大正二年五月狂言
第一 時代劇 二月堂 三幕
太郎冠者新作
第二 臺灣土産 喜劇 生蕃襲來 二幕
第三 浄瑠璃 六歌仙 一幕
序幕
臺灣蕃界カウイラン
其一 隘勇監督所の場
其二 大嵙嵌附近土人立場
茶屋の場
一警部渡邊熊夫 菊四郎
一同夫人 政子 房子
浪子
一巡査山下剛 哥川
一同 竹田五郎 其答
一紳士增尾長淸 松助
一三ツ木殖林部員 國之助
谷沢勇吉
一同 和田榮吉 小治郎
一同 田中幾太郎 柏藏
一同部長押野正年 梅幸
一紳士櫻木新四郎 長十郎
一紳士窪野謹二 幸四郎
一同阿久津升太郎 宗之助
一同 永村大三郎 幸藏
一同 井上熊次郎 梅昇
一信濃丸事務長 小文字改メ
今村銀之助 新之助
一土人の旅人獅仔 サイマー 紀升
一同 女房琴仔 キンマー 嘉久子
一甘蔗賣金妹 キンモイ 勝代
一召使おかま はま子
一增尾夫人君子 宗十郎
一夫人の友人
花井靜江 徳子
一隘勇 ✕美平
一同 石井
一同 服部
一同 不二
一巡査補 釻次郎
一同 錦車
一生蕃 國十郎
一同 澤右衞門
一同 錦吾
一同 横藏
一同 梅十郎
一同 梅之助
一同 鐘二郎
一同 鐘三
一同 錦彌
一同 しやこ六
一同 重三
一同 羽多藏
一同 松藏
一同 にしき
一同 扇吉
一同 昇次郎
一同 澤治
一同 幸雄
一同 宗三郎
一同 壽鶴
一同 眼助
一苦力甲 米助
一同 乙 麗重
一同 丙 宗右衞門
一同 丁 宗次
一同 戊 錦五郎
一同 己 錦吾
一茶店の亭主立仔 扇糸
一天ぷら賣 三幸
一土人の子供 銀杏
一同 梅次
一三ツ木組部員 柏木
一同 松山
一同 小島
一同 菅
一增尾家の書生 鶴丸
一轎夫 澤右衞門
一同 橋藏
一同 重三
一同 羽多藏
太郎冠者新作
第二 臺灣土産 喜劇 生蕃襲來 二幕
『序幕、其一、臺灣蕃界カウイラン隘勇 あいゆう 監督所の場』舞臺は凡て臺灣蕃界に於ける隘勇監督所の裝置物凄き月夜の光景にて幕開く、隘勇線警戒の爲め屋外に立ちたる隘勇陳銃を持ち立ちたる儘、小屋に寄掛り居眠るを、渡邊警部制服の儘出來 いできた り、陳を搖り起し、其警備を戒 いまし む、夫人政子に續いて巡査山下、武田の兩名出來り、月明を賞し、政子が健氣 けなげ なる態度に感奮し、年若き夫人と新婚旅行を兼て渡臺し、此監督所に滯在せる、老紳士增尾長淸を呼出し、愛國婦人會寄增の日本酒を出し、少宴を開き氣候と戰ひ不自由と戰ふ、生蕃 せいばん 討伐の苦艱を語れば、增尾は一々感服し乍らも根が臆病なれば、話の中 うち にも怯氣 おぢけ を生じ狼狽する可笑味 をかしみ あり、皆々眠 ねむり に就かんとする時、何處 いづこ よりか生蕃の一隊押寄せ來り、一同の戰鬪準備に掛る間も無く、鯨波 ときのこゑ を揚げて監督所に亂入し、激烈なる戰鬪となり、長淸は彼方此方 かなたこなた と逃惑ふ内、見るも恐ろしき生蕃に組敷かれ、將に蕃刀の露と消えなんとする時ダーク、チエーンヂにて
『同、其二大嵙崁 タイコカン 附近土人立場茶屋の場』となり、渡臺團一行を出迎の三ッ木組殖林部係員三人、歡迎の準備宜しく待つ處へ、前幕の增尾長淸、三ッ木組殖林部長押野正年同行の紳士阿久津升太郎、窪野謹二、櫻井新四郎、永村大三郎、井上熊次郎、郵船會社信濃丸事務長今村銀之助、苦力 クリー の押すトロに乘りて出來り、中にも增尾は前幕の夢より覺めて茫然たる事數分新婚の妻を氣遣ひ、同行の惡太郎阿久津に盛 さかん に冷笑 ひやか さる、苦力の一人增尾に近づき、酒錢 さかて を要求すれど、語通ぜず押野代辯して之を去らしむ、土人夫婦獅仔 サイアー 、琴仔 キンマー 出來り、荷物の事より夫婦喧嘩を始め、反 かへ つて苦力に揶揄 からか はる、增尾夫人君子、令孃花井靜江後れて到着し、盛 さかん に新しき婦人の氣焔を吐き、增尾櫻井、今村等 ら に附添 つきそ はれて上手に入る、跡に阿久津は靜江孃にふられ通しの窪野を嗾 そヽの かし、色男の櫻井と、『家内々々』で一行を艱 なや ましたる增尾老人とに復讐せんと、井上、永井を語らひ、猶強迫的に今村と押野をも引入れんと相談したる處へ、增尾老人歸り來れば、窪野は折好 をりよ しと、櫻井の色魔なるを告げて、その妬心を起さしむ、此内水牛一匹何時 いつ の間にやら增尾に近づきて赤い襟飾 ネクタイ を見るや、忽ち角を振立てゝ老人に向へば、增尾は吃驚 びっくり 、一行始め苦力一同慌てふためき大騒動の模樣にて幕
二幕目
三ツ木組殖林部事務所の場
一櫻木新四郎 長十郎
一阿久津升太郎 宗之助
一窪野謹二 幸四郎
一花井靜江 徳子
一增尾夫人君子 宗十郎
一增尾長淸 松助
一三ツ木組殖林部長 梅幸
押野正年
一永村大三郎 幸藏
一蕃務警部 吉川勇治 宗五郎
一生蕃頭目 アテヤイ 國十郎
一井上熊次郎 梅昇
一生蕃 ユーカン 梅十郎
一蕃婦 ヤーワイ 日出子
一信濃丸事務長 小文次改メ
今村銀之助 新之助
一蕃婦 かね子
一同 冨美子
一同 重子
一同 愛子
一三ツ木組殖林部係員 國之助
谷澤勇吉
一同 田中幾太郎 柏藏
一增尾家書生 松本力藏 鶴丸
一同召使 おかま はま子
一三ツ木組殖林部係員 柏木
一同 松山
一同 小島
一同 菅
一巡査補タオガン しやこ六
一ボーイ 錦車
一同 昇次郎
一生蕃 澤右衞門
一同 横藏
一同 梅之助
一同 三幸
一同 鐘二郎
一同 鐘三
一同 錦彌
一同 重三
一同 羽多藏
一同 松藏
一同 にしき
一同 扇吉
一同 澤次
一同 幸雄
一同 宗三郎
一同 眼助
一同 壽鶴
『二幕目、其一臺灣蕃界内角板山三ツ組殖林部事務所の場』
