療病院開業式
療病院開業當日ノ次第
第一條 明治五年十一月朔日朝第六字知事参事七等出仕及ヒ療病院掛ノ諸官員總區長医業取締種痘醫用醫薬局生薬物業取締假療病院エ出頭
第二條 同第七字療病院献金人數勤諭方用達同並出頭
第三條 同第八字教師ドクトルヨンケル氏を迎フ伹語学教師リエトルフレーマン氏及ヒカルルレーマン山本覺馬同伴
第四條 療病院建営ノ主意讀知、参事務之
第五條 教師ヨンケル氏演説
第六條 出席ノ諸人祝賀
第七條 教師及レーマン兄弟饗應會食奏任以上勧業課典事療病院掛ノ諸官員
第八條 出頭ノ面々ヱ酒殽ヲ供ス
伹金百圓以上献金及ヒ米五十石以上献納ノ面々此ニ列ス
第九條 金百圓以下米五十石以下献納ノ面々エ祝餅ヲ配分ス
第十條 教師出頭ヨリ讀知ヲ剏ムル迠塲中ニ音楽ヲ張ル伹總區長中此開業ヲ祝スル為ニ設ルナリ
第十一條 祝語終テ饗應ヲ剏ムル迠前同断
第十二條 饗應終テ總區長用達其他此開業ヲ祝スル為ニ設ケタル諸演技ヲ初ム出頭ノ諸官員教師及レーマン氏兄弟ヲ誘フテ之ヲ観セシム
第十三條 療病院ヱ金穀ヲ献納シタルモノヱハ當日ヨリ前ニ兼テ券ヲ送リテ此開業式ノ塲中及前條ノ諸演技塲中ニ入ル々ヲ許ス
第十四條 管内遊女藝妓等当院助費金トシテ兼テ願ノ上若干ノ冥加金ヲ納メ来レリ因テ開業當日休業申付開業式及開業ノ為メニ設クル諸演技ヲ縦觀セシム
第十五條 療病院ニ献金セザル者モ此入塲券ヲ買テ所持スレバ来観勝手タル可シ
伹此券ハ毎區ノ區長ニ渡シ置ベシ依テ區長ニ往テ買取ベシ亦當日假療病院門前ニテコレヲ賣可シ
第十六條 饗應終レバ随意ニ退出ス可シ
右之通候事
壬申十月 京都療病院
〔蔵書目録注〕
なお、京都療病院の創業関係と思われる下の資料も所蔵するが、どこかに紛れて見つけられず。ただ、その写真を掲載する事とした。
申合事項
今回ノ惡性感冒ハ流行猛烈ニシテ病勢激甚ヲ極メ患者全町ニ亘リ今尚終熄ニ至ラサルノミナラス本月ニ入リテ死亡率頓ニ激增シ一日平均七八名ニ達ス實ニ戰粟スヘキ狀況ニ有之候ニ付此際一層豫防ニ注意シ以テ自衞ノ策ヲ講スルコトニ勉メラルヘク両會ニ於テ左記ノ通協定致シ候間各自公徳ヲ重シ嚴重實行セラレンコトヲ希望ス
一 過般町役塲ヨリ印刷ニ付シ配布アリシ豫防注意書ハ嚴重實行セラレタシ
二 患者アル家ヘハ接近セサル樣注意シ見舞品ノ贈答ハ之ヲ全廢スルコト
三 死亡ノ塲合ハ可成夜伽 ヨトギ ヲナサヽルヿ
四 葬儀ヲ行フ家ニアリテハ立非時 タチヒジ ト稱シ會食スルコトヲ嚴止スルヿ
五 葬儀ノ翌朝ヨリ墓參スル朝參リハ絶對ニ之ヲ廢スルコト
六 香奠返シト稱シ物品ノ贈配ハ絶体ニ之ヲ廢止スルヿ
七 第三項以下ノ事項ハ葬家ニ於テ豫メ表門戸ニ此趣キヲ記載掲示シ置クヿ
大正七年十一月二十一日
小濵實業會
小濵有終會
感冒豫防の心得
内務省社會局保險部
感冒豫防の心得
昔から感冒 かぜ は萬病の基といふ位で、感冒が基 もと で一命 いのち を取られるやうな重い病氣になることは尠くないのであります。
感冒の中でも流行性感冒 はやりかぜ は、病人が咳 せき や 嚏 くさめ をすると眼に見えない程微細な泡沫 とばしり を介 とほ して人に傳染す うつ る病氣でありますから特に注意せねばなりませぬ。
普通の感冒 かぜ も流行性感冒も、一年中冬から春先きにかけて一番罹り易いのですから、お互に感冒を引かぬやう、若し感冒を引いたら速に治療する樣にしなければなりません。
左 さ に感冒予防の心得を記載致しますから、よく熟讀して よんで 之を守るやうにして下さい。
平生 ふだん から毎朝冷水摩擦をしたり、運動に心掛けたりして、身體を丈夫にして置くことは、最も大切です。
夜具、蒲團、寢具等は時々日光 ひ に曝 さら し家 うち の内外は常に淸潔 きれい に掃除し、室内の掃除は成可 なるべく 塵埃の立たぬやうに雜巾掛けするのが一番宜しい。
作業服は汗ばんだり、室 へや の濕氣 しめりけ で濕り易く、濕った作業服の儘で寒い日に外を歩けば感冒 かぜ を引き易いから、平生着と區別し常に乾燥し かわい たものを着 る樣になさい。
暖かい作業場 しごとば から急に寒い處に出る時は、感冒を引き易いから、手拭 てぬぐひ かハンカチで鼻、口を輕く被 おほ ひなさい。
澤山人の集まってゐる處、電車、汽車等の内では必ずマスクを掛けるか、手拭、ハンカチ等で鼻、口を輕く被ひなさい。又感冒を引いてゐる人や咳をする人には近寄らぬが宜しい。
出先きから家へ歸った時は必ず鹽水 しおみづ か微溫湯 ぬるまゆ で含嗽 うがひ なさい。
含嗽藥ならば尚宜しい。家にゐる間も度々含嗽するが宜しい。
人前で咳や嚏をする時は必ずハンカチか手拭で、鼻、口を被ふやうになさい。
感冒を引いたなと思ったら度々含嗽や吸入をなさい。
看病人や家内の者でも病室に入るときは必ずマスクを掛けなさい。
普通の感冒だと馬鹿にして放って置くと肺炎を起し取返しのつかぬことになることがあるから直 すぐ に保險醫に診察して貰ひその指圖をよく守らねばならぬ。
體溫の測り方
體溫を測るには體溫計を靜 しづか に振って三十六度以下に下げ、腋窩 わきのした の汗を拭ひ ふき 水銀球 すいぎんのたま の部分をよく挾み十分位靜にしてゐて、それから度を見なさい。若し摂氏三十七度以上ならば熱があるのですから保險醫に相談なさい。
吸入の仕方
感冒に罹ったら、時々吸入するが良い。吸入をするには吸入器の蒸氣鑵に半分又は三分の二位湯を入れ、アルコールランプを點火 とも して之を沸騰せしめ、蒸汽の噴き出る管 くだ の口から藥液 くすりみづ (水百の中へ重曹か鹽を二の割合に入れたもの)が吸上げられて霧となって出るのを確め、吸入器を適宜の處に置きて吸入なさい、其の際着物や寢具等をぬらさぬ樣に注意なさい。吸入は一日數回するが宜しい。
頭の冷し方
高い熱のある場合 とき は水枕を用ひ、且 かつ 額 ひたひ に冷水 ひやみづ に浸 ひた して硬く絞りたる手拭を當てゝ頭部 あたま を冷やすが宜しい。水枕や手拭は時々冷たいのと取換へねばならぬ。四十度近いと云ふ樣な高い熱のある場合は氷枕、氷嚢を用ふるが宜しい。氷は針か錐 きり で梅の實位の大 おほき さに砕き擂鉢 すりばち の内で攪拌し まぜ て氷の角を取てから氷嚢の半分位入れ成るべく空氣を押出して氷嚢の口をよく緊 し むることが必要です。
溫罨法 しつぷ の仕方
溫罨法をするには、フランネル又はタオルを熱い湯に浸し相當 なるべく 硬く絞って頸部 くび 、胸部 むね 等の患部を卷き、その上を油紙 あぶらがみ で被ひ紐で止めて置くのです。油紙は保溫の爲ばかりではなく着物を汚さぬ爲です。溫罨法は三四時間毎に溫かいのと取換へねばならぬ。
罹 かか るな感冒
鍛へよ身體
◎流行性感冒ニ就テ二三ノ注意
(Staehelin. Correspondenz Blatt Nr 32,1918,)
ス氏ハ市民病院ニ於テ觀察セル今次ノ流行性感冒ニ就テ次ノ注意ヲナセリ、今回ノ流行性感冒ノ病原菌ハ矢張パイフェル氏菌ニシテ喀痰及血液中ニ證明スル事ヲ得ヘシ、病勢ハ先年(一八八九年ー一八九二年)ノ大流行ヨリ惡性ナルカ如キ觀アルモ實際ノ罹患數不詳ナル今日唯死亡例ノ報告ノミニ依リ之ヲ確定スルコトヲ得ス先年ノ大流行ニテモ場所ニヨリテハ一%以上ノ死亡率ヲ示シ續發セル肺炎モ醫家ノ許ニ來レル患者ノ五%以上ニ達シ其ニ因スル死亡率ハ一七%ニシテ場所ニヨリテハ三〇ー四〇%以上ヲ示セリ、但肺炎ヲ續發スル傾向カ先年ヨリモ若年者ニ多キ事ハ顯著ナル事實トス
病型モ先年ト大差ナク大多數ハ單純ナル「インフルエンザ」熱若クハ輕度ノ加答兒ヲ以テ經過シ醫ノ門ヲ訪ハス神經型及腸胃型モ少數ナリ、余ノ許ニ來レル多クハ重キ加答兒型ニシテ多クノ肺炎ヲ出セリ、卽六月十七日ヨリ七月二十八日迄ニ來院セル患者三百九名ニシテ内四十六名ハ肺炎ニテ死亡セリ
肺炎ハ通常徐々ニ發スルモ時トシテハ流行性感冒發病後一兩日ニシテ之ヲ續發スルコトアリ、又下熱期ニ入リ若クハ全ク下熱シ治療期ニ入リテ發スル事アリ、不良ナル肺炎ヲ起シテ而モ氣分ノ爽快ナル事屡ニシテ呼吸困難著明ナレトモ刺痛稀ナリ、喀痰ハ鐵鏽色ヲ呈スル事稀ニシテ病初ハ膿性、黄色若クハ綠色ナリ、後ニ至リテ褐色又ハ暗褐赤色トナル、鮮紅色ナルコト甚稀ナリ、呼吸音ハ初メ不純又ハ不定音ヲ示シ肺下部ニ著明ナレトモ後ニ至リ一ヶ所ニ捻髪音ヲ表ハシ漸次其域ヲ廣クシ呼吸音ハ徐々若クハ急劇ニ氣管支性トナリ濁音ハ時ト共ニ著明トナル、胸膜ニ摩擦音ヲ聞ク事アリ
豫後ハ尚不定ナレトモ不良ナルガ如シ、殊ニ進行性ノ場合ニ然リ、脈數ハ少ナキヲ常トス、脈數增加スル場合ニハ豫后不良ナルコト多シ
白血球ハ多クノ場合減少ヲ示ス、先年ノ流行ニテハ、或人ハ其增加ヲ報告シ或人ハ之ヲ否定セリ、白血球減少ハ發病第三日又ハ第四日ニ顯レ輕症ニハ全ク減少セザルコトアリ、肺炎ヲ發セル時豫後良好ナル場合ニテ白血球增加スルコトアルモ大抵ハ減少ノママナリ、白血球ノ種類ニ就テ云ヘハ淋巴球減少シ二%以下トナルコトアリ、「エオジン」細胞モ減少シ往々全ク消失スルコトアリ、大單核細胞及移行型ニハ變化ナシ、多核性中性細胞ハ比較的增加ヲ示スモ勿論絶對的減少アリ、「ミエロチーテン」ノ發顯スルコト稀ナラス、
發疹ハ往々猩紅熱樣ノ事アリテ會々猩紅熱樣舌ヲ呈セル場合ニハ鑑別困難ナリ、又小出血斑ノ發疹スルコトアリ
豫防法トシテ絶對的隔離有効ナレトモ然ラサレハ効少ナシ
治療法トシテ「サルワ゛ルサン」無効ナリ、「オブトヒン」ハ一時的體溫下降ヲ來スノミ、「エレクトラゴール」モ亦一時的ノ作用ナリ、「ヒニン」ハ効ナシ、自覺症ヨリ云ヘハ下熱劑殊ニ「サルチル」劑効アリ、肺炎ニハ「カンフル」ヲ多量ニ使用スヘシ
◎インフルエンザワクシン
(Britich medical journal No.3017 , 1918, )
千九百十八年十月十四日(英國)陸軍省ニ於テ「インフルエンザ」ノ豫防及治療上細菌「ワクシン」ノ利用ニ就キテ會議開カル、其次第左ノ如シ
陸軍衞生長官ハ委員ニ對シ一場ノ挨拶ヲナシタル後、委員等ノ召集セラレタル目的及「インフルエンザ」流行ノ擴大ス可キ見込ヲ以テ「ワクシン」使用ニ關スル一定ノ推奬事項ヲ作成センカ爲委員等ノ努力緊要ナルヲ説述セリ、次テ委員長ノ起草セル條項ノ討論ニ移リ次ノ結論ニ達セリ、現今流行ノ細菌學ニ關スル利益アル證跡ヲ討論セル後出席者ノ過半數プァイフェル氏「インフルエンザ」菌ノ最初ノ原因的意義ニ就キテハ大ナル疑アリトシ、尚未發見ノ病菌ノ存シ得ヘキヲ注意スルノ要アリトセリ、サレトモプァイフェル氏菌カ屡々存在スル事及本病ノ症狀ト合併症トノ發生ニツキテ重要ナル意義アルハ疑ナク而シテ他ノ菌カプァイフェル氏菌ト屡々 共發シ肺ノ續發合併症ノ發生ニ主トシテ與ルハ肺炎菌及連鎖球菌ナリトセリ
流行ノ擴大猖獗ヲ抑制センカ爲ニ「ワクシン」使用問題ノ討論アリテ適當ナル「ワクシン」接種ハ二點ニ於テ價値アリトセラル、斯カル「ワクシン」ノ適當ナル構成ハ委員各自ノ經驗ト有益ナル文獻トヲ參照シテ十分ニ討論セラレ「インフルエンザ」菌、肺炎菌及連鎖球菌ノ三者ヲ用ヒ之等ノ細菌ノ異レル種屬及型ノ若干ヲ「ワクシン」製造ニ利用スル事トナシ之等ノ種屬ハ現流行間ニ新シク分離セラレタルモノニシテ其種屬ト型トヲ嚴密ニ試驗ヲナスニ決定セリ
次ニ各細菌ノ割合及「ワクシン」ノ使用量ニ就キテ商議セラレ其結果「ワクシン」構成及用量ヲ次ノ如ク定メラル、
第一量 第二量
インフルエンザ菌 30(百萬) 60(〃)
肺炎菌 100(〃) 200(〃)
連鎖球菌 40(〃) 80(〃)
出來得ヘクンハ「ワクシン」ノ兩用量ハ十日間ノ間隔ヲ置キテ用フ可ク此「ワクシン」ニ因ル反應ハ過半數ノ場合ハ軽微ナルカ或ハ全ク之ヲ欠ク、サレトモ兵卒ニアリテハ常ニ輕度ナル二十四及至三十六時間ノ周期的勤務アルヲ顧慮スルノ要アリト
此「ワクシン」使用條件トシテ「インフルエンザ」ニ感染スル前ニハ接種ヲ實施ス可キハ當然ナレトモ人ニヨリテハ其中ニハ旣ニ「インフルエンザ」ニ罹レル者モアリテ發熱シ或ハ罹病判然タルモノ若シクハ同時ニ加答兒ニ罹レル者ニハ接種セサル事ノ注意タニナサハ接種ヲ差控ユル理由存在セス、同時ニ接種后ノ増大セル感受性ノ時期ノ形跡ニ充分注意シ若シ之カ判明セル時ハ上記ノ用量ヲ減ス可ク而シテ下記ノ特殊ナル場合ニ於ケル「ワクシン」用量ニ就キテ次ノ推奬ヲナセリ
(イ)小兒ー三才以下ノ小兒ニハ接種ス可カラス
其レ以上ノ小兒ニハ次ノ用量ヲ用フ可シ
三乃至七年 ‥‥‥ 上表ニ詳記セル全量ノ四分ノ一
七乃至十六年 ‥‥‥ 全量ノ二分ノ一
十六年以上 ‥‥‥ 全量
(ロ)植民地軍ー此場合ニハ次ノ如ク十日間ノ間隔ヲ置キテ三量ヲ用フ
第一回量 ‥‥‥ 上記第一量ノ二分ノ一
第二回量 ‥‥‥ 上記第一量
第三回量 ‥‥‥ 上記第二量
(ハ)本國兵ー之レ亦十日ノ間隔ヲ置キテ三量ヲ用フ
第一回量 ‥‥‥ 上記第一量
第二回量 ‥‥‥ 上記第二量
第三回量 ‥‥‥ 上記第二量
終リニ「インフルエンザ」ノ重症ナル場合及其合併症ノ治療上「ワクシン」使用問題ノ討論アリテ其結果次ノ推奬ヲナセリ
(一)「ワクシン」ハ亞急性及慢性症ノ治療ニ効アリ
此場合ニハ上記第一量ノ五分ノ一トス
(ニ)重症ナル續發性氣管支肺炎ノ治療ニ「ワクシン」ヲ使用スル事ハ現今ニ於テハ推奬スル能ハス、之レ斯ノ如キ場合ノ過半數ハ迅速且ツ重症ニシテ危險アルカ故ナリ、併シ此場合ニ「ワクシン」試用ヲ希望セハ最初ノ用量ハ上記第一量ノ二十分ノ一ヲ超ユ可カラス
次テ有益ナル討論ハ實地的詳細事項ト「ワクシン」使用上實地的進歩ヲ計ルヲ主眼トスル研究ニ入ル、之カ摘要ハ困難ナレトモ次ノ點ニ一致セリ、卽チ「インフルエンザ」菌型ノ單一ナルヤ、多數ナルヤ或ハソノ同一ナルヤノ問題ハ重要事項ニ屬シ而シテ委員間ニ培養ノ交換ト聚集トニ關シテ若干ノ協定ヲ作成セリ、之レ此方面ニ於ケル進歩ヲ促サンカ爲ナリ、次ニ不日大ナル要求アル可キヲ假定シ「ワクシン」製造上取ル可キ實地的手段ヲ考慮セリ、委員ノ大ナル補助ニヨリ會議ハ滿足ナル基礎ノ上ニ開催セラレ委員ノ多數カ所有セル最近得タル多クノ菌種ヲセントメーリー病院長ドゥグラス氏ニ送付シ同所ニテ氏カ親切ニ細菌ノ純粹度及型等ニ關シテ必要ナル試驗ヲナシ選擇ヲ經タル細菌ハ更ニ國立陸軍々醫學校ノハーヴェー氏ノ許ニ送ラレ同氏カ陸軍ノ爲ニ「ワクシン」ヲ製造スル事トナリ又國立陸軍々醫學校ノバーゼットスミス氏ニモ菌ヲ送付セラルヽ事トナレリ
「ワクシン」ニヨリ豫防シ得ル程度ヲ確メンカ爲ニ同會ハ必要ナル行政上ノ措置トシテ次ノ事項ニ關スル統計ヲ取ル事ヲ切ニ推奬セリ
(一) 接種ニ因ル反應
(ニ) 接種后四十八時間内ニ於ケル重症ナル場合ノ事變
(三) 接種者ト未接種者トニ於ケル罹病數
(四) 接種者ト未接種者トニ於ケル合併症ヲ發スル率。(河西抄)
上の文は、共に大正八年四月三十日發行の雜誌 『軍醫團雜誌』 第八十三號 の 海外彙報 に掲載されたものである。
なお、下の文は、同じ號の 通信 の 岡山研究會(十一月二十九日 出席者二十二名) に掲載されたものである。
流行性感冒ニ就テ
陸軍二等軍醫 竹中長造
本年十月十一月ニ亘リ岡山各部隊ニ發生セシ流行性感冒ハ約二千名ニシテ内岡山衞戌病院ニ入院セシモノ四十四名、其ノ内七名ハ肺炎ヲ誘發シ二名ハ肺炎菌性膿胸ヲ併發セリ、喀痰檢査ニ於テ約七十%ハ肺炎菌ヲ證明セシモ健康者ニ於テモ亦殆ト同數ニ近キ陽性成績ヲ擧ケタリ、流行性感冒菌ハ喀痰培養上僅ニ一例ヲ檢出セシニ過キス、而シテ本年六月稍〻猖獗ナル流行ヲ見シ歩兵第五十四聯隊、工兵第十七大隊ニ於テハ比較的少數ノ患者發生シ當時侵襲ヲ免レタル野砲兵第二十三聯隊、騎兵第二十一聯隊ニ於テ最多發セリ、此ノ關係ハ多少免疫作用ヲ想像セシムルモノアリ、目下凝集反應ニ就キ調査中ナリト述フ
(質問及追加)高橋軍醫
(追加)木村軍醫 菊山軍醫 平馬軍醫 中島軍醫正 高橋軍醫 齋藤軍醫部長
◎恢復者血淸ニ由ル重病流行性感冒ノ治療ニ就キテ
(Liebmann Correspondenzblatt No. 42, 1918.)
