蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

神戸女学院: シャーロット・B・デフォレスト

2024年02月25日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

    

 CLASS OF SMITH 1901  〔背表紙は、 CLASS BOOK 1901〕

 Charlotte Burgis DeForest, 144 Hancock St, Auburndale, Mass.

         

〔蔵書目録注〕

 本書は、シャーロット. B. デフォレストが卒業した、米国の Smith College の1901年の卒業アルバムである。
 彼女の名前や写真は、MISSION SOCIETY  (姉の SARAH LYDIA DEFOREST の名前も見える) や   MONTHLY の EDITORS 1900-1901 等の項目でも見られ、また Ivy Oration REPUTATION IN OUR COLLEGE LIFE や Verse  に The Moon=Sprite なども掲載されている。
 なお、本書は、現在、Internet Archive でネット閲覧可能であり、また Ivy Oration は 復刻された The College Smith Monthly、Vol.9 (2019年1月出版)にも掲載されている?(未見)。

 

 アメリカンボードノ宣教師明治四十三年ノ年会 

A B C. F. M MISSIONARIES ANNUAL MEETING 1910


 消印 :KOBE 4.7.× JAP×   〔神戸、一九一〇年(明治四十三年)七月四日、日本〕
     UTIKA JUL 26 4 PM N.Y 〔ユティカ、七月二十七日 午後四時、ニューヨーク州〕
     ※ なお、転送印もある。

 通信欄:Kobe. Japan. July 3. 1910.  〔中略〕 Charlotte De Forest
 
 差出人:シャーロット・デフォレスト女史〔当時神戸女学院教師、のち同女学院第五代院長〕

 写真 :最前列の右三人は、右から父のジョン・デフォレスト、母のエリザベス・デフォレスト、娘のシャーロット・デフォレストと思われる。

  

 タイヘイレコード ELECTRIC RECORDING

 ・「或ル日ノ感想」 神戸女学院々長 ドクター、シー、ビー、デフォレスト 昭和十年六月十五日 M.932-A
 ・“Bible Reading” Philippians 4:1,6-8, Colossians, 3:12-14,16-17, i Thessalonians 3:11-13 Dr.C.B.DeForest, President, Kobe College.  June 15 1935. M.932-B

 ところで、このデフォレスト女史については、「アジア歴史資料センター」のネットで閲覧が可能なものに次のものがある。

 米国人「シャーロット、バルジス、デフォレスト」外二名叙勲ノ件

 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10113357500、叙勲裁可書・昭和十五年・叙勲巻二十一・外国人二止(国立公文書館)」

 ※ 「外二名」の内の一人は、横浜英和女学校のハヂス女史

 この資料には、『文部時報』 第六百十一号 昭和十三年二月二十一日 に掲載された「本学院の特色 神戸女学院専門部長 シ・ビ・デフオレスト」(六三~六七頁)の最初の部分(下の文:漢字は当用漢字に改めた)も引用されている。ただし、『文部時報』の原文とは、若干相違がある(相違箇所は、青字と赤字で示した)。

 原文:

 当神戸女学院は開拓者の意気を以て米国より来朝したタルカット女史及びダツドレー女史に依つて明治年に創設されたものであつて、我が国女子教育機関のうち最も古いものの一つであるが、常時なほ社会的には低く遇せられ、あらゆる意味に於いて旧殻を脱してゐなかつた我が女性達を、基督教に依る宗教的信仰の涵養と知育体育の達成とに依つて自覚せしめ、断えずより高い世界を追及する精神を所有せしめようとする所にその創設の意義があつた。そして更に「基督教の道徳に基き女子に須要なる教育を施し以て教育 勅語の趣旨に適ひたる婦人の性格を養成するを目的とす」なる学則第一条の制定に依つて、此の精神が一層明瞭的確に具体化するに至つたものである。
此のやうな精神は、つねに先駆者的、開拓者的婦人に必須不可欠のものであつて、是を第一義的に掲揚するところに本学院の特色もまた自らに示されて居るのである。乃ち本学院の特色の第一は、現実の環境の基礎の立つて、しかも理想の世界を想望し、現実の生活をよく処理しつつ、しかも魂の世界に対する向上の心を獲得しようとする性格の婦人を養成せんとする所に存在する。是は本学院が設けてる総ての部に共通の理想であることは言ふまでもないが、それに依つて最も著しく特色附けられて居るのは矢張大学部である。

 引用文:

 当神戸女学院は開拓者の意気を以て米国より来朝したタルカット女史及びダツドレー女史に依つて明治年に創設されたものであつて、日本の女子教育機関のうち最も古いものの一つであるが、常時なほ社会的には低く遇せられ、あらゆる意味に於いて旧殻を脱してゐなかつた日本の女性達を、基督教に依る宗教的信仰の涵養と知育体育の達成とに依つて自覚せしめ、断えずより高い世界を追及する精神を所有せしめようとする所にその創設の意義があつた。そして更に「本校ハ教育ニ関スル 勅語ノ聖旨ヲ奉戴シ女子ニ須要ナル教育ヲ施シ併セテ基督教ノ精神ニ拠リ人格ノ修養ニ努ムルヲ以テ目的トス」なる学則第一条の制定に依つて、此の精神が一層明瞭的確に具体化するに至つたものである。
 此のやうな精神は、つねに先駆者的、開拓者的婦人に必須不可欠のものであつて、是を第一義的に掲揚するところに本学院の特色もまた自らに示されて居るのである。乃ち本学院の特色の第一は、現実の環境の基礎の立つて、しかも理想の世界を想望し、現実の生活をよく処理しつつ、しかも魂の世界に対する向上の心を獲得しようとする性格の婦人を養成せんとする所に存在する。是は本学院が設けてる総ての部に共通の理想であることは言ふまでもない。 (下略)

  

 上の二枚の絵葉書

 :「仙台組合教会(デツオレスト記念)The DeForest Memorial Church.

 上の左の絵葉書

 :大正四年〔一九一五年〕の年賀状として、片桐清治が出したものである。写真中、建物の中央上には「DEFOREST MEMORIAL CHURCH」、表札には「仙台組合教会」、立て看板中には「十一月廿三日 午後七時より当会堂に於て 基督教演説 弁士 海老名弾正氏 傍聴随意」などとある。
        

 なお、「日本キリスト教団 仙台北教会」のHPの「沿革」によれば、この会堂は、大正三年に完成、昭和二十年に空襲で焼失とのことである。また、同じ沿革には、「片桐清治第2代牧師」とある。


神戸女学院: スーザン・A・ソール

2022年01月31日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

   

〔蔵書目録注〕

 上の絵葉書は、スーザン・A・ソールが差出人の絵葉書である。

 神戸女學院秋季運動會
 (全校生徒及バスケツトボール)
 消印 :KOBE 1 1 20 〔神戸、一九二〇年(大正九年)一月一日〕
 通信欄:Kobe Dec. 31. 1919  〔中略〕 Susan A. Searle. 

 上の写真: Additn Gymnasium Mass Formation 〔雨天体操場の増築、マス・フォーメイション〕
       写真中の建物は、雨天体操場である。右側部分が明治四十一年に建てられ、左側部分は大正八年に増築完成した。
 下の写真: Basket Ball、Field Day 〔 バスケットボール、運動会〕
       長袖、タスキがけ、袴、結髪のいでたちである。なお、中央の白い服の人物は、審判員である。

 上の説明は、次の Cinii 論文 オープンアクセス の記述・掲載の写真などを参考に記述した。
 「神戸女学院における体育の歴史:大正時代」 History of Gymnastics in Kobe College : Taisho Era
   谷  祝子 TANI Noriko 神戸女学院大学体育研究室
   井上 紀子 INOUE Noriko 神戸女学院大学体育研究室
 収録刊行物  論集 51(3)、139-187、2005‐03‐20 神戸女学院大学 

   

 〔上左〕

 神戸女學院秋季運動會
 (二年生)楽しき日

 〔上中〕

 神戸女學院秋季運動會
 (四年生)金波銀波
 消印:8.12.? 神戸 后4-5
 通信欄:「私共の運動会は先月廿七日にございました」とある。

 〔上右〕
 神戸女學院秋季運動會 (五年生體操)

    

 在職四十五年
  ソール女史 記念祝賀式
          神戸女學院

   CELEBRATION OF 
   MISS SEARLE❜S
 FORTY-FIFTH ANNIVERSARY
    Kobe College
   October  11 ,  1928
   
 神戸女學院名譽院長エス・エィ・ソール女史
 在職四十五年祝賀式執行順序
        昭和三年十月十一日午後一時
        神戸女學院講堂に於て
              司会      菱沼部長
 奏樂
 聖書朗讀 詩篇第廿三篇          川崎部長
 讃美歌  第四十九番(一、二、三、五節) 會衆一同
 式禱                   畠中理事
 式辭                   デフォレスト院
 ソール女史履歴朗讀            横川敎授
 創立五十周年記念祝賀の歌         會衆一同
 祝辭幷に記念品贈呈            ダウンス理事長
 同                    デフォレスト院長
 同                    永尾自治會長
 同              同窓會總代 井深花氏
 同              同窓會總代 西川悦氏
 同         神戸女學院家庭會代表 鶴谷忠五郎氏
 同         アメリカンボード日本ミッション代表 
 記念唱歌
 來賓祝辭
 答辭                   ソール名譽院長
 内外祝電祝辭
 英語唱歌     Song of a Seed-Sower

       SONG OF A SEED-SOWER  
   for Miss Searle❜s Foty-fifth Anniversary in Japan 
 
 While the earth remaineth,
      Tell the years their tale,
 Summer, winter, seedtime, harvest,
     Shall not fail.
        Lo, on the hills of vision,
                                Joy and the dew of youth!
        Eyes to see and ears to hear
           God and the call of the truth!
  
        Then on the midland meadows
                                Toiling through heat of day,
        Head uplifted, heart renewed,
           Strength from the brook in the way.
  
        Now from the western passes
                                 Glimpses the fruited plain,-
        Buried seed and watered plant,
            God-given heavenly gain!