幕開くと前幕の觀光團を歡迎する心にて、事務所を以て、食堂に充て、食卓の中央に蕃務警部吉川勇治、左右に觀光讚團及主人役の押野等居並び、酒宴も終に近づきし有樣、食卓の前へ生蕃大勢手を組合せ蕃歌を歌ひ、一同拍手喝采する事宜しく、其間增尾は時々妙な質問をなし、混ぜ返へされる可笑味あり、吉川警部立て、生蕃の狀態、理蕃の艱苦を演説し、增尾は一行を代表し挨拶せざる可 べ からざる破目となり、已む無く立上らしむ、モゴ〲して、只笑 ただわらひ を買ふのみなれば、君子夫人もどかしがりて、立上り代つて滔々と辯じ終る、吉川警部は殖林部係員に送られて退場し、阿久津一人姿を隱す、婦人兩名に續いて、增尾老人嫌がる櫻井を拉 らつ して寢室に退けば、窪野、永村、井上互に顔を見合せて、謀 はかりごと の巧 うま く行きしを喜ぶ、阿久津何時の間にか、生蕃の一人と衣服を換へ後 うしろ よりソット近附き、押野と今村の首筋を摑めば、兩人眞實 まこと の生蕃と思ひ、吃驚敗亡する可笑味あり、トヾ阿久津等は押野今村を納得せしめて、蕃服を着せしむる事宜しく萬事の手筈を定め、阿久津を始め急製の蕃連正面より出掛れば、本物の生蕃は是 これ を見て打笑ふ模樣にて道具廻る
『同、其二、同寢室外の場』道具留 とま ると茲は事務所より廊下傳 づた ひの寢室を外より見たる光景、增尾、殖林部員の案内にて寢室に入りたれど、生蕃の恐さと、櫻井に對する監視を忽 ゆるかせ にす可からざるとにて、内憂外患交々 こも〲 來りたる有樣にて漸 やうや く床に就く、此時僞 にせ 生蕃六人暗 やみ に紛れて、𢖫び足に出來 いできた り攻撃の用意する内、急 せき 込みて尻尾を出さんとする事數次 しばゞ ,遂に爆竹一發轟然 ごうぜん たる響 ひ〲き と共に、室内に侵入すれば、增尾櫻井は思はず腰を抜かす、洋服の生蕃連駆來 かけきた り之を見手を叩き乍ら笑ひ興ず、事務員等は何事ならんと集り來り此體 このてい を見て、僞物とは心付 こヽろづ かず、押野、永村、今村、井上抔 など を撲 なぐ り附ける一方別室内にありて、柔道の心得ある君子、靜枝の兩人は此騒ぎに、飛 とん で出て、君子は窪野を捩 ねぢ 伏せ、靜枝は阿久津の首を締めたるも、よく其顔を見て、生蕃ならぬを知り一同之はと驚く此 この 模樣宜しく幕
『生蕃襲來』中に現はるゝ重なる特別語、蕃語、及土人語の説明
蕃界 蕃界とは生蕃と普通人民との境界線にて許可なくては出入を許されざる處なり。
隘勇 隘勇とは本島人(支那人)にして年齢十七歳以上四十五歳以下の志願者中より採用する雇員にて七圓より十五圓以下の月俸を受け(食料は自辨)蕃務警官の命令に依り兵卒として進攻防戰の事に從ふ。
隘勇線 隘勇線は蕃界適宜の山嶺を開き道路(隘路)を設け兇蕃棲息の方面數十間以内の草木を刈り蕃人襲來を監視する線なり。
隘藔 隘藔とは隘勇の屯所にして隘勇線三四丁毎に設けらる、隘藔四五ケ所の一ケ所を監督分遣所とし巡査又は巡査補を配置し四五ケ所の分遣所毎に監督所を置き警部又は警部補駐屯す。
頭目 臺灣の生蕃人は九種族に分 わか たれ、其種族は各數十の蕃社(村落)より成る、而して各蕃社は一名の頭目を戴く、乃ち頭目とは所謂村長又は舊名主の如き村の司 つかさ にして、多くは家柄に依って代々其任に當るが爲め或る場合には婦人の頭目を見る事あり、其他は名望あるものヽ推されて此職に就くを以て習 ならひ となす。
〔以下省略:上の写真参照〕
新竹州要覽
〇概説
一 地勢、面積、人口
地勢 新竹州ハ本島北部ニ位シ東ハ群峯巒岳重疊セル一帶ノ蕃地ニシテ西ハ澎湃紺碧ヲ疊ム臺灣海峡ニ面ス北ハ臺北州ニ連リ南ハ大安溪ノ溪流ヲ區劃トシテ臺中州ニ境ス地勢自ラ東方ヨリ漸次西方ニ斜傾シテ西端ノ海洋ニ臨ミ南北ニ展開スル長方形ヲナシ山岳連リ大嵙崁溪、鳳山溪、頭前溪、後龍溪ノ河川貫流ス
面積人口 一般行政地域ハ其ノ面積百七十一方里五五人口五五萬八千七百五十四人ニシテ之ヲ内地各府縣ニ比スルニ面積ニ於テハ佐賀縣ノ百五十八方里二九人口ハ奈良縣ノ五十九萬四千四百八十二人ト稍匹敵ス區域ヲ八郡四街三十九庄ニ區劃シ其ノ外蕃地百二十九方里ヲ包容ス
街庄別面積人口戸數〔上の写真参照〕
蕃人戸口 〔上の写真参照〕
二 氣候
最近三箇年間ニ於ケル氣候ノ平均温度ハ華氏七十六度強ニシテ盛夏ノ候ト雖モ九十度以上ニ昇ルコト稀ニシテ冬季ハ五十度以下ニ降ル事至テ少シ最高氣温ハ七月下旬ヨリ八月ニ亘リ最低氣温ハ一月下旬ヨリ二月中旬トス毎年十一月ヨリ翌年三月ニ至ル間ハ雨季ニシテ四月ヨリ十月ニ至ル七箇月間ハ時々驟雨アルノ外快晴ノ日多キヲ常トス四時支那大陸ヨリ起リ殺到シ來タル爽颯タル朔風ハ殆ト寧日ナク竹風ヲ以テ有名ナリ
三 衞生
管内ハ由來全島各地ニ比シテ健康地ト稱セラレ傳染病ノ如キ十數年前ヨリ大流行ヲ爲シタルコトナク衞生上ノ施設ト思想ノ啓發トニ因リ益良好ニ向上シツヽアリ然レトモ世運ニ伴ヒ交通ノ發達ハ他地方ノ餘波ヲ受ケ大正八年「痘瘡」ヲ傳ヘ罹病者六十七名ヲ出シタルモ種痘其ノ他ニテ之ヲ制遏シ次テ虎列刺亦浸入シ百七十名ノ患者ヲ出シタルモ豫防注射消毒法等ニヨリ終熄セシムルニ至レリ越ヘテ大正九年ニ於テハ腸窒扶斯二十九名實扶的里亞十三名赤痢四名流行性腦脊髄膜炎四名發生セシモ何レモ散發的狀態ニシテ傳染徑路明確ナラス前年制遏シタル痘瘡ハ九年ニ入リテ再ヒ發生シ罹病者四百四十九名ヲ出シ一時猖獗ヲ極メタルヲ以テ檢疫委員ヲ設ケ專心豫防制遏ニ努メタル結果之レ亦撲滅セシムルヲ得タリ
地方病ノ主ナルモノハ「麻刺利亞」「肺ヂストマ」ナリ麻刺利亞ハ比較的濃厚ナリト認メラルヽ地ニ防遏法ヲ施行シ來リ好成績ヲ擧ケ終ニ元桃園廳下ニ於テハ施行ノ要ナキニ至リタルカ現在ニ於テハ苗栗郡三叉庄大湖郡大湖庄竹南郡南庄ニ施行シ各地漸次成績ヲ擧ケツヽアリ大正九年末調原蟲保有者ハ檢血人員百ニ對シ一人三一乃至三人八七ニ當ル「肺ヂストマ」ハ濃厚ニシテ最モ多キハ竹東竹南兩郡ノ河溪沿岸地方ナリ而シテ本病源タル川蟹ニヨル傳染徑路及豫防方法等ニ關シテハ先年中川前新竹醫院長同蟲ノ第二中間宿主ヲ發見セシヨリ斯界ノ士研究ニ從事シ今ヤ疑問ノ大部分ハ闡明セラレタリト雖モ本病ノ根本的治療法ノ未タ發見セラレサルハ遺憾ナリ
四 交通
〇敎育
一 小學校
二 公學校
三 簡易實業學校
四 書房其他
〇産業
一 農産
二 畜産
三 水産
四 林産
五 鑛業
六 商工業及金融
〇蕃地
一 蕃情
總督府理蕃五箇年計畫最終年度タル大正三年ノ討伐ヲ以テ掃蕩ト銃器引揚ヲ結了セシ以來蕃情ハ一般靜穩ニシテ恭順克ク官命ニ復シ生業ニ勵ミ就中行政部落ニ隣接シ居住シアル蕃人ノ如キハ多年普通人民ト接觸セル結果殊ニ生業ニ意ヲ注キ水田ノ開墾或ハ畑地ノ耕作等ニ意ヲ用ヒ專ラ生活ノ安定ヲ需ムルコトニ努力シアル等其ノ進化又著シキモノアリ然トモ線外一部蕃人部落ハ大正八年八月中偶々流行性感冒ニ襲ハレ數名ノ死亡者ヲ出シ爲ニ頑迷ナル彼等ハ遂ニ慣習ニ依ル出草凶行ヲ擅ニシ「シャカロー蕃」又雷同シ行動ヲ共ニスルニ至リタルヲ以テ極力之カ鎭撫懐柔ニ努メ或ハ警察隊ヲシテ討伐セシメ或ハ蕃人隊ヲ組織シテ奇襲セシムル等一方膺懲ヲ行ヒタル結果漸次靜穩ニ復シツヽアリ
