蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「川上大將の思出と拳匪時代の支那」 井戸川辰三談 (1931.6)

2023年09月03日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 川上大將の思出と拳匪時代の支那
   陸軍中將 井戸川辰三

      一、
 明治廿八年、日淸戰爭が全幅的大勝利を以て結末づけられ、我が國民の總 すべ てが戰勝のうま酒に醉へる折柄、突如として來 きた つた露獨佛の三國干渉は、俄然我が國の東洋の盟主として進出し得 う べき出鼻を挫いた。鐵血によつて購 あがな はれた遼東半島は「東洋の平和に害あり」てふ一片の文書により、支那に還附することを餘儀なくされたのである。この屈辱を蒙つた我國は、今更ら其國力の足らぬことを嘆息するとすると共に、臥薪嘗胆を絕叫し、必然的第二に來るべき對露の一戰に備ふべく、擧國一致して、軍備の充實に努めたのであつた。この三國干渉は支那の主腦者が露獨佛を使嗾 しそう して、我國に加へしめた打撃であつたとは云へ、平常からいがみ合 あひ を續けて居る三國が、協同一致して、この難題を我國に提唱し來たのには素 もと より理由があつたのである。一言にして云へば、支那に恩をうつて、その代償を求め、權益を漁 あさ らうとする野心があつたからである。殊に露西亞は、其傳統的政策である。「東洋に不凍港を得る」と云ふ野心を滿たすべき機會をここにとらへて、獨佛を仲間に引入れ、高飛車式に我國を脅迫したものであつた。されば朞年 きねん ならずして、露はダルニ―を、佛は廣州を、獨は膠州灣を、高壓的態度で占領し、支那政府からその租借權を贏 か ち得たのであつた。三國との均衡上英吉利 いぎりす 政府も、黙視して居れずに、威海衛を租借したのは、當然の措置であつた。
 斯 か く西洋列強の野心が暴露した結果、三國干渉の一擧は啻 た〲 に日本の勢力が極東にのびて行くのを押 をさ へたのみならず、彼等が支那に進出して、其勢力を植ゑつけて行く巧妙なる外交手段に外ならなかつた。即ち一石二鳥を射る謀 はかりごと の成功であつたのである。莫迦 ばか を見たのは日本と支那とであつた譯だ。
 日淸戰爭の餘燼 よじん が漸く収まり、三國の支那に對する野望がとげられた頃になると、心ある支那の識者間には、漸く西洋列強の飽くなき行動を惡 にく むと云ふ傾向が著しく起きて來た。其處へ着眼したのが當時我國の參謀總長であつた川上操六大將であつた。大將は參謀本部の總長室に在 あつ て、徐 おもむ ろにこの大勢を靜觀して居たが、漸く機の熟するを見て取り、
「此際我國の覺悟としては、隱忍して兵備を充實し、何 ど うしても膺露 ようろ の一戰を試みなければならないが、この大業を成就せしむるためには、支那と親善の關係を結び、その兵備を改善して一朝事の起つた場合には、露西亞を牽製 けんせい するだけの自力を養はせて置かなければならない。支那も列強の飽くなき野心を漸く悟 さとつ て來たから、機は熟して居る」
と会心の笑みをもらしながら、夙 つと に陸軍部内の俊才として支那を研究しつゝあつた神尾、宇都宮の兩佐官を招致して、それ〲密命を與へ、支那に出張を命じたのであつた。
 重大な任務を與へられた兩佐官は、日ならずして支那に到着すると、先 まづ 以て當時の兩湖總督張之洞、兩廣總督劉坤一等に見 まみ え、世界の大勢から説き起して、支那の兵備を改善しなければならぬ理由に及んだ、そしてその具體案として武備學堂の改善、日本留學生の派遣等々を、提唱した。張之洞は非常な學者で且 かつ 日本を排斥して居た人であつたが、兩佐官の説くところを容れ、同意を表した。劉坤一は素より西洋列強の野心を看破して居たのであるから、一も二もなく兩佐官の説くところに共鳴したのであつた。恁 こ う大體の膳立が出來ると、兩佐官はその旨を川上總長に復命したので、總長は武備學堂を改善せしむべく、更らに幾人かの將校を渡支せしめその任務を擔當せしむることゝなつた。
 私はその際一大尉に過ぎなかつたが、夙 つと に支那研究に興味を持ち、官話の練習に餘念がなく、機を得たならば支那に入るべく切 しき りに勉強をして居た。すると明治卅年春の一日、參謀本部から招致されたので、出頭して見ると、總長が自身で會はれると云ふことなので、恐る恐る總長室の扉を排して見ると、川上大將は莞爾 につこり として私を迎へ、いとも打解けた態度で、
「井戸川大尉か、まあ其處へ掛けい。固くなつて居ては話が出來んから」
 と、大將の卓を隔てた一脚の椅子を指し示された。私は恐縮して、その椅子に着くと大將はいとも無造作に、命令せられた。
「處 ところ で君に一つ支那へ行つて貰ひたいのぢや、それは旣に向ふに行て居る宇都宮を助け、あちらの總督や巡撫と談合の上、支那の兵備を改善する任務に就いて貰ひたいのぢや行つてくれるかな」
「ハイ、承知致しました。微力ながら閣下の御意圖通り努めます」
 私が固くなつて答へると、大將は、
「何もさう固くならんでもよい。君と懇談するのぢやから」
 と私を慰めながら、卓子 テーブル の上に置かれた煙草 たばこ のセットから一本を抜きとられて、紫煙 しえん を吹き乍ら、
「何 ど うか煙草でも吹 す へ。それから支那は君も承知の通り要路への贈物が肝心ぢやから、俺 わし からよく副官に命じて置いた。君が必要と思ふだけ何程 なにほど でも持て行くがよい。副官と相談してな」
 私は全く大將の温容に打たれた。
「此人の爲ならば命を擲 なげうつ ても何の悔 くい があらう」と深く感銘しながら參謀本部を辭去したのであつた。
 大將の命令は簡單であつたが、その任務は重大であつた。私は命を受けると、直 たゞ ちに行李を整へ、大將の副官と相談して千餘圓の土産物を買ひとゝのへ、十餘日の後便船を得て上海に上陸し、そこで宇都宮少佐と會して談合した結果私は遠く泗川省に入ることゝなつた。
      二、
 當時四川の總督は奎俊と云ふ人で、夙に張之洞、劉坤一と気脈を通じ、中央政府以外に儼然として獨立自彊を恣 ほしいまま にし宛然 えんぜん 副王でもあるかのやうな勢力を張 はつ て居た。併しながら張や劉と同じく忠良なる淸朝の重臣の一人であつたには間違ひなかつた。私は宇都宮少佐に別れて、先 ま づ四川省の船着 ふなつき であるから重慶から、一週日に亘 わた る駕 のりもの の旅をつゞけ、漸くその首都なる成都に入り、總督に見 まみ えることが出來た。そして奎俊總督の命により、重慶なる軍隊の改善、武備學堂の改良を命ぜらるゝことゝなり、再び成都を辭して任地に戻り、鋭意任務に勉勵したのであつた。滯在二ヶ年の間に漸く改善の實が擧 あがつ て、舊式な兵備は頗る文明式軍隊と化したが、その進歩は所謂牛歩遲々 ち〱 たるの感があつた。併し二ヶ年の間にその兵はやゝ實戰に堪へ得ると云ふ自信を得たので、一つこの兵を以て實戰に臨んで見たいと云ふ念が自ら湧くのであつた。 
 恰 あたか もよし、明治三十三年の春頃から、首都北京の方面に拳匪の騒擾 さうじやう が起り、排外の氣運が日に日に熾 さか んになりつゝある報道が、日ならずして四川の奥にも達して來た。そしてその波動の結果重慶に滯留して居た外人と云ふ外人は悉 こと〲 く排斥さるゝの厄 やく に遭 あ ひ、外出すれば必ず愚民どもから礫 つぶて の雨を蒙 かうむ ると云ふ樣に形勢は漸く惡化して來た。重慶に在つた外交團はこの險惡なる情勢に直面して、それ〲本國に引上を電請したが、直ちに「居留民を纏めて引上げよ」との回訓に接し、引上げを決行することゝなつた。日本領事はその引上げに際して、私の身の上を氣遣ひ、再三再四、「一緒に引上げては」と勸告したが、私は參謀次長寺内中將から「引上ぐるも、引上げざるも貴官の思 おもひ のまゝにせよ」との電文を示して、獨り殘留するといふ決心を打明け、領事や居留民に悲壯なる別 わかれ を告げ、胡服辮髪して危險の迫つた重慶に滯留することゝなつた。外交團の悉くが退去した中に、佛國領事だけは、頑として踏止まつて居たが、これは一つには四川省の各地に佛國宣敎師が多く分駐して居たためと、又一つには私の行動を監視牽掣しようと云ふ肚 はら であつたらうと、思はれてならないのである。
 擧匪の亂は、その中に愈々 いよ〱 猖獗 しやうけつ を極め、列國の北京在留民は、各その公使舘區域に籠城するの已むなきに至り、シーモア―提督の指揮する救援軍が撃退されてからは、聯合國は眞面目に救援軍を組織することに決し、我が山口中將の率ゆる第五師團を基幹とし、列國は數萬の大兵を天津北京方面に出動させることゝなり、旗鼓堂々北京を指して進軍を開始したのであつた。
 其報が漸く重慶に傳へらるゝに及び、愚民どもの排外思想はその頂點に達し。頭目が無かつた爲めには組織的の擾亂は起らなかつたが、我々は胡服辮髪してさへ、外出することの危險を感ぜられるに至つた。それは日本人の眼が、支那人のそれと異なつて居るためで、外觀こそ支那人と異ならず、變裝するとしても、彼等に熟視されゝば直ぐにその正體を看破される惧 おそれ があつたからである。
 聯合軍殊に我軍の進出は目醒しく、忽 たちま ちにして天津を平定し、十餘日の後北京の圍みを解き、徹底的に端郡王一派の義和團を撃攘したので、光緒皇帝並びに西太后は、西安を指して蒙塵されることになつた。重慶の佛國領事館の一室に在つた私は、「これは天の與へた一機會である」と考へつゝ、直ちに駕 のりもの を雇ひ、省の首都成都に急行すべく途 みち に上つた。そして一週日の苦しき旅の後、漸く總督衙門に到着し、奎俊に見 まみ えることが出來た。私は奎に對して、
「聯合軍が北京を陥 おとしい れたと云ふ報告が重慶に達しましたので、私は急遽その地を發し、閣下に善後策を進言するために、御目にかゝりに參りました。此度の亂魁は端郡王で、皇帝皇太后は關與して居られないから、聯合軍は皇帝の御一行を追跡するやうなことは、萬々なからうと信じます。故に閣下は、この際手を拱 こまね いて傍觀的態度をとらるゝのはよくないと思はれます。一將に命じ軍を提 ひつさ げて蒙塵の龍駕を迎へるか、然らざれば兵を上海より船にて天津北京に送り聯合軍と共に擧匪の餘黨を鎭壓することが、閣下としてとられるべき良策であらうと思はれます」
 と進言した。奎俊は暫時默して、私の進言に耳を傾けて居たが、漸く決意したと見えて、
「貴下の考 かんがへ は、よく私の心に一致して居る。私は將軍丁鴻臣に命じ一萬五千の兵を率ひしめて、龍駕を迎へしめよう。若し必要とあれば、彼等を天津北京方面に進出させてもよい。貴下は丁を助けて、この大事に參畵して貰ひたい」
 と、直ちに丁鴻臣と云ふ將軍に兵員一萬五千の指揮權を授け、私を參謀として、成都を發し、途に重慶の兵を合せ、民船二百餘艘に分乗せしめて、揚子江を下江することになつた。私は一大尉の身を以て、事實的一萬五千の兵を指揮することが出來たので全く得意の絕頂であつた。河は揚子江、曾て三國の英雄曹孟徳が槊 ほこ を横 よこた へて詩を賦したと云ふ故地である。無量の感慨に打たれ乍ら私は總司令部の舳 とも に立ちつくしたのである。
 下江幾日かの後電報の通じる一都市まで來ると、私は私の獨斷專行に對して事後承諾を求むべく、我が參謀本部に訓令を仰いだ。半日の後訓電は私の手に達した。私は取る手遲しとばかり電文を開いて見ると、參謀次長寺内中將の名で、
「貴官の取れる處置は不同意なり、速 すみやか に歸朝せよ」
 と明らかに認 したゝ めてあつた。私は得意の絕頂から失望の奈落へ陥 おとしいれ られた感がした。一萬五千の兵に將たる面目は茲に失はれて、私の進退は谷 きはま つて仕舞つた。
      三、
 幻滅の悲哀を味はされた私は、今更おめ〱と歸朝するに𢖫びなかつた。乃 そこ で天津に駐屯して居た福島將軍の救濟を仰ぐべく電報を飛 とば した。福島將軍はよく私の心事を知て呉れた居たと見えて、參謀本部と交渉を重ねた結果、私を其直属部下にとられることゝなり、私は直ちに天津行 ゆき を命ぜられたのである。私は丁鴻臣と袂を分つに臨み、
「私は福島將軍の命令により、直 ただち に天津に赴かなければならないが、將軍はこれより上陸して北上すれば、必ず潼關附近で、龍駕を迎へることが出來やう、國の爲に、皇室のために功をお樹てなさい」
 と云つて、便船に搭 たう じたのであつた。
 丁は私に別れてから、軍を勒 ろく して北上の行軍を續けて居たが、豫定の如く潼關附近で龍駕を迎へることが出來た。蒙塵の行幸啓のことであるから、一行は風聲鶴唳にも胸をとゞろかしながら、僅々百餘の護衞と、二三の重臣に護もられながら、悲しき旅行を續けて居たが、潼關の附近まで來ると、急に馬塵が前面に起り一萬五千と云ふ味方の軍勢が、恭 うや〱 しく龍駕を迎へたので蘇生の思 おもひ をなし、軍の指揮官丁鴻臣を親しく御前に招き、有難き御諚 ごじやう を賜はつたさうである。そしてこの有力なる軍隊を護衞に加へた一行は道を急いで西安の行宮に龍體をやすめまゐらすことが出來たのである。
  この一擧は、今から考へれば、頗 すこぶ る無暴極まる所置であるが、僅かに一大尉の身を持ちながら、事實上一萬五千の兵員を指揮し、四川の奥から、堂々と中原に乗出したことは、私が半生の中で最も痛快事であつた。私が當初企てた如く、四川の兵を天津北京あたりまで進出せしめ、山東巡撫袁世凱の兵と協力して、義和團の餘黨殘黨を掃蕩しようといふ企ては、中道に於て挫折したけれども、一方の目的であつた蒙塵の龍駕を迎へることには、成功し、直接その任務を遂行した丁鴻臣は、天晴れの忠臣義士として、好 よ き運命を開拓することが出來たのだ。併し事をこゝに至らしめたのは、全く遠慮ある川上大將の意圖であり、私どもを自由に支那の天地に活躍せしめた結果に外ならないのである。大將が私に渡支の命令を與へられた時の溫容は、三十年後の今日まで、私の目の前に髣髴 はうふつ して深き〱印象を刻みつけて居る。疽 そ を吸つて兵の心を執つた古名將の面影は、慥 たし かに故川上操六大將の行實の中に存して居たと、私は感ぜられてならないのである。     (談)

〔蔵書目録注〕
 
 上の文は、昭和六年七月一日發行の雑誌 『戰友』 七月號 第二百五十三號 に掲載されたものである。
 なお、文中には、下の写真がある。

 

 この寫眞は北淸事變中天津で各國兵がより集つて撮つたものです


「(大原武慶発 小山秋作宛 ?) 書簡」

2021年12月23日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

        

〔蔵書目録注〕

 ・大原生  大原武慶

  この書簡は、清国在勤中の書簡と思われる。  

 なお、『対支回顧録』・『東亜先覚志士記伝』等に、大原武慶の伝がある。
 下の文は、『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列傳 の「大原武慶君 (陸軍歩兵中佐)」の一部である。

  大原武慶君 (陸軍歩兵中佐)

 二十七年、現役に復して、日淸戰役に從軍、第一軍に編入せられ、二十九年二月、大尉に進み、三十一年四月参謀本部出仕に轉じ、同年五月、湖廣總督張之洞の聘に應じて、始めて武漢に入り、幕賓として武備學堂の經營に當り、先任獨逸武官の勢力に拮抗し、畫作萬方、遂に張彪、呉元愷の宿將と提携して、更に武備學堂を擴張し、我が國より平尾工兵大尉、久米徳太郎大尉、神保一等軍醫、譯官木野村政徳、及び下士等を增聘し、長江の要勝に、軍備の一大改良を圖りしは君が材幹の一端を見るに足る。三十五年、鑄方砲兵中佐と交替して歸朝、三十七年六月第一軍司令部附となり、同年、少佐に進み、安東縣及び昌圖等の軍政官に歷任し、
 〔中略〕
翌三十九年、關東總督部附となり四十年豫備役に編入せられ、大正九年退役した。是より先、四十年上海東亞同文書院監督に聘され、尋で同文會本部常任幹事に轉じ、根津幹事長を助けて、會務に鞅掌した。四十四年、黎元洪、武漢に據りて革命の烽火を擧ぐるや、君は變裝して名を武進と稱し、有留重利、原ニ吉、須田博、石田徳太郎等有志を率ゐて之に赴き、革命軍幕僚の人となり、大いに參畫する所あった。晩年志を得ず、昭和八年一月二十四日、終に靑島の寓居に逝く。享年六十八。越えて四月二十八日君が往年開基した安東縣鎭江山臨濟寺に葬る。


