中支那ニ於ケル『敎育、思想、宗敎、宣傳、外國勢力』ニ關スル報告書
第五編 外國勢力
參謀本部
昭和十五年四月
第二章 支那に於ける天主教の現勢
第五節 上海徐家滙天主堂の出版事業
天主教の支那に於ける傳敎と竝行して、西歐の學術文化の傳入が夙に行はれ來ったことは、廣く知られてゐるところであって、利瑪竇、湯若望をはじめ幾多の先覺に負ふところ大である。又西歐學術文化の傳入のみならず、支那に對する科學的研究は、其の初期に於て單に傳敎に必要なる認識を得る目的の爲になされたものであったかも知れぬが、結果に於ては遙に偉大なる業績を殘してゐるものである。このことに關して別に專門的研究がなさるべきものであって、今茲に之に關聯して支那に於ける傳敎並に敎育事業に直接關係ある印刷出版事業に就て少しく述べて見ることゝする。
支那に於ける天主教々會の出版事業は殆んど上海徐家滙天主堂内に設けられたる印刷工場に於て行はれてゐるもので、其の他には河北献縣天主堂に於て出版されてゐる若干の圖書が見られる許りである。
徐家滙天主堂内土山灣印書館の圖書を該館の民國二十八年三月の圖書目録に據れば、單行書(但し片々たる小冊子も含む)七百九十一種九百六十册を數へる。其の分類別、册數、主なる圖書は別表に示す如くである。
天主教々會の全國的機關誌として定期刊行されてゐるものに、「聖敎雜誌」「聖心報」「聖體軍」の三種がある。
聖心報
本誌は、最も古く一八八七年の創刊にして、今日まで五十三年の歷史を有し、民國二十八年十二月まで第六百三十號に及んでゐる。毎號菊判三、四十頁(特刊記念號は百三十頁以上のものもある)であって、其の内容は論説、説敎、敎理、問答、世界各國及び支那に於ける傳敎事情及び統計竝に雜錄等で、其の發行部数は不明であるが、支那に於ける天主敎關係機關に頒布されてゐる模樣であるから相當多數に上るものと推定され、最も有力なる雜誌である。
聖敎雑誌
本誌は、民國元年潘秋麓司鐸によって創刊されたもので、已に二十七年の歷史を有し、民國二十七年八月までに第三百十號に及んでゐるが、翌九月より事變のため停刊の止むなきに至れることを報じ、未だ復刊するに至らない。毎號四六倍刊五十頁内外で、敎理、神哲學、中西學術文化竝に社會、經濟に關する討論と資料を掲げ、又世界各國及び支那の傳敎事業を報じてゐる。聖心報に比すれば稍々高級に屬し、研究發表と同時に天主敎文化の宣傳に資してゐるものである。
聖體軍
本誌は、民國二十四年の創刊で、四六判、五十頁内外の小册であるが、全國の天主敎會關係小學、中學、女子中學の生徒を以て組織された聖體軍(少年團)の機關誌で、聖體軍の指導、訓練に當り、また各地各機關に於ける活動狀況の消息を集載してゐる。
以上三誌の外、夫々各機關に於て刊行されてゐるものも相當多く、其の例を擧げると
慈音。滙學雑誌 徐滙中學發行
我們的敎育 滙師中學〃
文藻月刊 南京
主心月刊 澳門三巴仔聖若瑟大修院
新北辰 北京傳信書局
等である。
徐家滙天主堂の出版物の印刷は、總て同所内に設けられたる、從業員二千數百名(主として孤兒に學業、技能を修得せしめ養成したるものなり)を有する各種工場(木工部、金工部、製靴部、工藝部、印刷部、寫眞部に分かる)中の印刷部及び寫眞部に於て調製されるもので、印刷工場は活版、石版、鉛版、色刷等の設備整ひ、製品も極めて優良である。寫眞部は上海に於ける斯業の嚆矢と稱され、銅版、亜鉛版等可成り精密なる製品を供給してゐる。勿論該印刷工場に於ては天主教關係機關以外からの依頼には應じない樣である。
附 上海徐家滙天主堂内土山灣印書館出版圖書槪目表
上海徐家滙天主堂内土山灣印書館出版圖書槪目表
(民國二八年土山灣印書館圖書目録に據る)
第六章 社會事業槪況
中支那に於ける社会施設槪況省別一覧表
附、上海に於ける歐米人關係文化機関一覧表 〔下は、その徐家匯天主堂に関する部分〕
施設名稱 國別 所屬團體及主管者名 地址 槪況(存廢、經費、職員、収容人数)
事變前(民廿六) 現況 備註
江蘇省(上海)
天主堂 佛國天主堂 徐家滙 舊堂道光二七年建立 新堂光緒三二年建立 信徒の禮拜及び説教に使用 収容人員ー 二千五百 事變前に同じ
耶蘇會修院 同 同 耶蘇會修道士に對し、哲學、神學及各種文學を敎授 事變前に同じ
大修院 同 同 神學(四年)、哲學(二年)を敎授 同
小修院 同 同 神學敎授 同
徐家匯聖母院 同 同 院内に次の如き、各種の施設を有す 難民救濟工作に從事す
極亡會 聖母院 同 女子教育(刺繍育嬰等) 修道女(中外人)ー 百五十
献堂會 同 同 布教を主目的とし女子宗教々育を實施
聾啞學堂 同 同 聾啞者に對する敎育
幼稚園 同 同 幼兒保育
育嬰堂 同 同 孤児に對する生活技能の傳習 収容總數ー 一千三百
授産場 同 同 刺繍、造花、裁縫等手工業製品の製作、女工ー 約五百
善牧院 同 同 下層社會婦女落伍者の善導
聖衣院 同 同 女修會中の最高のもので嚴格なる修道を實施
土山灣(慈母堂) 同 同 教會外孤兒の工藝敎育(木工部寫眞部、印刷部等)
〔蔵書目録注〕
なお、本書には、見返しに下の二枚の付箋が貼られていた。
本篇は上海自然科學研究所に對し中支那に於ける外國勢力に關する調査を依囑し提出せしめたる作業なり
昭和十五年四月
調査擔當者 海野隆次
また、本書の裏の見返しの袋には、地図2枚〔縱108X横150cm、縱50X横76cm〕が入っており、本篇に下の説明がある。
又天主教現勢を知る上に極めて便利なるものとして、上海徐家滙天主堂編製の「中華天主敎々區全圖」及び「天主敎上海敎區圖」を參考資料として本編に添付することゝした。
昭和十四年五月
禮拜堂開堂一周年
回教公認問題決定 記念
東京イスラム教團
〔口絵写真〕
・禮拜堂全影、同上内部
・開堂式禮拜、開堂式祝賀會 右〔左?〕より、キブシー大臣、エジプト公使、フセイン王子、イブラヒム教長、サウド駐英公使、文相代理。
回教協會主催歡迎晩餐會
東京イスラム教團禮拜堂創建と
公認問題決定に就て