本回ノ流行性感冒ハ從來ノ其レト症狀ニ於テハ殆ト同樣ナレトモ大多數カ甚タシク經過不良ナルノ差異アリ、從來ノ療法ハ效果ナク茲ニ於テカ吾人ハ恢復者血淸ヲ試ミントスルニ至レリ、其ノ注射方法ハ一使用量ヲ四〇ー六十㏄トシ之ヲ二分シテ二時間ノ間隔ヲ置キ筋肉皮下或ハ靜脈内ニ注射ス、但シ靜脈内注射カ他ノ二者ニ優ルヤ否ヤハ尚後日ノ試驗ニ待タサル可カラス、余ノ實驗例ハ其數些少ナラスト雖本療法ノ效果ヲ判斷スルニ至難ナリ、其理由タルヤ(第一)流行性感冒及流行性感冒肺炎ハ突如輕快又ハ增惡スル事多キカ故ナリ(第二)血淸效力ノ一定ヲ期シ難キ點ナリ、其ニモ拘ラス余ハ今日迄ノ經驗ニ由リ本療法ノ效果ヲ信スルモノナリ、本療法ハ其作用抗毒的ニシテ總テノ場合ニト稱スルヲ得サルモ多數ノ重症者ニ良效アリ或場合ニハ直接起死回生ノ效アリ、但シ末期ノ重態ニ陥レル者ニハ效ナク又再發豫防ノ力ナシ(河西抄)
◎「インフルエンザ」流行に就テ
Bircher Corresponderzblalt. No.40 1918
一、病原菌トシテパイフェル氏菌ヲ證明セス、肺炎又ハ全身肺血症ヲ起セルモノニハ常ニ連鎖球狀菌ノ集團ヲ認メタリ
二、本病ト季候、生業及個人體質トノ關係ハ至大ナリ
三、肺炎ヲ併發スルモノ甚多ク三十五歳乃至四十五歳ノ壯年者ヲ最多ク侵ス
四、肺炎、性質猛惡ニシテ經過頗ル迅速ナリ、多クノモノハ死ニ至ル迄ニ三日ノ經過ヲトルノミナリ
五、肺ニ於ケル理學的症狀ハ甚僅少ニシテ剖檢上ノ所見亦之ニ一致シ肺炎ヲ以テ死ノ唯一ノ原因ト見做スコト能ハザル程ノモノ多シ
六、藥品中「エレクラゴール」ヲ最有效トシ強心劑トシテハ「コヒーン」ヲ下熱劑トシテ「ヒニーン」ヲ優良トス、殊ニ「ヒニーン」ハ確實ニ豫防的效果ヲ奏スルモノト認ム(野本抄)
◎流行性感冒ノ防護及其ノ流行病學ニ就テノ補遺二
Lenz. Correspondenzblatt No 38 1918
目下流行シツヽアル流行性感冒ノ大流行ノ流行病學殊ニ其ノ適切ナル傳播方法ハ未タ確實ニ闡明サレス、而シ從來ノ觀察カ證スル所ノ事實ニ徴スレハ流行性感冒モ亦第一ニ呼吸道ニ於テ直接ノ傳播ヲナスモノト云フヘク人ハ主トシテ有熱患者ヲ圍繞スル感染シタル空氣中ヨリ病毒ヲ吸入スル時ニ罹病ス、此ノ斷定ニ際シテ此ノ生氣アル吸入毒ヲ防護スルニ恰モ戰場ニ於テ毒瓦斯ノ吸入ヲ防護スルカ如ク黴菌ヲ浸透セシメサル假面ヲ使用セント着想セリ、此ノ建議ハ實施シテ著シキ效果ヲ認メタル自身ノ實地的經驗ニ基ク所ニシテ今ヲ去ル約四年前即チ一九一四年及一九一五年ノ冬季エンガヂン及ダボスニ於テ地方病的ニ流行セシ冬季「インフルエンザ」ノ小流行ニ際シテ棉花及「ガーゼ」ニテ製シタル黴菌ヲ浸透セシメサル防護假面ヲ以テ第一回ノ實地的試驗ヲナシ其ノ假面ハ麻醉用假面ノ如ク造リ口及鼻孔ヲ被ヒテ皮膚ニ接着シテ裝着セラレ其ノ防護的效果ハ實ニ滿足スヘキモノナリキ、然ルニ此ノ理想ハ初メ容易ニ實行サレサリシカ此ノ七月襲來セシ惡性流行性感冒ニ際シテ瑞西軍隊ハ此ノ防護假面ヲ採用シ既ニ其他一般ニ應用セラルヽニ至レリ
而シテ有效ナル流行性感冒防護假面ハ黴菌ヲ浸透セシメサル力強クシテ濾過性ヲ有シ且ツ空氣ノ自由通過ヲ甚シク障礙セサルモノナラサルヘカラス、此ノ材料ニハ繃帶用棉花ヲ以テ最良トシ其ノ厚徑ハ三ー四密米ヲ以テ足レリトス、此ノ假面ハ數度ノ使用後煑沸、昇汞水、「アルコール」、流通蒸氣等何レカノ方法ニテ消毒乾燥シ假面ノ内面ニ病芽拿捕者トシテ使用サレタル棉花層及假面緣ノ棉枕ハ時々更新スヘシ、患者ニハ病芽拿捕者トシテ側方ヲ開放シ呼吸ヲ阻礙セサル假面ヲ恰モ手術ニテ裝着科醫ノナス如ク口及鼻孔ヨリ若干ノ隔ヲ以際シ外セシムヘシ(國見抄)
◎「インフルエンザ」ノ症狀ニ就テ
(A.v.Strümpell;. M. M. W. Nr. 40,1918.)
一九一八年六月以來ライプチィヒニ流行セシ「インフルエンザ」ノ臨牀的症狀ニ就テスツルンペル氏ノ報告ニ據レハ其ノ病型ヲ左ノ如ク區分セリ
一、中毒性(Toxische Form) 俄然惡寒頭痛全身衰弱關節痛高熱等ヲ以テ發シ屡々發疹ヲ來ス、加答兒性症狀僅少數日ニテ治ス
二、重症神經性(Schwere uervöse,zerebrale Form) 急劇ニ發シ譫語意識溷濁惡心嘔吐ヲ伴フ劇頭痛等アリ、腦膜炎症狀ヲ呈スルモノアリ
三、加答兒性(Katarrhalische Form) 鼻咽腔喉頭氣管支等ノ加答兒性症狀ヲ呈スルモノ
四、「レウマチス」性(rheumatoide Form) 關節痛筋痛等ヲ發スルモノ
五、胃腸性(Gastrointestinale Form) 嘔吐下痢等アリ、此症ハ比較的尠ナシ、往々赤痢樣ヲ呈スルモノアリ
六、肺炎性(Pneumonische Form) 初期ハ多ク格魯布性肺炎ノ如ク惡寒戰慄 頭痛呼吸困難咳嗽喀痰等アリ、二三日後ニ局部ニ肺炎症狀ヲ認知シ得、然レトモ稀ニ肺炎症狀ヲ發スル迄ニ數日間單ニ加答兒症狀ヲ前驅スルコトアリ
「インフルエンザ」性肺炎ノ特有ナルハ小葉性ミシテ初期胸部ノ各所ニ於テ濁音鼓音稔髪音気管支音等諸種ノ症狀アリテ後通例一側ノ下葉ニ浸潤竈融合シ又他側ノ下葉ニ小葉性病變散在シテ兩側ヲ侵スモノナルカ此ノ如ク一側ニ病變ノ偏重スルハ格魯布性肺炎ニ稀ニ見ル處ナリ、喀痰ハ通常粘液膿樣ニシテ流動性ナルモ屡々球狀ヲナス、其量多カラサルモ稀ニ多量ナルコトアリ、又血液ヲ混スルモノアリ
上の文は、すべて大正八年六月十五日發行の雜誌 『軍醫團雜誌』第八十四號 の 海外彙報 に掲載されたものである。
また、下の文等は、同じ號の 通信 に掲載されたのである。
歩兵第三十八聯隊ニ發生セル流行性感冒ノ統計的觀察ニ就テ
陸軍二等軍醫 住吉三郎
大正七年六月九五八名(五三%)十一月四七名(三%)大正八年二月二四五名(一二・五%)ノ發生アリ二月罹患者中再患者三八名(一五・一%)皆輕症ニシテ肺炎ヲ起セシモノナシ
三回共ニ初發ヨリ第十日乃至第十四日尤モ多發シ第二十八日頃ニ至リテ終熄セリ
病狀ハ突然惡寒發熱シ全身倦怠頭痛食思不振咽頭炎ヲ有スルモノ多數ヲ占メ胃腸症ハ少ナシ二月罹患者中肺炎十七・一%アリ六月罹患者ニハ肺炎ナシ
熱ハニ三日乃至四五日ニシテ下降シ更ニ上昇スル者ハ多クハ肺炎ヲ併發ス二月罹患者中初年兵ニ多ク百七十一名ヲ占ム
治療日數ハ六月一人平均四・八五日、十一月四・二日、二月ノ分ハ八日以上ナリ
◎看護長卒ノ表彰
高田衞戌病院ニ於テ去二月左ノ通リ表彰セリ
(表彰文寫)
高田衞戌病院
故陸軍二等看護長 佐藤蒼海
右大正六年十二月一日付村松衞戌病院ヨリ轉入以來外科病室附トナリ諸勤務ニ精勵シ來リシカ偶々同七年十二月四日ヨリ流行性感冒患者多數入院シタル際看護長ハ主トシテ重症患者ヲ収容セル傳染病室勤務ニ服シ同月十一日重症患者内田龜之助ノ看護ヲ命セラルヽヤ連日連夜之レカ看護ト慰撫トニ勉メ患者竝患者ノ附添者ヲシテ其ノ骨肉モ及ハサル慈愛ト懇切ノ至情ニ感泣セシメタリ不幸該患者永眠スルニ至ルヤ更ニ重症者看護ニ從事中遂ニ流行性感冒ニ感染シ同月十九日猛惡ナル病毒ノ爲ニ其ノ一命ヲ損スルニ至レリ之レ全ク其ノ職務ニ斃レタルモノニシテ實ニ衞生部員ノ龜鑑トナスヘキナリ依テ茲ニ之ヲ表彰ス
大正八年二月
高田衞戌病院長 正六位 勲四等 功五級 原精一
陸軍二等軍醫正
高田衞戌病院
陸軍一等看護卒 小山政吉
資性温厚着實ヨク軍紀ヲ守リ勤務ニ熱心ナリ大正七年十二月高田衞戌各隊ニ流行性感冒ノ爆發的流行ヲ來スヤ入院患者累計百七十五名ノ多數ニ上リ而モ肺炎ヲ併發シ重症ニ陷ルモノ續發シ院務未曽有ノ繁劇ヲ呈セリ此時ニ當リ我職員ハ勿論日夜精勵之カ診療看護ニ從事セルモ就中小山看護卒ハ其ノ強健ナル體軀ト慈愛誠實ノ眞情トヲ以テ自己擔任患者ノ看護ニ從事シ精勵恪勤十數日間毎夜僅ニ三時間ノ睡眠ヲ取レルニ過キス〔以下省略〕
◎一九一八年蔓延ノ流行性感冒ニ關スル報告竝討論ニ基ク聯合國衞生會議ニ於ケル假定的決議 (在佛國 名和軍醫報告)
一、 本會議ニ現ハレタル諸報告ニ於テハ一九一八年三月初旬ヨリ異常ノ速度ヲ以テ歐羅巴、亞細亞、亞米利加、亞佛利加及濠太利ノ諸洲ヲ席捲シタル流行性感冒ノ發源地ヲ定ムルコトヲ得ス。
調査ヲ遂ケ得タル各地ニ於テハ何レモ春夏ノ候流行ノ第一波アリシモ一般ニ重大ナラサリキ。次テ其ノ秋流行第二波ヲ來タシ著シキ死亡率ト肋膜及肺ニ合併症ヲ頻發スルコトヲ示セリ。
英領印度ハ特ニ甚シキ打撃ヲ被レリ。九月初旬ヨリ十一月ニ及ヒシ秋ノ流行ハ全人口二億三千六百萬中、死者五百萬、人口毎千ニ對スル平均死亡率二〇・七ノ多キヲ來セリ。即此ノ地ニ於ケル此ノ三箇月間ノ流行性感冒ニ因ル死亡者數ハ過般流行セシ琳巴腺ペストゝノニ十年間ニ於ケル死者總數ヲ凌駕スルニ至リシナリ。
二、 吾人ハ尚未タ流行性感冒ノ確實ナル病因ヲ知ラズ。
バイフエル氏桿菌ハ流行性感冒性気管支肺炎ノ喀痰中及其ノ病竈附近ニハ殆ト常ニ存在スレド本病流行時以外ニ於テ他ノ疾患ニ侵サレタル多數ノ患者ノ気管支滲出液中ニモ亦之ヲ認ムルコトヲ得。惟フニ本菌カ肺合併症ニ對シ重要ナル意義ヲ有スルハ疑ナキモ未タ以テ本病固有ノ原因トナス能ハス。チユニー Tunis ニ於ケルニコル及ルベイリー Nicolle et Lebailly 二氏ノ研究及エタープル Etaples アブヴィル Abbeville ナル英國陸軍省衞生課研究室ニ於ケルサー、ブラッドフォールド、バッッシュフォールド、ウィルソン Sir John Rose Bradford, E. F. Bashford et J. A. Wilson 三氏、ジブソン、バウマン、コンノル G. Gibson, F. W. Bowman et I. L. Gonnor 三氏等ノ實驗ニ依レバ本病固有ノ原因ハ或ハ陶製濾過器ヲ通過スル超顕微鏡的病原ナルベキヲ思ハシム。
然レトモ如上諸家ニヨリテ研究セラレタル濾過性病原ハ其ノ何レヲ以テシテモ未タ流行性感冒ノ眞因ナリト確定スルニ至ラス。
三、 流行性感冒ノ流行病學ニ關スル吾人ノ知見頗ル不確實ナリ。吾人ノ知ル唯一ノ事實ハ、流行性感冒患者ノ唾液及喀痰が特ニ其ノ有熱期ニ於テ人類ヲ罹患セシメ且猿ノ如キ或種ノ動物ニ對シ傳染力ヲ有スル何等カノ要素ヲ含有スルコトナリ。人類ニ於ケル流行間猿ノミナラス各種ノ家畜特ニ猫、犬、馬等カ流行性感冒ニ罹リ病毒傳播ノ媒介者タルベキノ事實アルハ亦人ノ注意セシトコロナリトス。
オルチコニ Orticoni 氏ノ觀察ハ馬ノ假性腺疫 Pseudo-gowrme ヲ以テ人類ノ流行性感冒ト同一物ナリトスルニ傾ケルカ如シ。而シテ此假説ヲ支持センカ爲ニ引用セラレタル論據ノ一ハ、假性腺疫ニ罹リ治癒シタル馬ノ血淸カ人類ノ流行性感冒ニ對シ其ノ初期ニ於テハ著明ナル治療力ヲ有スト云フニ在リ。然レトモ「ヂフテリー」「ペスト」等各種ノ血淸ノ注射ニ依リ急速治癒ヲ營ミシ數多ノ例アルカ如ク本事實ヲ以テ假性腺疫ヲ經過治癒セル馬ノ血淸ノ特有的効果ノ一證トスルヲ得ス、假性疫腺竝ニ前述諸種ノ家畜ニ發セシ疾患カ眞ニ人類ノ流行性感冒ト同一物ナリヤ否ヤハ何レモ未タ實驗的證明ヲ得タルモノニ非ス。
四、 一九一八年第二期流行間ニ於ケル經驗ニヨレバ流行性感冒ハ持續期間ノ甚タ短キ不確實ナル免疫ヲ附與スルニ過ギザルカ如シ。然レドモ本問題ニ就テハ吾人ハ未タ充分ノ例證ヲ有セス。今後印度人ノ如ク流行性感冒病因ニ對シ特ニ感受性ヲ有スル種族ニ就キ多數ノ例ヲ蒐メテ之ヲ決スルヲ要ス。
五、 諸多ノ研究家ノ行ヒシ豫防接種、細菌學的療法、血淸療法ノ研究ハ未タ確實ナル結果ヲ與ヘス、吾人ハ流行性感冒ノ特有病因ヲ知ラザルヲ以テ是等ノ實驗ハ唯々バイフェル氏桿菌、肺炎菌、連鎖狀菌等ノ如キ各種ノ非特種的病菌ニヨリテ行ハルルノ外道ナカリリキ、而シテ是等細菌ヲ以テ調製セラレタル「ワクチン」及血淸ハ流行性感冒ノ混合傳染菌ニノミ作用スルニ過キサルモノナルベシ。
