい、暖かい小春の風が袂を弄 なぶ つて、往来 ゆきか ふ乙女の盛装よりも華やかな萬山の紅葉その中に昔ながらの古塔が聳へ立ち美しい中に、一層清い気高さを添へて見せる、自分 わたし は此景色を想ひ出す時いつも奈良駅長釜内君の風姿が眼に浮ぶ。鷹揚の中に、何処かに美しい情が動いて居る、獨り情の美しいばかりでなく、君は官吏に似合はしからぬ清い気高い、そして尊敬すべき何物かを有して居る、奈良と釜内君とは似て居る点が多い。奈良の自然に情を有 も たしたものが釜内君で、釜内君を古い都にしたものが奈良である、自分は這麼 こんな こと迄思つて見たことがある。
釜内君が、辛辣な手腕を有して居る点から、君を見ぬ前の人は、必ず峻烈な、一歩も人に譲らぬ剛腹な人物であらうと想像する、自分も曾 かつ て各駅で釜内君の声名を耳にして遥かに君の性格を寒風怒涛に比して居たこともある。然るに逢つて見ると、片言春風を生み、隻語春水を齎 もたら すの慨がある。自分は一度で惚込んだ。
いつかも、構内に八歳ばかりの迷い子があつた。身には襤褸 ぼろ を纏 まと ひ、此 この 寒空に足袋も、穿かず、母を呼んで悲しげに泣いて居る、之を見た釜内君は走り寄つて我子の如く抱き寄せ衣兜 ポケツト から手拍 ハンカチ を出して滂沱 はらはら と落つる涙を拭いてやつた。何 ど うせ貧苦に痩せた家の兒 こ であらう。頭髪は昆布 みるめ の如く乱れ、眼は見るからに厭らしいほどヤニで満たされて居た。雖然、けれども 、釜内君の慈愛に富める眼中には、唯 ただ 不愍 ふびん な、可憐な一少女があつたのみで、貧富美醜の差別はなかつた。
其後聞けば、釜内君はトラホームにかゝつたこととのことである。其女の兒の眼を拭いた手巾 ハンカチ を忘れて使つたので、或 あるひ はトラホームが感染したのではあるまいか、兎角官吏と云ふ肩書に、鉄道が一種の営業であることを忘れて、威張ることより知らぬ駅長に釜内君を見せてやりたい。(SA生)
広告2頁 〔下はその一部〕
大評判
のタノシミ新聞を御覧なさい、日本一の美しい面白い新聞を毎一の日の朝毎に配つて一ケ月タツタ六銭、之を読む人に弱る困るの泣き言なく。家庭円満息災延命は請合、朝日一袋より廉く福の神より尊い新聞、御思案無用一ケ月タツタ六銭。
一部 金二銭 一ヶ月 (郵税)共七銭五厘
半ヶ年 金参拾九銭 一ヶ年 金七拾七銭
大阪市鷺洲町海老江
タノシミ新聞社
なお、裏表紙は、西部鉄道管理局の広告である。
地球印絵ハガキ縮写型録
地球印製品出版元
尚美堂本店
原色版繪ハガキ
各八枚一組 御正味 金十二銭 小売 金二十銭
F 1 富士八景
F 2 鎌倉名所
F 3 江之島名所
F 4 日光名所 (其一)
F 5 同 (其二)
F 6 京都名所 (其一)
F 7 同 (其二)
F 8 松島名所
F 9 須磨明石
F 10 天の橋立
F 11 耶馬渓
F 12 伊勢名所
F 13 箱根名所
F 14 妙義山
F 15 奈良名所
F 16 近江八景
F 17 厳島名所
F 18 新日本八景
F 19 日本歴史 第一集
F 20 同 第二集
F 21 同 第三集
F 22 同 第四集
F 23 同 第五集
F 24 同 第六集
F 25 釈迦八相記 上巻
F 26 同 下巻
F 27 四十七士 前編
F 28 同 後編
F 29 大日蓮 上巻
F 30 同 下巻
F 31 明治大帝 前編
F 32 同 後編
F 33 大西郷
F 34 武勇伝
F 35 侠客伝
F 36 地獄極楽
F 37 ダンテ地獄篇 A組
F 38 同 B組
F 39 前世界動物
F 40 原始人
F 41 鳥類 第一集
F 42 同 第二集
F 43 海底の魚介
F 44 魚類 第一集
F 45 同 第二集
F 46 貝類
F 47 菊花集
F 48 静物
F 49 ゑにしの糸 其一
F 50 同 其二
F 51 美人の粧ひ
F 52 元禄玉くしげ
F 53 あだ姿 第一集
F 54 同 第二集
F 55 同 第三集
F 56 花くらべ卅二相 一輯
F 57 同 二輯
F 58 同 三輯
F 59 同 四輯
F 60 浮世絵美人画集 一集
F 61 同 二集
F 62 支那美人
F 63 花とをとめ
F 64 西洋美人
F 65 ヨット 其一
F 66 同 其二
F 67 朝霧
F 68 日本アルプス
F 69 山と水
F 70 アルプス