 While the earth remaineth,
   Tell the years their tale,
 Summer, winter, seedtime, harvest,
             Shall not fail.
                                                                    C. B. DeF.
( Music arranged from Calkins and Chadwick )

 祝禱
    以上
 餘興

 第二十三篇 ダビデのうた
 讃美歌四九
 創立五十周年 記念祝賀の歌
 ソール先生在職四十五年 記念の歌
 
 一 波こえて  君渡り來て
   幾とせか  御髪 みぐし は雪と
   みまがへど とはの先ぞ
   かゞやきわたる
 
 二 さかえある ひと一人あり
   まなびやの 園生 そのふ に古 ふ りて
   數多き   子らの木陰と
   なりてゐたまふ

 三 七十 なヽそぢ の 坂のぼりきて
   かゞやける 君が姿は
   秋の夜の  月の光に
   さも似たるかな


神戸女学院: 絵葉書 (山本通時代)

2020年08月30日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

     

 ・神戸女学院 南舎教師館 (創立当時ノ教室オヨビ寄宿舎)The Nansha, American Teacher’s Residence (The Original Dormitory and School-building)
 ・南舎 三十五年前ノ教場及ビ寄宿舎 The Nansya - School and Dormitory of 35 years ago.
 ・南舎 四十年前ノ教室及ビ寄宿舎  Nanshe-Dormitory and Reciation Hall of Kobe College.
 ・神戸女学院応接室 KOBE COLLEGE RECEPTION ROOM.

   

 ・神戸女学院講堂 Kobe College Chapel and Administration Building.
 ・神戸女学院寄宿舎  Kobe College Dormitoriy.
 ・神戸女学院 寄宿舎 Kobe College, Dormitories.
 ・神戸女学院 尚褧館(家事科教場) Kobe College, Domestic Science Building. 

    

 ・神戸全景 其二 (Kb2)Bird’s - eye View of Kobe (B)
   写真中央下にの円塔のある建物が、理化学館である。
 ・神戸女学院講堂 Kobe College Chapel.
 ・神戸女学院講堂 Kobe College Chapel.
    消印は、大正十一年九月のようである。

    

   ・ 神戸女学院 音楽館  KOBE COLLEGE : MUSIC HALL.
    消印は、明治四十二年九月十六日である。
 ・神戸女学院 理化学館 Kobe College, Science Building.
 ・神戸女学院 理科学館 KOBE COLLEGE : SCIENCE BUILDING.
 ・神戸女学院家齋館 (作法室・裁縫室) Kobe College Household Science Building, Etipuette and Sewing Roonis.
 ・神戸女学院構内 あづま屋と向上館 KOBE COLLEGE : SUMMER HOUSE AND JUNIOR COLLEGE BUILDING.

   

 ・神戸女学院庭園ノ一部 Kobe College, Garden.
 ・神戸女学院庭園ノ一部 Kobe College, Garden. 

 

 ・〔神戸女学院:葆光館とバスケットボール・コート、テニス・コート〕 Kobe College, Academy Building and Athletic Field
 ・右上:View from Hills back of Kobe Kobe college, Science Hall Seen in Center 左下:View form the Front Gade of Kobe College
     左下の写真にある正門の表札には、右側が「私立 神戸女学院大学部」、左側が「私立 神戸女学院 高等××部 ××××× 高等音楽部」などとある。

〔蔵書目録注〕

以下の写真は、いずれも山本通時代の神戸女学院関係の絵葉書のものである。


「下田歌子一代記」  (二~四) (1915.7~10)

2020年06月12日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 

 下田歌子一代記
           記者

     祖母の苦衷

 相知り相信ずる者が主義見解の相違から互に相分れねばならぬ程、悲痛 かなしみ の強いものはありますまい。舅の平尾が琴臺と緣を絶つたのも、決して婿の人物に不足があるのではなく。琴臺が養家を去つたのも亦、舅や妻に不足があるのではありません。舅の平尾は藩主への手前。婿の琴臺は自分の節操の前に互に其主義を譲り合ふ事が出來ずに、相信じ相敬しながらも二人は自らの斧を以て自らの緣を絶たねばならぬ破目に陥 お ちたのです。此の主義と主義との間に挟まつて斷腸九廻の歎に泣いたものは琴臺の妻でせう。父に背いて良人 をつと に從へば、これ不幸の子。良人に別れて父に從へばこれ不貞の妻。腐つても彼女は武士の娘です。儒者の妻です。親 と良人へ操を立てる可く其身を刄 やいば の錆と消すは、恐らく彼女にとつては最も容易 たやす い手段でありましたらう。けれど、彼女の懐には當年二歳になる一子鍒藏が居ります。自殺は其時を得れば、自分の責任を果す雄々しい手段の一つともなりますが、其時を誤れば却 かへつ て其責任から免れる卑怯手段の一つにもなるものです。若し彼女の周圍に於ける事情が、彼女の自殺によつて悉く解決がつくものならば、彼女も喜んで自ら刄に伏したに違ひありますまい。併し、彼女には自殺が許されないのです。縱令 たとひ 、彼女が刄に伏して斃れたとするも、其死を以て琴臺の心を翻す事が出來ませうか。若しそれが良人の心を翻す事が出來ぬとすれば、彼女の死によつて救はれるものは、只、彼女一個の苦痛 くるしみ ばかりではありますまいか。彼女が惜しからぬ命を長らへ、良人に別れて父に從ひ、愛兒を抱いて空閨を守り、甘んじて不貞の妻となつて居たのは、それ丈け彼女が良人琴臺の人物をよく了解して居たものと言はねばなりますまい。從て、琴臺の離別が彼女にとつては、どれ程辛 つ らく悲しかつたかは想像する事が出來ませう。

    平尾鍒藏の人物

 親子三人、節操と節操の三つ鼎の間に人と爲つた東條琴臺の一子平尾鍒藏も亦琴臺の名を愧 はづかし めぬ儒者の一人となりました。琴臺が机上の腐儒と異つて居た如く、鍒藏も亦書齋の儒者ではなかつたのです。一時は藩の御指南番として、自分も道場を開き、藩の子弟を教養して居たのですから、劒道にも熟達して居たのは言ふまでもありますまい。琴臺が開國主義を奉じ、遂に養家を追はれた程節操の堅い學者であつた如く、鍒藏も亦尊王攘夷の主義を以て、終始、時の幕府に反對した所謂注意人物の一人なのであります。琴臺が幕府から睨まれて、遂に江戸を追放されました如く、鍒藏も亦江戸の浪士等と其志を共にし、極力、攘夷説を奉じて幕府に反抗したので、之亦其筋の忌諱に觸れ長く蟄居を申しつけられたのであります。琴臺の開國主義。鍒藏の攘夷主義。兩者 ふたり の奉じた主義は全く相反して居りましたが、兩者の精神が幕府の横暴を憎み、粉身碎骨、偏 ひとへ に尊王の實 じつ を擧ぐるに在つたのは、流石に南朝の忠臣脇屋家の血統 ちすぢ をひいた家柄です。琴臺の主義と鍒藏の主義とが、偶々、背中合せになりましたのは、畢竟時代の相違から生じた結果でありませう。一日も早く横暴の幕府を仆 たふ して、天下の權を皇室に復歸し度いと言ふのが兩者の願望であり、幕府の勢力を殺 そ ぐ事が終生の大事業であつたのでせう。安政元年八月九日、平尾家に呱呱 ここ の聲をあげた歌子女史が、若し男であつたならば、父鍒藏の喜悦 よろこび はどれ程でありましたらう。歌子女史にしても同じ事、男に生れて居たならば、維新以来の風雲に乗じて必ず回天の事業に不朽の名を止めたに違ひありますまい。祖父より父。世は漸 ようや く幕府の勢力も衰へかけた時に生れて、あれ程の學問と才を持ちながら女に生れ合はせたのは恐らく父鍒藏の無念ばかりでもありますまい。歌子女史は世に謂ふ男に生れそこねた女の一人ではありますまいか。

     幼時の歌子

 併し流石に其血統 ちすぢ は爭はれぬもので、歌子女史は決して只の女ではありませんでした。何しろ四歳の時、既に父が其子弟に教へて居る四書の素讀を聞き覺えに覺えてしまつた程悧發な性質 うまれ でありましたが殊に歌才に於ては先天的とでも申しませうか時は丁度、水戸の浪士が櫻田門外の雪を蹴散らして首尾よく井伊大老の首を打ち取つた其日、當時蟄居中の鍒藏は竊 ひそ かに二三の親友を招いて祝宴を張り、互に思 おもひ を歌や詩に事寄せて興じ合つて居りました。其時歌子のお鉐(幼名)も父鍒藏の傍 そば におとなしく控へて居りましたが、偶々父が冗談半分に
『どうだお鉐、お前も何か一つやつたら』
 と言はれて歌子のお鉐は、暫く可愛らしい小首をかしげて荐 しき りに考へて居りましたが、軈 やが て
 さくら田に思ひのこせし今朝 けさ の雪
と書いて父に竊 そつ と見せました。流石の父も一座の人も、これには少からず驚いたのです。其時父の鍒藏が
『大變よく出來たが、思ひのこせしではなくて思ひのこらぬの間違ひだらう』
と聞き返しましたら、歌子のお鉐は恁 か う言つて首を振りました。
『井伊さんの首をとつても、まだ異人の首をとらない間は駄目ですよ』
と。蛇は寸にしてその気を吐きました。

 下田歌子一代記
           記者

     ▲天才の發芽

 今猶、普通一般の家庭に於ては、女一通りのたしなみ以外、女の身を以て他の學藝に耽る事を好みません。縱令 たとへ 、斯道 そのみち にどれ程、天才の閃光 ひらめき をもつて居りましても、大抵は『女の癖に生意気な』の一句に二の句がつげず其儘永久に葬られてしまひます。況 ま して、算盤以外の學問は武士の事、町人風情には全く以て不必要だと言はれて居た時代、歌子の父の鍒藏が、夙 はや く其天才を認めて居ながらも、歌子が只管 ひたすら 讀書三昧に耽るのを餘り好ましく思はなかつたのは無理もありますまい。とは言へ、水の流と人の本性は、之を止めやうとしても容易に止まるものではりません。右を堰 せ けば左に溢れ、前を遮 さへぎ れば、横に開く。小河 をがは は大河に、大河は海に、往くところまで必ず行くものです。好きこそ物の上手なれ、四歳にして四書の素読を聞き覺えに覺え込んだ歌子の讀書癖は、年を重 と るに從つて愈々募つて來ました。殊に天稟 てんぴん とも言ふ可き歌才に於ては、流石の父も窃 ひそか に驚いて居りましたので、遂に八田知紀 とものり 翁に其添削教授を乞ひ、自分も亦漢詩漢文を授けましたので、歌子の天才は春の木の芽の如く生々 いきゝ と伸びて來ました。