世界に三億數千萬教徒と、我國との間に緊密なる關係のあることは、今更論ずるまでも無いことであるが、こゝニ三年前までは、一部先覺有志者の外には、回教及回教徒の如何なるものであるかを識る者すら少く、實に寂廖たるものであつた、此の間にあつて故瀨下淸氏は、日本と回教徒との親善關係締結の重要且つ緊急なるを痛感され、回教禮拜堂を東京に建立して、在京回教徒に與へることを志し、同志を糾合して、昭和十二年八月代々木大山町に敷地を求め、同年十月十九日盛大なる起工式を擧行した。當日はイラン、アフガニスタン兩公使を始め頭山滿翁、川島義之陸軍、山本英輔海軍兩大將、小笠原長生子爵、瀨下淸氏、鈴木忠治氏、森矗昶氏等の諸名士列席して礎定の儀式を執行した。翌年四月末に工事は竣工したので、五月十二日教祖マホメットの誕生日を卜して祝賀式が擧行された。東京に初めて回教禮拜堂の建立されることゝなりたるを以て是が落成開堂式に、日本國内の教徒は勿論、〔中略〕神戸代表シヤングニー氏、同マスター氏、名古屋代表バイムハメデイ氏等二百餘名が出席することゝなつた。
開堂式の當日は日本政府を代表して文部政務次官内ケ崎作三郎氏文部大臣代理として臨席祝辭を述べたる外、小橋一太東京市長、頭山滿翁、小笠原長生子爵、松井岩根陸軍大將、山本英輔海軍大將、〔中略〕三菱銀行會長瀨下淸氏、〔中略〕等朝野の名士三百餘名の出席あり、頭山滿翁の開扉に式は開始せられ、教長イブラヒム翁の齊司にて禮拜を終り、續いて祝賀式となり文相市長の祝辞に次いで、〔中略〕當日の實況は卷頭に掲げたる寫眞の如く、又祝辭の重なるものはその全文を後に記載した。
尚入京者一同は開堂式の翌日より、關係各省を始め議事堂、大學、博物館、劇場、工場等文化施設及び特に陸軍の戦鬪演習並に海軍々艦の見學等をなし、五月二十三日の福井樓に於ける送別會を以つて祝賀會は一應終了を告げ一同は散會した。
同年六月二十四日代々木大山町の東京回教學校講堂に於いて東京イスラム教團結成協議會開催せられ、教徒三十二名の出席あり會則を審議決定し、左の如く役員が決せられた。
名誉顧問頭山滿先生、子爵小笠原長生閣下、瀨下淸先生、川島義之閣下、山本英輔閣下、南郷次郎閣下、鳥居龍蔵先生、顧問葛生能久氏、若林半氏、加藤久氏、足羽淸美氏。相談役鈴木剛氏、溥侊氏、ナヂムッテン・モヘド氏、團長アブドラシッド・イブラヒム氏、〔中略〕である。續いて七月二十四日同處に於いて、東京イスラム教團結成祝賀式を擧行す、イエーメン國宗教大臣キブシー閣下來賓として出席され、教團員各位が結束してイスラム教の發達の爲に努力せられんことを願ふとの希望的祝辭あり、團員よりイスラムを通して日本と回教諸國との握手を計るとの意を強調し各自團結を約して散會した。
〔中略〕
越えて昭和十四年一月帝國議會に政府より宗教團體法案が提出され、貴族院及衆議院を通過し、回教は之によりて佛教基督教と同じく事實上の公認が決定される事になつた。〔中略〕との言明を與へて茲に我が國に於ける回教取扱問題も明確にされ、而して此の宗教團體法は其後四月七日官報によつて公布され、茲に多年教徒の熱望して居た回教公認問題が解決されたのである。
以上の如く回教公認問題は決定されたので五月十二日の禮拜堂開堂一周年記念日を卜してこれが祝賀會を兼ね行ふ次第です。
祝辭 昭和十三年五月十二日 文部大臣 木戸幸一
祝辭 昭和十三年五月十二日 東京市長 小橋一太
祝辭 サウディ・アラビヤ國王陛下御名代 駐英公使 シエイフ・ハビイズ・ワハバ
祝辭 イエーメン國王陛下御名代 王子セイフ・ル・イスラーム・アル・フセイン
イスラーム教起源小史 アブドラシッド・イブラヒム 〔下は、その最後の部分。〕
イスラムの根本主張は、「神は唯一なり、ムハメットは神が人類に宗教を傳へる爲に送られた豫言者なり」である。之を認めた者はムスルマンである。聖ムハメットのアラビヤ人に傳へた宗教は之である。
イスラムが僅かの間に全世界に弘まつた事は疑の餘地もない。
イスラムはそれ自身が人道である。聖ムハメットのあらゆる豫言者の宗教は總てイスラムである。と言ひ得られる。イスラムは人類の自然性質であるコーランも斯く説いてゐる。
ムスルマンは口に依つても、又手に依つても他人を害せず、人にしてその口及び手に依りてムスルマンに害を加へざる者はムスルマンなり」と。
The
Japan Mission
OF THE
Methodist Episcopal Church 〔メソジスト監督教会〕
Edited by DAVID S. SPENCER
THE BOARD OF FOREIGN MISSIONS OF THE METHODIST EPISCOPAL CHURCH
150 FIFTH AVENUE, NEW YORK
Price, Ten Cents
写真〔その一部〕
・REV. ROBERT SAMUEL MACLAY 〔ロバート・サミュエル・マクレイ〕, D.D.
・MISSION DAY SCHOOL, FUKAGAWA , TOKYO
・DECREE AGAIBST CHRISTIANTY
・DR. GUIDO F. VERBECK 〔グイド・F・フルベッキ〕
・JOSEPH HARDY NEESIMA 〔新島襄〕, LL.D.
・UNION HYMN BOOK COMMITTEE
・MISS ELIZABETH RUSSELL 〔エリザベス・ラッセル〕 MISS JENNIE M. GHEER 〔ジーン・M・ギール〕
・KWASSUI JO GAKKO, OR GIRL❜ SEMINARY, NAGASAKI
・THE CHURCH AT NAGOYA BUILT IN 1889
・CHAPEL OF AOYAMA GAKUIN, TOKYO
・SOME OF THE STUDENTS OF AOYAMA JO GAKUIN, TOKYO
・THE FACULTY OF CHINZEI, NAGASAKI, IN 1908
