來薰閣書店新書目錄
國立北平圖書館出版書
全邊略記 明方孔炤 據明刻本排印 白紙 六 册 六元
通制條格 據明鈔本影印 白紙 六 册 六元
太霞新奏 影印 白紙 六 册 四元八角
埋劒記傳奇 明沈璟 據明刻本影印 白紙 二 册 二元
想當然傳奇 明盧抩 據明刻本影印 白紙 二 册 三元
鬱岡齋筆塵 明王肯堂 據明刊本排印 白紙 二 册 三元
平寇志 淸彭孫貽 三 册 三元
史記札記 李慈銘 鉛印 竹紙 一 册 五角
漢書札記 李慈銘 鉛印 竹紙 二 册 一元
後漢書札記三國志札記 李慈銘 鉛印 竹紙 二 册 一元六角
晉書札記 李慈銘 鉛印 竹紙 二 册 一元
宋梁北魏隋書札記 李慈銘 鉛印 竹紙 一 册 七角
南北史札記 李慈銘 鉛印 竹紙 一 册 八角
越縵堂文集 李慈銘 鉛印 竹紙 四 册 三元
漢熹平石經後記殘石拓片 白紙 二 張 四元
淸開國史料考 安陽謝國楨編 鉛印 竹紙 二 册 二元
孫淵如外集 王重民輯 鉛印 竹紙 一 册 一元四角
北平圖書館館刊 西夏文專號 鉛印 一 册 二元
書畫書錄解題 全紹宋 鉛印 白紙 六 册 四元
故宮博物院出版書
影印金薤留珍印譜 五 冊 八元
鈐拓故宮寶譜 一 册 三元
影印交泰殿寶譜 一 册 一元
故宮善本書影初編 一 册 五元
文淵閣碑帖 二 張 四元
西征隨筆 一 册 五角
籌辦夷務始末 道光朝 咸豐朝 同治朝 百三十册 七十八元
掌故叢編 毎 期 五角
文献叢編 毎 期 五角
淸代帝后像 毎 期 三元
故宮月刊 毎 期 二元
故宮特刊 一 册 一元二角
淮海居士長短句 一 册 八角
李孝美墨譜 一 册 二元五角
太平淸調迦陵音 一 册 一元二角五分
殊域周諮錄 八 册 六元
名敎罪人 一 册 五角
朱子尺牘墨蹟 一 册 二元五角
淸代祖實錄 一 册 六角
淸代文字獄擋 毎 期 五角
故宮藏硯譜 十 張 十元
張孟頫書急就章 一 册 一元
名畫琳琅 一 册 二元
故宮書畫集 毎 集 二元
宋人法書 一 册 一元五角
宋人法書上下卷 一 册 四元
柯九思家藏定武蘭亭眞本 一 册 一元五角
史料旬刊 毎 期 四角
謝陽先生存稿 二 册 一元五角
淸宮史續編 十二 册 九元
故宮方志目 一 册 一元
國立中央研究院出版書
宋元以來俗字譜 劉復 鉛印 一 册 一元二角
金石書錄目 容庚 容媛 鉛印 白紙 一 册 一元二角
安陽發掘報告 毎 期 一元五角
燉煌掇瑣上輯 劉復 近刊 白紙 二 册 三元五角
燉煌掇瑣中輯 劉復 三元五角
明淸資料 第一本 鉛印 白紙 一元二角
明淸資料 第二本至第十本 鉛印 白紙 毎 本 一元
秦漢金文錄 容庚 鉛印 白紙 五 册 十二元
燉煌刼餘錄 陳垣 鉛印 白紙 六 册 四元
校輯宋金元人詞 張萬里 鉛印 白紙 五 册 四元
西夏文研究 鉛印 一 册 三元
中華圖書館協會出版書
老子考 鉛印 二 册 一元六角
國學論文索引 鉛印 一 册 一元
國學論文索引續編 鉛印 一 册 八元
文學論文索引 鉛印 一 册 一元六角
日本訪書志補 鉛印 一 册 三角
燕京大學出版書
碑傳集補 鉛印 羊毛邊紙 二十四册 二十元
王荊公年譜考略 鉛印 竹紙 五 册 五元
歷代石經考 張國淦 鉛印 白紙 三 册 四元
古今小品書籍印行會出版書
淸平山堂話本 影印明嘉靖本 白紙 三 册 四元
永樂大典戲文三種 仿宋排印本 白紙 一 册 一元五角
江蘇省立國學圖書館出版書
經略復國要編 宋應昌 八 册 四元
盔山書影第一輯 影印 白紙 一 册 三元
盔山書影第二輯 影印 白紙 二 册 五元
玉琴齋詞 余澹心 四 册 三元
元明雜劇 影印 白紙 六 册 三元
洪武京城圖志 影印 白紙 一 册 一元
藝風堂金石文字目 刊本 白紙 六 册 五元
江蘇第一圖書館覆校善本書目 鉛印 四 冊 三元
江南圖書局書目二編附畫目 鉛印 三 册 一元
三朝遼事實錄 影印 白紙 十 册 八元
百夷傳 影印 白紙 一 册 六角
書目答問補正 影印 白紙 二 册 一元六角
歌代嘯 影印 白紙 一 册 四角
南雍志 影印 白紙 八 册 四元
夢碧簃石言 三 册 二元四角
謝氏後漢書補逸 影印 白紙 一 册 八角
士禮居藏書題跋補錄 一 册 六角
西域爾雅 王初桐 影印 白紙 一 册 三角
今陵古今圖考 陳沂 影印 白紙 一 册 六角
古籀餘論 二 册 二元
長安獲古記 一 册 四元
癖好堂収藏金石書目 一 册 六角
東方文化學院出版書
文鏡秘府論 影印古鈔本 皮紙 六 册 六十二元
禮記正義殘卷 影印宋本 皮紙 二 册 三十二元
莊子雜篇寓言 影印古鈔本 皮紙 四 軸 五十元
春秋正義 影印古鈔本 皮紙 六 册 三十八元
各家出版新書
詩經通論 姚際恒 四川刊 竹紙 八 册 三元八角
方言疏證 戴震 四川刊 竹紙 二 册 一元二角
古韻通説 龍啟瑞 四川刊 竹紙 四 册 一元六角
詩聲類 孔廣森 四川刊 竹紙 二 册 二元八角
穀梁古義疏 廖平 四川刊 竹紙 六 册 四元
六書十二聲傳 呂呉 四川刊 竹紙 六 册 二元五角
詩古韻表 四川刊 竹紙 一 册 一元
古韻標準 江永 四川刊 竹紙 三 册 三元四角
音學辨微 江永 四川刊 竹紙 一 册 一元
説文聲類 嚴可均 四川刊 竹紙 二 册 二元四角
聲類考合刊 戴震 四川刊 竹紙 三 册 二元六角
切韻考 陳澧 四川刊 竹紙 一 册 八角
四聲切韻表 江永 影印 白紙 二 册 一元六角
述均 夏燮 影印 白紙 四 册 三元二角
十經文字通正書 錢坫 影印 白紙 四 册 一元六角
錢氏四種 錢坫 影印 白紙 四 册 一元六角
呉評史記 呉汝綸 邢氏刊 白紙 二十册 十二元
明儒學案 黄宗羲 國學研究會刊 竹紙 二十四册 八元
元典章校補 陳垣 白紙 五 册 十元
中西回史日曆 陳垣 鉛印 白紙 五 册 十六元
二十史朔閏表 陳垣 白紙 一 册 三元
胡刻通鑑正文校宋記 章鈺 竹紙 六 册 六元
西周史徴 李泰棻 鉛印 竹紙 八 册 六元
今文尚書正僞 李泰棻 近刊 宣紙 二 册 五元
簠室殷契類纂 王襄 白紙 二 册 八元
鉅鹿宋器叢錄 白紙 一 册 一元五角
漢黨錮刻石殘字 拓片 白紙 一 幅 八角
簠室殷契徴文附考釋 王襄 白紙 四 册 十四元
石鼓爲秦刻石考 馬衡 白紙 一 册 三元二角
高昌專集第二分本 黄文弼 鉛印 白紙 一 册 八元
金石萃編補略 王言 近刊 白紙 四 册 三元五角
古玉圖錄 瞿中溶 近刊 白紙 一 册 一元六角
吉金貞石錄 張塤 近刊 白紙 二 册 二元
函靑閣金石記 楊鐸 近刊 白紙 二 册 一元六角
陶齋藏石記 瑞方 白紙 十二册 五元
西域文明史槪論 錢稲孫譯 鉛印 白紙 一 册 五角
煙嶼樓讀書志 徐時棟 鉛印 竹紙 八 册 三元
莊子義證 馬叙倫 鉛印 洋紙 六 册 三元八角
古周易訂詁 何楷 影印 白紙 八 册 六元
菣厓考古錄 鍾襄 影印 白紙 一 册 一元
讀書脞錄續編 孫志祖 影印 白紙 一 册 一元
古泉匯附續 李佐賢 洋連紙 二十册 十元
孔子改制考 康有為 竹紙 六 册 五元
新學僞經考 康有為 竹紙 六 册 五元
觀堂遺墨 王國維 白紙 二 册 二元五角
東潛文稿 趙一淸 影印 白紙 二 册 一元六角
論學小紀 程瑤田 影印 白紙 二 册 一元
十經齋文集 沈濤 影印 白紙 二 册 一元
東壁遺書 崔述 影印 白紙 二十册 六元
拜經堂文集 臧庸 影印 白紙 四 冊 五元五角
秋明集 沈尹默 鉛印 竹紙 二 册 一元
棉業圖説 鉛印 油光紙二 册 一元二角
文瀾閣書目索引 楊立誠 鉛印 洋紙 一 册 二元
索引式的禁書總錄 沈乃乾 鉛印 白紙 二 册 二元
楞伽師資記 仿宋排印本 白紙 一 册 一元五角
稼軒詞疏證 梁啟勳 近刊 白紙 六 册 六元
京本通俗小説 鉛印 白紙 二 册 五角
晨風閣叢書 沈宗畸 宣統刊 白紙 十六册 七元
天發神籤碑考 白紙 一 册 四角
讀碑小箋 竹紙 一 册 四角
呉桐城日記 呉汝綸 竹紙 十 册 十元
書史會要 影元刊本 白紙 四 册 八元
春秋繁露義證 蘇輿 白紙 四 册 六元
秦邊紀略 半畝園刊 白紙 二 册 二元五角
元朝秘史 影刊元抄足本 白紙 六 册 五元
説文籀文考證 葉德輝 近刊 白紙 一 册 一元六角
北平瑠璃廠一八〇電話南局四〇九三
(中華民國二十一年七月印)
〔蔵書目録注〕
なお、本ブログでは、羅振玉の出版物を掲載した「來薰閣書店新書目錄」も紹介している。
天下三分の煙月二分ありといはれた揚州へ私の參りましたのは『煙花三月下揚州』ではなくて十二月卅一日でありました―鎭江から長江を横ぎり、抗州より天津につゞく大運河を瓜州鎭からのぼりまするので―天下の佳麗蘇杭州にうつり、鶴駕十万錢を腰にして遊ぶ人もなく、唯䀋業の賣買でたもたれてをる。歐陽修が荷花百朶を取り四座に挿むで客と酒を汲むだ平山堂二十四美人をつどへたといふので名を得、『二十四橋明月夜玉人何處敎吹蕭』といふた橋も朱欄碧甃、今は形ばかり、夕ぐれ船を待つて運河の邊に立つて居ますと、川むかうの堤の上に、崩れかゝつた甎瓦の古い塔がある。高さは八九層、風雨にさらされ一種の古色を帶びてゐる。塔の上層にはえてをる丈低き雜木雜艸が黄いろ〱冬がれて、夕暮の風に動いてをる。寒い冬の夕日は塔のあたりを照してをる。折から塔の上に巢くうてゐるのであらう、尾が長く羽に白い斑 ふ のある鳥が幾百羽となく塔の上に舞ひ舞うてをる。さながら畵のやうでありました。
西湖の景は日本に似寄つてをる。三方をめぐれる山は靑く、水も靑い。其上に一碑一亭一木一石皆故事來歷あらざるはなく、白樂天の築いたといふ白堤、蘇東坡の築いた蘇堤が湖上に丁字形をなし、中島の孤山には林和靖の墓、西林橋畔には蘇小々の墳、棲霞嶺の下には岳飛の忠烈廟があつて、千古の隱士佳人忠臣が湖畔に眠つてをる。文學歷史が一層此湖をよくしてをるのであるが、私は今一つ西湖の景を助けて居るのは塔であらうと思ふ。『烟光山色淡溟濛千尺浮屠兀倚空』とうたはれた雷峰山の雷峰塔と、寶石山の寶叔塔とが湖を隔て南北相對してをる。しかも雷峰塔は位置やゝ低く凌雲閣式で、上には雜木がはえて其影さかしまに綠の水に映じをる。寶叔塔は筍の如き形で山の上に高く聳えて居る。呉山の第一峰から初めて西湖の全景を見おろした時、湧金門から船を浮べた時など、此二つの塔の左右に見えるさま、たしかに西湖の景を添へて、畵龍に晴を點じたものというてよいと思ふ。
蘇州府はわが國の西京に類似してをる。織物と佳人との産地で、『綠浪東西南北水紅欄三百九十橋』とうたはれた如く、水が縦横に流れ、かの畵舫も金陵の秦淮よりはこゝの方が數が多い。寒山寺楓橋はかの國人にはあまり知られてをらぬが、我國人の蘇州にゆく者は必ずたづねる。あだかも鴫たつ澤、をばすて山、勿来の關などの類で、詩人一篇の詩、千里行客の杖をひく所となつたので、其他を蹈めば却つてさほどに感はおこらぬ。私はむしろ蘇州の景を助けるは、五個所の塔であらうと思ふ。第一は虎邱の塔で―呉王闔閭を葬つた時五郡の人十万人で塚を治めたに三日目に白虎其うへに踞りをつたといふので名づけた虎邱。平田の間の高い丘で。始皇の故事ある劒池、竺道生の法を説いた千人石。呉國の麗佳古眞孃の墓などがあるが、私はむしろ劒池の上の七重塔が長髪賊の亂に荒廢したまゝ立つてをる、其塔の下から平野を見おろした景がよいと思ふ。第二は靈嚴山の頂の塔で。是は數里の外から見える。呉王館娃宮の故地。宮には彼の西施をすまはせた所。こゝから遠く大湖を望むだ景また絕景である。第三は北寺の塔。これは九層二十余丈。規模極めて大なるもの、甎色黑くして光澤がある。一寺僧に乞うて上つたに。一層から二層への上 あが り口は眞暗で、雛僧が小さき紅燭を點じて案内した。かの善光寺の戒檀めぐりの類でわざと暗くしたのであらう。二層から三層四層と段々の上 あが り口がいづれも一寸わからぬやうにしてある。これも參詣の善男善女に尊とく見せる爲であらう。一層一層皆佛像があまた安置してある。九層の上にのぼると風のはげしい日で、天風我袖を飜へし、目もくるめくやうであつたが、蘇州府を一目に見おろし、がつ陽城湖も野外に幽かに見えた。第四は雙塔寺の雙塔。此形が實に珍しい。寶叔塔よりも今少し細く筍か筆の軸をたてたやうな細い塔が二つ双むで高く立つてをる。我國の如く地震の多い國ではとても出來ぬ建築である。第五は端光寺の塔。これは府外の枯野の中に物さびた簷角の塔である。