     ▲藩中の御手本

 『平尾のお鉐さんは全く悧巧者だ』と言ふ評判がパッと藩中に知れ渡りまして、二た言目には『平尾のお鉐さんを御覧』と娘を叱る生き手本とされましたのは歌子のお鉐が十二三歳の頃でした。最早、其頃には、古今集などは夙 と うの昔に暗 そらん じ、漢詩も和歌も見違へる程上達し、一家の手紙などは皆、歌子が代筆して居りました。近所隣の評判や、八田翁の褒 ほめ 言葉を聞いて、ホクゝ喜んで居りましたものは平尾夫婦ばかりではありません。歌子にはまだ見ぬ懐しいお祖父 ぢい さんであり、鍒藏には一日も忘れる事の出來ない父の東條琴臺が、遠く江戸の地に在って、一人淋しく悧發な孫の消息を聞いて嬉し泣 なき の涙を流して居たのです。切れて切れぬは夫婦の緣。斷ては斷てぬは親子の情。『同じ勉強するなら東京に限る』と言ふ琴臺から孫の歌子に宛てた一本の手紙が楔となつて覆水復盆 ふくすゐまたぼん に歸り、平尾一家が目出度く東京で暮す事になりましたのは、丁度、歌子が十五六歳の時でした。

     ▲風来の若者

 之より先、父鍒藏の道場に、一夕 せき 、試合に來た旅浪人がありました。見ると、五尺に足らぬ小男でありますが、腰には無反 むぞり の長い刀を打ち込んだ血気の若者です。先づ型の如く、道場に案内して二三の弟子と仕合 しあひ をさせましたが、年齡こそ若いが其腕前の冴え振りには誰も彼も齒も立ちません。瞬 またゝ く間にニ三人の者は打ち据ゑられてしまひましたので、今度は鍒藏が代つて竹刀を取り上げ立合ひましたが、成程、五分の隙もありません。其日は互に懸け聲のかけ合 あひ で引き分れ、翌日も亦立合ひましたが前日同樣矢張り勝負がつきません。今度こそは是非一本まゐつてやらうと言ふ意気込みで、其又翌日も勢ひ込んでやりましたが、之れ亦、勝負を決する事が出來ませんでした。鍒藏も酷くこの若者の腕前に惚れ込み、其儘、家 うち へ引き止めて置く事になりましたが、そもそもこの風來の若浪人が、歌子に取つては忘れる事の出來ない亡夫の下田猛雄なのです。

     ▲無反の猛雄

 この下田猛雄は民谷流の達人島村勇雄の高弟で、殊に左胴の名人でした。『下田の左胴』と言へば當時誰れも知らぬものはありません。山岡鐵舟なども大 おはい に舌を卷いて居た一人です。五尺に足らぬ小男でありながら、いつも腰には二尺五寸と言ふ長い刀を落差 おとしざ しにして居たので『無反の猛雄』と言ふ綽名で通つたものです。流石に鍒藏の眼鏡に叶つた丈けに、却々 なかゝ 気性の勝つた一代の快男兒、眞に佳人才子の好配偶でありました。此頃の歌子は世間で言ふやうな性來の淫婦でもなければ、妖婦でもないのです、歌子が祖父琴臺の手紙に若い血を湧かして東京に來ましてから、その許嫁の良人 をつと 下田猛雄に死に別れるまでの前後十餘年間の辛勞は普通 なみ 一通りのものではなかつたのです。

 下田歌子一代記
           記者

     ▲團扇繪師となって藥代を稼ぐ

 他力生活が自力生活に代つた維新の改革が、當時の人の生活に種々の悲劇となり、喜劇となつて現はれましたが、少くともこの維新の改革が思はぬ媒介 なかだち となつて茲に目出度く家庭劇の終りを告げたものは下田一家でありました。相抱ける主義の相違から可愛い妻子と別れて養家を去つた東條琴台は其間獨り江戸に在つて淋しい生活をつゞけて居ましたが、いかに時勢が移り變つたとは言へ、再び一家圓滿の春を迎へやうとは夢にも思はなかつた事でありましたらう。廢藩後間もなく鍒藏が住み馴れた郷里から一家を舉げて琴台の許 もと に移つて來ましたのは、丁度、お鉐 せき の歌子が十五歳の時でした。當時、師の八田知則 とものり 翁も江戸に上つて既に宮内省に出仕して居ましたので、お鉐にとつては重ねゞの幸福 しあはせ であつたのです。
 處 ところ が、その喜びもほんの束の間、まだ一家の生計も碌々形がつきません中 うち に、父の鍒藏は重い眼病に患つて床に就きました。さなきだに生計に苦しんで居た事とて、忽ちの間に其日の藥代にも困る程の境遇に沈んでしまつたのです。生來、負けぬ気のお鉐が、どうして此一家の貧乏を空しく見つめて居る事が出來ませう。幸ひ、幼少 ちひ さい頃から好きで覺えた繪筆をたよりに陶器の上繪を描きせめては父の藥代でも稼ぎたいと言ふ健気な心を起して父に許 ゆるし を乞ひましたが、いかに零落したとは言へ武士の端くれ、父は涙ながらにお鉐の願を斥けました。とは言へ他に収入の道があるのでもなれば一家は日毎に益々貧乏の淵に底深く沈むばかりでした。最早、今となつては他に方法もない、父に無斷で事をするのは甚だ心苦しくはあつたものゝ背に腹は代へられない。お鉐は獨り心中 こころうち に決心の臍 ほぞ を固め、誰に一言の相談もなく新橋停車場から横濵までの三等切符を買つて横濱居留地の外人貿易商に抱へられて居た河野英齋と言ふ繪師を叩いて事情を訴へました。河野も其志に酷く感心したものと見えて、試 こころみ にニ三枚の繪を描かして見ましたが、却々 なかゝ 小器用に描くところから、早速、お鉐の賴 たのみ を容れて團扇 うちは の上繪師 うはゑし に採用することになつたのです。其後は毎日父の手前を宜い加減に言ひ繕つては横濱に通ひ、汗水流してせつせと團扇の上繪を書いてはそれに依つて得た報酬を父の藥代に宛て專ら孝養を盡した甲斐が現はれて、さしもの眼病も一年餘で全く平癒しました。其間、お鉐は毎日往復の汽車の中で歌を作つては、八田翁の許へ送つて添削を請ふて居ましたが、最早、其頃は八田翁も舌を捲く程に和歌も上達して來たのです。

     ▲歌子の名を賜ふ

 當時、師の八田翁は宮内省の御用掛を拜命し、照憲皇太后陛下の御製を日々拜見する光榮に浴して居りましたが、或日、偶々お鉐の歌才を上聞に達すると有難くもお召出の御諚を賜つたので早速其旨をお鉐に傳へました。お鉐は気も轉倒するばかりに感泣し、直に仰せを畏 かしこ みて師の八田翁に供はれて伺候いたしました。其時畏くも、 陛下にはお鉐の歌才をいたくも愛し給ひて歌子と言ふ御名 おんな を下し賜り、八田翁も大に面目を施して御前を引下りましたが、其時お鉐が奉 たてまつ りました即詠は
  敷島の道はそれともわかぬ身に
    あやふくわたる雲のかけはし
 爾来歌子と名乗て暫く宮内省に出仕して居りました

     ▲區役所での気焔

 其時の事でありました。お鉐は早速區役所に駈着けて改名届を差出しましたところが、どうしても區長が許可しません。其處で歌子は『恐れ畏くも皇后陛下より賜つたお名を公 おほやけ に用ひては惡いのですか』と一本參つたので、區長も平身低頭、其罪を謝したといふ話が遺 のこ つて居ります程、歌子女史の得意振りが眼に見えるやうです。其後、歌子は元田永孚、福羽美靜などの諸氏に師事して只管 ひたすら 教を受け、砂中の寶玉 ほうせき は茲に全く磨かれたのであります。其間、歌子と許嫁 いひなづけ の良夫 をつと 、下田猛雄は麻布永坂に道場を開いて數多 あまた の子弟を教へた居たのです。何しろ左胴の名人として知られた剣客であり、當時はまだ江戸市中、腥 なまぐさ い風が吹いて居りましたので、西南戦争頃までは其門に集つて來た子弟も却々 なかゝ 少くはなかつたのですが、世間も漸 ようや く靜かになると共に、刀を算盤に持ち代 かへ る者が多くなるに從つて、漸く寂れ出した。

 上の写真と文は、何れも雑誌 『女の世界』実業之世界社 の以下の號に掲載されたものである。

   

 (二):大正四年七月一日發行 七月號 第一巻 第三號
 (三):大正四年九月一日發行 九月號 第一巻 第五号
 (四):大正四年十月一日發行 十月號 第一巻 第六號


「女子英学塾の学風」小翠女史 (1907.10)

2019年10月20日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 女子英学塾 絵はがき

     

 ・〔津田梅子、A.C.ハーツホン〕
 ・SCHOOL BUILDING  JOSHI EIGAKU JUKU
 ・CLASSROOM     JOSHI EIGAKU JUKU
 ・LIBRARY JOSHI EIGAKU JUKU
 ・GYMNASIUM JOSHI EIGAKU JUKU

  

 女子英学塾の学風 小翠女史

 麹町は五番町、英国大使館の裏手の極静な所に、あまり大きくはないが瀟洒な建物があります。是 これ ぞ知る人ぞ知る津田梅子女史の女子英学塾で、此中に百五十有余人の生徒が、慈愛深き先生方を父とも母とも頼み参らせて、楽しく忙しく勉強して居るので御座います。
 