六、 一九一八年ニ於ケル流行性感冒傳染ノ慘害、其ノ會社上、經濟上ニ及ボセシ恐ルベキ打撃ニ徴シ吾人ハ政府カ本病研究促進ニ對シ充分ノ處置方法ヲ講スルノ要アルヲ稟請スルノ外ナキナリ。(完)
上の文は、大正八年七月二十五日発行の 『軍医団雑誌』 第八十五号 の 〇海外彙報 に掲載されたものである。
漢口附近ニ於ケル傳染病及固有地方病調査報告
陸軍一等軍醫 小菅勇
一、緒言
漢口附近ニ於ケル傳染病及固有地方病ニ就テ研究スヘキ命ヲ受ケ今夏以來之ニ從事セシカ偶々小官所屬隊ナル中淸派遣隊内ニ於テ今夏以降患者多發シタル爲メ殆ト之カ研究ヲ中止スルノ止ムヲ得サルニ至レリ、而モ其ノ間却テ諸種ノ疾患ニ就キ實驗スルノ機會ヲ得タリ、茲ニ記述セントスルハ主トシテ漢口附近ニ於ケル居留地住民ヲ侵襲スヘキ虞アルモノニ限レリト雖モ楊子江沿岸中主要都市ニシテ小官ノ視察シ得タル南京、九江、沙市、長沙及岳州等ニ於ケル居留民ノ疾病ニ就テモ所見ヲ附加シタリ
二、漢口附近ニ於ケル気候及風土ト疾病トノ關係
楊子江流域ハ一般ニ地味低濕ニシテ湖沼多ク且所謂長江ノ濁流ニ沿フヲ以テ此等地勢カ直接及間接ニ気候ニ及ホス影響ハ甚大ニシテ殊ニ夏期ニ於テ著シク毎年七、八月ノ交約二週間ニ亙ル熱帶気候ヲ生シ其ノ際気溫較差減少シ無風状態ヲ持續シ夜間殊ニ苦熱ヲ感ス、爲メニコノ間及其ノ前後ニ於テ發汗作用旺盛トナリ口渇ヲ訴フルコト甚シク食思減退シ體力ヲ消耗スルコト大ナルヲ以テ疾病誘發ノ動機ヲ作ルコト多ク殊ニ諸種傳染病散發スルノ時機ナルヲ以テ罹病者從テ多シ
漢口ハ北緯三十度三十五分四十秒、東經百四十四度二十一分八秒ニ位ス、気溫七、八兩月ノ平均ハ臺灣ヨリモ寧ロ高溫ヲ示セリ、即チ七月ハ二十八度、八月ハ二十八度三分ニシテ臺灣ノ中ニテ最モ熱度高キ恒春七、八兩月ノ平均気溫ハ概ネ二十七度内外ニアリ、然レトモ右熱帶気候ヲ除ケハ概ネ亜熱帶気候ヲ示シ又気壓、気溫、降水量、濕度及天気日數ニ就テ考フルニ冬期ニ於テハ稍々沿岸的気候ノ性質ヲ帶ヘリ
罹病者ノ關係略々右気候ノ變化ニ一致シ八、九月ニ於テ最多ヲ示セリ、今茲ニ漢口在留者中約六百人ノ壯年者ニ就キ明治四十五年一月一日ヨリ大正元年十月盡日ニ至ル間ニ於ケル各月ノ罹病者ヲ比較スルニ左記ノ表ノ如シ
自明治四十五年一月 至大正元年十月 月別患者表
本表中特ニ漢口ニ於テ多數發セシ疾病ハ約十種アリ、即チ腸窒扶私、赤痢、麻刺利亜、脚気、ワイル氏病、急性気管支炎、格魯布性肺炎、急性腎臓炎等トス、右患者中脚気、赤痢、腸窒扶私、麻刺利亜ニ就キ消長ヲ表示スレハ左ノ如シ
自明治四十五年一月 至大正元年十月 主要疾病患者表
三、漢口附近ニ於ケル傳染病及固有地方病ノ種類
由來揚子江流域ハ各種疾病ノ巢窟トモ稱スヘキ地ニシテ且下層支那人ノ生活狀態ハ此等病毒ノ傳播及病原ノ繁殖ニ好適ナルヲ以テ其ノ疾病ノ種類枚擧ニ遑アラスト雖モ茲ニハ主要ナル疾病ニシテ且居留日本人ヲ襲ヒ尚ホ又感染ノ虞アルモノノミヲ略述セントス
(1)腸窒扶私
(2)「パラチフス」
(3)發疹窒扶私
(4)虎列刺及疑似虎列刺
本病ハ夏期ニ於テ殆ト毎年長江沿岸都市村落ヲ襲フノ狀況ナリ、今夏上海、南京、九江、漢口及長沙等ニ於テ居留日本人ノ罹病セシモノアリ、楊子江ヲ上下スル船舶ノ交通頻繁ナルヲ以テ容易ニ之カ傳播ノ機會ヲ作リ且河水ヲ飲用及雜用ニ供シ生活狀態非衞生的ナルヲ以テ支那人間罹病蔓延ハ甚タ急速ニシテ吾人ハ此等支那人ニ近接シ大部分ノ物資蔬菜等ヲ購買セサルヘカラサル不利アルヲ以テ特ニ夏期衞生法ヲ嚴守スルノ必要アリ、本年漢口日本租界ニ於テ小官カ治驗シ若クハ細菌檢査ヲ施行セシモノ眞正虎列刺三名及疑似虎列刺二名アリ
(5)猩紅熱
(6)麻疹
(7)痘瘡
(8)「アメーバ」赤痢
當地方特有ノ風土病竝傳染病ノ一ニシテ漢口附近ニ於テ實見セシ「アメーバ」赤痢ハ「アメーバヒストリチカ」ニ由リ惹起セラルルヲ見ル、「アメーバテトラゲナ」ハ之ヲ見ルヲ得サリキ、所謂長江赤痢ノ名稱ノ下ニ楊子江沿岸ニ於テ到ル處存在シ漢口、南京、九江、沙市及長沙等ニ於テ本邦人ニシテ罹病スルモノ亦尠ナカラス、毎年四月ヨリ十月ニ至ル間ニ罹病ス、其ノ中七、八兩月ヲ最多ノ時期トス、男女及年齡ノ區別ハ之ヲ認ムルヲ得ス慢性症ヲ患フルモノニアリテハ數年間連續シ反覆本病ヲ發ス、又殊ニ衞生思想ヲ缼キ傳染ノ機會最多ナル下層支那人間ニ本病ヲ認ムルコト多キハ必然ニシテ從テ居留地ニ於ケル衞生ハ特ニ注意ヲ要ス、即チ是等傳染ヲ防遏スヘキ諸手段ヲ講ジ更ニ居留民間ノ個人衞生的感念ヲ助成スルコト必要ナリト信ス
〔以下省略〕
(9)細菌赤痢
(10)「ペスト」
漢口附近ニ於テ時々流行性ニ來ルコトアリ、明治四十二年秋漢口ニ散在性ニ數例ヲ發生セリ、何レモ他地方ヨリ輸入セラレシモノニ係ル
(11)實扶的里
(12)「デング」熱
(13)「マルタ」熱
(14)「カラアザール」
(15)麻刺利亜
(16)再歸熱
(17)脚気
南淸及中淸地方ニ於ケル居留日本人ニシテ本病ニ罹ルモノ少ナカラス、好ンテ壯年者ヲ犯シ十六歳乃至二十五歳ノモノヲ最多トス、換気不良ナル家屋、多人數ノ群居、感冒、濕潤、身體及精神ノ過勞及ヒ露宿等ハ其ノ誘發原因タリ、漢口其ノ他楊子江流域ハ一般ニ地味低濕ニシテ気候ノ變化著シキヲ以テ特ニ體力ヲ増進シ誘發原因ヲ除クコト必要ナリ、又半搗米ヲ常食トセル支那人竝ニ在留日本人ニシテ此等支那食ヲ攝ルモノニ罹病者少ナキハ豫防上特ニ注意スルノ必要アリ
(18)日本住血吸蟲病
(19)肺結核
支那人間ニ廣ク蔓延ス、其ノ生活狀態及衞生思想ノ缼乏ハ本病ノ傳播ヲ容易ナラシム、漢口地方及附近一帶ハ春季黄砂襲來シ甚シキトキハ濃霧ノ如キ觀ヲ呈シ砂塵ヲ齎スコト往々アリ、其ノ際大気乾燥シ塵埃多キヲ以テ本病ノ誘發原因トナルコトアリ
(20)喝病
夏期ニ於テ土民ノ本病ニ罹ルモノ少ナカラス、即チ七八月ノ交、漢口ニ於テ室内気溫華氏百度内外及直射溫度百二十度内外ニ上昇シ殆ト無風トナリ朝夕気溫ノ較差著シク減少スルヲ以テ本病ヲ誘發シ易シ
(21)腸内寄生蟲
(22)風毒(風土病)
本病ニ就テハ精確ナル報告、文献ノ徴スヘキナク小官中淸駐留中數種ノ實驗ヲナシ居リシカ未タ確定スヘキ原因ヲ認ムル能ハス
本病ハ楊子江流域ニ居住スル日本人ニ多發シ春季ヨリ夏期ニ亙リ罹病スルモノ多シ、限局性ニ來ルモノハクインケノ限局性浮腫ニ似テ而モ漸次其ノ位置ヲ轉シ一部ヨリ他部ニ移行スルヲ例トシ多クハ瘙痒ヲ伴ヒ亦時ニ疼痛アリ、通常其ノ部ノ皮膚ハ發赤スルコトナク唯々廣汎性ニ來ルモノハ時ニ發赤ヲ伴フコトアリ、而シテ輕症ナルハ數日ニシテ消失ス、或ハ月餘ニ及フコトアリ、又反覆本症ヲ患フルコト稀ナラス
原因 數種ノ實驗及事實ヲ綜合スルニ本症ハ恐ラク楊子江ニ産スル淡水魚殊ニ桂魚ヲ食スル(殊ニ生食)ニ依ル特異質症状ニシテ血管神經障害ニ由リ發生スルモノナルヘシ
症候 初期ニ腸胃炎症状ヲ發スルヲ例トシ食思不進胃部欝滞及輕度ノ下痢ヲ生ス、時ニ輕熱ヲ伴フコトアリ、腫脹ハ通常皮下ニ來リ瘙痒ヲ伴ヒ顔面軀幹及四肢ニ發生ス、又筋層ニ生ス、皮膚容易ニ緊張シ易キ部若クハ筋層ニ來ルトキハ多クハ疼痛ヲ伴フ、其ノ他舌、舌下、口腔粘膜、稀ニ内臓ヲ犯スコトアリ
〔以下省略〕
四、結論
以上記述シタルモノノ他熱帶「アフテン」住血「ビルハルチア」箆形肝蛭肥大吸蟲及肺「ヂストマ」等漢口附近ニ存在シ學者ノ研鑽ニ俟ツコト多シ、要之防疫衞生上ノ施設ノ完備ト箇人衞生思想ノ高上進歩ヲ達成スルヲ得ハ此等諸疾病ヲ防遏シ中淸地方ニ於ケル衞生成蹟ヲ向上セシメ得ヘキヲ信ス
五、引用書目
上の文は、大正二年一月三十日発行の 『軍医団雑誌』 第三十九号 に掲載されたものである。
なお、同年八月二十日発行の 『偕行社記事』 第四百六十五号 にも、ほぼ同じ内容の文が 「漢口附近ニ於ケル傳染病及固有地方病ノ調査摘要」 中淸派遣歩兵隊附陸軍一等軍醫 小菅勇 として掲載されている。
十二日以後同ジ状況ヲ繰返シツヽ十六日ニ至ルヤ軍艦秋津洲助ヶ船トシテ馬公ヨリ來着セリ、此時ハ最早病院モ篤志及雇入ノ看護人ヲ段々オ斷リシ(何時迄モ苦勞ヲ賴ムコトモ出來ザル故ナリ)我兵員ノ快方ニ赴ケルモノヲシテ看護ニ當ラシメ、艦内モ漸釣床ガ片付キ一兩囘ノ艦内消毒モ出來ルト云フ樣ニナリ病人ハ何レモ快復一方トナリ總テガ懸念スベキ状況ヲ脱シ、一方秋津洲ニテ來レル立川馬公要港部軍醫長及少軍醫並ニ秋津洲軍醫長ハ陸上ニ宿泊シ病院ノ方ヲ受持チ、矢矧軍醫長モ艦内ガ片付クト共ニ之ニ加ハリ、日本醫師總員ト協力シテ診療ヲナスニ至リシ故、病人中ニハ「之デ始メテ前後ヨリ胸ヲ見テ貰フヲ得眞ニ診察ヲ受ケタル樣ナ心地セリ」ト喜ベルモノスラアリタリ、此後ハ死亡者モ減ジ吾々ノ眼ニハ尚十名ハ死亡スルモノト見込ヲ附ケ居ルモ幸ニ夫レ程ニハ至ラズ、二十日迄ノ内ニ四、五人ヲ亡ヒタル丈ニテ死亡ハ全ク終止シタリ、即チ死亡者ハ四日ニ一名ヲ出シタル以後一日トシテコレ無キハナク十六日間ニ四十八名ヲ亡ヒタルモノニテ、毎日々々ノ葬儀ニハ眞ニ人心地ハセザリシガ茲ニ至リテヤット息ヲツクヲ得タリ。
病気手當其他ニ斡旋盡力シ呉レタル三善機関大佐、新田機関中佐、菅大軍醫其他五六ノ便乗者ハ兩三日前商船便ニテ出發歸朝セリ、其盡力ハ眞ニ感謝ニ堪エザルナリ。偖病人ハ死亡サヘセザレバズンゝ快癒スルカト云フニ中々然ラズ、中ニハ聾トナレル者二、三名、全身不随トナレル者モアリ恢復遅々トシテ意ノ如クナラズ、十二月中ニ歸朝シ得ルニ至ラント思ヒシ望モ水泡トナリ、大正七年ハ終ニ暮レタリ。
大正八年一月
一月十日頃ニハ愈出港シ得ベシト現状報告等ヲ出シアリシモ到底六ヶ敷、出港後又死亡者ヲ出ス如キ事アリテハ大變ナリ、且艦ニハ五十名以上ノ缼員(新嘉坡ニテ他艦ニ轉勤セシムル等相當ノ缼員アリシ所ヘ此度ノ死亡者ヲ加ヘ)アリ十日頃迄ハ航海ニ堪エザル者尚約五十名ニテ、如何トモ詮方ナキ故全員殆快復スル迄滞泊ト意ヲ決シテ腰ヲ据エタリ。
一月二十日 馬尼刺出港佐世保ニ向フ
此頃ニハ働キ難キ者十餘名トナレルヲ以テ愈一月二十日馬尼刺ヲ出港シ、次官ヨリノ注意ニ從ヒテ佐世保ニ向ヒ二十五日到着消毒ヲ行ヒ、一月三十日呉ニ歸着シタリ、全身不随ノ者一名ハ入院セシメタルガ漸次快方ニ向ヒ其他ハ皆先ヅ健康ヲ恢復セリ。
今回ノ才災厄ハ艦長ガ上陸ヲ允許セル事並初發一二名ノ病人(新嘉坡ニテ入院中ノ同病兵員ヲ見舞ヒタル者ノ如シ)普通ノ感冒ト誤信シテ出港セルニ因シ、終ニ無理ナル航海ヲ繼續スルノ已ムヲ得ザルニ至レルモノニシテ責ノ大ナル事勿論ナリト雖モ、一旦如斯状況境遇ニ陥リタル以後ハ之ガ傳染ヲ防止セントスルモ人力ヲ以テシテハ實際到底不可能ニシテ眞ニ不可抗力ト謂フノ外ナク、就中病人ノ看護監督ヲ命ゼラレテ服務中罹病シタル者ノ如キハ云フ迄モナク公務罹病ト謂フベキ者ナリ。
翻テ思フ、新嘉坡ニ於テ最初ニ患者ノ發生セル時ニ行ヘル隔離ガ奏効セル結果其當時患者ヲ續發セザリシモ、後日ニ至リ一時雌伏セル病勢ハ猛然暴發シ又術ノ施スベキナキ迄ニ至レルヨリ見テ、隔離ヲ行ハザリシカ又ハ隔離ガ奏効セザリシナラバ新嘉坡出港前已ニ患者續發艦内ニ蔓延シ善後ノ處置ニ便宜ヲ得テ、隔離ニ奏効セザリシヨリモ却テ或ハ好都合ナリシナランカト、隔離ノ奏効ガ却テ怨メシク思ハルル心地モスルナリ。
此度病気ノ治療看護ニ從事セル馬尼刺同胞中醫師一名玉田夫人其他傳染罹病セルモノアリシモ何レモ大事ニ至ラスシテ間モナク快癒シタルト、米陸軍ノ看護卒カ一人モ罹病セザリシトハ誠ニ幸ナリト謂フベキナリ。而シテ是等種種斡旋盡力シ呉レタル人人ハ眞ニ人ノ嫌惡スル危険大ナル病気、而モ赤ノ他人ヲ看病シ死水ヲ取ルト云フ有樣ニテ、雇入ノ者モアル故全體トハ言フ程ナラザレド一般ニ何レモ國家ノ爲トシテ危険ヲ物トモセズ献身的ニ力ヲ盡セルナリ、其篤志誠意實ニ感謝措ク能ハサル者多多アリタリ茲ニ重ネテ特記スルモノナリ。
墓碑建設、納骨式及呉ニ於ケル合同大葬儀
