實施日記部
元吉✕
三營後隊
〔蔵書目録注〕
清末の新軍の「三營後隊」の教育日誌一年分と思われる。
表紙には、墨書で「實施日記部」「元吉✕」とあり、また「三營後隊」の印が押されている。
また、用紙には、「✕金秀印」とある。
なお、本ブログのカテゴリー「清国留日陸軍学生 教育」も参照されたい。
實施日記部
元吉✕
三營後隊
〔蔵書目録注〕
清末の新軍の「三營後隊」の教育日誌一年分と思われる。
表紙には、墨書で「實施日記部」「元吉✕」とあり、また「三營後隊」の印が押されている。
また、用紙には、「✕金秀印」とある。
なお、本ブログのカテゴリー「清国留日陸軍学生 教育」も参照されたい。
明季孤臣朱之璵撰
陽九述略 安南供役紀事 合刻
序
無代無興亡然亡也莫之或奪其興也莫之或與自我桀討自我湯武固亦無憾何也君我者黄帝子孫幸而賢則我疆我理託庇宇下頌揚仁風上而學士大夫抗心伊呂下而羣黎百姓託跡懐葛如天之福我父老子弟老死不見干戈固其所也不幸而不肖則草澤英雄乗時而起不惜一身爲民請命用敢提倡大義昭告於皇天后土聲罪致討以與獨夫抗雖曰率其子弟攻其父母有背綱常之大義而犠牲少數以活多數猶不失爲仁人之用心蓋得一人而國以興失一人而國以亡興也固樂亡亦何悲煌煌漢冑一二人之代謝而已無異族之陵虐也無神州之陸沈也無蠻夷猾夏盜竊神器之痛也無裂冠毀冕禽獸人類之憂也雖易姓改步而人心猶有所繋古之所謂應乎天而順乎人者如是焉耳若夫逆虜強胡入主中夏長蛇封豕薦食上邦此固普天之所同仇人神之所共憤亦曰驅之除之以還我一幅乾淨土而已何興廢之足云哉夫以暴易暴義士猶或非之矧以暴者之非我族類則又豈特非之而已耶鄭所南先生有言曰縱彼堯舜君非我親父母痛哉言乎今日之世與先生之所處有以異乎無以異乎春秋大義懍懍千秋何獨至今而茫然乎嘗攷吾國歷史夷虜之禍不一而足五胡僭亂一再傳而滅猶可諉曰鼠竊狗偸至元則僭號稱尊九十餘年矣。滿淸入關以來卜世九卜年二百四十有四則久之又久矣昔人謂虜運無百年斯言也若可信若不可信時數已過語不成讖至是而不決心於人定勝天則恢復之功終無成曰矣夫古之亡國者非因人事即由天命有明自太祖驅逐元胡光復中夏聖君賢相綿祚十六世養士數百年而其亡國之慘獨爲從古所未有祀荒𣏌宋禍酷徽欽天命人事二者果何屬耶雖然社稷雖墟人心未死忠臣義士或棲身異域或混跡漁樵類多寄懐文字以抒故國禾黍之思特後世無傳斯成千古遺恨耳不佞託足東邦掛名學籍課餘之暇捜求明季遺書得朱舜水先生所撰陽九述略及安南供役紀事讀其文深悲其志甫覽一過髪指眦裂蓋先生痛祖國之倫胥奮孤忠於絶島形影相弔艱苦備甞歷日本安南暹羅流離數十載所志不遂飮恨以終死如有靈今其未瞑夫豈有意留一二痛心文字冀後人之知我哉竊念滿廷康乾之世迭興文字獄法網之密酷等焚書哀我同胞已無從知有亡國之痛孰意精誠所託呵護賴有神靈秦火雖烈曾未及蓬莱三島耶今日者人心思漢明興之圖籙非誣天意亡胡大陸之𦎬羶待掃幸遺文之猶在冀方來之有徴爰付棗棃以公同好仁人君子幸得而省覽焉
黄帝紀元四千六百零四年芴芒居士識於日本東京之僭龍精舎
朱舜水先生略傳
朱文恭公諱朱之瑜字璵亦字楚瑜舜水其號餘姚人也雅達聰哲有大志研究經世學視科擧爲兒戲慥慥乎言行皦皦乎進退以氣節文章自高不夷不惠鼎大明皇綱弛紊滿酋狗盜神器之際大陸腥羶虜騎如織莽莽神州無咫尺乾淨土先生覩此怪現象目眦裂心膽顫不共戴天之仇如芒刺背席未遑安而滿腔熱血十二時中潮汐無已數行傷心涙何忍徒向銅駝荊棘而長流乃作避地計趣舎人裝躡芒鞋携竹杖荷衣蕙帶駕言一葦泛黄海渡太平洋奔走於交趾暹羅日本諸國效秦庭七日哭冀假鄰邦千旅精兵驅除胡虜恢復我靈秀之山河獸蹄鳥迹不得復汚中國帝王之土地廓淸宗祊蒸禋明祖不亦漢族莫大之幸福歟孰知區區三島國君無鄭伯敗北戎之心臣無侯生竊兵符之人軍無樂毅濟西之隊昧唇齒義不敢出一師以與狂虜爭衡俾先生十餘年飢飡虜肉渴飮虜血之壯志崇朝頓挫時鄭成功以書招先生往比至厦門見其部下將吏佻達自喜爰勾留旬月不通一刺後聞金陵之敗裁書規成功謂徒效姚長之覆羗羯不念符堅之潰淝水遂爾一敗至此雖死何以贖罪情詞悲壯至今猶凛凛有生氣夫成功既不克淸天步而復舊物先生往來數國間包胥哭庭又不能達其目的轗軻阻絶骯髒〇〇雲頽鶴倦憂團空結竟墮夢寢外時動一恢復想海天鷗鷺為之淒其無何客長崎屹屹然爲明室遺老日本西山公重其人禮羅而賓師之一時英俊咸負笈就學遂擔任木鐸以終餘年此豈先生之初志哉先生夙具政治之才遭時屯蹇不克雄飛十餘載麥秀動悲殷之思黍離興愍周之感齎志飮恨未甞一日不以糓甲敽干鋤去滿種収拾舊山河爲已任大義見於安南紀役忠憒著於陽九述略慷慨激烈氣呑戎狄誠哉明季一部痛史也皆先生之涙也先生之血也血涙成書悲何如之昔宋亡於胡元鄭所南隱居長洲之承天寺時向南慟哭爰作心史沉於寺之狼山井中歷四百餘年至明崇禎時僧濬眢井而其書始出社會歡迎先生之書僅珍藏於日本亦歷二百餘年而不能流播於支那今幸黄帝子孫留學東瀛奇捜玉版秘探瑤輪得取先生之書而讀之以喚醒我大漢國魂噫嘻文字埋寃千古一轍鬱積必伸天演公理先生有靈願呵護革命英雄酬先生未逮之志述先生未畢之事他日恢復軍興蕩平韃靼漢官儀復湧現於地球面上吾則曰此先生一筆一舌一字一泣之神力有以収此奇功也