 △塾長 津田梅子先生▽

 塾長は皆様も御存知の津田梅子女史で、女史は九つの小さな時分から、米国へおいでになって、専ら米国 あちら の教育をお受けなすった方です。さればまるで西洋人のやうに、あちらの事情に通じて居らっしゃる上に、素々 もともと 日本人ですから、日本の事情もよくお飲み込みで、殊に語学に於ける日本人の短所をよく御存知で御座いますから、西洋人に教 おそ はって何処か不安心に感ずるやうな事はなく、ハキゝと解って行きますの、ですからどんな頭の鈍い人でも、女史の御教授ならば、知らずゝ覚えてしまひますし、どんな六ヶ敷 むつかし い事でも笑談の中 うち にサラリと分るやうな事は決して珍しくありません、経験の積んだ結果としませうか、天稟 てんりん の才と申しませうか、とにかく女史の高き人格と共に此教授法は、誠に当世の一異彩だと思ひます。

 △生徒の自由▽

 塾長は又生徒の自由と云ふ事に重きを置いて居らっしゃいます。常に生徒に仰っしゃるには、人は猿ではありませんよ、猿廻しに綱をつけられて、その綱の加減で進んだり退いたりするやうでは、誠に恥かしいじゃありませんか、私は皆さんに綱をつけたくない、どうか自由があげたいのです。しかし自由と云ふ事を間違へて、自分の勝手気儘にする事だと思っては困る、たとへ綱はつけなくとも、善悪に変りはない、何処までも善は善であるし悪は悪である、たから自分でよく考へて、なす可きはなし、なす可 べか らざるはなさぬと云ふ事にして貰ひたいのです。自由とは自分で善悪の判断をつける事で、自由を得て楽になると思ふ人があるかも知れませんが、自由には責任と云ふものが附いて居て、中々苦しいのです。しかしそれが出来ねばやはり猿のお仲間たるを免れません。と、
 ですから他の大方の学校のやうに、出入に通知簿と云ふものも有りませんし、すべてああせよ斯うせよと云ふではなく、如何 どう したら宜かろうかと云ふ題を與 あた へて、生徒自身に判断させるやうになって居ります。

 △学級の分け方▽

 学級は本科(師範科選科)三年、予備科三年になってゐます。殊に師範科は無試験で中等教員になれる特典を、一昨年文部省から賜はったのです。本科は三年とは云へ、お役目のやうに三年居れば必ず卒業が出来ると云ふわけではありません、完全になって是 これ ならば何処に出しても恥かしくないと云ふやうになって、始めて卒業が出来ますのです。されば本塾卒業生は、今迄文部省の検定試験を受けましても、一度も失敗した事がないのです、是等を見ましても、いかに実力があるかゞお分りになりませう。

 △勉強の仕方▽

 お稽古はそれはゝ忙しいのです、予習をするだけでも、余程手廻しを能くして置かなければ、時間までに出来なくて、教場で赤い顔をなければならない、まして毎日々々習った所を復習しやうとすれば、中々骨が折れます。で、勉強の為方 しかた のまづい人は、試験前になって急に大慌て、ついに無理な勉強もするやうになります。斯 か く忙しいのですが、又面白味も多くて、しかも先生方が熱心に教へて下さるので、生徒の方でも気が乗って一生懸命になる、すると先生の方でも張合が出て、尚熱心に教へられる、と云ふ風で教場の中はいつも活気に満ちて、キビゝして居るので御座います。分らない事があれば、何処までも質問しますので先生は喜んで、いつもかう仰っしゃいます。「大抵の女学生は分らなくても、分った振りして質問をしないが、此処では能く質問が出て、私共も満足に思ひます。」
 問ふは一時の恥、知らぬは末代まで恥とやら申しますが、学校で分らない事を聞くのに、何の恥しい事がありませう。分らない事はよくよく質問して、スッカリ分った其時の嬉しさ気持よさ、例へるものも御座いますまい。

 △運動も盛んです▽

 右のやうにお稽古が忙しいもので、つい運動の方は疎 おろそ かになり勝 がち になります。塾長は此事を大層心配なすって、しきりに運動を奨励して居らっしゃいます、今ではテニスコートが二つ、ピンポン一組、其外にクロッケーをも供へてあるのです。近頃又テニス会と云ふものを組織して、毎月一回開会て競技する事になって、先生方も御列席下すって、生徒の運動振を御覧になる、其外に毎週一回遊戯の時間が設けてあって、体操先生の御監督の下に色々の舞踏をするのです。此時は学課の忙しい事も忘れ、心の中の憂さも忘れて、あの美はしいオルガンの音と共に、心は天へでも昇るやうな気がします。

 △年に二回の遠足▽

 年に二回春と秋とに遠足が催されます。遠足の主意は、日頃勉強に追はれて、打解けてお話する機会が少ないので、此日には心の鍵をはづして、楽しく笑ひつお話しつする為めで、くたびれて明日の課業を休むの、激しい運動をして翌日は た てないのと云ふやうな、過激な運動をとるのは、此塾では望む所ではありません。されば先生も今日は教壇上の威厳はスッカリ打捨てゝ、親しく心置きなく生徒に交ってお遊びなさるのです、眺めのよい山や海で、親しい友達が打寄って、持参のお弁当を開く時の嬉しさは、皆さんとて御経験がおありなさる事でせう。

 △文学会と同窓会と△

 毎月一回、文学会が開かれます。先生も生徒も皆講堂に集まって、当選した人が対話だの英詩暗誦だの、又は和文朗読などをするのです。会がすんだ後に先生の御批評があるのですから、見て居る方は面白くて、当選した人達の心配は又一入 ひとしほ です。一学期に一度づゝ大文学会が催されて、此時は服装もスッカリかへて、それはゝ見事です。御馳走もどっさり出ます。名士の御演説は文学会の後に御願ひいたすのです。
 また卒業生の為に毎年一回、同窓会が開かれます。先生は久しく別れて居た子供が帰って来たやうに、さも嬉しさうに歓迎なさいますし、生徒はなつかしい姉様に逢ふやうに、心づくしの余興や御馳走をして、ともに楽しく一日をすごします。

 △卒業送別会▽

 凡そ此日ほど妙な感じのする時はございますまい、自分が昇級した嬉しさと、朝夕慣れた姉様達を送る悲しさと、胸の内でごちやゝになって送別会の準備も夢の中にして居るやうで御座います。
 何しろ姉様達がこのなつかしい家をお出てになって、浪風の荒いと云ふ世の中に始めてお入りなさる首途 かどで でございますから、有ったけの智慧を絞って、送別会を盛 さかん にするのです。生徒のかくし芸は此時皆出されて、人をアッと云はせる位、実に目ざましいもので、日頃真面目な方々がどうしてこんな事を御存知かと、全く驚いてしまひます。

 △英学塾の誇▽

 終りに是非申して置きたい事は、世の大方の人々は、英学塾とし云へば、生意気でお転婆な女学生の張本のやうに考へて居らっしゃる方が多う御座いますが、本真 ほんとう は全く反対です、生徒は皆丁寧です、親切です、そして何所迄も淑 しと やかです。是は英学塾の誇りの一 ひと とすべき者でせう。
 一体此塾は英語を一 いつ の技術として教へるのが目的でなく、よい人物を作ると云ふのが本真の目的ですから、生徒もよく其旨 そのむね を守って、人格の修養に心がけて、立派な淑女にならうと勉 つと めて居るので御座います。
 こんな真面目なこんな立派な学校に生徒たる人々は世の幸運児だと私は思って居ます。

 上の文は、明治四十年十月十五日発行の少女世界定期増刊 第二巻第十四号 『わが学校』東京 博文館 に掲載されたものである。
 なお、下の写真は、裏表紙の共益商社楽器店の広告である。

 


津田梅子女史(1905.2)

2019年04月10日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

  