副長以下四十八士ノ死ニ就テ考フルニ病気ニ關スル責ハ艦長ニ在リトスルモ、死亡者ハ不可抗力又ハ公務ノ爲ニ死シ此馬尼刺ノ地ニ於テ神トナレル者ナリ。就テハ此地ニ於テ他日我同胞等ノ死者ノ靈ヲ憑吊禮拜スル事望マシク、之カ爲何トカシテ記念物ヲ建設シ置ク必要アリトシ、島崎秋津洲艦長其他ト種種協議ノ結果分骨シテ此地ニ墓碑ヲ樹ツルニ決シ、「軍艦矢矧病歿者之墓」ト題シ(矢矧分隊長島村綱雄氏筆)四十八士ノ名及本件ノ由來(附録墓碑銘参照)ヲ刻シ、之ヲ英國墓地「サンピドロ、マガチ」ニ建設スルコトトシ、一月十九日竣工(墓碑ハ全高一丈六尺ニシテ墓地ノ中央ニ位シ大ニ異彩ヲ放チ居レリー附録寫眞参照)同日納骨式ヲ行フ、矢矧及秋津洲乗員殆全部、在日本人多數並小學校生徒等参列シ荘厳ナル式ヲ擧行シ、小學校生徒ハ特ニ作歌セル追悼歌(附録参照)ヲ謠ヒ参列者一同ヲシテ袂ヲ絞ラシメタリ、斯クテ茲ニ後來ノ爲極メテ有名有力ナル建碑成リタルハ艦長トシテ眞ニ滿足ニ堪エザル所ナリ。此維持費トシテハ先ヅ三百圓内外(墓地ノ大サ六人分ニテ、一人分掃除費等一年五圓ノ規定ナル故年三十圓トシテ十ヶ年分)ノ金員(此金額ハ其後事故有リテ多少減少セルモノノ如シ)ヲ記録ト共ニ日本領事館ニ托シ、其後ノ維持ハ勿論萬事ハ在留同胞(主トシテ日本人會)ニ依托ノ口約ヲナシ、且寺院即チ日本ノ禅宗及眞宗兩方ヘハ後來年一囘、副長死亡ノ十二月九日ヲ命日トシテ病歿者一同ノ囘向(其後建碑式日即チ一月十九日ニ、尚其後更ニ同地一般戦死者追悼日ナル五月三十日ニ祭禮ヲ行フ事トナレルモノノ如シ)ヲ依賴シ相當ノ金圓ヲ香料トシテ納メタリ。
英國墓地「サンピドロマガチ」ニハ菅沼貞風氏及諸野亨候補生ノ墓モアリ旁参拝等ニハ好都合ナリト信ズ。墓碑建設ハ特ニ日本人會副會長井上眞太郎氏ノ斡旋ニ待チシコト大ナリ。
呉ニ歸リシ後ハ又諸方ヨリ多大深甚ナル同情ヲ寄セラレ、加藤呉鎭守府司令長官ヲ始トシ其他所在海軍當局者ノ非常ナル盡力ニヨリ二月一日盛大ナル一大合同葬儀ヲ呉海兵團練兵場ニ於テ施行スルヲ得遺族一同モ此盛儀ト馬尼刺ニ於ケル建碑トニハ滿足少カラザルニヤニ見受ケ、斯クテ幾分ナリトモ死者ノ靈ヲ吊ヒ遺族ヲ慰藉シ得タルハ艦長トシテ私ニ欣幸トスル所ナリ。
附録
〇大正七年十一月三十日現在 軍艦矢矧乗員表(附便乗者)
(イ)准士官以上 三十五名
(ロ)下士官 百十七名
(ハ)兵 三百十名
(ニ)傭人 九名
合計 四百七十一名
(ホ)准士官 以上官職氏名
〔省略〕
以上大正七年十一月三十日現在
(ヘ)便乗者
〔省略:11名〕
〇大正七年十二月 軍艦矢矧感冒死亡者表
死亡年月日 場所 官職 氏名
〔省略〕
備考 危篤ニ陥リ特ニ其上級ニ任ゼラレ又進級セシモノハ昇級セシ其官ヲ掲グ
〔場所毎では、馬尼刺「セントポール」病院40名、「セントポール」病院搬送中1名、馬尼刺「ゼネラル」病院1名、艦内6名の計48名。〕
〔日付毎では、12月4日1名、7日1名、8日2名、9日4名、10日14名、11日5名、12日8名、13日4名、14日2名、15日1名、16日1名、17日2名、18日2名、20日1名。〕
〇墓碑銘
這次坤輿ノ大戰ニ方リ本艦太平印度兩洋ニ策動スル二年漸ク任務ヲ終ヘ新嘉坡ヨリ凱旋ノ途殆ド全員流行性感冒ニ冒サレ航海困苦ヲ極メ客月五日辛フジテ當港ニ入ルヲ得タリ爾後在留同胞及當地官民ノ熱誠ナル援助ト秋津洲及軍醫等ノ特派ヲ受ケ極力治療看護ニ力メシモ十二月四日ヨリ同二十日ニ亘リ副長以下四十八士ヲ失フニ至レリ痛恨何ゾ勝ヘン或ハ病篤フシテ配置ヲ離レズ病苦ヲ顧ミズシテ戰友ヲ看護シ或ハ終焉ニ臨ミテ職務ヲ語リ脈搏絶テ 陛下ノ萬歳ヲ唱フ皆之レ忠勇義烈ノ士永久ニ帝國ノ戰史ヲ飾リ國民精神ヲ指導スベシ諸士瞑スベキナリ茲ニ遺骨ノ一部ヲ合葬シ謹デ諸士ノ忠魂ヲ弔フ
紀元二千五百七十九年 大正八年一月十九日 矢矧艦長 山口傳一
(本銘ハ墓石中姓名ヲ記セル部ノ背面ニ刻セルモノナリ)
〇軍艦矢矧 四十八士追悼歌 馬尼刺日本人小學校
(一)國を隔つる七百里 雲煙こめし韮律賓
マカチが岡の其の上に 悲しき墓標は立られぬ
これぞ御國の守りなる 大和健兒が痛ましく
病の爲めに身まかりし 英魂をまつる四十八
(ニ)雨なす砲弾も波風も 莞苒と笑て雄々しくも
敵をばたふす武夫が 恨をのみてねむるらし
かなしやゝ我々は 御艦の矢矧のなき人に
落つる涙をたむけとし 精忠世々に傳へなん
〇只今流行 ハヤル 世界風 西班牙語ではトランカソ 日本語では流行性感冒 インフルエンザ
(一)人の命もたわいなく 「トランカソ」には殺さるる
現にマニラに碇泊の 日本軍艦矢矧 ヤハギ 艦
其乗組員四百人 艦長一人其後は
皆此の風に犯されて たった四日其中に
十六人も死にました。
(二)偖 サ て此の風の原因は 細かき小さき微菌 バイキン で
咳嗽 セキ する患者の息を嗅ぎ 使った手拭「ハンカチ」で
鼻や口から這 ハイ り込み 風でも引くか酒呑むか
身 カラダ にくるゐある時に 熱を起して苦める。
(三)「インフルエンザ」其ものは そんなに恐くはなゐけれど
肋膜炎や肺炎や 神經痛や衰弱症
耳を犯して中耳炎 ミミンダン 肺結核をも引起す
(四)偖而此の風に罹 カカ る人 急に惡寒 サムケ 戦慄 フルエ して
四十度前後の熱を出し 頭が痛み膓 ハラ 痛む
手足の関節 フシブシ 腰までも 疲勞 ツカレ 倦怠 ダル くて尚痛む
咽喉 ノド が腫れたり痛んだり 咳嗽喀痰鼻汁 セキニタンニハナジル に
食事もとんと頂けず 肺炎起した其時は
赤き痰まで喀 ハ き出す
(五)昔の人の云ふ如く 豫防 ヨボウ の一日 ヒトヒ 治療の十日
罹らぬ先の豫防が肝心 蒲団に寝 カイマキ 毛布に枕
度々出して日に晒 サラ し 着物も身體も垢おとし
患者の痰には煮湯 ニエユ を入れて 寒 サ めての後に便所にすてよ
「ピリン」「ヘブリン」「キニーネ」等其他あらゆる解熱剤 ネツサマシ
用ゆる事は却って危險
紀元二千五百七十八年 西暦一千九百十八年 戌午 O.D.C. 病院
(本歌ハ矢矧カ馬尼刺入港後四五日中益大事ニ至レル際居留民ノ誡トシテ謠歌スベク病院ニテ作成頒布セルモノナリ以テ此病流行ニ對スル騒擾ノ一端ヲ推知スルニ足ラン)
〇誄詞 〔下は、その一部〕
去歳十一月三十日新嘉坡ヲ發シ馬尼刺ニ向フヤ突如流行性感冒ノ襲フ所トナリ其ノ傳播急激ニシテ乗員殆ンド皆之ニ冒サレ航海ノ困難言語ニ絶シ各々死力ヲ盡シ萬難ヲ排シ其ノ職ヲ守ルト艦内到ル處患者ノ苦痛觀ルニ忍ビザルト状況實ニ凄愴ヲ極メ二月五日辛シテ馬尼刺ニ到着スルヲ得タリ爾後在留同胞及同地官民ノ熱誠ナル援助ト軍艦秋津竝軍醫等ノ特派ヲ受ケ倶ニ共ニ治療看護ニ努メシモ不幸ニシテ諸士ト永別ノ悲運ニ會ス
十二月八日
病院ニ於ケル死亡者ハ此日迄ニ五人ニ及ベリ、此日ニハ矢矧軍醫長モ最早上陸診察位ハ爲シ得ルニ至レル故、先ヅ入院中ノ病人ヲ見舞ハセ殊ニ士官ヲ診察セシメタリ(勿論陸上ノ醫師ニ依賴シアルモノノ醫師ハ他ニ自身ノ患者モアル事トテ思フ樣ニ行カザル點モアルナリ、又西洋醫モ一、二名依賴シアルモ彼等ノ風習ニヤ将タ傳染病ヲ恐ルルニヤ多クハ碌々脈モ取ラズ「何ノ事モナシ」ト言フ具合ナリ)、其報告ニヨルニ士官ニハ別ニ憂フベキ者ナク唯副長ガ年齢ダケニ多少衰弱シ居レルモ之モ比較的ノ事ニテ毛頭懸念スベキ事ナキ模樣、次ハ年順ニ砲術長、航海長ト云フ具合ニテ、航海長ハ熱ハ高キモ身體ハ確カリシ居リトノ事ニテ、副長ニ急變アルベシトハ思ヒモ寄ラザリシナリ。
十二月九日 副長以下十四名死亡
患者ノ樣子ハ? 死亡者ハ? 状況如何ト使者(此使モ總テ篤志日本人ニテ艦ヘ往復ノ船ハ一隻百五十圓モ出シテ雇ヒ居ルナリ)ノ來ルヲ待チ居リシガ、午前十一時頃日本人會長船津氏ガ特ニ船ヲ仕立テ、副長危篤ノ報ヲ齎シテ急遽來艦セリ、小官ハ昨日態々軍醫長ヲシテ診察セシメタル結果ニヨルモ昨夕迄ハ左程ニモナシトノ事ナリシガ、實ニ驚クノ外ナシ但シ自分一人行クモ仕方ナシ軍醫長ヲ伴ハセントセシニ艦内ニモ危篤ノ者アリテ手ガ離サレズトノ事ナルニヨリ、船津氏ト共ニ急ギ上陸場ニ至ルニ新田機関中佐自働車ヲ用意シテ待居タル故、急ギ之ヲ駆リテ病院ヘ馳セ着キタルハ正午ヲ過グル五分頃ニテ、百八十人以上ノ下士卒病人ノ間ヲ通リツヽ「艦長々々長クオ世話ニナリマシタ」ト涙ヲ流シテ呻ク叫ブ者等アルモ顧ズ單ニ「ソンナ気ノ弱イコトデハイカヌ確リセナクテハイケナイ」ト不憫ナガラモ言ヒ棄テ、副長室ノ有ル階上ニ行キ見レバ、副長其他五六ノ士官一所ニ在ル其室前ニ三善機関大佐艦長ヲ待チ居リテ、近寄レバ耳ニ口ヲ寄セ「今イケナクナッタ」ト、嗚呼然リシカ遲カリシト、室ニ入リテ副長ノ顔ヲ眺ムレバ未ダ眼モ充分ニ閉ヂ居ラズ即之ヲ押ヘテ瞑目セシメ胸、手等ニ觸レ見ルニ未ダ溫気アレドモ已ニ脈搏ナシ、併シ顔ハ如何ニモ悠然落著キテ少シモ動ジタル模樣ナク、唯多少吐血シタル形跡アリ、而シテ段々昨夜ヨリノ有樣ヲ聞ニ、昨夜ハ動キタル爲ニ病重リシカ或ハ重態トナリテ苦悩ノ爲身動キ多カリシカハ不明ナルモ、幾度モ便所ニ立チ(勿論少々重態ノ方故看護人ニハ注意スル樣申付ケアリシモ)、又體溫三十九度五六分ナルモ如何ニモ熱ニ浮カサレタル如ク時々囈語ヲ發シ、而モ其レガ何レモ艦内ノ事ノミニテ「明日ノ事業ハ斯クシテ下サイ」トカ「之ハ 斯ウシテ下サイ」トカ、敢テ私事ヲ語ラズ又此病気ヲ艦内ニ入ラシメタルコトガ如何ニモ濟マヌト云フ樣ナコトモ言ヘルガ如シ。同室ニ枕ヲ列ベテ寢ネタル航海長、砲術長、分隊長等ハ自分等ガ四十度以上ノ高熱ナルニモ拘ラズ、隨分心配シテ副長ヲ劬リ其間ニハウンゝ呻キ居ル始末、砲術長ハ熱ト脈搏ト交叉スルトカ云フ極メテ危険ナル状態ニ在リシガ、或ハ引續キ是等ノ人々ニモ急變ヲ生ジハセヌカト大ニ気遣ハレタリ、斯クテ動ク事ハ病気ノ爲第一ニ惡イト云フ事ガ病人一同ニ了解サレタリ。
偖副長ハ此朝八時頃ヨリ急變シ注射ヲ三囘行ヒ、一方艦長ニ早ク通知ト云ヒテ態々船ヲ仕立テヽ日本人會長ガ暫ク十一時頃來艦セル次第ナリシ。
副長ハ容態益々險惡トナリシモ如何ニシテモ艦長ノ來ル迄ハ生カシ置クノ必要アリトテ四囘目ノ注射ヲ行ヒタルモ遂ニ其效ナク、醫師ハ遂ニ「何カ申シ置カルルコトナキヤ」ト副長ニ問ヒシニ、副長ハ今更ノ如ク疑ヘルモノト見エ「ア何デスカ」ト問ヒ返シタルヨリ醫師ハ如何ニモ心苦シカリシモ右ノ意味ヲ繰返シタルニ副長ハ「アーサウデスカ、ソレナラバ私ノ事ハ大阪伏見町ノ〇〇〇(妻君ノ宅)宅ト云フ人ニ言ヘバ何モ判リマス海軍ノ事ハ周防ノ副長(妻君ノ兄ニシテ中佐〇〇〇〇氏)ニ聞テ下サレバ何モ判ル」ト言ヘルノミニテ息ヲ引取リ、悠々落著キテ一言モ私事ニ言及セズ居合ハセタル三善機関大佐領事夫妻、醫師等一同副長ノ修養ノ積ミアルニ感服セリト云フ。斯クテ意外ノ人ガ急變不慮ノ不幸ニ陥ルガ如キ有樣ニテ、危篤モ電報スルノ遑ナク重態ノ如キハ皆然リト云フ状況ナリ。