遠くより望んでも、近よつて見ても、上 あが つて眺めてもいづれも景趣に富むでをるのは塔である。我國の山や丘の如く樹木が、嵡欝 こんもり と繁茂してをらぬ故、一層塔がめだち、山や丘を望む景の中心點となるのである。塔が支那南方の風景を助けるといふ事については、猶御話したうございますが、餘りに長くなりますから、最後にこれも塔の風鐸のお話をいたします。
大晦日の夜深く揚州からかへり、鎭江で、躉船 はるく といふ水中の庫船にとまりました。躉船々長 はるくますたあ 一人が日本人、他は皆支那人。船長はもと獵虎船の船長をしてをつた快活な人で、爉虎狩の話をきゝながら老酒を汲みかはし、さて船中の一室で長江の波の音を夢にして、遊子の胸に種々の感をやどしつゝ、變つた除夜を致しました。翌日は元旦。支那人が料理の、錫の器にいれた名ばかりの雑煮を味ひまして、庫船の上の我國旗が朝風に勇ましくひるがへるのを見ながら、轎をやとうて鎭江の町を過ぎ、金山寺へまゐりました。かの宋の高宗が、『雄跨江南二百州』の句によつて名づけた雄跨亭をも見たく、かねて金山寺の寶物ときいてをつた東坡の玉帶を見、古人の俤をも𢖫びたいと思うて參りました。大風四起する毎に浮動するが如し故に浮玉山と名づけたといふ金山寺。減水期で水とはいさゝか離れてをりました。さて門前で轎を下りますと、丘の上の寺であるから、段々に高くなつた堂が、支那寺院の常で、幾棟も幾棟も建つてをる。最も上に金碧交も輝いて人目を射る塔がある―昔から幾度も建て直され、現時 いま のは髪賊の兵火に消燼したのを曽国藩が再建したのである。塔の形は簷廈七層、簷角穩に張つて、上には風磨銅の圓頂がある。我國の塔の形に近い。さて堂内に入りますと、不思儀、實に不思儀。何ともいふにいへぬ淸いけだかい音樂が雲の上に聞える。あやしむて堂をぬけて、石だゝみへ出ますると、まさしく天上に音樂を奏するかの如く、微妙の響がある。人間の奏する樂器の音よりも一層けだかく響く、あやしんで見あげると、彼の高い塔の上で簷角に釣つてある風鐸が風のまにまにうつくしい響に鳴り響くのであつた。いくつかの堂いくつかの回廊をのぼつて塔の前まで塔守 とうもり に請うて閉せる戸を開けさせ塔にのぼつた。一層一層螺旋形の階段を、上がればあがるほど天上の響が近づく。身はさながら一歩一歩天に近づく心持がする。自分の身躰が塵寰を離れて雲の上にのぼる心地がする―かの金陵で淸涼山の翠微亭を訪ふべく、嚮導 しるべ の人々と、驢馬を乗り並べて、古き城壁の傍らを過ぎました。高さは五丈より七丈、瓦壁苔蒸して、黝黒 うすくろ いに、這ひまとうた蔦は半色づつ半落ちて、蔓 つる のみ高く低くからまつて居る。それを光の弱い冬の日が照してゐる驢馬には皆首に鐸 すず がつけてある。先だつた人の驢鐸の響。私が乘つてをる驢鐸の響身は古城壁のかたはら。冬の夕べ。懐古の情胸にみちて、鐸の音胸にしみ入るやうに感じましたが、彼の驢鐸のひゞきは猶地上の聲。この寶塔の上の風鐸の響きはさながら天上の聲であります―さて塔の最上層にのぼりますと、耳もとに淸い涼しいけだかい響が聞える。さながら天女が樂器を持つて中空に舞うてでもをるかのやうに思はれる。最上層の眺望は非常によい。目の下には長江の流が横たはり、大江のあなたは平野千里。下流を見ますると、元來鎭江は景勝の地で、金山、銀山、北固山と江に沿うたる小山の間に市街の白堊立ちつゞき、瘞鶴銘のある焦山は江中に特立し、金焦ニ山遙に相望むで雄を競ひ、北固山の上には梁の武帝が天下第一江山としるした甘露寺があつて、金山寺と東西相對しつゝ、鎭江を護るが如く見える。目に此好風景を見おろし、耳に微妙の音樂を聞く。いつまでも〱此まゝ此處に居たく恍然として居ました。
竹坡詩話に、金山に遊んで、夜、寶公塔に上つた時、天已に昏黒月猶出でず、風鈴鏗然聲あるを聞いて、忽ち杜少陵の詩に『夜深殿突兀風動金琅璫』とあるを思ひ出てたと有ますが、實に天くらき夜など、此風鐸の響を聞いたならば今一しほ身にしみるであらうと思ひました。
この風鐸は、塔鈴とも響鈴ともさま〱゛に申しまして詩文に散見してをります。洛陽伽藍記に『高風永夜寶鐸和鳴鏗鏘之音聞及十餘里』周書に『過浮屠三層之上有鳴鐸焉忽聞其音雅合宮調』晋藝術傳に『天靜無風而塔上一鈴獨鳴』張來が『寶鐸韵天風』李遠が『風鐸似調琴』杜牧が『高鐸數聲秋撼玉』蘇舜欽が『韵鐸翻天籟』孔平仲が『冷鐸數番僧舎開』鄭元祐が『閉聽松風語塔鈴』袁中道が『鈴塔影斜陽』など、猶多數ありませう。
我國では法隆寺の塔の外に此風鐸をきかぬやうに存じます。かの淸いけでかい天上の音樂といひつべき金山寺の塔の風鐸、私は今も其響が耳に殘つてをつて、なつかしく思はれます。
なほ南淸の風景について申し述べたい事は種々ありますが、既に燈火もつき初めましたから―まとまりのつかぬ長物語で、諸君の淸聽を瀆しました事を深く謝しまする。(拍手)
(帝國文學會大會席上談話の速記)
〔蔵書目録注〕
上の文は、明治三十七年五月十五日發行 六月五日再版 の 『帝國文學』 臨時増刊第壹 懸賞小説と講演 に所収のものである。
なお、読みやすくするため、段落の最初は、ひとコマ空欄とした。
また、文中の〱は、繰り返しである、
さらに、●は、オ と 刂 で一文字の漢字?である(写真参照)。
南淸風景談
佐々木信綱
このたび漫遊いたしましたのは、揚子江沿岸の鎭江、揚州、南京、漢口。溯りまして沙市、荊州、宜昌。三峽の下峽ー洞庭湖を横ぎりまして長沙、湘潭。さて蘇州、杭州等で。かの彭澤縣、潯陽江、泪羅、三遊洞、秦淮、靈隱などの名勝古蹟を見めぐりましたが、それらについてお話致しましては、あまりに長くなりまする故、『夕ばえの美しさ。』『岳陽樓と洞庭湖』『浮屠と風鐸。』これらの題目でいさゝか申し述べたいと思ひます。
大陸の景色で最も感じましたは、夕ばえの美しさであります。漢口、沙市、芦林澤などの平原に立つて、幾十百里見る限見わたす限、人なく家なく木なく山なく、丈低き草は皆うらがれ渡つて、滿目蕭然たる夕つ方、夕陽まさに地平線に沒せむとする頃、野邊に佇ずむでをりますると、秋の末の事とて、空には一點の雲もなく、たゞ眞靑 まつさを な空の果に夕日が入らうとする。空の色は薄靑 うすあを になる。廣い野一面の草は枯草のしづんだ色がやゝ黄ばんだ色になる。夕陽は全くまぶしい光線を失ひ、恰も紅 くれなゐ の眞玉 またま のやうな日が、遠い遠い野邊の果に一分 いちぶ 一分沈むでゆく。見る〱沈むでゆく。沈みはてると思ふ其一刹那の景が實に美しい。日本では見られぬ一種の美があるやうに思ふ。さて四五分たつと、西の空が一面に胭脂色 えんじいろ に彩 いろ どられる。我國の夕やけや、雲の色の赤いのとはちがうて、雲のない空の果が一面にあかく成るのである。其色の美はしさ。いかなる工の手に染めてもかばかりはと思はれる。其美しさは花やかな美しさではなく、おごそかなおもみのある美しさで、華麗といふよりは、莊嚴な美である。佇んむでじつと眺め入つてをると、其のうるはしい夕ばえの中には、けだかい尊とい不可思儀のあるものがこもつてをるやうに感じられる。我等が理想の國、理想の宮殿が其中にあるやうに感じられる。かねて印度の夕ばえの美しさを聞いてゐましたが、佛説に西方極樂淨土というてあるのも、恐らくはかゝる夕ばえの美しいのからいひ始めたのではありますまいか。さて眺め入つてをる間に、日は全く暮れはて、星がきらめきそめ、我立つてをるあたりはうすぐらく、足もとの枯草の中で我國のこほろぎに似た虫がさゝやかに鳴いてゐる。けれども野末の夕ばえは猶あかくうつくしい。夕ばえのうつくしい時間はよほど長い。じつと見てをる間に段々うす赤くなる。暫くしてうす紫に變じる。やがて鉛 なまり の色のやうになる。さてのち夜の一般の色になる。其あひだ茫然として美觀にうたれてをりました。此夕ばえの景色は大陸でなくては見られぬ美しさと思ひます。然るにかの國の詩人で、出日を觀るといふ詩は多く見うけますが、入日を眺めるといふ詩の少ないのはいかなる故でありませうか。李商隱の『夕陽無限好只是近黄昏』。また呉敏樹の『墨山霞色螺洲樹奇絕樓頭看夕陽』といふなどで。なほ滕王閣で王勃が『落霞與孤鶩齊飛夕陽同秋水一色』といふ句があるくらゐ。夕陽の美をあまりうたはないのは不思儀に思はれます。
漢口から湖南へは、把杆船といふ民船を雇うてまゐりました。風がわるければ半日も一日も碇舶する。淺瀨にくれば網で引のぼすといふ始末。かの土佐日記の『舟も我身もなづむ今日かな』といふ歌『朝北の出こぬさきに網手早ひけ』といふ歌のとほりで尤も困難を極めました。漢口を出て四日目の午後、道人磯城陵磯をすぎて岳州府につきました。遠淺で船は岸を少し離れてつきました。碇舶してをる船が少なくない。見ますると、川岸には極めてひくい家がこゝかしこに。其間をから人から少女が歩いてをる。總躰支那の服裝は、遠くから見た方が美くしい。上衣は、あさぎ、水あさぎ、桃色、紫、黑などの無地で、縞物は少ない。日本の着物の如く、そばへ寄つて見ねばわからぬといふやうなのとは違ふ。赤いとか靑いとかの極端な色で、單純ではあるが遠見 とほみ が美しい。
岸の上を見ますると、岳州府城はこだかい丘の上にあつて、幾千の人家を包んだをごそかな城壁は、高い崖の上をめぐつてをる。岳陽樓は城壁の東の隅に鼓樓のやうな風に建つてをる三層樓である。城壁の甎瓦が幾百年の風霜に黑ずむでをるに、建て直してまだ久しからぬ岳陽樓の金碧燦爛たる色彩の配合が極めて美觀であるー元來日本の瓦は、服裝の色の如く黒く沈むだ色で、遠くから見ると誠に引たゞす、活氣に乏しく、一見つめたい感じが起る。支那では晴川閣、禹王廟、何宮、何樓などといふ宮廟は、いづれも黄に靑に金色に彩どつた瓦で葺いて、しかも巴瓦や唐草の瓦が多く、瓦の端には麒麟、鳳凰、龍、獅子などの形の大きい丈たかい瓦があるので、遠景が極めてよい。―我國では大極殿のほかには彩瓦を見ないやうに思います。さて上陸して樓にのぼらうと船ばたに出ますると、●子船といふ小船が幾艘となく我舟の傍に舟を寄せて、これに召せ、わが舟にめせといふのであらう。からさへづりにかしましくいふ。其舟の漕ぎ方が變つてをる。小舟のへさきに二個の櫂があつて兩手で漕いでゐる。しかも漕手は皆な若い女で、其櫂のあやつり方の巧にうつくしい事かの大湖船の俗謠も思い出される。其女の上衣の色が、例の淺黄あるは紫などであるから、●子船の行きかふ樣を遠く望みますと、あだかも冬の流に春の花を浮べたかのやうに思はれる。さて兩手に銀の薄い輻廣い指輪をはめ、玉 ぎよく の耳輪をつけた一人の舟子の船にのつて上陸しやうとする。男女ともに利を貪るはかの國人の常で、與へた賃銭で決して滿足せぬ。例のうるさくねだる。服裝は美しいが心はうつくしくないと思はれる。
いよ〱上陸すると、岸邊の小屋が又珍らしい。『蘆のまろ屋』と歌にあるが如く、蘆でかまぼこ形に葺いた低い家である。否、家とはいひがたい。人が這つて入る程で、一二疊位の廣さの中に親子夫婦すむでをる。やゝ大きく前に卓がをいて女のをるは煙館―風待 かざまち の船頭らが阿片をむさぼる家である。これらの小屋は減水期の間だけあるので、水がませば岸まで水が滿ちる爲とりくづして他へ移るそうである。さういふ小屋の間を通りぬけて、高い石段をあがり、城門をぬけて岳陽樓へ上つた。かなたの建築は形式よりも色彩の方を重んじたやうで、瓦が前に申した金碧で、柱や壁が多くは赤い。色彩の建築としては美である。さて案内の僧に導かれ、壁に題した詩や聯の句などを讀むで三層樓の上にあがりました。かの范文正公がこゝの記を書いて後、この樓は幾度か重修し、人は變り世は遷つても、天然の景は、變遷がない。たゞ見る浩々蕩々洞庭湖は目の前に天地の大幅をひろげてをる。湖の門戸にはかの堯の女㜀君が居たといふ君山が右に、扁山が左に―いづれも江の島ぐらゐの大きさの島で、鏡が浦の沖の島鷹の島を那古の觀音の方から見た位置のやうに並むで、さながら洞庭宮を守る獅子狛犬の如くである。其たゞ中に今や夕日は傾かうとしてゐる。天地の大觀に我を忘れ、しばしあつて樓を下り、船へ歸りました。
幸に風は追手。帆を張つていよ〱洞庭湖の中に入らうとする。夕日は二つの島の間に落ちて、見る〱紅の眞玉が湖心にしづむ。かへり見れば岳州府城の上に月はのぼる。かの犁雲が『洞庭八百里月照岳陽城』といふた通りである。日を數ふれば十二月三日―あだかも舊曆十月十五日の夜、米南宮が選んだ湘瀟八景の洞庭秋月ではないが、望月の夜洞庭を過ぎる、何といふ好因緣であらう。