黄帝紀元四千六百零四年仲冬膺戎生識於日本東京旅次
陽九述畧
明季孤臣朱之璵撰
安南洪役紀事
明季孤臣朱之璵撰
黄帝紀元四千六百零四年二月十七日發行
〔蔵書目録注〕
文中の〇〇は、表記出来ないため、上の写真左から2枚目参照のこと。
法學博士 吉野作造
慶大教授 加藤繁 共著
支那革命史
内外出版株式會社發兌
序
今僕は加藤繁君と共に共著の名義で支那革命史を公刊するに際し、一言其由来を述べて序文に代へようと思ふ。わざゝ公刊の由来を述ぶるのは、世間普通に見る所謂共著の多くは著者の孰れか一方が名ばかりであるのを常とすると云ふが、本書は決してさうではないと云ふ事を明にしたいのと、又本書の出來るまでの經緯を明らさまに述ふることは、本書の讀者に取つて必しも無用でないと信じたからである。
僕は初めから正直に白狀して置く、本書は徹頭徹尾加藤繁君の筆に成つたもので、僕は一言一句と雖も自ら筆を取つて加除した所はないと云ふ事を。此點に於て本書は全然加藤繁君のものである。併し内容に就ては辭の正しき意味に於て全く僕等兩名の共同のものなのである。
僕は大正三四年の頃から支那革命史の編著に志し、廣く材料を集めたり、又多くの内外の關係諸名士に就て疑を質したりなどしたのであつた。雜誌などに斷片的の説述を試みたことは一再に止らないが、纏つたものはとしては「支那革命小史」を出して大體の輪郭を叙したことがある。東方時論には曾て稍詳細なる革命史を書き初めたが中途にしてやめた。固より深き自信はなきも、かくして僕は支那革命史の研究に於て全くの素人ではない積りなのである。
然るに段々研究を進めて行くうち、もとゝ支那時文の研究に特別の素養なき僕は、彼地文献の重要資料を渉獵するに可なりの不便を感ずるに至つた。外にも用事が多いので、獨力で此難關を突破するには餘りに多くの時間を要しさうなので、遂に誰か適當な協力者を得たいものだと考へ、之を先輩の市村瓚次郎博士に相談した。その紹介で圖らず此事業を共にするに至つたのが加藤繁君なのである。
加藤繁君は支那史學に造詣の深き篤學の士である。僕の仕事に協力するが如きは謂はゞ牛刀を以て鶏を割くの類ではるが、強て懇請せるに對して快く承諾を與へられた。而して始めはたゞ支那文献を和解して適當の資料を僕に供給する丈の約束であつたのだが、やつて居るうちに加藤君自身が段々革命史研究に興味を有たれる樣になつた。加之革命史研究の同君の方針が亦大に僕の立場と一致する所あるを發見したので、僕は本來支那學の專門家たる同君の方が、僕自身よりも遙に立派なものが書けるだらうと考ふるに至つた。そこで相談し直して一切の材料を同君に提供し、改めて全體の執筆を托する事にしたのである。尤も内容について兩人の間に十分の協議を遂げた事は言ふまでもない。
敢て他人の功を自分に奪ふの考は毛頭ないが、本書の内容に就ては加藤繁君に於て全部の責任を負ふと共に、僕自身も亦全部の責任を負ふことを避けない。只本書が起稿に着手してより前後三年の星霜を經て、ともかくも斯く纏つた形に於て世に出づる事になつたのは、加藤繁君の多大の努力の結果に外ならない。協力者の一人として僕の深く感謝する所である。
大正十一年九月
吉野作造識
凡例
緒言
革命前紀
革命本紀
第十五章 武昌の變 〔下はその一部〕
偖て武昌を占領した黨人等は、味方の軍隊を統一する爲衆望のある著名な人物を首領とする必要を認めた。さうして混政協統黎元洪に白羽の矢を立てた。黎は決して革命主義者ではない。數年前孫武等は彼を味方に引入れようと運動したが、彼は聽かなかつた。さうして今度の事變の勃発する前には、總督瑞澂の命を奉じて忠實に警戒に從事したのである。併し第八鎭統制張彪の不人望なのに引換へ、寛大温厚なる彼の性格は自ら衆心歸向の的となつてゐた。黨人等が彼を舁上げようと考へたのは此れが爲であつた。事變の夜、深更に及んで、蔡濟民・張振武等は一團の兵士を率ゐて彼の營所に至り、劍と銃とピストルとの林立せる間に於て、民軍の首領たらんことを強要し、遂に其の承諾を得た。併し初は其眞意を疑ひ、陸軍中學生數名をして監視せしめたが、數日にして黎も愈決心を固め、熱心に事を視るに至つたので、黨人も始めて警戒を解いたのであつた。當時の狀況並に黎の心事は、彼が海軍提督薩鎭冰に送つて革軍に與せんことを勸めた書の中に、詳に告白されあるから次に掲げよう。