副長ハ百方手ヲ盡セシニモ拘ラズ遂ニ起タズ又如何トモスベカラズ、即チ衣ヲ更ユルタメ軍衣ヲ取來ルベク日本人ヲ使者トシテ本艦ニ遣シタルガ、一同ハ副長室ニ入リ箪笥ノ抽出ヲ開キタルニ、子供達ニ一々色々ノ御土産物ガ買調ヘアルヲ見、之ガ一週間ノ後ニハ一家團欒裡ニ御家族ノ手ニ渡サルベキモノナリシカト一同坐ロニ袖ヲ濕シタリトテ涙ナガラニ白軍衣ヲ持チ歸レリ。即チ軍衣ヲ着更ヘサセ、兵員ニ對シテハ到底及ブベクモアラザレド副長丈ケニハ何トシテモト我人共ニ通夜ヲ望ミ、日本ヨリ來リ居ル禅宗ノ出張所南天寺ニ依賴シテ此所ニ副長ノ柩ヲ安置シ通夜スルコトトセリ。因ニ馬尼刺ニハ右禅寺ト眞宗ノ出張寺トアリ、本艦死亡者ノ葬儀ニハ兩寺院ノ僧侶ニ毎日讀經ヲ依賴セリ。此九日ハ死者ノ最モ多キ日ニテ艦長(艦内ニテハ殘レル分隊長ガ萬般ノ監督ニ任ジ居ルノミニテ本艦ヨリハ艦長ノ外誰モ通夜ニ出デ得ル者ナシ)ハ在留同胞ト共ニ通夜ヲナシ居リシガ、七時八時トナルヤ病院ヨリ電話ニテ「今一名亡クナッタ」「今又二名、今又一名危篤」ト言フカト思ヘバ、「一名ノ患者ガ何ウモ暴レテ致方ナキ故屈強ナル看護ノ男二三名ヲ送ラレタシ」ト云フ如キ有樣(看護婦等ハ逃ゲ廻リ居タリト云フ而シテ通夜ノ人々中ヨリ看護ニ行キ呉レタリ)、死亡者ハ漸次増加シ夜二時三時ノ交ニハ驚クベシ合計九名ニ及ビ、此日ハ夜ニ掛ケ副長ヲ加ヘテ遂ニ十四名ノ死亡者ヲ出スニ至レリ。最早人心地ハセズ艦長ハ死者ノ顔ヲ眺メテ告別スルヲ例トセシモ、此十四ノ遺骸ヲ排列セル時ハ胸一杯トナリテ其半數モ眺ムルコト能ハザリキ。而シテ此日ノ葬儀中同道セル一分隊長ノ如キハ、已ニ高熱ニシテ流汗瀧ノ如ク佇立苦悩ノ狀傍目ニモ著シキヲ以テ、一同腰掛ヲ勸メシモ肯ゼズ遂ニ我慢シテ式ヲ終ヘ、歸艦ノ後モ依然休臥スルコトナク勤務ヲ繼續スルヲ以テ、艦長ハ之ニ向ヒ「無理押ヲシテ副長ニ次グノ不幸ヲ續出スルガ如キ事アリテハ益大變ナル」旨ヲ説キ入院ヲ勸ムルモイッカナ聽入レザルノミカ、却テ「私ガ寝マシタラ貴君ハドウシマスカ私ハ大丈夫デス」ト怒鳴レル程気丈ナリシハ誠ニ賴母シキ事ナリキ。然レドモ遂ニ病ニハ勝テズ一兩日後之コソ身動キモナラヌ状況ニ陥リシガ、他ノ分隊長ガ漸次起キ出デ多少勤務シ得ルニ至レルモノアルヲ見テ、稍安堵セシ者ノ如ク入院ヲ肯シタレバ、之コソハト吾々ハ他ノ分隊長ト共ニ本人ヲ脊負ヒテ渡船ニ運ビ入院セシメタリ、而シテ入院後専心療養ニ努メ幸ニシテ全快スルヲ得タリ。
十二月十日
状況斯クノ如ク又諸事意ノ如クナラヌモノアリ気ハ隨分苛立テド最早斯クナリテハ何トモ致方ナク言ハバ百計盡キタリト云フ境遇ニ近ク、「行キ著ク所迄ハ仕方ナシ行ケゝ」ト気モ變ニヤケ気味ノ樣ニナル如キ始末ナリシカ、遂ニ通夜モ濟ミ翌朝トナリテハ又艦内ノ事モ気遣ハレー而モ艦内ニテハ未ダ一名ノ快復者スラナク依然トシテ病人ダラケニテ釣床一ツ未ダ片付カザル時期ー桟橋ニ到リ見レバ這ハ又如何ニ四個ノ棺ヲ用意賴ムトノ艦ヨリノ手紙ヲ持チテ日本人カ來ルニ行遇ヒタリ「ヤッ艦内ニモ亦死亡者ヲ出シタカ」ト打驚キ、急ギ歸艦スレバ案ノ通リニテ艦内四名ノ死亡者ノ内一名ノ如キハ食卓ノ上ニ死シ居タリト、聞ケバ夜三時迄ハ生キ居タルハ確實ナルモ其死亡ヲ發見セルハ午前四時過ニテ其死亡時刻不明ナリト云フ、之モ已ムヲ得ザル状況ニテ、日本人醫師ハ都合アリテ一名ノ外來ラズ軍醫長モ菅大軍醫モ完全ノ身ニ非ズ、入港後三日間位ニシテ漸一通リ診察終リ辛フジテ藥ガ行キ渡レリト云フ状況ニテ、或者ノ如キハ罹病後三日目始メテ藥ヲ與ヘラレ拜ンデ服用セリト云フガ是等ハ手當ガ良ク行届ケル方ナリ、又炊事スル者モ依然少ク病人等ヘノ配食モ意ノ如クナラズ從テ食事モ碌々爲シ得サルガ一般ニテ而モ食事ト言フモ唯「飯ニ鹽」式ノモノナリ。一方艦内糞便ノ掃除モ未ダ濟マザル程ニテ、死亡者ノ死亡時刻ガ明ナラズト云フ如キコトモ萬一ニハ誠ニ已ムヲ得ザルコトナリトス。斯クテ死亡者ハ九日ノ十四名ガ絶頂ニテ、之ヨリハ下坂トナリシモ猶此日ニハ病院ニ於テ七名ノ死者ヲ出シタルガ艦内ニテハ九日以後幸ニ死亡者ナシ。此七名ノ死者ニ關シテハ次ノ如キ滑稽ナル出來事アリ、偶以テ混雑ヲ極メタル當時ノ状況一般ヲ語ルモノナリ、始メ患者ヲ入院セシムルニ當リテハ現在ノ入院患者約百八十名ハ一時ニ送院セシニアラズ、病院ニテハ此多數ヲ一時ニ収容スルノ用意出來ズ又輸送力ニモ限アルヲ以テ、二十人、三十人ト病院ノ都合ツキ次第送院セルモノニシテ此十日ニモ約十名ヲ送院シツツアリ、其一人ナル〇〇機関兵曹ハ注射ノ效モナク桟橋ニ於テ終ニ死亡セリ、而シテ病院ヨリハ死亡者七名トノ報告アリ、葬儀ノ定刻ナル四時モ近ツキタル故艦長ハ分隊長一名ト下士官各二名トヲ伴ヒ先ヅ病人ヲ見舞フ爲病院ニ至リシ時(道順良キ爲毎日會葬前病院ヲ見舞フヲ例トセリ)、寺ヨリ遺骸六個ニテ一個不足セリトノ使者來院シ其捜索ニ騒動シ居ルヲ以テ、分隊長等ヲシテ之ガ調査ニ當ラシメ、一方領事館ニハ取敢ヘズ内地其他ヘノ電報發信ヲ待ツ樣電話ヲカケ(死亡者ノ報告、現状報告等ハ艦長ノ日日ノ仕事ニテ發電等ハ領事館ニ依賴シ、領事館ノ仕事モ矢矧ノ事ノミト云フ如キ有樣ナリ)、一同種種調査中寺ヨリ〇〇機関兵曹ノ遺骸ナキ事ヲ通知シ來レルニヨリ、病人中ヲ捜シタル所〇〇ハ眼ヲパチゝシテ今尚確ニ生キ居ル事ガ判明シ、實ニ此時ハ「一人儲タ 本事件勃發以來始メテ覺エズ一同笑ヲ含ミタル次第ナリ。偖斯ル間違ヲ起シタル原因如何ヲ調査セシニ、前記桟橋ニテ死亡セル〇〇機関兵曹ノ遺骸ハ其儘一應病院ニ運ビ入レタルニ、混雑ノ際トテ病院ノ病人係日本人ガ遺骸ヲ送リ來レルモノナルヲ知ラズ、誰ナルカト其著衣ヲ調ベタル所褌ニ「〇〇」ト記號アリシヨリ〇〇ガ病院ニテ死セルモノトシテ一同ニ通知シ兎ニ角〇〇ハ死亡者ニ加ヘラレタルナリ、斯ル事ハ非常ナル混雑而モ殆總員病臥セル斯ル場合大ニ有リ得ルト想像セラル。即チ百八十人以上ノ病人ヲ入院セシメタルモノノ之ガ何某々々ト其時々々整頓良ク札ヲ付ケル人モ始無ク、艦長ト分隊長位ニテハ全員ヲ知リ居ル譯モナク且調査ノ遑モナク相隣レル者ニ質スコトモ出來ズ、不得已多クノ場合著衣等ノ記號ニヨリテ其誰ナルヤヲ知ル如キ始末ニテ、此〇〇ノ遺骸モ其褌ニ「〇〇」ト記號アル以上間違ナシト信ジタルハ無理モナキ事ニテ、併シ別ニ此日入院途上桟橋ニテ〇〇死亡セル事ハ歴然タル事實ナルヲ以テ、是等ヲ別別ニ考ヘ〇〇モ〇〇モ共ニ死亡セリト云フコトトナレルナリ。世ニハ一度死ヲ傳ヘラルル時ハ長生スト稱スルモ此〇〇ハ乍遺憾二三日後ニ死亡セリ、最後迄奮闘セル機械部ノ先任下士ナリシガ誠ニ惜シキ事トセリ。偖此〇〇カ如何ニシテ〇〇ノ褌ヲ締メ居タルヤヲ考フルニ、艦内ニテハ重病者ナルヨリ糞便モ意ノ如クナラズ終ニ其下ノ物ガ不潔トナレル爲、入院前マデモ自ラ褌ヲ換エシカ、或ハ其時苦シ紛レニ附近ニ在リシ〇〇ノ衣嚢ヨリ之ヲ取出シ自身締メタルカ、或ハ他人カ替エ呉レシ時ニ間違ヒタルカニ因ルナラン。兎ニ角如何ニ病苦ニ惱ムモ唯一人世話シテ呉レルモノモ面倒ヲ見テ呉レル者モ殆無キ悲惨ナル境遇ノ下ニハ起リ勝ノ事實ト謂フベキナリ。
十二月十一日
此日ハ死亡者又十一名トナレリ、死亡者ヲ出セル始メノ頃ハ嗚呼一名ハ犠牲ナリ詮方ナシト思ヒ、次テ漸次六、七名トナルニ及ビ第十三驅逐隊位ニ至ルカナト思ヒ居ル間ニ、愈最上ノ十七名所デ無ク其位ハ一夜ニ死亡スルニ至リ之ニテヨキカト思フモ束ノ間ニテ合計二十五、三十五、四十ト云フ勢ニ増加シ、今ヤ何時何名迄行クカ豫想スラ出來ヌ状況トハナレリ、而モ其死亡ノ有樣ハト云フニ或者ハ前記ノ如ク眞赤ナ眼ヨリ落涙滂沱トシテ「艦長ゝ永永御世話ニナリマシタ」ト呼ビテ間モナク縡切レルモアレバ、「軍醫長モウ到底イケマセンカ殘念ダコンナ所デハ死ニ度ナイ」ト言ヒツツ瞑目スルモアリ或ハ最早死ヲ決シテ本気ニ「天皇陛下萬歳」ヲ唱ヘテ息ヲ引取ルモノモアリ、此最後七日(一等兵曹〇〇〇〇〇〇)ハ平素誠ニ謹厳ニテ或時病気ノ際分隊長ガ花柳病ナラザルカトノ口吻ヲ漏ラセル所大ニ抗議ヲ申出デタルコトアル位ノ者ナリシ、又〇〇上等機関兵曹(機関兵曹長ニ進級)ノ如キハ自分ガ日本ヲ出タル後ニ生レタル二番目ノ子供ガ最早ニ三歳ニナレルヲ寫眞ノミニテ見居タルガ、「今自分ハ到底助カラナイ」ト言ヒ周圍ノ人ガ何ト慰ムルモ「イヤ駄目ダ」ト、隣接伏臥セル同病ノ上等兵曹ヲ顧ミ「貴公ガ日本ヘ歸ッタナラバ、自分ノ妻ニ拙者ノ分迄御前一人デ骨折ッテ、子供二人ガ孤児デ仕方ノ無イ奴ニナッタナドト、人ニ言ハレヌ樣ニ育テヨト言ッテ呉レ」ト言ヒツツ絶命セリ、又中ニハ此度ハ自分ノ番ナリト思ヒ詰メタルラシク悶キゝ暴レ死セルモアリテ、其死状ハ千差萬別ナルモ大概ハ「自分ハ死ヌ」ト覺悟セルモノ多カリシ如ク、其多クハ流石ハ軍人ナリト在留同胞モ感ズル如キ最後ヲ遂ゲタリ、而シテ気ノ狂ヘル如キ者暴行セル者水風呂ニ飛込メル如キ者等何レモ皆死亡シタリ。
病勢漸ク下リ坂トナル
斯ノ如ク何時ニ至ラバ止メ得ルカト思フ程死亡者ノ數ハ增スノミナリシガ、十一日十一名ヲ亡ヒタル後ハ愈下リ坂トナリ死亡者モ日ニ二、三名、ニ減ジ、一方艦内ニテモ少シツツ快復者ヲ生ジ仕事ヲ爲シ得ル者モ十名、二十名ト出來タリ、然レドモ之ニ少シモ力ヲ勞スル如キ仕事ヲ爲サシムレバ多クハ又高熱ヲ出スニ至ルヲ以テ徐ロニ仕事ヲナサシメツヽアリ。
〔蔵書目録注:文中の人名は、適宜〇〇〇〇等と伏字とした。〕
十二月五日 馬尼刺入港
午前二時頃艦長出デテ上甲板ヲ巡視セルニ、展張セル天幕ガ破レテ風ニバタゝ煽ラレ居ルモ掌帆長屬モ傳令モ姿ナク衛兵モ見エザレバ取次モ居ラズ誰一人之ヲ始末スル者ナク、上甲板ハ無人ノ境寂寥ヲ極メ唯風濤ノ怒號スルアルノミ。足一歩中下甲板ニ入ランカ、糞便ハ隨所ニ放置サレテ足ノ踏所モナク、病人苦悩ノ呻リ聲耳ニ盈チ熱気醞蒸惡臭芬芬トシテ鼻ヲ衝キ、「殘念ダ」ト叫ブモアレバ「氷ヲ呉レゝ」ト呼ブモアリ「藥ヲ呉レ」ト言フ者アリ。軍醫官モ病苦ニ悩ミツツモ徹夜診療調剤ニ從事シ居ルモ及ブベクモアラズ、病人中ノ元気アル者迄看護ニ手傳ヒ居ルモ手ハ廻ラズ光景眞ニ正視スルニ堪エザルナリ。更ニ艦橋ニ至レバ航海長ハ昨日ニ比スレバ一層苦シ気ニ鉢巻ヲナシ外套ヲ引被リ羅針機ノ側ニ倒レ居リ、當直将校モ如何ニモ苦悩ニ堪ヘヌ樣ナル故「一寸休マナイカ」ト言ヘバ「イエ何ウモアリマセン」ト答フレド「ソーデハ無イダラウ」ト言ヘバ「ソレデハ一寸お賴ミシマス」ト言ヒ直ニ側ニ外套ヲ被リテ寢ルト云フ有樣ニ何トモ形容ノ詞モナシ斯クテ能クモ艦ノ運航ガ出來ルト思ヒタリ。艦長ハ引續キ艦橋ニ在リ艦ヲ操縦シツツ考フルニ「斯ル大事件ヲ惹起セルハ素ヨリ自分ノ大責任トハ言ヒナガラ斯ル境遇ニ陥レル以上ハ又如何トモスベカラズ、一刻モ早ク出來得ル丈ケ多數(出來得レバ總員ニテモ)ノ患者ヲ陸上病院ニ入院セシメナバ別ニ多數ノ死者ヲ出サズトモ濟ムベク、入院サヘ爲サシメ得バ其内ニハ快復スルニ至ルベシ、併ソレ迄能ク艦ヲ運轉シ得ベキカ、自分ハ今ノ所大丈夫ト思フモ自分一人ノミニテハ如何トモスベカラズ、今ヤ艦内ニテハ如何ニスルモ病気ヲ避クル譯ニ行カズ最早比較的健全ナル者ヲ隔離シ置クヨリ外ニ方法ナシ」ト。斯ル間ニモ病毒ハ遠慮ナク益蔓延シ何レノ方面モ刻一刻減員シ午前三時頃ヨリハ終ニ唯一直丈ケノ人員トナリ汽機モ、汽罐モ(勿論重油ノミ使用ー此場合重油ナレバコソ無理モ出來タル譯ニテ重油ノ難有味ヲ染々ト感ジタリ)舵モ現ニ附キ居ル者ノ他交代者皆無ニテ、又炊事ハ唯二名トナリ、看護ニ從事ノ者モ一二名トナリ「未ダ續クカ」ト問ヒツツ運航スル有樣ニテ、「何デモ遣ツツケマス」ト我慢ニ我慢ヲナシテ働キ居ルモノノ最早半日ト繼續可能ナリヤト疑ハレ、唯能クモ電燈ハ消エズ火藥庫ノ冷却モ續行出來タモノト思ヒタリ艦ノ長大ナル黑影ハ徐ロニ水ヲ切リツツ、黙黙トシテ而モ重キ病気ニ喘ギツヽ、風濤怒號ノ海上ヲ闇ヲ衝キテ唯ヒタ走リニ駛走スルノミ物凄キコト言語ニ絶ス。
軈テ夜ハ明ケ馬尼刺灣口ヲ望見スルヲ得タルガ、其時ニ於ケル歡喜ノ情ハ眞ニ例フルニ物ナク生涯忘ルル能ハザル所ナリ、午前九時頃灣口ニ達セル時、其所ニ在泊警備ノ米艦「ヘレナ」ヨリ訪問士官及軍醫官本艦ニ接近シ、醫師藥劑等ノ要否ヲ問ヘリ是昨夕ノ無線電信ヲ以テ日本領事ニ請求依賴セシ事ヲ知リ居レルガ爲ニシテ、本艦ニテハ不取敢軍醫官丈ケ内港迄便乗ヲ依賴シ道スガラ軍醫官ト種種打合セヲナシ又艦内ノ視察ヲ求メ病毒ノ猛威ヲ語リ合ヒツツ、正午辛フジテ内港錨地附近ニ達セル時、港務部長ノ乗艇、我領事ノ乗艇等接近シ來レルモ一刻モ早ク投錨セザレバ運航不可能トナルベキヲ慮リ是等ニ顧慮スルコトナク且港務部長乗艦錨地ヲ指定スルモ待タス適當ト思フ所ニ投錨セントシテ錨地ニ進入セリ、此時航海長ノ如キハ四十度五分ノ熱アリテ「ビヤリング」モ何モ到底當テニナラズ今ヨリ思ヘバ變ナ事ナト言ヒシ樣ニテ顔ハ真赤ニシテ物凄ク、錨用意ヲ令スレバ面色土ノ如キ者カ僅ニ五六名蹌跟トシテ錨ノ所ニ出テ來リ、投錨終レバ又蹌跟トシテ下甲板ニ入リ寝込ムト云フ有樣ニテ、端艇モ機動艇モ卸スコトナド思ヒモ寄ラザレド舷梯丈ケハト出サシメタルニ約一時間ヲ要シタリ、是病人多ク便乗ノ下士卒數名ヲモ衛兵、取次等ニ迄使ヒ居ル位ニテ、是等ノ者ニ艦内ニテ動キ得ルモノヲ加ヘテ不知案内ノ者ニ作業セシメタルカ爲ナリ。