二 蕃産物
〇名勝舊蹟
新竹神社 新竹街ノ西方一帶ノ横岡タル牛埔山ニ在リ明治二十八年八月匪賊征討ノタメ近衛師團ノ尖筆山進撃ニ方リ師團長 北白川宮能久親王殿下御露營アラセラレタル迹ニシテ爾來地方人ノ景仰淺カラス大正六年九月管下官民ノ至誠ニヨリ神社造營ノ企圖成リ大正八年四月全ク工ヲ竣ル大溪 蕃地ニ入ル關門ニシテ大嵙崁溪ノ斷崖上ニ在リ附近奇峯起伏連亘シ脚下ノ大溪ト相映シテ風光殊ニ雄大ナリ往昔北路蕃務ヲ處理セシ地ニテ今尚防蕃ノ爲構築シタル古城跡ヲ存シ蕃政史上ノ舊跡トシテ最モ著名ナリ桃園ヨリ行程三里半ニシテ輕鐵ノ布設アリ往路二時間歸路一時間ヲ要ス
角板山 討蕃行動ノ策源地タリシ處ニシテ海抜千九百尺ヲ有シ峻峯圍繞風光雄絕蕃屋附近ニ點在シ蕃産品交易所アリ蕃童敎育所アリ三井合名會社ノ製腦部アリ貴賓館アリ蕃人蕃地ノ狀態ヲ視察スルニハ絕好ノ地タリ大溪ヨリ五里二十四丁輕便鐡道ノ便アリ往路四時間歸路三時間ニシテ足ル
出礦坑 本島著名ノ石油坑ニシテ寶田石油株式會社ノ經營ニ係リ礦山暗火ハ苗栗八景ノ一トシテ賞セラル苗栗街ヲ距ル約三里輕便臺車ノ便アリ
大正十年四月 十八日印刷
大正十年四月二十一日發行
新竹州廳
臺北市艋舺後菜園街一五八
印刷人 小山田繼雄
臺北市西門街四七
印刷所 株式會社 臺灣日日新報社
( 二 )收复赤嵌城
四月初一,郑军乘胜向赤嵌城荷军发起猛烈攻击,荷军企图以炮火阻止郑军前进,但因距离过远,炮弹多落入海中。荷军还曾一度反击,但遭到郑军迎头痛击,死伤大半,残部龟缩城堡中,不敢出战,并急向台湾城告急求援。
四月初三,揆一为挽回败局,组织三路反击。第一路派四艘舰船从大港沿北线尾岛西侧北上,企图攻击郑军后续梯队。郑成功随即调动了六十艘大船从鹿耳门港南下迎击。海战在北线尾岛西海面展开。郑军以六艘大型舰船对荷军主舰 “ 赫克托 ” 号进行猛烈炮战,并以火船近战火攻。 “ 赫克托 ” 号被击中弹药舱,爆炸沉没。 “ 格雷芬兰 ” 号和“ 费英克 ” 号被击伤,与 “ 玛利亚 ” 号一起逃往巴达维亚。第二路由贝德尔( 又名 “ 拔鬼仔 ” )上尉率领二百四十人在北线尾岛南端弃船登陆,企图反击。郑军在北线尾岛有四千人,占领有利地形,以弓箭手为骨干,向荷军发起猛烈攻击。并抽调八百名勇敢士兵抄袭荷军侧后,前后夹击。经一小时激战,全歼该敌。在这次战斗中,荷兰侵略者承认,荷军 “ 许多人甚至还没有向敌人开火便把枪掉了。他们抱头鼠窜,落荒而逃,‥‥‥士兵已经不听命令,他们惊慌恐惧,各自逃命。中国人乘势猛攻,‥‥‥上尉及其部下一百八十人全部战死 ” 。第三路由阿尔多普上尉率二百人从台湾城渡海向赤嵌城增援,遭郑军阻袭,仅登陆六十人,残部退回台湾城。荷军三路援军均遭残败。
荷兰侵略军海陆反击遭到失败后,即企图固守台湾城和赤嵌城两个孤城,这时,郑军完全切断了敌军水陆交通。两万五千多台湾人民也武装起来,帮助郑军打击荷兰侵略军。四月初五,揆一妄图使用兵计,等待援军,派代表向郑成功 “ 乞和 ” : 如果郑成功退兵,除年年照例纳贡外,并愿送劳师银十万两。郑成功严词拒绝,表示荷军不降,将以武力解决。随即指挥军紧紧围困赤嵌城。此时,台湾人民献策: “ 城外高山有水,自上而下,绕于城濠,贯城而过。城中无泉井,所饮惟此水,若塞其源,三日而告困矣。 ” 郑军断绝赤嵌城水源后,加紧围城。荷军孤城无援,四月初六,猫难实叮率部三百余人被迫投降。
( 三 )攻占台湾城
郑军收复赤嵌城当日,分兵进攻台湾城。一部三至四千人西渡台江,初七日晨在台湾城东登陆; 一部六至七千人从七鲲身南端登陆,沿羊厩兵站向北进攻; 另以一部水师在台湾城东下碇。郑军会合于台湾城外围,形成了包围态势。荷军支持不住,放弃街区,企图依托城堡继续顽抗。郑成功进入街区后,下令攻城。因敌炮火猛烈,城墙坚固,郑军露天作战,地形不利,伤亡不少。荷军乘机反击,被郑军马信、刘国轩率领弓箭手打退。在经过几次攻城未克后,参军肖拱辰建议: “ 台湾城孤立无援,不能久守,急于攻打,又未免伤亡过多。不如在各营之间筑起堡垒,加修短墙、沟壕,长期围困。城中粮尽援绝,必然投降。 ” 郑成功即下令构筑堡垒,加修短墙、沟壕,决心长期围困台湾城。
五月初二,郑成功部将黄安、刘俊等率领第二批大军及二十艘舰船,抵达台湾,增加了作战实力。
巴达维亚荷兰侵略军总督,从战败逃回的舰船得知台湾战情危急,于七月初五令司令官卡尤率舰船十艘和双桅货船数艘载七百二十人增援台湾。卡尤舰船八月十二日到达台湾。因当时风大,不宜登陆,便锚泊于台湾城西南海区。郑成功获悉此情,利用大风时机调整部署,增派四十艘舰船隐蔽待机。九月十六日,卡尤舰队于大港向郑军水师发起攻击。郑成功命陈泽、陈继美、罗温章等将领,集中数倍于敌的舰船,占领有利风位与敌激战一小时。先后击沉荷舰二艘,俘获敌舰一艘、小艇三艘,打死荷军一百二十人,俘虏三百六十人。其余荷舰逃往巴达维亚。
永历十五年十二月( 一六六二年一月 ),台湾城之敌已被围困达九月之久。城内缺水、缺粮,守军精疲力竭。 “ 不少士兵患血痢、坏血症、水肿,日有死亡。九个月内饿死 、战死达一千六百多人 ” ,剩兵不满六百,大部已失去战斗力。郑成功认为总攻时机已到,于十二月初重新发起总攻,先攻占了直接掩护台湾城的乌特支勒堡,紧缩了包围圈。揆一见大势已去,终于在永历十五年十二月十三日( 一六六二年二月一日 )被迫签字投降。至此,郑成功完全收复了台湾,结束了荷兰侵略者对台湾三十八年、( 一六二四年至一六六二年 )的殖民统治。
五、有关评述
郑成功收复台湾的战争,是中国人民反对侵略驱逐荷兰侵略者,收复祖国神圣领土台湾的正义战争。它充分显示了中国人民不可辱的民族气节和祖国领土决不允许任人宰割的爱国决心。郑成功之所以能够打败拥有洋枪洋炮,十七世纪号称 “ 海上霸王 ” 的荷兰殖民者,取得收复台湾的伟大胜利,其根本原因在于: 郑成功收复台湾的战争是正义战争。它反映了中国人民的根本利益,因而得到了大陆人民和长期遭受荷兰殖民者奴役下的台湾人民的大力支持。除外,胜利的主要原因还有:
( 一 )战争准备出充分。一六五九年郑成功围攻南京失利后,即开始大力进行收复台湾的战争准备。先后多次召集将领详细研究作战方案,周密审查所获悉的台湾港道情报。针对作战对象,进行战斗队形的改革编组,操练水师,整修舰船,筹备给养。这些战前的准备为取得战争的胜利打下了坚实的基础。
( 二 )外交上积极活动,欺骗麻痹敌人。郑成功以 “ 抗清复眀 ” 为号,隐蔽其 “ 驱逐荷夷,收复台湾 ” 的战略目的。以恢复断绝五年之久的通商关系,表示与荷兰 “ 和睦亲善 ” 。从而使荷兰殖民者信以为真,并将其增援台湾的荷军撤去攻打澳门。及至郑军登陆北线尾岛,夺取鹿耳门港时,揆一才如梦初醒,急 “ 登城观海‥‥‥莫名其妙,此兵实从天降 ” 。
( 三 )战争指导上决心大,行动果断,避实击虚。郑军三月二十七日由澎湖出航遇风,又折回澎湖后,大风连续几天,军中粮食困难。在此前进还是等待的关键时刻,陈广等将领建议: “ 筹足粮食,候风开驾 ” 。郑成功坚决表示: “ 冰坚可渡‥‥‥岂堪坐困断岛 ” ,即于三月三十日晚上传令开船。并首先选择港道狭窄,水浅礁多,荷军防御轻率薄弱的鹿耳门港。出航时机和进攻路线的选择,均达成了战术上的奇袭效果。
( 四 )集中兵力,先打弱敌,分割包围,然后歼灭。郑军首先攻打防御较弱的赤嵌城,分割赤嵌城与台湾的联系。尔后长期围困台湾城。在海战中,郑军以五至六艘大舰船和数艘 “ 火船 ” 对敌主舰 “赫克托号 ” 。以炮战与 “ 火船 ” 近攻的打法,击沉了敌主舰。
( 五 )将士英勇奋战。郑军将士的爱国精神和同敌人血战到底的英雄气概,连荷兰殖民主义者也不得不承认: “ ‥‥‥他们在圆牌后面,俯首折腰,合力向敌人队伍冲来,百折不挠,奋不顾身,似乎他们每一个人都有另外一个准备补充的多余的身体。虽然有许多人受伤倒地,他们仍继续前进,他们绝不踌躇,也甚至绝不四周观望一下,是否有同志跟得上来,只是如狂向前直冲 ” 。
( 此材料系根据中国人民解放军军事科学院《 中国历代战争战例选编 》和有关资料摘抄整理而成 )
附: 郑成功收复台湾的战争
( 一六六一年四月二十一日至一六六二年二月一日 )
明永历十五年三月二十三日( 一六六一年四月二十一日), 民族英雄郑成功率军自金门料罗湾出航,横渡海峡,在大陆人民和台湾人民的支援下,经过英勇奋战,终于迫使侵占台湾的荷兰殖民者于永历十五年十二月十三日( 一六六二年二月一日)宣告投降。把全部荷兰侵略者赶出了祖国领土,收复了祖国的宝岛台湾,在中国人民反侵略斗争史上,写下了光辉的篇章。
一,荷兰殖民者侵占我国领土台湾
明朝末年,政权腐败,军备飞驰,给了外国殖民主义者入侵的机会。十七世纪初叶,资本主义正处于上升时期,新兴的资本主义国家荷兰,为了掠夺资源和殖民地,积极对外扩张。明万历三十二年( 一六〇四年 )七月,荷兰提督韦麻郎曾一度侵入澎湖,后被驱逐。明天启二年( 一六二二年 ),荷兰殖民地巴达维亚( 今印度尼西雅加达 )总督庇得郡以军舰十七艘再度侵占澎湖。第二年七月,明福建总兵俞咨皋率兵二千,以武力迫使荷兰侵略者退出澎湖。天启四年( 一六二四年 )二月,荷兰侵略者又转而侵略台湾,由台南附近的台江登陆,侵占了台南地区,对台湾开始其殖民统治。
荷兰侵略者侵占台湾后,在一鲲身( 是一沙洲,即今安平镇 )修筑城堡,分内外两城,取名 “ 热兰遮城 ” ,台湾人称台湾城。又筑小城于对岸,荷兰人称 “ 普罗文查 ” ,台湾人称赤嵌城。荷兰殖民者以这两座城堡为据点,对台湾人民实行残酷的经济剥削和政治压迫。并以宗教麻醉台湾人民,妄图长期霸占台湾。
台湾人民不畏强暴,多次举行起义。明永历十一年( 一六五七年 )以郭怀一为首的台湾人民反荷武装起义,对荷兰侵略者以沉重地打击。这次起义虽然在荷兰侵略者的血腥屠杀下失败了,但是锻炼了台湾人民,打击了荷兰侵略者为所欲为的侵略气焰。
二、郑成功收复台湾的决策和准备
民族英雄郑成功,生于明天启四年( 一六二四年 ),福建南安县石井人。明隆武二年( 一六四六年 )十一月,请兵南下,攻取浙东,直下仙霞关。明总兵郑芝龙( 郑成功之父 )降清。十二月一日,郑成功自南沃( 今广东南沃岛 )募兵数千人返回烈屿( 小金门 )起兵,自称忠孝伯招讨大将军( 后被南明封为延平王 ),进泊鼓浪屿。举起 “ 抗清复明 ” , “ 收复台湾 ” 的大旗。后建府厦门,改厦门为思明州。明永历十三年( 一六五九年 ),郑成功率军从舟山出发,溯长江而上,围攻南京失利,退兵厦门和金门。郑成功为了坚持长期抗战,决心驱逐荷兰侵略者,收复台湾。作为 “ 进则可战而复中原,退则可守而无内顾之忧 ” 的继续抗清的战略基地。
明永历十四年( 一六六〇年 ),有台湾通事何廷斌从台湾来到厦门求见郑成功。何廷斌是福建南安人,在台湾任荷兰驻台湾总督揆一的翻译和会计。他建议郑成功收复台湾,并献策说: “ 公何以不取台湾 ? 台湾沃野数千里,实王霸之区。若得此地,可以雄其国,使人耕种,可以足其食。且上至鸡笼淡水,硝磺有焉。且横绝大海,肆通外国。置船兴贩,桅舵铜铁,不忧乏用。移诸镇兵士眷口其间,十年生聚,十年教养,而国可富,兵可强。进攻退守,真足与满清抗衡。番受红夷凌辱,每欲反噬久矣。以公威临之,则如使狠逐羊也 ” 。并献所绘之台湾地图及所测量之港路图及荷军防御实虚详细情报,还表示愿引航带路。郑成功采纳了他的建议。在审查了他的地图后,派人到台湾调查,证实何廷斌所献出的港路图是准确的。于是郑成功便确定了首先进抵澎湖,尔后由鹿耳门进港,攻取台湾的作战方案。
郑成功多次召集将领,详细研究收复台湾的问题。以宣毅后镇吴豪为首的一部分将领,竭力反对收复台湾。并以其到过台湾的经历强辩说: “ 台湾实豪屡经之地,岂不知其详 ” , “ ‥‥‥ 奈何红毛炮台利害,水路险恶,戎有奇谋而无所用,虽欲奋勇而不能施,是徒费其力。 “ 以协理戎政杨朝栋为代表的大部分将领积极主张收复台湾,坚决支持郑成功的作战方案。从而郑成功更加坚定了收复台湾的决心。
