偉かった宮崎兄弟
末永操
宮崎一家は皆偉かった
長男八郎の叛骨
民藏は立派な學者
三兄彌藏の歌
滔天は眞心一本の男
滔天、黄興と知る
黄興の事は日本人は餘リ知るまい。彼は湖南の人で、湖南革命派の頭梁ぢや。
黄興が始めて滔天に會つたのは神田の立花亭であつた。幾人かの前座があつて、やがて頬ひげ、あごひげを生やした巨大漢滔天がのつしゝと壇上に現はれた。黄興は心の中に思つた。「滔天といふ男は多數の支那革命志士と交はり外國(支那やフィリッピン、タイ等)の治安を攪亂する行動をしてゐるのに日本政府から捕えられもしないで浪花節などを唱つて商賣にしてゐる。水滸傳中の快傑の樣な男だ。日本といふ國も面白い。外國の治安を攪亂する男を放任して置くなんて‥‥‥‥」と。當時支那の淸朝政府などは非常な警察政治で、革命分子の行動は嚴重に彈壓されてゐたので、日本へ來て取締りの緩慢なのは驚いたらしい。現に黄興は治安攪亂の廉を以て上海で三ヶ月間拘留されて來朝した許りだつた。
滔天の浪曲が始まつた‥‥‥‥。
「人生僅か五十年、二十五年は寝て暮す。ひる寝十年、うたゝね十年、居眠り五年、しまひにや人間ゼロとなる‥‥‥‥」
「食ふて五合に着て一枚、立つて半疊に寝て一疊、死にゝ行く時、經帷子に錢六文、それも宗旨によつたら一文持たずに、えんまの廳につかなきやならぬ‥‥‥‥」
「親分頼むゝと聲さへかけりや、人の難儀をよそに見ぬてふ男伊達、人に賞められ女にや好かれ、江戸で名を賣る幡随院の長兵衛サン‥‥‥‥」
「三尺二寸の長光を、誰も拾はぬかと落し差し、花川戸の助六、長屋を立出でまする」
「月はあれども雲隠れ、夜風に降り來る櫻花、黑羽二重にむごんの羽織‥‥‥‥」
滔天は大聲を張上げて、熱演をする。殊に「人にや賞められ、女には好かれ‥‥‥‥」などのサワリになると、自分が歌中の主人公にでもなつた樣に、頬を紅潮させ一段と艶をつけ、思ひをこめて唄ひ上げるのだつた。
滔天は當時小石川第六號町に住んでゐたので、そこへ黄も訪ねて行つた。張繼は日本の學校で勉強してゐたので、日本語が上手であり、黄興の通譯をして、以上の事を僕や黄にきかせた。それから宮崎と僕は黄興の世話をやき、何も彼も行動を共にした。
黄興の支那革命に對する抱負經論をきいた時は、黄興に向つて
「一體軍資金はどうするか」
と尋ねると、黄は
「金は出來る」
と答へた。
「どれ位出來るか」
と重ねて尋ねると
「必要なだけはいくらでも作る」
といふ。そこで僕は
「然らば金はどうして作るか」
とたゝみかけると、黄興は、やおらポケットから手帖を出して
「不仁者の富を奪ふ」
と書いた。僕は膝を打つて
「よろしい、解つた、愉快々々」
といつて、黄と握手した。古書に「仁者は富まず、不仁者は富む」といふことが書いてある。「不仁者の富」とは搾取者、非道の成金の富の謂ひである。これには我が輩も思はずポンと膝を叩いて、快哉を叫んだよ。この一言で黄興を信じて、以来爾汝の交はりに入つた。
滔天も黄興のことを僕に語つて
「あいつは物になるぞ!」
と言つた。そこで僕が
「何か話合つたのか?」
と尋ねると、
「何も話合つた譯ぢやない」
といふ。
黄興、孫文の合作を斡旋
