蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『支那革命畫報』 (日曜画報臨時増刊) (1911.12.5)

2021年02月11日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

   

     十二月五日發行
    日曜画報 臨時増刊  第一卷 第五十號
  支那革命畫報
         博文館發行

    ▲畵報欄

◎大淸國幼帝と攝政王(及皇族諸殿下)
◎盛装の淸國貴婦人
  ◬慶親王世嗣妃殿下◬肅親王妃殿下◬載澤公妃殿下◬那桐夫人
◎武昌革命軍司令部
  ◬司令部正面◬同上側面◬革命黨首領小像
◎革命前湖廣總督瑞澂と湖北軍幹部 〔上の写真:左から2枚目〕

叛乱前武昌にて撮影せしもの前列向って三人目黎元洪、四人目張彪、六人目瑞澂、五人目及七人目は瑞澂の子息、他は何れも佐官以上の武官
革戰之湖廣總督瑞澂、並湖北幕僚(此像係是未叛亂以前之所撮映也)由前列右旁起算、三黎元洪、四張彪、六瑞澂、五、七瑞督之少君

◎革命爆發前の湖北新軍 〔上の写真:左から3枚目〕
  ◬湖北新軍少尉以上將校全部◬革命の急先鋒となれる湖北砲兵隊

(上)武昌兵營(湖北第八鎭)將校全部本年春の撮影にかゝる前列中央軍服を着せるものゝ右一番目師團長張彪、旅団長王得勝、次は同黎元洪)       
        The Complete officers of the eight division, in Wu-chang.  photographed before the outbreik of the Revolutionalists. )
(上)湖北第八鎭將校全部
(下)武昌砲兵隊(十月十日夜革命の急先鋒となりしは此隊中の二個大隊なり)
        The Artillery in Wu-chang.  
(下)武昌砲兵隊

◎革命第一日の慘狀(其一)
  ◬破壊せられたる武昌總督衙門◬同上總督衙門及督練公司附近の慘狀
◎革命第一日の慘狀(其二)
 ◬破壊し門前に棄却せられたる總督常用馬車◬破壊後淸民恣に衙門に亂入し物品を掠奪し去る
◎黄鶴樓より見たる武昌市街
◎長江艦隊の遁竄
 ◬十月十日夜總督衙門は破壊せられ瑞總督身を以て軍艦楚謙に逃る◬瑞總督楚謙をして武昌を砲撃せしむ◬武昌に在りし淸國軍艦遁れて各國租界附近に至る◬佛租界附近に遁れたる淸國軍艦更に獨租界附近に遁れ各國領事より下航を迫らる◬十四日淸艦各國總領事の要求に依り日本租界下流まで下航す
◎漢陽及漢口續て革軍に歸す
  ◬漢陽製鐵廠及幣工廠◬武昌蛇山砲兵陣地◬兵火を被れる漢口華景街の慘狀◬漢口占領後の革軍市街巡警
◎革軍占領の武昌
 ◬武昌城壁に據れる革軍◬燒燬せられた張彪官邸◬革軍の武昌漢陽門内警備◬武昌市街巡警◬武昌占領後革軍頻りに對岸漢口に騎兵斥候を放つ
◎帝國軍艦の活動
 ◬漢口農務學堂の兵火(學堂は美代法學士十餘年間教習たりし所)◬帝國軍艦隅田外國人救護の爲武昌に急行す◬十月十三日帝國軍艦對馬漢口に着し内外人の大歡迎を受く◬帝國總領事館より旗艦對島に對し連りに信號す◬漢口沖に在る帝國軍艦對島

   ▲上段より
  (一)帝國軍艦隅田外國人救護の爲武昌に急航す(圖中遙かに烟を吐き居るもの即ち隅田、他は淸國軍艦)
  (二)十三日帝國軍艦對島漢口に着し内外人の大歡迎を受く、獨租界より撮影、右は獨逸砲艦)、
  (三)帝國漢口領事館より連りに對島艦に對し信號を發す
  (四)十一月十日江上警備艦より武昌農務学堂の兵火を望む、(學堂は美代法學士の十餘年間教習たりし所)、
  (一)十月十一日帝國軍艦隅田、因欲救護外國人 急武昌(圖中遙々起烟之戰囘即是隅田、其他即淸國戰艦)
  (二)十月十三日帝國戰艦駛到漢口 蒙諸内外人之大歡迎、
  (三)帝國總領事館頻向帥艦對島發行信號
  (四)農務學堂兵火、
  (From the top)
        2. The Tsu-shima, a japanese washipp, arriving at Hankow on Oct. 13th-receives the warm welcome from Japanese and foreign residents there. ( Taken from the German settlement. On ths right is a German warship. )
   3. Signals from the japanese Consulate to the flagship the Tsushima.
        4.  The fire of “ Nomugakudo ” ( a chincse agriculutual school.  )

◎日本陸戰隊の上陸
 ◬十三日日本陸戰隊(對島水兵)漢口に上陸す◬同上

 (上)日本陸戰隊の上陸(對島の水兵百名を以て組織す)(十三日以後列國居留地の聯合防衞任務に當る)
     The landing aspecis Jpanese naval brigade.
 (上)日本陸戰隊上陸於漢口租界、對島艦水兵)
 (下)同上 其後吃水の關係上後に亂地に急航せる龍田、千早、安藝、生駒等の水兵と交代す)
 (下)續 同上
  
◎日本居留地の警備
 帝國總領事館を警護せる日本陸戰隊◬漢口日本義勇隊總員
◎列國の警備(其一)
 ◬十月十二日在漢口に各國對時局會議の爲露國總領事館に會す◬露國水兵の漢口租界の警備◬漢口の佛國陸戰隊
◎列國の警備(其二)
 ◬獨陸戰隊の獨逸租界警備◬米國陸戰隊及獨國陸戰隊の警備
◎武漢パノラマ
◎江岸停車場占領戰(其一)
 ◬革軍先づ電線切斷の爲め露國租界附近に火を放つ◬江岸停車場附近の革軍陣地◬官軍砲兵の奮戦
◎江岸停車場占領戰(其二)
 ◬官軍河南兵の前進◬革軍に用品輸送◬革軍江岸停車場を占領す
◎江岸停車場占領戰(其三)
 ◬江岸停車場附近の砲兵陣地(一)◬江岸停車場附近の革軍砲兵陣地(二)
◎戰後の荒涼
 ◬江岸停車場附近の革軍露出する◬江岸停車場附近の兩軍の累々たる死屍
◎江岸停車場占領後の革軍
 ◬江岸停車場守備隊と其幕僚◬革軍砲彈運搬兵の休養
◎革軍砲兵の作業
 ◬江岸停車場附近革軍砲兵陣地作業
◎漢口恢復戰初まる
 ◬避難船南陽丸より漢口兵火を臨む◬南陽丸より軍艦龍田艦隔てゝ兵火を望む
◎革軍利あらず
 ◬革軍江岸停車場より漢口停車場に退く(一)◬同上(二)
◎革命軍の退却
 ◬日本租界附近を退却しつゝある革軍◬其他
◎漢口停車場に退却せる革軍
◎北軍官軍追撃
 ◬北軍勢に乗じて革軍を追撃す◬北軍日本租界附近に於て革軍砲兵隊陣地を占領す
◎北軍漢口を恢復す
 ◬北軍漢口停車場を恢復す◬北軍漢口恢復後日本租界後部競馬場入口より新馬路に向け砲列を布き、爾後時々漢陽大別山の革軍と砲火を交換す
◎避難船中の觀戰
 ◬十月廿七八日の漢口兵燹を避難船南陽丸より臨む◬淸國軍艦の武昌砲撃(砲臺附近の火災)
◎京漢鐡道線路
 ◬漢口第一鐵橋及附近◬同線路一斑◬停車場附近の客車及貨車
◎動亂雜觀
 ◬動亂爆發後の銀行取付◬革軍軍隊輸送革軍◬斬首せられたる支那人◬其他

   ▲記事欄

▲何の道革命は免れざる運命 犬養毅
▲革命亂の過去現在及び將來 根津一
▲支那革命黨の由来と勢力  平山周
▲支那革命黨首領孫逸仙
▲脅かされたる北京政界の權力轉變
▲革命亂の起因及其經過
▲武漢革命軍の中樞人物

 一 王得勝
 二 湯化龍
 三 黎元洪
 四 黄興

▲情の黄興と孫逸仙     粹菩提
▲「民報」社毒茶事件    近藤京魚 
   ‥‥間牒の奸計‥‥革命黨の密偵‥‥
▲蘆原將軍の革命気焔
▲彈丸雨飛下の寫眞撮映談
▲五十年前の革命大亂
▲革命川柳         馬太郎
▲革命輕口 戰鬪新話    鬼太郎

〔裏表紙〕動亂渦中の支那帝國


「契約書」「電報略符号」 (山東革命)(1916)

2020年08月06日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

  

    契約書

 中華民國革命軍最高顧問萱野長知ト角田他十郎ト左ノ条項ヲ契約ス
 以下萱野ヲ甲トシ角田ヲ乙トス 
 第一条 甲ハ乙ヨリ、モーゼル短銃及ビ實包ヲ買入ルヽコトヲ約ス
 第二条 其ノ取引地及ビ期日數量價格ハ左ノ如シ
  (一)取引地、 青島渡シ
  (ニ)期 日、 四月弐拾貳日入港予定ノ薩摩丸ニテ持チ来ルコト
  (三)数 量、 五百挺以内但シ毎壱挺彈丸百発付キノコト
  (四)價 格  壱挺ニ付キ銀百円マデトス
 第三条 代金ハ青島ニ於テ現品引換ニ即時支払ノコト
      但シ右薩摩丸便ニ間ニ合ハザル時ハ本契約ハ無効トス
 右契約ノ証トシテ本書二通ヲ作成シ各自一通ヲ所持ス
  大正五年四月十二日
                萱野長知  【印】
                角田他十郎 【印】

           

 電報畧符号 大正五年七月ヨリ

  言葉ハ(アイウエヲ)ニテ操ルベシ
     例ヘバ  馬具五十購求セヨ金送ツタト打電スルニハ下ノ如シ
          (ソツ五十ツネヨタ)消ス
          (クヤ五十ツネヨタ)
   「野砲アルカアルナラ20送レ代金〇〇ト打電スルニハ」 
    (ハニアルカアルナラ二〇ロロハハ)トナルナリ

 1  

  ア、イ、ウ、エ、ヲ

     維縣    (ユメ)  送レ   (ロロ)
     安心セヨ  (トト)  安全   (ヲヲ)     
 2  

  カ、キ、ク、ケ、コ

     金送ッタ  (ヨタ)  金送レ  (タレ) 
     契約シタ  (レソ)  購求セヨ (ツネ)  
     購求シタ  (ネナ)  軍刀   (ヤマ)  
     使金    (エテ)  漢口   (ヱヒ)
     海路    (モセ)  確実   (イン) 
     降服    (ハセ)  黄興   (ホヒ) 
     〇〇    (ルキ)  開会   (〇サ)  
     解決    (ツマ)  干渉   (ネヤ) 
     開始    (ウム)  居正   (へヱ)
     機関銃   (ニホ)  機関砲  (ホヘ)  
     議長    (ワア)  議員   (カテ)     