「支那劇及び脚本」 辻武雄 (1910.9)

2020年12月24日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

     

 支那劇及び脚本
           辻武雄

 余は、日本劇には、全くの門外漢である。否 いな 其の實は平生から嫌ひと標榜して居る。( 或は喰はず嫌ひかも知らない。)然しながら、演劇が國民の風俗や、思想感情に及ぼす感化の偉大なことだけは、善く知つて居る。
 ところで、余は、明治三十一年の九月、初めて渡淸の折、北京、天津にて、初めて支那劇なるものを見、繼いで上海や蘇州に於いても、五六回これを見た。やがて歸朝し、一時支那劇とは、全く隔絶するに至つたが三十八年の春、再び渡淸してから、今春二月に至るまで、五年間といふものは、上海、蘇州、南京の三地に於いて、斷えずこれを見續け、その度數を云つたら、到底百度詣 まゐり 位ではなかつた。
 而るに余は、不思議にも、初めて支那劇を見た當時から、同劇が大層氣に入り、非常に面白かつた。それは決して其の劇の筋が善く判つたが爲めでなはい、其の言語に通ずるが爲めではない、その脚色が劇として面白かつたが爲めでもない、其の音樂が特に耳新しく聞こえたが爲めでもない、又舞臺や、道具が、我が國の劇のそれ等と大 おほ いに異 ことな り、又衣裳が、金碧燦爛として目を眩するが爲めでもない、又其の劇の特徴たる唱歌の調子が一種の面白味を有して居るが爲めでもない、否正直に白狀すると、余は、元來支那劇にも、日本劇と同じく、全くの門外漢であつた。當時は、劇の筋などと云つたら、少しも判らず、脚本の有無すら知らなかつた、支那語には、少しも通じて居らなかつた、脚色の如何には、少しも頓着しなかつた、音樂は、誠に騒々しく、殆ど耳も聾せんばかりであつた、舞臺や、道具は至つて簡單粗漏なものばかりであつた、衣裳は、唯燦爛花の如く見ゆるに過ぎなかつた。唱歌の調子と云つても、別に是 これ ぞと云ふ程妙味を覺ゆることも出來なかつたのであつた。
 然らば、余は何故に最初から支那劇が非常に氣に入つたかと云ふに、決して各段に定まつた點もなく、又別に深い理由とては、更に無かつた、唯身劇塲に入り、舞臺に對し、俳優の唱歌や、臺詞 せりふ を聽き、其の身振や立廻を觀る中に、自然に何處となく、大層氣に入り、非常に面白い處があるやうに感じただけであつた。
 それから、余は、此の四五年間に、斷えず常に演劇を見、其の歌曲を聽き、其の脚本を讀み、二三の名優や劇場主及び所謂劇通等と相知ることとなり、種々の問題に就いて調査研究した結果、
 (一)支那劇の脚本は、材を二十二史、及び現淸朝に採り、上は列國から、下は現代に及び、正史を敷衍し、或は缼漏を補うて、變化を惹起し、殊に三國志や、水滸傳の事柄を翻案したのが多いので、歷史の半面、社會の内情を知ることが出來、又其の俳優が着くる衣裳や、冠帽は、漢唐時代のに擬したものが多く、又現代の生活を現はしたものも有るので、支那古今の風俗の變遷を見ることが出來ること。
 (ニ)支那劇の脚色には、種々の分子を含有し、忠を盡し勇を鬪はすを以て主と爲して居るのがあり、或は喜樂歡ぶべきを以て主と爲して居るのがあり、或は悲哀嘆ずべきもの、或は教訓人を導くべきもの、或は滑稽笑ふべきもの、或は男女の愛情、或は神仙、怪異を主とするのもあるので、苟 いやしく も支那人の思想感情、即ち國民氣質を窺ふには、缼くべからざること。
 (三)支那劇に用ふる臺詞は、概ね北京語、若 もし くは其の系統に近き湖北語、若くは、山西語であるので、支那語を學習するものが、能く其の臺詞に就いて翫味するときは、非常に語學の補助と爲るべく、殊に其の言語は、口調や言廻に注意してあるので一層其の必要あること。
 (四)支那劇に用ふる舞臺や、道具は、我が國劇塲のそれ等と大いに違ひ、殊に其の各脚色が謠 うた ふところの唱歌は、其の聲音と云ひ、其の腔調と云ひ、確かに一種獨特の妙味を有し、一吟一誦、或は行雲を遏 とど め、或は猛虎を叱 しつ し、或は衣襟を正し、或は人心を動かすの槪があるので、支那劇は、一種の歌舞としても、優に世界の一方に立つことが出來ること。
 (五)支那劇と、我が能樂及び演劇とは、其の結構、隈取、眼遣 めづかひ 、足蹈 あしぶみ 、身振及び拍子等に於いて、餘程類似の處があり、演藝史上、必ず何等かの關係聯絡のあることが明らかなること。
 (六)支那の脚本に用ふる文章は、一體に洒落で風致があり、語は簡にして意は深しとでも云はうか、機微の間、確 たしか に一種の妙味を有して居る、普通の臺詞にても、之を俗人の言葉と比較すると、餘程美的な處がある、殊に唱歌の處に來ると、詩に似て詩でもなく、詞 ことば らしくて詞にもあらず、而かも字句の間、風雅淸麗、琅琅 らうらう 誦 しょう すべきものがあるので該脚本は、大いに文學上の價値があること。
 此等の諸點が、漸次明白となつてから、余が支那劇に對する趣味は、ますゝ深くなり、其の嗜好は、いよいよ甚だしく、一時は、暇さへあれば、炎熱燬 や くが如き暑天でも、朔風骨に透る寒夜でも、厭はず倦まず、劇塲に出入し、遂には、『蘭花記』と云ふ一幕物の脚本までも自ら著はして、之を彼國の劇場に於いて實演せしむることゝなつたので、余は屡々友人等から、一種の狂人、物數奇 ものずき 、さては死馬の骨拾とまで冷評せられ支那人には、戯迷的(芝居狂といふ支那の俗語)と嘲笑せられたこともあつた。
 今支那脚本の文章の一端を示さんが爲め、各種の劇本から、唱歌の箇所數節を左に擧げよう。
  〔以下省略:上の写真参照〕
 此等は、唯其の一例に過ぎないが、若し其の一字一句に就いて、仔細に翫味して見ると、詞華燦然琅琅誦すべきものが有るのを認むるであらう。其の他多數の脚本に就き、一々吟味したる、文學上から觀て、一種の妙味と、相當の價値とあるものが、決して尠くない。然しながら、公平無偏に、支那劇を觀察し、殊に今世の進歩的演劇觀から、之を評騰したらば、今日の支那劇は、まだ粗製品たるを免かれない、其の中幼稚な處がまだ多くある。但し粗製品であるだけに、此の上改良すべく精造すべき餘地が、まだ甚だ多い、幼稚な處があるだけに、今後進歩すべく發達すべき希望が、まだナカゝ有る。其の中、歌曲と衣裳とに就いては、此の上改良すべき餘地や、發達すべき希望は、比較的に少ないだらうけれども、其の脚本や、舞臺や、背景や、大小道具や、音樂や、さては光線、色彩、喚氣等の諸點に於いては、此の上改良せなければならぬ餘地が、まだ餘程澤山にあるだらうと思ふ。それで余は、支那劇の前途に就いては、毫も悲觀しないで、寧ろ頗る多端で、且つ多望であるであらうと信ずる。
 幸に支那にても、此の兩三年來は、演劇改良の聲が、次第に高まつて來て、遂に朝廷に上奏し、總督に建白したものさへあり、一派の文士や、俳優は、材を内外に採つて、各種の脚本を新作し、或は劇塲の建築や設備を、大いに改良し、或は俳優養成の學校を起し、或は上海の名優夏月潤は、昨夏演劇視察の爲めに、我が東京に渡來した。だから支那劇は、今後漸を逐 お うて進歩發達すべく、今から三四十年も經つたら、今日の演劇とは、餘程面目を改め、世界の演劇上に於いて、優に一方に雄視することが出來るだらうと思ふ。
 故に余は、邦人が、支那歷史の半面や、古今風俗の變遷を見或は支那人の思想感情や、即ち國民氣質を知り或は支那語の學習を助け、或は脚本上の文學的趣味を辿る上からして、支那劇及び脚本の研究を邦人に勸奬したいのである。
 又翻 ひるがへ つて一方東亞問題の根本的解決上から言ふても日淸兩國は、種々の點に於いて、連絡結合することが大層必要である。言ふまでもなく、國際と云ふものは獨り政府と政府との交際ばかりではなく、同時に必ず國民と國民との交際を親密にしなければならぬ。而るに今日では、我が國と支那とは、政治上や、軍事上や、教育上や、經濟上や、貿易上に就いては、各種の事情關係から、次第に連絡が出來て來たけれども、獨り國民の娯樂上に關しては、未だ何等の連絡や結合が付いて居ないのは、余が常に大いに遺憾とする所である。而かも、娯樂上の連絡結合は、精神上の融和親睦に、最も有力なるものゝ一であることを一考しなければならぬ。而して演劇は、種々の娯樂の中で、最も普通的で、又精神上に及ぼす感化の最も強いものである。殊に支那人は、世界に於ける非常な好劇家であつて、其の各地の茶館が、常に非常に繁昌するのと好對 かうつい に、南北の都會に於ける各劇塲が、常に大入を占めて居るのを見ると、演劇は、支那人との交際には、確 たしか に一種の有力なる機關である。
 故に余が希望する所は、日淸兩國は、將來東亞の繁盛 はんせい の爲めに、各種の點に於いて、連絡を圖ると同時に、梨園の連絡をも謀 はか り、專門の俳優は、相互 あひたがひ の親睦と共に、各自の演藝上から、互に其の技を競ひ、又長短相補はなければならないし、普通の國民は、娯樂上の關係から、互に融和相樂まなければならぬ。だから余は此の點からしても、支那劇、及び脚本の研究を、邦人に慫慂したいのである。
 右の外各種の脚本につき、能く其の脚色を吟味した上我が國の脚本作家の手に掛けて、之を我が劇に翻案し或は多少其の趣向を變へたならば、一幕物か、或は二三幕物として、一種趣味ある新劇を舞臺に登すことが出來るに違ひない。又若し文學に長ずるものがあつて脚本中の優秀なるものを取り、之を我が美文に譯出したならば、必ずや快誦すべき佳篇が出來て、近時流行の獨流文學に勝ること萬々であらう。
 然るに、今日邦人は、支那の各種事物に就いて、それぞれ、專門的に調査研究する所があり、其の結果、大いに見るべきものあるに拘はらず、獨り此の支那劇と脚本とに就いて研究するものが、まだ極めて寥々たるものは、余が實に慨嘆に勝 た へない所である。

 この文は、明治四十三年九月一日発行の雑誌 『歌舞伎』 第百二十三号 歌舞伎發行所 に掲載されたものである。


「淸國鐡道に就て」 原口要 (1909.7)

2020年10月14日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

淸國鐡道に就いて

     工學博士  原口要

 淸國に於ける鐡道の起源は、殆んと我京濱線と時を同うし、當時上海呉淞間に軌間二呎六吋の鐡道を敷設せしを以て始となす、然れども當時民衆蒙昧、擧つて風水の妖説を唱へ行車に反對せしを以て、落成後間もなく之を撤去し、其材料は閩浙總督の請求に依り之を臺灣に運致せり、然れ共政府は其敷設を許さず、遂に散亂復其迹を留めざるに至れり、其後明治二十年に於て更に雞籠臺北間に軌間三呎六吋の鐡道を敷設することゝなり、同二十四年に於て竣成を告けたり、即ち現在臺灣縱貫鐡道の一部是なり、
  因に云ふ、當時歐米鐡道專門家間、廣軌狹軌の得失に關し諸説紛々、中に一米突前後を以て最も經濟的なりとの説、稍勢を得たる際なりしを以て、日本に於ては三呎六吋淸國に於ては貮呎六吋を採用せしは寧ろ好評を博せしも、其後數年鐡道運輸業の進歩に從ひ世界の議論漸く變し、遂に四呎八吋半を以て最も適當となすに一決し、歐米各國槪ね之を採用するに至れり、我日本に於ては當初狹軌を以て何等の不便を感せず、專ら鐡道の擴張に努めたる結果、明治廿ニ年に於て既に其長壹千餘英里に達せり、當時運輸の業頓に進み始めて廣軌に改むるの得策なるを認るに至りたるを以て、要〔余〕等切に之を唱道せしも、財政状態許さゞるの故を以て、其説行はれざりしは千載の遺憾となす、之に反し淸國は初め同一失計に陥りしも、有力なる風水説の爲斷然之を撤去し、十年後更に北方に於て之を創むるに當りては、普通定規に據るを得しは實に國家の慶たり、風水説亦時に偶然の功を奏することあり、
 又云、淸國鐡道に關し世に發表せらるゝ諸記録は槪して簡單にして細目を示さす、從て資金及營業成績等に關し的確なる數字を知ること甚た難く、其樣式一定ならず其長或は淸里を以て掲るあり英里又は吉魯米突を以て示すあり、其資金額或は磅、法郎等を以て錄するあり両、元を以て算するあり、而も淸里は地方に依り其長を異にし、両元は時に應して價格を同うせず、閲者をして一見彼此相校較、甚大要を知るに苦しましむ、故に要〔余〕は茲に便宜を計り對數を假定し、之に因りて換算し、其長は總て英里、其費額は日本圓を以て、諸君に報道せんとす、即ち左の如し、
 一吉魯米突は日尺三千三百尺、英尺三千二百八十呎に等し、(正確)
 一英里は英五千二百八十呎にして三、二淸里と假定す、(郵傳部報告書に因り算出)
 一磅は十圓とし、一法郎は四十錢とす、
 一兩は一圓四十錢、一元は一圓と假定す
  附言、淸國鐡道資金の大部分は外資に係り、原書に磅、又は法郎を以て掲けあり、自國支出にして兩元を以て算せしものは比較的少額なるを以て、元を圓と同一に算するも大なる差違を生せず、  
  尚ほ淸國に於ては、年報等なく正確なる計數を知るに苦む、本文の數字は諸種の材料を參酌しての結果なれ共、誤謬なきを保せず、讀者の省察を望む所以也、
 淸國鐡道の第二紀元は、明治十四年即ち光緒七年淸國政府聘用英人キンダー氏の熱心なる主唱に基き、唐山煤礦より塘沽を經て天津に至り又北して山海關に達する、定軌鉄道敷設の議を決したるの時に在り、キンダー氏は其以前我京濱鐡道に書記として雇用せられ、明治十年轉して淸國に聘用せられ、唐山煤礦に從事し、初め馬車鐡道を計畫し運煤の用に供せしも、事業の發展するに從ひ運搬力の不足を感し、百方主唱建議の末、遂に汽車鐡道を興すに至れりと聞く、明治廿八年天津より北京に延長し、同三十一年英國より借款を興し、以て山海關より新民屯に至り、又途中溝幇子より分岐して營口に至る線路敷設の計畫を定め、同三十四年通州支路を築設し、同四十年日本より遼河奉天間の線路を買収せり、以上線路を總称して京奉鐵路と云ふ、其長約六百八十英里、資金四千八百六十萬餘圓、毎一英里平均約七萬一千圓にして槪ね其半額は英國借欵に屬す、昨年度營業成績は、一日一英里平均収入約四拾四圓、同支出約拾六圓、純益年額約金四百萬圓にして、其資金全額に對し年八朱強となる、該線路に次で營造せし鐵路を列擧、すれば、左の如し、
一 京漢鐵路 該線は明治二十九年に於て北京より保定に至る間を築設し、同三十一年外國借欵を興し保定漢口間着手、同三十八年全線開通を見るに至れり、其長は七百五拾四英里、資金は七千八百拾五萬餘圓、毎一英里平均約拾萬三千圓、其内七百八十六萬餘圓を除き、餘は現在英佛借欵に屬す、昨年度營業成績は、一日一英里平均収入約三十六圓、支出約拾三圓、純益年額五百七十三萬餘圓にして、其資金金額に對し年七朱三厘強となる、
一 道淸鐵路 該線は京漢線の支路にして、明治三十一年起工、其長は九拾四英里、資金は八百七拾三萬餘圓、毎一英里平均約九萬三千圓、其大部分は英國借欵に屬す、昨年度營業収支の差は僅に八萬餘圓にして、既定借欵利子三拾九萬餘圓を支拂ふには、三拾餘萬圓の不足を生せり、
一 萍昭鐵路 該線は江西省萍郷煤礦より湖南省洙州に至るものにして、明治三十二年起工、其長は六拾四英里、資金は四百拾七萬餘圓にして、毎一英里平均約六萬五千圓となる、昨年度營業純益は拾萬九千餘圓、即ち資本に對し年二朱六厘に當る、該路は專ら運炭を以て其目的となす、將來粤漢線に連絡すべきものなり、
一 汴洛鐵路 該線は黄河の南岸に沿ひ鄭州に於て京漢鐵路に連絡するものなり、明治三十二年起工、本年竣成、其長は一百拾五英里、資金は一千九百四十一萬餘圓、毎一英里平均約拾七萬圓にして、其大部分は比國借欵に屬す、而して現在の情態に於ては營業収支未だ相償ふを得す、其既定借欵利子八拾餘萬圓の餘利を生するに至るの日、尚遼遠なるが如し、
一 正太鐵路 該線は京漢鐵路石家莊より山西省太原府に通する狹軌鐵路にして、明治三十五年起工、同四十年開通、其軌間は三呎三吋、長は一百五十一英里、資金は二千一百九十七萬餘圓、毎一英里平均約拾四萬五千餘圓、其大部分は露淸銀行借欵に屬す、昨年度に於ける營業成績は、一日一英里平均収入約貮拾三圓、同支出約十圓にして、収支の差七十萬餘圓を擧けたるも、之を以て既定借欵利子を支拂はんとすれば六拾萬餘圓の不足を生す、聞が如くんば山西方面より京津地方に出入するの貨物は其量極て多く、驛路は車馬絡繹の景況なるが、是等は鐵路運搬を便とせず依然車馬の力に賴ると、實に怪訝に堪へざるなり、若し營業方法其宜を得ば、収益の增進すべきは言を俟ず、
一 滬寗鐵道 該線は呉淞より上海、蘇州、鎭江を經て南京の江岸に達するものにして、明治三十六年着手、同四十年開通、其長貮百五英里、資金四千三百九萬餘圓、毎一英里平均約貮一拾萬圓、其大部分は英國借欵に係る、昨年度營業成績は、一日一英里平均収入約貮拾一圓、同支出約十四圓にして、収支の差年額五拾萬餘圓を得たるも、其負擔に係る借欵の既定利子を仕拂ふには九十四萬餘圓の不足を生せりと云ふ、
 以上、七線路、其計長二千零六十三英里、之に潮汕鐵路及粤漢京張滬杭甬等既成部分、並に獨人所造山東鐵路等合計五百餘英里を合算すれば、淸國に於て現在開通する鐵路は槪計二千五百英里として大過なかるべし、即ち日本に比すれば槪ね其半に達せんとす、抑地域の廣大なる鐵路の不備なる淸國の如きに於ては鐡道敷設の緊要なる、環海舟楫の便あり陸上鐵路稍備はれる我日本と日を同うして論すべきに非す、今や政府は向後數年を期し憲政を施き議院制度を採らんとす、之を爲すには少くも此上約三萬英里の鐡道を國内に營造せされば、議員選擧議會召集等の事亦恐らく完全なる實行を見るに難かるべし、頃ろ當局者鋭意、川粤兩路並に津浦鐵路等の或功を速にするの計畫をなすは、實に其當を得たるものなり、
 前陳諸鐡道の建設資金を見るに、京奉萍昭二線を除くの外、驚くべき巨額に上り、其地勢の平夷なる勞銀の低廉なる、殊に設備の不完全なるに照せば人をして一層了解に苦ましむるの念を高からしむ、今後鐵路敷設を擴張するに臨み當局者深く既往の失錯に鑒み、細心籌畫、專ら費用を撙節し、施設宜しきを失せざるに努めざれば、恐らくは悔を千載に遺すに至らんことを、
 又現在淸國諸鐡道に於ける營業情態を見るに槪して運賃の高率なると行車度數の僅少なるとは、日本に比すれば大に其趣を異にす、京漢鐵路の如きは、七百五十餘英里なる長距離乗車に對する一等賃銀は、毎一英里約八錢六厘にして、日本の鐡道に比し其三倍に當り、北京天津間の行車は、毎日往復各四回に止まり、東京横濵間毎日往復四十回に比し其十一に過ぎず、北京城壁に沿へる京張京通両線の如きも、僅に一日両三回にして之を東京の山の手線甲武線等の一日數十回に比すれば、實に霄壤も啻ならず、營業収益の比較的少額なる敢て怪しむに足らざるなり、之を要するに沿道に生する多量の農産物僻隅に埋沒せる天府無盡藏の礦物等は、鐵道の便あるも運賃貴きが爲め之に依りて市場に搬致するを得ず、短距離を往來する多數の客は、行車度數少きが爲め鐡道を利用するを得す、斯の如くにして鐡道營業者は公衆に不便を與へ、公共用の本旨を遂くる能はざる而已ならず、亦自ら収め得べきの利を擧け得ざるは、畢竟其方法宜きを失するに因ると云はざるを得ず、頃ろ臺閣諸公大に茲に見るありて、當局者をして鋭意設法其改善に努めしめんとするは、要〔余〕等窃に之を聞知し大に同情を寄する所なり、惟ふに現在開通せる淸國諸鐵路は國内最も貨客匯流の好地域に位し、其營業収益に於て大に有望なるは識者を俟たずして明なり、若し當局者にして一層研討、近くは日本の經歷に徴し、遠くは歐米の實例に鑑み、實心以て好成績を擧るに勉めば、収益日を逐て增加し、還債の道自ら立ち、回權の實從て著はれ、鐵路の大業健全なる發達を見るに至るべきは、期して待べきなり、  (完)