・FIRST GENERAL CONFERENCE OF THE JAPAN METHODIST CHURCH, HELD IN MAY, 1907
・BISHOP YOITSU HONDA 〔本多庸一〕
・THE LATE PRINCE ITO 〔伊藤博文〕
本文
・COUNTRY AND PEOPLE
・MODERN CHIRISTIAN DEVELOPMENT
・PERIOD OF FIRST SOWING, 1859-1872
・PERIOD OF RAPID GROWTH, 1873-1889
・TWENTiETH CENTURY OUTLOOK
・THE METHODIST EPISCOPAL MISSION 〔下はその一部〕
In the work of the Woman❜s Foreign Missionary Society Miss Schoonmaker was first reinforced by Miss Olive Whiting, in September, 1876, and in November, 1879, by Miss Elizabeth Russel and Miss Jennie M. Gheer. Others came into the field before the organizing of the Conference, and of these there were still enrolled in the Mission forces in 1909 Miss Russell, Gheer, Mary S. Hampton, Matilda A Spencer, and Rebecca J. Watson.
The year 1879 has been called in our Mission “a year of disaster and growth.” The membership almost doubled, self-support guardrupled, and new churches were organized in important centers. The Japan Conference Seminary was opened at 221 Bluff, Yokohama, October 1st, Dr. John F. Goucher giving $10,000 to encourage this particular line of work; and the girls❜ school in Nagasaki was opened in December. On December 7th our church and school building in Hakodate were destroyed by fire, and on the 26th our entire property in Tsukiji - school, church, residences - was consumed in a great conflagration which swept away a large section of the city. Our missionaries there lost all, and would have suffered intensely but for the kindness of friends, Japanese and foreign, who came to their immediate relief.
Naturally the next year was largely spent in recovering the ground lost by these disastrous fires. Overwork broke down some of our missionaries, and, though reinforcements came. they were never sufficient to meet the needs of the work. On August 28, 1881, Bishop Bowman ordained to the office of deacon S. Kurimura, B. Onuki, E. Aibara, K. Asuga, T. Kikuchi, and S. Abe, the first native converts in our own Church to receive ordination, as the Rev. V. Honda, mentioned above, was converted in the Dutch Reformed Church, and ordained by Bishop Wiley in 1878.
After the year 1881 our publishing work assumed new interest, and the Berean Sunday school lessons began to be regulary translated and published in Japanese.
The schools now advanced schools, Cobleigh Seminary at Nagasaki, now called Chinzei Gakuin, and the rebuilt girl❜ school at Tsukiji, were opened in 1881, and the new buildings for Kwassui Jo Gakko, or Girl❜ Seminary, at Magasaki, were dedicated May 29, 1882, when Joseph Cook delivered the address.