斯クテ港務部長先ツ來艦シ「此所ニ投錨サレテハ困ル海圖ニ記載ナキモ此所ハ電纜カ通ッテ居ルナリ」ト言ヘルモ、今更如何トモスルコト出來ザルヲ以テ其趣ヲ語リ「如何樣ニモ責ニハ任スヘク後日爲シ得ルニ至ラハ如何ニモスヘキ故目下ハ當分此儘ニ許サレタシ、兎ニ角此中下甲板ヲ見テ貰ヒタシ」ト一人ノ完全ナル健康者ナキ惨状ヲ示セシニ苦笑シツツ承諾シ呉レタリ。
次テ日本領事相原庫五郎氏ノ外重ナル在留邦人約三十名來艦逐一艦内ノ狀ヲ見聞シ殆腰ヲ抜カサン許リニ驚キシカ、兎ニ角日本醫四名、看護ノ心得アル者一名アルヲ以テ醫師ハ陸上ノ病院ト艦内トヲ二名宛ニテ受持チ、看護ノ心得アル者ハ艦内ノ手傳、其他ノ日本人ハ夫夫公用使、陸上ノ看護又若干ハ艦内ノ手傳等ニ當ルコトニ協定シタリ。茲ニ於テ何所ニ誰、何何會社ヨリ誰誰、篤志看護ノ人人ハ病院ト云フ如クニ定メ、又雇入レノ看護人ハ日中五圓夜中十五圓トシ廣告シテ募集スルニ決セリ。
患者の送院
一方陸上ニテハ「セントポール」病院ニ士官十一名、下士以下五十名収容ノ準備出來居ルトノコトニテ送院ニ着手シタリ。
副長ハ誠ニ元気ヨク入院ニ際シ艦長室ニ來リ如何ニモ驚キタル風ニテ曰ク「艦長ハ何トモアリマセンカ」ト依テ「拙者ハ何トモナイヨ、君シッカリ早ク治シテ來テ呉レ給ヘ隨分恐ロシイ樣ダ、ケレドモ艦ノ事ヤ後事ハ一切萬事引受ケタカラ少シモ心配セスニ充分ヨク治シテ來テ呉レ給ヘ」ト言ヘバ、副長ハ「ハイ承知シマシタ隨分恐ロシウゴザイマス」ト繰返シツツ別ヲ告ケテ出デタリ。
偖送リ出ス者トシテハ入院サヘサセレバ間モナク治ルベシ位ノ考ニテ死亡者ヲ出ス如キコトハ思ヒモ寄ラズ、病人自身モ五十餘名ノ内二三ノ外ハ自身ニテ乗艇スルト云フ風ニテ後日恐ロシキ死ノ手ニ捕ヘラルルニ至ラントハ思ヒ居ラザリシナリ、斯クテ五六十名ノ重病者(准士官以上ハ醫師ノ手ガ廻ラヌ故互ニ檢溫ヲナシ又ハ手足ヲ握リテ高熱ト思ハルル者ヲ重病トシテ入院セシメタルナリ)ハ病院ニ行ケリ。コレニテ艦内ハ多少ナリトモ片時キタルカト云フニ決シテ然ラズ、入院セル者ガ重病ガ艦ニ殘レル者ガ尚重キガ輕重ハ勿論明ナラズシテ、艦内ハ依然病人充滿立錐ノ餘地ダニナク苦悶懊悩ノ狀モ亦依然タリ、而モ一人ノ輕快者スラナク、軍醫官ハ陸上ヨリ來援ノ醫師、看護人ト協力シ陸上ヨリ得タル材料ヲ用ヒテ徹夜診療ニ骨折リシモ事容易ニ捗取ラズ、漸三日目ニ病人ヲ人通リ診察シ藥モ一通リ與ヘ得タル状況ナリシ、尤陸上ヨリノ醫師ハ始メハ二名ナリシモ其一名ハ多忙ト事情トノ爲艦内迄手廻リ兼ネシガ、幸ニ新ニ他ニ二名ノ若キ日本醫ヲ艦内ニ迎フルヲ得之ニテ艦内病人ノ方丈ケハ三四日ノ内ニ大ニ捗取リタル次第ナリ。
米國海軍、陸軍、總督府等ヨリハ入港當時ヨリ醫師同伴ニテ見舞ヲ受ケ、必要アラハ如何樣ニモ取計フベク又海軍病院モ多少空キ居ルト言ハレシモ「カヴイテ」ハ遠隔シ居リテ事アリシ時交通不便ナルヲ以テ辭退シ、唯陸軍看護卒約十名ノ補助ヲ得之ニ病院ノ方ノ手傳ヲ賴ミタリ。
日ヲ經ルニ從ヒ艦内ハ漸次多少ヅツ輕快者ヲ出シ又軍醫長モ入港翌日位ヨリ多少ノ診療ヲ押シテ爲シ得ルニ至リ、菅大軍醫ト共ニ艦内ノ方ニ手ヲ盡シ艦内ニ於ケル看護手當ハ少シヅツ艦員ノ手ヲ以テ爲シ得ルニ至レリ。
五六十名ノ送院ヲ終リテ艦内ノ仕事モ兎ニ角一段落トナリ一息ツクヤ此度ハ艦長自身身體ノ具合面白カラズ、艦長ノミナラズ今迄我慢シ居タル准士官以上ハ大部分倒レ、殘レルハ艦長及島村、外賀兩大尉並長谷川機関少佐ノミトナレリ、一方艦内ニハ便乗者數名アリテ内士官ハ一名丈ケ罹病セザヲ以テ當直共他ノ事ヲ依賴シ艦務ヲ處理シ行クノ已ムヲ得ザルニ至レリ、又便乗ノ三善機関大佐、新田機関中佐ハ以前輕症ヲ患ヒタル爲カ今囘罹病セス、依テ陸上ニ宿泊シ我領事及日本人會長等ト連絡シテ病院其他陸上ニ於ケル諸事一切ヲ處理スル樣依賴シタリ。艦長ハ気分何トナク宜シカラズ此場合如何ナル急變ヲ見ルニ至ルヤモ知レザルヲ以テ、早ク休業加療シ早ク快癒スルニ如カズト考ヘ此日(十二月五日)朝ヨリ休業スルコトシ、萬事ヲ未ダ倒レザル先任将校ニ托セルモ先任将校亦間モナク休業シ、次ヨリ次ヘト申繼ク如キ状況トナレリ、艦長ノ病気ハ重キニアラズ唯用心ノ爲ニ休業セルモノニテ寝ナガラモ艦務ヲ見居タルガ、昨日入院セルモノ一名死亡シ他ノ一名モ危篤ナリトノ報アリ、コレハ寝テ居ルベキ時ニ非ズト起キ出デタルガ、其艦務ノ繁忙ニ取紛レツツモ手療治丈ケハ怠ラズ、唯咽喉ガ痛ミ多少熱アル位ニテ遂ニ何等ノ事ナク濟ミタルハ幸ナリキ。
重症者ト思ハルルモノ五六十名ヲ入院セシメタル故コレニテ先ヅ宜シキカト思ヒシモ空賴ミニテ陸上艦内共ニ益々重病者ヲ増加シ來リ殊ニ艦内ニテハ菅大軍醫ガ罹病中ナルニ關セズ強ヒテ診療ニ從事シツツアル外、招聘中ノ醫師三名ガ交代ニ來艦スルモ船ニ不慣ノ爲不如意勝ニテ兎角萬事手廻リ兼ヌルニヨリ、毎日二十人ナリ三十人ナリ病院ノ都合出來次第入院セシムルコトトセリ。
患者ノ状況ハト云フニ、或者ハ気温九十度ノ馬尼刺ノ地ニ於テ黒服ヲ着ケ土産品ノ如キ物ヲ携エ舷門ニ出テ來リ番兵ニ向ヒ「願ヒマス」ナドト恰モ休暇ヲ許サレテ上陸スル時ノ如クナルモノアリ、多分日本ヘ歸着セバ家ニ歸ラウゝトノミ思ヒ居タル者ガ高熱ニ浮カサレテ斯クナレルモノノ如ク、番兵ニ注意サレテ「サウカ」ト頭掻キツツ引込ミ何處トモナク寝込ムト云フ如キアリ。或下士官ノ如キハ剃刀ニテ自殺ヲ圖リシモ頸部ヲ傷ケタルノミニテ死スルヲ得ズ、夜八時頃「スキンギングブーム」附近ノ舷外ニ出テ投身、縊首何レヲ企テシヤ不明ナレド頸部ヨリ血ヲ流シツツ彷徨シ居ルヲ、折柄巡檢中ノ先任衛兵伍長之ヲ發見シ大騒トナリ、「何ノ爲ニ斯ルコト爲セシカ」ト問ヘバ「深キ理由アッテヤッタ」ト答フルノミ、此當人ハ前ニ濠洲「シドニー」ニテ盲腸炎ノ爲ニ入院シ、病院及艦員ノ特別ノ盡力ニヨリテ快復セシモノナルガ熱ノ爲ニ斯クナレルモノナラン。又病院ニ於テハ重症者多キヨリ熱ノ爲ニ暴行スルモノ少カラズ或者ハ物ヲ持テ暴行シ「階下ニ寝テ居レバ殺サレル士官ノ居ル階上ニ行ク」ト再三飛ビ廻レルアリ、或者ハ熱ノ爲暑キヨリ水風呂ニ飛ビ込ミ他ノ制止ヲ聞カズ止ムナク寝臺ニ括リ著ケラレタルアリ、其他百八十人ノ患者ガ頭ヲ列ベ面色蒼黑苦悩呻吟シツツ種々現象ヲ現ハシ誠ニ目モ當テラレヌ有樣ナリ。此ノ如キ者ハ前ニモ記セルカ熱又ハ病毒ノ爲ニ頭カ變ニナレルモノナルベク何レモ皆爾後ノ経過不良ニシテ多クハ死亡セリ、右ノ兩名モ遂ニ斃レタリ。
十二月六日
病院ニ於テ二名ノ死亡者ヲ出シ爾後引續キ毎日一名二名ト死亡スルニ至レリ。而シテ陸上ニテハ前述ノ如ク三善機関大佐、新田機関中佐ノ奔走斡旋ニヨリ領事等トモ連絡シ、葬儀ハ毎日午後四時施行ノコトニ定メ、艦長ハ分隊長一名兵員一二名ヲ伴ヒ日本人側ト立會ヒテ式ヲ行ヒ、終テ火葬ヲ行フ事トセリ。此ノ如クシテ過ギナバ此先何ウナルコトカト思ヒツツモ最早如何トモスルコト能ハズ、死亡者モ萬一ニハ最上ノ十七名位出ルコトハ已ムヲ得ザルヤト思ヒシガ、状況ハ日ト共ニ不良トナリ右ノ如クシテ毎日葬儀ヲ行ヒ、五日ヨリ二十日迄連續十六日間ニ及ベリ。斯クテハナラジト是以上何等ノ手段モガナト苦心シ診療ノ方法等モ變更シテハト思ヒシモ、種々ノ事情モ自然ニ起來リテ諸事思フニ任セズ時折ハ洋人ノ醫師ニモ來診ヲ求メツツアリシガ、分隊長等ハ「最早斯クナリタル以上ハ致方ナシ行キ著ク所迄ハ行ク樣ニナルモノデスサウ心配ナサルナ」ト忠告シ呉ルルモアル位ナリ。
看護ノ任ニ當ル人トシテハ市中ノ篤志同胞十數名ニテ、其中天野けさ子(看護婦出身)ノ如キハ看護ハ自己ノ天職ナリト稱シ七歳位ヨリ下ノ子供二名ヲ隣家ニ預ケ進ンデ之ニ從事シ、玉田夫人ハ晝夜ノ別ナク炊事ヨリ看護萬端又通譯ニ迄從事シ斡旋到ラザルナク、其他關夫妻、大石夫妻、藤川等ノ人人モ夫夫晝夜ノ當直ヲ定メテ親身モ及バヌ盡力ヲナシ、病人ハ百八十人ノ多数ナレバ手當、看護ノ行届カザルハ勿論ナレド、傳染病ニテ病毒猛烈一歩過タハ自己ノ生命ニ關スルヤモ知レザルモノニ對シ困難危險ヲ囘避スル如キコトナク、却テ此事ハ「御國ノ爲ナリ」「御國ノ軍人ヲ看護シテ君國ニ忠義ヲ盡スハ此時ナリ」ト、進ンデ看護ニ從事セルガ、其健気ナル献身的報國ノ精神ハ誠ニ感ニ堪エタルモノナリ。右ノ外夜ハ十五圓晝ハ五圓ニテ雇入レタル看護人モアリテ一時ハ中中多數ノ同胞男女ガ何レモ國ノ爲ト言ッテ看護ニ從事シ呉レタルガ、殊ニ人ノ最嫌悪スル遺骸ノ處置ハ寫眞師青山氏(日本人副會長)ガ専心之ニ當リ毎日一手ニ擔任シ一モ澁滞ナク捗取リタルハ驚嘆感謝ノ外ナク、尚米陸軍ノ看護卒約十名モ實ニ献身的ニ從事シ呉レタルト、病院ノ看護婦ハ韮律賓人ナリシカ皆親切懇篤ナリシトハ共ニ大感謝スル所ナリ。
此「セントポール」病院ハ宗教上ノ病院ニテ事務長「シスター」氏以下主トシテ西班牙人ノ尼カ極メテ親切ニ萬事ヲ引受ケ世話シ呉レタリ。而シテ此病院ノミニテハ全員ヲ収容スル能ハザル爲、韮律賓政府等ノ「ゼネラル、ホスピタル」ニモ士官トモ約五十人入院セシメタリ、此所ノ醫師ハ韮律賓人ノミニシテ有名ナル「バーンス、フィルプ」烟草會社社長(同ジク韮律賓人ニテ醫師)モ此病院ニ勤務シ而モ内科部長ニテ主任醫トシテ我病人ノ診療ニ從事シタリ。
一方病院ノ収容力不足ナルヨリシテ、「セントポール」病院ニ入院セル者ノ内漸次輕快トナリシ者ハ、元市會議員韮律賓人「ドクトル、ゴメツ」カ好意ヲ以テ無料提供シ呉レタル病院跡ニ収容シ、此所ニテ靜養スルコトトナシ一時ハ四五十名ニモ及ベルガ、監督、看護、診療又居住等ニ關シ種々最良ト認メ難キ事情アリタルヲ以テ永カラズシテ之ヲ中止シ、病人ハ殆全治迄其儘ニ置キ病院ヨリ直接歸艦セシムル事トセリ。
十二月二日 病勢益猖獗
然ルニ病人ハ漸次増加シ二日ノ晝頃ニハ三十人ハ六十人トナリ倍數ヲ以テ増加スルニ至レリ、而モ新患者ハ最初ヨリ熱度高ク三十九度以上若クハ四十度ノ者スラアリテ中ニハ苦悶スルモアリ、折角ノ隔離モ其甲斐ナク遂ニ強健ナルモノハ免カレ虚弱者ハ罹病スト云フ如クニテ之ヲ防止スルコト能ハズ、最早自然ノ成行ニ委スルノ外ナキ状況ニ陥リ釣床モ釣リタル儘トナリ又釣床ヲ釣ルコトスラ出來ヌモアリ、終ニハ中下甲板到ル處甲板ニ倒レテ呻吟スルモノ有ルニ至リ、病毒已ニ全艦ニ傳播セルモノト覺シク加之風波ハ中々強ク到底下甲板等ノ舷窓ヲ開クヲ得ズ、病毒ハ之ニ乗ジテ益其勢ヲ逞フスルモノト思ハレタリ。而シテ軍醫官ハ如何ト云フニ一名ハ已ニ前ヨリ罹病伏臥中ナルニ加ヘ三名ノ看護部員中二名モ同ジク之ニ冒サレ二名トモ重態ニ陥リ、診療ニ從事スル者ハ軍醫長ト先任着護手(藤井高助)ト唯二人トナレリ、而モ藤井看護手ノ如キハ身已ニ罹病高熱ヲ發シナガラモ、已倒レナハ到底多數ノ患者ヲ處理スル者ナシトテ我慢ニ我慢ヲ重ネテ奮闘シツツアリ、其健気ナル一例ヲ言ヘバ、健康診斷ヲ行フニ當リ號令ニテ前甲板ニ集レル百五十乃至二百人ノ兵員ニ對シ、先任看護手ハ「具合惡シキ者ハ左舷ニ來レ其他ハ右舷ニ殘レ」等ト命ジ、約半分宛兩艦ニ分レタル其具合惡シキト言フ方ノ手近ノ者ニ僅ニ十本ノ檢溫器(是艦内現有檢溫器ノ總數ナリ忠者多數ニシテ大不足ヲ感ジ頗困難ナリ)ヲ渡シテ檢溫シ、其間自身ハ高熱苦悩ニ堪エザルヲ以テ甲板ニ手枕シテ横臥シツツ時間ノ來ルヲ待チ、時間來ルヤ之ヲ檢シ「オ前ハ未ダヨイ、お前ハ隔離」ト云フ風ニ判別言ヒ渡シ次ニ他ノ十名ニ及ボシ順次之ヲ繰返シツツ、自身ハ甲板ニ横臥シ居ルト云フ具合ニシテ其苦悩ノ状如何ニモ見ルニ忍ビザルモノアリタリ、而シテ隔離ヲ宣言サレタルモノハ蹌跟トシテ隔離所タル甲板區域ニ入ルナリ、此感ズベキ藤井看護手ハ馬尼刺著後陸上ニ入院加療セシメタルガ入院迄ハ實ニ元気ト思ハレシモ惜ヒ哉死亡ノ不幸ヲ見ルニ至レリ。