 上の文は、明治四十二年七月一日発行(非売品)の 『燕塵』 第二年 第七號 (第十九號) に掲載されたものである。


「工業學堂記事」 (北京) (1909.10)

2020年10月13日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

     

    工業學堂記事   迷霞

 工業學堂は初め藝徒學堂と稱し光緒三十二年(明治三十九年)を以て創立せられ同年十一月より授業を開始せり、本學堂は當時の商部(現農工商部)左丞紹英氏(現度支部左侍郎)が工藝徒弟養成の目的を以て創立せしものにして、其學科程度は日本の徒弟學校のそれに同じかりき、創立當時は前記紹英氏自ら監督となり、保定優級師範學堂監督張鍈緒氏を教務長に兼任せしめ、一切の事務を同氏に一任し、同氏は又た日本人原田氏に一切を擧げて計り、募集人員百三名に對し應募者六千七百名といふ非常なる盛況を呈したり、其後紹英氏は間もなく度支部に轉任となりし爲め監督を辭し、爾来熙彦氏(農工商部左侍郎)郭增忻氏(禮部侍郎)を經て、現監督袁勵準氏(翰林院編修)に至る迄目的其他に就いては殆ど何等の變更する所なかりしも、學科程度は次第に嵩まりて事實は徒弟制度を脱して中等程度となれり、是に於て乎生徒は其名義の依然たるに不平を起し、或は監督に歎願し、或は同盟休校(本年一月)をなして以て改名を希へり、かくて監督は相當の手續を踏み、今茲宣統元年六月下旬(吾八月上旬)上諭を賜はりて從來の藝徒學堂は爰に中初兩等工業學堂と改稱せらるゝに至れり
 爾来課程も全く學部の規則に準據し以て今日に及べるが、この中、初等部のみは當分設置せられざる事となれり、現在も生徒數は約三百名あり、現監督は前記袁氏、教務長は前記張氏、庶務長は陸長携、齋務長は孫慶錫にしてこれを本校の首腦者とす、其他の職員は教習十名、事務員十七名、通譯九名、日本教習二十六名にして學科の分類は下の如し
  板金科  鑄金科  織布科  織衣 メリヤス 科  染色科
  漆工科  彫刻科  細工科  窰業科  圖案科
 經費は一ヶ年約拾萬兩にして北京崇文門關税収入高中より支出し居れり、其管轄は農工商部なるも規則は學部に從ひ、經費は度支部に仰げり、日本教習が其數二十六名に達せるは、淸國學堂に於ける日本人教習の數としては恐らく其冠たるものなる可し、而して此日本教習中の主腦者は東京高等工業學校及東京美術學校の卒業生のみにして、現下教習としては原田武雄、秋野外也、川淵薫平、信谷友三、杉本憲作、岩瀧多麿、福地秀雄及來海篤太郎の八氏あり、此他の十八氏は教師として夫々教務を分擔し居れりと云ふ

 上の文は、明治四十二年十月一日発行(非売品) の 『燕塵』 第二年 第十號 (第二十二號) の 雑報 に掲載されたものである。


『日語讀本』 四冊 内堀維文 (1930.7) 

2020年10月09日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

      

   日本内堀維文
 日語讀本
    商務印書館印行

   例言

一 是書專爲中國學生學日本語而設故與日本國語讀本體例不同
一 各課摘出新語以醒眉目係本書創意當教授時或先講某語或在文中隨讀講均從教員之便
一 日本文字讀法有音訓二種各課所揭新語屬音讀者旁注片假名屬訓讀者旁注平假名以示區別
一 課文内先用片假名而後平假名者由易及難也及後漸進則多用平假名間用片假名以便熟練
一 平假名寫法中國學生多苦其難非自初學時練習他日必多謬誤
一 平假名有正變二體其通用者係正體然亦間用變體學者不可不知本書別掲變體而不參用以免錯雜
一 毎卷尾附新語索引以便檢索尤便於教授
一 編纂是書以教授經驗之材料爲本惟第三卷後半及第四卷未經實驗如有不合之處應俟再版加修訂伏惟 大雅進而教之
                                                  編者識

日語讀本卷一目次
 片假名及平假名
 文字及發音
  第一 五十音(一)
  第二 五十音(二)
  第三 五十音(三)
  第四 五十音(四)
  第五 五十音(五)
  第六 五十音圖
  第七 濁音
  第八 次淸音及鼻音
  第九 長音
 讀本
  第一課
  第二課
  第三課
  第四課
  第五課  
 文字及發音  第十 拗音及其長音
  第六課
  第七課
  第八課
  第九課
 文字及發音  第十一 促音
  第十課
  〔中略〕
  第十六課
  索引

〔商務印書館の広告〕〔下は、その一部〕 
 
 日語讀本 四冊一元四角
  日本内堀維文著 著者在山東高等學校教授日文,歷年既久,閲歷甚深,特以其經驗所得編成此書。共分四卷。首片假名平假名,次文字發音,次讀本並索引。淺深難易,適合吾國程度。

 

日語讀本卷二目次

  第  一課 司馬光
  第  二課 大きい猫と小い犬
  第  三課 散步
  第  四課 野原
  第  五課 春
  第  六課 夏
  第  七課 秋
  第  八課 冬
  第  九課 櫻
  第 十 課 菜の花
  第 十一課 手
  第 十二課 鳥
  第 十三課 教室
  第 十四課 佐藤君の馬
  第 十五課 競馬
  第 十六課 方位
  第 十七課 地球
  第 十八課 地球儀
  第 十九課 太陽と虹
  第二十 課 時計
  第二十一課 船
  第二十二課 軍艦
  第二十三課 小刀
  第二十四課 買物(一)
  第二十五課 買物(二)
  第二十六課 枡
  第二十七課 物差
  第二十八課 秤
  第二十九課 課業
  第三十 課 運動會
  第三十一課 病氣
  第三十二課 試驗
  第三十三課 私共の學校

 山東省。  濟南府。 光緒。  創立。  校舎。
 監督。  事務員。  寄宿舎。  寮。  副。  外國。
 高等學堂。  留學。  北京。

 私共の山東高等學堂は山東省濟南府にあります。 光緒二十七年の創立です。
 校舎は新しく、其上大きく、教室は大小皆で三十程あります。 其他、監督室、事務室など、色々の室があります。 寄宿舎は東西二寮あって、四百五十人程の學生が居ります。 職員は監督一人、副監督一人、外國教師四人、中國教師二十人程居ります。 其他、事務員十人程居ります。
 課業は、毎日午前八時から午後四時までありますが、午前は大抵西學、午後は中學第三十三課 私共の學校です。 日曜日は一日休みですから、少し勉強して、其後は遊びます。
 學科は中學、外國語、數學、物理、化學、圖書、體操などですが、其中むづかしいものもあります、やすいものもあります。 數學、物理、化學などは、むづかしい方です。 
 試驗は毎年夏、冬、二度あります。 私は六年此學校に居りましたから、此の冬の試驗に及第しましたならば、卒業します。 私は是非、此冬には卒業したいと思ひます。
 私は此高等學堂を卒業しましたならば、日本に留學したいと思ひますが、若し出來ませんならば、北京の大學堂にはひります。

  第三十四課 夏休
 索引

日語讀本卷三目次

  第  一課 蜜蜂
  第  二課 農家
  第  三課 鷄
  第  四課 雌鷄と雛
  第  五課 雌鷄と鶩の雛
  第  六課 太郎の馬と牛
  第  七課 蜂と蟬
  第  八課 雲雀と人
  第  九課 楊香
  第 十 課 桃太郎の話(一)
  第 十一課 桃太郎の話(二)
  第 十二課 楊震
  第 十三課 燕
  第 十四課 燕と雀
  第 十五課 鳥と蛤
  第 十六課 海
  第 十七課 水の旅行(一)
  第 十八課 水の旅行(二)
  第 十九課 王祥
  第二十 課 電話及電信
  第二十一課 蒸気
  第二十二課 汽車
  第二十三課 停車場
  第二十四課 負け嫌ひな蛙
  第二十五課 地球の表面
  第二十六課 日本全國地圖
  第二十七課 富士山
  第二十八課 日本の氣候
  第二十九課 寒暖計
  第三十 課 日の惠
  第三十一課 草木の生長
  第三十二課 樫の木と竹
  第三十三課 慾深い犬
  第三十四課 狼と小羊(一)
  第三十五課 狼と小羊(二)
  第三十六課 動物
  第三十七課 飛魚
  第三十八課 猿
  第三十九課 商人
  第四十 課 商業(一)
  第四十一課 商業(二)
  第四十二課 家
  第四十三課 神武天皇
  第四十四課 神功皇后
  第四十五課 貯金
  第四十六課 茶
  第四十七課 朝顔
  第四十八課 芭蕉
  第四十九課 織物
  第五十 課 輸出輸入
  第五十一課 懶惰者
  第五十二課 寒帯の一小兒
  第五十三課 東京(一)
  第五十四課 東京(二)
  第五十五課 東京(三)
  第五十六課 象の目方
  第五十七課 鼠の相談
  第五十八課 蝙蝠
  第五十九課 京都
  第六十 課 大坂
  第六十一課 工業
  第六十ニ課 燒物と塗物
  第六十三課 横濵
  第六十四課 日本の風景
  文字及發音第十三變體假名
  索引

    

日語讀本卷四目次

  第  一課 太陽
  第  二課 草木
  第  三課 輕氣球
  第  四課 捕鯨
  第  五課 惡い召使
  第  六課 沙漠の酋長
  第  七課 郭隗
  第  八課 閔損
  第  九課 義俠な少年(一)
  第 十 課 義俠な少年(二)
  第 十一課 義俠な少年(三)
  第 十二課 讀書の心得
  第 十三課 郵便の話
  第 十四課 傳染病
  第 十五課 石炭
  第 十六課 電氣
  第 十七課 有用な金石
  第 十八課 人の身體
  第 十九課 志の堅い少年
  第二十 課 鐵
  第二十一課 銅
  第二十二課 鱶(一)
  第二十三課 鱶(二)
  第二十四課 白い雀(一)
  第二十五課 白い雀(二)
  第二十六課 コロンバス(一)
  第二十七課 コロンバス(二)
  第二十八課 楠木正成
  第二十九課 豐臣秀吉
  第三十 課 明治維新
  第三十一課 政治機關(一)
  第三十二課 政治機關(二)
  第三十三課 倫敦の繁華(一)
  第三十四課 倫敦の繁華(二)
  第三十五課 倫敦の繁華(三)
  第三十六課 倫敦の繁華(四)
  第三十七課 森林の利益
  第三十八課 水の變態
  第三十九課 巴里の凱旋門(一)
  第四十 課 巴里の凱旋門(二)
  第四十一課 泰山紀行(一)

  鑛物。 觀測。 海抜。 傾。 差。 絶頂。 山駕籠。 爬山虎。 反る。 窮屈な。 踏む。 日覆。 舁ぐ。 革。 縱。 割合に。 馳(緩)む。 片磨岩。 半腹。 柏の木。 秦の始皇。 憩む。

 山東省には石炭などのある地方も澤山あって、鑛物の産物は南の方面にもあるし、北の方面にもありますが、私どもの通った所には、さう云ふものは見えなかったのであります。これより泰山の御話をします。私共は山東省の泰安府に參りまして、泰山の眞南に當って居る所から登ったのであります。私どもの觀測した結果では、高さが海抜千五百十三米、殆ど五千尺であります。獨逸の地圖には千五百四十五米とありますが、全體の計算が少し私どものより高くなり過ぎて居る傾で、百尺ばかり私の觀測と差があります。此の山の絶頂までが四十里と云ふことでありますが、併し四時間で行けるのであります。是へ登りまするのに一種の山駕籠があるのでございます。是はチョット面白いです。是を爬山虎と云ふそうです。此の轎は普通の轎と違って手が極短い、上に向って反った二本の棒でありまして、其上は極小さな窮屈な椅子の樣な形で、足で踏む爲に下に板が吊てあります。男子が乗るには唯日覆だけがあるが、女の乗るときには是をスッカリ包んで仕舞ふのであります。此爬山虎と云ふものは先づ山駕籠中では世界第一と云って宜いやうに思はれるのであります。二人で舁いで居りまして、別に手代りが一人附いて居ります。平地は革を兩肩にかけて縱に步き、割合に速いのであります。山道に參りますと、泰山は石段が澤山ありますので、一方の肩に掛けて駕籠を横にし、二人並んで石段を拾って登って行くのであります。山の上り下り共に自由で割合に速い。其代り非常に危險であります。石段が一直線に何百米も續いて居る所があります。其上に石段がゆるみまして、駕籠屋の踏む度にガタゝ動くので、乗って居りましても、何だか氣が引ける樣であります。
 〔以下省略〕