夕日は遂に湖心に沈んだ。其余光が空に輝くや、空の色忽ち紅に變じ、其紅の色、湖上に映じて、畵にも寫しがたい麗しい中を、遙に一帆又一帆、風のまに〱に遠く近くかつ顯はれかつ消へる。其いひしらぬ風景むしろかういふ風景の中につゝまれながら湖の底深く沈んだならばと思はれる。
美くしかつた夕ばえも光を失つて湖の上は薄ぐらく成る。月はいよいよ澄みのぼる。見えるものは唯こがね白がねの浪。『晧月千里浮光曜金』といふ樣である。廣い果知らぬ湖の上、進みゆく我舟の近くに二三の釣舟がをる。むかし卓彦恭が洞庭を過ぎた時、月下に漁りせる小舟を呼びとめて、『魚ありや否や』と問ひましたに老人らしい聲で、『魚はないが詩がある』。卓喜むで『願はくは一篇を聞かむ』老人枻を皷ちて『八十滄浪一老翁芦花江上水連空世間多少乘除事良夜月明収釣筒』と高吟し去つたといふ。さる風流の漁翁ありや否やを知りませぬが、二三の小さな釣船が大いなる湖の月夜の景趣を添へる。
月は良く風は追手。船は帆腹飽滿、一瞬千里の勢で進む。夜はふける。月はいよ〱澄む。『此意無人識』といふ句の如く、いひしらぬ樂しさ寂しさ、何ともいひがたき感が胸にみちて、我身そゞろに我あるを知らず、此隈なき月と果なき湖とに對うて居ました。一昨年の初秋富士に登り、絕頂に見ました七月十七夜の月。かれは山頂、これは湖上、しかしあはれは同じあはれで、風月の緣に富む事を天に謝した事であります。
呉淞から宜昌まで長江を遡る事千哩。此長い廣い長江の沿岸に、楊 やなぎ と塔 ぱごだ とを取り去つたなら、風景がいかばかり荒涼寂寞であらう。我國の柳とは違って、丈高く枝葉がこんもりとした楊。それで落葉の時期が遲い。『一葉ちり二葉流れて秋風ぞ吹く』とやうに、我國のは初秋に散り始める。支那のは初冬にも猶綠である『揚子江頭楊柳春』楊花が蝶の如く綿 わた の如く散り亂れる比は又一しほであらうと思はれる。揚子江から楊をとりさつたらば、櫻のない吉野山のやうであらう。
楊につゞいて景趣を添へるは、塔である。楊と柳のちがふ如く、塔も我國のと彼方のとは大にちがふ。我國には五重もしくは三重の木造で形が四角である―信州別所塔の如き例外はありますが―彼方のは七層九層もしくは十層以上の甎瓦製で、圓形が多く、愈上れば愈殺ぐといふさまで、手近に申せば淺草の凌雲閣の式である。たま〱簷角のもあるがそれも八方が多い。我國のは木立の上に九輪の尖端 はし や上層の簷角が見えるのであるが、支那のは山の上もしくは川そひにあつて全部露 あら はに見えてをる。又必しも寺院の傍にあるのではない。
深夜黄浦江畔を發すると、翌朝長江の岸でまづ目にとまるは狼山の頂なる塔である。千浬の間南北兩岸こゝかしこの塔は數へきれぬ。就中宜昌に近づいて府城の家が見えそめる比、南岸にピラミッド形の山―幾万年前禹が水を治めた時、神の斧で削つたかの如き奇形の山に對して、北岸に塔がある。我船か其傍を過ぎた時、聞なれぬあやしげな聲が聞える。悲しげな寂しげな高いさけびが聞える。あやしみ見れば塔の下に幾十の野羊 やぎ の群が居る。濁水の大江に沿うて、黑く茶色なる塔の下に、白い野羊のむれ。亡國の音ともいふべき鳴き聲、遊子の胸をさすやうでありました。
湖南では泪羅に古へを吊うて湘江に入らうとした時、白魚磯の塔が殊に感をひきました。これは塔の形よりも塔の傳説が趣味があつたので。むかしある官人が家族を伴なうて任地に赴かうとする時、こゝで暴風に逢つた―洞庭湖では秋冬の比洞庭かぜともいふべき一種の暴風がある。私等も歸途其風に逢つて困難しましたが―波は高い。風は烈しい。官人の船は今にも沈まむとする。そこで官人の妻が湖神に祈つて、どうか風波がをさまり、わが良人の船の無事な樣にと、寶玉眞珠でよそほうた吾髪を切り、それを江中へ投げ入れた。其眞誠 まこと に天も感じてか、風波靜まり舟は無事であつた。幾年かの後、彼の官人夫妻は轉任して故郷へ歸らうと此処を過ぎた。此度は風もなく波もない。先年の事が思ひ起され、船を磯にとゝめ、夫妻語りあうてゐると、大きな白い魚が船の中へ躍り入つた。かの武王の故事も思はれてこれは祥瑞であらうと早速調理を命じた。然るに思ひきや其白魚の腹中から、彼髪飾りが其まゝ出やうとは。これは天が嘉納まし〱したのであらう。又こゝは有名な難所此後とも船の難破があつてはといふので目じるしに此塔を建てたとの事。昔がたりを聞いてさて塔を見てをりますと、折から船人がうたふ送郎十里亭の歌謠。ふしは卑 ひな びてをるがあはれにきこえました。
源氏物語と繪畫
佐々木信綱君講演
(本編は前年十一月二十日會席上に於ける高畠正之助氏の速記に依りて更に佐々木氏の修正を煩はせるものなり。)
(前略)
昔から繪と歌とは深い關係がありまして、王朝時代の室内装飾として、又間 ま じきりの實用品として、屛風を用ひました。あるは大甞會の悠紀主紀 ゆきすき の屛風。または貴い人の年賀に、近親が屛風を新調して贈る。それは風を防ぐ、即ち老を防ぐといふ意味でーそういふ屛風は、當時の名高い畵工が描いた上に、歌人が歌をかいた色紙形をうつたものです。三代集や三十六人集を見ると、屛風の畵讃の歌が澤山あります。唯今の時候の秋の歌で、手近い例を申しますと、彼の『千早ふる神代もきかず』の歌は、二條の后がまだ東宮の御息所と申した頃拵へられた屛風の畵讃であります。又躬恒の作で『住の江の松を秋風吹くからに聲うちそふる沖つ白波』といふ名高い歌。あれは右大將の四十賀に、内侍のかみが祝つて送った四季の畵の屛風の讃であります。
又古く、芦手がき、水手といふ事なども御座います。それは芦の葉の形や、水の流のやうな風に歌をかきましたもので、これは北邊随筆、松の落葉などに其畵やうが出て居ります。
それで畵だくみで歌を嗜んだ人も多く有ますし、歌人で畵をかいた人も數多あります。畵工、歌人、おの〱歌により畵によつて、畵のおもむき、歌の情を養つた事と思ひます。彼の文永の頃、畵聖ともいはれた信實は、歌もまた巧で、勅撰集に撰び入れられてをります。又信實はしば〱人麿の像をゑがきました。是は御承知の事とは思ひますが、昔の人麿の畵像は、皆白髪の翁で有ますが、あれは十訓集、著聞集などにある如く、夢の姿を本としてかいたもので、又夢想當時の服裝で、いづれも事實に違つて居ります。其歌から考へても、眞淵翁の言はれた如く、四十あまりで逝去した人で。彼の田安宗武卿が、眞淵翁に考へしめて侍臣の千春に畵かしめられた像は、當時の服飾に叶つてをるやうに思ひます。又人麿の畵といへば、必筆をもつて向ふに舟の帆が見えて居りますが、あれも間違で、かの『ほの〱と』の歌を人麿の作としたは、古今集の左註の間違ひで、古本今昔物語には、小野篁が隱岐に流された途上の作『和田の原八十島かけて』の歌のつ〻゛きに出て居ります。もし諸君の中に、歌聖人麿の像をか〻うとお考の人があらば、萬葉中の人麿の作をよく翫味し、又當時の事を考へてかいて頂きたい。彼の近江の舊都の荒れた跡に立つて、『大宮はこ〻と聞けども、大殿はこ〻といへども、春草の茂く生ひたる、霞たつ春日の霧 き れる、百しきの大宮所、見れば悲しも』と歌つたなどは、好箇の畵題であらうと思ひます。
話が横道にそれました。古くは信實がありますし、近世には菊池容齋は歌にも巧で、先年吉野へ花見にまゐりまして、喜藏院や此處彼處で、武保とかいてある歌をあまた見ました。谷文晁浮田一蕙も可なり詠みました。岡田爲恭ーかの故實の畵に名を得た冷泉三郎もよほど上手によみました。芦手がきなどもあります。石亭畵談を著した竹本石亭は、林甕 みか 雄の門で、歌の名を正興 おき といひました。明治になつても結髪をしてをつた故實畵家蜷川式胤 のりたね は六人部 むとべ 星香の社中であつた。専門家ではないが、堀内藏頭直格も、畵所で學ばれた澤宣嘉卿なども畵と歌とを兼ねて巧でありました。
歌人の方では、眞淵翁の弟子に伊能魚 な 彦といふ人があります。眞淵翁は近世のすぐれた學者で、しかもすぐれた歌人でありますが、其歌に三つの時期があつて、若い時は當時行はれた體で,中頃萬葉を研究して以来萬葉風に、晩年には萬葉にあらず古今にあらず、其中間の體を詠まれた。それで弟子の中に、中頃の風をよく傳へたのが田安宗武卿と、魚彦。晩年の風をうけたのが千蔭、春海です。魚彦の歌は、『天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり』といふやうな風で、先刻も寫生について諸君の辯論がありましたが、魚彦は下總佐原の人で、寫生を貴んで、梅を愛して家の庭に數多の梅を植て、梅の畵を多く描き、又佐原は利根川の岸で有ますから、鯉を池に畜 か つて、鯉の寫生をしました。それで鯉の畵梅の畵にすぐれたのが多く傳はつてゐます。眞淵のやさしい歌風をうけついだ千蔭も、自畵讚の掛物を多く見かけます。本居宣長先生も畵をか〻れまして、それは土佐に近い緻密な畵風ですが、先生が机に向つて書物を披げて見ておられる。机の上には櫻の花がいけておいてある自分の肖像で、それは鏡に向つて自らの姿を寫して、それで描かれたとの事であります。同じ眞淵門下の建部凌岱-かの片歌を興した綾足は、畵號を寒葉齋というてすぐれた畵家でした。其他小澤芦庵も呉春の朋友で畵を學びましたし、狩谷棭齊、權田直助なども畵をかきました。八田知紀の竹や蟹の自畵讚はこ〻かしこにあります。かの蕪村が俳諧と畵に於けるやうに、福井の井手曙覽ーかの奇警な作に富んだ曙覽 あけみ は、又奇警な畵をかきました。曙覽の歌はよほど畵の影響を受けて居る。其題目にも畵題を用ひたのが澤山あります。いかにも畵と歌とが關係がるかといふ事は、曙覽の家集志濃夫之舎集を御讀みになつたらば、よくわからうと思ひます。
畢竟歌と畵とは兄弟の間がらで有ますから、歌人が畵によつて歌の情を養ひ、畵から開發される事も多う御座いませうし、畵工も歌を味はうて、畵の上に大にさとる點があらうと思ひます。
畵題なども、歌、または我國の古い書物を研究されたならば、よほど益がある事と信じます。私は此美術院にも度々展覽會を見に參りました。又所所の畵の會にも、畵がすきであるので見にまゐりましたが、歷史上の畵題の多くは、きまりきつたーーというては失禮ですが、ありふれた畵題が多いやうに存じます。平家物語とか、太平記とか云ふのが多い。古いもので例を擧げますれば、古事記、日本紀、風土記、萬葉の類などを研究なされたならば、神話や、傳説や、古歌の中に、趣味の深い面白い畵題が多からうと思ひます。中世近世の歷史なり、小説なりにも、樣々のよい畵題がありませう。
それで今日は、平安朝の制作の中で、最も文章の精華と言はれる『源氏物語』について、聊か御話をしやうと思ひます。それはあのやうな大作で、五十四帖のうちには、好繪題と思ふ點が少くない。もし今日の一塲のお話が起因となつて、諸君の中に源氏を研究して、不朽の作を殘さる〻やうな事があつたらば、紫式部も千歳の後に知已を得る事と喜ぶであらうと思ひます。故に話が長く成りますが、暫く聽いて戴きたい。
紫式部が繪をかいたかどうかといふ事は、紫式部日記にも出て居りませぬから判りませぬが、恐らくは描いたであらうと思ひます。否、式部は描きませぬにしても、式部が想像上から生み出した所の源氏物語の主人公の源氏の君は、畵が上手であつた。又源氏の君と相對したる女主人公の紫の上も畵がうまかつたのであります。源氏が十八歳の三月、瘧を煩らひましたが、京都の北山に加持に驗 しるし ある上人があるから、賴みにと、三月の月末頃、朝と〱北山へいつた。京の花は既に散り過ぎて居りますが、山深い所であるから、山の櫻はまだ咲いて居る。段々登つて、上人にあつて祈禱を賴んだ後、坊のうしろの高い所から見下しますると、四方の梢のどことなく煙り渡つて居る樣子が美しいので、源氏が、あ〻畵に能く似た所であると感心して見て居りますると、御側の人が、イエ此やうな所は一同淺うございます、東の國なる富士のけしき、淺間の嶽のながめ、西の國のおもしろい浦々などを御覽なさつたならば、どのやうに御畵が御上手におなりなさるであらうといつた事があります。それから後、源氏が二十六歳で須磨へ流された時、あるは唐の綾に、あるは屛風に畵をかきすさんだ事もありますし、又毎日々々の事を日記に書いて、其間々へ畵をかき加へて、畵の日記を作りました。然るに人の心は通ふもので、都の方でも、紫の上が頻りに源氏の事を思ふて、矢張り畵の日記をかいたといふことが出て居ります。