 津田梅子女史  独尊堂主人

 新渡戸稲造博士嘗て曰く、日本に於いて最も英文を能する者数人、而して頭本元貞、内村鑑三氏等は世既に定評あれども、之と比肩して毫も遜色無きは実に津田梅子女史なりと、言や頗る簡なりと雖とも而も、我が英文界の一大明星、新渡戸博士其人の口より、親しく斯 かか る評論を聴く、以て女史の真価を窺ふべく、之と共に我国女流の価値を高むること幾千丈なるものありと謂ふべし。
 女史は我国農業界の先覚者学農社長津田仙の二女、慶應元年を以て東京牛込区南町に初めて呱々の声を揚ぐ、阿爺仙君当時外務省にあり、杉田廉卿(嘗て医師たりし人にて、当時外務省に同勤)なる人と、親密なりしより、其人の教へ隨 したが ひ、女史の尚ほ母胎にありし折より注意して、之を学理的に教育せんとは為しぬ、即ち独逸文を和蘭文に訳せし産科書に基き、胎教より始めて、完全なる教育を施さんとは為したるなり、之が為めに女史の母は既に女史の胎中に宿りしより後、其寝状(寝状は仰 あほむ けに寝ねて足を寛 ゆる りと置き、手は平らに置く)より食物に至るまで悉く注意して出産の折を俟ちつゝありしが、軈 やが て容顔玉の如き女兒は其初聲を放ちたり、是に於て、其後の教養又書物に指示 さしゝめ すが如くに為さんと努め、少しも之か教養を怠る事なかりき、其方法は如何と云ふにまづ兒をして一日に二度づゝ湯に入らしむ、朝の湯は微温湯を用ゐて中途に注湯 さしゆ を為す事なく、晩の湯は同じく微温湯を用ゆれども少しく中途に湯を注 さ す事を為す、而して二回共兒の身体を能く洗ひ、必ず洗ひ立ての襦袢を穿たしむ、大小用など為さしむるにも必ず時計を以て之を計り、乳を飲ましむるにも亦之を怠らず、而して其乳を與ふるに当りては、胃中に能く入らしむるが為め、必ず直立に之を抱 いだ きつゝ飲ましむるを例とし、寝 い ねしむる時も決して抱寝を為す事なからしむ、乳の如き、少しく残酷なるが如きも、夜間寝ぬる時飲ましめし儘 まま 、暁に達するまで之を飲 のま す事なし、然れども、小兒は、嘗て之を欲するが如き状なきと共に、夜中一回も大小便等を漏 もら せし事なし、母乳を與ふる事の如きも書に隨つて生後九個月目にて止め、其代りとして粥又は牛乳を用ゐしが、発達頗る佳良にて、最も愛らしき女兒として、成長したり、
 斯 かく の如く一切学理に随つて教養せしに、小兒の発育頗る円満なるを見て、父母の喜び譬 たと へんに物なく、掌中の珠と勤 いそし み育てしが、軈て自由に歩行し得る頃と為りしより、体育の為にとて舞踏 をどり を浅草なる某に就きて育はしめぬ、然るに一を聴きて十を知る聡明さ、舞踏の道も世の常の小兒よりは五六倍も早く覚えしより、師匠も大に望みを属し、此兒ならばと只管 ひたすら 熱心に教へける、当時一家は牛込より転じて向島にと居を占め居りしが、其業務上の都合より又も芝区に転ずる事とは為りぬ、然るに其居の少しく距 へだゝ りしが為め、其後は絶えて舞踏の稽古をも為さしめざりしが、師匠は酷 いた く之を惜 おし み、是非共此兒には習はせたしとて、我が家に来ると能はずは、自ら赴き教授すべしと強請せし事すらありと云ふ、尚ほ当時に於ける女史のことを聞くに、其頃女史は家庭にありて、母より百人一首を授けられしが尚ほ六歳の幼児なるに係はらず、其人物の座し居る台(百人一首にある人物の絵の台座は皆百人共異なり居ると云ふ)のみを見れば既に悉く其人の詠歌を誦し得たりしと云ふ
 斯くて女史は其齢 よはひ 七歳と為りしが、折から黒田清隆氏北海道に長官として、同道開拓の志あるに遇ひぬ、氏は先づ是等の目的を達せんには、完全なる教育ある女子を造らざるべからずとの意見にて、米国に赴かしむべき女子を募集したりぬ其募集人員は四五人なりしが、女子をして海を渡りて外国に赴かしむる如きは、開闢以来曾てあらざる事とて、人々皆恐怖の念を抱き、容易に之に応ずる者なかりき、然るに父翁仙氏は嘗て欧米にも渡航せし事あり、決して尋常一様の阿爺にあらざれば、断じて女史を留学せしむるに決し、折から岩倉大侯の一行、欧米漫遊の途に上らるゝを幸ひ、之に托して渡航せしむる事と為りぬ、
 女史当年正に七歳、普通より云へば尚ほ乳房を離れざるの年頃なれども、将来英邁の婦人と仰がるゝ女史、何の恐るゝ気色もなく、喜び勇んで波濤万里を越え、西半球の米国には向はんと思ひ立ちぬ、同行の留学生は今の大山侯爵夫人捨松子其他数人なり、出発に先つ数月、父翁女史に告ぐるに『お前は米国へ往 ゆ けば牛ばかり食つて居ねばならぬが善ひか』と問ひしに、女史は『それでは牛を食ひませう』とそれより毎日牛肉をのみ喫し、出発後の準備オサゝ怠りなかりしと云ふ、以て女史が如何に楽しく、米国行の事を待ち詫び居たるかを見るべし、
 軈て太平洋の波の音は、幾夜重なる夢を破り、隈なき海上の月を眺めて、名のみ聞く米国の地へは着きたりしが、其後は華聖頓 わしんとん を赴きて後の文部大臣森有禮氏の紹介により、チャーレス、ランマンなる人の許 もと に預られ、アダムス校にて教  受 ぬ、此ランマンは有名なる米国の政治家ダニエル、ヱブストルの教を受けし人にて、当時日本公使館に在勤せし人なりき、女史は既に志望せる国来り、今又斯る好紳士の許に預けられしより、幼年ながら熱心に勉学せしが、漸々英語に熟達するに随ひ、日本語の方は漸く不得意と為り、其父翁に寄する書面の如きも、初め相応にいろはにて認 したゝ め得たるもの、後には竟 つひ に甚しく粗悪なる文字と為りたりしと云ふ、
 官費にて洋行せしめられし事とて其学費は最も裕 ゆたか に支給せられぬ、年千弗 どる づゝの学費は到底幼年の女史には費消し終る事能はざりしなり、因 よ りて屡々父翁より其残余を返さんことを述べしも許されず、竟に帰朝の際金貨六百弗を以て、ピアノ一台を買ひ帰りしと云ふ。
 女史の米国にありしは正に十箇年、其間孜々 しし として只管螢雪の功を積みしが今は相当の学識をも積み、文明国の実情にも通ぜしより、一度父母の安否を問はんものと、帰心は実に矢の如く、軈て太平洋通ひの一汽船は此可憐なる女史の英姿を乗せて風光明媚なる横浜の波止場には着きぬ、噫頭を回せは、郷国を出でしより、既に十一年目なり、身は弱 かよわ き女の身の、心強くも能く、波濤万里の空に、長の月日を送りけるよと、我ながら我が大膽なりしに呆れつゝ、取る物も取り敢へず、父母の居を訪 と ひ、『今帰りました』と挨拶すれば、之を見たる母の喜び、父の笑顔、誠に天地も崩れんばかりの歓声、暫く一家に響動 どよめ きける、
 去れど尚ほ妙齢可憐の一女子、春秋も未だ裕 ゆたか なるに、此儘郷国に埋没せんは悲しむべき限なりとて、二度米国の空に向ひ、尚ほも其学を磨き上げんとは志しぬ、即ち家に留ること三年の後女史は再び太平洋の波を破りて、我が第二の故郷なる米国の地には向ひたり、此折の目的は生物学と教育学とを研究せんとにありて、女史は先づ費府 ヒラデルヒア のグリンモール大学に入りて生物学を修め、後紐育 ニューヨーク のオセゴー大学に入りて教育学を修めぬ。
 此行は在米二年にして帰国せしが、爾 しか りしより後、女流英学者としての風聞は最も高く、帰朝後直に華族女学校の教授を命ぜられ、斯くて幾多の才媛淑女を教育する事とは為りぬ。
 折から米国に万国婦人会開れしより、女史は政府の依嘱に因り之に赴きぬ、然るに席上一場の演説を為せしが為めに大に欧米上下の喝采を博し、竟に英国のカンターベリー僧正の夫人等より招待を受けて、同国に赴く事と為り、備 つぶさ に同国の女子教育を視察して目出度帰朝したりぬ、是れ今より六年前の事にて、其後女史は又華族女学校の教授と為り、又女子高等師範学校の教授をも兼ね、続きて自ら女子英学塾を開校するに至りたり、此中女子英学塾は女史が理想的の教育を施さんとする所のものにて、専ら女子に高等の英語を教授するを主とし、生徒は百人の外入学を許さゞる事と為り居るなり。
 女史は又万一己の死する事あるも、同塾の教授に其人を欠くが如き事なからしめん為め、米国に於て募金を為して一万弗の金を得、之れを資本と為して同校卒業生中最も有望なる者を米国に於て教育するの道を立て、既に前年より之を実行し居れり。
 此外女史は自ら主幹と為りて英文新誌を発刊し、又時に応じて慈善事業を行ふ、今回の戦争の如きにも、我が在満州の兵に向ひ、腹巻五千五百人分と靴足袋四千五百足(其中には多く寶丹を入る)とを贈り、在赤十字社の病兵に対しては腹巻千三百人分を贈り、尚ほ恤兵部其他に向つて多数の靴足袋等を贈らんとの準備中にあり、誠に盛んなりと謂はざるべからず、
 女史の性は頗る謙譲の徳に富み、多く世に知らるゝを好まず、然れども其徳のある所、世に顕れざるの理なければ其齢今日四十を越ゆる尚ほ一二なるも、盛名は、既に天下に嘖々 さくさく たり、明治年代の名媛として本誌は之を世に紹介せざるを得ざるなり。

 附言、女史謙譲にして己の真影の世に知らるゝを好まず、写真の如き之を借らんことを請ひしも許さるゝ所なし、然れども天下幾多の女史を知らんとする者、若し其写真を掲げずんば記者を責むるを如何せん、よりて某氏より借りて之を掲く、請ふ之を恕せよ、

 上の文と写真は、明治三十八年二月一日発行の雑誌『成功』第六巻第貳号に掲載されたものである。


『思出』(日本女子大学卒業アルバム)(1918)

2018年09月27日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

  

 思出 二五七八〔大正七年:一九一八年〕

    

 〔題字等:下はその一部〕

 ・自念自動 
 ・卒業の歌

 〔写真〕

 ・行啓記念
 ・卒業式
 ・正門〔上の写真:左から1枚目〕
 ・講堂
 ・講堂〔同2枚目〕
 ・櫻楓館〔同3枚目〕
 ・家政館
 ・香雪化学館
 ・晩香村〔同4枚目〕
 ・夏期寮
 ・英文科授業、師範家政科物理実験〔同五枚目〕
 ・家政科体操、師範家政科割烹

     
 ・成瀬仁蔵、麻生正蔵
  〔以下、名前の読める者〕
 ・松浦政泰、塘茂太郎、渡辺英一、渡辺鎌吉
 ・川野健作、中村進午、長井長儀
 ・近藤耕蔵、後藤牧太、阿部次郎、武島又次郎、岸本能武太
 ・三宅秀、白浜徴、白井規矩郎、島田重祐
 ・犬飼すみ、井上秀子〔上の写真:左から1枚目〕、手塚かね子
 ・Tano Jodai〔上代タノ〕、●、●、E.G.Philipps、R.H.Clake〔同2枚目〕
  〔以下は、生徒の写真、その中で留学生と思われる者〕
 ・程孝福〔同3枚目〕
 ・張來淺〔同4枚目〕

写真 江木本店 東京神田


『日本女子大学校一覧』 (1902)

2018年09月20日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

    