黄興も孫文も、日本にゐながらお互ひにまだ會つたことがなかつた。そこで僕と滔天が二人を會はせることにした。當時の有志家は皆素寒貧で、いや今でも仁者過ぎて依然としていつでも淸風袂を拂ふ有樣ぢやが、その頃は部屋住みだし、殊に窮乏甚だしかつた。只だ僅かに良平(内田)の家が家らしい廣さを持つてゐたので、黄と孫を會はせる最初の會合をそこでやることにした。その日は内田は他出してゐなかつた。始めの豫想では黄、孫派各十名位も集るかと豫想してゐたら、當時在日支那留學生は一萬前後に上つてゐたので、打倒淸朝、革命斷行の気運は意外に旺盛で、始末に困る程大勢押かけた。家内には入り切れず、庭にまで溢れる狀態で、黄、孫の挨拶から革命論の熱演で割れん許りの盛況に、到頭床がメリゝといふ轟音と共に落ちてしまつた。すると會衆の面々驚くかと思ひの外、
「やあ、淸朝陥落、革命萬歳!」
と喊聲を揚げる騒ぎで、いやが上に気勢が揚つた。茲に黄興、孫文兩派の提携合作が成つた譯ぢや。今臺灣の日本大使である犬養の婿芳澤謙吉が黄興と孫文を握手させたのは萱野長知だと或る所で述べたが、知らざるも甚だしきものじゃ。
内田はその日居なかつたので何も知らなかつた。僕はそれから十年の後、因幡の三朝温泉で内田と二人になつた時、「黄と孫の初會見は貴公の家でやつたんぢや」といつたら内田も「そうぢやつたバイのう」と懐舊談に華を咲かしたことがある。
孫が支那から歸つて來た時九段の富士見樓で「孫逸仙觀迎會」をやつた時も盛んで、たしか千二三百人も集まつた。その時日本人の来賓は僕と滔天の二人で、我々も若かつたから元気な革命論をブッた。後年その當時は、若い學生だつた奴等が成人して、方々で「先年富士見樓の孫先生觀迎會で先生の革命論を傾聴しました」といふのに會つたのは嬉しかつた。汪政權の外交部長をしてゐた緒民誼の秘書に張超とかいふのがゐたが、その父親張覺先といふのが、矢張り富士見樓の觀迎會の時出席してゐた學生だといつて、挨拶に來たことがあつたバイ。
「民報」の創刊
孫・黄の提携が出來たので、革命黨の機関紙を出すことになり「民報」と名付け、僕が發行人になつた。先づ事務所兼住宅となるべき家を探さねばならぬ。僕と黄興が方々空家探しをやつた。麴町に、大きな家で欅の大木のある家があつたので、これはどうかと云つたら、黄興が「この家は大きくていゝが、日當りが良くないし何となく陰気だから止め樣」といふことで止し、牛込に小ぢんまりした日當りの良い、池のある家を見付け、黄もこれなら池に魚を飼ふことも出來るし、君も魚が好きだから好からうと冗談を云ひながら決めて借りた。ところが當時は空家はいくらでもあつたが、白面の書生が借り手では家賃の取れない心配があるので家主が仲々貸さない。そこで僕は古賀廉造の所へ保證人になつて呉れと頼みに行つた。古賀は二つ返事で承諾して呉れ、印を捺してくれた。歸りがけに僕が「御迷惑はかけませんからどうかよろしくお願ひします」といふと、、流石は古賀も豪傑、言葉も荒々しく
「ちつとやそつと迷惑したつてどうあるか、判押しとるぢやないか」
と怒鳴つた。昔の先輩はよかつたのう。
我輩の誇り
民報の記者として、最初に入つたのが宋教仁、第二番目が谷思春、三番目が汪精衛、四番目が章太炎、五番目が陳天勝〔陳天華?〕さういふ順序だつた。この順序を知っとる者は八千萬の日本人中、五億五千萬の支那人中僕一人ぢやろう。
序に自慢しとくが、孫が興亜興中會を東京で組織した時、會員は必ず半紙に「驅逐韃虜、恢復中華」あと二句位を會のスローガンとして書いてあるのを讀まされ、左手を擧げて右手で握手するのぢや。その同志的握手の方法を知つてゐる者は、ハ千萬の日本人中われ一人、五億の支那人中にも何人も居まい。南京政府が昭和十五年に遷都式をやつた時、僕がその握手の型通りに汪精衞主席の手を握つたら、汪主席も驚いてゐたよ、ワハヽヽ、その時は愉快ぢやつた。