 3  

  カ、キ、ク、ケ、コ

     交渉    (ノラ)  契約セヨ (ニニ)

 4

  サ、シ、ス、セ、ソ

     小銃    (ロハ)  送金急グ (カヨ) 
     借款    (ラム)  出発スル (ノオ)
     出発シタ  (オク)  進行   (コエ)  
     右会欠シタ (テア)  済南   (キユ)
     青島    (メ〇)  上海   (シシ) 
     戰闘開始  (セス)  孫文   (ニモ) 
     総統    (チ〇)  撰挙   (ヌエ)  
     岑春煊   (タコ)  蔡鍔   (レフ) 
     守備軍司令部(ラオ)  出功   (ホホ)    
       
 5  タ、チ、ツ、テ、ト

     彈丸    (イロ) 毒瓦斯   (リヌ) 
     出来タ   (ムウ) 出来ヌ   (ウ井)
     奪畧    (ケフ) 鉄道    (ヒモ)  
     退却    (レン) 敵軍    (ロス)
     段祺瑞   (ヨエ) 張継    (ナク) 
     手附金   (ムノ) 代金〇〇  (ハハ)
     中傷    (チチ) 代金〇地渡シ(ヌヌ)
     
 6  

  ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ

     荷物積出シタ(ヌル) 荷物積出シタカ (ワカ)  
     南京    (シヱ)

 7  

  ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ

     ブローム   (トチ) 飛行機  (チリ)
     早クタノム  (井ノ) 病気   (マケ) 
     副総統    (リメ) 北京   (サキ)  
     船ニテ積ム  (リリ) 甚ダシ  (ルル)

 8  

  マ、ミ、ム、メ、モ

     マダカ    (ソツ)  〇〇  (ナラ)  
     馬具     (クヤ)  見込  (ヘヘ)
      
 9  

  ヤ、ユ、ヨ、ラ、リ、ル、レ、ロ

     野砲  (ハニ)  薬品     (ヘト)  
     李烈均 (ソケ)  黎元洪    (トシ)
     用意  (フコ)  陸軍省    (ワワ) 
       
 10  

  ワ、ウ

     我軍勝利(スン)  運動     (アサ)  
     受取シヤ(ル〇)  受取ッタ   (〇ワ)

 〔蔵書目録〕

 ・上の二つの史料は、いずれも萱野長知旧蔵のものである。 

 ・上の〇は読めず、他も推測のものもあるため、正確には掲載写真を参照のこと。

なお、上の契約書にあるモーゼル銃や山東革命については、次の文が詳しい。

中國革命の恩人宮崎滔天 

        陳中孚

    民蔵と寅蔵

 私は宮崎民藏と寅藏の二人を知つてゐた。その外に彌藏といふ人がゐた樣だね、あの人も非常に民主的な方であつたと聞いてゐる。民藏は歐洲に遊び、また中國へも行つたが、仲々の學者であつた。孫文の三民主義の民生の内容である「地權平均」、「資本節制」の政策は、實は民藏の立案であつた。民藏はたしか虹口の田中旅館に二三年位滯在してゐたやうに思ふ。上海で亡くなつた。

 私は熊本の荒尾にも行つて、宮崎兄弟の建碑除幕式に參列した。それはたしか昭和十六年の春であつたと思ふ。鶴見總持寺の境内にも、私は「中國革命を援助して呉れた人々に感謝する記念碑」をその年に建てた。

 中國第一革命の時、廣東惠洲事件で犠牲になつた東亜同文書院の山田良政の碑が建つたのは民國三年頃であつたが、私は孫文の名代として山田純三郎(良政の弟)等と一緒に弘前へ除幕式に參列した。弘前で山田の墓にお詣りして東京へ歸つて來る汽車の中で、たしか仙臺あたりだつたかと思ふが、いつの間にか寅藏がゐなくなつてしまつた。純三郎に「宮崎はどうしたのか」ときくと、山田が説明して曰く、「滔天は浪花節をやるために仙臺で降りたのです。彼れは今の所あれで生計を立てゝゐるのですから」と言つてゐた。

 當時孫文を始め中國革命黨員もそれを援助する頭山滿、内田良平、佃信夫、末永節、葛生能久、柴田麟次郎、萱野長知、その他皆生活は決して樂ではなかつた。私は滔天が浪花節で生計を立てながら中國革命派を熱心に世話してゐたのには感服した。その頃孫文も東京にゐた。 

    モーゼル五百挺買ふ金がない

 中國革命黨としては、當時擧兵の爲の武器が欲しくてたまらなかつた。滔天が見付け出したのだつたと思ふが、五百挺のモーゼルが一挺八拾圓、合計四萬圓で買へるといふ、話だつたが、その金の工面がどうしてもつかない。孫や私にしてものどから手の出る程欲しいけれども、殘念乍ら金が出來ない。その苦勞を見兼ねた滔天が、種々交渉した結果、そのモーゼルを持つてゐる商人が、頭山滿が保證人に立てば品物はとれるといつて來た。然し孫は非常に律儀な男であつたから、「鐵砲は欲しいけれども頭山だつて金は無い、我々も金の入るあてがない、若し拂へない樣な事になつたら頭山に迷惑がかゝる、頭山に迷惑はかけたくない」といつて、モーゼルを入手しようと云はない。滔天は「頭山はそれ位の迷惑に驚く男じゃない。商人の方で頭山が保證すれば品物を先に渡すといふのだから、受取つたらどうか」と、如何にも殘念相に熱心に勸めたが、孫は聽かなかつた。それで話は不成立に終つた。

    山東の革命

 民國四年の下半期になつて、五萬圓の金が出来たので、以前に不調となつたモーゼル五百挺を購入した。その時は一挺百圓の割だつた。山東の革命には滔天も一寸來た樣に思ふが、彼れは主として黄興と行動を共にしてゐた。山東の方は萱野長知、工藤忠、塩谷慶一郎等約三十餘名の日本人有志家が加勢に來て呉れた。

 山東に渡る前、大阪の或る化學工場、たしかオギノといふ代議士だつたかも知れないが、鐵砲が足らなければそれに代る化學兵器、即ちガスが有るといふ話だつたので、大阪の工場へそれを見に行つた。ホースでガスを噴出させたが異樣な臭ひがしたが、人畜を傷つける程の有毒ガスではなかつた。金嵩も相當張ることが判つたので、先づ五萬圓だけ内金を入れてガスを貰ふこととし、革命が成功したら百萬圓謝禮を出すといふ條件で話をきめ、孫から誓約書一通を入れて話は成立した。

 山東へ渡つたのは民國五年だつた。當時中國各省には中國々民黨の支部があり、支部長が配置されてゐたが、山東と滿洲とだけは支部長が置いてなかつた。それは山東の革命黨の有力幹部が、皆上海に行つてしまつてゐたので、缼員になつてゐたのだ。

 これより先、海洲の奥に金が埋めてあるといふので、六百トン許りの日本の漁船で海洲の沖まで行つたが、そこから川を朔江しようとしても關があつて船が上れない。心を殘して引揚げて來たことがある。

 當時居正が國民黨の部長で東京にゐたので、私は彼を説き、山東革命軍の總司令を引受けさせた。私がその下で副總司令といふ譯である。當時湖北省の支部長は田桐といふ男がやつてゐた。孫の手許にはその時三千圓位しかなかつたので、仕方がない、それだけを軍資金にと貰つて出掛けた。一行は居正と私と萱野とも一人だつた。

 私は大連に上陸、それから撫順に行つて、十萬人もゐる炭坑夫の中から一千人の志願傭兵を募つて靑島へ送つた。モーゼル銃五百挺の代金は孫が支拂ひ、その外に五萬圓呉れた。私は靑島で三四十萬圓別に作つた。

 山東の革命黨員等は皆上海に出向いてしまつて、靑島には殆ど名のある者はゐなかつた。當時上海では陳其美や蔣介石もゐた。そこで上海から山東の同志を呼び寄せたが、同志達は誰一人として武器を持つてゐない。それで呉大洲(山東の革命黨員)にモーゼル百挺を渡した。その後また別に百挺の小銃を手に入れた。

 すると我々が大阪から仕入れて行つた毒ガスの噂が全中國に擴がつたので、北京の袁世凱から上海にゐる孫へ「如何に革命黨とは云ヘ、同胞に對して毒ガスを使用することは非人道的であり、將來非難を蒙ることは必定であるから、それだけは絶對に使用を禁止され度い」と抗議を申込んで來た。そこで孫から私にその旨を通告して、毒ガスの使用は絶對禁止する樣に云つて來た。

 私は我々が持つてゐるガスは、有毒ガスではないことを知つてゐたが、その噂は戰略に利用した方が得策と思つたので、孫には「承知した旨」を返答して置き、我々の同志一行は靑島から維縣に向つて出發した。

 袁側の督軍は一ヶ師團と騎兵一聯隊を維縣に配置して布陣してゐたが、我が革命軍は素人の寄せ集め軍一千人にモーゼル四百挺、小銃百挺といふ貧弱極まる装備である。

 維縣には東と西の二つの城があつたが、夜中に東の城を陥れたが、外の陣地から大砲で猛攻撃を加えて來るので、持ち堪えかねて退却してしまつた。そして膠洲鐵道のステーションへ引揚げた。維縣は山東では濟南に次ぐ堅固な重鎭であつたので仲々陥落しない。他の城なら占領出來るところもあつたが、外へこちらの兵隊を出すと軍律が正しくない烏合の衆だから、どんな惡い事をするか解らないので、派遣出來ないといふ惱みがあつた。私の眼の届く所へ置かねばらない内情であつた。それで苦しくても今夜一晩はこゝで頑張らねばならないといふので、亦その晩攻撃に出たが城は取れない。城内と驛の間は二里位あり、その間で四五ヶ所占領し防禦施設を施した。敵は山東省第五師團といふのであつたが、我々革命軍は寡勢ながらよく持久戰をして、約二週間對抗して頑張つた。その内敵側から使者が來て、談判をしたいから總司令居正と、私とも一人に、敵の司令部へ來て呉れと云つて來た。我々は相談の結果、三人で行つて若し敵の謀略にかゝつて、三人共監禁される樣なことがあつたら、革命軍は全滅するから、私一人で行かうといひ出し、結局單獨で敵の司令部へ乗り込んだ。

 敵の代表と私が和平の談判を行つてゐると城壁の上の監視所から歸つた歩哨が「今夜城壁の上に立つてゐると變な臭ひをかいだ、あれは毒ガスぢやないかと思ふ」と云ふので、すかさず私が「ウン、あれは確かに毒ガスだ、私は同胞の間で毒ガスを使つてはいけないと止めたが、これ以上城内の明渡しを待つ譯には行かない、孫からも警告して來たけれども、今夜は使用する豫定になつてゐる」と脅かした。すると敵將は驚いて退却を決意し「城の明渡しはもう二日待つて呉れ」と懇願したが、私は「二日はとても待てぬ、毒ガスを使用して攻撃する筈だ。是非共明日の午後三時迄に明渡せ!」と迫つた。そこで城明渡しの談判が成立し、約束よりも早く敵は城を棄てゝ退却したので、歡呼の聲をあげた。