 日本女子大学校一覧

  日本女子大学校  東京市小石川区高田豊川町十八番地  
  敷地 五千五百二十坪五合 
建物 八百二十三坪八合九勺
建物内訳 
   イ 大学部(一部分)  二階建 一一六坪三九
   ロ 高等女学校     同   二五一 五〇
   ハ 理化教室      平屋   四七 二五
   ニ 寮舎        二階建 一〇八 〇〇
   ホ 同         同   一四四 〇〇
   ヘ 教師館       同    二五 七五
   ト 同         同    二五 七五
   チ 同         同    二五 七五
   リ 割烹假教室     平屋   一五 〇〇
   ヌ 物置        同    一二 〇〇
   ル 浴室        同    一八 〇〇
   ヲ 湯呑所       同     九 〇〇
   ワ 便所        同     八 〇〇
   カ 同         同     八 〇〇
   ヨ 門衛所       同     四 五〇
   タ 供待所       同     五 〇〇       

 〔写真〕

 ・校舎〔左から三枚目〕 ・校舎 ・理科教室 ・寮舎〔左から四枚目〕 ・花園 ・日本女子大学校職員生徒 ・附属高等女学校職員生徒

 日本女子大学校一覧 

 ◎方針 本校教育上の方針は、女子を、人として、婦人として国民としての、三方面より教育するに在り。
 ◎人としての教育 第一、本校が、之を器械視せず芸人視せず、単に眼前実用の学芸のみを授けずして、人間として当然具備すべき心身上の能力を啓発開展し、如何なる境遇に処し如何なる職業に従ふも、欠くべからざる人格を養はしむるは、是れ人としての本分を尽さしめんとすればなり。
 ◎婦人としての教育 第二、婦人には婦人として特別に修むべき徳あり、磨くべき知あり、備ふべき芸あるが故に凡て此等の婦人に必要なる智徳芸能を授け以て賢母たり良妻たらしむるは、是れ女子として尽すべき天職を全うせしめんが為なり。
 ◎国民としての教育 第三に、国民たるの観念を与え、社会の一員たることを自覚せしめ、以て日本婦人としての徳性を備へしむるは、是れ国家社会に対し、国民としての女子の義務を尽さしめんとすればなり。本校は如上の主義実行の方法として第一
 ◎開発主義 の教育を施し、生徒をして自ら研究し工夫し動作する習慣を養はしめ、漫に他人を模倣し教師に依頼するの弊に陥ることなく、徒に博識多能ならんよりは寧ろ事物の真相関係を弁知し、芸術の原則妙理を会得するに必要なる智力を練磨し、他日卒業の後に於て万般の事物に接して永く効力を有し応用自在ならんことを期す。殊に徳育に於ては自奮自脩、他の指揮を待たず、進んで各自の職を尽すの良習を養成せしめんとす。
 ◎特性の発育 第二は、生徒各自の特性に適合する教育を施すに在り。才に適不適あり、即ち必修撰修両科を併置して、学科科目選択の自由を与えへ。体質に強と弱とあり、即ち室内に戸外に、種々の装置を備へて、各々自適の運動を撰はしむ。徳性又其習慣気質を異にする所あり、即ち又適宜の訓戒奨励を与へて、其品格の陶冶を計るなり。尚此外に
 ◎本校の特色 とせんとする所のもの一あり。即ち万事に於て、本校は一方には官公立学校の長所を採り、一方には私立学校の短所を棄て、形式に流れす又不規律に陥らず、善く形式と精神とを調和融合せしめんことを期する是なり。
 ◎創業の発端 本校創立の発表は、正に明治二十九年に在り。時の総理大臣伊藤侯西園寺侯大隈伯内海男北畠男等、主として熱心なる賛意を表せられ、殊に大和の土倉庄三郎氏と大阪の広岡浅子は、募金費を担任して、大に力を假されたり。此際
 ◎発起人
 ◎創立委員 翌年四月に開かれたる発起人会の結果として、
         伊藤徳三    男爵 岩崎彌之助
         磯野小右衛門     稲垣満次郎
   侯爵    蜂須賀茂韶      原六郎
         濱岡光哲       土倉庄三郎
   伯爵    大隈重信       大三輪長兵衛
         大倉喜八郎   子爵 岡部長職
         川崎芳太郎      嘉納治五郎
         高崎親章       田中源太郎
         田中市兵衛      田村太兵衛
         辻新次        成瀬仁蔵
   子爵    長岡護美       村山龍平
   男爵    内海忠勝       野崎武吉郎
         久保田譲       山本達雄
         薮田勘兵衛      前川槇臧
   公爵    近衛篤麿       兒島惟謙
         淺野総一郎   子爵 秋元興朝
   侯爵    西園寺公望   男爵 北畠治房
         菊池侃ニ       三井高保
         三井三郎助   男爵 澁澤榮一
         廣岡信五郎   伯爵 土方久元
   工学博士  平賀義美       森村市左衛門
         住友吉左衛門
 の諸氏創立委員となられ、委員長には近衛公を推せしも、公は職務多端の故を以て大隈伯に譲られ伯即ち之に当られ、
 ◎会計監督
 ◎教務委員
 ◎賛助員
 ◎資金の募集
 ◎建築委員 として、男爵岩崎彌之助久保田譲兒島惟謙三井三郎助男爵渋沢栄一住友吉左衛門の六氏は挙けられ、文部技師久留正道氏は、好意を以て設計監督の任に当られ、茲に本校々舎理科教室各一、教師館三棟、寮舎二棟、浴室一棟、門衛舎一棟、計六百七十五坪余の建物は、三十四年四月中旬を以て、三井家寄附の五千四百坪の地に建られ、直に開校式を挙くるに至りたり。
 ◎位置 目白台の中央、細川邸に隣り、樺山邸に対する処、鬱蒼たる古樫の其四方を繞くるもの、之を日本女子大学校とす。地高く、水清く、気新に境閑なり。門を入れば幾株の老桜、路の左右に並ひ、巍々たる灰白色の
 ◎校舎 両翼を張て其前に横はる、之を附属高等女学校の教室とす。大学部教室の敷地は其前方にして、其右翼に当る一部は工事正に落成せり。廊下を以て高等女学校教室の東に列るものを、理科教室とす。これは岩崎久彌男の寄附なり。両舎の間を北すれば、二個の教師館に挟まれて、二層楼の寮舎の東西に亘れるを見る。此寮舎と校舎との間に、一大
 ◎花園 あり。大隈伯の寄附に係る。円形の花壇を中心として、幾多扇形の花壇之を繞 めぐ り、其間縦横に小径を通す。異花爛熳、珍卉馥郁、花鳥月夕、其間に逍遥す、清快それ幾千ぞ。
 ◎入学者頻々
 ◎皇室の恩賜
 ◎江湖の同情
 ◎社会の注目
 ◎大学部
 ◎家政学部
 ◎国文学部
 ◎英文学部
 ◎三学部共通の学科
 ◎科外講演
 ◎高等女学校
  〔表〕日本女子大学校在学生徒数府県別調(明治丗五年五月十五日現在)
 ◎高等女学校の教員 穂積銀子は国語作文及家政を、法貴すゑ子は歴史及地理を、戸川安宅氏三輪田真佐子は国語を、川端玉章戸田玉秀両氏は毛筆画を、富田久子は唱歌及音楽を、小野鵞堂中村梅太郎両氏は習字を、濱田文子川瀬文子村井知至氏山本春子、松浦政泰氏ミセスケデー、ミス、エモルソンは英語を、成瀬仁蔵麻生正蔵両氏は修身を、倉田泰子は国語地理を、松井昇氏は用器画を、佐野とく子は英語及数学を、白井規矩郎氏は体操及音楽を、平野はま子は理科体操及英語を、川瀬文子は体操を、石原咲四手井栄吉吉田貴三子は裁縫を、夫れゝ懇篤に教授せらる。
 ◎体育 は本邦女子教育の弱点にして、又女子其者に最も欠くべからざる所のものなれば、本校は特に之に重きを置き、室内に戸外に、各種の装置を備ヘ、生徒をして各自から喜ひ勇んで之に当らしむると雖とも単に校則として体操を課するのみならず小にしては一身大にしては一家及社会の体育及衛生に関しても各自に注意するの習慣を養はしめんことを期す、今其大略を記さんには、之を教育体操園芸体操、容儀体操及遊戯お四部に大別す。尚少しく、詳記すれば、米国式あり英国式あり、仏国式即デルサートあり、又表情体操あり、英国式にはアリス式とハドソン式とあり。之に使用する機具の如きも、木環、毬唖錫、鈴傘、シムバー、プラム、扇子等其数一にして足らす。遊戯に至ては、ローンテニス(庭球)女子ベースボール、クロッケー、ホッケー、バスケットボール(籠球)、テザーボール(傘毬)、スカーフ(虹霓布晒)、其他各種の欧米の新遊戯あり。一々記するに遑あらず。 
 ◎寮舎 本校の寮舎は、善良なる家庭を理想とし、又社会との関係をも保たしむるを期す。之を七寮に分ち、(外に八九両寮あり尚目下樺山邸内に三寮の増築中なり)各寮二十六名の女生を容る。各寮一名の寮監ありて、寮生と起臥を共にし、校内在住の校長学監と共に、父母兄姉に代て、監督の任に当り、衛生及び疾病のことに関しては校医医学士高田耕安、ドクトル小此木信六郎二氏之を監督し女医前田園子は日々出張して病者を診療せらる又寮生の中より一ヶ月交代に主婦二名を撰ひ、専ら寮の経済炊事其他の家務を整理せしむ。寮の内外の酒掃、燈火の準備、配膳の用意等、皆寮生の順番に担任する所なり。本校が此の如く家族制度を採用するは、生徒をして自奮自修の精神を以て、家族同様の共同生活を営み、長幼相扶け歓苦相分ち、知らす識らすの際に、良妻賢母たるの素養を修めしめんとすればなり。
 ◎事務所
 ◎将来の計画
 ◎今後の設備


『記念』(日本女子大学卒業アルバム)(1923.4)

2017年07月22日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 
 
 記念

 〔題字〕

 ・信念徹底 樟渓
 ・信念徹底、自発創生、共同奉仕

 〔写真〕

     

 ・正門〔上の写真 左から1番目〕
 ・講堂〔同2番目〕
 ・国文館、家政館、英文館
 ・桜楓館、香雪化学館
 ・子爵 渋沢栄一〔同3番目〕、故男爵 森村市左衛門〔同4番目〕、故侯爵 大隈重信〔同5番目〕

      