それから又繪合 ゑあはせ の卷といふ卷が有ます。その一卷は全體が畵に關した話です。其卷の槪略を申しますと、時の帝の冷泉院は、未だお若いが、何事よりもすぐれて畵がおすきであり、又御自身も二なくおかきになる。所が、此度入内になつた梅壺の女御、それは六條御息所の遺子 わすれがたみ で、源氏の養女として參内した梅壺女御は、畵がお上手で、天皇は、若い殿上人の中で畵をかく人には心をとめて思し召す位おすきであるから、まして美しい女御が、筆とり休らうてお出でになる愛らしさに、度々梅壺の方へお渡りになる。然るに梅壺より前に、弘徽殿の女御といふのが上つて居ります。それは時の權中納言の娘で、其權中納言は、箒木の卷の頃、頭中將といつて、源氏の遊び相手、又學問や音樂の競爭相手であつたが、元來まけじ心の性質の人であるから、權中納言は、わが娘の女御にひけを取らすまいと、時の名高い畵工に物語や、月並の繪の珍しいのをゑが〻せて、帝に御覽に入れる。所が、繪を見るのが面白いといふので帝は弘徽殿の方へよく御出になる。が、中々容易くは御見せ申さぬ。又餘り面白い繪があると、之を梅壺の女御にも見せたいからと仰つしやる。しかし弘徽殿の方では、其繪卷が帝の御心をひくなかだちになつて居るのであるから、中々お貸し申さぬ。それを梅壺の女御の養父なる源氏が聞いて、其やうに帝の御心をおじらし申すのはよくない、自分の方には古い繪が澤山あるから、それをお目にかけやうというて、紫の上と共に頻りに繪卷物を捜して、面白いものを差上げた。頃は三月の十日あまり、空もうら〻かに人の心ものびらかで、宮中でも餘り儀式が無くて閑な頃である。此頃は歌合とか、女郎花合とか、菖蒲の根合とかいうて、物を合せて勝劣を競ふことが流行つた時代で有ますから、同じ事ならば繪合をして帝にお目にかけたらばといふので、左方 ひだりかた の源氏の方ではおもに古い繪をあつめ、右がたの權中納言の方では新作の繪を畵工に賴んで、それを出す事になりました。所で、源氏の弟に帥の宮といふて、繪に精しい方が判者、すなわち審判者になりました。先づ初めに梅壺の方から、小説の元祖ともいふべき竹取物語の繪卷物を出す。弘徽殿の方からは空穂物語の俊蔭の卷の繪卷物を出す。次に伊勢物語と、正三位物語といふ風に段々批評をして居りましたが、一番最後に、源氏が豫て仕舞つて置きました彼の須磨明石の繪卷物を出した。所が其繪が上手なのと、書いてある文章が美しくあはれあでるから、到頭それが勝を占めた。終つて酒宴があつて、源氏が、自分は若い時分不思議に畵がすきで、どうか心ゆくばかりかきたいと思ひながら、折を得なかつたに、思ひよらず都の外の住居をして、四方の海の深い心をも見、自然の風景は充分に見たが、筆の進むには限があつて、心はさきへ進んでも筆が運ばず、思ふやうでないといふやうな述懷談がある。これが繪合の卷の梗槪であります。
それから又、紫式部の繪についての考を現はした所も有ります。それは箒木の卷に、頭中將と馬頭 うまのかみ とが、源氏の宿直所 とのゐところ で、梅雨の夜に女の品定めをする處で、女の仇なのはいかぬ、まめやかな女が宜いと云ふ例に、畵所 ゑところ に上手が多くて、いづれ勝り劣りが見えぬが、未だしい畵工が筆にまかせて仰山にかいた想像畵は、一見、人の眼を驚し得るが、矢張目に近いものをもよくかきこなすのがまことの上手であるといふ話が出てをります。前申したやうに、源氏も、冷泉院も、紫の上も繪を描くと云ふ風でありますから、源氏物語の中には、繪の事が所々に出て居りまして、畵に關した名詞や動詞が五十四帖の中に八十あまりも出てゐます。其中には、繪所、畵師、墨かき、つくりゑ、女繪、物語畵、繪物語 紙畵、手習繪、芦手、歌畵、下畵、畵やう、四季の繪、月並の繪などと云ふ言葉が此處 彼處に有ます。作り繪と申しますのは、彩色の事で、奈良朝の頃から繪をかく人と彩色をする人とは、別にわかれて、墨かきはいはば棟梁で、つくりゑは大工小工のわざで有ました。女繪は物語繪などのやさしいのや、今の風俗畵などをいふので、まじめな畵の男繪に對する詞と思ひます。下繪繪やうは、今で謂ふ圖案。歌繪は畵讃で有ます。月次の繪は、十二箇月の年中行事をかいた繪で有ます。想像上の人名でない實際ありました當時有名な畵工の、千枝、常則、巨勢の相覽、公茂などの名も見えてをります。
(未完)
〔蔵書目録注〕
上の文は、明治三十八年二月二日臨時発行の雑誌 『日本美術』第七十二號 日本美術院編輯部 所収のものである(最初の部分は、省略)。
和歌の創作三千餘首
河井醉茗
◎前提
與謝野夫人は、私と同じくちぬの浦わに幼き夢を護 まも られた女性である。舊 ふる き歴史に呪はれたる我が郷土より、雲を破つて現れた新しい光明 ひかり のやうに、藝術の天才を生み出 いだ したことは、私一人の誇りではあるまいと思ふ。
處女時代よりの夫人を知つてゐる私は、語るべく多くを持つてゐる。併しながら夫人の性格とか、言行とかは今好んで語るの要を見ない、世人が如何に夫人を解釋してゐるか、それも亦深く究むるを要しない。只私は顧みて、一層夫人に敬服する處があると言つて置けば宜 い い。
今囘、晶子論を集めるに就いて、私も一わたり夫人の歌集に眼を通した、而 さう して其感想を語るに先 さきだ ち、前提として、夫人の和歌に於ける價値ともいふべきものを擧げて見たいと思つた。幸ひなる哉『春泥集』の序文に於て、上田敏氏が例の闊達明快なる筆致を以て、夫人の和歌に於ける功蹟を述べてある。序文は全篇に渉りて作家必讀の好文字であるが、此處には主として夫人に關する部分を引用する、曰く。
詩が一世の感情に投合して、不斷はこれに緣遠い人までを動かすには、まづ婦人の手と唇とに觸れられることが必要だ。婦人が詩の花のなかに、其顔を漬けるやうになって、はじめて、ほかの詩も理解されることになる。女詩人は實に詩の宣傳者、弘布者であつて、巧 たくみ に周圍の感情にふさはしい情緒の琴の緒を彈じ、自然に時代の空氣中に浮ぶ新思想を吸収咀嚼して、一の新體を造りだす者だ。これは模倣で無い、靈妙な同化である。精神上に於ける婦人の地位と知識との低い時代はいざ知らず、其他の場合では女詩人の作に、一時代の感情が綜合されて現はれる例は少なくないので、殊に抒情詩の域内では、憗 なまじひ 、淺薄な理性に囚はれないだけ、却つて面白い天眞の流露を見る。與謝野夫人の場合もこれではないか。
夫人をして羅馬尼亜公爵家の一女たらしめば、或は第二のコンテス、ド、ノアイユたるべく、南米の血を享けた佛蘭西高踏派詩人の女たらしめば、また、ド、レニエ夫人ジエラアル、ド、ウヰユであらう。ヱ゛ルレエヌ、ド、レニエ、ジアムの詩が、是等の女詩人に依つて佛蘭西の社會に弘布せられた如く、明治詩壇が、晶子夫人の絕間無き製作の精力あるが爲に、常に公衆の視聽を惹きつゝあるは、文藝を愛する者の深く感謝する所である。『後の世の人羨 うらや みてわが影に集 あつま るならむ、彼等の命よりもわが灰の溫 あたゝ かければ』と誇る伯爵夫人は『寂しからずや道を説く君』と窘 たしな めたこの東洋女詩人を友とすべく、『菫 すみれ は靑に、風信子 ヒアシンス は艶よく、水仙の香 かをり 、家に滿つ。六月、牡丹、眞珠色の絹に似たり』と佛蘭西の景物を詠じながら心は遠く南海祖先の地に憧れる才媛はつねに『西の京の山』を思ふこの集の作家に頷 うなづ くであらう。總じて詩人に席順をつけるのは村夫子氣質 そんふうしかたぎ の惡癖、まことに無益 むやく の業 わざ であるが、あまりに古 いにしへ に泥 なづ んで今を顧みない人の多くある世の中だから、ひとつ押しきつて言はう。日本歌壇に於ける與謝野夫人は、古の紫式部、淸少納言、赤染衛門、等 ら はものかは、新古今集中の女詩人、かの俊成が女に比して優るとも劣る事が無い。日本女詩人の第一人、後世は必ず晶子夫人を以て明治の光榮の一とするだらう。
◎『みだれ髪』時代
明治の時代に於て、藤村氏の『若菜集』が詩壇の曙光であるとすれば、和歌の世界では『みだれ髪』が曙光であらう。最 もつと もそれより以前、新派の和歌は起つてゐた、言ふまでもなく與謝野寛氏が第一の開拓者で『東西南北』が出て、明治の歌壇は震駭した。其寛氏が晶子女史を拾ひ出して、明治の和歌を一新したのも偶然でない。
『みだれ髪』の出た當時、毀誉褒貶は交 こもこ も起つた。歌の讀み口の餘りに大膽なるに呆れて大抵の批評家は思ひ切つて之を推奨することを憚 はゞか つた。出版されたのは明治三十四年であるが、爾來約十年の間に、文運は急轉直下の勢ひで進歩し、推移し、ロマンチシズムを云ひ、自然主義を識 し るに至つた文壇は、顧みて『みだれ髪』が如何に新思想の豫匠 よしやう を成したかに注意せねばならぬ。
靑春の燃ゆるやうな、わか〱しい思想は『みだれ髪』全篇に流れてゐる。詩人は通常の人間よりも、殊に其若い時に於て、烈しく、一こくで、物に支へられるやうなことがない、單純であり、幼稚であつても、若い時に作られた製作品には、眞の詩人らしい血が盛られてある。
やは肌の熱き血汐に觸れも見で淋しからずや道を説く君
と喝破した勇氣は、夫人一代を通じての藝術的信念であらう、斯の信念の下に夫人は、婦人としては寧ろ苦痛の多き藝術の國にかしま立 だち したのである。
春みじかし何に不滅の命ぞと力ある乳 ち を手にさぐらせぬ
ゆあみして泉を出 い でしわが肌に觸るゝはつらき人の世の衣 きぬ
その子はたち櫛にながるゝ黑髪のおごりの春の美しきかな
夫人には初めより、一の堅固な自信があつた、それが歌に現れて、處女の誇りともなり、女性の權威ともなつてゐる。右の歌は其等を能く代表してゐる。
夫人が想像力の豊かな量分を持つて生れた事は、主觀以外の歌に於て窺 うかゞ ふことが出來る。夫人は二十四五歳の頃まで、多く外に出なかつた。而して專ら吾國の歷代の文學、殊に物語類、歌書類に親 したし んだ、偶 たまた ま郷土以外の地としては、京都の自然を知つたゞけである。而かも夫人の眼には其京都が新しく映つた。
ほとゝぎす嵯峨へは一里京へは三里水の淸瀧夜の明けやすき
時代としては平安朝、地としては京都の感化を受けた夫人の歌には、旣に『みだれ髪』時代から盛んにそれが現れてゐる。佛敎の文字は使つてあつても、詩の言葉としてあやなすだけで、思想は何處までも現代に向つて進まうとした努力を、忘れてはならぬ。今以上の傾向を一括して、例證となすべき作四五首を抜き、更に次の集に移らう。
のろひ歌書きかさねたる反故 ほご 取りて黑き胡蝶をおさへぬるかな
うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて經くづれきぬ
まこと人を打たれむものかふりあげし袂このまゝ夜をなに舞はむ
何となく君に待たるゝこゝちして出でし花野の夕月夜かな
ゆあみする泉の底の小百合花二十 はたち の夏をうつくしと見ぬ
◎『小扇』と『毒草』
『みだれ髪』の次に、傳ふべき歌集は『戀ごろも』であらう。併し『みだれ髪』が出て『戀ごろも』が出るまでの間に、『小扇』と『毒草』の二つの書が出てゐる。
『小扇』は『みだれ髪』に比べて、技巧は進んでゐるが、凡て技巧に囚はれた形になつてゐて、天眞の思想を少からず傷 きずつ けてゐる。夫人の遲疑し、躊躇し、且最も苦んだ時代の集であらう。一首を抜く。
眼のかぎり春の雲わく殿の燭およそ百人牡丹に似たり
『毒草』には良人寛氏の詩歌もあり、婦人の文章もありて、和歌の數は極く少い、少いが其うちに只一首吾等の忘れかぬる歌がある。曰く。
ほとゝぎす玉を舞ゐらす瑠璃盤に羅 ら のおん袖の觸れにしものか
◎『戀衣』と美男
鎌倉や御佛 みほとけ なれど釋迦牟尼は美男におはす夏木立かな
此歌に就いては當時盛んに評論せられたことであるから、今更よけいなことを言ふ必要もないが、只一言初心者の爲に云ふが、此歌は格調とか、才氣とか云ふものゝ上では、晶子集中必ずしも第一位ではないが、思想に於て破天荒なところを認めるのである。多年佛敎思想に養はれて來て、少くもお釋迦樣と云へば、ありがたいもの、敬ふべきものとしてある我邦人の口から、偶然的信仰を離れて、親しげに美男子呼 よば はりをした大膽さに、先づ多くの讀書家は驚倒したのである。
なほ序 ついで に云ふが、夫人が此思想を抱いてゐたことは旣に『みだれ髪』時代から芽ざしてゐたので、左の二首は確に、此歌を成すべき素地 したぢ であつた。
御相 みさう いとゞ親 したし みやすきなつかしき若葉木立の中の廬舎那佛(みだれ髪)
讃ぜむに御名 おんな は知らず大男花に吹かれておはす東大寺(小扇)
偖 さ て『鎌倉やー』の歌の外に、『戀衣』には何 ど んな歌が多いかと云ふに、才氣の勝つた、華かな女性らしい歌が多い、此集は何となく淸少納言の面影があると思ふ。試 こゝろみ に引けば、