  第四十二課 泰山紀行(二)
  第四十三課 西洋の公園(一)
  第四十四課 西洋の公園(二)
  第四十五課 西洋の公園(三)
  第四十六課 西洋の公園(四)
  第四十七課 萬里の長城
  第四十八課 彗星
  第四十九課 人類の誇大狂(一)
  第五十 課 人類の誇大狂(二)
  第五十一課 人類の誇大狂(三)
  第五十二課 人類の誇大狂(四)
  第五十三課 人類の誇大狂(五)
  第五十四課 人類の誇大狂(六)
 索引

 己酉年正月初版
 中華民國十九年七月十九版
  (日語讀本四冊)
  (毎部定價大洋壹元肆角)

 著作者 日本内堀維文
 發行者 商務印書館 


「北洋法政專門學堂沿革」 (天津) (1910.5)

2020年10月08日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

北洋政法專門學堂沿革
  (本校の特色は日本語本位)

     學堂設立の目的

 本學堂は光緒三十三年八月前直隷總督袁世凱氏が奏定分科大學章程に遵ひ高等なる法律、政治、理財の專門學を教授し完全なる政法的人才の養成を目的として設立せる者なり故に模範を京師大學堂の辦法に取り豫科三ヶ年の修業者を正科に入れ正科を政治、法律のニ科に分ち卒業年限を三ヶ年とし毎年二百名の生徒を募集し六年の後には千二百名の生徒を収容する方針を立てたり尚ほ右本科の外に速成を目的とせる簡易科を附設し、北洋政法專門學堂と總稱せり、袁總督が北洋政法專門學堂を天津に設立すると同時に、南京に於ても南洋政法專門學堂を設け北洋諸省の學生を天津の同學堂に収容し南淸諸省の學生を南京の該學堂に収容し以て京師法律學堂と相對し淸國の三大政法學堂を現出せしめんとの約束なりしも南洋政法專門學堂は種々の故障に依り遂に創立を觀るに至らざりき又た光緒皇帝在世の節、嘗て上諭を以て各省候補官吏の法政思想を養成し立憲豫備の急需に應ぜしめんため各省に法律學堂を設立す可く命ぜられたるが袁總督は上諭に基き保定に法律學堂を設立せり故に北洋政法専門學堂は各省の法律學堂とは稍々其選を異にせり

     建築費用及毎年の經費

 本學堂は創立の際、校舎の費用に十四萬兩、設備費に五萬兩裝飾費に二萬兩、合計二十一萬兩の創立費を要したり而して毎年の經費は十萬元餘なるが其財源は長蘆鹽税項下より五萬五千兩を支出し其他は生徒の授業料と賄料とを以て支辦さる本學堂は豫科本科、簡易科を問はず凡て自費生にして少數なる貸費生あるも固より例外に属す

     各科の成績

(一)豫科 本學堂創立と共に直に二百名の豫科生徒を募集し本科に入る階梯的の教育を施しつゝありしも突然學部に於て專門学堂章程を發布し專門学堂生徒は中學校の卒業生にあらざれば入學することを得ざる旨を規定せしを以て忽ち本學堂の前途に一大打撃を蒙るに至れり故に本學堂は學部に運動し學生の既得權を主張したれば現在の豫科生徒は中學卒業生と認められたるも今后は中學堂卒業者を入學せしめざる可からざるを以て第一期の豫科生を募集せし以來、遂に生徒の募集を中止するの已むを得ざるに至れり、而して第一期に募集せる豫科は本年七月を以て等三年の修業を終る豫定なれば愈々本科に進級することゝなれり、現在豫科生徒は百六十餘名あり外國語は日本語を一般に教授するも外國語として英佛獨の一を撰ばしむ外國教師を聘せる者は日本人のみなり
(二)別科 本科は我國の私立大學の專修科と同一の組織にして政治、經濟、法律の專門的學術を教授すると共に普通學をも教授し居れり本科生は昨年の春初めて募集したる者なるが目下生徒は百七十餘名あり修業年限は三ヶ年なり現在甲乙のニ班に分る

     附屬簡易科

 本科は前袁總督の發案に基く者にして法政經濟の速成を目的とし行政科、司法科のニ科に分ち行政科に直隷地方の紳士を収容し之を紳班と稱し卒業の後は地方自治實施の任に當らしむる爲教育せり、司法科には有職人員則ち候補官吏を収容し審判廳判檢事等の職員養成を主眼とせり、修業年限は一ヶ年半にして兩科の生徒三百餘名ありたるが孰れも光緒三十四年に卒業し今や各地方に散し各々其修得せる所に基き實務に從事せり、行政科の學科目左の如し
 政治學、比較行政法、比較憲法、大淸律例、地方自治制論、大淸會典、民法要義、選擧制論、刑法各論、法學通論、商法要義、刑法總論、國際公法、經濟原論、裁判所構成法、警察學、辯學、中外通商史、國際私法、世界近世史、應用經濟學、貨幣銀行論、政治地理、財政學、統計學、戸籍法、衞生學、日語日文
 司法科の學科目は以上と大同小異の者なり、思ふに本簡易科が最も偉功を奏したるものゝ如しと

     附屬中學部

 此の中學部は前述せる如く學部の專門学堂條例發布の結果臨機の處置を執り設立せる者なるが其理由は蓋し現今淸國人にして中學堂を卒業せる者敢て尠なきにあらずと雖、本專門學堂の特色は日本語を基礎とし總の學科を教授するを以て現在各地に在る中學堂卒業生にては日本語の素養なきを以て本學堂に中學部を設け專ら日本語を教授するの目的に出でたる者なり、之れ恐らく淸國に於て日本語を基礎とせる中學は本校を以て嚆矢となさんか附屬中學部生徒は昨年九月二百名の豫定を以て生徒を募集せしが當時は安奉線問題にてボイコット盛んなる際にして特に日本語を主眼とせる中學なれば應募の如何に就て當局者は私に憂慮せる所ありしが意外にも無慮九百餘名の志願者ありて非常の盛況を極めたり、當局者は二百名の収容に務めたるも種々の事情にて百七十名を選抜入學せしめたりされど右の盛況に鑒み官費生たる北洋師範學堂に於て生徒を募集せしが志願者の多からざりしを見れば必ずしも日本語の勢力と自惚るべからず只だ立憲の聲高きを以て法政經濟なる者が淸人の思想を支配せし結果にして此の現象より觀るも如何に立憲熱の流行せるかを知るに足らん

     幹部及職員

 創立當時の学堂監督黎氏は或事情に依り辭職し其後兩三回監督の更迭あり又た幹部の職員更迭の際は支那教師に亦た波及し今迄支那教師數十名の更迭を見たり現在の監督は李渠氏翰林院の出身にて日本に留學せることあり尚ほ諮議局議員を兼ね資政院議員となれり前任は保定法律學堂の監督の職にありたり、教務長籍忠寅氏も亦た舉人なるが諮議局議員を兼ね資政院議員たり日語日文に長ず、庶務長、舎監も亦た日本留學生なり、外國人は總教習今井嘉幸氏、教習郭廷献氏、小鹿靑雲氏淺井周治氏の四名なるが今井氏は別科の民刑法、裁判所構成法を擔任し、小鹿氏は豫科の經濟通論及日本語、郭氏は豫科の法學通論及日本語、淺井氏は豫科の日本語及中學部の日本語を擔任せり     《完》

 上左の写真と文は、明治四十三年五月十五日発行(非売品) の 『津門』 第四号 の ◉雑録 に掲載されたものである。
 なお、タイトルは、目次では「北洋法政專門學堂沿革」とあり、写真や本文では「北洋政法專門學堂沿革」となっている。

 

 上の写真は、民国三十三年五月初版の 『日本文化給中國的影響』 の口絵写真にあるもので、写真下に次の説明がある。

      民國二年夏北洋法政學堂
       司法班卒業記念撮影


「北洋高等巡警學堂沿革」 (天津) (1910.7)

2020年10月08日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 北洋高等巡警學堂沿革

     ▲學堂設立の目的

 長城以南の直隷省も保定天津を除く外人口稀疎にして時に強暴なる群賊の襲撃を免れず而して地方官は拱手傍觀し良民は堅く門戸を鎖し尚ほ安堵する能はず保甲局の設けあるも有名無實にして所謂無用の長大物の觀あるのみ故に人民の生命財産を保護するの機關としては見る可き者あらず況んや社會の秩序を維持する行政警察の如きに於てをや到底淸國官吏の腦裏に畵きしこともなかりしものとす
 團匪事變後袁世凱は山東巡撫より直隷總督の印綬に接し慧眼以て天津に於ける各國仮政府の施政中殊に警察制度の良民保護に有效なるを看取し諸政改良の第一着は各國警察制度を模倣するより急務なるはなしとし教師を日本に聘し先づ保定城内に警察總局及び各分局を設け傍はら巡警學堂を同地に創設したり之れ實に光緒二十八年五月十三日にあり是れ直隷巡警學堂の嚆矢なるのみならず恐く淸國各省中第一着手たりしなり保定巡警總局總辦趙秉鈞學堂總辦を兼任し曩きに聘せられたる警務顧問三浦喜傳通譯中島比多吉の兩氏重に設立に盡力し續て教授を兼ねたり外に鎌田彌助前田豊三郎の兩氏を聘し教習とす然れども警察法操法のニ科に止まり速成を期したれば未だ不完全なる學堂たるを免れず是れ現在の北洋高等巡警學堂の前身なり

     ▲學堂の廢合及沿革 

 光緒二十八年七月袁總督は各國都統衙門より天津還附を受け轅を天津に遷せり此の時三浦中島の兩氏は随ひ行き直ちに天津城外警察組織に軮掌せられ又た傍はら巡警學堂設立に從事し遂に地を城北堤頭に卜し學堂を開設し天津巡警學堂と稱せり總教習として三浦氏の外中島比多吉和泉正藏河崎武小川勝猪葛上徳五郎の諸氏教習として聘せられ又た原田俊三郎氏天津學堂に增聘せらる其後間もなく保定學堂は經費不足の結果天津學堂に合併し日本教習及び學生の全部は天津に來リ學生は天津巡警學堂に入學し日本教習は天津巡警總局の事務に從事せり因て是に北洋巡警學堂と改稱せり村田氏は次で監獄事務に從事せり光緒三十一年八月学堂を天津東門外扒頭街に新築し警察操法ニ科の外一般の法政を必修科とし且つ卒業期も從來一ヶ年の處將來二ヶ年と改正したり
 天津巡警學堂創立以來各省總督巡撫より派遣する處の警察學生ありしが特に當時增加し來りたれば堂内狭隘を告げ遂に當今の地即ち天津南斜街に移轉したり此の時天野健藏氏を教習として增聘し和泉中島河崎鎌田の四氏は是より先き去辭せり

     ▲本學堂の學生及經費

 本學堂に於ては官學員と稱するものは必ず候補官吏の功名を有するものに限れり故に候補道あり候補知府地縣あり又たは候補縣丞典史等ありて所謂大人老爺株のみなり
 此の學堂内に巡警教練所と稱するものあり是は巡査を養成する所にして以前は日本教習が教授の任に當りしも現今は卒業の學員を以て教授を担當せり其卒業期は六ヶ月なり
 學堂の經費は年額湘平銀四萬二千兩にして官費學員一百名自費學員一百名而して官費學員は毎月食費雜費として六兩を班長は八兩を給し自費學員は四兩を納付せしむ巡警學生は總て官費にして普通學生には三兩九錢を班長には四兩五錢を支給す

     ▲本學堂卒業生

 各省より附學し來れる學生の歸任せしものは多くは其地の警察總辨又たは警察局長として現に採用せられ居れり而して其派遣せし各省左の如し 
    山東 江蘇 浙江 福建 江西 安徽 雲南
    貴州 四川 陝西 甘肅 河南 東三省
 卒業の警官學員は七百五十三名にして巡警學生は五千八百八十名の多きに及べり

     ▲教授課目

 光緒三十四年九月民政部の奏議に依り各省高等巡警學堂及び巡警教練所章程を頒布せらる北洋高等巡警學堂も其規程に準據し學科を定む即ち左の如し
  一 中國現行法制大要
  二 大淸違警律
  三 大淸律
  四 法學通論
  五 警察學
  六 各種警察章程
  七 各國刑法大意
  八 行政法
  九 算學
  十 操法
 十一 英文或東文
 十二 憲法綱要
 十三 各國民法大意
 十四 各國民刑訴訟大意
 十五 國法學
 十六 地理(政治地理兼本處)
 十七 地方自治章程
 十八 各省諮議局章程
 十九 各種選擧章程
 二十 國際公法
 廿一 國際私法
 廿二 監獄學
 廿三 各國戸籍法大意
 廿四 統計學
 附設巡警教練所の科目左の如し
  一 國文
  二 大淸違警律
  三 警察要旨
  四 政法淺義
  五 地方自治大意
  六 本處地理
  七 操法
 又た此の學堂内に巡警編譯處なるものを設立し專ぱら警察課本及び警察關係の書籍を編譯し廣く世上に頒布し警察學の普及を圖る機關あり日本教習の兼掌事務として鞅掌せり此の經費毎月二百五十兩なり

     ▲現任總辨及日本教習

 學堂の歷代督辦總辦の氏名左の如し
   趙秉鈞(後ち民政部右侍郎に昇任し現今閑地に在り)
   沈金鑑(現に候補道にて安慶の審判廳長官たり)
   徐鼎康(現に吉林省度支使に昇任せり)
   徐鼎讓(現總辦)
 現在關係の日本人は警務顧問三浦喜傳氏を總教習とし天野健藏原田俊三郎の兩氏教習とし葛上徳五郎氏操法教習として在任せり而して原田氏は目下巡警總局に在りて總稽査の事務に從事し居れり。    (終り)

 上の写真と文は、明治四十三年七月十五日発行(非売品) の 『津門』 第六号 の ◉雑録 に 邦人関係の学堂官衙(三) として掲載されたものである。


「京師法政學堂の槪況(下)」 育英生 (1910.5)

2020年10月05日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

京師法政學堂の槪況(下)
          育英生

  第二 現狀槪要

  () 本學堂設立の由來

 前々號に述べたる如く科擧廢止の結果として進士館は之を存立するの必要なきに至れり、かくて進士館の事業將に終りを告げんとするや學部は光緒三十二年(明治三十九年)七月京師法政學堂を設立せんことを上奏して裁可を得、翌光緒三十三年四月(明治四十年五月)に至り舊進士館跡に京師法政學堂を開設せり、學部が本學堂を開設するに至りし理由に就きて左に少しく記述する所あるべし、
 本學堂の開設以前と雖既に北京に進士館及び仕學館あり各省に課吏館(官吏養成所)ありて法政教育を施すの機關は全く缼けたるに非ざりき、然れども此等の學堂は槪ね官吏或は科擧出身者に對して法政學に關する大體の知識を補習せしむるに止り少壯の學生に法政の專門教育を施すの目的に出でたるものに非ず、其の然る所以のものは淸國の當局者尚未だ近時の法政學に關する智識に乏しきが爲に之を少壯の學生に課するの果して國家に有益なるや否やを判斷すること能はず、甚しきは政治上に一種危險の思想を引き入れ或は國家の秩序を亂るに至らざるかを憂慮するものありたるが故なるべし、張之洞氏の起草に係る奏定學堂章程に於て私立法政學堂の設立を禁じたるに由つて之を觀るも略ぼ其の意向を知べきなり、然るに上記の諸學館に於て法政教育を施したる結果は世人をして一般に法政學の眞に國家有用の學問なることを悟らしむるあり又日本に於て法政の學科を修めたる留學生の漸次歸國して仕途に就き其の効果を政務の實績に顯はすありて當局者の法政學に對する疑團も亦漸く氷解し法政の專門學堂を設立するの必要を感ぜしむるに至れり、而して在外留學生の一部には往々紛擾を事とし或は過激奇矯の議論を弄して世の視聽を駭かすものあり其の監督の困難を感ずること尠からざりしかば遂に當局者をして國内に専門の法政學堂を經營するの急務なることを認めしめ全國一般に法政學堂の設立を奬勵するの機運に向へり、當時當局者は固より大學の設立を欲せざるに非ずと雖大學に入るには章程上小學堂より順次嚴正なる課程を履まざるべからず、然るに當時尚之に該當する學生無かりしが故に其の本意を實行すること能はざりしが偶進士館の事業終りを告げ其の校舎の利用すべきものありしかば學部は全國法政學堂の模範として先づ特殊の法政專門學堂即ち京師法政學堂を北京に開設するに至りしなり、
 京師法政學堂の開設せらるるや從來進士館に教鞭を執りし巖谷、杉、矢野の三氏は是に轉ぜしが更に日本教習を增聘するの必要を生じ文學士小林吉人氏先づ聘せられ次いで井上翠、松本龜次郎両氏の來任を迎へ又二三講師の相次いで嘱托せらるるものあるに至れり、
 今本學堂の特色とする所の要點を擧ぐれば即ち左の如し、    
  一、純然たる法政專門の學堂にして科擧出身者の學力補習若くは官吏養成を主旨とするが如き學堂とは全く其の趣を異にする事、
  二、特殊の專門學堂にして高等學堂大學堂とは其の系統を異にする事、
  三、日本法政を以て主要の研究材料とする事、
  四、正科に於ける主要學科は日本人に依り日本語を以て直接に教授する事、
  五、豫科及び補習科に於ては最も日本語の教授に重きを置く事、
    以上は本學堂の最も特色とする所のものにして別科及び講習科は過度時代の必要に應ずる一時の施設にして本學堂本來の目的には非ざるなり、