郑成功在进行收复台湾的准备过程中,为隐蔽企图,欺骗敌人,曾写信给揆一,解说其重整军备是为了北伐抗清,无意征伐台湾。同时派商船到台湾与荷兰人恢复贸易( 郑成功为了打击荷兰侵略者,曾禁绝与荷兰人通商 ),以麻痹敌人和侦察敌情。荷兰殖民者信以为真,故将增加援台湾的荷军撤去攻打澳门,减少了台湾的防御力量。
明永历十五年( 一六六一年 )二月,郑成功把行辕移到金门,操练水师、筹聚给养、修造舰船、铸造兵器。针对作战对象,把军队按大刀队、弓箭队、盾牌队、铳炮队进行编组,提高作战能力。并命首批出征舰队集结于料罗湾,待命出航。
郑成功最后确定: 从鹿耳门进港后,首先封锁港口,切断荷军台湾城与赤嵌城的联系,然后各个攻取。为了巩固后方,令其子郑经防守厦门和金门,防御清军南下。将进攻台湾的舰队分为两个梯队,郑成功亲率第一梯队先期出航,共有舰船一百二十艘,二万五千人( 一说舰船三百五十艘,四万人 ): 第二梯队由黄安、刘俊等率领,共有舰船二十余艘,六千人。
三,荷兰侵略军在台湾的设防
荷兰侵略军总兵力约两千人,主要盘踞在台湾城和它对岸的赤嵌城。台湾城东部及赤嵌城北部是较繁华的街区。两城之间是台江海湾。在北线尾岛与加老湾之间是鹿耳门港,荷军曾在此建热堡炮台,控制鹿耳门港。后因台风袭击,炮台倒塌,被海水淹没。荷军又用坏甲板船沉塞,加之长期淤塞,港道狭窄弯曲,水浅礁多,船只不易进港。一鲲身与北线尾岛之间是大港,港道条件良好,大小船只出入方便。台湾城 “ 其方二百七十六丈有六尺,高三丈有奇,为两层 ” ,置重炮三十余门。揆一亲率一千一百人扼守此城。赤嵌城 “ 堡基周长四十五丈,高三丈有余 ” ,四周设重炮。荷军头目猫难实叮率五百人防守。淡水、鸡笼等其它占领区约两百人防守。另有舰船四艘及小帆船数艘防守大港。
揆一认为,鹿耳门港淤塞,不便航行,无须重兵把守( 北线尾岛只有七名士兵防守 )。只要以重炮控制大港,即可守住两座城堡。
四、郑成功收复台湾的作战经过
( 一 )禾寮港登陆
明永历十五年三月初十( 一六六一年四月八日 ),郑成功在金门举行誓师式( “ 祭江 ” )。三月二十三日午刻( 阳历四月二十一日 ),他率军自料罗湾出航,由澎湖游击洪喧引导, “ 二十四日未刻大小舰船陆续齐入妈公港 ( 马公港 ) ” , “ 分各屿驻扎,藩驾驻峙内屿 ( 今澎湖岛 ),候风开驾 ” 。三月二十七日,从澎湖出航,在到达柑桔屿( 今东,西吉屿 )时,海上刮起暴风,船队折回澎湖。大风连续几天,军中粮食困难。三月三十日,郑成功当机立断,于晚上传令出航,留下陈广、林福等率兵一部驻守澎湖。郑军顶风冒雨横渡海峡。四月初一( 阳历四月二十九日 )拂晓,抵近鹿耳门港。在何廷斌引导下,由提督马信率领舰队为前导,避开荷军防御重点大港,利用涨潮之时,直驶荷军防御轻率薄弱的鹿耳门港。先头水师出敌不意地攻占了北线尾岛,控制了鹿耳门港。保障了主力顺利进入台江海湾,何在禾寮港登陆,从侧后进攻赤嵌城。台湾人民见郑军到达,争先迎接慰问。高山族 ” 南北路土社闻风 ,归附者接踵而至 “ , ” 土民男妇壶浆,迎者塞到 “ 。郑军在台湾人民的大力支援下,不到两小时,就大部进入海湾,并约有两千人登陆完毕。至此,赤嵌城与台湾城之荷军被隔断联系。
明治三十九年十二月二十日發行
諏訪青年會誌 第七十七號
諏訪青年會
雜錄
平壤便り
永田鐵山
雨期とやらむに入りぬる今日此頃降りみ降らずみ糞尿を交へたらん川の巷の流れやうゝの絕えんとする頃は早や暑熱やきつくるが如く倐ちにして糞塵空に吹き煽がれ炎天百三十度の苦熱に劒打揮はんよしもなければ夕照の樺に紅のうするヽ頃ほひ顔さへカーキー色の軍服嚴しきつはものとも打ち伴れて淖々たる大同江畔綠濃き柳の間を縫ひ或は又往にし年の名殘つきせず峯拂ふ風も矢叫びの聲かと思はるヽ牡丹台の峻嶮を攀ち等して練武するほどに涼を逐ふ浴衣姿の輕々しげにそよ吹く風に袂打ち拂はせつヽ二百三卷の美くしき乙女の金茶オリーブ白なんど淸らけきリボン結ひたる或はコスメにかためたるハイカラの涼しげなる色のネクタイあらばに何とは知らず淸き香さへするも夏ばかりは憎らしからぬを擦れ違ひさま鼻柱もゆがまんばかりの韮の息吹きつヽ垢じみたる白金巾の衣纏ひたる朝鮮人の細き道を我物顔に徨ふ見ては演武之力もなへはてヽ之も同し韓人家屋の假の寓に立歸れば又も黑雲かきみだれて早や廣からぬ庭は一面の湖つれゝのまにもに劒執る身には疝氣筋の筆先走らぬ乍ちも禿筆に鞭ち人の笑神の罸も何かはと渡韓以來目に睹耳に聽きたる事ども摘み書きしてまだ此地を踏まぬ人々の爲にものせるは此片々錄順序も系統もなく搗て加へて筆の事實に添はぬは呉ゝも許されん事懇願の至りに候
〇習俗
〇遊惰 に就て一二の例を擧ぐれば彼等は雨具なるものを殆んど有せず只僅に一代一個命より二番目の大切なる冠を濡さぬ爲冠を蓋ふに足る丈の油紙製多角錐形の被覆を有するのみに候こは降雨時殊に七月初旬又は中旬より一ヶ月半に亘るてふ雨期に於て殆んど屋外に行動せざる事の明徴と見るも過にはあらずと信じ申候尤も人間は紙張にあらずと云へば其までに候なれども近時漸く日化し來りて折々は吾邦製の傘を用ひたる何となく嬉しく感ぜられて候尚適確なる例證は當地西南方城外に於ける最も地味の豪腴なる一廣地區は極めて小人數の淸國勞働者の鍬鋤に委して顧みざる事に候此景況より揣擦して十年前淸國人が大國サラミ―と稱して偉大の勢力を有し居りたりし時代には當地附近韓人の耕耘せし地積は殆んど皆無なりし事を推するは強ち誤謬にもあらじと存じ候此外彼等の一擧一動遊惰の範圍外に逸するものは寥々晨星も啻ならず候更に彼等の
〇貯蓄心
〇進取の氣運 に至ては近頃稍々其緒を開き候やに見受け候然し乍ら保守主義事大主義の尚彼等の頭惱を支配し居り殊に迷信の深き爲め諸方面に着々發展するは到底今日望むべからず候舊來の寺子屋式矮黌舎の外に耶蘇敎中小學校昌東學校(一進會の創立)公立日語學校近々開設され逐次校舎を増築又は新築し殊に隆々朝日の如く向上せる吾邦の文明を汲まんとするや耶蘇敎學校を除く外皆日語を敎授せるが如きは以て機運の一端を想見するを得べしと存じ候然し乍ら殖産興業の方面に向ては未だ殆んど何等の連連をも見る事能はざるは遺憾千萬に候前述の