 維縣の城はかくて革命軍の手中に入つたので、私達は早速三ヶ師團の軍隊を作り、高密やその邊の東方地區を占領し、山東省の約半分を占領した。滿洲皇帝の侍衛長をしてゐた工藤忠等はその時諸城の占領に向つた。山東の革命には井上日召・前田虎雄等も参加した。その當時金子雪齋も山東へ來た樣だつた。

    袁世凱の死の原因

    私は殺され損つた

    滔天、孫に擧兵を勸む

    革命は今も必要である

 (筆者は、第一革命時代より孫文滔天等と行動を共にしたる中國の革命家、現在中國の再革命運動に挺身しつつあり。日本に在留する中國革命家中の最長老で、或は滔天と共に孫文の名代として革命端初の犠牲者山田良成の建碑式のため弘前に赴き、亦荒尾の滔天の墓に詣で、中國革命を援助したる日本人有志に敬謝を捧ぐる碑を孫文と共に鶴見總持寺に建つ。山東革命には總司令官居正の下に、參謀長として参加、日本人にして參加したるものは井上日召、前田虎雄、工藤忠、本間憲一郎等である。元冀東政府外交部長。現在亞細亞友の會々員。當年七十二歳。)

 上の文は、昭和二十九年五月一日発行の雑誌 『祖國』 宮崎兄弟特輯號 五月號 第六卷 第四號 に掲載されたものである。


『国民(国民月刊)』 第二号(1913.6)

2020年01月13日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 

国民月刊 第一巻第二号 〔下は。主に宋教仁関係の記事など〕

  図画

    

 ◉宋遯初先生被刺傷痕攝影 其一
 ◉宋遯初先生被刺傷痕攝影 其二
 ◉宋遯初先生逝世後攝影 其一
 ◉宋遯初先生逝世後攝影 其二
 ◉本党参議唐少川先生肖像
 ◉本党上海交通部正部長居覺先生肖像
 ◉本党上海交通部代理部長陳英士先生肖像
 ◉第一次唐内閣閣員攝影

  言論

  ▲政論▼

 ◉組織政府問題
 ◉説明本党国会期間之遭際與態度
 ◉国家存在之原理
 
  ▲専論▼

  

 ◉中華民国憲法芻議 (王寵惠)

 下篇 憲法草案

  中華民国憲法

  第一章 総綱

 第一條 中華民国永遠定為共和国
 第二條 中華民国之主権屬於国民全体
 第三條 中華民国領土為二十二省内外蒙古西蔵青海
 第四條 凡與本憲法抵触之法律命令均無効力

  第二章 国民

 第五條 中華民国国民均屬平等無種族階級宗教之区別
 第六條 国民得享有左列各欸之自由権

  (一)国民之身体非依法律之規定不得逮捕監禁審訊處罰
  (ニ)国民之住所非依法律之規定不得侵入捜索封錮
  (三)国民有保有財産之自由
  (四)国民有営業之自由
  (五)国民有言論著作及刊行之自由
  (六)国民有集会結社之自由
  (七)国民有書信秘密之自由
  (八)国民有居住遷徙之自由
  (九)国民有信教之自由

 第七條 国民有以文書請願于国会及各地方議会之権

 ◉開国十年記念博覧会論

 ▲雑論▼
 ▲譯叢▼

 ◉日本民党の言(永井柳太郎撰見中央公論第二百八十六号)
 ◉支那之現勢 見日本外交時報二百号

 ▲政見商榷▼
 ▲政治評論▼  

  専載

  ▲宣言▼
  ▲職員録▼

 ◉国民党燕支部職員録
 ◉国民党蘇支部職員録
 ◉国民党美洲支部職員録
 ◉国民党保定交通部職員録
 ◉国民党蕪湖交通部職員録
 
  ▲調査▼

 ◉衆議院議員一覧表

  紀事

 ◉国内大事紀
 ◉国外大事紀
 ◉中華民国国会史

  

  特別紀事
 ◉宋遯初先生遭害始末記(續)

 (廿六)第五次預審記(廿七)第六次預審記(廿八)第七次預審記(廿九)要求引渡洪犯(三十)應武両犯之引渡(三十一)證據要件之移交(三十二)特別法廷之組織(三十三)審判機関之争執行(三十四)武士英之見死(三十五)醫生解剖之報告(三十六)暗殺證據大披露(三十七)上海地方庁第一次之預審(三十八)上海地方審検庁改組之風潮(三十九)應朱両犯解入城(四十)趙秉釣抗傳不到(四十一)上海地方審検庁第一次公判記

  叢錄

  ▲傳記▼

    

 ◉呉烈士綬卿〔呉禄貞〕傳略
 ◉林頌亭先生傳略

  ▲叢錄▼   

 ◉辛壬戦記

  文藝

 

  ▲文

  ◉祭宋遯初先生文 譚人鳳 
  ◉祭宋遯初先生文 揚州商團

  ▲誄

  ◉哀宋遯初先生誄 (唐羣英)

  ▲詩

  ◉宋漁父先生遺詩
  ◉哭素宋遯初先生

 国民第一巻第二号
    定価大洋三角

 総発行所 国民党上海交通部
 編輯所  国民党上海交通部
 印刷所  商文印刷公司


『支那と日本』第三号(1913.12)

2019年12月25日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

   

   支那と日本 第三号 目次

 ◎北京頤和園(口絵写真版) 
 ◎宋教仁遺書(口絵写真版)

 

 ◎白禍論 ‥‥ 和田三郎
 ◎與国民党諸公書 ‥‥ 宋教仁

  

 ◎支那開発の先登舞台 ‥‥ 志田鉀太郎
 ◎日支親善と実業共益 ‥‥ 植村澄三郎
 ◎支那の財政 ‥‥ 神田正雄
 ◎対支紡績策 ‥‥ 上野山重太夫
 ◎梁啓超と支那人気質 ‥‥ 在北京 ‥‥ 蒼鷹公
 ◎東亜製粉と田村秀光君 ‥‥ (対支実業家列伝)‥‥
 ◎支那の紡績業 ‥‥ (支那実業調査) ‥‥
 ◎支那劇の研究 ‥‥ 在大連 ‥‥ 近森出来治
 ◎昔々春秋 ‥‥ 中井履軒 
 ◎日支新吟壇 ‥‥ 支那 ‥‥ 徐九鐘
 ◎縄暖簾 ‥‥

 

  大正二年十二月五日発行 
  発行兼編輯人 萱野長知 
  発行所    中華民国通信社

〔蔵書目録注〕

本書表紙には、「鎌田先生惠存 和田三郎」との手書きの書き込みがある。


「支那第二革命の概要」陸軍歩兵少佐 本庄繁(1913.11)

2019年06月17日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

   

 支那第二革命の概要
      陸軍歩兵少佐 本庄繁

 一 原因

 支那第一次革命の結果は専制の政体を共和に代へたるに止 とど まり、之に伴ふ思想の革新、政治の改善に至りては何等視るべきものなく、却て秩序なき放埒の気風を伝播せしめたると同時に、著しく中央部の威信を減損して施政の難渋 なんじゅう を喞 かこ つに至らしめたり、此時に当り純革命はを中心とし南方諸省を根拠とせる孫文、黄興派は、旧官吏派を中心として北方諸省を根拠とせる袁世凱派と絶対に相容れず、革命の首功に自負せるも其の実力の北方に如 し かざるを見れる南方派は政権の獲得に焦りて或は政党内閣を唱へ或は地方分権を叫びしが、之に対して北方派は現に政局にあるの機会を利用して其基礎を鞏固ならしめんが為に専ら中央集権を策し、逐次に反対派の勢力を減殺せんことに努力せり、此 か くて両派の間日一日党争の滋 しげ くして漸 ようや く第二次革命の避くべからざる気運に向ひしが、昨年秋恰も財政の窮迫、強隣の圧迫等内憂、外患交々 こもごも 迫るに遭ひ、国本の動揺に驚きて国家の統一を叫び一時秩序回復の徴 ちょう を呈し来りしに、本年三月二十一日国民党の領袖宋教仁の、南方選出議員を率ゐて北上の途上海停車場に於て刺客の為に暗殺せらるゝに及び、南方派は之を以て袁が使嗾 しそう に出づるものなりとなし俄に驚騒して如上南北両派の軋轢、此所 こゝ に曝発 ばくろ し、遂に彼我衝突の動機となり第二次革命直接の原因と為れり。

 二 発乱前に於ける南北両派の画策 〔省略〕

 三 戦乱の経過

  其一 黄興南京逃走前の戦況

 北京政府は予定の計画に基き北洋第六師及同第二師を陸続南下せしめ、逐次に江西省境を圧して六月上旬最早都督李烈鈞に反抗の余裕なきを認めたるものゝ如く、同九日断然李都督の職を免じ意思の鞏固ならざる師長歐陽武を挙げて之に代らしめ、又窃 ひそ かに北方に通ぜる九江衛●司令官陳廷訓を江西要塞総司令に任命せしが、之よりして南方一帯頓 とみ に活気を帯び、孫文、黄興、陳其美、汪兆銘、蔡元培等の領袖は上海の根拠地に在りて、日夜対袁策の密謀に余念なく、六月十五日参議院議長張継に俄かに南下して北京に於ける与党の形勢日々に非なるを告げ、●●逡巡せる孫、黄等の奮起を促すに及び、議は漸 ようや く武力解決に一決して孫文は自ら広東の独立並に軍資の調達を胸算しつゝ、同十七日急遽広東に向へり。
 之より先き、岑春●、章炳麟等の黎元洪を大総統に推して袁世凱を政局外に駆逐せんとする企図の黎に峻拒せられて失敗するや、旧湖北第八師長李雨霖は直に同志十数名と共に湖北に進入し、武漢軍隊の不平分子を糾合して六月二十五日夜武昌都督府を襲撃すべく奔走する所ありしが、期に先 さきだ つて陰謀曝露し、湖北の独立計画は悉く失敗に帰して孫黄一派の画策に一頓挫を来 きた せり。

 〔中略〕

     支那第二次革命戦経過概図 第一図 第二図

 斯 か くて上海附近の戦闘は、上述の如く漸く南軍に不利なるものありしと雖 いへども 、七月二十六、七日頃に至るまで戦乱の範囲は寧ろ逐次に各方面に発展して、大勢尚ほ俄に測 はか るべからざるの形勢にありき。 