春曙抄に伊勢を重ねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな
おもはれて今年要なき舞衣筺 はこ に黄金の釘うたせけり
母屋 もや の方へ紅 あけ 三丈の鈴の綱君と引くたび衣 きぬ もて參る
金色の小さき鳥の形して銀杏ちるなり夕日の岡に
ほとゝぎす治承壽永の御国母 おんこくも 三十にして經よます寺
花に見ませ王の如くもたゞなかに男 を は女 め をつゝむうるはしき蕋 しべ
◎『夢の華』と姉妹集
夫人の愛女に、ななせ、やつをの君あるが如く、夫人の集に『夢の華』と『舞姫』とがある。此二つの集は、孰 いづ れを姉孰れを妹とすべきか、迷はれるほど能く肖 に た印象を與へる姉妹集である。『みだれ髪』時代の思想が、更に圓熟して、磨きあげた珠玉を盤上に盛つたやうな、歌の絕頂に達した集である。此二集の作は、殆んど一首々々に、力の限りを投げ入れてあるやうで、何 ど の頁 ページ から、何の歌を抜いて來ても、然 さ う重さに變りはない。
平安朝の都ー西京に愛着深き夫人の短歌が、西京の自然と人間と時代とを巧みに擒縱 きんしよう することは前にも言つたが、此集と、次の『舞姫』から少しばかり私の好きな作を擧げてみよう。
御眼覺 みめざ めの鐘は知恩院聖護院出 い でゝ見たまへらむらさきの水
嵐山名所の橋の初雪に七人 なゝたり わたる舞ごろもかな
京の衆に初音まゐろと家ごとに鶯飼ひぬ愛宕の郡 こほり
冬川は千鳥ぞ來啼く三本木べにいうぜんの夜着ほす椽 えん に
十餘人椽にならびぬ春の月八阪 やさか の塔の廂 ひさし はなると
殊に『鶯飼ひぬ愛宕の郡』の歌は、非常に好きな歌である。
藝術家は凡て誇張を知つてゐる、夫人は殊に誇張の技巧に於て、意表に出ることが多い。自然に於ては
地は一つ大白蓮の花と見ぬ雪の中より日ののぼる時
感情の誇張を面白く表はしたものには
思ひ負けぬやれな事こそおこりたれやれな鞍 くら おけやれ馬まゐれ
のやうな集中稀に見る奇抜な作もある。
また印象の鮮やかな歌としては、
夏の水雪 みずゆき の入江の鴨の羽の靑き色して草越え來 きた る
自然を離れ、純なる空想から生れた歌に
くらやみの底つ岩根をつたひゆく水の音 おと して寢 い ね得ぬ枕
すなほなる女性の歌としては、
うらめしと再び言はぬ口がため強 し いたまふ夜の春の雨かな
斯 かく の如く引いて來れば、殆ど際限がない。
◎『舞姫』
昔の歌人は多くおちついた歌を作つた、動いてゐるものを動いてゐるまゝに表はすと云ふことが出來にくかつた。餘程敏慧な才が無いと其れは出來にくい。夫人は動いてゐる人間、動いてゐる心、動いてゐる場所を其 その まゝに捉へて來て、讀者に或る時間の觀念をさへ與へるものがある。例へば
山かげを出 で しや五人がむらさきの日傘あけたる船のうへかな
おん方の妻と名呼びてわれまゐろさくら花ちる春の夜 よ の廊 らう
春の雨障子のをちに河暮れて灯 ひ に見る君となりにけるかな
美しき女盜まむ變化 へんげ 者 もの 來 こ よとばかりに騒 さう ぞきにけり
のやうな作である。
『舞姫』の中で、多くの人愛誦される作は
春の雨高野の山に御兒 おんちご の得度の日かや鐘多く鳴る
と云ふ歌であらう。爽快無比とも云ふべきは、
夏の風山より來 きた り三百の牧の若馬耳吹かれけり
であらう。若き日の幸を極端に誇張したものには
鷗 かもめ 居 ゐ るわだつみ見れば抱かれて飛ぶ日をおもふさいはひ人 びと よ
がある。
要するに、與謝野夫人の歌を味はうと思ふものは、『夢の華』と『舞姫』の二歌集は、必ず見免 みのが すことができないのである。
◎『常夏 とこなつ 』の新生面
『常夏』には『舞姫』以前の集に見なかつた言葉が表はれてきた、それは『涙』とか、『さびしさ』とか、『おとろへ』とか、『よはひ』とか、『かなしさ』とか云ふやうな文字である。是等の文字の上から推想しても分る通り、靑春の燃ゆるやうな時代に別れて行く哀愁とも云ふべきものが此集には處々 ところゞ に歌はれてある。わが生の態 さま を僞 いつは らぬ作者としては然 さ もあるべきことで、眼を射るやうな派手やかな歌がなくなつた代 かは り、しんみりとした生活の味 あぢは ひが表はれてきたのだ。
古琴 ふること の絲を煮る香に面 おも そむけ泣きぬ三十路に近きよはひを
古女君 ふるをんなきみ とその世の相聞 あひぎゝ の歌もて足れる天地 あまつち に居ぬ
あざまずや小さき二人の母とよぶ本意 ほい 遂げ人 びと のおとろへやうを
花鎭祭 はなしづめまつり につゞき夏は來 き ぬ戀鎭めよとみそぎしてまし
とある人思 おぼ しきざすと淋しくも心よく讀む用なき心
ふと思ふ十歳 とゝせ の昔海見れば足の蹌踉 よろめ く少女 をとめ なりし日
斯 こ う云ふ歌が集中の大部を占めてゐるのではないが集中に散見するだけで、矢張、艶なうた、華やかうた、印象の明瞭なうたなどは澤山あつた。夫人の出發して來た詩歌の一路は、まぎれもなく嚴存してゐる。
白き花紅 はなあけ に交 まじ りぬ逢ひそめてしら寝 ね しにける日のかずばかり
法華寺の黑き千手の御像 おんざう の御手 みて 勧進す奈良の大路になど他 た の人の作には決して見られない。
◎『佐保姫』と人妻
『夢の華』と『戀衣』と同じ型を示して居るやうに『常夏』と『佐保姫』にも、同じ空氣が通ふてゐる、なほ一層此方が、時間 とき も後であるだけ、人妻らしい想いひが表はれてあつて、時としては
心まづおとろへにけむ形まづおとろへにけむ知らねど悲し
と云ふやうな心持も起る、然 さ うかと思ふと節操といふことが
天地 あまつち に一人 ひとり を戀ふと云ふよりもよろしきことを我は知らなく
と自明されて來る、或は
白刄 しらは もて我にせまりしけはしさの消えゆく人をあはれと思ふ
と自他に顧みて、ものゝあはれを時間の上に見出して來る。
凡て人間の衰へるといふことは、知らず識らずの間に來るもので、爾 しか く明かに意識し得 う るものは少い、それを叉表白し得る力を持つてゐるといふことが、實際に於て夫人の衰へてゐないことを證明してゐる。本集にも約五百種からの歌があるから、其盛んなことは勿論である。私の好きな歌をニ三首引いて見よう。
少女子 をとめご は魚 うお の族 やから かとらへむとすればさまよく鰭 ひれ ふりて逃ぐ
來よといひし林なれどもわが歩む路の無ければ葛の葉を踏む
水無月のあつき日中の大寺 おはてら の屋根より落ちぬ土の塊 かたまり
山吹の花の一つをからたちの垣根の上に置きてこしかな
◎新しき『春泥集』
以上、八冊を數へた最後に、今年出版された最も新しい夫人の歌集『春泥集』に就いて一言しよう。
『みだれ髪』以後の四五の集と、此集とを比べて見ると、流石に十年の間の面 おも がはりは爭はれぬ。全體の情調が、前には空に舞ふ花のやうであつたのが、今は野に置く露 つゆ のやうに、しつとりと、おちついて來た、友染の着物が、縞の着物に代つたほどの相違がある。娘の時代、妻の時代、母の時代と遷 うつ つて行くのが見えるやうであつて、刺戟には驚かないが、歌つて見ると云ふ態度は何處までも持續することを證 あかし してゐる。
感興に任せて歌ふと云ふより、思索して歌ふと云ふ傾向もある。
わが胸はうつろなれどもその中にいとこゝろよき水のながるゝ
ある時にわれの盗みし心よと公 おほやけ ざまに行きて返さむ
吾家 わがいへ のこの寂しかる爭ひよ君を君打つ我を我打つ
印象のきつぱりした歌の少くなつたと同時に、分別ざかりに近い年頃の人が、ふとした事に感じて我身の上でもないのに涙を滾 こぼ すと云ふやうな、むづかしく云へば現實界の底の暗流に自己の影を見出して、やるせない感じをするやうな、然 さ うした作品が多くなつてきたやうに思ふ。
御心 みこゝろ に離れぬ人の物語われ聞くまでになりにける哉
おん心うらより覗くことばかりして生 いき がひのいかであるべき
わが賴む男の心うごくより寂しきはなし目には見えねど
おとろへをうれふるきはにあらねども歌のあはれになりにけるかな
後 うしろ より危 あやふ しといふ老 おい の我走らむとするいと若きわれ
愚 おろか かなる心が建てし樓臺のくづるゝ音も心地よきかな
わが背子に四十路近づくあはれにも怒らぬ人となりたまふかな
注 つ ぎたれば油壺なる油盡 あぶらつ くもの味氣なき秋の夜半哉
此處には多く主觀の歌を引いたから、なほ其傾向が著しく見えるかも知れないが、『歌のあはれになりにけるかな』は、實に能く、一語を以て『春泥集』を語つてゐる。
而 し かも日本の短歌として、歌のあはれに新しい生命を與ふるものは、夫人を置いて當今の歌人の誰に求めやう、私は徹頭徹尾、夫人は歌に生れた女性であるといふことを信じたい。
◎終りに一言す
約三千首に餘 あま れる歌を、以上、僅かな文字を以て概評し去つたのは、おほけなくも亦無謀のことであつた。けれども與謝野夫人の實力を、漸く今日に至つて認めた世の中であるから、此 かく の如き大づかみな説も、或る人には何等かの暗示を與へるかも知れぬ。夫人の歌を詳しく説いて、之が評論を試みるのは、文壇の大事業であると同時に、又何人 なんびと かに依りて是非とも企てられなければならぬ事業である。
夫人の歌は、單に歌として研究することも一つ、思想として何程の感化を及ぼしてゐるかを測ることも一つ、なほ又、其等を透して女性といふものを研究することも一つである、夫人の事業は女性の事業としても代表的である、今後現れて來るかは知らぬが、少くも明治の代 よ に於ては其代表者であらう。
終に臨んで、夫人の集より縱 ほしい まゝに、其製作を引用したる罪を夫人に謝す。
〔蔵書目録注〕
上の文と図版は、明治四十四年五月一日発行の雑誌 『女史文壇』 記念第百號 第七年 第六號 女史文壇社 掲載の下の 與謝野晶子論 六つの一つにあるもの。但し、カラー写真の鎌倉大仏は最近のもの。
與謝野晶子論
婦人の作物に現れたる色彩 和田英作
短歌の爲に生れた人 森田草平
強烈に我が生を愛す 窪田空穂
尋常一般の女流作家に非ず 藤嶋武二
心持は貴族式、實際は謹慎 つつましやか な夫人の生活 馬場孤蝶
和歌の創作三千餘首 河井醉茗
なお、文中の上田敏氏の引用部分は、判りやすくするために、靑文字とした。
〔蔵書目録注〕
色紙は、全員、巴金、謝冰心、艾蕪、草明、杜鵬程2枚、敖徳斯爾の計8枚である。
この代表団の記錄には、『文学交流の 旅路〈❜80中国作家代表団来日の記錄〉』 編集・発行 中国作家代表団歓迎委員会 アジア・アフリカ作家日本委員会 昭和55年6月 がある。
団長 巴金 中国文学芸術界連合会副主席 中国作家協会第一副主席
副団長 謝冰心(女) 中国文学芸術界連合会副主席 中国作家協会理事
同 林林 中国作家協会理事 中国人民対外友好協会副会長
団員 艾蕪 中国作家協会理事
草明(女) 中国作家協会理事
(兼秘書長)公木 中国作家協会吉林分会主席
杜鵬程 中国作家協会西安分会副主席
敖徳斯爾 中国作家協会内蒙分会主席
(兼秘書) 鄧友梅 中国作家協会理事
工作員 呉青(女) 北京外国語学院教師
李小林(女) 上海『収穫』編集部
陳喜儒 中国作家協会対外連絡部
〔口絵写真〕
大平首相と会見(首相官邸)
東京・朝日講堂で
巴金団長, 水上勉氏とテレビ対談(ホテル・ニューオータニの庭園)
序にかえて 巴金先生 西園寺公一
講演 わたしの文学五十年 巴金 東京・朝日講堂 (四月四日)
講演(要旨) 私と若き読者たち 謝冰心 京都会館 (四月十一日)
講演(要旨) 中日の文学交流に想う 林林 京都会館 (四月十一日)
代表団の旅行日程(四月一日~四月十七日)
松岡洋子さんのこと
歌ごゝろ
かういふことがあつた。
或歌自慢の人が、眞間にたづねて來て、私に歌をな見てくれといつた。私はまあ散歩でもしてみようと、一緒に外につれ出したものだ。その人は途々何かしらしやべくつてゐたやうたが、私は夕方の空や、田圃の景色にばかり眺め入つてゐたのである。
まだ赤い夕燒が西の空には殘つてゐた。眞間の小川の土手の上を歩いてゐると、ふとその人がしやがんで小石を拾つた。何をするのかと見ると、何といふ可憐な繪模樣だつたらう、私は思はず立ちどまつてしまつた。