〇迷信 に就ては其例枚擧に遑あらず候當地は東南の二面大同江に圍繞せられ西は普通江北は牡丹臺乙密臺の嶮に由て境せられ南北に長く東西に短く恰も一個の舟の如き形狀をなし乙密臺の凸角は其艪とも申すべく候かるが故に土民は古來平壤を以て舟なりと傳稱し城外程遠からぬ所にある巨石に由て繁留せらるヽものと迷信せる結果は井戸の穿鑿を以て船底を穿つものとなし溺沒を恐れて古來決して城内に井を穿つもの無之今も尚邦人宮川氏が醬油釀造用として一井を穿ちたる外水の供給は總て大同江と普通江とに仰ぎ居候何と噴飯の至りには候はずや又甞て小生が郊外を巡廻せし際城西の丘腹なる松樹に大なる一個の蓆包の吊しあるを發見致し何ならんと近寄り見れば何ぞ圖らん二本は大に二本は小なる正しき人間の足の蓆外に出あるを認めたれば倉惶附近の民家に就て尋問したるに問はれたる彼は平然としてあれは痘瘡患者の屍體にて痘瘡神の荒れ玉はぬ樣献納したるなりと無雜作に答ひたるには小生も暫くは開いた口を閉づる勇氣も失せ申候迷信に就ては却々面白き事も多々有之候へ共他日筆を改めて更に申上ぐべく候以上申述たるあらゆる惡習の外に彼等は尚
〇公共の美徳
〇ビショースハリスの議論
〇地方政治の紊亂腐敗
〇順序を沒却したる沙汰には候へ共此に一寸當地の情勢を申述べく候歷史に明き諸彦の事なれは御承知の事とは存じ候へ共第一に當地の沿革を申述べんに當地に初めて都を建てられたるは殷紂の血族箕子の周の武王の爲に朝鮮に封ぜられたる時と存じ候尤も之れ以前に仙人王儉なるものありし由傳説致し候へ共判明致さず候其後衛氏起て箕子の末裔を滅し候も幾もなくして衛氏は漢の封域に入りしも漢に亞で魏の興るや北境に高匂麗勃起して屡々魏を破り遂に鴨綠江上流の山間より平壤に奠都し再び都城と相成候後唐の高宗の世高匂麗は百濟と共に唐の將李勣の爲に滅され平壤の王都は茲に潰滅致し候其後新羅の朝鮮一統は靺鞨の渤海王國建設王氏の新羅討滅後高麗(首都開城)興起と世は樣々に變遷致し遂には現皇の祖李氏の王氏を滅して京城に都するまで別に平壤に關しては記すべき事も無之候降て吾文錄元年豐太閤の征韓の擧あるや茲に又平壤の名は世に新にせられ候即ち征韓第一軍の將小西行長は壬辰の六月七日大同江に迫り東大院に本營を置き宗杉浦有馬大島五島の五將及兵卒一萬八千七百を以て羊角島(目下鐵橋の架しある所)方面より平壤を攻撃し陽退逆撃王城灘の曳瀨を渡りて牡丹臺下に肉迫し遂に之を占領致し候後明將李如松廿萬の大兵を以て來り圍むに遭ひ各分屯隊の連繋不充分なりし結果一度我手に収めたる平壤も又々如松のために回収致され候ひしは今も尚恨事として更に見る人の痛嘆措かざる所に御座候後杳として消息を絕ちたる平壤は再び日淸の役に至りて世上に其名を知らるヽに至り三才の兒童も尚且玄武門船橋里牡丹臺等の地名を知了する樣相成候更に十年を經たる日露の役には彼等の先頭當地七星門に於て初めて相見へたるにより更に一新史蹟を加へたる次第に有之候
(以下次號)
〔蔵書目録注〕
なお、同号の 會員名簿 明治卅九年十二月 の ◎賛助員 ◉地方散在ノ部 には、次の記述がある。
韓國平壤歩兵第五十八聯隊第十二中隊
(年一圓) 永田鐵山
葛赤峯著
朝鮮革命紀
商務印書館印行
自序 一九四四年十月二十八日 葛赤峯
目次
一 革命運動的回顧(上)
朝鮮的革命運動,據現任韓國臨時政府外務部長趙素昴談,約可分爲四個時期:第一是啓蒙運動時期,第二是美國式的民權運動時期,第三是抗日獨立運動時期,第四是抗日民主運動時期。
二 革命運動的囘顧(下)
三 最早的流亡政府
四 臨時政府的承認問題
五 建國綱領和三均主義
六 臨時議政院
七 臨時憲章
八 韓國獨立黨
九 朝鮮民族革命黨
十 朝鮮義勇隊
十一 革命武力的建立
十二 日本的作戰與朝鮮
附録
一 朝鮮槪況
二 中亞細亞的韓僑
三 李奉昌與尹奉吉
四 訪問集體來歸的韓國士兵
五 朝鮮的地下運動
六 美國韓僑的革命運動
中華民國三十四年五月初版
著作者 葛赤峯
發行所 商務印書館
越南志士 獄中記 越南 潘是漢 〔ファン・ボイ・チャウ〕 記 日本 南十字星訳
・東遊当時の会主彊柢侯
・執筆当時の会主彊柢侯
・支那杭州に於ける彊柢公(右より三人目)と著者(二人目)
・現在の会主彊柢侯
・入獄前の著者巣南子
目次
○越南国光復会々主クォンデ皇親殿下 照像
一.初めて日本東京渡来当時撮影(越南朝服)(明治三十九年)
二.獄中書出版当時撮影(大正三年)
三.最近の撮影(昭和三年)
○獄中書著者越南国光復会総理 潘是漢君照像(大正二年)
○序 日本南溟生
南溟生に国あり越南と云ふ、有史以来四千年、前二千年は世々多く支那に属す。唐代(西暦六七九)安南都護府を置き安南の名此に始り、其名を以て世に知らる。
第十世紀の中葉以来丁黎季陳黎の五姓交々王朝を建て時に貢を支那に納れて藩属の名あるも実は国人自ら治む。黎氏衰へて後阮氏独盛であったが、後新旧阮の争あり現阮帝朝中興の祖嘉隆 ギヤロン 帝新阮を滅して国内を統一し更に高棉 カオマン、哀牢 アイヨオ (柬蒲塞、老檛 ラオス)の地を併せ帝業を創めて国号を越南(Viet-Nam)と呼んだ。其範図古今の渉って最も広い(十八世紀末)而かも憐むべし恰かも地は西力東漸の衝に当り、時は白人東侵の勢最盛の際、フランスの魔手此に伸びて、連年地を割き勢蹙まり、諒山 ランソン 役の一敗に清国亦宗主権を捨て、国遂に亡びて今や山河独存す。
〔中略〕
此序文の筆者は曩に越南国々民党領袖潘君巣南著「天乎帝乎」を訳出上梓して、南溟叢書第一編として江湖に頒つたが、頃者盟友南十字君同じく巣南子著「獄中書」の訳稿を了へて予に示さる。本篇は今日に於ける越南独立運動初期の経緯を語るものとして、頗る有益なるが故に、予の前訳と併せて越南事情報告の一端たるべきを想ひ、乃ち此一文を掲げて其序とす。
昭和四年三月(越南保大四年)
滬上の客南溟生
○例言
一、原著は漢文、越南国(仏領印度支那)国民党の長老巣南子潘是漢君の著、越南国維新甲寅年七月(大正三、西、一九一四)上海にて印刷発行の小冊子。