  其ニ 黄興の南京逃走及其後の戦況

 各方面に於ける戦局の未だ必ずしも南軍に絶対に不利ならざりしは以上説述し来れるが如くなりしが、七月二十九日突如討袁軍総司令官黄興の南京逃走となりて俄に形勢の急変となれり、其原因少なからざるべしと雖、討袁軍の軍資正に枯渇し、弾薬亦欠乏し、加之 しかのみならず 上海は尚陥落せずして軍需品補充の途 みち、將に絶えんとし、将士漸く不安の念を催せるの時に当り、曩 さき に上海に逃れたる都督程徳全の七月二十六日、共和政治の擁護は必ずしも之を干戈 かんか に訴ふるを要せずとの要旨を打電して各地の反省を促すに及び、平和を羨望せる官民に著しき印象を與へ、又袁世凱より受領せりと称せらるる六十余万元の一半を散じて蘇州、鎮江其他各地の独立取消を勧誘するや、暗雲忽 たちま ち江蘇省内を鎖 とざ して南京屯在の軍隊亦漸く険悪の兆を帯び、時恰も信頼し得べき第八師の精鋭は悉く臨淮方面に出動し、黄が身辺、刻々危険の迫り来りしもの之れ彼が総司令部を脱逸せし所以の重なるものなるべし。
 此 か くて二十九日午後に至り、黄興退去の事実、南京城内に伝はると共に、南京各所討袁軍の白旗は悉 ことごとく 撤去せられて、其総司令部は● ここ に崩壊し、各方面の討袁軍は端なく其進退に迷ふに至れり、而して淮河の線にありし、南軍三個師団は八月一日頃より陸続退却に就き、北軍の主力は之を追ふて直路、南京に向ひ、張勳の部下約六、七千は運河に沿ふて南下せんとし、倪嗣沖の軍も亦鳳台附近に於て南軍を撃破し壽州に入れり。

 〔中略〕

 之を要するに意外なる南京総司令部の崩壊によりて急転直下せる時局は、南軍をして遂に之を挽回するに術 すべ なからしめ、各省風を望んで潰 つひ へ、其独立取消の迅速なること恰も各省の独立宣布と相比例し、南京の支持、重慶の独立等、一、ニの特例を除くの外、多くも半ヶ月を超ゆることなく、遺憾なく支那人の付和雷同の特性を発露して余薀 ようん なしと謂ふべきなり。
  
 四 南北勝敗に関する見所

 〔省略〕

 而して南北の勝敗が武力に決せずして金力に左右せられたりと唱へらるゝが如く、両派軍資の著しく懸隔が如上原因中の重要なるものにして、之に依りて南方屈指の領袖が軟化し多数の将士が買収せられたりと云ふに至りては支那人心の寔 まこと に利用せられ易 やす き弱点を遺憾なく表白すると共に、政府資金の枯渇に隨ひ紛擾の続出すべきを想はしむるものにして、単に第二革命の勝敗の跡に顧みて尚は且つ支那将来の容易に楽観すべからざるものあるを悲まざるを得ざるなり。

 上の文は、大正二年十一月一日発行の雑誌 『戦友』十一月号 (第三十七号) 発行所 帝国在郷軍人会本部 に掲載されたものである。


「〔宣統復辟〕」絵葉書(北京)(1917.7)

2018年10月23日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

       

 (其一)永定門外ニ於ケル共和軍ノ総司令部
 (其ニ)定武軍兵 弾痕ヲ受ケタル天壇ノ正門
 (其三)天壇内ニ於ケル定武軍ノ幕営
 (其四)定武軍 天壇内ニ於ケル戦死者棺

      
 
 (其五)正陽門前ノ月台
 (其六)交民巷ヨリ張勲〔張勳〕邸ノ炎上ヲ望ム 交民巷ノ防備
 (其七)皇城根ニ於ケル共和軍歩兵ノ攻撃
 (其八)皇城根ニ於ケル共和軍砲兵ノ張勲邸砲撃
 (其九)東安門ニ於ケル共和軍歩兵ノ追撃

      北京 山本写真館 


『片鱗』 伊東知也 (1919.4)

2015年06月29日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 片鱗 東京 龍川社発兌

    大正八年四月廿二日発行 著者 伊東知也

 武昌の一日 (明治四十五年一月)〔下は、その一部〕

 漢陽陥落してより茲に三日。陣雲低く垂れて寒鴉乱れ飛び、腥雲戎衣を福処死屍縦横、喪狗の彷徨するを見、時に殷々遠来の如く巨弾の大江を横切るを聞く。黄鶴楼は夢の如く江の一角に屹立するを望むも、伯牙弾琴の古跡は徒らに馬蹄の蹂躙に委するあるのみ。思へば四日以前、襄陽丸の壮麗なるサルーンに於て、同志と共に瑠璃の杯を挙げ、余等一行の前途を祝福して、一日も早く武昌城頭新建国の壮国を発表すべく囑望せられたりしに、驚くべし。形勢は走馬灯のそれよりも急に、僅に一昼夜にして船の鎮江に達するや、上海に残留せる二人の同志は急遽火車を駆つて余等の後を追ひ、満腔の希望に安らけき夢を結べる余等の枕頭を蹴て、一大事起れり、一大事起れりとの喚声に、俄然として驚き起てば、漢陽遂に守りを失し、武昌亦危殆に迫り、黄興江を下れりとの確報に接せり、加ふるに手に唾して取るべしと唱へられし南京城も、難攻不落、其の略取の日を期すべからず、漫然遡江するも何の得る所かあるとの注意に、余等三人は肚膽を抜かれ、船室に鳩首協議の末、天烱、滔天の二氏は此地に上陸して黄氏を待ち合す事とし、余一人敗後の状態を視察し、黎元洪の意中をも慥むる事と定め、単身孤影漫々たる大江を遡り、客心轉た無量の感慨に打たれつゝ、足を漢口の埠頭に印せしは、天日光リ鈍く将に西山に舂かんとする昨日なりき。
 道途の傳ふる所によれば、漢陽の一挙、官軍大に気勢を添へ、独人の手によりて運搬せる十五珊カノン砲は既に五門の据ゑ附けを了り、榴霰弾、機関砲の準備豊富にして、一撃の下武昌は粉砕せらるゝに至らん、武昌の革軍、漢陽の敗兵、皆な焼け糞となり盛んに掠奪を始め、而かも外人と見れば赤裸々にせずんば止まずと、我が領事館の諸氏亦た此の説を信ずべしとなし、強ひて余等の渡江を中止せしめんとせり。
 されど余は同志と深く約する所あり、身首処を異にすと雖も其の使命を恥かしめ難きを以て、断固其の決心の翻すべからざるを述ぶ、幸いにして同志本城氏の紹介によりて、一見旧知の感ある高須領事は、大いに余の意中を諒とし、然らば領事館のランチに便乗の計らひをなさん、若し彼岸に達し危険の兆あらば直ちに引返し来れ、我がランチの船長は支那人に似気なき勇敢無比、幾たびか弾丸雨飛の間を往来せし経験を有す、恐らくは卿等の希望を達するを得ん乎と、余勇躍、深く其の好意を感謝す。
 旭日暉々として大江に映じ、金波銀波相連りて舷側を打つ。日、英、米、独、仏、露、白の軍艦十数隻、各々其の国旗を朝風に翻へし、堂々たる雄姿長江を圧するの概あり、其の間を縫ひ、巨大なる日章旗を舷頭に掲げたる我がランチは、白波を蹴立て疾駆して進む、列国の海兵眼を峙て々望み、其の何人たるやを想見するものゝ如し。男児桑蓬の志、未だ酬い難しと雖ども、亦た一時の快ならずとせんや、東坡清遊の地此所を距る遠からず、其の、西夏口を望み、東武昌を望めば、山川相繆ひ、鬱乎として蒼々たりと称へ、周郎を憶ひ、孟徳を偲び、天地の大観に憧憬したりしも此の附近山河の形勢の感化にあらざるなきか、星移り人変り、依然たる江山、幾たびか其の主を代ふるも、滔々たる長江何れの時にか盡きん、今や亦た両軍江を隔てて相対するに至る、地下の東坡は果して如何の感をかなすと、眸を放つて大河山嶺を望めば、数條の陣烟高く天に冲するを見る。
 船の南岸に近く頃、傍人声を放つて曰く、数十の兵勇皆な我が船に向つて射撃の構へをなすと。双眼鏡を取りて見るに果して一斉射撃の態度を示す、船長に注意して除行せしめ、其の他意なきを表し、岸に達するに及び先づ同行せる此の地方在住者を上陸せしめ、余等の来意を述べ、上海陳都督より余に與へられたる護照を示すに及び、兵勇皆な直立不動の態度に復す、乃ち悠然として上陸すれば、護岸隊長陽某慇懃に迎へ、此の地方一帯の司令官数町の奥にあり、希くば駕を抂げて懇談せられたしと、二名の兵勇を附して案内せしむ、路傍の飲食店、小雑貨店等、何れも非常の繁昌にて、支那到る処の場外市場の状況たる、煙草を喫する者、甘蔗を嚙る者、立ちながら駄菓子を喰ふ者嬉々として小児婦女子の戯るゝ状、少しも平素の態に異らずして、絶て戦乱の悲運にあるを認むる態はず、況んや大別山頭の巨砲一発の下に、粉砕せらるべき恐怖の感念の如きは、群集何者の辞色にも発見する能はず、余輩は寧ろ奇異の情に打たるゝを禁ずる能はざりき。