〔以下省略〕
・THE PUBLISHING INTERESTS
・EDUCATIONAL WORK 〔下はその一部〕
Just as soon as the missionaries of our Church to Japan were able to establish themselves in their homes, at the different stations in the empire, they began to teach. When they had not yet the language of the people they began teaching in English, and from the very first there were young men, and later young women, who desired to learn the English tongue. As has been previously shown, schools soon sprang into existence, until the Mission now has a line of schools extending from north to south throughout the empire. A brief mention of these may be helpful:
(1)The Iai Jo Gakko 〔遺愛女学校〕, or Caroline Wright Memorial School, located at Hakodate, has from the beginning been a center of light in the far northland. Its graduates have gone out to be Bible women, wives of Christian ministers and of business men, teachers in the schools, and earnest workers in various good lines.
(2)The Hirosaki Jo Gakko 〔弘前女学校〕, a Girl❜ school with grades from primary to academic. The property of this school is not owned by the Womenls❜ Foreign Missionary Society, but by an arrangement with the owners our women have been teachers in the school from its beginning, and the results have been beneficial. There is also in this same town of Hirosaki a kindergarten, opened in memory of Mrs. Mary Alexander, whose sudden translation at the time of the burning of their house in that city will be specially remembered by by many warm friends.
(3)Sendai Girl❜ School 〔仙台女学校〕, an intermediate and grammar school of about fifty pupils, doing an excellent work among important classes in this great city of the central north.
(4)Aoyama Gakuin 〔青山学院〕, located at Tokyo, which is the outgrowth of the Mission school first constructed at 221 Bluff, Yokohama, now the site of the Bible Womens❜ Training School. With the development of the work of the Mission, it was found important to remove this first boys❜, school to the city of Tokyo, where already existed an elementary school for boys,and the two were united in the spring of 1883 at the present site, Aoyama, or Green Mountain. Here are college, academy, and preparatory departments, with a theological school quite independent of the other departments. The total enrollment of these schools is about 600, and the influence of the institution has extended far and wide. Special privileges are accorded the school by the Educational Department, because of the high grade of work it has been able to do. Its graduates are to be found in important diplomatic, official, and business positions, at home and abroad. The theological school has furnished the backbone of the ministry of the Methodist Church of to-day. At Aoyama is also:
(5)The Aoyama Jo Gakuin 〔青山女学院〕, a high school and preparatory department for girls. This is the outgrowth of the Girl❜ School established in 1874 by Miss schoonmaker, located first at Tsukiji and later removed to Aoyama. Here are some 300 young women and girls preparing for lief❜swork, and the school has a high standing.
(6)At Aoyama is also to be found the Harrison Memorial Industrial School, which has for its object the training of women under Christian influences for the duties of home, as well as giving them a knowledge of some of the fine arts.
(7)Higgins Memorial Bible Training School, located at Yokohama, has sent out from its classes most of the Bible women connected with our laboring in other churches in Japan.
(8)The Seiryu Jo Gakko 〔清流女学校〕(Girls❜ School), is located Nagoya. This school, too, has had an excellent history, though it has met with some severe losses by fires.
(9)The Eiwa Jo Gakko 〔英和女学校〕, or Engligh-Japanese Girls❜ Schooli, at Fukuoka, in the northern part of the Island Of Kiushiu, in another valuable institution of our Church.
(10)The Chinzei Gakuin 〔鎮西学院〕, the second school for boys in the Mission - for there are but two educational plant for young men - is located at Nagasaki. It was first opened in 1881 and now has an enrollment of something like 500, owns some good buildings, and is exerting a strong Christian influence among the young men of the island.
(11)Kwassui Jo Gakko 〔活水女学校〕 (Girls❜ School), aiso located at Nagasaki, adjoins the property of the boy❜ school mentioned above. This school, began in 1879 by Miss Elizabeth Russell and Jennie M. Gheer, has made for itself a unique place among Christian forces of the country. It equals in grade a good college for young women.
〔以下省略〕
・METHODIST UNION, ITS ORIGIN SCOPE AND VALUE
・THE CALL OF JAPAN TO CHRISTIAN AMERICA
・LITERATURE
上の写真は、絵葉書のものである。
・長崎活水女学校 Kwassui Jogakko, Nagasaki Japan. 〔左:消印は明治四十一年(一九〇八年)〕
・長崎私立活水女学校 校長 マリアナ ヤング 〔右〕
Semi-Centenary of Christian Evangelization in Japan.
基督教宣教五十年祝典
徳川時代御法度の一なる切支丹邪宗門の制札も撤退せられ公然と基督 やそ 教の許されし以来、早くも半世紀五十年の星霜を経たりけり、新旧両教の信徒合計三十万を超えず会堂建物の壮麗別に人目を驚かすに足るものなく日本国をして所謂基督教化せしむるは事悠遠に属すと雖も、其感化と余風は兎に角公私社会の間に及び亦生存の要素の一たるに至りしは慶すべきことゝいふべし、今春以来此五十年の宣教を記念すべく新旧両教の老師明哲相集りて計画せられたる結果、十月三日より十日まで東京神田の青年会館に於て盛なる記念祝典を挙行せられたり、会場の一部に設けられたし展覧会には種々珍奇なる出品物ありて観者 みるもの をして坐 そゞ ろに初時宣教当時の状況を偲ばしめたり。
救世軍司令長官ブース将軍が一昨年来朝の時 天皇陛下に奉りし書簡の原文
初めに日本国民の盛なる歓迎を謝し次に日英同盟に及び終りに救世軍の事業につき陳述す
Facsimile of a letter presented to H.M. The Emperor of Japan by GenenralBooth.