  () 分科及び學生數

正科 
 正科は法政學を教授するを以て目的とす、之を分ちて政治門、法律門のニとなす、學生は本學堂の豫科及び補習科を卒業せし者及び是と同等の學力を有する者より之を採る、卒業年限は三年とす、
 正科に於ける外國教習の教授は日本語を用ふるを以て方針とす、
豫科及び補習科
 豫科は正科に入學せんと欲する者に日本語及び普通學を教授するを以て目的とす、學生は主として毎年各省より送り來る所の中學卒業生に對し入學試驗を行ひたる上之を採る、卒業年限は二年とす、
 豫科と補習科との關係に就きて一言する所あるべし、一昨年即ち光緒三十四年の夏學部は專門學堂令を發布して專門學堂に豫科を併置することを禁じ、法政學堂に限りて日本語を補習する爲に一年乃至二年の補習科を置くことを許せり、之を以て昨年以來各省より送り來る所の中學卒業生は試驗の上之を補習科の名の下に収容し專門學堂令發布以前に入學せし豫科の學生は依然豫科なる名稱を以て之を呼べりこれ異名同質の豫科と補習科とが同時に並存するに至りし所以とす、現存せる豫科の學生は本年四月(淸曆)を以て正科に昇級すべき筈なれば其の以後豫科なる名稱は自然消滅すべし、
別科
 別科は法政學を教授し目下の急需に應ずる人材を養成するを以て目的とす、學生は官吏及び擧貢監生の入學試驗に合格せる者を採る、入學試驗は漢文を主とす、卒業年限は三年とす、
補習科
 講習科は吏部の新分及び裁缼人員に法政學の大要を授くるを以て目的とす、學生は總て習部の選擇に任じ卒業年限は一年半とす、
 講習料は前後二回の卒業生を出しし後募集せさるを以て現在は無し、
正科學生數(一級)一百零二名
豫科學生數(一級)一百二十七名
補習科學生數(一級)六十六名
別科學生數(三級)二百九十七名
  總計五百九十二名

  () 教授課目

 (各学課目の下にある數字は一週間の授業時間數なり)

豫科及び補習科の課程
 第一學年
  人倫道徳(二) 中學文學(三) 日本語(十七) 歷史(三) 地理(二) 算學(四) 理化(二) 体操(三) 合計三十六時間
 第二學年
  人倫道徳(二) 中國文學(二) 日本語(十四) 歷史(三) 地理(二) 算學(三) 理化(二) 論理學(一) 法學通論(二) 理財原論(二) 體操(三) 合計三十六時間
 補習科の課程はこれまで豫科のそれに準ぜしが元來補習科の學生は皆中學卒業生なるを以て算術理化等の如き普通學を課するの必要を見ず、之を以て近時補習科の課程より此等の普通學を削除し日本語法學通論理財原論等の時間を增加せんとするの議起れり不日決行せらるべし、

正科政治部門の課程
 第一學年
  人倫道徳(一) 皇朝掌故(三) 大淸律例(二) 政治(二) 政治史(二) 憲法(二) 行政法(ニ) 民法(三) 刑法(二) 理財學(二) 財政學(二) 社會學(三) 日本語(三) 英語(六) 體操(二) 合計三十五時間
 第二學年
  人倫道徳(一) 皇朝掌故(二) 大淸律例(二) 政治史(一) 行政法(三) 民法(四) 刑法(三) 商法(二) 理財學(二) 財政學(二) 國際公法(三) 国際私法(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
 第三學年
  人倫道徳(一) 皇朝掌故(一) 大淸律例(一) 行政法(三) 民法(四) 刑法(二) 商法(二) 理財學(二) 財政學(二) 國際公法(三) 国際私法(二) 外交史(二) 統計學(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間

正科法律門の課程
 第一學年
  人倫道徳(一) 皇朝掌故(二) 大淸律例(三) 中國法制史(二) 外國法制史(二) 憲法(二) 行政法(三) 民法(四) 刑法(三) 商法(二) 日本語(三) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
 第二學年
  人倫道徳(一) 皇朝掌故(二) 大淸律例(二) 行政法(三) 民法(四) 刑法(三) 商法(三) 刑事訴訟法(二) 民事訴訟法(二) 國際公法(三) 國際私法(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
 第三學年
  人倫道徳(一) 皇朝掌故(一) 大淸律例(二) 民法(四) 刑法(四) 刑事訴訟法(四) 民事訴訟法(四) 國際公法(三) 國際私法(二) 監獄學(二) 英語(六) 体操(二) 合計三十五時間
別科及び講習科の課程は之を略す、

  () 職員及び教員

職員  本學堂の監督は學部左丞の喬樹枬氏にして教務長は江庸氏(早稻田大學卒業)、庶務長は潘淸蔭氏、齋務長は陳嘉會氏(法政大學速成科卒業)なり、 
教員  中國教習は總計三十名ありて其の中十九名は日本に留學したる人々なり、此等の留學生諸氏は或は日本教習の爲に通譯の任に當り或は專門の學科を獨立にて擔任せり、日本人の傭聘せらるる者は嚴谷孫藏、杉榮三郎、矢野仁一、小林吉人、井上翠、松本龜次郎の六氏にして此の外に囑托講師として岡田、志田、小河の三法學博士と原岡武氏とあり、

 上の文は、明治四十三年五月一日発行(非売品)の雑誌 『燕塵』 第三年第五號 (第二十九號) に掲載されたものである。


「京師法政學堂の槪況(上)」 育英生 (1910.3)

2020年10月04日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 京師法政學堂の槪況(上)
          育英生

  第一 沿革槪要

 淸國が始めて新主義の教育制度を採用するの気運に向ひしは實に光緒二十六年(明治三十三年)義和團事變の以後にありとす、其の以前にありても稀に新主義に基づける學堂の設けなきに非ずと雖其の數極めて少く勢力も亦其振はず一般の學生は猶舊來の方法に依り經史の訓詁釋義を學び專ら科擧に應ずるの準備を爲すを以て例とせり、之を首都の北京に徴するも新主義の學堂としては唯一の同文館ありたるのみ、該館は東安門内馬神廟現大學堂所在地に設け米人マルチン氏を聘して其總教習と爲し我が日本人も諸外國人と共に其の教授に從事せり、然れども學生の此の館に學ぶ者未だ多からず其の教科も主として外國語を課するに止れり、首都の學界すら猶斯の如し其の他の地方は推して知るべきのみ、之を現行の教育制度に於て學堂を教育の中樞とし普く各種の學堂を設けて各般の學生を教育する者に比すれば實に霄壤の差ありとす、殊に法政科の如きは從來未だ何れの學堂に於ても之を課する者あらず其の之を一科の學問と認めて之が爲に特に専門の學堂を設立せしは仕學館を以て其の嚆矢とす、
 抑も淸國がかヽる状態より一躍して新に統一せる教育制度を定むるに至れるは実に義和團事變の打撃其の因を爲せる者なり、此の事變に因りて淸國上下一般に警醒を與へられ自強の策を講ずるは先づ學堂を興して新なる教育法を施し國民一般の智識を進むるの最も急務なる事を自覺するに至れるなり、是を以て事變の翌年即光緒二十七年の十二月(明治三十五年一月)淸廷は張百熙氏を管學大臣に任じ並に大學堂務事を管理せしめ新教育制度に關する一切の事宜を計畫せしむ、同氏は乃ち命を奉じ直に諸外國學制の調査に從事し全國學制の系統を定むるは宜しく範を日本に採るべきこと及び京師に大學豫科並に仕學館師範館を創設すべきことを奏請せり、蓋し當時俄に大學正科を開設せんと欲するも時期尚早くして新教育の素養ある學生を得ること能はざるが爲に先づ其の豫科を設けて徐に大學正科開學の基礎を作り一面には時勢の急需に應ずるが爲に官吏及び教員を速成的に養成するの目的を以て仕學館及び師範館を設くるの擧に出でたる者なり、此の奏議は淸廷の嘉納する所となり尋いで本奏議に從ひ全國一般の學堂章程を編成せり、而して其の大學堂章程中に大學豫科及び仕學館師範館を並立するの變体的學制を設けしは全く上述の目的を達するが爲に一時の權宜に出でたる者なり、此の時編成せる諸章程は光緒二十八年七月(明治三十五年八月)を以て發布せり、所謂欽定學堂章程と稱する者即是にて實に淸國新教育の基礎を築ける者なり、
 是に於て淸國政府は京師大學堂を東安門内馬神廟舊同文館跡に置き同章程の規定に從ひ先づ仕學館及び師範館の兩館を開設せんとし我が外務省に交渉して教習の人選を委囑す、外務省は仕學館教習として法學博士嚴谷孫藏法學士杉榮三郎の兩氏を推選し師範館教習として文学博士服部宇之吉理學士太田達人の兩氏を推選せり、此等の四氏は聘に應じ同年九月悉く任に此の地に就くことヽなれり、
 前記四氏の着任當時兩館は未だ之を開設せず開設の準備に關しても多く施設する所なかりき、由りて四氏は直に開設の準備に助力を與へ親しく入學試驗施行の任に當り漸く光緒二十八年十一月中旬(明治三十五年十二月)を以て開學するを得たり、當時仕學館學生は現在官吏若くは候補官吏中より試驗の上入學を許しゝ者にして其の數七十名あり、後聽講生制度を設け約三十名の聽講生を得るに至り大約百名の學生に法政の學問を教授せり、法政專門の學科目は略日本帝國大學法科大學の科目に同じく修業年限は三箇年にして教授は主として日本教習之に當れるも通譯を用ひて間接の教授を施せるが爲に其の進度及び理解に於て遺憾の點あるを免れざりしが學生は卒業の後夫々相當の地位に用ひられたり、前日本憲政考察大臣現在理藩部左侍郎達壽氏の如きは本館卒業生中最も優秀なる者なり、其の他の者も各部の行政官及び各地方の法政學堂監督或は教習等に就任せる者多し、(仕學館が卒業生を出しゝは進士館に合併せられたる後にあり)、    
  大學豫科は翌年即光緒二十九年の春に至り漸く開設せられしが外國教習は總て西洋人を以て之に充て日本人は一切採用せられざりき、是蓋管學大臣が速成的の教育には日本人を聘用し大學教育には主として西洋人を用ふるの方針を執れるが故なり、此の方針は今日に至るまで依然として變更せざるが如し
  師範館は光緒三十四年(明治四十一年)十二月に至り閉鎖し同館に從事せし服部博士を始めとし八名の日本教習は此の時を以て歸朝せり、
 光緒二十九年五月(明治三十六年六月)時の湖廣總督張之洞氏入京す、氏は夙に欽定學堂章程に關して意見を懐けるが故に淸廷は乃ち管學大臣張百熙及び榮慶のニ氏と會同して學堂章程を改訂しせむ同年十一月改訂學堂章程成り上は大學堂より下は蒙養院に至るまで全國各種學堂の詳細なる規程を設く、之を上奏して裁可を得たり、奏定學堂章程と稱する者即ち是なり、本章程は欽定學堂章程に比し改訂變更せし點尠からずと雖其の根本の大主義に至ては毫も動搖することなく依然日本の教育制度に模做せり、是即現行の學堂章程なり、本章程中特に速成の法政教育に關して著しく變更したる點は進士館の新設是なり、之より先張之洞氏張百熙氏等は夙に科擧廢止の必要を感じ之に代ふるに學堂教育を以てし依りて新教育を鼓舞奬勵せんことを上奏せしが議朝廷の納るゝ所とならざりき、故に氏等は學堂章程の改訂を命せらるゝや新に進士館の規程を設け輓近の科擧出身者は之を進士館に入れ新智識を捕足し以て國家有用の材を養成せんことを計れり、此の目的を達するが爲同館の規程中に光緒二十九年(明治三十六年)以降の進士は齡三十五歳以上にして精力衰耗し既に學習に堪へざる者を除くの外總て同館に入り三年間法政教育を受くべきことを明示せり、淸國政府は本章程に基づき工を西城太僕寺街に起し新に學堂を建設し之を教習進士館と名づく、即進士の稱號を有する者を教習するの謂なり、かくて同館は光緒三十年四月(明治三十七年五月)開學す、而して從來の仕學館は之を大學堂内より分離して進士館に附屬せしむ、是に於て從來仕學館に教鞭を執りし日本教習は轉じて進士館の教習となれり、此の時文學士矢野仁一氏新に聘用せられたり、
 進士館開學當時の學生は癸卯科即光緒二十九年(明治三十六年)登第の進士にして當時の員數一百五十名を算す、其の後光緒三十一年(明治三十八年)正月に至り甲辰恩科即ち光緒三十年(明治三十七年)登第の進士一百五十八名を入學せしめ三十二年(明治三十九年)九月新に講習科を設け吏部の嘱托學生三百四十五名を収容し合計六百五十餘名の教育に從事せり、(仕學館の學生は此の外とす)、
 光緒三十一年八月四日(明治三十八年九月二日)爾後全く科擧の制度を廢止するの上諭下る、是は淸廷が時勢の趨向に顧み偏に新學を重ずるの結果此の大英斷に出でたるものにて歷代の積習を一朝にして改め得たるは實に痛快の極と云ふ可し、此の後復た科擧出身の進士を出すこと無きを以て當時在館の學生畢業の後は更に進士館を存するの必要を認めず進士館の事業は茲に大段落を告ぐるに至れり、進士館の法政に關する學科目及び教授の方法は仕學館に同じ、學生は卒業後官費を以て日本に留學若くは遊歷を命ぜられたり、本館の學生は日本より歸國後日尚淺きを以て現在未だ顯要の地位を得たる者あらずと雖本來進士出身にして且新に法政の學科を修得せる者なれば將來必頭角を顯はすに至るべし、 
 進士館の事業終りを告げて京師法政學堂の新設を見るに至る前後の事情は請ふ之を次號に述べん

 上の文は、明治四十三年三月一日発行(非売品)の雑誌 『燕塵』 第三年第三號 (第二十七號) に掲載されたものである。


「清国徐華清氏招待会」 (於 偕行社) (1903.6)

2020年09月30日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

◎淸國徐華淸氏招待會

 今回淸國北洋軍醫學堂總辨兼直隷醫務局長候補道徐華淸氏延袁總督令息一行ト共ニ來朝ニ付本會ノ會賓トシテ去ル六月九日午後五時偕行社ニ招待シ盛宴ヲ張レリ當日ノ来賓ハ主賓ノ外寺内陸軍大臣、袁克定、李焜瀛、熙〇、關景雲、佐藤歩兵大尉等諸氏ニシテ席定リ宴酣ナルヤ寺内閣下起テ一塲ノ挨拶セラル其要ニ曰ク
 余ハ偕行社幹事長トシテ一言セントス、本日我隣國友邦ノ醫務局長徐氏一行ト會食スルヲ得タルハ余ノ甚タ喜フ所ナリ、抑モ支那ノ醫學ハ世界中最モ古キ時代ヨリ發達シ余ノ知ル所ニテハ神農ハ實ニ其祖タリ我等幼稚ノ時ノ記憶ニヨレハ我邦醫家ニシテ神農ヲ祀ラサルモノ殆ントナシ我國ノ醫學カ支那ノ醫學ニ負フ所大ナル推シテ知ルヘシ今ヤ其神農ノ子孫タル淸國ノ醫師來テ範ヲ我國ニ採ラントス我等ハ喜ンテ其便宜ヲ圖リ之ニ酬ユル所アルヘキナリ、終リニ杯ヲ擧ケテ一行ノ健康ヲ祝ス云々
 佐藤大尉ハ之ヲ淸語ニテ通譯セリ、次ニ小池閣下起テ左記ノ如ク一塲ノ卓上演説ヲ試ラル
     卓上演説
  今日我軍醫學會ニ於テコヽニ列席セラレアル大淸國ノ四君ヲ招待スルヲ得タルハ本會ノ光榮トスル所ナリ    
  西洋ノ諺ニ「學問ニハ國境ナシ」ト殊ニ人ノ性命健康ヲ司ル醫學ハ智識ヲ世界ニ求メテ吾人ノ幸福ヲ圖ラサルヘカラス、我邦古來醫學ナキニ非ルモ其不備ヲ補ハンカ爲メニ初メ之ヲ他ノ文物ト共ニ支那帝國ヨリ輸入シテ頗フル益スル所アリキ明治維新後更ニ蘭、佛、獨、英等諸國ノ長所ヲ採リテ大ニ我醫學ノ短所ヲ補ヒ今日ニ於テハ他列國ト對峙シテ殆ト遜色ナキニ至レリ一般醫學ノ應用タル軍醫學モ亦近年長足ノ進歩ヲ爲シ我軍隊ノ健康度ハ日一日ニ增高シツヽアリ我等會員ハ支那帝國ノ舊恩ニ報ヒンカ爲メ又同文同人種ノ友邦トシテ關係特ニ深キ大淸國トノ交誼ヲ厚クセンカ爲メ赤誠ヲ捧ケテ同國醫學上ノ利益ヲ謀ラントス在席四君ハ幸ニ我等會員ノ微意ヲ諒トシ今後一層懇親ヲ表サレンコトヲ望ム
  終リニ臨ミ杯ヲ擧ケテ右四君ノ健康ヲ祝ス
 次ニ田村軍醫之ヲ英語ニテ通譯シタリ、是ニ於テ徐氏徐ロニ起テ一行ニ代リ一塲ノ單簡ナル挨拶ヲナシ佐藤大尉之ヲ通譯シタリ
 當日會スルモノ百餘名宴終ルヤ一同階上ノ觀閣 ガレリー ニ出テ或ハ淸語或ハ英語又ハ通譯ヲ以テ一行ト快談ヲ試ミ各歡ヲ盡シテ散會セシハ街燈煌々既ニ九時ニ近カリキ
 因ニ云徐華淸氏ハ英國ニ留ルコト十二ヶ年英語ヲ操ルコト巧ニシテ命ニ依リ田村軍醫之ヲ案内シ陸軍軍醫學校、衞戌病院、材料廠、聯隊兵舎、醫務室、衞生隊演習等ノ外醫科大學、赤十字社病院、傳染病研究所、血淸藥院等ヲ參觀シ去ル六月二十七日出發歸途ニ就ケリ