 〔中略〕

 正午少しく前に、漸く洪山寶通寺に達す。寺は武昌城東の一勝地にして、平時諸人遊覧の区、後ろに高丘を負ひ、一大塔を有し、壮麗なる伽藍、歴代諸帝の勅額等を蔵し甚だ有名なり。又た有事の時に当つては、常に武昌争奪の要衝にして、太平天国の乱、幾たびか両軍の拠る所となり、之れを得しものは武昌を略するを得しの重地なり。黎将軍の漢陽陥落後、其の本営を此の地に移せる故あるかな。刺を通じて待つ事少事、一士官の導くに任せ、例の支那的の布袋、毘沙門等を安置せる殿堂を過ぎ、数百級の石階を登りつめ、奥まりたる一室に案内せらる。外務部の江華本なる人出でゝ応接す、我が帝国大学法科に遊学せる年少気鋭の士なり。氏の言に曰く、黎都督は昨日六十清里許の処に出掛け居りしが今日は場内に往きて在らずと、余等一行の落胆云ふ許りなし、されど余は其の語気に怪しむべき点あるを看破し、且つ頃来漢陽武昌に於て、所謂援助的行動を執れる日人の多数が、俄然信用を失墜せる事実を知悉せるを以て、江氏の不在と称するに拘らず尚ほ頻りに黎将軍に面会を求めて止まず、恰かもよし。我が海軍士官の服装せる人の入り来るあり、余の名刺を熟視し、是ある哉ゝ、不肖貴国に在るの時、同志より貴下の名を聞く事久し矣、貴下に対して何をか秘せん。黎都督は現に此所を距る数町の処にあり、直ちに迎へ来るべければ暫く待たれよと疾走して去れり。氏は我が海軍砲術学校を卒業して、黎都督の副官を務あつゝある范騰宵其の人んり。
 少焉くして、石段の一方より都督来れりゝとの喚聲響く、間もなく入り来れる四十余歳とも覚しき堂々たる一偉丈夫あり、青色羅紗の詰襟洋服を著、赤皮の長靴を穿ち、日本刀を仕込めりと思はるゝ長剣を横へ、悠然たる態度、肥満せる体格、黒き大なる眉は最も男らしき風貌を示し、少し延びたる五分化刈頭は勇気の充ちゝたるを偲ばしむ、是れなん鄂軍都督黎元洪とは問はずしてぞ知られける。一応の挨拶ありて、余は来武の理由より同志の行動に及び、漢陽の守りを失せるは甚だ残念なるも、大江の険未だ容易に指を武昌に染ましむべからず、況んや難攻不落の称ありし南京城は、昨日を以て全く革軍の手中に帰し、形勢大いに振へるありとの飛電に接せり、将單姑らく隠忍此の地を守らば、天下の事復た憂ふるに足らざるべしと、黎氏答へて曰く、実に先生の下教の如し、弟不肖と雖ども徒らに筍且の計をなし、殉難八千の子弟に辜負するに忍びんや、唯だ憾む独逸の北軍を助くる尽さゞるなく、曩に十五珊カノン砲二門に過ぎざりしもの今や五門に増加し、又た将に十数門に達せんとす、其の威力実に驚くに堪へたり、弟の憂ふる所は唯だ此の武器の一点のみ、諮議局に設けたる都督府は、此の砲弾と榴霰弾の為に焼失せしめらるゝに及び、昨日を以て本営を此の地に移すの止むを得ざるに至りしなり。而かも士気愈々旺盛、昨亦広西の援軍湖南を経て新たに着し、京口より上陸して入城しつゝあり兵士の不足等は憂ふるに足らざるも唯巨砲、機関砲、榴霰弾の欠乏実に憂ふべしと大息す。余乃ち答へて、不肖等敢て聊か一臂の力を此に尽さん、弟明日を以て下江するを以て、上海に於て同志と協議する所あらん、将軍幸に少しく安ずる所あれ唯だ偸安の講話最も戎しむべしと、云ひ了らざるに黎氏は起つて堅く余の手を握り、元洪不肖と雖ども何ぞ先生の教に背くべけんや、希くは微衷の存する所を以て宮崎〔滔天〕其他の諸同志に伝へ給はれよと、感慨禁じ能はざるものゝ手戦き体顫ふ、余も覚えず胸臆四塞、涙の双眸を下るを禁せず、互に必ずゝを繰り返して、再たび三たび其の手を握る。満座寂として声なく窓外の剣戟燦として白日に映ずるを見るのみ。
  黎氏重ねて曰く、先生若し上海に於て幾分の望を有せられば、今日弟等協議の上一二の者を先生に随行せしめ、以て商量する所あらんとす、高見如何と、余其の最も可なるを答ふ、偶ま急用起れりとて都督を迎ひの参謀来る。黎氏乃ち慇懃其の旨を述べ陣中何等の用意なきも昼食の準備を命ぜり、弟は聞かるゝ如く直ちに城内に往かざるを得ず、陪食の栄を負ふ能はず切に海容を請ふと、恭しく辞す。白戟を持せる二十余名の猛卒前後より護衛して石階を下るを見る。余等厚意の饗を受け、二時辞して山を下り、轎を聯ねて賓陽門を入り、総司令部、兵営等の前を過ぎ、諮議局即ら前の都督府の跡を見る。宏壮なる煉瓦造りの大建築、四壁は未だ崩壊に至らざるも、屋根は全く破壊し尽され、窓より黒烟を吐ける状歴々として見るべく、光景惨憺たり。

 〔以下略〕

  刃に衂ること三十六人 (明治四十五年二月) 〔下は、その一部〕

 此の夜、余等は山田純三郎氏の宅に晩餐に招かれた。純三郎氏は、彼の三十三年事件、即ち広東省の恵州に於て事を挙げた時、最後まで踏み止まつて、遂に行方不明と云ふ名の下に、支那革命の犠牲となつた吾人の同志山田良政君の実弟である。今は満鉄の特派員として、三井物産に執務して居るが、常に阿兄の志を忘れず、何とかして支那革命を大成して、阿兄の霊を慰めたいと苦心して居たが端なく今回の震天撼地の大革命が成就せんとし、阿兄の遺志始めて酬いられんとするのを見て欣躍措く能はずである。況んや当年阿兄の同志として共に死生の巷を馳駆せし我等の来滬を見て、感慨禁ぜず、ぜひ兄哥の霊前で一杯傾けて呉れと云うふから、此の招宴となつた次第である。
 見よ正面に掲げられたる三尺大の額面には、胡装の偉丈夫、凛々しき一文字の眉通れる鼻筋、緊れる口元、裂けんとする眦には決死の覚悟を現はして居る良政君の風貌活けるが如く、吾が魂魄此の士に止まり、遂に今日の事を成せりと囁く如く思はれる。額前に台を設け、花を挿し香を焚き、一盞の清酒が供へられてある。座に連なる者、黄一欧、何天烱、滔天、余と主人と五人、皆粛然として容を正す。滔天先づ進んで一杯の酒を捧げ、三拜して後其の酒を戴いて飲んだ、次いで余、天烱一欧の順に此の式を行つた。最後に主人も酒を捧げ拜し了つたが、胸に溢るゝ萬感の切なるに堪へずやありけん、見るゝ双肩波の如く戦いて、額面を仰ぎながら、「兄サン……ウ……嬉しいでせう」と覚えず台下にヒレ伏した。一座暗然として暫く歔欷を禁じ得なかつた。嗚呼誰か男兒をして四方の志を抱かしむるものぞ、丈夫の涙は敢て別離の間に濺かずと雖も、斯かる涙はとゞめ難きものにこそ、悲しきにつけ嬉しきに付け、志士の胸中ほど感慨の切なるものはあるまい。
 やがて主人は容を改め、ヤア失敬しました何も悲しい事はないです。兄哥も嘸喜んで居るでせう、サアどうぞ召し上れ」と、細君の苦心になれる珍品佳肴を堆く列ねて灘の芳醇を頻りに勧めらる。酒三行にして滔天は余を顧み、もうどうだと云ふ、余乃ち携へ来れる秘蔵の一刀を、同郷在京の青年諸氏の餞別に係る紅絹を以て飾り、静かに之れを捧げて、霊前に一拜し、而して黄一欧に向ひ、「此刀は先年或人より誰れにも遣らぬと云ふ約束の下に贈られたもので、永年珍蔵して居たもの、又此紅絹は余が同郷青年の革軍に対する赤誠である、今ま君が南京攻撃軍の先鋒隊司令官として出発せらるゝを祝して餞別する、而かも山田良政君の霊前に於て特に贈る所以のものは、吾々同志の殉難者たる氏の志をも継いで抜群の働きをし、二人分の功名を顕して貰ひ度いからである、能く此の事を思つて呉れ給へ」と云ひつゝ刀を渡す。
 一欧起つて恭しく之を受け、儼然として「有難う御座います、御言葉の如く屹度充分の働きをして、我党の為め異国の露と消えられた山田様の御心にも叶ふやうに致しませう」と、其の言語、其の態度、二十歳の青年とは思へず傍人をして襟を正さしむるの慨があつた。収め了つて黄一欧はドレと許りに鞘を払ひ、晃々たる秋水を燈火に照らし見て、一と揮り二た揮り、エーツと気合の掛声勇ましく「ウムこれなら大丈夫張勲の首が斬られますゾ」と小躍りしたる武者振りに、一座皆な勇み立ち覚えず杯を挙げて、黄先鋒司令官萬歳を三唱した、勿ち撻を排し、醉歩蹣跚として入り来つた女がある。林漓たる酔態呂列も廻らぬ程にて、「何んですタイ、山田サマ厭な顔しまつすナ、の御写真ナ貴様方の兄い様ぢやろ、私ダッテ知つチョルタイエーツ、宮崎サマ、伊東サマ、ヲツウした顔して呉れマスナー、エーツ、カ……何サマ、それからコ……黄坊ぢやろ、皆な知つチョルタイ、矢つ張りさうぢやつた、今晩ナね、山田サマ、革命党の親分株が此処に集つていると聞いたケン、押しかけて来ましたタイ、オンドは革命党大好きぢやもの、浪人婆ぢやもの、ヨカたのドンゲン云つたからツテ、併しこの伊東サマナ、オンドを姉御と云はつしやるケン好カン、かう見えたつてオンドはバクチは打たんケン、姉御ナンテ云つて呉れマスナ、エー、辛気臭か、唄ひマッセ、ドウ云うもんぢやろカイ、酒飲んでも浮かれぬ豪傑は屁の河童タイ、サア皆んな飲みマッセ、山田サマ奥サマ酒持て来マッセ」と気焔萬丈当る可からずである。満座の豪傑も皆呆然として唯だ苦笑するのみ。是れなん豪傑婆を以て南清一帯に有名なる、酔月楼の女将お安婆である。此の女将の元気に圧せられて、感慨深き一夕の小宴は興味を以て終りを告ぐる頃と成つた。
 黄一欧は山田氏の宅を出ると、軍事上の打ち合せありと云つて別れたが、翌日一日帰つて来ない、其の翌日の昼頃になつても帰らない、滔天始め一同が心配して、どうした事だろらう直ぐ鎮江に往つたのぢやあるまいか、などゝ噂さをして居ると、三時頃になつて悠揚たる態度でノソリゝと帰へつて来た。例の長靴を脱ぎ捨てて「オヽ寒いゝ」と火鉢の傍に胡坐をかく「何を愚図ゝして居るか、先鋒隊の癖に」と一本喰はすと、「何!昨日から蘇州に往つて、チヤンと準備をして来たんだ」と答へる、滔天も「蘇州もよいが、先鋒隊が往かなければ南京は敗けて了ふぞ」と揶揄する、坊は、「大丈夫、もう砲台二つ取れた、もう直ぐだ、烏龍山と幕府山の砲台を取つたから、明日か明後日には南京が取れるよと悠然たるものである。〔以下略〕


「革命戦争絵はかき」 トンボヤ (1912)

2013年03月31日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 革命戦争絵はかき

         横浜市伊勢佐木町二丁目 トンボヤ発行

    

 なお、この絵葉書については、斎藤昌三編の『現代筆禍文献大年表』に次の記述がある。

 大正元年 (雑)

 三月 革命戦争絵はがき 四枚一組 (同〔風〕)

       横浜市 トンボヤ

 

 清国革命戦争

    

 ・革命軍総指揮官 黎元洪
 ・革命軍ノ中心地武昌城ヲ揚子江ヨリ望ム
 ・革命軍ノ占領セシ大別山砲台
 ・官軍陸海軍総指揮官 袁世凱

 この絵葉書おそらく四枚一組は、発行所不明である。


『グラヒック 支那革命号』 (1911.12)

2012年12月09日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

『グラヒック』 (東京有楽社 毎月二回一日十五日発行。38センチ) 支那革命 関連 写真・記事など (1911-12)

 
 ○第三巻 第二十三号 (明治四十四年 〔一九一一年〕 十一月一日発行)
  