博士ブラオン〔下左〕 博士ヘボン〔下中〕 博士フルベツキ〔下右〕
日本最初の三宣教師
博士ブラオンは其個人的感化力、博士ヘボンは最初の和英辞書の著述、博士フルベツキは精力主義の勤勉に於て殊に有名なり
The three first Missionaries to Japan. Dr.Brown. Dr.Hepburn. Dr.Verbeck.
祝典の最終日品川原邸に催したる園遊会
Garden Party given at Mr.Haras Residence, Shinagawa, Tokyo.
1 Mrs.De Forest
2 Rev.J.H.De Forest
D.D.
3 Mrs.Davison
4 Mrs.J.C.Brand
5 小川義綏
6 本多庸一
7 田村直臣
8 瀬川淺
9 Rev.W.T.Austen
10 Rev.David.Thompson
D.D.
11 Mrs.Thompson
12 Rev.E.R.Miller
13 Mrs.Miller
14 井深梶之助
15 Rev.Charles Bishop
16 Mrs.Bishop
17 Prof.M.N.Wyckoff
18 Mrs.Wyckoff
19 Miss K.M.Youngman
20 稻垣信
21 Rev.J.C.Davison
22 Mrs.B.Chappell
23 Miss.M.A.Spencer
24 Rev.A.D.Hail
25 Prof.J.C.Ballagh
26 村上俊吉
27 Rev.D.C.Green
28 Rev.Wm.Imbrie
29 Mrs.J.K.Mccanley
30 Rev.J.B.Hail
31 伊藤藤吉
32 平岩愃保
33 星野光多
34 相原英賢
35 小崎弘道
36 Rev.J.H.Ballagh
37 Dr.Whitney
38 Rev.C.H.D.Fisher
39 櫻井昭徳
40 服部章藏
41 不明
42 不明
43 ハリス博士
44 Rev.J.D.Davis
45 Mrs.Davis
46 三浦徹
47 大儀見元一郎
48 橋本睦之
49 石原保太郎
50 高野丈三
51 Rev.J.Jnes
52 Miss.J.Moulton
53 Miss A B West
54 不明
55 Rev.T.M.Macnair
以上は、明治四十二年十一月一日発行の 『グラヒック』 第一巻 第十一号 東京 有楽社 より。
民国十五年 〔大正十五年:一九二六年〕 十月十日 二十周記念冊 馬伯援題
留日基督教青年会二十週紀念冊
目次」および内容の一部である。
余日章博士題字
民国十四年中華留日学生一覧表 此表内学生総数共二千一百二十七人内女学生一百二十五人
留日青年会小史 (附図十)
乙巳丙辰間、吾国留日学生、同時号万人、可謂盛矣。中華基督教青年協会有鑑於此於、於一九〇五年冬、特派来会理博士等来東攷察。翌年春、遂租日本青年会之一隅為会場、学堂附焉。総幹事為美国林徳芳、王正廷副之。同時弁理早稲田分会者、為文懐恩王治昌両君。頼以上諸君之苦心経営、而豊多摩郡下戸塚町早稲田基督教青年分会、神田北神保町十番地中華基督教青年会本部、亦得相継成立。数君雖均未得親観工程之告竣、而金銭募集、地基購買様式規定、図書設備、無一不出自諸君之擘劃、造福本会、功徳非浅。自林総幹帰国、華理士馬文綽費雅孔祥熙赫士衛爾遜師渡爾譚育普諸君先後継代、亦能精神一致、為本会造福。迨現任総幹馬君伯援継任、適値天災子頻仍、歴年経営、盪為灰燼、振興推広、堅苦卓絶、其功更有不可磨滅者。是為小史。
・林徳芳 來惠理 張佩之
林君為中華留日基督教青年会第一次総幹事 來張両君為一九〇五年派東考察会務専員
Mr.Clinton, the First General Secretary of Tokyo Association. Dr.Lyon and Mr.Chang Pei-tze who were specially appointed in 1905 to investigate the condition of Chinese Students in Tokyo for the establishment of Tokyo Association.
・神田美土代町会所前之英文夜学学生與教職員合影 Staff and Students of the First English Night School in Kanda Assochiation.
・英文夜学教職員合影王正廷王治昌陶孟和皆当時之教員 Staff of English Night School in Kanda Association 1907.
・一九〇七年 早稲田分会英文夜学生撮影最堪注意者学生中之王印川曾為河南省長谷鍾秀曾為農商総長及他項要職者
Students of English Night School in Waseda Branch Association 1907. (Mr.Wang, the Ex-governor of Honan and Mr.Ku, the Ex-minister of Agricalture and Commerce were students then.)
・早稲田分会会員合影此影中有五人当一九一一国会議員者 Members of Waseda Branch Association 1907. (Five of them became Members of Parlaiment 1911.)
・一九一九幹事会議於杭州時撮影 (曾為東会幹事者) Former Secretaries of Tokyo “Y”in the General Secretaries’Meetig held at Hangchow 1919.
・神田本会会所正面撮影一九二三年為関東震災所焼燬 Asociation Building being burned i the great earthquake 1923.
・一九二一年本会幹事及其眷属合影 The Secretaries of their Families.