 上の文は、明治三十六年七月三十一日発行の 『軍醫學會雑誌』 第百三十七号 陸軍醫學学會 非賣品 に掲載されたものである。

 なお、徐華淸や袁克定について、例えば 大正元年十一月印刷の 『現代支那人名鑑』 禁公表 外務省政務局 に次の記述がある。

徐華淸 字靜瀾 (漢人)
    年齡五十五  廣東省嘉應州長樂縣人 (現住天津)
 學歷 文童、天津醫學堂卒業、英語ニ通ズ
 經歷 明治二十一年天津鐵路公司醫官、明治二十二年旅順水師水電學校教習、明治二十八年陸軍官醫總局總辦、明治四十五年〔明治三十五年〕北洋軍醫學堂總辦ニ任ゼラレ引續キ在職今日ニ至ル、明治四十二年出使大臣戴鴻慈ニ随ヒ露國ニ赴キ其際同國ヨリ三等勲章ヲ贈與セラル 
 其他 性質剛直、袁世凱一派ニ屬ス、彼レノ管理セル北洋軍醫學堂ニハ教習トシテ數年間我陸軍軍醫並ニ藥劑官數名ヲ傭聘セシコトアリ 

袁克定     (漢人)
    年齡三十餘  河南省項城縣人
 經歷 七八年前本邦ニ來遊シ一般狀況ヲ視察シタルコトアリ日露戰役後候補道ヲ以テ奉天總督衙門ニ出仕シ光緒三十三年三月農工商部右參議ニ任ゼラレ宣統二年秋同部右丞ニ進ム
 其他 袁世凱ノ長子ナリ


「清国に於ける日本人教師の現在及び将来」 (其一) 2 吉野作造 (1909.3)

2020年09月28日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

   之等の教習はどういふ方面に働いて居るか

 總數五百名の教習はどういふ種類の學校に働いて居るか。假りに大體の分類をすると次の如くになる。
 第一普通教育に從事する者約九十五名ある。之は小學校、中學校、幼稚園の如きを含む。近頃は、斯種の低度の教育は、最早外國教師の力を藉るに及ばぬ、自國人で十分に出來るといふ方針であるから、將來は漸次減ずるであらう。現に北淸地方には此種の教習は殆んど絶無である。滿洲には軍政署などの忠告の結果として此種の教習頗る多い。南淸の方にも少しはあるやうだ。
 第二師範教育に從事する者は約百二十五名あつて、之は一番多い。其分布も各省に至つて居る。之に依て見ても、淸國は教師の養成を閑却して居ない事が分る。近頃は普通の師範教育は、漸次自國人の手に回収する方針を取り、外國人には、高等の師範教育のみを托すといふ傾向になつて來て居る。
 第三陸軍教育に從事して居る者は約百人ある。併し此中には、陸軍小學堂とか、陸軍測繪學堂の如きをも含んで居る。陸軍小學堂は、設立當初の目的は日本の地方幼年学校の如きものにする積であつたけれども、實際は普通の小學教育に兵式體操の課業が多い位のが多いさうであるし、又測繪學堂は、寧ろ陸軍測量師の養成を目的として居るから、純粹の軍事教育に從事して居るのは、武昌、保定、天津に居る總計三四十名の將校だけだらうと思ふ。此方は、餘程成功して居る。度々の戰爭に勝つた結果、軍事は日本が進んで居るといふ考もあらうが、一つには、陸軍將校の淸國に雇はるゝ者は、參謀本部の許可を得るを要する、從つて參謀本部で十分に人選もし、監督もし、奬勵もし、淸國側に對しては、被雇者の有力なる後援として、絶えず陰に陽に庇護して居るから、立派な人物が眞面目に忠實に働いて居るといふ爲に、成績も擧らざるを得ないのである。淸國に働いて居る者の中、一番成功して居る者は此方面であると云はねばならぬ。海軍は未だ支那に出來て居ぬ。從て教師もない。
 第四實業教育に從事して居る者は約八十名ある。其内半數は工藝科にして、商科は僅に數名、他は農科である。工藝は南淸に多い。農科は北淸と滿洲が主である。尤も振はないのは實業教育であつて、之も満洲に例の忠告に基いて立つたのがあるのみだ。此實業教育は成功中々困難なやうだ。一體農工の如きは、學生自ら勞役して、實地に當つて見ねば分るものでない。然るに淸國では、學校に入る位の者であるから、多くは中流以上の子弟である。而して中流以上の者は、力役に從ふを恥として居る古來の風習がある故に、如何に教師が鍬を取れ水を汲めと命じても、斯かる事は苦力の屬すべき事に屬すとて、頑として奉せぬ。強て迫ればストライキか退學かである。段々迷夢も醒めて來る傾向はあるけれども、假令學校内では幸に力役に甘んじても、社會に出ると再び古來の習慣に制せらるゝから、到底此方面の發達は近々には六かしからうと思ふ。
 第五法政教育に從事する者約四十五名ある。今の處未だ十分盛なりとは云へぬ。けれども立憲云々と騒いで居る際なれば追々益増加する事であらう。加之淸國人士中には、一般の學問は日本に學ぶよりも直に本家の歐羅巴に行く方が近道だが法政だけは國情を同うする日本を手本とするが宜いと云ふ見解を持つて居るものが多い。故に、將來淸國教育界に獨人佛人などが多く這入り込む樣の時代があるとしても、法政方面のみは日本の獨占であらうと思ふ。故に法政の教習は、大勢に於て、將來益増加するであらうと思ふ。
 第六警察教育に從事して居る者約三十名居る。警察の方面も中々盛んにやつて居る。今後も益盛になることであらう。相當に成功もして居るやうだ。併し何分警察官の待遇も地位も低いから苦力の少し體裁のよい者位の外志望者がない。志望者は山の如くあるけれども、多くは乞食や勞働者になるよりも巡査になつた方が勝しだといふ連中であるから、警察官として十分の効果を擧ぐることは出來ない。支那の巡査の智識の程度は、日本の田舎の學校や役場の小使よりも遙に低い。目に一丁字のない者も無論少ない。予が甞て奉天に居た時警察分署の隣に家を持つて居たが、職務上の失態ある巡査に對する懲戒處分として、尻叩きの刑を課して居るのを屡目撃した。或る時如何なる失策あつたのかと聞くと、署長の命を奉じて本署に使に行つた巡査が、途中で道草を食て頓と用向を忘れて呆然歸つて來たのだといふ。大抵之で其程度が想像が出來る。併し日本人教習は熱心に此方面に盡力して居るから、段々よくなるだらう。
 第七醫學教育に從事して居る者約十五名ある。未開國を開發するには醫術を以て行くに限ると云ふ事は、能く人の言ふ所である。是れ眼前に効果が顯れて、成程文明の學術はエライと感服するからである。支那でも漢方醫ではダメだ、西洋流の醫術でなければならぬと云ふことは餘程分つて來た。けれども不思議な事に、何ういふものかイザ病氣となれば、矢ッ張一應は支那醫者の所へ持つて行く。之は餘程不思議である。宣教師などが數十年來醫學校などを建てゝ西洋醫術を古くから輸入して居るのだけれども、全體の割合より見れば、洋醫の勢力誠に微々たるものである。併し西洋醫術が遙に漢方醫よりも優れて居る事は知らぬではない。故に懐に餘裕のある人は、散々支那醫者のイヂクリ廻した揚句、已むなく日本若くは西洋の醫者を招ぐ。曾て張之洞が大學の近藤博士を聘したり、近くは端方が靑山博士を聘したりしたのも此理由で、又支那で開業して居る日本醫者も、全然失敗と云ふ程ではない。併し當り前なら、モット西洋醫術は進歩して流行して居るべき筈だのに、事實はさうでない。天津には直隷總督の建てた官立病院があつて、凡て日本人が經營して居る。患者は毎日何百人と來る。けれども之は診察料も藥價も取らないからだ。或人は支那人の洋醫を迎へぬのは餘り金を貪るからだといふ。之も一理ある併し之のみでは無い。例へば袁世凱の如き金に不足のない人が曾て、而かも常抱へに二人の日本人醫者を高い月給で雇つて置きながら、一寸した病氣は先づ支那醫者に見せ、其が持て餘した上で始めて日本醫者に見せる。予の居た法政學堂には、日本人の校醫を雇つて置くが、曾て淸人教師で而かも永く日本に留學して居つた人が、病氣になつた。予等は速に校醫の診を求むべく忠告したが、此人は矢ッ張り支那醫者を態々外から呼んで診て貰つた。袁世凱の作つた新軍隊にも、軍醫部が洋式のと漢方式のと全然別異の二部あつて、患者をして各部好む處に赴かしめて居る。斯んな風で、西洋醫術の長所は飽くまで知つて居るけれど、何分一應は毛嫌をする。故に淸國人にして西洋などに永年留學して醫術を學んだ者も可なりあるが、開業した處が御客がトント無い相だ。尤も醫を營業とするといふ習慣は支那には無い。醫術は苟くも人の子たるものゝ必ず知らざるべからざる所で親の病氣を人手にかけるといふは人倫の許さゞる所となつて居るから。苟くも文字ある者は必ず一ト通りは醫書にも目を曝して居る譯である。併し實際は矢張り今日一種の副業として營まれて居るのである。兎に角、西洋醫術は商賣にならぬ、殊に、支那醫者の持て餘した患者を已むなく洋式醫術に托するといふ場合には、支那人の洋式醫者よりも外國人の洋式醫者を信用するから、同じく營業としても、外國人の方は多少の客足を留める事も出來るけれども、支那人では全く望みがない。從て學校を建てゝも入學希望者がない。是れ今日醫學教育の大に振はざる所以である。僅に天津の軍醫学堂及二三各地の小規模の醫學校があるのみだ。之等の學校でも無月謝で只食はして只衣せて、其上に月々若干の小使錢を呉れて、卒業後の使ひ途までを立てゝやつて、辛うじて生徒の在學をつなぎつゝあるとの事である。去れば此方面は近き將來に於て。大なる發展は六かしからうと思ふ。
 第八日本語教授に從事して居る者約十名ある。主として南の方に多い。之は一時日本留學熱の盛なりし時、其餘備として日本語を教ふる目的で學校を建てた。其等の方面に働いて居る者である。近頃は留學熱も餘程下火になつたから、從つて之等の方面も少なくとも一時は減退するを免れまい。且つ又淸國に於ける日本語教育は、實際餘り成功して居ない。之は日本語教習には餘り月給を出さいから、然るべき人を聘することが出來なかつたのと、淸國に居ては學生が日本語に慣るゝ機會が乏しいからだらうと思ふ。(未完)


「清国に於ける日本人教師の現在及び将来」 (其一) 1 吉野作造 (1909.3)

2020年09月27日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 下の文は、明治四十二年三月一日発行の 『新人』 第拾巻 第参号 の ◎想苑 に掲載されたものである。 

淸國に於ける日本人教師の現在及び將來(其一)
               吉野作造

 予は、去る三十九年一月、時の直隷總督袁世凱氏の招聘に應じ、其長子袁克定氏の家庭教師として天津に赴任し、四十年九月に至り、更に其囑托により、天津なる北洋法政専門学堂の教習を兼ね、本年一月無事東京に歸つた。滿三ヶ年の歳月は主として天津の地で暮した。外に出たのは、北京に數次往來したのと、三十九年中袁克定氏が奉天將軍府の營務處總辨に赴任したのに隨行して、三ヶ月を其處に過ごしたのみに止る。故に予の見聞の範圍は至て狹い。其狹い範圍内の見聞を基礎として全體を論ずるのは、稍失當かも知れぬ。併し予自身に於ては、出來る丈け手を盡して他地方の事情をも廣く聞き質した積りではあるが。ソレでも判斷に誤がないとも限らぬ。畢竟見聞が狹い故と、御諒察を願ひたい。