    ・表紙 「漢口に於ける日独義勇兵」の写真
      
      :説明には「中清の地突如革命の軍起りて砲煙弾雨の巷となる遠く異郷の空に在りて此の変乱に遭際せる外国居留民の安否如何、彼等は図に見るが如き義勇兵に依りて保護せられつつとある也。」とある。
  
    ・第4頁(時局之人:清国革命戦日清の活動人物)
       
      :掲載写真は、「革命軍総指揮官黎元洪、米国に在りて軍資を募集し忽然何処へか向ひたる孫逸仙、裏面に在りて大活動をなせる黄興、川島少将、薩〔鎮冰〕提督、陸軍大臣廕昌、袁世凱、瑞徴、張彪、岑春煊」など。
  
    ・第9頁 「革命軍首領自ら砲兵を指揮す」・「大別山より漢口を望む」の写真
  
    ・「漢口市ト各国租界略図」

 ○第三巻 第二十五号 (明治四十四年十一月十五日発行)

       

    ・第8ー9頁(支那革命戦争:清国革命騒乱)である。

      :第8頁の掲載写真は、「漢口江岸停車場附近革命軍の陣地」「漢口大智門停車場の焼跡」「革命新募兵の進軍」「漢口第二回戦争後革命軍官軍戦死者の死骸を鉄道線路上に抛出す」
       第9頁の掲載写真は、「漢口市街兵火に罹る」〔上左の写真〕「兵焚後の漢口市街」「官軍の砲火」〔上右の写真〕     

 ○第三巻 第二十六号  (明治四十四年十二月一日発行)

       

      ・表紙の写真 漢口日本租界に於ける日本陸戦隊

             :武漢の天地硝煙弾雨の となりしより漢口の市街は一炬烏有に帰し日本の租界も亦しばしば危険の襲ふ所となれり。是に於いて乎我が忠勇なる陸戦隊は武装して上陸し、今や斯くの如くにして租界守備の任務に当りつつある也。

      ・「漢口に於ける官革両軍の惨劇」 The rebel army firing at Kiangan Station, Hankow, from the neighbourhood of the concession.          
             :写真2枚〔革命軍の砲兵陣地〔上左の写真〕、累々たる官軍の死屍〕

      ・「殺気に満てる武漢の天地」 Scenes from Hankow and Wu chang.
             :写真3枚、記事「武漢の近況」

      ・「江南機器局の占領」(上海に勃興したる革命軍の活動) Kiangnan Arsenal, Shanghai, Captured by the Revolution sts on Nov.3.
             :記事、写真2枚
        〔上右の写真は、そのうちの一枚で、「占領後の江南機器局内(革命軍は今や倉庫内より銃器弾薬を出して志願兵に授與しつゝあるの光景)」〕

          
      ・「清国留学生と日本赤十字」 Departure of Japan Red Cross and Chinese Students
             :記事「清国留学生支那公使館に迫る」写真2枚〔(1)清国学生団公使館に押しかけたる肯綮の光景。(2)清国留学生公使館に公使学生監督の帰還を待ちつつある光景〕、
              記事「日本赤十字社救護団の出発」写真1枚〔(4)横浜 於ける日本赤十字救護隊(前方に立てるは周布知事にして今一場の訓示を為さんとするなり〕、
              記事「清国紅十字隊の出発」写真1枚〔(3)紅十字隊新橋出発の光景〕

 ○第三巻 第二十七号 支那革命号 (明治四十四年十二月十五日発行) 

      :本号は、支那革命(辛亥革命)の特集号である〔28頁:表紙と裏表紙も含む〕。貴重な写真が、120枚以上掲載されている。

  表紙:支那革命大勢一覧図

 宣統三年の秋九月、紫電一たび中原に閃いてより僅に六旬、禹域其去来するや日に険悪、武昌の城頭赤旗動けば、四方の州県皆応じて覚羅氏已に蹙まらむとす、勢の転ずる所早しとも亦早し。見よ!


 一、革命動乱一覧地図 写真

    写真
 
 一、満人の北京と漢人の南京
   北京宮城の全景、宮城乾清宮、万寿山離宮、北京前門大街、南京明の故宮、総督衙門、北極閣 
 一、革命軍の中枢人物
   孫逸仙、黄興、黎元洪、伍廷芳、程徳全、張謇、藍天蔚、王得勝、劉永福、薩鎮冰 
 一、清国の皇室と北京政府の人物
   故西太后、故光緒帝、現皇帝、前摂政王載洵貝勒、載濤貝勒、慶親王、粛親王、朗貝勒、溥倫貝子、載振貝子、袁世凱、世続、徐世昌、那桐、鉄良、錫良、梁敦彦、唐紹怡、沈家本、岑春煊、達壽、宣世懐、廕昌、胡惟徳、陳夔龍、趙爾巽、良弼、哈漢章、周樹謨、陳昭常、張人駿、瑞澂、張彪 
 一、革命と外交関係
   内田外務大臣、伊集院清国駐在公使、川島司令官、汪日本駐在公使、北京の日本公使館、東京の清国公使館、第三艦隊旗艦最上、新造河用砲艦鳥羽、北京に在る列国の陸軍兵 
 一、武漢及び上海方面の戦況
   革命軍総督衙門を砲撃す、保定の停車場、官軍砲兵隊、満人を斬る、武昌城壁の梟首、官軍歩兵の休養、革命軍の歩兵陣地、江岸停車場の占領、革命軍の露営、革命軍の追撃隊上陸す、清国艦隊の砲撃、漢口の焼払ひ、停車場の砲撃、江岸の兵火、我が書記生の交渉、武昌赤十字病院、旧式清国砲船、革命軍の進撃、官軍の兵器輸送(其一、其二)、革命軍の退却、官兵密集、官軍の砲兵、競馬場の官軍陣地、官軍の焼討、大智門の官軍、火災の遠望、漢口市街の焼跡、日本陸戦隊、仏国陸戦隊、独逸陸戦隊、日本義勇兵の天長節奉祝、官軍騎兵の整列、官軍の師団長馬龍標将軍、官軍中の独逸将校、革命軍の歩兵士官、官軍騎兵の武装 
 一、革命動乱写真日誌
   武昌黄鶴楼、漢陽大別山、漢水、漢口、長沙、宜昌、九江、広東、灤州、梧州、南昌、上海、杭州、蘇州、済南、天津、福州、安慶、厦門、営口、芝罘 
 一、革命散録
   支那新聞に現はれたる諷刺画(三個)、革命党の暗殺三人男(徐錫麟、呉樾、史堅如)
    読物 
 一、支那革命の根本的解説 

 ○第四巻 第二号  (明治四十五年 〔一九一二年〕 一月十五日発行)
 
    ・5頁 「清国革命雑感 Scenes from the Chinese Revolution」 写真3枚 〔下は、その説明〕
        
        ・The Revolutionaristsk`drastic punishment of the loters, exihibit d with theirstolen good at Hankow.
           掠奪者の梟首其一 (過乱に乗じて掠奪を為したるクーリーは革軍に依て斬罪に処せられ掠奪品と共に斯の如く梟首せられたり
           掠奪者の梟首其二 (図は前と同一なる罪人の梟首の光景にして漢口支那人街上の電信柱なり)
        ・Chinese viceroys arriving at Shanghai under military escort to seek safety  
           避難官民の上海到着(中清、事起るや官民我先にと難を避けて上海に落ち来る、図は上海停車場雑沓の光景を撮影したるもの、事旧聞に属すれども当時の状況を推想するものあるを以て茲に掲ぐ)

 

 表紙には、「第二集 大革命写真画 War Scenes of the Chinese Revolution Volume Two Commercial Press, Limited Shanghai 上海商務印書館出版 翻印必究」とある。奥付には、「辛亥年十一月  〔一九一一年:明治四十四年〕 初版 編輯者 商務印書館編訳所 発行者 商務印書館」などとある。横23・縦15センチ、目次2頁、40頁。

 大革命写真画第二集目次

   

  ・中華民国未来之大統領孫文
  ・湖南都督譚延闓
  ・福建都督孫道仁
  ・清国退位之摂政王
  ・清国革命辞職之内閣
    総理大臣奕劻 協理大臣那桐 徐世昌
  ・清国因革命辞職之親貴
    海軍大臣載洵 軍諮大臣載濤 毓朗
    度支大臣載澤 農工商大臣溥倫 理藩大臣善耆
  ・激起革命風潮之清国官吏
    郵傅大臣 盛宣懐 署四川総督趙爾豊
  ・因革命死事之清国官吏
    閩浙総督松壽 署四川総督瑞方
    湖南統領黄忠浩 江西巡撫馮汝騤
  ・被挙先避之都督張鳴岐
  ・就任旋逃之都督朱家寶
  ・武昌民軍起事後巡行街市
  ・武昌民軍起事後運礟至蛇山
  ・武昌民軍用汽車載運応募新軍
  ・武昌民軍教練新軍
  ・其二
  ・漢口民軍教練新軍
  ・漢口民軍屯守江岸車站
  ・漢口民軍屯守大智門車站
  ・漢口民軍向十基羅邁当軍站進行
  ・漢口民軍向十基羅邁当軍站下車 〔上左の写真〕      
  ・漢口美総領事率領教士渡江避兵
  ・漢口英租界之防寨
  ・漢口法租界之阻絶交通
  ・漢口江中之各国兵艦
  ・各国水兵保護漢口租界
  ・徳国水兵設備機関砲保護漢口租界
  ・外国人在日本領事署屋頂観戦 〔上右の写真〕
  ・漢口清軍争估大智門車站
  ・廕昌由漢口回京下車之情景
  ・漢口戦後残破之惨状(山西会館)
  ・其二(街衢之一部)
  ・清国紅十字会会長呂海寰
  ・萬国紅十字会董事部長沈敦和
  ・中国赤十字会会長張竹君女士
  ・萬国紅十字会救護隊與黎元洪
  ・黎都督夫人至紅十字会医院慰問傷兵
  ・漢口紅十字会救護隊
  ・漢口紅十字会看護婦
  ・紅十字会用小輪船装運漢口傷兵
  ・紅十字会在漢口戦場検埋戦死兵士


『武漢戦紀』 (1919)

2012年11月21日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 武漢戦記〔武漢戦紀〕

        己未五月新城王氏刊行 陶盧叢刻之十一 〔線装本、27.3センチ、18枚〕
 
 武漢戦紀   
            野史氏

   
 
 宣統三年夏六月四川以保路案激民変粤東湖北諸省均洶洶起反抗朝議人心僨張時革党張振武孫武楊鴻勝等潜聚湖北乗機煽動陸軍将卒文武学堂諸人士分挙代表謀乗大軍秋操後起事張振武暗運炸弾夾黄絲箱内武昌城守卒堅欲開検張振武度不可免以拳碎鎖血濺衣袖守卒驚愕不復疑放入城八月十八日孫武楊鴻勝試演炸弾於漢租界火暴発俄領事偵知函告両湖総督瑞徴拿獲革党三十三名並捜得軍火印信旗幟及同党名冊楊鴻勝彭楚藩劉堯徴皆伏誅余繋獄孫武時受炸傷匿同仁院秘與張振武等謀日事急矣案名冊索人無倖免免者惟速挙事可以一逞乃定計翌日夜二鼓城内外挙火為号工程隊熊炳坤方維王光国玉麟蔡済民等趨拠楚望台軍装庫礟隊自中和門入混成協輜各営自通湘門入群衆楚望台置礟蛇山以攻督署是夜火発斉奪門入遂踞武昌水師統領陳得龍擁護瑞徴避楚泰兵輸尋遁楊羅陸軍統領張彪亦遁二十日革党入漢陽工厰兵士逐其官吏與革党合〔以下省略〕