二、本書は著者が西暦一九一四年一月(大正三)支那広東省広州府に在った時、仏領印度支那総督の要求に依って、時の広東督軍龍済光の為めに捕へられて広州の獄に投ぜられ、軈 やが てフランス官憲に引き渡さるべしと聞き、運命遂に窮り、刑死の期既に旦夕に迫ったと知って、乃ち獄中孤燈の下に筆を執って、過去四十有七年、故国の独立運動渦中に於ける自己の経歴を叙し、其経過を明にして己が赤心を披歴し、以て後進に後の戒めと為さんとしたのを、同志潘伯玉胡馨山の両氏が其依託を受けて、上海にて印行したるものである。原著巻頭潘胡両氏の序文は今之を省く。
三、此次巣南子は将に死期に臨んだのであったが、龍督軍が仏人との交渉容易に整はずして、君の引渡を遷延しつゝある間に、偶々兵を率ゐて海南島に赴くことあり、又君を軍中に伴ひ、彼地に在っては大に自由を與へた。君乃ち機を得て密に危地を脱して、浙江に遁れ、纔 わずか にフランス人の手中に陥るを免れ得たのであった。併しながら後十年、即ち西紀一九二五年遂に上海の禍あり、フランス官憲に捕へられて河内 ハノイ に送られたが、獄中に呻吟すること半歳、保護政府は越南人民各界の強請に因って、遂に同君を釈放するの不得已に至り、今潘氏は順化 フエ 城中に安居して居る。
一 はしがき
鳥の將に死なんとするや其声哀し、人の將死なんとするや其言善しと云ふ詞があります。私の申すことが善いかどうかは兎に角、死に臨んだ人の詞は真実であります。
癸亥の歳(大正二、西紀一九一三)私は支那広東省広州城に居り、其時仏領東京の全権が広東に来て安南革命党首魁引渡を求めました。時の督軍龍済光は其請に応じて大晦日に先だつこと八日、私を逮捕して獄に下し、且つ早晩フランス人に引渡すと告げたのであります。私は最早自分の首の落ちるのも旦夕の間に迫って居ると知って、今は却って大に楽みと致します。
〔以下略〕
二 亡国の渦中に生まる国命回復の志を起す
三 旧党の跡絶えて、新党未だ出でず、自ら任じて光復の計を樹て、同志を集む
四 皇親畿外侯を戴いて会主とす 国内同志の結束を漸く成る
五 日露大戦の報長夜の夢を破る 党を代表して国を脱し日本に使す
六 初めて日本に至り民間志士を相識る 海外の大勢に悟る所あり一度国に帰へる
四月上旬、日本船に乗じて上海を発し、中旬横浜に着いた暫く此に憩ふこと十日余、初めて海外に出て、日本語を語らず、又通訳の人も無い、旅中種々の事柄に就て用があれば、街路に出て剣を帯びて来る者を待って之に計れば、其人は私の為めに文字を書いて世話周旋甚だ親切である。私は此に於いて日本警察行政の誠に善く整へるに敬服した。吾国にてフランス人の用ふる警吏の事を回想すれば、其凶暴にして詐術多きに比べて、実に氷炭相反するではないか、あゝ、征服者が被征服者に対するのは、固定より皆此慣手段を用ふるのであります!
此時支那の文学家梁啓超が横浜で「新民叢報」を主宰して居ましたが、私は梁が日本に居る事久しく、頗る日本の事情に通じて居ると聞いて、先づ梁に会って日本人に紹介を求め様と考へたのですが、私は未だ梁と何の関係も無かったのです。併し思ふに、「彼も新人物である、眼光思想決して俗輩の様ではあるまい」と。そこで自ら手紙を以て会見を申込んだのでありました。其書中には「落地一声哭即己相知、読書十年眼遂成通家、以此為相求之根柢」と云ふ語がありました。梁は私の手紙により私を招いたので行って合ふと、先づ筆談にて来意やら、フランス人の越南に於ける種々の状況を問ひます。併し話が長くて十分意を悉くす事も出来ないので、急にその為に筆を執って「越南亡国史」を述べ、其草稿を梁に渡した所、梁は之を印刷出版しました。即ち是が私の海外に於ける初めての著述であります。
梁は私に會つて後は大に私を重んじて呉れたので、私は自分が日本人に依頼して武器を得たいと云ふ希望を打ち開けた所が、梁の云ふのに、「君等の熱心は自分の力の及ぶ丈之を助け様が、革命党を援けて政府を倒すことは万国政府の為さぬ所である。若し之を為さば則ち両政府は互に宣戦した時にのみ限る。今、日仏両国宣戦の機会も無きに、如何にして其政府が軍器を以て諸君に援助する筈があらう。此点は他の策を考へねばならない。只在野党が陰かに援助することは無いでもあるまい、日本今日の在野党では進歩党最も有力で、〇〇伯△△氏が其党首であるから、お望みならば此二人への会見は私が紹介の労を執らうと。
そこで私は共に東京に至つて△△氏に見え、更に又△△氏と共に〇〇伯に謁したのです。凡そ我が党が此後日本民間党との関係は皆此時に始まつたのであります。
△△氏は私を在野党の重要人物に紹介して呉れました。其時〇〇〇〇が●●●●で、△△△が✕✕✕✕会の幹事であつて、此等の人々が皆私を歓迎して呉れたので、私も亦我党が救援を求むる次第を語つたのでしたが、其人々の云ふのに「凡そ同洲同種の国は皆我日本が之を扶助せんと願ふ所ではあるが、只事、国際に関するからは、政府の黙認が必要である。然るに今、日露戦役漸く了つて我政府は未だ他を顧みるに遑がないから、姑く時機を待たねばならぬ。我等民党が君の為めに尽力しようから、何時か必ず目的を達成する日があらう」と。尚ほ我党の主義が君主に在るや、民主に在るかを問はれたので、私は我党の目的は只フランス人を駆逐するに在り。先づ独立を恢復して後君主か民主かは別の一問題であるが、但し我国古来の歴史と今日の民智よりすれば、君主が宜しきに適ふと思はれる。我党が皇親畿外侯を推戴する所以も、君主に備へるのである」と答へた。日本の国体は最も天皇を尊重するが故に、深く私の詞を是として、且つ私に対して他日貴国の皇親が能く我国に来られるならば、吾等との交情も益々宜しからう、君の意見は如何であらう、との問でありました。私が思ふのに、援助の成否は未だ知り得ないし、私が海外出奔の事も既に洩れたであらうから、万一会主に変事があれば、其党情に影響する所も少くはあるまいと、此に於て会主を扶けて海外に出でしめ様との計を私は決心したのでありました。
〔以下省略〕
七 切に人材培養の急を知る 勧遊学文を草して国に送る
八 再び国に帰りて国内同志と図る 年少志士陸続国を脱して東渡す
九 留日学生の最盛期宛たる仮設公使フランスの魔手伸びて、同志悉 ことごと く日本を逐はる
十 窮余の諸策亦事毎に破る 姑く心身を暹羅の田園に養ふ