   淸國に雇はれて行って居る日本人は一體どの位居るか

 獨り教師と云はず、顧問、技師其他種々の名目の下に、淸國官憲の雇傭に應じて彼地に働いて居る者は、淸國全體を通じてどの位居るだらうか、精密なる事は分らないが、或る確實なる筋の調査に依れば、約六百人との事である。少しは脱漏もある事と見て、大目に見積つても七百人とは出でまいと思ふ。勿論此中には、家庭教師の如き私人の雇傭に係る者は加へてない。扨て其の六百人の被聘者を、其職業の種類によりて分類すると大體次の如くになる。    
  (一)教師         約五百名
  (二)税關官吏       約五十名
  (三)技師         約七十五名
   (イ)醫務衞生ニ關スル者 約二十名
   (ロ)土木建築ニ關スル者 約三十名
   (ハ)農工業ニ關スル者  約二十五名
  (四)顧問         約二十名
 右の中顧問技師と稱する者は、名は顧問でも實際は教師を兼任せしめられ否教師の方が實際上の本職の如き觀があるから、之等の者は重復して教師の中にも加へておいた。故に約五十人程は兩方に二重に計上されて居る。今以上の者の個々つき、更に詳細の説明を附して見ると、先づ顧問と云ふのは、軍事、警察、教育等の事につき、學識經歷共に兼ね備つた人物を雇ふて、必要のある塲合に諮詢するのである。全體に於て二十名位と思ふが、主として天津、武昌及び滿州の地方に居る。北京には居ない。之は北淸事變後、淸國は各國より庶政改革の顧問として各自國人を雇つて呉れとのうるさい要求に遇て大に困つた揚句、弊國では弊習の外は中央政府に外國人を入れませぬと誓つたさうだ。ソコデ北京には、先達歸られた服部博士や巖谷岡田小河志田の諸博士を始め、多數の邦人教師が居るけれども、顧問と稱すべきものは一人もない。顧問と名のつく者は、地方に限る事になつて居る。天津では、例の袁世凱の、北淸事件後改革に意を注ぎ、多數の有力なる人士を顧問として雇入れた。今の興業銀行副總裁佃一豫氏の如きも、三十九年夏まで財政顧問として天津に居つた。其他軍事、警察、教育、工藝、衞生の方面に、各一兩名の顧問を入れ、今猶新總督の下に殘つて居る人も少くない。併し實際は、顧問としての仕事は極めて少いので、多くは夫々の關係の學校があつて其學校の經營を兼務として托されて居ると云ふ名目の許に、實は教師が本職となつて居る。武昌には、曾て張之洞が軍事などの方面に、邦人を顧問としたのか、今も殘つて居るのである。猶其外にも居るが、重なるは此二地に限るである。滿州にも顧問が各地に多いが、之は少し事情が違ふ樣である。滿州では、日露戰爭後、各地に於ける日本軍政官が、誠實に淸國の爲を思ふて、其地々々の知縣や、知府やに衞生とか警察とか教育とかの改良を忠告した。淸國官吏は、必しも之を成程と思はなかつたらうし、又成程と思つても敢て進んで實行しやうなどの考はなかつたらうが、何分一方は戰勝の餘威を挿んで居るので、一も二もなく唯々諾々、然らば宜しく御指導を仰ぐと返事したものらしい。ソコデ軍政官は軍醫看護長などを衞生顧問に入れたり、憲兵を警察顧問に入れたりした。忌憚なく云へば、多少押賣の氣味もあつたらしい。斯ういふ譯で、滿州の顧問は、雇ふ者も下級官であり、雇はるゝ者も必しも學識經歷共に高き紳士ではないのが多いから、少數の例外(奉天將軍の下の顧問の如き)を除いては、他地方顧問とは大に趣を異にして居る。從つて淸國側から信用を得つて居る程度も、大部違ふだらうと思ふ。又從て、其地位も安全なるものとは云はれまい。次に技師だ。此中醫務衞生に關する者は、主として、滿州に多い。之は前述顧問とは略ほ同樣の成り立ちである。土木建築に關する者は、大多數は張之洞の雇ひたる原口博士部下の鐵道技師及技手で占めて居る。殆んど全部が之れだと云つてもよい。農工業に關する者は廣く全國に亘つて居る。第三に税關官吏だ。淸國の税關は、御承知の通り、英人ロバート、ハートの統率の下に、廣く世界各國人を以て組織されて居る。名義は淸國の官吏なれども、任免陟黜の權は悉く英人の手に握つて居るから、他の淸國被雇者と大に趣を異にして居る。一般招聘者は、淸國人心の賴むべからざる如く、其地位も不安である。如何に信用を得て居る積りでも何時罷めらるゝかも分らぬ。況んや、自分の雇主たる淸國官吏自身が、既に交迭頻繁なるに於てをやだ。然るに税關の方は、ソンな無暗矢鱈な處置はせぬ。否實際は寛大驚くべきものがある。大抵の失策は大目に見て呉れる。自國の官吏たるよりも氣丈夫だ。仕事が樂で、コセゝせず、棒給も多く呉れる、罷められる恐がない。之程割のよい職業はない。氣樂といふ點から云へば、世界第一だらう。目下務めて居る人々は、何れも相當の信用を得て居るといふ事である。終りに教師である。之は廣く各地に分布して、一所に固まつて居ぬ。一番多く居るのは北京と天津である。共に五六十名居る。北京は服部博士の歸朝と共に、一事に十名内外の減少を見たから、今では天津が一番かも知れぬ。之に次では、武昌、保定、廣東、奉天の約四〇名、南京、成都の約三十名等である。此外十名以上居る處を擧ぐれば營口、蘇州、濟南、太原、杭州、福州、長州等の順序である。先に言ひ落したから一寸茲處で斷つておくが、淸國では、何故顧問として雇つた人に、教師の事務を取らせるかと云ふに、之には大に理由がある。第一に顧問といふ名義が頗る淸國に於て受けが惡るい。自國の事を外國人に諮りて取りまかなうといふ事は、如何にも淸國特有の自尊心を傷くる事だ。從つて近頃は顧問といふ名義で外人を雇ふといふ事は絶對的に無くなつた。假令實際の職務が顧問とした所が、契約書面には、教師とか、翻譯官とかと書く。要するに、顧問といふ名義が、一體淸國人士間に喜ばれぬところから、當局者も、實は顧問ではない教師として使つておくのだと云ひ得るやうに、學校へ祭り込むのである。第二に折角顧問を雇つても、雇主に顧問に相談する丈の準備が無い。準備といふのは物質上の準備では無い、精神上の準備の意味である。警察の顧問を置いても、御自分が警察の事をサパリ分らんでは、相談のしやうがあるまい。且つ淸國の官吏は、客と接して馬鹿に體面を裝ふから、謙りて顧問に諮るといふ事は中々出來にくい。去れはとて全く用務なくても困るから學校に祭り込むのである。此點に於ては流石に袁世凱はエラかつた。彼は別に日新の智識あるに非ずして、而かも先づ遺憾なく邦人顧問を使つて仕事を成さしめた。邦人顧問諸氏も袁世凱ばかりは馬鹿にしなかつたやうだ。第三に當の雇主は、十分に顧問を使ふ積りでも、部下の者其人を得ざる爲め、遂に顧問をして其本務を盡さしめずに終ると云ふ事もある。例へば總督が工藝顧問を雇ふと云ふ塲合に、大體の事は總督と顧問と相談するも、細目の事は工藝局と云ふ一官衙を設け、其局長をして行はしめる。故に實際の施設について、顧問の直接交渉する者は局長である。故に局長に其人を得ざれば、(其人を得ざることが通例である)、折角の顧問も爲すなくして終らねばならぬ。第四には淸國の官吏が外國の人を顧問に雇ふは、必しも全然自國文物の開發を謀る爲めではない。勿論雇つた目的の半分以上は、此人に相談して自國の開發を謀らうといふに在るが、其外、中央政府幷に外部に對する虚飾といふ意味もある。又財政の都合や何かの爲めに、意の如く實行する事の出來ぬ事もあらう。然るを外國人顧問は、這般の消息を察せず、單に一片の誠意よりして、自分の意見をドシゝ献策する。又淸國官吏の施設を遠慮なく批評する。然るに淸國人は、面と向つては當方の主張に決して反對せぬ、誠に愛想のよき人種で、何を云つても嫌と云はぬ抔なる丈け、遠慮なき獻策批評の續發に對しては、結局之を避くるといふ事になる。ソコデ、折角顧問として雇つては見たけれども、當方の懐合や其他の都合をも顧みず、色々の事を申出で來て、斷るにも工合が惡るいからとて、遂に顧問に面接する事を避くるに至る。ソレデ獨りで、無い智慧を絞りて色々の事を企て々居るが、之が顧問の目にとまりては、又批評さるヽが面倒だと云ふので、今度は何事も秘密にして、例へば警察の事に關して、當の警察の顧問に極く秘密にするといふ事になる。サテ斯うなると、顧問は全く用がなくなる。此場合に、西洋人であると平気で寝て居て月給を貰つて居るが、どう云ふものか日本人であると氣が短くて、黙つて居ぬ。尤も永く淸國に居る人は、可なり横着にもなつて居るが、來立ての人は、自分は淸國の用をする爲めに來たのだ、只居て月給を貰つては相濟まぬ、是非何かさして呉れ、何も仕事が無いなら解雇して呉れ、などゝ迫る。ソコデ淸國官憲は、仕方がないからとて、學校へ祭り込むと云ふのである。少し話が極端になつたけれども、先づ大體こんな風である。序に云つておくが、中には何も仕事をせずに居れば、結局罷めらるゝといふ不幸な目に遇ふだらうとの懸念から、仕事を與へて呉れゝと要求する人もあるだらうが、ツマリは其理窟にはなるのだが、併し淸國では、一方に非常に金錢に鋭敏な代りに、他方に於ては、高い月給をやつて人を只寝かして置くことを、不經濟とふ程、コセゝしては居ぬ。一體に支那では、役人といふ者は、其地位に屬するソレゝの俸給を貰ふ特權を有するといふ考が主で、仕事を爲なければ金が貰へないといふ考は少い。(此考も漸次變りつゝあるが)。昔の封建時代に、仙臺の人間が薩摩守になつたり、東京の人間が出羽守になつたりして、徒に俸祿を貪つて居たといふやうな例は今も淸國で目撃する事の出來る事實である。仕事がなくて只居て月給を貰ふとて、何も心配は入らぬ話である。ソレニ、例へば雇主が袁世凱とかいふやうな大官であれば彼等は仲々體面を重んじ、一旦雇つた外國人を、用がないからとて輕々しく解雇するといふが如き事は、マアしない。之は該外國人に對する徳義より來るのではなくて、自分の虚榮の爲めであると聞いては餘り有り難くは無いけれども、兎も角も地位の不安は、斯かる雇主の下に於ては憂ふる事はないと思ふ。
 猶終りに前記六百人の本邦招聘者の地理的分布を述べて見やう。一番多いのは矢張り直隷で二百人に近い。大部分は北京、天津、保定に居るのである。次は盛京の百人で、江蘇の六十人、四川湖北、廣東の四十人、湖南の二十人、浙江、山東の十五人、福建、山西、陝西、雲南の十人、之に次ぎ、江西、貴州、吉林、安徽、河南、甘肅、新疆、蒙古にも兩三名行つて居る。全體の中、婦人は三十名位ある見込たが、之は男子招聘者の妻君にして同時に女學校などに雇はれてるのもあるだらうが、大部分は單身の人である。一番多いのは直隷の十人で、盛京、四川の五人、廣東、江蘇の三人、湖南、湖北の二人、之に次ぎ、雲南、浙江にも一人居るとの事である。猶此外、家庭教師として官憲側以外の應聘者をも加へたならば、男女とも猶ニ三十名はあるだらうが、其中家庭教師としては矢張り婦人が多いから、實際婦人の淸國教育事業に關係して居るのは、五十名もあらうかと察せらる。
 全體で六百名ばかり雇はれてあることは前述の通りであるが之等の人は、僻遠の地方に居るものは單獨で往つてゐるけれども、交通の便利な沿岸程遠からぬ處に働いて居る者は、多くは家族を引き連れて往つて居るから、其家族をも合せて計算するときは、數千人に上る事であらうと思ふ。
 終りに之等の人々の得る俸給はどの位であるか。之も或る確實なる材料により精密なる計算をして見たが、概算年額百六十萬元(元は約一圓に當ると見て差支なし)にて、一人平均月額二百二十元である。之は餘程内輪に見積つての計算だから、或は實際も少し多いかも分らぬ
 以上教師に關係なき者の事まで詳細に述べ過ぎた。之からは本文に入つて教師に關する事を説かう。


「湖北陸軍兵卒ノ体格ニ就テ」陸軍一等軍医 大江與四郎(1910.12)

2020年09月24日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

     

◎湖北陸軍兵卒ノ體格ニ就テ  

       陸軍一等軍醫 大江與四郎

 明治四十二年九月湖北省武昌陸軍特別小學堂ニ於ケル仁字齋ノ學生二百餘名畢業セリ  學生ハ最初五百名以上アリシカ中途陸軍經理班或ハ海軍班等ニ轉シ又疾病其他ノ事故ニ依リ漸次減少ス  之カ補闕トシテ第八鎭及混成協第二十一協ノ諸隊ヨリ兵卒約一千名ヲ該學堂ニ集メ身體檢査ヲ施行スル機會ニ逢ヒタルヲ以テ茲ニ其ノ概況ヲ報告スヘシ
 檢査日數ハ八日間ニ跨リ此間同學堂附屬軍醫班ノ學生ヲシテ交互ニ實地練習ヲ爲サシム今分擔事項及檢査員ヲ擧クレハ左ノ如シ

  身長及體重測定             元陸軍一等看護長 太地周三郎
  視力及關節運動檢査           醫學得業士    中村重臣
  言語、精神及一般構造檢査          醫學士      杉寛一郎
  耳、鼻、口、咽頭腔其他各部檢査及等位判定  陸軍一等軍醫   大江與四郎

 然ルニ適々軍機大臣張之洞薨去ノ事起リ且省内財政窮乏ノ爲時ノ總督陳夔龍ハ此補充員ノ新入ヲ中止セシムルニ臻レリ是ニ於テ彼等被檢者ハ唯偶然吾人ニ好資料ヲ供給シタルニ止マリ空シク潜龍ノ雲霓ヲ逸シタル感アリシナラン
 檢査總員一千零五十九名ニシテ其ノ等位別左ノ如シ

  甲種    四百八十四名(一〇〇人中四五・八〇ノ比例)
  第一乙種  三百五十六名(同    三三・六二)
  第二乙種  一百六十五名(同    一五・五二)
  丙種      五十四名(同     五・一〇)

 此ノ等位決定ハ概子 おおむね 我陸軍身体檢査手續格例ニ據ル前記ノ甲種合格者ハ一見多數ナルカ如キモ檢査ノ標準ヲ頗ル寛裕ニナシタルト嚮ニ入營時応募ノ群衆中ヨリ選擇サレ更ニ體格及學力ノ優秀ナル者ヲ學生候補トシテ推薦サレタルニ由ル丙種中ニハ丁種該當者ヲモ含ミ多クハ歇兒尼亜、眼病、痔瘻及心臓瓣膜病ニシテ採用當時檢査ノ太タ杜撰ナルヲ察セシム
 全員ノ體格ニ就キ一人ノ平均ヲ計上スルトキハ左ノ如シ

  年齡    身長    體重    胸圍    呼吸縮張ノ差
  二〇歳・七 五尺・四四 一四貫・三五六 二尺・六一 〇尺・一八

 年齢ハ区区一樣ナラス最低十七歳最高二十七歳ナリ然レトモ未タ國ニ戸籍法ノ制定ナキヲ以テ其ノ實否ヲ確メ難キト同時ニ出生地亦湖北省以外ノ者幾何アリヤ知ルヘカラス孰レモ本人ノ言ニ憑ルノミ葢シ自己ノ年齡ヲ實実以上ニ告クル者ハ殆ト之ナキカ如キモ之ニ反對スル場合ハ決シテ稀ナラス甚シキハ一目四十歳前後ト認メラルル者ニシテ我是二十何歳了ト答ヘ恬然タル者往々之アルハ意表トスル所ナリ故ニ平均年齡ノ真相ハ上掲ヨリ二、三歳高位ニ居ルモノト思ハサルヘカラス
 左ニ檢査成績ヲ各隊ニ分チテ表示セン 

   〔上の写真:左から2枚目参照〕
  
 現時ハ傭兵制度ナルヲ以テ各兵種身長ニ定限ナク隨テ兵種選定要旨等基準トスヘキモノ備ハラス而シテ前表身長欄ニ於テ明瞭ナルカ如ク歩兵ニシテ砲兵ト同等以上ノ高位ヲ現ハスモノアリ一般ニ平均身長ハ五尺四寸ヲ下ラス故ニ材幹頗ル偉大ノ觀念ヲ起サシムト雖体重之ニ伴ハス胸圍狹小ニシテ下肢ノ發育偏勝スル者多クシュミットノ所謂繊長體格ニ屬スル輩大部分ヲ占ム
 叙上ノ一人平均體格ヲ假ニ北淸通州ニ於ケル民間ノ男子一百名ニ對比スレハ左ノ如シ 第五師團衛生部員調査北淸事情大全引用

  名稱 區別 年齡   身長     體重     胸圍 吸呼縮張ノ差

 通州人   三一歳・五 五尺・五二  一六貫・四三〇 二尺・七九 〇尺・三
 湖北兵卒  二〇 ・七 五 ・四四  一四 ・三五六 二 ・六一 〇 ・二

 前表ニ就テ體重其ノ他ニ大ナル懸隔アルヲ觀ル畢竟筋骨ノ發育奈何ハ年齡ニ應シ體重ハ生活狀態ニ關係アルコト論ヲ要セス而シテ湖北兵卒ハノ傭ハルル者多ク殆ト苦力的階級者ニシテ其ノ一人ノ所得ハ月額我四圓ニ滿タス此内食費ニ充ツルハ約三分ノ一ノミニシテ一定ノ兵業ニ從事セサルヘカラス斯ル粗食ニ加フルニ過激ノ勞役ニ服スル者奚ソ能ク自由生計ヲ營メル地方人ノ體力ニ拮抗スルヲ得ンヤ是レ湖北ニ於ケル民間勞働者ニ徴スルモ兵卒ノ榮養程度一見下位ニ在ルコト晰ナレハナリ
 次ニ天津ノ土民ニシテ二十歳ヨリ三十歳マテノ男子ニ就イテ調査セラレタル身長及體重ニ比較スレハ左ノ如シ 北淸事情大全引用

 名稱    區別 身長     體重
 天津人
  上等社會   五尺・三五   一五貫・四九〇
  中等社會   五 ・二八   一四 ・三五〇
  下等社會   五 ・四五   一七 ・〇四五
 湖北兵卒    五 ・四四   一四 ・三五六

 是ニ由テ湖北兵卒ノ身長ハ天津下層民ト一致スト雖體重ニ至テハ中層民タル短小ノ者ニ相均シ
 我邦人殊ニ陸軍兵員ノ體力ニ比スヘク材料ノ蒐集ヲ企テタルモ統計年報スラ求メ得ス是ニ於テ本年三月陸軍一等軍醫橋本監次郎ノ研究事項 軍醫團雑誌第十二號 ヲ參看スルコトトセリ該作業ハ昨年度徴兵檢査成績中十箇師管ノ壮丁ニ就テ其ノ平均標準ヲ闡明シタルモノニシテ湖北兵卒ノ事實ト相對セハ左ノ如シ

  〔上の写真:左から3、4枚目参照〕 

 上表ニ在テモ湖北兵卒ノ體重ハ著ク劣レルヲ見ル然レトモ仝軍醫ノ平均體重以下ト稱スル第三師管ノ壯丁トハ距離遠カラス表中括弧内ノ數字即チ是ナリ而シテ身長體重ノ關係カ恰モ仝官ノ下セル綜合的觀察ニ符合スルモノアルハ奇ナリトス今身長五尺一寸ヨリ五尺六寸九分マテヲ通覽スルニ身長一寸ヲ加フル毎ニ體重約五百匁宛ヲ增ス事實ハ湖北兵卒ニ於テモ之ヲ見ルヲ得ヘシ
 更ニ進テ疾病變常ニ關スル説明ニ及ハムトス之ニ先チ徴兵病類報告ノ順序ニ則リ體質調査表トシテ其ノ種別竝員數ヲ左ニ列記スヘシ 