洪當武昌變起之時。所部各軍。均已出防。空營獨守。束手無策。黨軍驅逐瑞督出城後。即率隊來洪營。合圍捜索。洪換便衣匿室後。當被索執。責以大義。其時槍 環列。萬一不從。立即身首異處。洪只得權爲應允。吾師素知洪最謹厚。何敢倉猝出此。雖任事。數日未敢輕動。蓋不知究竟同志者若何。團體若何。事機若何。如輕易著手。恐至不可収拾。不能爲漢族雪耻。轉增危害。今己視師八日。萬衆一心。同仇敵愾。昔武王云。紂王臣億萬。惟億萬心。予有臣三千。惟一心。今則一心之人。何止三萬。 中略 卽就昨日陸戰而論。兵丁各自爲戰。雖無指揮。亦各奮力突進。漢族同胞。徒手助戰。毀損鐵軌者。指不勝屈。甚有婦孺餓送麪包茶水入陣。此情此景。言之令人奮武。誰無肝膽。誰無熱誠。誰非黄帝子孫。豈肯甘作滿族奴隷。而殘害同胞耶。洪有鑒於此。識事機之大有可爲。乃誓師宣言。矢志恢復漢土。云云(革命文牘類編第一冊)
斯かる事情に依つて黎元洪は卾軍都督に舉げられた。さうして軍政府は湖北諮議局に開かれ、司令・軍務・参謀・政事の四部が組織された。軍務部長には孫武が任せられ、政事部長には湖北諮議局議長湯化龍が任ぜられた。湯化龍は本來立憲主義者で、革命の同志ではない。彼も黨人の勧誘に應じなかつた一人であるが、今や政事部長の任に就くことを諾つた。
第三十七章 臨時大總統の選擧 〔下はその一部〕
武昌の爆發に對して、孫は直接の關係を持たなかつた。併し、武昌に馳け附け、又は上海廣東其他の各地方に起つて革命の遂行に努力した面々には、彼の部下彼の同志が數多く見出される。彼等は皆孫が速に歸つて革命の中心たらんことを希つたことは申すまでもない。局面の發展するにつれ、多々益辦するものは資金であるが、併し此の資金の缼乏には革命軍も淸廷も倶に困んだ。孫が帰國の途に上るや、大金を齎らして還るといふ噂が立ち、孫派も非孫派も、彼に依つて此の缼乏の救はれんことを待ちわびた。併し孫は幾何の資金も持歸らなかつた。孫文學説 卷一、一〇七頁一〇八頁 に彼は自ら次の如く述べて居る。
當予未到上海之前。中外各報。皆多傳布謂。予帶有巨欵回國。以助革命軍。予甫抵上海之日、同志之所望我者以此。中外各報館訪員之所問者亦以此。予答之曰。予不名一錢也。所帶囘者革命之精神耳。革命之目的不達。無和議之可言也。
孫が大金を持歸らなかつたことは同志等をして聊失望せしめたに相違あるまいが、併し革命黨は、彼の帰國に依つて、行詰れる時局を開展せしむべき絶好の機會を見出した。黄興を副元帥として統一政府の中心たらしめんとする企は、黄の固辭によつて破れ了つた。さりとて黎元洪をして武昌を去つて南京に來らしめることは、武昌の事情が許さない。進退谷まつた各省代表等は、偶歸來つた革命の先覺者を捕らへて大總統とし、由つて以て人心を糾合し事權を統一することの、自然であり妥當であることを覺つた。代表等は嚮に袁世凱を誘はんが爲、故さらに臨時大総統選擧を延期したのであるが、其後の形勢、特に講和會議開催以來の袁の態度を觀れば、彼の眞意は測り難く、彼の爲に必しも大總統の地位を空虚ならしめ置くべきでないから、遂に當初の計を棄てゝ孫を迎へようと思ひ定めたのである。
結論 〔下は、その最初の部分〕
光緒の中頃から起つて遂に淸朝を覆した革命運動の經過は大別して三期とすることが出來る。孫文が興中會を設立した光緒十八年(明治二十五年)から拳匪事變の起つた光緒二十六年(明治三十三年)に至る約九年間は其の第一期であり、光緒二十六年から中國同盟會の組織された光緒三十一年(明治三十八年)に至る約六年間は第二期であり、光緒三十一年から宣統三年(明治四十四年)に至る約六年間は第三期である。前後二十年間にして革命運動は成功し、淸朝は沒落し了はつたのである。
〔参考〕
なお、所蔵本は、大正十一年十月五日発行、同年十一月五日再版発行、昭和四年十月一日新版発行の三冊である。
このうち、昭和四年新版は、背表紙が「支那革命史 加藤繁著」となっており、「序」や「凡例」はない。