留日青年会之組織 (附図九)
基督教青年会之組織、向分董事幹事両部。董事部為立法機関、幹事部為執行機関、此常例也。惟本会則叧有慣例在。自東会成立迄今、従未叧設董事部、会内事務統由幹部議決執行。有不能自決者、則提交上海基督教青年会全国協会総幹事余日章博士決之。倘余博士仍不能決、則再交流会董事部決之。是協会之董事部、即東会之董事部也。一九二四年当選為董事者、為鄺富灼江長川鮑咸亨李登輝王吉民韓玉X〔鹿に文に口〕温佩珊袁履登八人。同年並由同宗会員中推定馮玉祥王正廷孔祥熙徐謙薛篤弼孫科温世珍七人為名誉董事。茲附録幹事部職務分掌、東会簡章、及名誉董事往還函件於後。
一、本会幹部職務分掌
1 馬伯援 総幹事
2 張清鑑 総務幹事兼庶務
3 渠達成 徳育部兼寄宿舎
4 労遠培 知育部兼体育部
5 何庭流 会員部兼社交部
6 瞿荊州 助理幹事
二、東会簡章
(一)組織 本会直隷於中華基督教青年会全国協会。協会董事部即為本会董事部重要事件、由協会董事部議決之。
(二)幹事 本会幹事由協会董事部聘任之。
(三)経費 本会経費除協会擔任一部分外、余由本会幹部負責募足之。
(四)預算 本会常年預算、由幹部協商決定後、提交協会董事部通過之、預算亦須報由協会審査。
(五)名誉董事 由本会宗主会員中推選七人、任期以三年為限。
三、往来函件
敬粛者、本会創立於日本東京、已十八年矣、不僅為祖国学生修養社交之所、且為国際間重要機関。年来会所一毀於一九二二年四月之地震、再毀於一九二三年九月之大火、皆頼日本朝野捐資興復、現臨時会所正在建築中、此後事業、殊有待於羣策羣力、茲由同宗会員推定 先生為本会名誉董事、期謀会務発達、而増国際光栄。素稔 先生対於会務宿具熱忱、想必能俯如所請、有以福我数千海外学子也。謹此奉聞。並希示復。順頌
・余日章先生小照先生対於東京会務有直接管理権 Dr. David Yui General Secretary of the National Committee of the Y.M.C.A. of China, who has the direct cotrol over Tokyo Association.
・本会名誉董事 王正廷先生
・名誉董事馮玉祥先生
・名誉董事徐謙先生
・名誉董事孫科先生
・名誉董事孔祥熙先生
・名誉董事温世珍先生與馬伯援先生合影
・一九二五年東会歓迎林徳芳夫婦撮影 Reception to Mr. and Mrs. Clinton, the First General Secretary of Tokyo Association.
・一九二五年正月所撮之同工合影 Worker of Tokyo Association 1925
東会両次遭刼及復興之報告 馬伯援 (附図六)
中華留日基督教青年会、自一九二一年挙行十五週大記念会後、不僅日本朝野声誉彰聞、而自身之能力、亦足有令人驚駭者。除幹事七人外、有会員千余人、占留学界二分之一。常年経費増至二萬八千余元。規模宏大、設備完全、為東京華人所経営之唯一団体。不幸一九二二年四月二十六日、為地震所毀。会場宿舎、同時休業。時伯援適旅行長安、道経滬上、始聞其事。兼程返東、協議善後。晤旧友山井格太郎小村俊三郎於千駄谷寓中、咸謂青年会事業、吾人頗知其為必要。復興経費、倘為数無多、日本友人必楽於輸捐、不知尊意以為然否。伯援諾之、即以此意伝達協会総幹事余曰章、承竭誠賛許、並派李耀邦博士鐘可托牧師到東京訪子爵渋沢於伊香保、故男爵伊集院彦吉於外務省、請其援助。並一面予備募捐願書、呈警視総監。
附録願書式
〔中略〕
経許可後、即進行募捐其結果如下。
日華学会 捐助一萬圓
伯爵内田康哉氏 一千圓
男爵伊集院彦吉氏 五百圓
子爵渋沢栄一氏 五百圓
三菱合資会社 二千五百圓
児玉謙次氏 二千圓
伊東米次郎氏 二千圓
三井合名会社 二千五百圓
台湾製糖会社 一千圓
南満鉄道会社 二千五百圓
大日本麦酒会社 二千圓
井上準之助氏 一千圓
日本興業銀行 一千五百圓
大日本製糖会社 一千圓
大倉組 一千圓
富士瓦斯紡績会社 一千圓
東洋拓殖会社 一千圓
古河合名会社古河電機会社 一千圓
朝鮮銀行 八百圓
久原鉱業会社 五百圓
住友合資会社住友銀行 一千圓
日清汽船会社 五百圓
台湾銀行 三百圓
高田商会 五百圓
東亜興業会社 五百圓
呉錦堂氏 五百圓
丸山喜之七氏 三百圓
御園生由蔵氏 二百圓
馮玉祥氏 国幣五百圓
張紹曾氏 国幣五百圓
総計 日金三萬九千一百圓国幣一千圓
此款有著後、於同年十月動士修繕、東会会務、全部停止。伯援乗此時機返国、価旧友黄郛先生長外交、為日友請領勲章如左:
故男爵伊集院彦吉 一等寶光嘉禾章
子爵渋沢栄一 一等寶光嘉禾章
白岩龍平 三等嘉禾章
江口定條 三等嘉禾章
内藤久寛 四等嘉禾章
山井格太郎 四等嘉禾章
在京時、以日友厚誼告之馮玉祥将軍。将軍深感日友之熱心社会事業、親善対聯十余幅、付伯援分贈各日友、以表同情。
一九二三年四月完工。宿舎較前拡大、会場事務室仍旧。開幕前、曾発宣言一通、附録於下。
〔以下略〕
・渋沢栄一子爵小影 Vicount Shibusawa who did great help in rebuilding the Aociation 1922.