  湖北陸軍兵卒體質調査表

  〔上の写真:左から4,5枚目参照〕

  此調査ノ目的ハ疾病變常ノ比較論評ニアルヲ以テ一人ニシテ二種類以上ヲ併有スル場合ハ夫々重複シテ編入セリ故ニ等位別ト種別トノ自ラ適應セサル例證アルヘク又其ノ總數ハ被檢者ノ總數ト同シカラサルナリ
 (子)眼病中「トラホーム」患者ハ三一・二二%ニシテ頗ル著明ノモノ多シ抑モ平常ノ所見ヨリ案スルトキハ其ノ比率過小ナル觀アリ葢シ一般兵卒間ニハ尚遙ニ多クシテ殆ト此二倍以上ヲ占ムヘク從來我邦ノ軍隊ニ目撃シタル比ニアラス是レ湖北軍隊ニハ未タ月例身體檢査ノ制ナク隨テ早期治療ノ施サレサルト各種豫防法ノ到底行ハレ難キトハ愈其ノ傳播ヲ助長セシムルナラン
  此外辨色力不全者三名(〇・二八%)アリ何レモ紅綠色盲トス
 (丑)花柳病患者ハ希少ナリ(二・七四%)衞生ノ道ニ闇ク且賭博ヲ嗜メル彼等ハ益々本病ノ蔓延ヲ逞ウセサルヘカラサルカ如キモ幸ニ古來ノ道義未タ全ク地ニ墜チス加フルニ其ノ多クハ衣食ノ資ニ窮シ女色ヲ漁ルノ餘地ナキ爲ニシテ又兵卒中妻帶者ノ寡カラサルコトモ其ノ一因ナルヘシ尚試ニ精系靜脈怒張症(〇・六六%)及包莖(二・四六%)等ノ乏シキニ稽フルモ此間ノ消息ヲ推スニ興味ナシトセス
 (寅)肘腺腫脹(一四・一五%)ハ黴毒ノ徴候ヲ闕クニ拘ラス之ヲ證明シ得ル者稀ナラサルハ大ニ注意ヲ惹起セシム而シテ兩側ナルアリ偏側ナルアリ一定セス普通豌豆大ナリト雖又蠶豆大ニ達スル者尠カラス其ノ由来スル所明白ナラサルモ常ニ澡浴ヲ好マサル慣習ハ皮膚面汚垢ヲ帶ヒ隨テ外被病ニ侵サレ易ク么微有機體等是ヨリ腺内ニ輸送セラルル爲ナラン殊ニ軍人ニ在テモ爪端ヲ長クシ不潔物ヲ留ムルコト甚シキモノアリ將來ノ研究ニ俟ツヘキ問題トス
 (卯)痔核竝痔瘻(一二・九二%)ハ亦決シテ疎ナリト云フヘカラス而シテ痔瘻ハ弱度ノ者ハ第二乙種ニ強度ノ者ハ丙種ニ定ム其ノ種類ハ單純膿性ノ者殆ト無ク原發結核性ノ者多シ元來陰部、肛門ノ檢査ニ就テハ被檢者ノ拒ムコトアルノミナラス檢者タル醫生ニ在テモ往往等閑視スル傾キアリ故ニ又鼠蹊歇兒尼亞ノ如キモ容易ニ看過セラル職ニ斯道ノ啓發ヲ以テ任セラルル者一笑ニ附シ去ル能ハサル所ナリ
 (辰)顔面ニ痘瘡ノ瘢痕ヲ印スル者三・一二%ヲ算ス是レ自然的防禦法トシテ幼時唯一回人痘ヲ接種スル恒例アルニ過キスシテ種痘法ハ一般ニ行ハレサルカ爲ナリ
 (巳)齒牙ノ疾病闕損アル者我軍隊ニ於ケルヨリ迥ニ稀ナルカ如キモ尚且一〇・七六%ヲ有ス彼等ハ槪子盥漱ノ要ヲ知ラサルニ反シ齒牙ノ完備スル者多キハ日常飲食物ノ感作主ニ然ラシムル所ニシテ一種ノ美點ト稱スヘキカ如シ 
 (午)難聽者ハ僅ニ一名ヲ發見シタルノミ勿論外耳炎耵聹蓄積等ヲ見タル場合ハ頻回ナリシモ未タ聽能障碍ヲ訴フルニ抵ラス但シ悉ク精密ニ鼓膜檢査ヲ實施スルニ於テハ或ハ諸種ノ變化ヲ認メタルヤ知ルヘカラス要スルニ聽能ハ徴兵檢査ニ於テ視力檢査以上ニ注意ヲ拂ヒタル故ナラン
 (未)文身アル者ハ一名タモ目ニ觸レス被檢者ノ大多數ハ下級民ナリト雖我邦ノ勞働者流ト根源ヨリ風俗及性格ヲ異ニシ俠兒ノ容姿ヲ衒ハス又爭論ヲ挑ムカ如キ醉餘ノ狂態ヲ見サル等所謂身體髪膚ヲ自ラ傷ハサル規箴ニ胚胎スルモノナルヘシ之ヲ花柳病患者ノ員數ト對照スルモ思半ニ過クルモノアラン 
  概括
  一、本檢査ハ各隊ヨリ集レル多数ノ代表者ニ就テ行ハレタリ故ニ其ノ結果ハ直ニ湖北陸軍兵員ノ体格ト認メテ大差ナキヲ信ス
  二、湖北省新式陸軍兵卒ノ體格ハ普通繊長系ニ屬シ其ノ身長一人平均五尺四寸四分ニシテ體重十四貫三百五十六匁ナリ
  三、此體力ヲ假ニ北淸ノ住民ニ比較スルトキハ通州人ノ一人平均身長五尺五寸二分體重十六貫四百三十匁ヨリ迥ニ劣リ又天津ノ下層人五尺四寸五分、十七貫零四十五匁ニ徴スルモ大ニ劣レリ
  四、凡テ拘束ヲ享ケサル境遇ニ在ル者ト定マレル典型ノ下ニ粗食以テ勞役ニ服スル者トハ其ノ逕庭同日ノ論ニアラス是レ湖北地方人ノ體格ニ照スモ歷然タル所ナリ
  五、明治四十二年度徴兵檢査ニ於ケル我十個師管壯丁ノ平均成績ニ対応セシムルニ五尺乃至五尺六寸九分ノ間ハ我身長相當ノ標準體重ニ對シ各寸共ニ三百匁ヨリ八百匁餘少キヲ見ル但シ第三師管ノ壯丁ニ比スレハ伯仲ノ間ニ在リ
  六、檢査當日ハ何レノ兵卒モ服装ヲ整ヘ我邦陸軍ノ第二装用ト看做スヘキ軍服ヲ着襦袢袴下ニ至ル迄洗濯ヲ新ニセルモノヲ用ユ又身體ノ淸潔ニ注意シ苟モ汚垢ヲ留メス且肛門ノ不浄ナル者スラナシ一言以テ盡サハ齋戒沐浴シテ美衣ヲ纏ヒ吾人檢査員ニ對シ克ク敬意ヲ致シタルモノト認メラル勿論夫々内訓スル所アリシハ想像ニ難カラサルモ漏ナク之ヲ實現セシハ大ニ多トスル所ナリ
  七、檢査第七日第八鎮統制臨場シ親シク其ノ實況ヲ視ル此際小官ノ説明ニ耳ヲ傾ケタリシカ其ノ後復ヒ身體檢査ノ事ヲ依囑セス軍醫班ノ學生ヲシテ施行セシムル所以ハ彼躬ラ兵卒ノ體格ヲ顧テ忸怩タル感ヲ抱ケル爲ナランカ

 上の文は、明治四十三年十二月二十五日発行の 『軍医団雑誌』 第二十号 陸軍軍医団 の 叢報 に掲載されたものである。  


「北洋軍医学堂及北洋軍隊衛生に関する報告 (明治四十一年四月) 」 2 平賀精次郎 (1908.6)

2020年09月20日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

    

    乙 天津官醫院

(一)來歷 本院ハ明治三十七年五月袁世凱ニ説キテ軍醫学堂學生實習用トシテ創立シタルモノニシテ天津河北舊水師營ノ敷地(學堂ヲ距ル約十町)ニ在リ開院當時ハ職員トシテ淸國醫官(英國流ノ醫學ヲ修メタル者ニシテ學術才能極メテ幼稚ナリ)一名監督トナリ日本ヨリ看病人教官一名及磨工一名ヲ傭入レ爾来一般人民及淸國軍人ノ患者ヲ施療シ軍醫學堂教習交々當院ニ來リテ其學生ニ臨床講義ヲ授クル處ト爲セシニ患者日ヲ逐フテ増加シ今ヤ臨床講義ノ材料極メテ豊富トナルニ至レリ又三十九年八月日本留學生傳汝勤從前ノ醫官ニ代リテ監督ニ任ゼラルヽヤ院内ノ諸事全ク日本的ニ化シ小官等ノ教授上大ニ便宜ヲ得ルニ至レリ
 四十年一月學堂ハ陸軍ニ屬セシモ本院ハ依然直隷總督ノ管轄ニ屬シ學堂ト醫院トハ全ク配屬ノ關係ヲ異ニシ且本院ハ規模小ニシテ多數ノ患者ヲ収容シ難ク又學堂ヲ距ルコト遠クシテ學生ノ通學ニ無益ノ時間ヲ費スノ憾アルニヨリ今回陸軍部ニ向テ學堂ノ隣地ニ附属ノ大病院ヲ建築セラレンコトヲ稟議シアルヲ以テ其設立ヲ見ルノ曉ニハ本院ハ自然學堂ト分離スルニ至ラン
(二)職員 監督傳汝勤ハ日本熊本醫學校ノ出身ニシテ卒業後東京醫科大學ニ遊ビ三十九年八月歸來セシ者ナリ日本醫育ノ現況及日本人ノ性質ニ精通シ小官等ノ事業上最モ便宜ヲ與ヘツヽアリ
 其他職員ニハ醫官二名(共ニ軍醫學堂第一回卒業生)磨工兼藥局取締一名(看病人教官トシテ傭入レタル日本人一名ハ三十九年中故アリテ解雇シタリ)會計文案各一名看護長一名、看病人九名、調劑手二名、同見習四名、磨工見習三名アリ磨工ノ外ハ皆淸國人トス看護長、看病人、調劑手等ハ皆本院ニ於テ養成シタルモノニシテ中ニハ既ニ三ヶ年以上其事務ニ服シ其術ニ通曉スルモノアリ看病人ノ教習ハ醫官ヲ以テ之ニ充ツ
 軍醫學堂各教習ハ毎日午前中約二時間當院ニ來リ外科、内科、眼科、外科治療等ヲ分擔シ學生ニ對シ臨床講義ヲ授クルノ傍ラ患者ノ診療ヲナス目下ノ分擔ハ小官ハ外科、我妻軍醫ハ内科、味岡軍醫ハ外科治療トス高橋教習ハ眼科ヲ分擔シ宮川藥劑官ハ時々來リテ藥局ヲ監督ス    
(三)建物 本院ノ規模ハ我ガ陸軍ノ三等衞戌病院ニ比スベク洋式平屋ニシテ病室三棟、隔離室及管理室各一棟、手術室、看病人宿舎、倉庫、炊事場等アリ管理室ニハ各科ノ診察所兼外來臨床講義室、外科治療室、病理試驗室、研磨室等ヲ包含ス
 本院ノ設備ハ外來患者ヲ主トシ入院患者ハ副トス故ニ藥局ノ如キハ比較的大ナル設備アルモ病室ハ一二等ヲ通ジテ約三十名ヲ収容シ得ルニ過ギズ
(四)患者 入院患者ハ平均二十五名内外、外來患者ハ毎日少クモ六七十名、多キハ百數十名ニ達ス患者ノ種類ハ外科ニアリテハ皮膚病及花柳病首位ヲ占メ内科ニ在テハ榮養器病及ビ呼吸器病多ク眼科ニアリテハ「トラホーム」第一位ヲ占ム試ニ昨年中ノ毎日新舊患者ヲ合算スルニ實ニ二萬三千八百七十三名ニシテ内新來患者ハ七千五百九十七名ナリ末尾ニ其月別病類表ヲ掲ク、患者ノ種類ハ日本ノ地方病院ト大差ナキモ特ニ多數ナルハ結核(肺結核、骨、關節、淋巴腺結核)梅毒、皮膚病トス就中梅毒ノ如キハ發病後永ク自然ノ經過ニ放任シ病變極度ニ達シテ來院スルニ依リ學術研究上多大ノ興味ヲ喚起セシム淸國ノ風習皮膚ヲ不潔ナラシメテ意ニ介セザルニ依リ外被病ノ種類甚ダ多ク日本ニ於テ稀ニ遭遇スル處ノ鱗屑癬、苔癬等ノ如キモ當地ニ在テハ珍トスルニ足ラズ其他外科ニアリテハ高度ノ畸形、稀有ノ腫瘍、異常ノ外傷等手術及臨床講義ノ材料決シテ乏シカラズ又内科方面ニアリテハ總テノ病類ヲ網羅シ殊ニ各種ノ傳染病就中腸窒扶斯、痘瘡、麻疹、赤痢、麻拉利亜、實扶的里ハ四季幾ト絶ユルコトナク時ニハ虎列拉、猩紅熱等ノ流行ヲ來シ又癩病、脚気モ往々之ヲ見ル眼科ニ在テハ「トラホーム」續發症甚ダ多ク又白内障、膿漏眼等踵ヲ接シテ來ル又淸國固有ノ疾患トシテ注目スベキハ急性及慢性ノ莫爾比𣵀中毒トス只淸國ノ風習、婦女子ハ外國醫ノ診療ヲ忌ムコト甚シキカ爲婦人科的及産科的疾患ヲ學生ニ示スノ機會少キヲ遺憾トス 
 患者ノ治療費ハ其病症ノ種類、輕重、手術ノ難易ニ論ナク一人一日入門料トシテ十錢ヲ徴収スルニ過ギズ故ニ全ク施療ト稱スルモ可ナリ
(五)臨床講義 外來患者ノ臨床講義ハ毎日午前中約二時間各科ノ新來患者ニ就テ行フ毎週金曜日午後ハ手術日ト定メ概ネ大小數種ノ手術アリ小官臨床講義ノ後稍大ナル手術ハ自ラ執刀シ其他ノモノハ我妻軍醫、味岡軍醫等ヲシテ行ハシメ同日午後一時ヨリ一時間我妻軍醫ヲシテ内科臨床講義ヲ行ハシム又毎週土曜日午前ニハ眼科手術アリ高橋教習之ヲ行フ試ニ昨年中施シタル手術ニシテ全身麻醉ヲ用ヒタルモノヽミヲ揭クレバ次ノ如シ
 食道切開術(異物除去ノ目的)一回 巨舌症切除(兩側舌動脉結紮ヲ行フ)一回 
 下腿切斷          一回 膝關節切除           一回
 大腿骨成形術        一回 關節強直手術          一回
 腫瘍摘出(内乳癌三)    十九回 腐骨疽手術           七回
 尿道外切開術        一回 關節脱臼整復術         二回
 骨縫合           一回 乳嘴突起鑿開術         一回
 痔瘻手術          六回 痔核手術            三回
 淋巴腺摘出         九回 其他ノ手術         三十七回
 又昨年中實驗シタルモノニシテ稍珍奇ノ例症ト認ムベキモノ寫眞十葉ヲ添附ス(寫眞省略)
(六)經理 本院ノ經費ハ北洋大臣ヨリ支出スルモノニシテ治療用消耗品ノ豫算年額三千兩トシ日本ヨリ購入スルモノ其半ニ居ル
    丙 醫兵學堂
 明治三十九年中淸國機動演習ニ衞生隊ヲ參加セシムルノ議アルニ際シ擔架卒及衞生部下士養成ノ急務ナルヲ説キ之ヲ設立セシメタルモノニシテ保定府ニ在リ同年四月一等看護長篠原保熊ヲ傭聘シテ其教習トシ醫兵百十四名ヲ北洋各鎭ヨリ撰出シテ入學セシメ同年五月擔架卒ノ教育ヲ開始シ八月該教育結了、九月更ニ看護手ノ教育ヲ始メ之レト同時ニ一等軍醫小山田謙ヲ傭聘シテ教習トナシ同年十一月彰徳附近ノ機動演習ニ際シ該兵全部ヲ以テ衞生隊ヲ編成シ我軍醫學堂上級學生ヲ以テ其醫官ニ充テ演習ニ參加セシム四十年舊三月各醫兵看護學ヲ修了セシニヨリ更ニ看護長ノ教育ヲ開始シ同年舊五月末日全部卒業原鎭ニ復歸セシメ概ネ我學堂卒業軍醫ノ配下ニ屬シテ其勤務ニ服シツヽアリ
 醫兵學堂ハ創立ノ當時北洋大臣ノ管轄ニ屬シ軍醫學堂總辨徐華淸其總辨ヲ兼ネシガ昨年一月他ノ陸軍諸學校ト共ニ陸軍部ニ屬スルコトヽナレルト同時ニ北洋陸軍諸學堂督辨段祺瑞ノ管轄ニ歸シ在保定陸軍馬醫學堂監督湯富禮ヲ以テ之ヲ監督セシムルニ至レリ爾来該校ノ事復タ振ハズ第一回卒業生ヲ出セシ後新ニ學生ヲ入學セシムルノ運ニ至ラザリシガ本年三月ニ至リ突然篠原看護長ノ傭聘ヲ解クニ至レリ該校ノ將來ニ關スル陸軍部ノ意見ハ未タ之ヲ確ムルコト能ハザルモ恐クハ近キ將來ニ於テ全ク之ヲ廢シ衞生部下士以下ノ養成ハ他ノ方法ニヨリテ之ヲ行フナラン

 天津官醫院外來新患病類別表           〔上の写真参照〕
 自四十年三月至四十一年二月 一年間新患病類別表 〔上の写真参照〕