 

 上は、瑞徴関連の書物である。表紙には、「武漢禍種 瑞澂 四馬路中市新漢学社印行」とある。また、表紙の次には、「満奴醜史 湖広総督瑞澂」とその図がある。奥付には、「民国元年 正月出版 発行所 新漢学社」などとある。18センチ。叙、14頁〔含奥付頁〕。

 第一章 帯罪図功

  瑞澂電奏十八夜革匪創乱拿獲各匪正在提訊核辦革匪余党勾結工程営輜重営突於十九夜八鐘饗応工程営則猛撲楚望台軍機局輜重営則就営縦火斬関而入瑞澂督同張彪鉄忠王履康分派軍警随時布置並親率警察隊抵禦無如匪分数路来攻其党極衆其勢極猛瑞澂退登楚豫兵輪移往漢口〔以下省略〕

 第二章 始末情形
 第三章 瑞澂岑争権閙意見
 第四章 武漢之帰客談

  昨有友人乗隆和船到滬略述所聞如下有人至武昌城内者見諮議局門首植立大紅旗幟上標黒字丈為(中華民国軍政府大統領黎)十一文字諮議局門首血跡甚多聞係斬殺匪徒皆在其地〔以下省略〕

 第五章 瑞澂第一次電奏
 第六章 瑞澂第二次電奏
 第七章 割鬚而逃
 第八章 瑞澂逃来海上記
 第九章 瑞澂不得安居
 第十章 瑞澂之囈

 

 上の絵葉書には、「No.36 General Chang Piao 1911.」とあり、張彪と思われる。13.4センチ。
 『国士』第十四号 福島安正君 講話「セルビヤとブルガリヤとの戦いに就いて」:明治三十二年十一月 に、次の文がある。

 昨年 〔明治三十一年:一八九八年〕 でありましたか、湖広総督の張之洞からして日本の軍制その他の制度観察をするために、三四名の人〔黎元洪も含む〕が来ました。其中の張彪とて、日本で言へば聯隊長と同じ職務に当る人がありました。此人は能く日本軍隊の要点を見て、武昌に帰った後に、其事に着手をして、漸く其結果が見えやうと云ふ場合に達して居ります。


『中国革命記』 16・21・23・26 時事新報館・上海自由社 (1912)

2012年04月09日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

『中国革命記』
       
 ○第十六冊 中華民国元年二月出版 時事新報館

  図画   ・中華民国 臨時大総統 孫文
       ・中華民国 臨時副総統 黎元洪

        

       ・南京大総統府
       ・孫大総統在上海時之寓所
  記事   議和記 (続第十五冊)
  特別記事 中華民国臨時大総統履任
  言論一斑 民国唯一之記念日 漢奸釈義 紳辨
  伝記   張鐘端 附録河南失敗英雄被逮供詞
  法令   ・各部官職令通則草案
       ・法制院官職令草案
  文牘   ・賀孫大総統接任文
       ・中華民国連合会呈請組織参議院文
       ・臨時大総統覆中華民国連合会書
       ・中華民国連合会覆大総統書
       ・臨時大総統再覆中華民国連合会書
  章程   ・中華民国鹽業協会簡章

 ○第念一冊 中華民国元年四月初版 上海自由社

  図画   ・鼓吹中国革命者 章炳麟 〔ブログ最上部の写真〕
       ・女子国民軍 統制 林素皚
       ・南京総統府頭門
       ・南京総統府内秘書処
  記事   議和記 (続第二十冊)
  特別記事 鎮南関及河口之革命戦史
  言論一斑 ・論関陝安危為民国存亡之関鍵
       ・社会篇
  伝記   ・孫諫聲
       ・江夾甫 (淮侠)
  文牘   秦晋告急書

      奉天清宮之寶庫

  章程   ・南京衛戌総督府人員職掌
       ・南京衛戌分区司令官條例

 ○第念三冊 中華民国元年三月初版 上海自由社

  図画   ・功成身退之将校 李燮和
       ・福建司法長   鄭烈
       ・趙爾豊之屍 趙爾豊
       ・端方之首級 端方
  特別記事 趙端伏誅記
  言論一斑 ・真共和論
       ・真共和再論
  伝記   ・鄭弼臣
       ・徐錫麟
  文牘   清軍将領要求宣布共和奏摺
  章程   中国同盟会総章草案
  文苑   ・詠女子軍師団四律索同社和 (無病)
       ・女子師団詩同社無和者再賦四章

 ○第念六冊 中華民国元年四月初版 上海自由社

  図画   ・馮自由

        

       ・中華民国湖南省特別議会開幕攝影
       ・南京陸軍部
       ・南京司法部
  記事   議和記 (続第二十五冊)
  言論一斑 葡墨両国革命感言
  文苑   ・雑詩 (穀飛)
       ・其二 (蛟)


『中国革命記』 6・8・11 時事新報館 (1911-12)

2012年04月09日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

中国革命記
       
 ○第六冊 辛亥十月出版 上海望平街時事新報館発行 黄帝紀元四千六百零九年十月出版

    

  図画   ・中華民国通用鈔票之一 湖北軍政府発行者
       ・中華民国通用鈔票之二 江蘇中華銀行発行者
       ・武昌民軍放礟図 〔上左の写真〕
       ・漢口北軍放礟図 〔上右の写真〕
  記事一  大事記 九月二十四日起三十日止 
  記事二  交戦記 九月二十六日起三十日止
  伝記   ・趙聲 伯先小像
       ・林文 南散小像
       ・周華
  文牘   ・江蘇都督程徳全誓師文
       ・馬良致程徳全書
       ・姚生范致張勲書
       ・広東都督胡漢民布告改元剪髪文
       ・湖北都督黎元洪紹会領事文(其一)為請承認臨時政府文
       ・湖北都督黎元洪紹会領事文(其二)為飭兵商各輪行駛時間事
       ・伍廷芳請各友邦承認中華共和国電文
       ・黎元洪催陳其美派代表組織臨時政府電文
  章程   ・浙江各府県暫定編成簡章
       ・江蘇軍政府政事部暫行章程
       ・江蘇程都督新定助餉奨励簡章
       ・蘇州臨時議会暫行章程
  文苑   ・無題 (趙聲)
       ・登越王台 (趙聲)
       ・己酉初度寄友 (趙聲) 
       ・感懐 (林文)
       ・有贈 (林文)
       ・無題 (林文)
       ・胡無人行 (半醒)
  附録   中華民国新都督一覧表 (八月十九日起九月三十日迄)

 ○第八冊 黄帝紀元四千六百零九年十一月初版 時事新報館

  

  図画   ・中華民国軍政府之印
       ・中華民国軍政府戦時総司令官之印
       ・清軍総統 馮国璋 以奪回漢陽故賞二等男爵 〔上の写真〕
       ・民軍占領武昌後之漢陽門図
       ・漢口赤十字会員連屍図
  記事一  大事記 十月初六日起初十日止
  記事二  交戦記 十月初六日起初十日止
  伝記   ・張沛如 (錫寶)
       ・周實丹 (棄疾)
       ・張鶴年
  文牘   ・雲南軍政府討満州檄文
       ・伍廷芳致清慶邸奕劻書

   白旗紹展 還我河山 不図今日 復見大漢衣冠

  章程   ・中華民国江蘇約法
       ・中華民国江蘇各官職令 
         各司官職令通則 参事会官職令 参謀府官職令 軍政分府
  雑談   ・美利堅民主国独立文

 ○第十一冊 中華民国元年正月出版 時事新報館

  

  図画   ・中華民国 広東省大都督 胡漢民 〔上の写真〕
       ・中華民国 安徽省大都督 孫毓筠字少侯壽州人、中華民国 安徽大通統領 黎宗嶽字堃甫安徽人
       ・広東黄花岡七十二烈士之墓 辛亥九月広東光復後全体人民公祭時攝影之一
       ・広東黄花岡七十二烈士之墓 辛亥九月広東光復後全体人民公祭時攝影之二
  記事一  大事記 十月十六日起二十日止、特別要聞補誌
  記事二  交戦記 十月十六日起二十日止
  特別記事 辛亥以前之革命史 (日本古研氏原著巽吾譯述) 〔平山周の『支那革命党及び秘密結社』の中国語部分訳〕

       

 吾国秘密会為数極多然皆強梁不逞之徒一時嘯聚其抱近世之政治思想以崛起者蓋以興中会為嚆矢興中会之起在光緒十八年唱首者係孫逸仙陸皓東楊飛鴻等数人而世人於興中会則但知孫逸仙一若興中会独始於孫逸仙者故欲鈘興中会之歴史不可不先言孫逸仙。
 孫逸仙名文世独盛称其号広東香山人十七歳在香港入博済医院従英人硜徳立習医学業成設医院於澳門専注意療治貧民土人益信任之葡萄牙医士嫉之其因慫恿澳門市政庁出禁令凡医士無欧洲修業證書者不得行医孫氏素懐憂世志於是陰糾合同志鼓吹革命主義卒棄医業返広東與陸皓東楊飛鴻等創立興中会其会章如以下。 
 〔以下省略〕

    附図 庚子漢口革命人物之一 唐才常 
       庚子漢口革命人物之一 傅良弼
       庚子漢口革命人物之一 黎科 
       惠州實行革命者    史堅如
       暗殺五大臣者     呉樾
       槍殺安徽巡撫者    徐錫麟
       秋瑾 
       熊承基 
       温世才 
  言論一斑 ・用告主張君主立憲者 (志毅)
       ・欧美各報対於袁世凱之輿論 (遼東通信社稿)
  文苑   輓聯彙録共十二則
       ・追輓唐烈士才常 (蛟川方善源)
       ・追輓徐烈士錫麟 (江学)
       ・追輓鄒烈士容 (蔡冶民)
       ・追輓鄭烈士弼臣 (馮緒承)
       ・追輓秋瑾女侠 (呉芝瑛)
       ・追輓黄花岡諸烈士 (商務印書館)
       ・ 輓董開基 (孔小山)       
       革命軍歌

       