F 71 高原の花 其一
F 72 同 其二
F 73 高山植物
F 74 大陸風景 其一
F 75 同 其二
F 76 西欧風景 其一
F 77 同 其二
F 78 同 其三
F 79 同 其四
F 80 南極探検
F 81 西洋子供(原色)
F 82 同 (金縁淡色)
F 83 都々逸百選
F 84 子供
F 85 子供遊び
F 86 夜の急行車 第一集
F 87 同 第二集
F 88 夜の電車
F 89 自動車集
F 90 自動車ポンプ
F 91 世界偉人(淡色)
F 92 近世世界偉人(淡色)
F 93 淡色 聖画集 第一集
F 94 同 第二集
F 95 同 ミレー傑作集
F 96 原色 聖画 第一集
F 97 同 第二集
F 98 (知識の泉其一)世界の奇習風俗
F 99 (同 其二)日本八大都市
F100 (同 其三)世界大動物
F101 (同 其四)海軍の知識
F102 (同 其五)世界第一
F103 不思議な顔
F104 軍隊生活 第一集
F105 同 (野外) 第二集
F106 同 (同 ) 第三集
F107 同 (戦闘) 第四集
F108 騎兵生活
F109 砲兵生活
F110 輜重兵生活
F111 軍用タンク
F112 陸軍新武器(原色)
F113 同 第一集(淡色)
F114 同 第二集(同 )
F115 夜戦の壮観
F116 戦術と愛馬
F117 空中の精鋭
F118 空中戦
F119 防空大夜戦
F120 海軍生活 第一集
F121 同 第二集
F122 陸奥・長門
F123 海軍大演習
F124 海軍航空機
F125 米国海軍
F126 怒涛中の艦隊
F127 海軍の大夜戦
F128 夜の航進
F129 夜の壮観
F130 猛獣の争闘 第一集
F131 同 第二集
F132 同 第三集
F133 猛獣狩 第一集
F134 同 第二集
F135 動物の母性愛
F136 動物類 第一集
F137 同 第二集
F138 大東京の偉観 第一集
F139 同 第二集
F140 猛獣の闘争 第四集
F141 猛獣狩 第三集
F142 鳥類全集 A
F143 同 B
F144 秋草
奉仕品 十大戦艦 原色版 十枚組 卸十二銭 小売二十銭
主力艦隊 艦隊荒天航進 各十二枚一組 御正味 金十二銭 コイタイプ色刷 小売 金二十銭
タイプ十二入エハガキ 各十二枚一組 売価 金二十銭 御正味 金十二銭
聖画集 (ツヤ付)
世界の偉人(同 )
明治聖代人傑集(其一)(クリーム台紙)
同 (其二)(同 )
同 (其三)(同 )
同 (其四)(同 )
同 (其五)(同 )
同 (其六)(同 )
同 (其七)(同 )
タイプ十二入エハガキ 御正味一組 金十二銭 小売一組 金二十銭
同 (其八)(同 )
一色十六入エハガキ 御正味一組 金九銭 小売一組 金十五銭
忠臣四十七士
大西郷
一色十六枚組 御正味 金 九銭 小売金十八銭 軍隊生活(其一、其二)
二色十六枚組 御正味 金十五銭 小売金十三銭 日本アルプス
奉仕品 軍艦全集 淡色版 十六枚組 御味正十二銭 小売金二十銭
東京名所エハガキ 【特価品】
◉ 三色版(三十二枚組)(箱入)
大東京 卸正味一組 金二十二銭
◉ 三色版(五十枚組) (箱入)
大東京 卸正味一組 金三十銭
◉ 三色版(十六枚組)(袋入)
大東京 卸正味一組 金十二銭
◉ 一色版(十六枚組)(袋入)
大東京 卸正味一組 金六銭 小売 金十銭
帝都の盛観 同 同
◉ 一色版 三十二枚組
勿忘九月一日 卸正味一組 金十二銭 小売 金廿銭
◉ 光沢墨色版五十枚組(箱入)
大東京 卸正味一組 金廿五銭
◉ 二色版(八枚組)
帝都の桜花(其一)(其二) 卸正味一組 金六銭
◉ 二色版(十六枚組)
栄え行大東京 卸正味一組 金十二銭
箱入エハガキ
◉ 三十二枚箱入(各三色版美麗箱入)
◇ 花くらべ美人三十二相 御正味 金五十銭
◇ 日本・名所 同 同
◉ 五十枚箱入 (各三色版美麗箱入) 御正味 金七十五銭
◇ 日本風俗(上巻下巻) 同 同
◇ 日本歴史 同 同
◇ 日本名勝(ツヤ付) 同 同
◉ オフセット百枚箱入 御正味 金六十銭
◇ 水彩風景(其一)
◇ 同 (其二)
◇ 日本草花
◇ 西洋草花
◇ 乗物集
◉ タイプ三十二枚箱入
◇ 日本アルプス 御正味 金三十銭
〔裏の見返しは、「五色ハガキ立」の広告〕
【本カタログ定価金貮拾銭】