 ・校長 麻生正蔵先生〔上の写真 左から1番目〕、校長室
 ・塘幹事〔同2番目〕
 ・晩香村(寮舎ノ一部)〔同3番目〕
 ・記念樹
 ・卒業式〔同4番目〕
 ・故校長 成瀬先生〔同5番目〕
 ・故校長墓地(除幕式)、故校長書斎

      

 ・市村瓚次郎先生、井上秀子先生〔上の写真 左から1番目〕、犬飼すみ先生〔同2番目〕、橋本進吉先生、二階堂保則先生
 ・友枝高彦先生、茅野儀太郎先生、綿貫哲雄先生、渡邊英一先生、川野健作先生
 ・河野清丸先生、横手千代之助先生〔同3番目〕、田邊淳吉先生、高橋誠一郎先生、武島又次郎先生〔同4番目〕
 ・中村進午先生、中村孝也先生、長井長義先生、生江孝之先生、浦口文治先生
 ・アール、エチ、クラーク先生、栗山重信先生、桑木巌冀先生、山内繁雄先生、前島春三先生
 ・松木亦太郎先生、二木謙三先生、イー、ジー、フィリップス先生、藤田外次郎先生、小林澄兄先生
 ・近藤耕藏先生、寺尾元彦先生、手塚かね子先生、姉崎正治先生、淺理肇先生
 ・安藤正次先生、阿部次郎先生〔同5番目〕、岸本能武太先生、菊池清治先生、三田定則先生
 ・塩澤昌貞先生、白井規矩郎先生、上代たの子先生〔同6番目〕、森岡常藏先生


 家政学部第一部卒業生

 家政学部第二部卒業生

 師範家政学部第一部卒業生

 師範家政学部第二部卒業生

 国文学部第一部卒業生

 国文学部第二部卒業生

 英文学部第一部卒業生

 英文学部第二部卒業生

 日本女子大学第二十回卒業生姓名
 (いろは順)

 大正十二年四月

  撮影所 東京市京橋区丸屋町三番地 株式会社 江木写真店
  印刷所 株式会社 江木写真店製版部


梅花女学校: 『Plum Blossom School』 (ウーマンズ・ボード ボストン) (1918)

2016年04月21日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 
 
 Plum Blossom School Osaka, Japan.

 〔写真〕

        

 ・A Corner in the Principal’Study - Miss McKowan at Work with Japanese Teacher
 ・Types of Plum Blossom Students
 ・Graduates Return with Their Babies
 ・Class in Flower Arrangement - a Specially Japan
 ・Class in Foreign Etiquette - Learning to Serve Tea in Western Style
 ・Teacher - Training Class for Sunday school Work
 ・A Sunday School Where Some of These Girls Will Put Their Training into Practice
 ・Graduating Class of the English Department Enjoying a “Bacon Bat”

  PLUM BLOSSOM SCHOOL OSAKA,

 PLUM BLOSSOM SCHOOL - how characteristic of Japan is this flowery name for an educational institution ! But it was not chosen wholly for its poetic suggestion. The name has a double meaning which will be understood when we learn that the school was started by Japanese Christians connected with the two original Osaka Congregational churches. By a play upon the Chinese characters for “plum blossom” they may also read “child of the two churches.”The plum blossom to the Japanese is a symbol for life, coming as the earliest bloom of spring, so the flower name also has a significance for a Christian school which aims to teach its pupils to live the “life more abundant.”
 The Baikwa School 〔梅花女学校〕- to use the Japanese term - has the distinction of being the first self-supporting, Christian, girl’school in Japan and is now nearly forty years old. Its administration is in the hands of a Board of Japanese Trustees and all the Kumiai churches in Osaka. now five in number, are interested in its maintenance. Only the two American members of the staff, which includes nineteen Japanese teachers, are supported by missionary money. At present there is but one missionary teachers, Miss Amy E. McKowan, who is trying to do two women’s work until an associate can be found.
 〔以下省略〕

 WOMAN’S BOARD OF MISSIONS
   (Congregational)
14 BEACON STREET
    BOSTON, MASS
      1918


「日本女子大学校設立の趣旨大要」

2016年04月02日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 

 日本女子大学校設立の趣旨大要

 女子は国民の一半を組成する者にして社会国家に及す影響の深且大なる洵に世人の想像以外に在り女子教育の振否は邦家汚隆の由で岐るヽ所なりと謂ふべきなり然るに其普及発達の現状たる国家の運命を托するに足らざるものあり而かも尚之れが進歩改善を謀る者寂として聞ゆるなきは豈に明治聖世の一大恨事に非ずや是れ吾人が敢て天下の同志に訴へ茲に大阪に地を卜し日本女子大学校なるものを創設し女子教育の発達改善及普及を催進し以て国運振張の一助に供せむと欲する所以なり
 本校の執らむとせる所の女子教育上の方針は第一に女子を人として教育し第二に婦人として教育し第三に国民として教育するに在り女子教育の方法を視るに或は女子を器械視し若しくば芸人視し隨て目前実用の知識芸能のみを授け殆ど人たるの教育に注意せざるが如きものあり抑も人たるの教育とは心身の能力を開展せしめべからざる資質を修養せしむるに在り女子は其心身の構造社会の体制上より女子の尽すべき自然の天職なるものあり良妻賢母たるべきこと是れなり吾人は殊に此点に向て力を傾注せむと欲す女子も亦国家の臣民たり宜しく国民たるの観念を與へ一個国民としての能力を備へしめざるべからず本校の教育法其基礎を此三点に置かむとするもの偶然に非ざるなり
 本校の組織程度は大略左の如くせむと欲す

 

 本校称して大学校と云ふも其実本表に示せるが如く初等教育あり中等教育あり高等教育あり或は普通科あり専門科あり高低難易相合して一校を成すものにして唯高等教育のみを目的とするに非ず吾人の主眼とする所は下幼稚園より上大学部に至る迄首尾の系統整頓せる教育組織を一校内に設け吾人の執る所の特殊の教育主義及方法を実施し旁ら本邦女子教育改善の方法を研究実験し以て本邦女子教育界の中心たらむことを期するに在り然れども社会需要の緩急に依り先つ高等女学校に着手し順次校務の進捗に応じ上下に拡張せむと欲す大学部の程度の如きは高等女学校卒業後三年以内にて卒業するを得るに止め本邦現時の社会及女子に適合するを以て標準となし過度の高等教育に馳するが如き弊を避け徐々其実効を挙げむことを期す彼の欧米諸国に行はるヽ女子教育法を直に採りて我邦に施さむとするが如きは吾人の執らざる所にして吾人は本邦の女子に適応する所の教育を授けむと欲す雖然吾人は又泥古守旧を以て主義とする者に非ず過去に顧み現在に照らすのみならず亦大に将来に慮り以て中正適実なる進歩的女子教育を施行せむと欲す加之吾人は体育を重むじ過度の知育健康を阻害するの弊を避け個人の特性に適切なる教育を施し徳育は我邦固有の道徳に依るべきも文明諸国に於ける進歩の成蹟は之を選択取捨して補ふ所あらむとす殊に寄宿舎は家族制に依り有徳の婦人を舎監に聘し或は教員の家族を校内に住居せしめ以て生徒の管理訓育をして良家庭に在るの感あらしめん教職員選定に於ては殊に重きを人物に置き可成女子を採用せむと欲す
 吾人の目的を完成せむとするには莫大の資金を要すべきも本校基礎の鞏固を得むが為に先づ資本金参拾万円以上を募集し大凡拾万円を創立費に供し残額を基本財産となし其利息を以て本校の維持に備へ漸次資金の増加と事業の拡張とを謀らむと欲す然れども本校の設立に着手するは寄附金額十万円に達したるの暁に於てすへし而して凡て寄附金は第百十九銀行三井銀行第一銀行鴻池銀行住友銀行及加島銀行に預け確実に保管せしめ新民法実施と共に法人設立の手続を了し法律保護の下に安固を得むことを期す本校財産の管理等は評議員なるものを設けて之を処理せむと欲す評議員の資格権限出金者の待遇等は追て定むべし
 以上は日本女子大学校を設立せむとする趣旨の大要たり文略して意を尽さすと雖も幸に吾人の微意の存する所を諒せられ天下同志の翼賛を得本校設立の業を遂ぐることを得ば吾人発起人等の面白たるのみならす又多少国家に裨益する所あるべきなり

      

                         附言
 一 寄附金は東京にては会計監督渋沢栄一氏大阪にては同住友吉左衛門氏の名宛にて創立事務所に送附を乞ふ
 一 寄附金は受取次第会計監督の名を以て受領證を呈す
    但し郵便振替にて御送附の方は東京は飯田町郵便支局大阪は中の島郵便本局渡り御取組を乞ふ
 一 創立事務に関する通信等は凡て左の両所に御送附を乞ふ
     大阪西区北江戸堀一丁目三十番邸日本女子大学校創立事務所
     東京神田区一ツ橋通帝国教育会内日本女子大学校創立事務所

 

 ●日本女子大学校開校式式場内景
 
 同校開校式の記事は、詳細本誌第九十号に在り。此に掲けたるは、式の当日、本誌のために本郷茗渓なる玉翠館員が撮影したるもの。この我邦最初の女子大学校の記念として唯一の写真なり。中央に立ちて演説中なるは、渋沢会計監督にして、卓子 テーブル の傍に椅子に椅 よ らるゝは教頭麻生氏なり。写真に対ひて右の奥に立ちて、写真器械の方を眺め居らるゝは、校長成瀬仁蔵氏にして、其の前に椅子にかゝり居らるゝは、創立委員長大隈伯なり。撮影者に近き処に居らるゝは附属高等女学校生徒、演壇に近きは大学部生徒、左方の奥なるは来賓なり。当日は雨天なりしため到底撮影し難かるべしとて、其の設 もうけ もなさゞりしが、幸ひ雨晴れたれば漸にして撮影するを得たり。然れども既に式を開かれし後にて、加ふるに後方の天幕低く、為に充分の好位置を占むる能はざりしも、予想外の好写真を得たるは、撮影者の巧技に依ると云はざる可らず。尚吾人は同校に向って、この最も喜ぶべき記念の写真を撮影するの栄誉を本誌に與へられたる好意を謝す。