艦内一般ノ状況ヲ見ルニ、隔離區域ノ設定モ、豫防上ノ手段注意方法モ效ナク、二日午後ニハ艦内到ル處患者有ラザルナク、看護モ手當モ行届カザルヨリシテ重病者ニテモ苦悩呻吟シツヽ氷モ食事モ自身之ヲ受取リ來ラザルベカラズ、而モ気力アルモノハ自力ニテ氷モ食事モ得ラルレド眞實重病ノ者ハ気力衰ヘ身動キサヘ叶ハズ糞尿モ其場ニ其儘ト云フ有樣ニテ、此ノ如キ者ガ多數ノ患者中ニ混在シ如何ニナリツツアリヤスラ手不足混雑ノ際トテ不明ニテ、食事モ氷モ藥モ行キ渡ラズ、苦悶懊悩呻吟ノ聲艦内ニ充滿ス、中ニハ鉢巻セル頭ヲ擡ゲテ「自分ハドウデモヨイガ彼處ノ何番目ニ居ル奴ガ死ニ居ルカラ何ウカシテヤッテ呉レ」等叫ブモノアリ。又患者ヲ介抱シ看護ニ從事シツツアル者モ何レモ罹病シ居リテ、健康者モ看護ノ爲患者ニ接近スルヤ勿論直ニ感染スルナリサリトテ到底手ヲ引クベキニアラズ。各室給仕モ一人減ジ二人減ジ、艦長從卒ノ如キモ今迄居リシカト思ヘバ已ニ去リ代人ガ來リシト思ヘバ二三時間ノ内ニハ最早駄目ナリト云フ如ク日ニ二度三度ト變リ最後ニハ七人迄交代セルコトアリ。病毒ハ時々刻々其勢ヲ増シ新患者ハ最初ヨリ四十度ノ熱ヲ出ス者ノミ。副長モ「何トナク気持ガ惡イ」ト云フ、約一ヶ月前「マラリヤ」熱ニテ暫時病臥セルコトアリテ稍ゝ衰弱シ居ルヲ以テ始メヨリ用心ニ用心ヲ加ヘテ加療スル樣ニ勤メ休業セシメタルガ熱ハ三十七度餘ナリシ。其他士官モ三、四名冒サルルニ至レルガ大體ニ於テ准士官以上ハ割合ニ晩ク罹病セシヲ以テ艦ノ運航ハ萬難ヲ排シツヽ、何ウニカ之ヲ繼續シ得タルハ幸ナリキ。
十二月三日
前記ノ藤井看護手モ遂ニ倒レタリ、依テ僅ナリトモ看護ノ心得アル者ヲト捜シ出シテ手傳ハシメツヽアリ、又軍醫長モ已ニ三十八度五分ノ熱ニテ最早診療モ意ノ如クナラズ到底患者ノ十分ノ一モ診療シ得ベクモアラズ。而シテ此日朝ノ健康診斷ニハ患者ハ最早全員ノ三分ノ二以上ニ及ビ艦ハ上ヲ下ヘノ大混雑ヲ來シ、軍醫長モ漸次重態トナリ夕刻ニハ遂ニ倒レ軍醫長以下看護部員ハ茲ニ全滅シ患者ノ診療ニ困ジ果テシガ、幸ニモ便乗中ノ菅大軍醫アリ同官ニ依賴シテ僅ニ診療ヲ繼續スルヲ得タリ、而モ同官ハ以前罹病セルコトアリテ今亦三十八度位ノ熱アルヲ押シテ診療ニ從事シツヽアリ、調剤ハ之ニ多少ノ心得アル一水兵ガ辛フジテ同大軍醫ヲ補佐シ得ルニ過ギズ。又炊事係モ前々ヨリ次々ト倒レ士官受持ノ割烹モ倒ルヽニ至リタレバ、艦長室ノ如キハ單ニ飯櫃ヲ机上ニ置キ側ニ僅ニ食鹽ヲ備ヘアルノミニテ漬物ノ如キスラ所在不明ノ爲之ヲ得ル能ハズ、此状態ハ馬尼刺着後數日繼續セリ、是同地ハ「コレラ」病流行中ナリシヲ以テ、今ノ窮状ニ加フルニ萬一同病ヲ艦内ニ入ラシムル如キコトアラバソレコソ眞ニ全滅ノ危難ニ遭遇スベキヲ慮リ、差當リ陸上ヨリ一切ノ糧食ヲ購入セザリシガ故ナリ。
士官室モ健康者ハ僅ニ二三人トナリ食事モ公室ニテ之ヲナスモノ逐日減少シ食器ヲ片付クルモノスラナク、遂ニハ艦長室ニノミ前記ノ如キ食事ヲ用意シ置キ勝手ニ來リ食スト云フ迄ニ至レリ、而シテ肉類ノ如キハ二週間目ニ二三片ヲ食シテ舌皷ヲ打チタル程ナリシ、肉ト言ヘバ新嘉坡出港前日本迄ト云フ計畫ニテ多量ニ搭載シ(馬尼刺ハ虎病流行中ニ付糧食ヲ購入セザル豫定ニテ)冷藏庫ニ貯ヘ來リシモ、十二月三日以後ハ氷ハ總テ患者用ニ供スルコトトシ肉冷却ニハ手ガ廻ラズ放置シタレバ何百貫ト云フ牛肉其他魚類ニ至ル迄全部腐敗シ、約一ヶ月後冷藏庫ヲ開キタルニ蛆ガ盛ニ發生シ居リテ庫肉ノ臭気ハ到底形容シ難キ恐ロシキモノナリキ、而シテ此庫ノ開放掃除ニ就テハ毒瓦斯發生其他ノ危険ヲ慮リ、先ヅ點燈ヲ試ムル等相當ニ注意ヲ拂ヒタル爲事ナキヲ得タリ。
健康者ノ隔離
一般ノ状況ハ益重大ナラントス斯クシテ總員倒ルルニ至ラバ艦ノ運航全ク不可能トナルヘキヲ憂ヒ甲板ニ出デ得ル容體ノ者ヲ上甲板ニ集メ(集レル者士官五六名、准士官三四名、下士卒漸ク七八十名ー總員ハ准士官以上三十六名、下士卒約四百五十名ナリ)艦長ハ左ノ要旨ノ訓示ヲ與ヘテ各自ノ決心ヲ促シタリ。
一同ハ現在目撃スル通リ大病人殆ド全艦ニ及ビ上ヲ下ヘノ大混雑ヲ來シ惨状言語ニ絶ス、今ヤ勤務ニ堪ユルモノハ此所ニ集マレル者ノミトナレルナリ(註、集合セル者モ大多數ハ勿論罹病シ居ルモ唯我慢ヲ通シ居ルノミ)而シテ今各自ガ倒レテ仕事ヲ爲シ得ザルニ至ラバ本艦ハ運航不能トナリテ洋中ニ漂流シ終ニ全員艦ト共ニ不測ノ運命ニ陥ルコトナキヤヲ虞ル。
各自ハ能ク限リ勇ヲ皷シ、死ストモ其職ヲ捨テス其配置ヲ離レズト云フ決心ヲ以テ其職ニ任シテ貰ヒ度イ。就テハ今ヨリ此人員ハ決シテ病人ト混ルコトハナラヌ、又機械部員ハ特ニ開放冷涼ナル上甲板ニ隔離(帆布ニテ區劃ヲ作ル)操舵員ハ操舵室ヨリ出ヅルコトハナラヌ、罐部員ハ焚キ居ラヌ罐室ヲ隔離所トセヨ、電信員ハ電信室ヨリ外ニ行クベカラズ云々。
斯ク現ニ集マレル比較的身體健全ナル者ヲ隔離シ、當直等ニハ隔離所ヨリ直接往來ヲナシ患者ニ接近セシメザル策ヲ採レルモ尚毎囘ノ診察ニ二人減シ三人休業ト云フ風ニ健康者ハ益減少シ行キ、機械ノ如キハ特修兵病臥シ其代リヲ得ルニ大ニ困難シタリ、又焚火及石炭操ニハ最初ヨリ水兵部員ヲ入ルル等、他ノ事ハ放置スルモ汽機、汽罐、舵、食事及看護ニ對シテハ有ラン限リノ力ヲ盡シ運航繼續ニ全力ヲ傾注シタリ。
藥品モ亦缼乏シ來レルニヨリ、無線電信ヲ以テ最近距離ナル波羅ノ「ゼッセルトン」、「ラブアン」等ニ解熱剤ノ有無ヲ問合セタルニ、感冒流行ノ爲乍遺憾要求ニ應ズルヲ得ザル旨ノ返電アリ病院ハ患者収容思ヒモ寄ラズトノコトニテ、何トシテモ馬尼刺迄ハ死ストモ行カザルベカラザル状況トナレリ。中下甲板ハ釣床甲板ノ別ナク到ル處ニ患者臥倒シ足ノ踏所モナク、何レモ面色土ノ如クナリテ苦悶呻吟シ其症状ノ輕重難易ノ如キ勿論判別シ得ベクモアラズ混雑其極ニ達シ状況惨憺ヲ極ム、即青年士官(其際先ヅ健康ナル者僅三名)ニ對シ最早當直等ヲ爲スニ及バズ専心看病ノ監督ニ任ズベキヲ命ジタリ、是等ノ士官ハ自ラ藥ヲ與ヘ氷ヲ配給シ先ヅ懊惱呻吟シツツアル者ヨリ介抱セシガ、此士官ノ中ニモ半日ナラズシテ四十度ノ熱ヲ突發シ苦悶スルモノアルニ至リ分隊長モ其從屬モ皆倒レタルアリ病毒ノ猛威實ニ能ク筆舌ノ盡ス所ニアラズ。斯クナリテハ最早如何ニ防禦セントスルモ如何ニ遁レントスルモ能ハズ、早晩罹病ハ到底免レ難ク當然必然ノ運命ト諦ムルノ外ナキニ至レリ。
十二月四日
病勢益甚シク乗員中多少ナリトモ其毒ニ冒サレザルモノナキニ至レルモ其多クハ軍醫官手不足ノ爲診察スラ受クル能ハズ、准士官ノ如キハ殊ニ然リ。氷ト言ヒ、檢温ト云ヒ、乃至食事服藥ト言ヒ、自然相互看病トナリ相互治療トナリ、今更ノ如ク人間須ラク醫術ノ一端ニテモ平素心得居ルベキ要アリト痛切ニ感ジタル次第ナリ。而シテ極メテ重態ト思ハルルモノノミニ菅大軍醫ノ診察ヲ受ケシメ得ルニ過ギズ、而モ同軍醫ハ寸刻ノ休息モナシ難キ忙シサナリ。又准士官以上ニシテ今日迄倒レザルモノハ皆艦長室ニ備ヘ置ケル「マンデル」氏液(咽頭塗布劑)ヲ自身又ハ互ニ塗リ合ヒ、又解熱藥豫防藥ヲ貰ヒ置キテ服用スル等手療治ヲナシ、誰モ皆頸部ニ手拭等ヲ卷キ居リ士官ノ如キハ含嗽藥ヲ携エツツ兵員病人ヲ監督シ又當直ニ立チ艦橋其他所嫌ハスガラゝト含嗽シツツ「宜候」ト令スル如キ状況、掌帆長屬等モ頸手拭ニテ聲ハ出テズソレニモ係ラズ取次モ衞兵モ兼務セザルベカラザルナリ。
此日機械ヲ取扱ヒ得ルモノ約五名、罐部ハ約十五名、舵ニハ二名、無線電信室ハ先ヅ一名、炊事ハ二名トナリ氷ヲ製造スル者モナシ。然レドモ火藥庫ノ冷却ハ熱帯地方ニテ暑気強キ故最早如何ナルコトアリトモ停止スベカラザルヲ以テ、ヤット遣操リ一直ニテ嚙リ着キノ態ニテ從事セシム、正午頃ニハ汽機、汽罐、舵ハ二直ナリシモ夜ニ入リテハ一直トナリ、今ヤ艦ハ凄惨ナル苦悩ヲ滿載シ気息奄奄唯馬尼刺ニ向ヒ約十四節ノ速力ニテ進ミ居ルト云フ丈ケニテ、艦橋ニテハ航海長ハ鉢巻ヲナシ當直将校ハ唯羅針盤ニ嚙着キ居ルノミナリ、患者ノ方ハ益々多事トナルモ菅大軍醫唯一人ニテ到底手ガ廻ラズ、最モ早ク休業シ居タル本艦乗組中軍醫ヲ起シテ無理ニ手傳ハセ居タルモ、尚艦長ハ未ダ死亡者ヲ出スト云フ如キ気持ハナカリシガ、午後七時頃トナルヤ一、二危篤ノ者ヲ生ジ八時十五分終ニ〇〇〇〇ナル機関兵ガ死亡スルニ至リ茲ニ重症患者ガ大ニ気懸リトナレリ。而シテ最初ノ隔離區域ニ居ル者ノミガ重キニ非ズシテ重症患者ハ艦内到ル處ニ居ルモ前記セル如ク輕重難易ノ判別ハ勿論出來得ベクモアラズ、然ルニ今ヤ一名ノ死亡者ヲ生ジ一同精神的ニ大恐慌ヲ來スニ至レルモ尚誰モ所謂死屍累々タル如キコトニ至ラントハ思ヒモ及バズ「嗟一名位ハ仕方ナカラン唯犠牲トナリテ實ニ可愛相ナリ殘念ダ」ト其所持品等ヲ調査セシメタルニ、貴重品入ラシキ白木綿ノ小サキ包ニ「自分ニ萬一ノコトアリシ時ニハ之ヲ見付ケタル人ハ開封セズニ廣島縣ヽヽヽ何某ニ送テ呉レ、〇〇〇〇」ト記シアルヲ見テ今更ノ如ク其覺悟ノ立派ナルニ感服シタリ。
病人ハ千差萬別ノ状態ヲ呈シ艦内ノ惨状ハ實ニ何トモ形容出來ズ、中ニハ艦ノ前部ニ在ルベキ病人ガ最後部ノ艦長室ニ變ナ顔ニテ入リ來リ「藥ヲ下サイ」ト言フ「此所ニハ藥ハ無イヨ、オ前ハ何ウカシテ居ルヨ」ト言ヘバ「艦尾ニ行ケバ藥ヲ呉レルト云フコトデシタガ」ト頭ヲ掻キナガラ蹌跟トシテ逃ゲ行キ何處トモナク寝込ムト云フ如キアリ、是ハ全ク藥ノ配給ナキ故藥々ト一圖ニ思ヒ込ミツヽ熱ニ浮カサレタルニ因ルモノヽ如シ、此者ハ馬尼刺ニテ終ニ死亡セリ。又發病後漸ク三日目ニ始メテ藥ヲ與ヘラレタリトテ押戴キテ服用セルモノモアリ、此一、二日ハ誰モ同樣ニ藥モ食事モ取ルコト能ハザル程ニテ、實ニ手段モ盡キテ進退谷マレリト言フベキ時ナリシモ、艦長トシテハ斯ル弱音ヲ口ニスベキニ非ズト他ヲモ勵マシ我レ人共ニ我慢ニ我慢ヲナシ無理強行邁進シ來レルガ、斯ノ如クシテ最後迄倒レル迄奮闘セル者ノ内入院後死亡者多カリシハ實ニ殘念ニシテ又如何トモ申譯ナキ次第ナリ、然レドモ是全ク國家ノ爲ニ職ニ殉ゼルモノト謂フベク、是等ノ者ノ健気ナル奮闘ナカリセバ艦ハ馬尼刺ニ到達スルヲ得ズ、總員艦ト共ニ如何ナル非運ニ陥リシヤ知ルベカラザルナリ。
四日夕刻ニハ状況益險惡トナレリ、明日ハ愈馬尼刺着ノ豫定トナルヲ以テ、米海軍無線電信ヲ介シ同地日本領事ニ對シ「本艦感冒流行ノ爲九死ノ有樣ニ在リ軍醫官、衛生部員皆倒レタリ明日正午入港セバ直ニ出來得ル丈ケノ醫師並看護人ヲ艦ニ送リ得ル樣招聘ノコト、藥品準備ノコト、檢溫器購入ノコト、氷澤山購入ノコト及柩一個準備ノコト」等ヲ依賴セリ、此夜外ハ風波猶荒ク内ハ病人苦悩呻吟ノ聲充滿シ、風聲濤音ト相和シテ状景凄惨暗澹ヲ極ム。
〔蔵書目録注:文中の人名は、適宜〇〇〇〇等と伏字とした。〕
上の写真は、「帝國巡洋艦 矢矧 Japanese Cruiser “ Yahagi ” 」とある絵葉書のもの。
下の文は、大正九年十一月十八日発行の 『水交社記事』 第十八巻 第三号 No.223 非賣品 水交社 に掲載されたものである。
大正七年十二月 軍艦矢矧ニ於ケル流行性感冒患者發生當時ノ實況
(當時矢矧艦長) 海軍大佐 山口傳一
自序
軍艦矢矧ガ大正七年十二月新嘉坡ヨリ歸朝ノ途上流行性感冒艦内ニ蔓延シテ勢猖獗ヲ極メ状況惨絶非常ナル因厄ニ苦シミ遂ニ副長以下四十八名ノ死亡者ヲ出セル事ハ我海軍未曾有ノ惨事ニシテ其状況ハ實ニ想像モ及フ能ハス筆舌モ能ク盡シ得ル所ニ非ザルナリ。本稿ハ實況講話ノ原稿ヲ更訂セルモノ、之ニヨリテ當時ノ状況ノ一端ニテモ髣髴セシムルヲ得テ将來何等カ参考ノ資トナルヲ得バ幸ナリ
大正七年十一月九日 新嘉坡入港ー歸朝準備