そこには鮮かなの葉の河楊が水の面に揺れてゐた。その撓んで揺れ動いてゐる一つの枝には、まだ小さな燕の子が一羽とまつてゐた。また一羽來た。枝はいよいよ搖れる。枝の先は水へついて、波を立ててゐる。燕の子たちは、紅い頬を揃へて、さもさも恐しさうに啼きたてる。また一羽とまると、枝はいよいよ揺れだした。ともすると、すべり落ちさうになるので、今は必死になつてすがりついてゐる。その艶々した黑い裂羽、いたいけな啼聲。それだけでもかはいのに、また一羽羽ばたいて、つい近くまでやつて來るが、枝の上の燕の子はそれを見て、あわてて、いけないいけないと啼く。これ以上とまつては、枝がすつかり水につかつてしまふのである。空の一羽はとまるにはとまられず、寂しさうに啼きながら翔つては近寄り、近寄つてはまた翔りだす。
その燕に向つて小石を投げたのである。
私ははつとしたが、それでも默つてゐた。寂しい氣持でほゝゑみながら、私はまた何氣なく歩みを續けた。さうして或所までその人を送つて行つてから、「さやうなら、またお出でなさい。」と別れの握手をした。それで歌はとうとう見ずじまひである。見なくとも、もうどれだけの歌かわかつてしまつたのである。無論どれだけの歌を作る人かもわかつゐる。
なぜか。
それは、その一事で、その人の人柄がまだ出來てゐないといふことが、はつきりと私にはわかつてしまつたからである。心が出來なければ歌は出來ない。 (洗心雜話)
〔蔵書目録注〕
上の写真と文は、昭和十三年十二月十日発行の雑誌『北京近代科学図書館館刊』 第五号 開館二周年記念号 の 対譯之頁 に掲載されたものである。(この雑誌は、表紙は第四号まで「館刊」、第五号から「館栞」となっている。)
『洗心雜話』は、大正十年七月にアルスより発行された書籍で、大正六年十一月から七年十月に短歌雑誌「珊瑚礁」に書いたものを集めたものであるという。
なお、上の文の「歌ごゝろ」という標題は、『洗心雜話』では見当たらず、また、漢字を平假名にしたり、片假名を平假名にしたりと、一部の表記方法も変えている。
故郷 FURUSATO
創刊號
ふるさと
佐佐木信綱
幾萬 いくよろづ やまと言葉ありそが中になつかしきかも「ふるさと」と云 ふ は
ふるさとは三重のあがたの伊勢の國神路山淨 きよ く海淸き國
すぐれ人 びと 生 あ れ出でし國ぞ今の代に次の代にはたすぐれ人 びと いでよ
なつかしきわがふるさとは鈴鹿嶺 ね をはろかに仰ぐ石藥師のさと
なつかしも萬葉人 まんえふびと の歌に入りし山邊 やまのべ の御井 みゐ に近きふるさと
随筆
新た世のあけぼの
佐佐木信綱
明治の初め、宮中の歌御會始に、國民の詠進を御嘉納になり、ことに十二年からは、その中のすぐれた作を、預選歌として御式に披講せしめられた。
萬葉集には、應詔歌とて、仰言を承つて、少數の歌人、官人の献げまつつた作があるが、廣く國民の心の聲を御聽きになる慣例は、明治の御代に開かれたのであつた。爾來約七十年、年ごとに詠進の數を增し、うるはしい新年の行事となつたのである。
今茲 ことし 昭和二十二年の詠進歌の選者として、元御歌所寄人の千葉胤明氏、同鳥野幸次氏と、新たに民間より齋藤茂吉氏、窪田空穂氏、及び佐佐木信綱の五名が命ぜらるることとなつた。
千葉、齋藤の二氏は、未だ地方に疎開中であるので、窪田、鳥野の二氏と自分とが、宮内省に參上した日、表拝謁の間に於いて、
兩陛下に謁を賜はる光榮に浴した。三人が數分間づつそれぞれ言上するところを聞き召された後、「歌道をとほして、皇室と國民との結びつきに就いて、一層努力するやうに」
とのありがたい御言葉を賜はつた。
これは、全國の歌を詠ずるすべて人々のに賜はつた御言葉と、深く感激して承つたことであつた。
かくも深く歌の道に寄せさせ給ふ大御心に應へ奉つて、全歌壇の人々のいやが上の精進を待望する次第である。
萬葉集の歌に、「新た世」といふ詞がある。今や、日本國憲法も制定せられ、我等はまさしく新た世のあけぼのに立たうとしてをるのであつて、「あけぼの」といふ御題を御示しになつたことは、まことに意義の深いことを覺える。新たなる世のために、新たなる歌のために、重ねて、全歌壇の人々の精進を待望する次第である。
〔蔵書目録注〕
上の文は、昭和二十二年三月一日発行の雑誌 『故郷』 創刊号 第一卷 第一號 アサギ書房 に掲載されたものである。
日本畫の精髓とその傳統
竹内栖鳳
『凡そ筆を下 おろ すには、當 まさ に氣を以て主と爲すべし 氣到れば便 すなは ち力到りて筆を下すに便ち筆中に物あるが若し。所謂筆を下して神ありといふ者は此なり』
と古人もいって居るが如く筆墨は全く氣合 きあひ のもので、之を説明することは至難なことではあるが、先づ日本畫に於ける筆墨の發達に就て述べて見よう。日本畫に於ける筆墨は千二三百年來支那から繼承し來ったものである。而して其の發達を述ぶるに當って、順序として先づ日本畫を形式の上より類別して見やう。卽ち第一は色彩を主としたるもの、第二は筆墨を骨子としたるもの、第三は之等兩者を調和したるものと三種に大別する事が出來る。此内の筆墨を骨子としたるものといふのが、私の述べんとする所の題目である。裝飾的方面より古代の佛畫の如き、或は又藤原時代の繪卷物を見る時は其の信仰の對象として、瑤珞 えうらく 其の他に莊嚴されたる端嚴 たんごん なる佛畫、異常なる敏感さを示したる繪卷物の如き、西洋畫にも其の類を見ぬ程の精神的發達を見せたものがある。又描線と色彩との關係より之を見れば、強き線に對しては強烈なる色彩を、弱き線に對しては弱き色彩を施して、其の間離す事の出來ぬ調和を保って居ることが了解されるであらう。之等の事も日本畫の發達の跡をたどって行くには重要な事ではあるが、今は之等を除外して、專ら筆墨が如何にして日本人に感じられ如何にして、其の生命を保って來たかといふ問題に對して答へて見やうと思ふ。
吾々の幼かりし頃は、繪を學ぶといふことは、筆墨の用法を學ぶといふ事以外の何物でもなかったといへる。卽ち先づ運筆を學び、次に模寫を事としたものである。斯くすること實に三年に餘るのが常であった。であるから、當時畫學生の
念頭を離れない問題は
如何にせば筆がよくたつかといふことであって、從って筆を選ぶといふ事にも亦相當に苦心したものである。さて此の筆は如何なるものか。曾て私は今より二十年前歐洲に遊びたる途次、伯林の美術工藝學校を參觀し、敎授等と意見の交換を爲したる後、日本畫の描法に就き、牛の繪を尻の方より筆をつけて描く事により、説明を試みた事があったが、ー之等の事より同校と京都の繪畫專門學校との成績品の交換を行ふた事であるー敎授等の第一の質問は筆は如何にして出來たものであるか、又價は何程 いくら かといふのであった。敎授等は筆の中に何等かの仕掛があるものとのみ信じて居るかの樣であった事を記憶して居る。古人の所謂『筆中に物あり』といふ事は筆に氣を籠めて千鈞の力と爲す處に着眼したもので、筆に籠った筆者の氣の走るがまゝに、神羅萬象が筆端に躍り出すの謂 いひ である。此の事に就いては私は敎授等に多少の刺戟を與へた事を信じて居る。然らば如何なる順序で以て筆を執るかといふに、一言にして之をいへば、決心である。此の點よりすれば、初め繪を學ぶに當ってとる所の懸腕直筆といふ事に、大なる意義の有するものなる事が了解出來る。充滿したる心力の、油然として湧き來る所、人間の精神は大なる力となって生動し、此の力は筆端より湧いて、木に躍り石に躍り絹楮 けんちょ の間に迸 ほとばし るのである。其處で私は次に筆の日本畫に於ける發達の順序をたどって見やう。
古い日本畫を見れば、其の描線は割合に單純であって、正々たる心境の表現に適して居る。此の時代の繪畫は
殆んど總てが宗教畫で
あって、信仰に充ち充ちた、正々たる表現である、實物に見る如き衣紋の組織凹凸とは、自 おのづか ら異なる感じを與へる。佛像の表現は彫刻に重きを置いたものであるが、又線を主とした毛彫の如きものがあって、當時の繪畫には之等の線と立體の佛像の線及び六朝より隋にかけての彫刻の中に見る衣紋の組織に見る線の樣式が明かに現れて居るのを見出す事が出來る。
太細なき同大の線を均等的間隔に重ねかけて描ける如きー法隆寺壁畫其他ー見る物をして正々の感を與ふるもので、どこまでも眞面目なる調子を以て終止して居る。時代が少し下って來ると、細きながらの線に、其の線との間の間隔に廣狹を生じて來て居る。之が、寫實に近よる始めであらう。又黄 くわう 不動或は之に類するものゝ如き氣魄を要し、力の表現を第一とする佛像にあっては、力強き一本の大小のなき線により、感念の正直さを結晶せしめたる線によって之を表現して居る。黄不動は之によって、始めて生々の力を得て居るが如くである。日本畫の線が、心力を本とせる事は、之に依って窺 うかゞ ひ知る事が出來る。
奈良朝より藤原時代にかけては唐の佛像に於ける寫實の影響であらうが、日本畫は次第に寫實的の傾向をたどるに至り、其の線も廣狹均等等を用ひ
追々柔かな時代精神を
表現するに至って居る。かくて筆墨の發達に第二期を劃する事となるのであるが、佛畫を離れたものに、線の抑揚、太細等の新しき表現形式が、繪卷物を舞臺として、現れて來るのである。鎌倉時代初期伴大納言の應天門の火事の繪、其の他志貴山緣起、鳥羽僧正の獸戲卷の如きは、筆の氣勢を以て物の體勢を貌 えが くといふ、新機軸を出すに至って居るのである。
伴大納言は最も此の表現に長じ、當時の風俗、人情恰も眼前に見るが如くである。殊に子供の喧嘩せる繪に於いて、髪の毛のむしり合 あひ などせる所の如きは、氣合と線と渾然として融合一致して居るのを見るのである。一方之に反して、靜かなる殆ど消えんばかりの線を以て描けるものがある。淸盛の嚴島に納めたる經卷の見返しの繪の如き、其の好例であって、平家時代の優美でありながら、又一味の哀愁を帶びたる如き、どうしても、其の時代の反映と見なければならぬものである。此の外源氏繪の引目鈎鼻の如く、眠るが如く憂ふるが如き繪は、それが色彩の繪なるに拘らず、全く其の細い線の效果を無視することは出來ぬ。
又藤原時代のあしで繪ー純粹の繪ではないけれどもーなども、流麗
優美な時代精神の反映
と見るべきものであらう。其の他又所謂惠信僧都の来迎佛の類の繪なども、かういふ調子のものがある。
さて線は如何なるものをよしとすべきか。私は心持の透達といふことに、其の歸結を置かふと思ふ。ー樹石は本定形なく、筆を落して便ち定まる。形勢豈に窮相あらんや、觸るれば則ち窮まり無し、態は意に隨ひて變じ、意は觸るゝを成り、宛轉關生遂に妙趣に琫 いた る。意は筆先に在り、趣は筆を以て傳ふれば、則ち筆は乃ち畫を作る骨幹なりーと古人もいって居る。澁滯躊躇は禁物であって、筆に籠った筆者の氣の走るがまゝに、樹 き も出來、石も出來るのである。冬枯 ふゆがれ の柳の枝、梅の古木等を凝視すれば、此の間の消息自 おのづか ら釋然たるものがあらう。次に私は墨にいて述べよう。卽ち墨が筆に加はることになるのである。歷史の順序はおきて、墨は如何なるものかといふ事より述べて行かう。墨に死活あり、濃淡あり、墨色とは卽ち濃淡の事であって筆と同じく心持の表現より來るものである。墨を最もよく現したものは支那の米元章に始まる米點山水である。潤ふた墨を以て、山を描き、雲煙を表す。巧妙なる墨の働きであって、唯
一色を以て萬象の色を
象徴する、卽ち墨は色、色は墨といふべきである。筆を氣合のものとすれば、墨は情合のものとも見るべきか、日本畫は此の墨が這入ってから、線にも柔か味を添へ、筆に圓味 まるみ を帶び來ったものである。支那の梁楷の繪の如きは、氣合を主としたる繪であって、又牧渓の繪は、雄勁の内而も慈潤の氣を有して居る。
日本では兆殿可 てうでんす 、可翁、相阿彌 そうあみ 、蛇足、永徳、元信、山樂、雪舟等相前後して出て居るが、之等は卽ち牧渓、梁楷等の面目を傳ふるものであって、簡單に其の特長を述ぶれば、蛇足は臨濟と徳山との禪問答の繪に見る如き氣合の充實に其風貌を窺ふべく、相阿彌は墨を以て牧渓の響 ひびき を傳へ、元信は一筆々々釘そ打ち込むが如き線に、氣合の充實を企圖し山樂、永徳は豊臣時代の豪華なる氣分を、緃横淋漓の筆に傳へて居る。雪舟の繪は元信程の堅さはない、其處に筆墨の呼吸を活用して、自然の趣 おもむき を躍動せしむ。私は雪舟に筆墨の本來面目を見得るが如くに思ふ。破墨山水といふのは、專ら雪舟より來れるものであって、
筆と墨と渾然融和した