・一九二三年九月一日関東大地震後同人逃難於城山之撮影 Members of summer Camp as Refugees at Boshu at the time of great earthquake 1923.
・関東震災後中華青年団救済日本之老工時撮影 Member of Summer Camp laboring for Japanese neighbors at Boshu in the time of great earthquake 1923.
・建築上樑時之関係人合影 Laying Foundation of the New Building 1924.
・丸山傳太郎 馬伯援 齋藤惣一 江口定條 山井格太郎 建築五委員号影 The Re-building Committee after the Great earthquake
・一九二四年新会所成立時歓迎王九齢銭兆湘両先生之撮影
徳育部 (附図七)〔下は、その記述の一部〕
一、創始期成績 一九〇六年、本会成立於東京。当時、英文学堂最為発達、談及宗教、掩耳而走者、比比然也。幸幹事熱心宣伝、於一九〇七年春、呂復等二十余人先後領洗為基督徒。中華留日合衆教会牧師、王正廷等為執事、借青年会為会堂、盡力宣伝基督平等自由博愛犠牲之真義、革命思潮、従此徧播。受劉牧師首次施洗之劉公孫武、即武昌首義元勲也。彼等之所以有此犠牲精神、不能不帰功於宗教之涵養。劉牧師在東京伝道時、青年会執事、即合衆教会執事、合衆教会信徒、皆青年会会員。青年会與合衆教会、殆一而二、二而一者也。至劉牧師退職、計領洗者有百八十余名、革命之役、有声由色、最為邦人所崇拝者、非黄花岡七十二烈士乎。黄花岡事発、報載有美少年従容就義、視死如帰者、即一九一〇年領先於合衆教会之基督徒陳君鈞号希吾者是也。民国二年、二次革命、海軍学生葉啓芳遭難於広東。民国三年。四川王爾徳就義於天津。之二君者、亦東会之基督徒也。其他得志於政界者、尤屈指難数。就国会論、合衆会友為参衆議員者、達十余人之多。他如創辦東京雲南青年会者、則有董澤馬伯援、服務青年会者、則有謝扶雅兄弟尽力社会事業者、則有王希天王兆澄楊鶴慶等、為董事者則有呉在章李全本王時澤巴澤生、此信徒中之較著者也。
附合衆教会信徒姓名 〔236名〕
二、中興之景象 一九一三年、劉牧師帰国、聖公会応運独立。伝道之機既多、信徒亦随之而増。教会與青年会之関係、雖不如従前密接、但徳育部事業、仍以牧師為顧問。民国二年、会務頗呈停頓之象、後経巴楽満余日章両君伝道之結果、研究聖経者又増至百数十人。一九一四年、劉芳牧師再来東京、改合衆教会為美会。後劉又帰国、彭彼得来代牧職。同時、兪顯庭来長聖公会、設特別聖経班於本会、流風余韻、至今未息。
附録 聖公会美以美会 両信徒姓名 〔412名〕
三、最近之情況 一九二二年、本会一毀於地震。一九二三年、再毀於火災。美以美会以牧者無人、宣告終止。聖公会伊悦理法士徳両牧師、亦先後帰国。斯時不僅教会人材欠乏、会務亦停頓之勢。幸王君希天独力支持、本部事業仍得継続進行。至教会方面、則有兪牧師維持之。就最近情形言、一切徳育事業、均鋭意進行、更多作連絡教育之工夫。現在幹事何庭流張清鑑二君、皆最近伝道之効果也。
附録最近信徒姓名 〔39名〕
・留東最早信徒之合影 The Earliest Church Members at Tokyo.
・下戸塚町中華留日基督教青年会分会内査経班(民国前二年) Bible-class in Waseda Branch association 1909.
・両先生東來布道信徒連合会之撮影
民国二年春東会多故値巴楽満同余日章先生來東布道以欲解決繁雑問題不可不求清雅地方乃相率信徒聚於鎌倉之鎌倉旅館小住三日結果円満此照即該会之記念物也座中(一)巴楽満先生(二)余日章先生(三)巴夫人(四)陳敏修先生(五)陳夫人(六)李全本先生(七)羅文光先生(八)孔継錕先生(九)李三台先生 The Visit of Dr.Brockman and Dr.Yui to Tokyo 1912, when a three-days’Meeting was held at Kamakura.
・民国十三年本会会員領洗於日本教会持之撮影 ‘Y’Members who received Baptism 1924.
・留東信徒懇親会乙丑南北統一記念日撮于青年会 Reception to Dr.Lyon by Church Members, 1925.