十一 広州に越南光復軍の組織を整ふ広東兵変の余波、計策水泡に帰す
十二 龍督軍に捕へられて獄に下る 命は旦夕に在り、 従容閲歴を自叙す
我越南国維新癸丑の年十二月二十五日(大正三年、西暦一九一四年一月)巣南子潘佩珠広東の獄室に手記す。時に入獄後第三日。(昭和四年三月初三 南十字星譯了於上海)
附録
越南国民党沙面炒弾案声明書 西暦一九二四年七月 越南国民党全党員声明 南溟生訳
一九二四年六月十九日(大正十三年)の夜、特派日本使節仏領印度支那総督メルランが其帰任の途、支那広東省広州府沙面英租界のヴィクトリアホテルに於ける、在留仏人の饗宴に列せる時、突如越南国民党に属する青年志士、相謀りて其暗殺を企て、其一人范鴻泰は爆弾を其座中に投じた。同時総督の周囲死傷せる者十人許り、メルランは奇蹟的に微傷を負へるに止まって免れ得た。下手人は警戒の重囲を脱し難くして、遂に海に投じて死し累を同志に及ぼすを免れしめた。其意気の盛なるを窺に知るに足らう。本文は其当時の声明書である。
この『獄中記』は、『ヴェトナム亡国史他』(平凡社:東洋文庫)のものと比べると、犬養毅・大隈・福島安正・根津一・東亜同文会などが伏字となっている。
また、「越南国民党沙面炒弾案声明書」は、省略されている箇所はひとつもなく、伏字は「フランス政府・非人道的」など数カ所のみのようである。
『日本及日本人』臨時増刊 〔昭和四年:一九二九年〕 六月二十日発行 第一七九号の129-155頁には、この『獄中記』が掲載〔「附録 越南国民党沙面炒弾案声明書 南溟生訳」は除く〕されている。
また、クオンデ公について、のち『日本週報』第395号 昭和32年1月25日号に、「悲運の革命家コンデイ侯 田中正明」という一文が、二枚の写真〔「コンデイ侯」「前列左から安藤千枝、壮烈、壮挙の三氏(追悼式において)〕とともに掲載された。
越南亡命客巣南子述 越南亡国史 附越南小史 新民社社員編 通俗時局鑑第三種
広智書局第一次印行本
・通俗時局鑑発印縁起
・通俗時局鑑目録
第一種 中国国債史 飲氷室主人著 定価 貮角
第二種 日俄戦後満州処分案 新民叢報社新民編 定価 三角五分
第三種 越南亡国史 越南亡命客巣南子述 定価 二角半
第四種 中国鉄路史 飲氷室主人著 近刊
第五種 勢力範囲解 披髪生著 近刊
第六種 朝鮮及西藏 飲氷室主人著 近刊
第七種 以下題未定
・序:乙巳九月、飲氷識
・例言
・越南亡国史前録(記越南亡人之言)
通俗時局鑑第三種 越南亡国史 広智編輯部纂、越南亡命客巣南子述
痛莫痛於無国痛莫痛於以無国之人而談国事吾欲草此文吾涙盡血枯幾不能道一字飲氷室主人曰嘻吾與子同病爾且法人在越種種苛状挙世界無知者子為我言之我為子播之或亦可以喚起世界輿論於萬一彼美人放奴之挙著書之力也俄士戦争亦報紙為之推波助瀾也子如無意於越南前途則己苟猶有名意則布之為宜抑吾猶有私請者我国今如抱火厝積薪下而寝其上猶挙国〔以下省略〕
光緒三十一年 〔一九〇五年:明治三十八年〕 九月十五日 発行 定価二角半 編者 新民叢報社社員 総発行所 広智書局
南洋之風雲 東京 博文館
比律賓 マリアノ・ポンセ著 法学博士 宮本平九郎 藤田季荘 共訳
南洋之風雲 比律賓独立問題之真相
東京 博文館発行
明治三十四年 〔一九〇一年〕 二月十三日発行
〔22センチ、序4頁、例言2頁、ドン・マリアノ・ポンセ氏伝5頁、比律賓独立軍軍歌と比律賓独立軍国歌訳4頁、写真31葉、比律賓群島地図1枚、目次2頁、本文136頁・志士列伝61頁〕
写真
・独立宣言式ニ奉祭セル自由神々輿
・比律賓共和国大統領アギナルド将軍 〔上左の写真〕
・リサール氏 ピラール氏 ポンセ氏 〔上右の写真〕
・ホアン、ルーナ氏 アバルカ氏 アゴンシーリオ氏 ヴェルヘル氏
・バルセローナ博士 バーサ氏 リエゴ、デ、ヂオス氏
・サン、ミゲール氏 ガルシア氏
・サンヂーゴ氏 マルセリーノ、サントス氏 デルガード将軍 レイエス氏
・バウア将軍 アントニオ、ルーナ将軍 ピオ、デル、ピラール将軍
・ガルシア将軍 ピラール将軍 トルレス将軍 マスカルド将軍
・マローロス市ニ於ケル比島独立宣言式
・アギナルド将軍パンパンガ州ニ入リ歓迎ヲ受ク
・ピラール将軍ノ軍隊
・バウア将軍ノ軍隊
・アギナルド大統領親兵士官
・ガルシラ将軍ノ軍隊
目次
第一章 緒言
第二章 比律賓独立戦争の起因
第三章 ビアック、ナ、バトー条約
第四章 米西戦争の当初に於ける比米両軍の関係
第五章 ガヴィーテ州に於ける比律賓独立軍の奏功及群島の統一
第六章 米国当局者とアギナルド将軍との秘密会見
第七章 馬尼刺市攻撃前に於ける比国独立軍の状況、比米両国衝突の端緒
第八章 比律賓群島独立の宣言
第九章 馬尼刺市の包囲攻撃
第十章 馬尼刺市占領後に於ける米軍の暴状
第十一章 マローロス市に於ける比律賓共和国議会の開設
第十二章 比律賓共和国憲法の概要
第十三章 比律賓共和国憲法
第十四章 比律賓島領有に関する欧米人の反対意見
附録 志士列伝
・アギナルド将軍伝
・ドン、マルセーロ、イラーリオ、デル、ピラール氏伝
・ドン、ホセ、リサール氏伝
・ガリカーノ、アパシブレ博士伝
・イシドーロ、デ、サントス博士伝
・フェリーペ、ゴンシリヨ氏伝
・マルセリーノ、デ、サントス氏伝
・アントニオ、ルーナ将軍伝
・グレゴーリオ、デル、ピラール将軍伝
・パンタレオン、ガルシーア将軍伝
・トマス、マスカルド将軍伝
・ピオ、デル、ピラール将軍伝
・イシドール、トルレス将軍伝
・ルシアーノ、サン、ミゲール将軍伝
・テオフィーロ、デルガード将軍伝
・ホセ、パウア将軍伝
・サンチアゴ、バルセローナ博士伝
・ラモン、アバルカ氏伝
・アントニーノ、ヴエルヘル博士伝
・ホセー、マリア、バーサ氏伝
・イサベーロ、デ、ロス、レイエス氏伝
・テオドーロ、サンヂーコ氏伝
・エミルァーノ、リエゴ、デ、ヂオス将軍伝
名士追録
152ー164頁の「ドン・ホセ・リサール氏伝」には「我が臨終の感想」(原文および訳文)もある。
なお、本書は、木村毅編の『ホセ・リサールと日本』(1961)では、最注目書と紹介され、表紙の口絵写真も掲載されている。