THE CHINESE REVOLUTION MAGAZINE
支那革命樷報 第一號 No.1
支那革命叢報第一號目次
◎發刊詞
十八世紀之中葉歐羅巴原野有一絶世怪物呱呱墜地自此怪物産出後而法蘭西革命戰爭起而美利堅獨立戰爭起而伊太利光復戰爭起其餘西球各邦亦復蠭起雲湧肉搏血鬪殺聲震天血潮捲地紛擾百稔始漸甯貼近世以來而此怪物忽狹其雷霆萬鈞之勢飛渡太平洋而東東方諸國之受其震撼也亦皆砰砰欲動躍躍欲試天竺以爆弾著(近印度排英甚力爆彈事件時有所聞)越裳以抗税鳴(越南有革命黨首領名唐朗者浮屠也外聯海賊内結國民秘謀獨立以拒捐抗税爲進行第一着近已見諸實行矣)日本以鼓吹勝(舊金山美洲各處皆有日本革命黨機關報昨年出有『暴殺主義』及『與天皇書』等尤激烈異常)而大夢初醒振衣徐起之支那帝國其受動尤劇其暴發尤急駸駸乎有爲東亞獨立開幕之勢嗚呼彼物何物殆所謂革命非耶而其魔力一至於是夫革命何自起畧言之起於民族主義者一也起於民權主義者二也二十世紀以前之革命民族主義爲之也而民權主義間與焉二十世紀之革命民權主義爲之也而民族主義間與焉蓋二十世紀以前民族主義發達時代也二十世紀民權主義發達時代也惟其爲民族主義發達時也代故凡一箇主權之下而包容二種以上之民族者無論爲君主爲民主而革命必不能免惟其爲民權主義發達時代也故凡一國之主權者苟有上天下地唯我獨尊之大皇帝大君主等徽號無論爲同族爲異族而革命必不能免惟其如是則世界國家爲二種民族所組成者必不能不革命惟其如是則國民之上尚有所謂皇帝君主者必不能不革命惟其如是則彼腐臭小儒持君主立憲之説妄冀調和種族銷弭革命者乃不戰而自潰不攻而自破惟其如是而支那之革命乃益急惟其如是則所謂支那革命叢報者乃不能不出現於戯革命哉革命哉戰雲急矣鼙鼓摧矣肉飛血走殺聲起矣試登富士之嶺而望東海之濵壯哉支那革命偉哉支那大革命吾不意沉沉亞陸中乃有轟天撼地之支那大革命吾不意茫茫學海中乃有空前絶後之支那革命叢報於戯支那革命軍萬歳支那革命叢報萬歳
◎電叢
△四月前半期之部(全體四十五通)
◎論著
△清國之革命黨 譯東京毎日電報
◎(一)革命黨最近之勃興
十數年前淸國之革命黨其勢力微弱不足使北京政府震駭近年來以教育普及交通便利之故遂一日千丈倐然成北京政府一大敵國北京政府常々戰々競々從事弾壓而有日不暇給之狀此亦決非偶然者也
近時一般所認爲革命黨者蓋以孫逸仙等之所規畫爲嚆矢孫於明治二十九年在廣東設一秘密社顔日興中會標榜民族民權主義陰紏同志謀起革命軍於廣東省城未發事敗間道走英吉利時又有廣東人史堅如者圖暗殺兩廣総督埋置爆彈於督署事敗流血於羊城自是以還革命思想漸々侵入於各地學界及明治三十一年康有爲梁啓超等擁光緒帝企圖改革事敗遁日本設立保皇會倡道勤王主義湖南唐才常利用之借名勤王而陰謀革命運動亘江一帶且暗通哥老會待機起事及明治三十三年乗各國聯軍入京與其徒林述唐等謀起兵於漢口割據東南建立新獨立國事爲張之洞所覺遇害其黨員多東走日本其時孫文謀擧兵於廣東先與三合會首領鄭弼臣揚飛鴻等聯結欲先攻惠州孫在臺灣遙執指揮以軍需欠缼爲淸軍所敗雖然彼等因此失敗反得據爲鼓吹革命之確證而長江西江兩流域革命革命之聲遂觸耳皆是矣
拳匪事變後北京政府覺改革庶政爲必要其實行之第一着即派遣留学生於海外並於各省設立大小中各種學校於是内地風気倐然一變年少気鋭之士皆競研新學同時亦以奔走國事爲榮其結果傾向於革命主義者日益加多至明治三十五年於上海則呉某等組織愛國社張某等設立國民報於香港則陳白等發刊中國日報皆遙相呼應以鼓吹革命主義
又在日本之浙江章炳麟湖南秦力山等開支那亡國記念大會於東京以圖革命思想之普及(此會後因淸使蔡鈞運動警視廳命其解散)内外相應而使革命黨之勢力伸張其時因俄國滿州撤兵問題漸次喧囂東京在留之革命黨員遂藉此組織軍國民教育會内部悉仿軍隊形式而部署之擬相率歸國藉名驅逐俄國而實行革命此策本難成功嗣爲袁世凱端方等看破遂不果行
自此彼等專以出版物鼓吹排滿主義一時在東京所出此種雑誌其數多至十餘種就中最有力者爲四川鄒容湖南陳天華之兩人(此二人已卒矣)蓋當時爲革命文字最盛時代也
明治三十七年湖南黄興劉揆一宋教仁柳某直隷張繼等協謀於湖南長沙府設立華興會與哥老會首領馬福益等連絡企據湖南獨立顧資力不足布置不得其宜事敗黨員二名受死刑黄宋等遁走東京其時浙江革命黨首領陶成章亦謀擧兵浙江與黄興等東西相應聞黄敗遂寢其事與郷人徐錫麟龔國元等相約納栗入官握兵權以擧事徐果得安徽道員以夙望之期將達遂於昨年刺殺安徽巡撫恩銘於安慶是則彼等謀畫籌定於數年以前決非一朝一夕之事也