武昌の革命の時、僕は武漢地區へ駈けつけたが、昔東京の「孫逸仙觀迎會」に出席した學生だつた連中が、當時はドイツ、アメリカその他各國から成人して歸國してゐて「我等の末永先生萬歳、末永先生萬歳!」と歡呼の嵐を以て迎へて呉れた時は、實に僕にとつて一生の内でこれ程の光榮を感じたことはない。善根は施して置くべきものだなと、つくゞ思つたよ。
陰徳あれば陽報あり
〔前略〕
上海に上陸して民立報社を訪ねたら、宗教仁〔宋教仁〕が懐し相に飛んで來た。そしてあとから僕の宿へ訪ねて來て呉れ懐舊談と、革命談に話がはずんだ。それから漢口へ遡江した。滔天、黄興、孫もあとから漢口へやつて來た。武漢革命政府の外交部長は舊知の胡瑛がやつてゐた。これも飛び上つて喜び、僕を觀迎して呉れた。淸朝政府の大使は梁といふ男だつたが、僕は胡外交部長に策を授けて、ドイツ、フランス、アメリカ、イギリス、その他各國と武漢政権との外交折衝を指導してやつた。
僕は黄興に呉々も注意して、武漢革命政府はまだ基礎が固まつてゐないし、實力が無いのだから、これ以上敵を深追ひしてはならぬ、これ以上進出するなと警告してゐたのに、萱野長知らが入れ智慧したので黄興らが外邊地帯へ進撃したが、案の定ひどい敗け方をして逃げ歸つた。漢口に大智門といふのがあつたが、一日僕は淸朝政府軍と革命軍との戦争を觀に行つたことがある。するとこちらの革命軍の兵隊が大勢列を亂して逃げて來て塹壕の内に飛び込んでゐる。西洋人が三四人、長靴を穿いて向ふへ逃げて行く、何事か解らないまゝに、僕は一人でポツネンと立つてゐると、近くの屋根の上に爆弾が二つ落ちてゐたのだ相な、僕はその時風邪を引いてゐて、頸筋が麻痺してゐて、何も感じなかつたので平然としてゐた譯だ。あとから「先生は命知らず、怖いもの無しの豪傑だ」と賞められたが、實は豪傑でも何でもなく「風邪引き豪傑」だつた譯だ。
上海から漢口へ船で上陸した途端に、向ふから船に向つて宗方小太郎と香月梅外の二人が來るのに出會つた。革命軍の黎元洪が破れたので、「商賣上つたりだゝ」と云ふので、僕は「俺が來たから戰はこれからだ」と意気揚々と上陸した。
漢口の領事は松村といつたが、海軍偵察將校に大中熊雄といふのがゐて、僕の所へやつて來た、僕に「貴方は革命軍から一萬七千兩とか貰つた樣ですな」といふ。僕は敢て之を否定せずに、「ウン僕は景気が好いぞ、今日は君を御馳走しよう」といつて一杯飲ませながら、「時に松村領事が三萬圓、偵察長は一萬二千圓貰つたといふ噂だが本當かね」とかまをかけると、大中はムキになつて「それはデマです、そんな事は絶對にありません」といつて、倉徨として歸つたが、一時間許りして又やつて來て「どうも先刻は失禮な事を申上げて申譯ありませんでした」と謝まつて歸って行つた。その男はいつも「私は海軍の現地情報を出してゐますが、先生の御意見を「聲曰く」といふ形式で中央に具申したり發表してゐます」といつてゐた。
南北の妥協
袁世凱の皇帝即位に賛同
大高麗國建設の壯圖
黄興と武器爆弾を作る
當時熊本人吉の産で日野熊藏といふ陸軍歩兵中尉がゐた。これが歩兵のくせに非常な兵器工學の發明家で、異例の抜擢で歩兵から陸軍技術部に入つた。技術部には工兵科出身の大尉以上でなければ入れないのに日野は發明の天分を認められて、中尉で而も畑違ひの歩兵なのに、技術部に特例として入つた。この男は日本飛行界の草分けたる徳川大尉と一緒に、飛行機を操縦し、飛行機を武器として使つた最初の軍人であつたが、日野式拳銃、日野式擲弾、日野式爆弾等の發明家で、當時陸軍技術部の花形技術官であつた。