軍艦矢矧ハ大正六年十二月呉軍港ヲ出テ太平洋及印度洋方面ニ行動シ大正八年二月歸朝セリ。此間乗員ハ航泊晝夜ノ別ナク海上警備、敵ノ艦船、機雷等ノ發見警戒ニ任シ困苦寒暑ヲ凌ギ休養上陸ノ如キハ素ヨリ之ヲ念トセズ、常ニ砲ニハ弾藥ヲ備ヘ罐ニハ蒸気ヲ蓄ヘ、終始一貫寸刻ノ懈怠モナク孜々トシテ其職責ヲ盡スコト正ニ二星霜實ニ克ク其任務ヲ遂行セルモノト謂フヘク、大正七年十一月三十日新嘉坡ヲ發シテ歸朝ノ途ニ就ケル迄乗員中一人ノ死者ヲ出スコトナク、又重症ニ罹レル如キ者モ入院加療ノ結果全治又ハ輕快トナリテ日本ニ歸ルコトヲ得タル等何等不吉ノ出來事モナク、多發性又ハ流行性ノ病気等ニハ勿論侵サルルコトモナク、斯クテ良好ナル衛生状態ヲ保持シテ日本ニ歸朝スルハ、其任務タル對教行動ト同ジク一ノ功績ナルコトヲ思ヒ乗員一同常ニ衛生保健ニ留意ヲ怠ラザリシナリ。偖矢矧ハ大正七年十月、内地ヨリ來航ノ千歳ト交代凱旋スベキ内命ニ接セシモ直ニ交代ノ運ニ至ラス漸十月ニ至リ當時單獨行動中根據地トセル濠洲「シドニー」ヲ引揚ゲ司令官所在地タル新嘉坡ニ於テ十一月中來航ノ千歳ト交代スベキ訓令ヲ受ケ、十月二十一日二年振ニ内地ニ歸還シ得ルノ喜ヲ載セテ「シドニー」ヲ發シ、「タウンスヴィル」ニ於テ石炭、木曜島ニ於テ重油ノ補充ヲ行ヒ、十一月九日新嘉坡ニ到着セリ。
新嘉坡着後千坂第一特務艦隊司令官ヨリ艦長ニ與ヘラレタル訓示中流行性感冒ニ關スル注意ノ要旨左ノ如シ。
一方當方面ニ於テハ惡性感冒ノ流行ニ惱マサルルコト甚シク、對馬ハ惡弗利加ヨリ歸朝ノ途古倫母附近ニ於テ先ヅ之ニ襲ハレ、乗員ノ殆全部罹病シ一名ノ死亡者ヲ出スニ至リ航海困難ニシテ目的地新嘉坡ニ到達スルヲ得ズ、彼南ニ寄港滞泊加療一週日ノ後新嘉坡ニ廻航シ約十日ヲ経テ日本ニ向ヒ凱旋ノ途ニ就ケリ。又最上ハ彼南碇泊中何レヨリカ(多分陸上ヨリナラント思フ)同様流行性感冒ニ侵入サレ、患者ハ出來得ル丈ケ陸上ノ病院ニ送リテ加療セシモ、艦内陸上合シテ十七名ノ死亡者ヲ出シ、艦長自身氷ヲ碎キテ患者ニ與ヘ又電燈ヲ點ズルヲ得ズ蠟燭ヲ出ダサントスルモ之ヲ収納セル抽斗ノ鑰ハ其擔任者カ所持セル儘病臥セル爲容易ニ之ヲ出ダスヲ得ザリシ等ノ事實アリ、又患者ノ内ニハ高熱ノ爲海中ニ飛込ミ兩三日後其屍體ノ浮揚漂流セルヲ發見収容セル如キ惨状モアリ、艦長ノ報告ニモ「百計盡キタリ」トアリタル状況ニテ上ヲ下ヘノ大混雑ナリシト。次ニ第十三駆逐隊ハ四隻ノ内三隻迄同病ニ冒サレ今尚新嘉坡病院ニ少數ノ患者殘留ス、是等ハ「スウエッテンナム」邊ヨリ傳染シタルモノラシク死者七名ヲ出スニ至レリ。以上何レモ最早約一ヶ月前ノ事ニ屬シ今日ニテハ殆終熄セルモノト思ハレ、且此病毒ノ惡性激烈ナルハ阿非利加、印度、彼南方面迄ニシテ、當新嘉坡ニテハ左程惡性ナラズ日本人側ニテハ、博愛病院ノ副長ガ斃レタル位ニテ別ニ惡毒且蔓延ノ趣アリトハ思ハレズ。然レドモ各艦各自自愛注意ヲ加ヘ充分之ヲ豫防警戒スルヲ要ス、從テ乗員ノ上陸ノ如キハ別ニ之ヲ禁止セス一ニ各艦艦長ノ隨意ニ任ス。
依テ本艦長ハ無事日本ヘ凱旋シ得ンコトヲ切望シ上陸ニ就テハ准士官以上ニハ僅々所要時間ノミ之ヲ許シ下士卒ニ對シテハ當分許可セザル事トセルガ、他艦ニテハ通常ノ如ク上陸ヲ許シ居ルヲ以テ一見苛酷ノ如ク考ヘラルルモ實ハ状況ヲ觀望シ居タルナリ。然ルニ其後各艦ニハ一名ノ感冒患者モ出デズ又軍醫官ヲシテ再三陸上ヲ視察セシメタル報告ニヨルモ殆終熄ト見テ差支ナク、或ハ何處ニカ僅少ナル患者ハアリトスルモ支那人街等以外ニハ先ヅコレ無シト見テ差支ナク、而モ急激ニ來ル病菌ハ早ク消滅スルモノニシテ僅少時ノ上陸等ハ懸念ナキモノト信ズトノ事ナリシモ、尚上陸ヲ許サズ公用使其他ノ上陸者及外來人等ニ對シテハ消毒服藥等豫防ノ方法ヲ盡シ只管交代艦ノ來着ヲ鶴首期待シツツ何等ノ事故ナク十一月二十日ニ至レリ。
上陸許可
本艦ハ前陳ノ如ク出征以來約二ヶ年ヲ經過シ當方面所在艦艇中最モ長ク任務ニ服シ居レルヲ以テ、乗員中ニハ新嘉坡ニ知己多キモノモアルベク且功成リ凱旋セントスル昨今土産品ノ準備ヲ欲スル者モアルベク、旁上陸ヲ希望スルニ至ルベキハ人情ニシテ、殊ニ眼前他艦ハ常ノ如ク上陸ヲ許シ居レルコトトテ副長ハ終ニ上陸許可ヲ艦長ニ願出ヅルニ至レリ。而シテ軍醫長ヨリハ陸上ノ方ハ別ニ懸念ヲ要セズト認ムル旨ノ報告アリシモ「此事バカリハ艦長ニ一任サレ度尚暫預リ置キタシ、今上陸ヲ許シテ萬一失態ヲ生ゼバ二年間ノ功績苦心モ水泡ニ歸スベシ、即今許スガ部下ヲ愛スル事カ許サザルガ愛スルコトニナルガ何レトモ決シ難シト思フ今暫艦長ニ任サレヨ」ト迄言ヒテ一囘二囘ハ之ヲ承諾セザリシモ素ヨリ日本ニ向フ前ニハ一囘ハ上陸ヲ許ス方可ナルベシ且他艦ニ何等ノ事故ナキヲ見テハト心動キテ茲ニ斷然副長ノ請ヲ容ルル事トセルカ、軍醫官ノ調査ニヨルニ此感冒ノ戦潜伏期ハ三日間ナリト云フヲ以テ上陸ヲ後ラス時ハ發病ストスルモ新嘉坡出港後トナリ、對馬ノ如ク或ハソレ以上ノ困難ニ陥ルベキヲ慮リ、交代艦ノ來着迄ニ少クモ一週間以上ノ餘裕ヲ存スルヲ必要ト認メ、十一月二十一、二十二ノ兩日半舷宛時間ト區域トヲ制限シテ之ヲ許スコトトセリ。
已ニ一旦上陸ヲ許可セバ縦ヘ區域ノ制限ヲナセバトテ如何ナル所ニ立入ルヤモ知レザルモ、是等ノ點ハ副長ニ一任シ副長ハ下士兵卒集會所ヲ限リ午後一時ヨリ五時迄四時間宛ノ上陸ヲ許ス事トシ、當日ハ艦長、副長及軍醫長ヨリ衛生上充分注意スベキ旨ノ訓示ヲ與ヘ千仭ノ功ヲ一簣ニ缼クガ如キ事ナキ樣油斷大敵ナル事ヲ懇々ト誡メテ上陸セシメタリ、而シテ總員ニ一々豫防藥ヲ服用セシメ出艦、歸艦ノ際ニハ含嗽ヲ行ハシムル等戰々兢々トシテ注意ノ及バザランコトヲ惟レ虞レシガ、半舷上陸翌日ノ二十三日ハ何事モ無ク過ギタリ。
十一月二十四日 司令官艦内巡視 熱性患者發生
此日司令官ハ矢矧モ遠カラズ歸朝スル故トテ告別ヲ兼ネ巡視ヲ行ハレタルガ、艦長ハ現状報告ニ於テ衛生状況ハ殊ニ良好ニシテ二年間一名ノ死亡者ナク、流行性多發性ノ如キ病気モ皆無ニテ健康状態良好ナル旨ヲ報告シ、司令官ハ分隊點檢ト共ニ艦内點檢ヲ行ハレ、之ヲ終リテ艦長室ニ休息セラレアル時「熱性患者二名發生シ整列位置ニ居ルコト能ハズ」トノ報告アリ不取敢休業セシメタルガ、流行性感冒ノ特性トシテ聞ケル咽頭ガ腫レルトカ痛ムトカ熱ガ高イトカ又腰ガ痛ムトカ云フ如キ症状ハ少シモナシ、又彼等ハ昨夜カ上甲板ニ假睡シタルコトアリト云フヲ以テ多分通常ノ感冒ナルベシトノコトナリシモ、艦長ハ時節柄油斷ナリ難シト直ニ隔離ヲ命ジ消毒ヲ行フトカ其他非常ナル注意ヲ加ヘ上甲板第一區ニ隔離セシメ、一方司令官ニハ「目下ノ所流行性ノ疑ハ無ク熱モ三十七度七八分位ニテ大丈夫トハ考フルモ充分注意ヲ加フベキ」旨ヲ報告セリ
其後一、二熱ノ弱キ輕症患者ヲ發生セシモ此ノ如キ事ハ平生ニテモ有勝ノ事トテ何等疑ヲ挾マズ、二十九日迄一週間別ニ憂慮スベキ程ノ事モ起ラズ且前記ノ患者ハ稍輕快トナリ、結局千歳來着ノ前日ナル二十九日迄ハ五、六名ノ患者ヲ出セルノミニテ別段流行性ノモノトハ思ヒ及バザリシモ念ノ爲十二分ニ隔離ヲ勵行シ警戒ヲ嚴ニシタリ。而シテ司令官ヘハ「艦内患者ハ別ニ流行性ト云フ程ニモナク普通ノ感冒ト信ズル」旨ヲ陳ジテ、千歳ガ入港(豫定時日ハ三十日正午)セバ直ニ引繼ヲ行ヒ結了次第出港ノ許可ヲ得、三十日午後四時出港ノコトニ豫定シタリ。
十一月三十日 新嘉坡出港歸朝ノ途ニ上ル
千歳ハ豫定ノ如ク此日正午ニ入港シ午後三時頃艦長以下各主管者間ノ引繼結了セルヲ以テ、午後四時出港旗艦磐手以下明石、最上等ヨリ發舷禮式ヲ以テ送ラレ又主ナル在留同胞(磐手ニ在リ)ノ見送ヲ受ケ、艦ハ歡呼ノ裡ニ愉快ニ且堂々トシテ發程凱旋歸朝ノ途ニ上レリ、此時二三日後ニ大惨事ヲ生ジ來ルベシトハ神ナラヌ身ノ誰カ又之ヲ知ルベキ。
此間際ニ於テ本艦軍醫長ハ磐手軍醫長ト交迭入替リトナリ恰モ出港當日ニ交代セリ、艦長ハ軍醫長交代ノ時機ニ於テ乗員全部ノ健康診斷ヲ行フノ必要ヲ認メ出港後間モナク之ヲ實行セリ。其結果稍疑ハシキモノ十五六名ヲ得テ茲ニ初メテ小首ヲ傾ケシモ、尚未ダ流行性ナリト確信スル迄ニハ至ラズ且熱モ低ク症状モ大シタコトナク唯疑ハシト云フニ止マリタリ。艦長ハ「少シ怪シイナ併假令之ガ流行性ナルニモセヨ極メテ輕易ナルコト新嘉坡ニ於ケルモノノ如クナルベシ一二日モ休業スル位ニテ濟ムヤモ知レズ、兎ニ角流行性ナラザランコトヲ祈ル」ノ考ニテ航行ヲ續ケタルモ内心眞ニ憂慮ニ堪エズ、十二月一日ヨリハ日ニ三囘朝晝夕ト健康診斷ヲ行フコトヲ命ジタリ。
十二月一日 患者頻發激增
此日朝ノ健康診斷ニ於テ患者ハ俄然二十名ヲ激増シ晝ニハ又二三名ヲ增スト云フ状況ニテタニハ遂ニ三十名ヲ超ユルニ至レリ、「最早詮方ナシ流行性ニ相違ナシ」ト觀シ一層嚴重ニ隔離ヲ行ハシメ、此旨司令官ヘ報告シ大ニ警戒ヲ加ヘタリ。新患者ハ熱ハ左程高カラザルモ以前ニ比スレハ漸次高熱者ヲ出スニ至レリ、依テ一旦新嘉坡ニ引返サンカト思ヒシモ翻テ考フレハ新嘉坡ニテハ病院トシテモ多數患者ノ収容ハ困難ナルベク又出港後間モナク引返スモ好マシカラズ、一方病状ハ輕易ニシテ死亡者ヲ出ス如キコトナキハ勿論何レモ間モナク快癒スベク互ニ一二日宛交代休業スル位ニテ進マバ總員罹病スルモ馬尼刺着迄ニハ全部囘復スベク却テ都合好カルベシ、而モ馬尼刺ハ病院モ多ク在留日本人モ多數ニテ萬事好都合ナルベキヲ思ヒ、且速力十四、五浬ナルヲ以テ二日ノ朝ニハ已ニ新嘉坡馬尼刺兩地間ノ約中央ニ達シ居ル譯ナレバト、愈進航ヲ繼續スルコトニ決シ司令官ニモ之ヲ報告セリ。
報告
抑 そもゝ 狂病院を設立する起因たるや我祖先より伝ふる処の狂病薬及び摂生療法を以て古来 むかし より私宅に於て狂病治療せるを世の人知る所にして洛北ぼけわら狂治療の専門家と称する所に至れり曩 さき に明治八年七月洛東南禅寺精舎に於て公立京都癲狂院設立せられ創業 はじめ より予癲狂院医員続而 つゞいて 専務拝命し専ら療方に従事する事凡そ七年間なり明治十五年春願に依而 よりて 職務を辞し爾後私宅に於而 おいて 狂病治療施せり挽近 ばんきん 江湖に狂ひの多 おほき わ恐 おそら く 文明之度に応じて増加する事と実験せり依而今般伝来の狂治療法を以て盛大に本症治療を施さんと欲し官に請願し允許 ゆるし を得て木瓜原 ぼけわら 狂病院を設立し其位置たるや野に傍 そ ひ山に対し朝暮四季の景色を詠 なが め其地閑静にして神気を保養し身体を健全する無二の佳地と謂 いう へし
患者 ひやうじや 入院定則
一 入院賄料看病人費共一日分
上等 金三十銭
中等 金貳拾銭
下等 金拾五銭
一 患家 ひやうか の貧にして会計の乏しき者施療施薬たるへし
然れ共妄 みだ りに入院費を許さず
但し鰥寡 くわんくわ 孤独赤貧の者は相対を以て入院費定則の外入院せしむることあるへし
一 薬品鶏卵 たまご 総而 をそへて 澁養品 しようひん 別菜等は別に計算すへし
一 狂症 きちがい 暴劇に入院せしがたき者わ患家の求めによりて往診の上入院せしむへし
但往診料は定則あり
一 患者入院を願ふ者は入院証書に願人証人のニ判を以て事務局へ納むへし
上京区第三組寺之内通り大宮西え入
二丁目北え入ぼけわら町
京都木瓜原狂病院
抑本院ヲ設立スル起因タル我家祖先ヨリ伝フル所ノ薬剤及摂生法ヲ以テ私宅ニ於テ狂症ヲ治療シ其効験ノ較著ナル世人ノ稔聞スル所ニシテ洛北木瓜原狂治療ノ専門家ト称スルニ至レリ曩ニ明治八年七月京都病院ノ支院ヲ洛北南禅精舎ニ設立シ公立癲狂院トナスニ創業ヨリ予癲狂院医員ヲ拝命シ専ラ療方ニ従事スルコト凡七年間ナリ明治十五年春事故アリテ職務ヲ辞ス爾后私宅ニ於テ本症治療ヲ施セリ挽近湖ニ狂病ノ多キハ恐ラクハ文明ノ度ニ応ジテ増加スルコトヲ実験セリ然ルニ客年公立癲狂院ヲ廃止ノ挙アリ因テ予木瓜原狂病院ヲ私立セシコトヲ官ニ請願シ客年十月允許ヲ得テ終ニ本院ヲ設立セリ爾来益狂治療ヲ盛大ニ施シ且ツ無告窮民ノ如ニハ施療施薬シ以テ病苦ヲ脱シ職業ニ就クヲ得セシメント欲ス予恤窮ノ素志ヲ抱クコト久シ固ヨリ仁術ノ本職タリト雖モ資金欠乏ノ憂ナキ能ハス況ンヤ鰥寡ニシテ赤貧ノ者ハ薬食共ニ施等セント欲スルニ於テハ公衆慈善者ノ補助ヲ俟テ十全ノ宿意ヲ達スルヲ得ヘシ冀クハ公衆ノ慈善者各自一分ノ余 損シ以て此挙ヲけ以テ大ヲ謀ランコトヲ希望ス
上京区第三組寺之内大宮西へ入
二丁目北ニ入木瓜原町
木瓜原狂病院