先是孫逸仙之敗於惠州也遂由日本赴美國與在留同胞之三合會員及華僑商人等聯絡更遊英法二邦而結其在留淸國學生嗣後再來日本時東京爲淸國留学生最盛時代其總名額達至一萬餘人而投於革命党者逐漸增加革命黨之勢力遂益々張大加以漢口湖南等處之失敗志士悉來東京幾萃淸國全體革命黨於一堂而東京一隅遂儼然呈革命黨中心之奇觀時則各處革命黨得直接交換意見疎通意思其結果且得使各省革命黨聯絡一気雖然是時孫逸仙尚未得負東京留學生之重望於是宋教仁等開觀迎孫逸仙大會於飯田河岸之富士見樓聚一千餘名之留學生登塲演説詳述孫之爲人並利用此機會使各革命黨員歸於統一宋教仁之計畫既得圓滿如意而孫之聲名遂大振由黄興胡衍鴻汪兆銘陳天華宋教仁柳某田某等爲中心組織一總括留學生之統一的革命黨即前此各省獨立之革命黨派亦咸入殻中同歸統一其勢力遂突然擴大更謀向内地大張運動其第一要策即發刊出版物普及革命思想由宋教仁等經營之所謂二十世紀之支那者皆該黨之機關也嗣又易名民報現尚在東京牛込區新小川町二丁目發刊(該報爲傳播革命主義之最有力者其發行部份異常發達現在主筆者爲章炳麟)其第二要策即聯絡内地之秘密結社以謀勢力擴充由孫逸仙於南洋黄興於香港劉呉余等於長江下流鄧等於長江上流胡等於山東直隷穀等於黄河上流宋教仁等於満洲各赴該地與設支部運動並與東京本部時通聲気力圖勢力之擴張昨年廣東之潮州府防城縣廣西之鎭南關及現在雲南河口等處之起兵皆該黨所企畫者也
本節已完全篇未完
△支那人種之革命思想 譯東京報知新聞
△雲南之革命軍 譯東京毎日電報
◎調査
△未占領前之河口情形調査記 摘錄雲南雜誌
△南淸官軍之配備 譯大阪朝日新聞
◎專件
△雲南對於淸政府密借外兵問題之解決意見書
△支那革命黨宣言
陽五日十四日。上海神州日報載比國留学生電云。『神州日報鑑。外部密借法兵。平滇亂。事甚確。禍迫。速龥國人。並電雲南雜誌。比會。十四日戌刻比利時電。
本黨按比國留學生。身在歐洲。見聞親切。此事可信爲眞。滿奴此擧。即西班牙政府賣非律賓之故智。法國爲革命母國。前比路易十六之求援奥人。以遏民黨。今不過百年。見聞尚在。度未必竟受滿奴啗餌。惟是人心不同。各如其面。今之法政府。或未必念前日之隱痛也。内地志士。留東學生。對于此事。當必電阻滿奴。令其中格。而本黨人則有異此。既與虜廷斷絶關係。即不屑發電磋商。惟有雲合響應。滅此朝食。一面分遣俠客。梟奕劻袁世凱之頭以謝天下。若法政府更受滿洲啗餌。是即公理之敵。雖死抗法人。使漢土夷爲墟墓。亦所不辭。特此宣布。勿謂言之不豫也。
日本在留之革命黨白
△革命軍之軍律及宣言 譯東京朝日新聞
△雲南革命軍之示諭 (錄東京毎日電報)
◎紀事(全體四十八則)
孫逸仙氏序文
黄克強氏題字
断水楼主人 池亨吉 著
支那革命実見記
附録 革命潮(英文)
革命方略(漢文)
〔写真〕
・支那革命党統領 孫文逸仙氏
明治四十年一月の撮影に係り著者が革命見物の途に上りたる後「敬贈池夫人敬存孫文逸仙」と手記して著者の留守宅に寄せし者
・To Mr. and Mrs. Ike With compliments of Sun Yat Sen and his son Sun Fo. Hondulu, Hawaii 5th., 1910.
明治四十三年五月五日布哇に於ける支那革命党大会の成功を記念する為めに撮影し如上の英文を手記して著者に惠贈し来れる孫逸仙氏父子の写真
・支那革命党副統領 黄興克強氏
明治四十年三月の撮影に係り鎮南関戦役後仏領印度にて暫らく袂を別ちたる時共に死生の間を往来したる記念として特に著者に餞したる者は是れ
・潜夫自有孤雲侶 可要王侯知姓名
序
緒言
此一文は去明治四十一年五月大阪朝日新聞社の嘱に応じ特に起草せる儘にして、更に些の改竄を加へず。当時同社は左の予告文を添へ、同五月より六月に亘る二ヶ月間、懇ろに是を其紙上に連載したり。〔以下略〕
一 雲南の革命軍
二 其の由来
三 一頓挫
四 予定行動
五 檄文 〔上の一番右の写真は、文中にあるもの〕
六 一奇談
七 鎮南関の活動
八 仏人の支那革命観
九 十二月一日晩
十 翌二日
十一 宿望
十二 異象
十三 第二の異象
十四 天成の自由郷
十五 戦場の第一砲声
十六 桂林山水甲天下
十七 清国官軍の意向
十八 安宅の関
十九 放資二千萬金
二十 孫逸仙氏の書信
二十一 言志
雲南革命軍情況
支那革命党総理 孫逸仙特報 断水楼主人訳
附録
革命潮 孫文逸仙稿 THE TRUE SOLUTION OF THE CHINESE QUESTION.