ものゝ例である。割りたる筆に筆者の精神をやって、山水を表現するのである。水墨山水は簡約されたる純粹なる心力の充滿を、山水に表現するもので、之に淡墨を用ふる。從って墨の死活濃淡の調子が第一となる。雪舟のそれと多少趣は異るも、相阿彌等を行ふた所のものである。探幽は雪舟、蛇足、相阿彌等を取入れて、之を生かした人であって彼の偉大なるは此の點にある。時代は少し下るが、光琳の繪は色彩を主としたものであって、筆墨とは緣の薄きものなるかの如くであるが、始め常信に學び、其の傳統を生かして、彼の藝術を大成したもので、彎曲ある流麗なる線も、實に必然的效果を持って居る。俗に光琳の水と稱する模樣化したる線の如きも、彼獨特の線の力に生きて居る。一見槪括的の如くにして、而も自然の核心に觸れたる所、彼の偉大は此處にある。又浮世繪に於ても、初期の師宣、長春には明かに其線に傳統の影がある、懐月堂の遊女の衣紋の線の如きは、太き活達なる線を以てして、而も柔かなる女の姿態を巧に生かして居る如き、線は
心持一つで如何樣にも
表現し得る事を證するものである。光琳の後應擧出て寫實畫風を興し、それより文晁でて南北合宗といふ如き畫風を興して居る。而して大雅、蕪村は、南宗系の畫家といふべく、此の南宗系には自らの心境を畫面に表す事を主としたものである。中にあって蕪村は大雅に比し自然の觀察に重きを置いたかの觀がある。
大雅、蕪村の繪は之を敍するに、口や文章で以ては十分に傳へることが出來ぬ。其の腕中に天地生物の光景を具有するが如く、洋々灑々、其の出づるや、滯るなく、心手筆墨の間靈機妙緒湊 あつ まって之を發するの槪がある。將來の日本畫の進むべき道も、或はこゝにあるのではなからうか。此の問題に就ては、しばらく考察を他日にゆづる。四條家の呉春は、柔かなる筆を用ひて描く。されば其の線には水氣ありて、筆の枯れたる所はない。未だいふべきことの多くがあるが、今は之を他日にゆづるの外はない。
只最後に私は次の事を言ひたい。それは傳統といふことであるが、最近私は支那に遊んで、此の傳統といふ事に就き、之は頗る大切なる事の如くに考へた事である。傳統は人によってのみ傳はるが如くであるが、實は地の底に深く嚴存して居るかに思はれる。
國家は亡びても傳統は
亡びざるものではなからうか。吾々はどうしても傳統を基礎として、其の上に他の長所を持ち來すことにより、傳統の光を明かにしつゝ進むのが、其の進むべき道ではなからうか。日本は國威が發揚されて、而も却て傳統が亡びんとするが如くで、現在の支那は之に反し國亡びて傳統が光を增しつゝあるが如くに思はれる。元より筆墨は表現の一方法であるけれども、日本畫家の現在に於ては、此の傳統を無視する事は出來ないだらうと私は信じて居る。その時代を通じて傳統を生かすといふことが賢明なる事ではあるまいか。
上の文は、大正十年三月一日発行の雑誌 『繪畫淸談』 第九卷 三月號 に掲載されたものである。
再び支那に遊びて
竹内栖鳳
蘇州は昨年平亂の爲め見る事を得なかった爲め本年悠っくり見物したが支那は至る處吾々に取っては好個の畫題である。殊に一等面白く愉快に感じられたのは何千年の永い年月を經た風物の廢頽せる色其物であって全く自然の色に歸したかの樣に美しい人工を加へない人物も山河も渾然とした畫題は色鉛筆を以てして見たがトウゝ完全に寫し取る事が出來なかった。是迄自分は支那畫も隨分澤山描 か いたが百聞は一見に如かずで今度二囘の巡遊に依って大 おほい に得る處があり之に依って新生面を開きたいものだと思ってゐる。蘇州では虎丘と云ふ處に行ったが爰 こゝ は昔千人斬って埋た處が忽ち白虎になって現はれたと云ふ傳説とからんで面白い景色の好い處であった。北京では昔の宮殿の一ツを美術陳列所に宛 あ て他の一ツを美術工藝館として名畫を収め一年一囘節句に見せる事になって居るが丁度節句の日であったから見る事を得たが何樣傍 かたはら に守衞が附添ふて嚴重に監視して居るので落款等も寫す事も出來ぬ位であったが能 よ く見ると殆ど僞物計りで眞物 ほんもの は例へば一斗の水の中の二三滴が保存されて居る位なもので保存が不十分の爲め殆んどスリ換られて仕舞って居て見るべき價値はない。古名畫も今では散逸して纏まって居ない富豪の邸宅にも保存されて居るものが甚だ尠 すくな いとの事である今日では古名畫を見るよりも外部に出れば何千年を經過して居る自然の名畫が至る處に展開され居るのでそれを見る方が餘程面白く愉快である。(談)
上の文は、大正十年八月一日發行の雜誌 『繪畫淸談』 第九卷 八月號 に掲載されたものである。
昭和四年十二月狂言
繪本筋書
丸の内 帝國劇場
昭和四年十二月興行
一日初日毎夕五時開演
菊池寛原作
第一 東京行進曲 三幕十九場
山脇嚴舞臺裝置
西條八十作詞 中山晋平作曲 「東京行進曲」演奏
女子洋樂部員
高田保編案
第二 西遊記 三幕十八場
鳥居言人舞臺裝置
女子洋樂部員
菊池寛原作
東京行進曲 三幕十九場
山脇嚴舞臺裝置
西條八十作詞 中山晋平作曲 「東京行進曲」演奏
女子洋樂部員
杵屋寒玉社中
第一幕 第一場 藤本家の庭園
當家の令息良樹 よしき 、妹の早百合、なつ子及び良樹の友松並敏男は秋の日を浴びてテニスを遊ぶ内、ボールは高く外 そ れ金網を越して、崖下の長屋の方へ‥‥‥。
球 ボール の行衞を尋ねて金網へ寄った敏男は計らずも直ぐ目の下の穢 きたな い家の中に、花を欺く計りの娘を見出して有頂天になります。
羞かしさに頬を染めながらも熱心に球を投げ返す娘。何心なくフと覗き見した良樹の胸には、その娘の純眞さが深くゝ刻みつけられて了 しま ひました。
同 おなじく 第二場 ホテル舞踏場の一部
早百合の美しさ、讃美せぬ人とてなく、小説家島津稔、敏男の兄松並信男、安田健吉、などは彼女を廻る大の讃美者でした。
最近獨逸から歸朝したピアニスト山野秀夫は、今宵始めて早百合を、島津達から紹介されました。
生來の美貌と、天才的の藝術とで、今迄幾多の女性を惱まして來た山野秀夫は、如何なる女性でも雜作なく我が掌中に握り得ると深い自信を持って居りました。
早百合を、物語中のお姫樣とし、飽迄も女性を神聖視する島津達と、反對に何れの女性をも娼婦視する山野とは、早百合の去った後、計らずも云ひ爭ひとなり、遂に山野は三ヶ月の内に早百合を必ず自分のものにして見せると誓ふに至り、成れば島津は筆を捨て、成らずは山野生涯ピアノの前に立たぬとさへ約して了ひました。
同 第三場 崖下の家
僅か九歳にして母を失ひ、それからは伯父の手許に引取られて今日に至り、印刷工女を勤めて伯父の家計を援けてゐた可憐な娘道代。伯父の失職から困窮は其の極に達しましたのを見兼ね、亡き母に深い緣故のある新橋から藝者となって出る決心をし、義理堅い伯父夫婦をヤット説き伏せて、漸くその交渉に行って貰ふ事になりました。
同じ工女を働いてゐた澄江は、これも家計を助ける爲めに銀座のカフェーに女給 ウエイトレス を勤めることになり、仲良しの道代を訪ねて來ました。二人は互に境遇を語り合ひ、飽迄も身の神聖を守らうと、健気にも手をとり合って堅く誓ひます。
あとへ訪れた新橋稻の家の女將。話はスラゝと運んで、道代はいよゝ新橋から左褄 ひだりづま をとることゝはなりました。
伯父一家を救ひ得た道代、感謝に滿ちた伯父夫婦、互ひによゝと泣き崩れるのみ。
第一幕 第四場 銀座の夜
大學に籍を置いて居ながら、遊んで歩いて計り居る松並敏男。今宵も惡友と、この銀座を歩いてゐます。
同 第五場 壽福の座敷
新橋の花柳界で飛ぶ鳥を落す勢ひのふーさんと呼ばれる實業家。先日來現れた折枝と云ふ美しい藝者を得やうと、女將にも云ひ含めて待ってゐますと、やがて折枝が參りました。この折枝こそ、崖下の娘道代の變る姿です。ふーさんは折枝にいろゝ好意を示し、大きなダイヤを與へて意に從はせやうとしますが、純眞な折枝は一向に從ふ氣色もみせません。ふーさんに抱き辣 すく められて、折枝は爭ふ機 はづ みに、最も大切にして居た亡き母が形見の指輪を抜け落したとも知らず、夢中で此處を逃げ去ります。
あとに、これを拾ひ見たふーさんは倒れん計りの愕き、この指輪こそ甞て自分が愛した綾香と云ふ藝者に與へた物に相違ありませんでした。我が子を宿したと知り乍ら捨てた綾香ー折枝こそ正 まさ しくその綾香の子旣 すなは ち自分の娘だったのです。
惡夢から醒めたふーさんは、女將を呼んで其れとなく事情を打明け、折枝の借金を濟ませ、淸浄な彼女の後見を賴みます。
第二幕 第一場 カフェーイーグル
澄江は此店に瑠璃子と名乗って人氣者になって居ります。
會社の先輩達によって藤本良樹の入社歡迎會が築地の錦水で開かれ、その席で偶然折枝を見た良樹と其の親友佐久間雄吉、歸途二人は別々の氣もちを抱いて此店へ寄りました。初めて見た美しい折枝の淸浄さに佐久間は妻に迎へてもと迄思ひ込みました
よもや崖下の娘が藝者となって我が眼の前に現れやうとは夢にも思はなかった良樹は「藝妓 げいしゃ なんか大嫌ひだ」と明言した手前今更自分の思ひを佐久間に打明ける事も出來なくなって悶々とするのみでした。
佐久間は心の悦びを包も得ず、再び折枝を呼んで逢ってみたいと、良樹に別れて出て行って了ひました。
良樹の邸 やしき 近くに住む瑠璃子は、かねて良樹を見知って居りました。偶々道代の話が出ます。良樹の心は急に明るくなって瑠璃子から種々 いろゝ 道代の事を詳しく聞き得ました
良樹の歸った後、山野秀夫に伴はれた早百合となつ子が入って來ます。それを他のテーブルから見た島津や安田、松並等は、アッと膽 きも を冷しました。愈々山野の惡の誓ひが成就したのではないかと氣が氣ではありませんでしたが、早百合達は買物の途 みち 、つい其處で山野に出會った丈けの事と分って、一同はホッとします。
同 第二場 上野地下鐵の入口
公衆電話を掛ける人々。女も男も戀の囁きー「わたしは地下鐵、貴方はバスで」と淺草での忍び逢ひを約してゐます。
イーグルの瑠璃子を誘って巧みに斷られた例の敏男。今度は他のカフェーに電話をかけて、次の候補者を誘ってゐます。
第二幕 第三場 藤本家の招宴
良樹は會社の先輩達を招いて晩餐を共にしました。早百合は今宵の招待客の内、佐久間の男性的な強さに心を牽かれてゆくのを感じました。今迄彼女に接する男の總てが追從だらけで嫌いでしたが、佐久間の飾り氣無い、かへって自分を邪慳に取扱ふ如き態度が、不思議にも早百合の心を強く捉へてゆくのでした。
同 第四場 木挽町邊の或る街路
胸に深く刻みつけられた崖下の娘ー新橋の折枝を何うして思ひ諦められませう。良樹は親友佐久間を、おそろしい競争相手として、あれから幾度か、密かに料亭の門を潜るのでした。
同 第五場 銀水の座敷
良樹が心を盡しての贈り物の簪ーー。
それを、また心から悦んで早速髪に挿す折枝ーー。良樹は折枝の美しい姿を眺めてつくゞ幸福を感じるのでした。
同 第六場 春川の座敷
眞面目な心を以て折枝を戀ひ慕ふ佐久間は、彼女の姿を見る迄は全く氣も落ちつきません。漸く折枝が入って來ますと、佐久間は嬉々として迎へます。先日約束した帶止めの贈り物、折枝の喜ぶ姿を見つめる内、ふと目についた簪?それは慥 たしか に今日、自分が此の帶止めを買った折一緒に居た友人の良樹が妹の爲めにと云って購 か った品に相違ありませんでした。晴天の霹靂!親友に裏切られうとは‥‥‥。佐久間は非常な愕きと腹立たしさで、席を蹴って立上りました。
同 第七場 丸ビルの廊下
互ひに蒼さめて立つ佐久間と良樹。
佐久間の詰問も尤もでしたが、良樹は佐久間より以前から彼女を戀してゐたのだと知れてはモウ良樹をせめる事も出來ません
折枝を慕ふ親友同志。二人は止むなく、何 どち 方かゞ彼女を得る迄、當分の絶交をしやうと誓ひます。
第三幕 第一場 藤本家の居間
良樹は心の中を父に訴へて、折枝との結婚を願ひ出ました。父は折枝と聞いて卒倒しさうに驚きます。良樹の父は、彼の有名なふーさんだったからです。有らう事か、現在の息 むすこ が、知らずして肉親の妹を戀し結婚せうとは‥‥‥父は良心を鞭うたれて苦悶の叫びをあげます。
理由を云はず、その結婚を拒絶する父。しかし戀に熱する良樹が、いつかな承知する筈もなく、父の許諾 ゆるし がなければ家を出 い でても折枝と一緒になると云ひ張ります。
流石の父も今は詮方なく、深く心に密 ひそ めて居た折枝の事を、總て良樹の前に告白し己れの不品行が、我が子を苦しめた事を謝罪します。
全く意外な父の言 ことば 。良樹は、ガーンと何物かに衝 つ かれたやうに立ち上がりました。が漸く我れに返った良樹、戀にくらむ妄執も今は全く拭ひ去られ、戀人折枝に代る妹道代の兄弟愛!