・一九二五、七、五為兪牧師開送別会撮影
・一九二六年正月初二信徒団拝会
知育部 (附図四) 〔下は、その記述の一部〕
本会於一九〇六年夏、由来会理博士来東攷察之結果、於神田美土代町、先辦英文夜校。王正廷陶孟和許世光王治昌諸君、皆於求学之余、擔任教授、来学者頗盛。一九〇七年、以早稲田同学百余人之要求、本会開英文夜校於鶴巻町。如谷鍾秀、王印川、亦当時之夜校学生也。民国二年二次革命失敗、軍人政客萃聚東京、感以欲洞悉世界大勢、非増高英文程度不可、本会英文班因拡充。孫中山先生夫人宋慶齢女士、即当時英文班義務教員也。民国五年兼辦日語補習班。民国十年為台湾同胞開国語講習班。又為山東商人開日語演習会及常識班。去歳復興以来、因種種関係、英文学校未能継続辦理。而智育方面之事業如図書室閲報室智育演講会員演説練習会仍継続進行。一九二五年春、設立平民学校於横浜中華聖公会、教授国語日語英語常識等科。刻又正在招収東京華僑子弟、延聘教師、組織東京華僑義務学校、定明年一月開学。
十四年智育事業一覧
智育講演会 十七次 二七六〇人
平民学校 三班 一二〇人
会員演説練習会 二十次 三四七人
工人補習班 二六次 二五〇人
日語学校 三次 二一人
閲報室 毎日平均 一二〇人
図書室 毎日平均 二五人
・智育演講会時之盛況 尾崎行雄氏演説軍備縮小時撮影 Lecture on ‘Disarmament’
・横浜総領事周陸軍中将 應麓同本会幹事馬伯援同撮於図書室之落成時
・閲報室撮影 Reading room
・図書室撮影 Library
体育部 (附図三)
・娯楽室 Recreation-Room
・籃球組 Basket-ball Team.
・隊球組 Volley-ball Team.
羣育部 (附図十九)
一、徴求会員会
二、寄宿舎及食堂
本会開辦寄宿舎之目的、係本基督教義以養成留学生高尚耐苦犠牲愛羣守法之人格、為将来社会謀福利、非僅為会員謀食宿之便利已也。一九〇九年、早稲田分会寄宿舎成立、当時会員不過二十人。一年以後、竟有十人
皈依基督者。民国成立、其中出任参衆議員者、有傳夢豪賀昇平王印川杜汝丹向乃祺傳作楫駱継漢高中和馬伯援王葆真胡源匯呂復諸君。一九一一年、神田北神保町本会寄宿舎成立、屋宇宏敞、来住者更多。雖各省風習不同、学生意向各殊、但同居一舎、不特彼此可以交換意見、且能表示天下一家之精神。就宗教言之、自一九一七年至一九二一年五年間、在教会領受洗礼者、有三十八人之多。一九二四年後会所較小、宿舎亦少、志願入舎者、毎向隅之憾、即在市外経営之苦学生宿舎、亦有人満之患云。又附設之食堂。専以服務留学界為宗旨、而於経済及衛生上尤加注意、頗得国人之称許。年来更加拡充、平均毎日約到二百人左右。
三、参観事業
東京為日本首善之区、不僅学校林立、文物優秀、而大工場大会社亦皆有参観之価値。本会有鑑於此、毎於土曜、必率会員若干人、参観名勝会社、監獄、学校、家庭、以廣聞見。茲将本年六月以前所参観之機関及人数、列表於後。
新宿御苑二次 三九〇人
東洋幼稚園 二〇人
荒川遊園 二九人
獣疫調査所 二八人
豊多摩刑務所 四六人
福田会育児院 二六人
王子製紙会社 三一人
聾唖学校 二八人
森永製菓会社 三二人
貴族院 一〇人
星製薬会社 二八人
巣鴨監獄 二九人
文化学院 二七人
農事試験場 二五人
二階女子体操学校 八人
蠺業試験場 二一人
三菱銀行 三〇人
日日新聞社 二九人
盲学校 二八人
日本女子大学 一八人
東京市務局 一三人
帝国大学 一三人
東京女子大学 一八人
統計 二五次 九五七人
四、消夏団
五、同楽会
・歴年徴求会員優勝隊記念碑
・〔円グラフ〕 会員類別表 : 捐助 480 特別 243 賛成 17
・〔棒グラフ〕 歴年会員人数比較表: 1907年 193 08年 31 09年 37 0十年 105 十一年 134 十二年 279 十三年 293 十四年 178 十五年 103 十六年 174 十七年 481 十八年 517 十九年 931 二十年 1128 二十一年 993 二十二年 992 二十三年 992 二十四年 450 二十五年 740
・下戸塚青年会寄宿舎舎員與職員合影 最堪注意者一年之内有十人領洗而基督徒
・此照撮於一九二一年五月七日送別師渡爾夫婦康普登女士返美之時内寄宿舎員五十人省別不同者共十有七可称全国之青年集於一舎工区如此工具如彼工作之重要自不待言矣
・新会所内舎員会餐時之撮影(一九二四年冬)
・参観日本家庭之撮影
・一九二四年消夏団之海水浴
・此係開同樂会演劇時撮影
・一九二五年網球競賽之得勝者 Winning Team, Tennis Tournament 1925.
・消夏団之臥室
・中華民国十二年房州夏令会之査経班撮影 Bible-class in Summer Conference 1923.
・民国十二年七月廿六日中華留日基督教青年会夏令会全体撮影於房州舘山町公園 Summer Conference 1923.
・中華留日基督教青年会春令会乙丑横浜 Spring Conference 1925.
・消夏団之同樂会
・同樂会〔2枚〕
・雙十節国慶記念慶祝大会 自民国成立以来毎届雙十之時本会必開一大会以記念国慶留東同学到者輒達千人以上遠留海外其惓懐祖国之熱誠如此篤切実可咸慰此照攝於民国七年即当時大会之盛況也
・新 同楽大会
・五卅案後演劇助捐之盛況