革命方略
雲南百革命軍情形
支那革命の犠牲
嗽巌枕濤録
萱野長知著
中華民国革命秘笈
皇国青年教育協会発行
題字
・張人傑
・譚延闓
口絵
革命闘士の写真集
・孫文
・黄興
・林森
・上 晩年の孫文、中 青年時代の孫文、下 孫文(向つて左)と黄興
・上 宋教仁〔上の写真:左〕、下 何天烱
・上 居正、下右 李烈釣、下左 張継
・汪精衛、蒋中正贈〔上の写真:左から二枚目〕
・萱野先生老同志 惠存 中華民国南京政府成立後三日撮影記念 弟陳其美贈、漢民持贈
・上 章炳麟、中 戴天仇、下 陳少白(中央)
・上 若き日の宋慶齢〔上の写真:左から三枚目〕、中 宋慶齢 、 孫科
・上右 史堅如、上左 徐錫麟、下 呉樾
・王昌、温生戈、李文甫、秋瑾女士、熊越基
・張聲、朱執信、鐘明光、陳敬岳、林冠慈(炸李準)
・上 譚延闓、中 堅、下 孫武
・上右 陳中孚、上左 劉紀文、下右 鄒魯、下中央 李紅堂、下左 田桐(学生時代)
・許崇智、曾傑、幕幹、鄒永成、夏重民
・許雪秋、黄隆生、劉揆一、馮成継、陳烱明
・上右 張傅泉、上左 馮自由、下右 李國桂、下左 子瑜
・上右 呉亜男女士、上左 胡毅生、下右 周象垣、下左 傅文郁
・殷汝驪、澤如、殷汝耕、陳策
・孫毓筠父子、陳乙白、孫毓筠
・右 萱野長知 中 張永福 左 方漢城、(向つて右より立てる)孫文 張永福 林時● (座せる)陳勇波 萱野長知 湯壽山、シンガポール 張永福別邸 朱霽、林直勉
・孫文(中央)、若き日の汪精衛(左) 萱野長知 許雪秋(左) シンガポールに於て、馬伯援敬贈 民国十九年九月十三日午撮於東京牛込陶陶亭 頭山満(前列右) 犬養毅(前列左) 馬伯援(後列左ヨリ二人目)
・孫文が鎮南関の戦に用ひたる軍帽ー「高野」は孫文の仮名なり(池享吉氏蔵)、南京軍政府成立(前列中央孫文・黄興)、南京政府創業時の陸軍病院開院
・維県陣営、革命軍総司令部
・孫文(中央)、露人ピルストキー歓迎(民報社庭園にて)
・民報社における章太炎、東京両国福井楼に於ける孫文歓迎会(二列中央孫文)
・胡瑛送別会(月の家)、宮崎滔天送別会(前列中央宮崎)、章行厳送別会
・孫文神戸最後の撮影(中央孫文)、佐原篤介送別会(前列中央佐原)、犬養毅歓迎会(中央犬養)
・天津に惨死せる谷村幸平太追弔会、七十二烈士の墓
・蒋介石結婚記念 蒋介石美齢贈〔上の写真:左から四枚目〕、廖仲の家庭、居正夫人、汪精衛夫妻、戴天仇夫妻
・中山陵三景〔三枚〕
・孫文慰霊祭〔三枚〕
・孫文慰霊祭、慰霊祭出席者
・上 帝政取消一笑会に於ける孫文(右)、中 孫文真蹟の委任状、下 中華革命党成立記念撮影 孫文(前列中央)
革命名家の真蹟集
・孫文自筆の中華革命党総章
・孫文
・孫文の著者に交付せる白紙委任状(数葉の内)
・孫文
・孫文、密電翻訳
・密電翻訳、孫文
・孫文、何天烱
・下は底漢〔武漢〕起義のとき著者が在米の孫文に対し急遽帰国を促した電報を受取った意味を認めた大塚氏宛謝状(右は其の封筒)
・黄興
・黄興
・黄興
・黄興
・黄興
・黄興
・宗教仁〔宋教仁〕
・居正
・陳少白
・陳少白
・譚人鳳、陳其美
・陳其美、田桐
・張人傑
・張人傑
・廖仲、何天烱
・章炳麟
・章炳麟
・章炳麟
・章炳麟
・汪精衛
・胡漢民
・胡漢民
・譚延闓
・戴天仇
・戴天仇
・張継
・柏文蔚、子瑜
・熊越山、朱執信
・葉恭綽
・李書城、但●心
・孫氏に伝へるために送られた露西亜人の真蹟、杉田定一
自序〔下は、その一部〕
本書の出版は大正十五年、張人傑、譚延闓等に題字を乞ひ起稿したが、赤裸々に書きたくない事情あつて、書くがイヤになり筆を折つて 底に秘め置きたるが這回また書いてみたくなり、こゝにものすることとした。
〔省略〕
尚ほ書中、中華革命党の連判帳とも云ふべき誓約書其他重要文書を公表せし写真は、当年の同志が如何に夫れに真面目であつたかを證據立てると共に、歳月を経過するに随つて其偉績が段々消滅しつゝあるを虞れ、之を後世に伝えしめんが為めである。又白紙の写真を載せたるは孫公が日本に在らざる時、孫文の名義を必要とする場合は之を行使せよとてサインして委任したものである。其の数枚の内一枚を掲げたに過ぎぬ、当時孫公が予等に対する気持ちは実に筆舌を以て尽されぬものがあつた。予も亦人生意気に感ずるのであつた。