 C調 革命軍 ニ拍子 ※注
 (一) 
   吾等都是好百姓請願去当兵 因為腐敗清政府眞正気不平 
   収吾租税作威福牛馬待人民 吾等倘使再退縮不能活性命
 (ニ) 
   可恨官軍無道理同種也相欺 幫了満賊出気力殺我好兄弟 
   火燒漢口七晝夜一片焦地皮 恨也恨也恨官軍宮軍眞奴隷
 (三) 
   看我民軍品行好到処弗吵鬧 洋人教士也保護何况吾同胞 
   惟有土匪與盗賊大不可饒 再有奸細與奸商請他吃洋炮
 (四) 
   吾等理直気自壮踴躍上戦場 人皆有死不要怕戦死最榮光 
   但願最後得勝利替我鑄銅像 中華民国萬萬歳軍人名誉香

   辛亥十月沈心工作

 ※注

 この「革命軍」は、のちに『支那政党結社史』〔参考文献に、この『中国革命記』がある〕に、「沈心の作にして第一革命当時革命軍に歌はれたるもの也」として、歌詞のみ掲載された。
 なお、この革命歌は、日本の軍歌「勇敢なる水兵」(奥好義作曲)のメロディーに、沈心工が上の歌詞をつけたものであるという『中国近現代音楽史(近代部分)』汪毓和編著 高等教育出版社 2005)。


『中国革命記』 2-4 時事新報館 (1911)

2012年04月07日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 『中国革命記
       
 ○第二冊 〔表紙及び裏表紙欠〕

          

  図画   ・中華民国 武昌軍之健将 李克果、中華民国 武昌民軍協統 何錫蕃
       ・中華民国鄂軍都督之示 〔上左〕
       ・武昌民軍出戦図
       ・武昌民軍渡江至漢口図
  記事一  大事記 九月一日起十日止 
  記事二  交戦記 九月一日起十日止
  言論一斑 論近日臣民之心理
  伝記   ・黄興 子一欧
       ・湯化龍
  文牘   ・中華民国南軍都督檄告漢人之為満清将士文
       ・中華民国湖南軍政府討満檄文
  章程   湖北軍政府内部組織之條例
  文苑   ・慶祝民国 (選録)
       ・贈黎都督元洪 (詩仙)
       ・従軍行 (白公)

 ○第三冊 辛亥十月出版 時事新報館

  図画   ・中華民国 江蘇省大都督 程徳全 (字雪樓四川人)
       ・中華民国 浙江省大都督 湯壽潜 (字蟄先陰人) 〔上右〕
       ・官軍火燒漢口華界画街市之図 九月初七日起歴六昼夜而始息
       ・漢口日本租界遥観華界火燒之図
  記事一  大事記 九月十一日起十五日止 、特別要聞補誌
  記事二  交戦記 九月十一日起十五日止
  伝記   ・黎元洪
       ・孫君武
       ・胡侠魂
  文牘   ・孫逸仙佈告同胞書
       ・鄂軍都督黎致満政府書
       ・湖北軍政府通告各省文
  章程   ・湖北軍政府暫定餉章
       ・湖北軍政府収集軍械軍需章程
       ・湖北軍政府募集軍需公債章程
  雑談   ・民軍之精神
       ・民軍之人物
       ・武漢人民之帰心革命
       ・鳳凰山等処之礟
       ・北軍之野蛮
       ・袁世凱之出山
       ・張鳴岐之食言
       ・程徳全之識時
       ・誤国者多属張氏

 ○第四冊 〔裏表紙欠〕

  図画   ・中華民国 湖北軍政府参謀員 宋教仁
       ・中華民国 湖南省大都督 譚延闓
       ・南京雨花台 九月十八日中華民国軍総司令徐紹與清統領張勲各率部兵交戦於此民軍未得利
       ・張人駿 清両江総督 不允士紳独立之請致江生霊塗炭者、鐵良 清江将軍 満大員之號称知兵者
       ・南京北極閣 九月十八日南京民軍起事後清総督張人駿清将軍鐵良意欲出走為清巡防営統領張勲拘留於此
  記事一  大事記 九月十六日起二十日止、特別要聞補誌
  記事二  交戦記 九月十六日起二十日止
  特別誌聞 傷心惨目之漢口火燒記
  言論一斑 ・敬告地方新政府與国民
       ・欧洲対於中国革命之輿論
       ・日本対於中国革命之輿論
  伝記   ・何錫蕃
       ・李燮和
       ・劉復基
       ・易堂齢
  文牘   ・伍廷芳等請摂政王遜位電文
       ・張謇致鐵良書
       ・張謇致張人駿書
  章程   ・中華民国江蘇軍政府暫行官制総綱
       ・中華民国江蘇都督府司法部暫行章程
       ・江蘇都督府民政司辦事細則
       ・江蘇暫行地方官制
  雑録   ・黄帝即位以来大事表 (天任)
       ・武漢戦争形勢考 (少蝉)
       ・金石語 (血兒)


『革命文牘』 尚古山房 (1911?)

2012年03月31日 | 辛亥革命 2 武昌蜂起、第二、第三革命

 表紙には、「革命文牘 初集 尚古山房発行 毎冊価洋両角」とある。初集・二集・三集の合冊である。20.2センチ。

・初集 30頁

  ・革命軍政府黎都督祭告地文
  ・革命軍政府祭告黄帝文
  ・黎都督誓師詞
  ・黎都督布告多士文
  ・革命軍政府布告全国文
  ・黎元洪布告海内人士文
  ・革命軍政府檄各督撫文
  ・黎都督照会各直省高級軍官文
  ・革命軍照会各国領事文
  ・附漢口領事団照会革命軍文 厳守中立
  ・軍政府鄂軍都督黎元洪檄各府州県文
  ・湖北革命軍政府内部組織之條例
  ・軍政府緊要諭令 一
  ・軍政府緊要諭令 二
  ・黎元洪致薩鎮冰書
  ・黎元洪致楚同楚有楚泰建威建安江利各船主函
  ・革命軍未起事前密函
  ・革命軍政府照会上海錢業董事文
  ・中華民国軍政府示為
  ・計開
  ・黎都督慰労漢口商会紳民及各同胞文

    

  ・中華国民軍鄂軍都督示
  ・軍政府鄂軍都督黎示
  ・軍政府停止招募示
  ・黎都督禁止国民軍入租界示
  ・黎都督佈告文 一
  ・黎都督佈告文 二
  ・軍政府示諭税厘照常捐輸文
  ・張協統佈告文 一
  ・張協統佈告文 二
  ・巡警総理佈告
  ・漢口軍政分府照会英国領事文
  ・漢口軍政分府照商局文
  ・軍政府執法司湖北漢陽府知府李曉諭軍民示 一
  ・軍政府執法司湖北漢陽府知府李曉諭軍民示 二
  ・軍政府執法司湖北漢陽府知府李曉諭軍民示 三
  ・中華民国軍政府執法司湖北漢陽府知府李示 四
  ・駐漢分府示
  ・漢陽軍政分府告示 一
  ・漢陽軍政分府告示 二
  ・駐漢軍政府支部示
  ・中華民国軍政府第一鎮分部統領宋示
  ・中華民国臨時警務籌辦処佈告
  ・中華民国武昌漢口電報処監督佈告
  ・銅幣局開工佈告
  ・陸軍馬隊第一標統帯王示
  ・武昌府示
  ・集賢館緊要佈告
  ・革命軍志願書式〔下の文〕

 革命軍志願書式

 中華民国湖北省□□府□□県□□□令蒙□□□□介紹得悉軍政府以駆逐(□□)恢復漢族建立民国平均人権為目的願入鄂部総会効力聴従派遣所有一切規則永遠遵守不敢違背倘有違犯聴公罰辦謹祈本会参謀長宋教仁保送本会総理長劉公承認
  本部特別員譚人鳳申報
  軍政府大総統孫中山註冊
    介紹人□□□
    入会人□□□
    通信処由□□転
 黄帝紀元四千六百零九年 〔一九一一年〕 月 日具

・二集 35頁

   ・中国革命宣言書
   ・鄂軍都督致満政府書
   ・軍政府佈告漢族同胞之為満州将士文
   ・民国軍政府檄山東文
   ・民国軍政府檄安徽文
   ・民国軍政府檄雲南文
   ・鼓励前敵文
   ・湖北軍政府暫定餉章
   ・湖北募集軍事公債簡章
   ・湖北臨時警察籌辦処擬行章程
   ・軍政府佈告豁免捐税丁漕文
   ・軍政府通告城鎮郷自治職員文
   ・軍政府通告各省城鎮郷地方巡警文
   ・中華民国軍政府佈告同胞文
   ・軍政府照会上海各領事文
   ・軍政府照会上海商務総会文
   ・湖北黎都督致張彪書
   ・鄂人致袁世凱書
   ・黎都督照会政事部籌辦進行
   ・黎都督佈告文 (一)
   ・黎都督佈告文 (二)
   ・鄂軍都督札各屬文 (一)
   ・鄂軍都督札各屬文 (二)
   ・鄂軍都督黎命令 (一)
   ・鄂軍都督黎命令 (二)
   ・黎都督諭湖北各庁州府県政務及自治公所文
   ・黎都督諭各標営文
   ・武昌収集軍械軍需規則
   ・黎都督諭
   ・黎都督示
   ・黎都督傳知給発餉糧文
   ・歩隊第四協八標三営管帯周示
   ・中華民国輜重第二営管帯官胡示
   ・武昌保安総社特別之佈告
   ・湘鄂両軍政府之通電
   ・湖南軍政府示 〔三種〕
   ・武昌集賢館佈告 (六則)
   ・投遞文件諸同胞注意
   ・本館遵奉
   ・湖南軍政府諭 (一)
   ・湖南軍政府諭 (二)
   ・湖南軍政府諭 (三)
   ・湖南軍政府総務科示諭 (三則)
   ・湖南参謀部示諭 (一)
   ・湖南参謀部示諭 (二)

・三集 35頁

   ・中華民国軍政府大総統孫佈告大漢同胞文
   ・中華民国軍政府討満州檄
   ・為鉄路風潮檄満州政府文
   ・上海軍政分府宣言書
   ・上海軍政分府檄南京文
   ・江蘇軍政府暫行官制総綱
   ・江蘇程都督第一号告示
   ・大英国駐箚上海総領事佛示
   ・滬鉄路総管簽字合同
   ・江蘇臨時会議章程
   ・江蘇暫行地方官制
   ・上海中華銀行簡章
   ・中華民国軍政府湖南参議院規則
   ・黎元洪覆薩鎮冰書
   ・袁世凱嘱劉承恩致黎元洪議和書
   ・蘇軍統領致江北軍官書
   ・姚生范致張勲書
   ・浙江都督湯致福建清総督松壽清将軍樸壽書
   ・江蘇都督召集臨時議会通告文
   ・蘇浙都督致上海軍政分府電 (商談臨時会議機関)
   ・江蘇都督募殺張贁諭
   ・浙江都督致嘉湖甬紹金台衢温等処各属文
   ・浙軍都督示 (一)
   ・浙軍都督示 (二)
   ・黄興登壇拝将之古礼
   ・湖北砲隊第三標一営中隊祭陣亡志士余張陳三君文 有序
   ・湖北京山国民軍宣告書
   ・江蘇程都督諭告本府庁司各員文後並勧告蘇属州県各団体
   ・寗波軍政分府宣布成立文
   ・上海軍政府告海軍同胞文