黄興が革命に使用する爆弾を作つて呉れといつて來たので、僕は日野と相談して、家賃がいくら、人夫費がいくら、材料がいくらと計算すると、六百五十圓あれば出來るといふので、「六百五十圓御持参なさるべく候」と一筆やると、黄興は大喜びでその金を送つて來た。日野は七八人の工夫を使つて優秀な爆弾を作つた。それから黄興と人里離れた野原へ行つて爆弾の威力を試驗して見たが、非常に優秀なものであつた。その後七年程して、始めて革命が起つた。
僕は支那革命の時は第一着に武漢にかけつけた。孫や、黄興や滔天は一ヶ月位經つてからかけつけた。
黄興と孫文
或る日、黄興と東京の街を歩いてゐると、黄が頻りに自分の尻を撫でながら、「アレを買はう、アレを買はう」といふ。よくきいてみると褌のことだ。それで呉服屋に飛込んで買つてやつた。すると黄は用便をする度に褌を外して、それを床の間に置いて行くので、僕が「日本では床の間は淸潔を尊ぶ家中の一番神聖な場所だ、不淨な褌などを置いてはいけないよ」と注意したら、頭をかいて笑つた。
孫は東京で自炊してゐたことがある。染丸といふ美しい藝者を可愛がつてゐた。
僕が齒をむき出し、兩手を上げて猿の眞似をしながら、「染丸々々、孫逸仙、バカゝ孫、モンキー大統領」といつて踊つて見せるので、これには孫も閉口してゐた。黄も孫も僕の天眞爛漫なことを知つてゐるので、どんな事を云つてもしても絶對に信用してゐた。二人共「滔天の浪曲を唸る聲は不自然だが、末永の詩や歌は自然の聲だ」といつてゐた。
孫が革命に成功して大統領に就任する時、上海でモーニングを作つた。洋服屋が來て畏まつて孫に着せて見ると、孫は洋服が少し大きいと云つた。側で見てゐた滔天が英語で「小さいのは困るが大きい方が始末がいゝ」といつたので、孫も「ウンこれでよからう」と鏡を見て滿足げであつた。孫は滔天の肩を抱へて、「あゝ、僕の精神は今東京へ行つてゐる!」と天を仰いで、一瞬恍惚として眼をつむつたのは感激的場面ぢやつた。今でもその時の光景が眼に見える樣だ。
四人の苦勞話
シャム移民と滔天
孫逸仙の世話は滔天の仕事
孫が早稲田にゐた頃、滔天が專ら孫の面倒を見た。滔天も平山の妻も英語が話せたので何くれとなく孫の世話を燒いた。平岡浩太郎が孫の生活費を出した。僕は中野寅次郎といふ二流どころの鑛山主に五千圓の金を出させて、孫一行と共に上海へ渡つた。石炭船で上海に行つたはいゝが、言葉が解らずに苦勞した。當時平岡小太郎〔平岡浩太郎?〕、柴田麟次郎、兄の繁太郎、安永東之助、山田純三郎、白岩龍平、宗方小太郎、大原宇敬〔大原武慶?〕等の樣な志士が居り、純三郎の兄の山田良政は辮髪で中國語が上手だつたので、香港に使ひに行つたことがある。
第一革命の頃、滔天と平山がシンガポールの英国政廳に監禁された時、釋放を見るまでの間に廣東に渡つて兵を擧ぐべきか日本に歸るべきか内田や孫達が思案したことがある。そこで僕は
行こかホンコン歸ろか日本、
こゝがホントの上海(思案)
と詠つた。ナポレオンの
行かうかモスコーかへろかパリ
こゝが思案の地中海
をもじって‥‥‥‥。
(東京田園調布の自宅にて、三月四日談話筆記、文責在記者)
(筆者は頭山滿、内田良平、滔天、孫文、黄興等と深く結盟、中國革命運動に貢献せる浪人會の最長老で本年八十六歳、漢詩をよくし、趣味の篆刻は技神に入るものがある。)
上の文は、昭和二十九年五月一日発行の雑誌 『祖國』 宮崎兄弟特輯號 五月號 第六卷 第四號 に掲載されたものである。
なお、写真は末永節の色紙と思われるもの。