孫公が北京ロックフェラー病院にて肝臓の大手術を行ひ死に垂んとして予に二通の招電を発し来りて最後の面談を希望した。新聞電報は已に危篤を伝へ或は死を伝へた。予も亦た、せめては臨終の顔なりと見たかつた。急遽北京に駆けつけた、尚は意識は明瞭であつた。彼は神戸に於ける最後の獅子吼たる大亜細亜主義の反響が心がゝりであつた。予は日本朝野の賛同するところと為つた旨を物語つた処、彼れは非常に満足して死灰亦燃ゆるが如く蒼ざめたる顔にやゝ紅を潮した、謂へらく之れが最後の幕であつて、波乱変遷多きイデオロギーの終点は大亜細亜主義で日支提携であつた。是れ本書に東京神田錦輝館に於ける三民主義発表の最初の演説全部と、神戸高等女学校に於ける最後の演説全部を特載したる所以である。
又同志の誓約書全部を公表せし主旨は孫公去世後、其志を継承して違背せざるもの果して幾何あるかを問はんと欲するものである。重ねていふ、大亜細亜主義、日支提携は孫中山最後のイデオロギーであつた。
胡漢民去世の前年香港に在りて談孫公の事に及び予に囑するに中華革命史編輯特に日支関係のことを以てした。然るに老来筆を執るに●ふく且つ遺忘せしこと多しと雖も現在の時局に直面して感更に深く未定稿のまゝ上梓することゝした。尚ほ多少の史料を遺しあり、他日筆硯を洗つて完成を期するのである。中華民国政府の基礎確立安定せし時本資料中の重要なるものは中山陵又は革命記念館に陳列して永遠に保存せられんことを期待するのである。已上所感を述べて序文に代へたのは所謂へたの長談義と為つたのである。
昭和十五年三月 日 著者誌
第 一章 腕白の破壊から第二の洪秀全
第 二章 学生時代の革命運動 ‥李鴻章に上るの書‥
第 三章 初期の失敗
第 四章 三民主義、五権憲法の発端及日本有志の同情と犠牲
第 五章 中国同盟会の成立 ‥革命潮‥
第 六章 黄花岡と中部同盟会
第 七章 失敗々々又失敗、粛親王汪精衛と獄中問答 ‥汪精衛獄中にて粛親王の問に答ふ・籌款と中山の世界漫遊・革命殉難者小伝・烈士就義表
第 八章 辛亥革命〔下はその一部〕
此の武漢の戦ひ起るや、老同志末永節は吉田、川村などを引き連れて早く駆けつけ漢口を根拠として外交其他に力を尽し、又小山田剱南、神尾茂、澤村幸夫、中久喜信周、其他大新聞特派員が筆を揃へて、革命贔屓の通信を発送した事は大局を動かす力があつた、特に大毎特派員の小山田は我党奮戦大勝すなど、本社に打電した程、熱烈なる同情者であつた。武昌には大原武慶が原二吉を帯同して応援に来り都督府の附近に事務所を設け軍事上の知識を與へ、陸軍歩兵大尉野中保教は林一郎と仮名し小鷹某と共に前線に転戦し、金子陸軍歩兵大尉は琴断溝附近にて敵弾に中り戦死し、陸軍歩兵中尉甲斐靖は盲貫銃創を負ひ、最年少にして最も勇敢に戦ひたる岩田愛之助は腿部に貫通銃創を受けて、弾丸の中九死に一生を得漸く江を渡りて後送、医師垣内喜代松は負傷者の手術に昼夜の区別なく立ち働き、石間某は敵の内応に欺かれて暗夜、漢水岸壁舟中に斃れた。
第 九章 革命方略は行はれず大総統を辞す
第 十章 第二第三革命と中華革命党
第十一章 護法の為めに奮闘と著述
第十二章 対外的奮闘
第十三章 孫文学説に就いて
第十四章 孫文学説と経綸抱負
第十五章 支那民族と満州民族は別 ‥支那革命党宣言書‥
第十六章 日支共存策
第十七章 三民主義最初の大演説
第十八章 中山最後の獅子吼
附録
・革命秘話
・唱和集
・孫中山年譜
・党員誓約書〔下の写真は、誓約書の訳文とその原文の写真である。。本書には、六四〇人全ての原文の写真がある。〕
中華民国革命秘笈正誤表
昭和十六年二月五日発行
著作者 萱野長知
発行所 皇国青年教育協会
なお、本書には、帝国地方行政会版がある。この二つは、口絵の写真やその説明、党員誓約書が前者では一頁に八枚に対して後者では四枚掲載等若干の異同がある。
昭和十五年七月三日発行
著作者 萱野長知
発行所 株式会社 帝国地方行政学会
下は、帝国地方行政会版の題字の前頁にあるもの。
お断り
一、著者の二三失敗史あるも、事重大にして国際的又は現在生存せる個人的関係あるを以て暫く遠慮す
一、国民党の容共政策裏面史は都合あり遠慮す
一、資料及写真の大部分を大震災の時焼失又は他に貸与したるまヽ紛失せしを以て完全せざるを遺憾とす
一、諱、字、号、等は日本人に通称せられたる方を記載せり
以上は第二次出版の時補充完璧を期す
著者雑す
同じく、帝国地方行政会版の奥付裏面にあるもの。
華訳本出版予告!
萱野長知先生、素與孫中山先生●革命党諸領袖、交誼至深、近以手蔵秘笈、撰成「中華民国革命秘笈」一書、洋洋数十萬言、不独対於中国革命史予以一新頴史料、且対東方文化之貢献、至深且鉅、現日文本業已出版、茲為使中国志士明瞭起見、特請中華民国新民会東京連絡処長何達先生、訳成中文、現排印中、不日可貢献於読者之前、謹此予告!