良樹は、可憐な妹道代を我が家へ引取ることを、父に力説します。
第三幕 第二場 早百合の電話
その後、早百合は佐久間を思ふ念罷 や まず折々佐久間に電話をかけ、手紙を出して居りました。佐久間も早百合の怜悧で、しかも明るい性質に不識々々 しらずゝゞ 牽かれてゆくのを何うする事も出來ませんでした。
同 第三場 丸ビルの角
良樹の歸途を追って來た佐久間は和解を申し込みます。佐久間は絶交以來、折枝に再三結婚を迫りましたが、義理に挾まった折枝からこれを拒絶されたのでした。
良樹も、彼女が自分の妹と分った今日どうにか佐久間との緣談を纏めてやりたいと思ひましたが、未だこの秘密を口にする時期に至らず、心苦しくも默って和解の握手を致します。
同 第四場 新宿の夜
敏男は、カフェー、シャノアールのペチ子を連れ出して遊び廻ってゐます。と一方からピアニストの山野、他の一方から毛皮のコートに深く身を包んだ早百合とが出てパッタリ出合った樣子。敏男は苦手の早百合に見られては大變と一散に逃げ出します。
山野は、此處で早百合に逢へたのを幸ひ頻りに早百合の心を動かさうと努めますが早百合は一向にその言 ことば を受け入れるらしくも見えません。
約束の六時。佐久間が其處へやって來ましたので、早百合はその腕に抱 いだ かれて彼方へと‥‥‥。甘き囁きを交 かは しながら‥‥‥。
同 第五場 イーグルの一部
佐久間と良樹。
「僕の妹を貰って呉れないか」と云ふ良樹「是非貰ひたいと思って居た折だ」と非常に喜んで返事する佐久間。
良樹のつもりでは折枝を、佐久間の望みでは早百合を、だったのです。良樹の希望は足元か覆へされたのでした。勿論、佐久間が早百合を愛するこ事など全然知らなかったので、斯うした返事を聞かうとは思ひも及ばなかった良樹は「さうかー」と云った切り、今更妹道代の話を持出すことも出來なくなりました。
同じ妹早百合の幸福の爲めにも‥‥‥
同 第六場 藤本家
道代を我が家へ引取る日。良樹は今日初めて早百合、なつ子に、道代の存在を知らせました。父の不品行から、亡き母の悲慘な生涯を知る早百合は、此の未知の妹は卽ち母の敵 かたき だとて、甚だ心よく思ひません。
やがて道代が到着しました。丁度、來合せてゐた早百合の婚約者佐久間は、良樹から妹として道代を紹介されます。何等事情を知らなかった佐久間の驚愕‥‥‥。
憎悪の眼で道代を見てゐた早百合も、云ひ知れぬ肉親の愛に牽かれ、遂には道代と手を取り合って語り合へる樣になりました。
近く社用を帶びて英國へ赴く筈の良樹は父の許しを乞ふて、不遇なりし妹道代を同行、彼地で新しく敎育をし直して、將來の幸福を計ってやることになります。
同 第七場 東京行進曲獨唱
少女の唄ふ‥‥‥『東京行進曲』
御観劇の栞
一十二月の卷ー
『東京行進曲』の上演
『東京行進曲』の名を口にしない人は今日ないと云って好い位の人氣、大東京を背景として描き出される近代戀愛に於ける葛藤の種々相を多種多樣に取り扱った菊池寛氏が最近の力作でございます。同氏の御好意に依って爰 ここ に劇化上演することのが出來ましたのは寔 まこと に萬人の期待されるところと存じます。尚、西條八十氏の作詞、中山晋平氏作曲に成る『東京行進曲』もまた兩氏の御好意に依って第三幕第七場で舞臺に獨唱されることゝなりました。
『東京行進曲』の歌詞
作詞 西條八十氏
作曲 中山晋平氏
〔省略〕
女子洋樂部
第一ヴァイオリン 場崎千代野
江口絹枝
七原梅子
馬越久子
第二ヴァイオリン 福谷カヅヨ
山口直子
ヴィオラ 篠島富貴
加藤常磐
ヴィオロンセロ 中島すゞ子
門馬榮
大塚千枝
コントラバス 土田峰子
フリュート 桑原りさ
ピッコロ・フリュート 高田オトエ
オーボー 山田きく
クラリネット 八鍬文子
トロンペット 岡本光子
トロンボーン 柏倉ひで
吉川八重子
打樂器 鎌田トモ子
和田トク子
〇
音樂指揮 山崎榮次郎
篠原慶心
當興行御觀劇料(税共)
◇一、二階席(白券) 御一名 金三圓五十錢
◇同 (靑券) 御一名 金三圓
◇三階席 御一名 金七十錢
外一切御不要
昭和四年十二月一日發行
なお、上の右の写真は、「ビクターハーモニカ樂譜No.12」で、昭和四年五月三日發行 昭和四年六月十五日 第十三版發行、装幀は齋藤佳三である。
文苑
藤村操君を想ふ
友藤村操氏を悼む 二、二、二 田邊尚雄
藤村君を弔ふの歌十首 荒井恒雄
藤村操君を想ふ 一、一、二 松濤生
藤村操君を弔す 見定二郎
藤村操君を憶ふ 安倍能成
嗚呼亡友藤村操君 一、一、二 藤原正
嗚呼亡友藤村操君
一、一、二、 藤原正
嗚呼操君、操君、筆を執りて紙に臨む、血涙潜然として言の何れより出すべきかを知らず、唯僞なき衷情を吐露して聊か君が靈に致さんと欲す。
本月二十一日君校に來らず、予も亦多く意に介せざりき、超えて二十二日また來らず、予甚だこれを怪みぬ午前十時高頭氏の來訪によりて、始めて君が昨日より不在なるを知り、大に驚き、直ちに馳せて、君が宅を訪ふも其狀を詳にするを得ず、午後再び訪ふや、君が遺書を發見して驚きたる君の親戚が、思慮慘憺、力を盡して君を尋ねしも一も其効なく、手を束ねて其方策に惑ひしの時なりき、翌朝匇々復た訪はんと欲して途に令弟朗君に遭ひ、二十一日夜日光發の君が書狀の昨夜到來して華嚴の瀧に投ぜられんとすとの報を知り驚駭通嘆、馳せて君が書狀を見るに
不幸の罪は御情けの涙に御流し被下度候十八年の御恩愛決して決しておろそかには存じ候はねどもこらへかねたる胸のなやみあゝ只死する外に致方無之候何事も因果と御諦め被下度候憂世はすべて涙にて候ものぞ
明治三十六年五月二十一日夜
操
母上樣
今夜此旅宿にとまり明日午前華嚴の瀧に投ずる覺悟に御座候父上への御土産として先月寫し候母子五人の寫眞一葉懐中いたし居候、
三人へ何卒宜しく御願申候
机の右の引出し打ち壊し御覧被下度候、
表記には
二十一日夜認む
下野國日光
小西旅店方
藤村操
と、あゝ君よ、此を讀みたる予が悲愁輾轉、傷心斷腸の如何なりしかは、今更らこゝに云ふの要なかるべし唯天の霊光長しなへに君が上にありて、願くは御身の恙がなからむことを祈りしのみ、今朝既に那珂、高頭兩氏の日光に出發せられしを聞き、かよはきながらも、此に一縷の望を繋いて辭して寮に歸るや、机上に日光發の君が書狀のあるを見、わなゝく手に漸く披きてこれを讀めば
宇宙の原本義、人生の第一義、不肖の僕には到底解きえぬ事と斷念め候程に敗軍の戰士本陣に退かんずるにて候
と、嗚呼君よ、予は唯天を仰いで『あゝ』と叫びぬ、予は唯仆れたる儘にして何をなすべきかを知らざりき、予は予を失ひしなりき、
午後六時、途を轉じて君を尋ねんと欲し、渡邊氏と共に上野より汽車に乗じて、十時半桐生に著し、日夜兼行して渡良瀬河畔を淅り、日暮足尾に至り、東京よりの飛電に接して、始めて君が既に全く此世の人にあらざるを知りぬ、嗚呼これ夢か、夢に非るか、冀くは夢なれかし、嗚呼君眞に逝きたるか、長しなへに此世のものに非るか、一瞬時前、袖を連ねて談笑を共にせし我半身の友は今や幽明界を隔てゝ、其消息の通ずべきなきか、
“Oh. time, thow art shamebul. ”
此夜寢に就くも、懐中にせる君が寫眞を凝視して、感慨旁午、血涙交々流れて終宵遂に眠る能はざりき。
翌二十五日星を戴て足尾を出て、馳せて中禅寺に至り、直ちに華嚴の瀧壺に降り飛瀑天上より落ちて自然の洗禮聖なる所、君が永遠の墳墓を拝し、泡沫飛雨の間に親しく熱涙を濺いで香華に易へ、那珂氏の一行に會して實情を詳かにし、嚴頭に至りて、君が遺物及び嚴頭の感を觀る、
嚴頭は瀧の絶頂、木は嚴頭を距る二間の所に樹てる楢の大樹、長さ一尺六七寸、幅七八寸の間を斫りて木を白げ墨痕太く書せるもの、即ち、これ君が最終最大の絶筆、巖頭之感なり
巖頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て
此大をはからむとす、ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチイーを價するものぞ、萬有の
眞相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」、
我この恨を懐て煩悶遂に死を決するに至る、
既に嚴頭に立つに及んで胸中何等の
不安あるなし、始めて知る大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを、
と筆路雄渾墨色漆の如く、字々天來の意気を帶び、句々神秘の相を含む、嗚呼君よ、予は此の絶大高調の文字を讀みて、泣を飲み、膺を拊て、一唱三歎、樹を擁して去ること能はざりき、僅々一百四十有三字、簡勁痛切、一字の增減すべきなく、而かも君の謂はんと欲する所も亦盡せりと覺ゆ、嗚呼これ人類の有する至大至高の聖音にあらずや、古今これに比すべきもの、釋尊の雪山林下の聲なる、
諸行無常、是生滅法、生滅々己、寂滅爲樂
を除きては、何所に其匹を見出し得べき、其終焉に臨むで從容自若、悠々迫らず、泰然動かざるもの天下果して幾人かある。
樹の傍には、地に樹てたる蝙蝠傘の外、大なる硯と墨と大きな唐筆と大なるナイフと風呂敷とハンケチと洋マッチ等あり、皆これ君が手澤の存する所にして遂に終焉の具たりしものなり、
巖頭に上りてこれを臨む、六十幾丈の大瀑足下に懸り、響轟々として九天にとゞろき、泡沫飛散、白波立つ瀧壺を眼下に瞰下し、岩に激し、石に躍れる下流をのぞみ、兩岸懸崖斫るが如く、新綠滴らむとして、殘んの櫻花なほ鮮なり、〔以下省略〕(〔省略〕明治三十六年六月三十日朝午前三時)
上の文は、明治三十六年六月十五日發行の 『校友會雑誌』 第百二十八號 非賣品 第一高等學校校友會 の 文苑 藤村操君を想ふ の六篇中の一篇である。
なお、上の写真は,左が古い絵葉書、中は御土産用のカードである。
〔絵葉書の説明〕 (日光)藤村操の自筆巖頭感 Autograph of Fujimura, Nikko.
〔カードのスタンプ〕 日光遊覧記念 大竹商店 SUVENIR OF VISIT TO NIKKO.
橋本雅邦君の平生
橋本雅邦君は、明治美術史の畵家傳中に中央首座を占むべき人。繪畵は君の生命也。繪畵に起き、繪畵に臥し、繪畵に食ひ、繪畵に樂み、繪畵以外復天地あることを知らざるものゝ如し。
君も若き頃は謠曲の嗜みなどありしが、今は其一節をも謠はず。高年七十又一にして、毎朝必ず四時に起き、嚴冬の日を除く外は、則ち先づ其本郷龍岡町の家を出で、朝風淸き不忍の池を一周し歸るを常とし、歸れば則ち冷水拂浴をなして朝膳に向ひ、食後は其儘畵室に入りて、以て夜の十時に及び、面接日と定めたる日曜日の午後の外は、人にも面せず、畵室をも出でず。十時に及び始めて畵室を出でゝ、藥湯に浴し、家人門生等と談笑しつゝ麥酒 びーる 一壜若くは一壜以上を傾け、斯くて一時間内外にして乃ち臥す。此くの如きもの、三百六旬日復變ることなき也。
勤勉此に至る、然らば君は日々如何に多くの畵作を出す乎と云ふに、五日一石、十日一水、沈思靜慮して休せず、興旺し相熟するに非ざれば、斷じて一筆一點をも下すことあるなき也。故に片々たる畵帖の一葉も君は必ず一日半日を費す。
美術院の谷中初音町に創立せられたる初なりき。君は毎日午前九時に正しく校堂に到り、午後二時には必ず歸り去り、其間生徒の質問あれば則ち之に答へたりと雖も、もと寡黙の人なるを以て、是非質問せざるべからざる事の外は、生徒も多く問ふ所あらず。從つて手持ち無沙汰の時多く、君は遂に君の爲に設けられたる一室に入りて、持來りたる依賴品等を畵き、生徒は日々其畵き成したる所を臨摹するを常としたりしが、午後其室に入りて之を摹せむとするに、往々前日摹し得たる所に果して何の加ふる所ありたる乎を發見するに苦みたりしと云ふ。嘗て畵きたる方尺許の絹地の如き、ただ極て單簡なる山水を畵き成したるに過ぎざれとも、之を成す爲め、日々此くの如くして實に一週日以上を要したりと聞く。君が如何に繪事に忠實なる乎は、此の一事を見ても之を知るべきにあらずや。
去れば君の繪畵には、如何なる小作片々のものと雖も、一畵には必ず一畵の特色あり、又一畵の精神ありて、精采躍如たる所を存するを常とす。從つて君の繪畵は、言ふまでもなく寫意派の繪畵也。寫實派の繪畵にはあらざる也。
君の令閨は君が未だ困厄の中に在りたる日に沒し、今の夫人は繼室にして、府下新宿村の人也。家を治むる儉素にして秩序あり。家務を處理し、多數の子女を育するに、一事の君を煩はすことあるなし。子女亦皆自治し、學校に行くにも、銘々自ら其辨當を作りて行く。是を以て、君は力を專らにして繪事に從ひ、旅行をなさず、散策を試みず。自ら謂ふ、繪事の中自から樂地あり、慰藉あり、何ぞ必ずしも惡歩惰遊して、以てかの益なき勞疲を買ふことを須ゐむやと。又曰く、身に微恙ある、繪畵に對すれば則ち癒ゆ、復た湯藥を要するなしと。
繪畵以外君は何等の嗜好を有せず。麥酒を飲み、鰻飯を食ふを嗜好と謂へば、則ち嗜好と謂ふべし。之を除けば別に嗜む所あるなき也。淡然自ら處し、他に求むる所あらず。其客室の如き、茶褐色の四壁、東久世竹亭伯書する所の「天機所動」四字の額、君が自ら意匠したる淡霞横抹旭日を吐かむとするすかし雕の欄間の外、往々依頼品に係る屛風を見るのみ。而して床には毎に必ず無落欵の軸を掲ぐ。是れ日夕之に對して其何人の作なる乎を鑒別せむが爲め也。世の一見筆者を判する鑒定家の如く匇卒なるものに非ず。
君の自ら奉ずるは然かく質素なりと雖も、其文房具に至りては則ち實に贅澤を極む。硯は必ず剡渓 たんけい を用ゐ、墨は鈴木梅仙をして特に之れを製らしめ、筆は神田の得應軒之を特製し、大小修短種々あり、君の繪畵中到底他人の模俲すべからざる筆跡あるは、則ち必ず其筆に特殊のものあるに由る。紙は則ち特製の雅邦紙あり。繪具は之を用ゆる他の畵家の如く多からざれども、亦同く工夫して新品若くは新使用法を出すこと少なからず。門人下山觀山、横山大觀、菱田春草諸子が、新着色法を用ゆるも、寧ろ君に傚ひて愈新意を出したるものなるなしとせず。
君はもと多く古畵を習ひて終に一流を成したりしもの其古畵を鑒識し、好否を判し、特色を識別するの力、實に鋭利明晰なるものあり。門人に教ゆる、亦古畵を臨摹するより始めしむ。而して自己の意思を以て、必ず其中の一部を變更せしむるを例とす。例へば鶴を摹するに仰ぎたるものを俯さしめ、瀧を摹するに右より落つるものを左より落ちしむるが如し。是れ甚だ容易なるが如くなれども、古人の意を用ゐたる所を知るに非ざれば、一部の變更は竟に全躰の釣合を失ふに至らむとす。古人用意の所を知る、殆どこれより善きはなき也。而して君は常に曰ふ、此くの如くにして初めてよく古人苦心の所を見るべしと。
上の写真「橋本雅邦君肖像」と文は、明治三十八年三月一日発行の雑誌 『新家庭』第一巻第四号 新家庭社 に掲載されたものである。