表紙には、「辛亥革命文献展覧会記念冊」とある。編輯者は、辛亥革命同志会。21.6センチ、図版6頁、本文45頁。奥付には、「辛亥革命 文献展覧会記念冊 中華民国三十六年 〔一九四七年:昭和二十二年〕 十月十日出版 編輯者‥辛亥革命同志会 発行者‥徐木森 印刷者‥建新印刷廠」などとある。
目録
総理最後遺像
総理臨終遺容ー張伯先遺墨
鏡湖女侠就義存真ー鏡湖女侠遺槍照片
于右任題字 呉國禎題字 潘公展題字 方治題字
・辛亥革命文献之精神 ‥‥ 洪承點
・呉樾舎身轟炸五大臣事略 ‥‥ 張鼎
・徐錫麟設計刺恩銘記實 ‥‥ 天目
・熊成基起義安慶之回憶 ‥‥ 狐鴻
・鏡湖女侠就義事略 ‥‥ 白頭翁
・節録拙著西北革命詩史 ‥‥ 張立卿
・山西光復軍五路招討使李岐山烈士傳 ‥‥ 景梅九
・淮上起義記略 ‥‥ 王竹如
・紀廣西南革命事 ‥‥ 梁烈亞
・辛亥革命九江響應之真相 ‥‥ 邱于寄
・上海義勇商團辛亥革命従軍回憶 ‥‥ 錢化佛
・辛亥光復蘇州之回憶 ‥‥ 孫籌臣
・辛亥党躬耕九龍黄興放牛 ‥‥ 餘生
・同志窮羈香港生活写真 ‥‥ 醒吾
・攻金陵一彈竟全功 ‥‥ 止戈
・辛亥光復安慶始末記 ‥‥ 張郊
・辛亥革命文献展覧感言 ‥‥ 徐蔚南
・辛亥革命文献感言 ‥‥ 鄭青士
・辛亥広東平安独立之麟爪 ‥‥ 李栖雲
・雙十節感言 ‥‥ 趙國良
・先烈遺詩
辛亥革命文献目録
表紙には、「湖北革命知之録 張難先著 商務印書館印行」とありる。奥付には、「中華民国三十四年十一月重慶初版、中華民国三十五年〔一九四六年〕五月上海初版 著作者 張難先、発行所 商務印書館」などとある。21センチ、凡例・自序2頁・目次5頁・本文413頁・後序3頁・本書支干 西暦紀年対照表2頁・表例1頁。
凡例 〔14あり、下はそのひとつ〕
一、本書所具始末、自庚子漢口之役起、迄武昌首義及停戦、與政府国会成立時止。凡重要命令、文告、函電、及他文辞、俱挿入本事中。
自序 〔省略〕 中華民国三十三年八月沔陽張先序於陪之歌樂山。
録(傳状碑誌附総目下)
・吾国革命思想之淵源
総理簡史
・湖北革命之動因
唐才常事略(庚子烈士墓碑)、傳良弼墓表(附事略)、呉祿貞傳(附銭傳銭跋)、秦力山傳
・庚子甲辰間鄂人思想之演進
・科学補習所所始末
呂大森傳、王漢傳(附考證)、胡瑛傳、朱子龍傳、宋教仁傳、劉静庵傳(附墓碑碑陰)、馮特民傳、何自新傳
・日知会始末
胡蘭亭傳、梁耀漢傳、李長齢傳、季雨霖傳、李亞東傳、呉貢三傳、趙鵬飛傳
・同盟会湖北分会之概況
朱和中事略、胡秉柯行述、石瑛行状、田桐事略(附行状)、宋開先傳(附事略)、呉崑傳、黄季剛墓誌銘、余誠傳、襲國煌傳
・丙午公益社之扶助効用
・湖北軍隊同盟会始末
・群治社始末
・振武学社始末
楊王鵬傳
・文学社始末
蔣翊武傳、大悲傳、王憲章事略、蔡大輔事略、闕龍傳、李濟臣傳、熊偉傳、胡玉珍事略、黄家麟事略、鄢樹藩事略、江光國事略
・共進会始末
孫武傳、劉公事略、張振武傳、劉英傳、劉鐵傳、蔡濟民墓誌銘(附事略)、呉醒漢事略、陳滔傳
・同盟会中部総会與武昌首義
譚人鳳墓誌、陳其美傳、趙聲事略、焦達峯傳
・武昌首義之発動
彭楚藩傳、劉堯徴傳、楊宏勝傳、鄒玉渓傳、周榮發傳、王世龍傳、紀鴻鈞傳
・都督府之組織設施及人物
黎元洪碑、黄興傳(附考證)
・漢口戦事始末
熊世藩傳、姚斌傳、徐少斌傳、謝元傳、馬榮傳、孟發成傳、李繼廣傳
・漢陽戦事始末
楊璽章傳、劉玉堂傳、蕭鍾英傳、無名英雄傳
・武昌防御始末及停戦
・中華民国政府成立
・国会成立
表紙には、「馮自由著 中華民国開国前革命史 上編 陳少白署」とある。奥付には、「中華民国十七年 〔一九二八年〕 十一月十五日初版 定価大洋二元五角 著作者 馮自由 発行社 革命史編輯社」などとある。20.3センチ、本文322頁・その他〔題辞(章炳麟署)1頁、書1頁(張継)、章序3頁(章炳麟)、萱野長知致著者書1頁、自序2頁、本書大意4頁、図像目録4頁、目録8頁、図版12頁、本文322頁、下編目録予告3頁、何天炯先生遺著 革命史衡出版予告1頁〕。
中華民国前開国革命史上編目録〔章内の見出し省略〕
章序
萱野長知致著者書
自序
本書大意
第一 章 中国革命之動機
第二 章 興中会
第三 章 乙未広州之役
第四 章 横浜興中会及中和堂
第五 章 乙未孫中山欧美之遊
第六 章 革命保皇両党之衝突
第七 章 東京留学界之革命潮
第八 章 庚子李鴻章之独立運動
第九 章 正気会及自立会
第十 章 庚子秦力山大通之役
第十一章 庚子唐才常漢口之役
第十二章 庚子恵州之役
第十三章 庚子史堅如謀炸徳壽 〔上左の写真には、「史堅如」とある。〕
第十四章 壬寅支那亡国記念会
第十五章 壬寅洪全福広州之役
第十六章 上海志士及蘇報案
第十七章 癸卯周雲祥臨安之役
第十八章 癸卯東京革命軍事学校
第十九章 甲辰孫中山欧美之遊
第二十 章 革命党與洪門会党之関係
第二十一章 甲辰馬福益長沙之役
第二十二章 甲辰萬福華鎗撃王之春
第二十三章 香港中国報及同盟会 〔上中の写真には、「中国報前之陳少白」とある。〕
第二十四章 欧洲同盟会
第二十五章 中国同盟会及民報
第二十六章 乙巳呉樾謀炸清五臣
第二十七章 革命方略
第二十八章 丙午萍瀏之役
第二十九章 丙午南京之党獄
第三十 章 日知会
第三十一章 革命党與欧美志士之関係
第三十二章 革命党與日本志士之関係 〔上右の写真には、「戊戌年孫中山楊衢雲與日本志士合影」とある。〕
第三十三章 革命党與菲律賓志士之関係
「本書大意」には、「一本書以香港中国日報及著者歴年筆記民元臨時稽局調査表冊為底本。」「一本書材料捜集二十余年。無一字無来歴。」などとある。
なお、所蔵本には、橘僕の蔵書印が押されている。