 上の写真は、『女子之友臨時発刊第九十二号 第四才媛詞藻』 東京 東洋社 明治三十四年六月三日発行 の口絵写真にあるもの。その説明は、同号の 雑報 口絵写真版説明 のものである。なお、同号の口絵写真には、下の写真も掲載されている。

  

 ・日本女子大学校長  成瀬仁蔵君
 ・日本女子大学校学監 麻生正蔵君


「津田梅子女史談話」 (1901)

2016年03月19日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 

 津田梅子女史談話

    麹町区元園町なる女子英語塾は、乳臭の幼乙女 をとめ 時代より、米国に渡られ、彼国の空気を吸ひて生長せられたる、津田梅子女史の設立にかゝる、我邦に於る女子唯一の最高英語専門家塾なり。記者一日女史を此の家塾に訪ひ、昔年渡米当時の様を聞かんことを請ふ女史快諾其の間に応ぜらるゝ叮嚀詳細、為に大に得る所ありき。即左に掲ぐるところは、其の談話中の概要なり。

 私共の米国へ参りましたのは、今を距 さ る三十年前のことでありまして大使岩倉(具視)さんだの、大久保(利通)さんだの、伊藤(博文)さんなどが、欧米回覧に参られる一行に加はりましたので、百何十人といふ大勢でありました。私共女生は米国公使デロング夫婦の帰国を幸に、其の保護を受けて渡米の途に就きましたことでした。一行の中には、留学生も大分あったのですが、中には女子の留学生は吉益りやう、上田貞、山川捨松(大山侯爵夫人)、永井繁(瓜生海軍少将夫人)と私の五人にして、慥 たしか この事は、黒田(時の開拓使次官清隆)さんが、北海道に女子の学校を建て度 たい 其御考へから起ったかと存じます。そして女子も男子と一緒に、海外留学を命ぜらることになったのだそうですが、十五歳を頭に、十二三の小供はかしで、私は七歳でした。尤 もっとも どういふことから、私が其の中へ加へられたかは存じませんが、兎に角其の時分には、洋行を希望するものは、今に較べると余程少数なものであったので、縦令 たとへ 当人が進みましても、親が不承知だとか、何だとかいふ故障が起ったりして、誠に稀なことでしたから、況 ま して女子の留学などいふことは、別して珍らしく、私共留学に付、前には例 ためし のないことがありましたのです。
 出立前即明治四年十二月に 皇后陛下に拝謁を仰せ付られ其時紅白の紋縮緬一匹を下し給りました。申すも畏れ多いことでありますが 皇后陛下が、其の頃から女子教育のことに、御熱心にあらせられたことは、誠に難有 ありがたき 次第でして、華族だとか、又官位のあるものならば兎に角、我々の如き只の士族どもが、拝謁仰せ付けられたといふことは、感泣感喜の外ない訳であります。
 それから又政府から辞令が下りましたが、其の文言 もんごん なども今から見ますると、余程変で珍らしく感ぜられます。たしかかういふ風でした。
   其方女子にして洋学修行の志誠に神妙のことに候追々女学御取建の儀に候へば成業帰朝の上は婦女の模範と相成候様心掛け日夜勉励可致事
       辛未十一月       太政官
 扨 さて 彼地に参るについては、一度外国の様子を知って置くが善いといふことで、其の時分には米国公使館は横浜にあったものですから、横浜へ連れて行かれて、始めて西洋館へ入ったことでした。凡てがかういふ風で、何も解らなかったのですが、それは女だけではなくて、同行の男子の方も大抵は何も解らずであったので、又服装だといっても、元より和服で、男子の方は大小の二刀をたばさんで、頭 かしら には「とんぼ」を戴 いたゞ いて居ったのであります。
 当時新橋と横浜の間の鉄道が出来上りまして、まだ旅客を一人ものせませんでしたが、岩倉公使始 はじめ 一行出発につき、特別に発車しましたが、是が日本の汽車ののり初で御座りました。愈船に乗りましたが、丁度適当な室が無いものですから、我等五人は同じ狭い部屋……尤他の室に較ぶれば大きいのでしたが、二人か三人はいれば充分の所へ、五人も入ったものですから、如何にも窮屈で、二人は腰掛の上へ、一人は普通荷物などを入れる床の上へ、私と吉益さんといふ方とは、一人寝の寝台へ眠ることに致したことでした。
 この吉益りやうさんといふ方が、一番年長 としかさ であったものですから、色々な世話を受けたのですが、皆が舟に酔って一時は随分つらく感じました。勿論語学は誰も出来ませず、世話する女中が、食事のことや其の他のことを尋ねに参りましても、何をいふやら解りません故「エース」だとか、「ノー」だとか答へる許 ばかり で、手真似でやって用を弁じます様な次第で、食事をしますのにも、食器 うつは の用ひ方を誰も知らないものですから、何でも掴んで食べたのです。黄色なものがあるものですから、何だらうといって「バタ」を匙で甞めたりしましたやうなこと、又髪は御互に結ひ合ったのです。
 廿五六日も経まして、サンフランシスコに着きましたが、見物人の夥しいことといったら実に非常なものでした。それから「ホテル」へ着きましたのですが、見るもの聞くもの、一として珍しくないものはない。殊に最異様に感じたのは「ホテル」の給仕が皆黒奴 くろんぼ であったことなんです。物珍しくもあるが、何だか恐ろしかったでした。
 何処へ参りましても大層珍しがられまして、「ホテル」へは沢山な人が尋ねて来まして、私共をいろんな所へ連れて行って、様々のものを見せて呉れ、手真似で以て何やかやの説明をして、私共を喜ばさうとせられました。私共が彼地に着きます少し以前に、大陸鉄道は出来上って居たのでして、すぐ其の鉄道に乗りましたが、大雪の為に不通となったものですから、ソールト、レーキ、シチーに暫の間滞在して居ました。
 それからシカゴへ行って洋服に着換へたのです。最サンフランシスコへ着けば、すぐ洋服に替へる筈であったのでして、其のことはデロング夫婦に頼んで置いてあったのですが、デロング夫婦は却って和服の方が善いといって、容易に買ってくれないのです。強 たっ て頼まうと思っても、言葉が通じないものですから、とうとう岩倉さんにお願い申して、漸うシカゴで買ってもらったのです。もとより洋服の着様さへ知らなかった、又品だとか恰好だとかいふやうなことも分りませぬに、それにまた気候が大層寒かったものですから、赤い「ショール」をひっかぶって旅行をしたのでありますから、あちらの人には如何にも野蛮の状態に見えましたことでせう。
 それからワシントンへ連れて行かれました。此地で大使の一行と別れて、其の時の米国臨時公使森有礼さんに、我々五人は預けられたのですが、森さんには私共が随分迷惑をかけましたので、こんな赤坊などよこしてどうするのですかといはれたこともあったさうですが、兎に角一つの家を借りて、其処へ五人のものを入れて、教師を傭ひ入れ、其処で教育しやうといふことで、一人の女教師は私共と同じ家に起臥して私共を監督することとなり、他の職員は通ふことになって教育を受けたのですが、何分教師のいふことが全く通ぜぬものですから、我々は勝手なことばかりして居るのです。それで教師が夜分になれば、早く寝ろと申して二階の寝所へ入れる。けれども我々は寝所へはいれば、おとなしくして寝なければならぬのだといふことも知らぬものですから、瓦斯燈抔 など をつけて、寝所で以て色々な遊をして、大騒をやるのです。それで何時かかういふ所へ、教師が上りて来て見付けられたこともあるのです。かういふ風にして、半ケ年程続けましたが、併しこれでは言葉も日本語を使ってるし、国ぶりの風俗を続けてゐるといふ有様で、甲斐が少いといふ所から、みんな分れ分れになりまして、私は日本公使館の書記官で、著書などもしてる一寸名の聞いたチャレス、ランマン(ダュールウヱブストルの秘書官たりし人)といふ方の宅へ世話になることとなり、「ジョジ、トウン」の小学校へ入学したのです。又其の中で二人の方は向ふへまゐりましてから、一年ばかし経った時分に、病気で帰朝しましたから、後には今の大山侯爵夫人(捨松)と、瓜生海軍少将の夫人(しげ子)と、私と三人残ったのですが、かく分れてしまひましたけれど、休暇の時には必一つ処へよって、海辺へ参ったり、又避暑に行きなどしました。
 私の世話になったランマンといふ方は、小供のない御夫婦でしたが、初めは迷惑ながら兎に角世話を願ったので、他の所を見付けるまで、暫くといふ約束であったのですけれども、段々と馳 な れるに従ひ、非常に親切にして下さいまして、とうとう永く御世話になることとなったのです。併慣れるまでは、随分双方とも困難は一通りのことではなかったので、通弁はありませず、手真似ばかりですから、ランマン夫婦もよい御迷惑でしたらうが、私も実に窮屈なことでした……それで公使館へ遊びに行くのを一番に楽 たのしみ にして居ったのですが、全権公使の吉田(清成)さんにも、色々御世話になったのです。
 彼の国の人にも、亦日本より御出の皆さんにも親切にして貰ったのでして、それに、あちらにいまだ日本人などといふものは、決して知られてゐなかった。支那と日本との区別すらつけられなかった位の状態でしたから、大変に妙に思はれ、珍しがられまして、のみならず米国人は、新奇なもの、変ったものを好く方ですから、学校へ入りましてからも珍重されまして、多くの人々からも日本は支那のどちらに当るか抔、其の他妙な質問を時々受けましたが、決して軽蔑されることはなくて、内国人同様、寧ろ同地人民よりも格別の扱 あつかひ を受けましたので、大変な同情の下にあったのでした。
 それで私はいつもかうおもひます。今日朝鮮や支那から我邦へ留学に参るものに、我邦人が其等の留学生を軽蔑することはあるまいか。又よし軽蔑しないにしても、私共が米国で受けた様な同情を以て、親切にしてやられるであらうかといふことは気遣はれます。
 それから私は、「ミシス、ヱル、アーチャル」の女学校を明治十五年に卒業して、翌十六年に帰朝しましたが、あちらへ渡ったときと同様の不便を感じまして、帰りましても、父母に挨拶一つも出来ないやうなことでしたから、習字を始めるやら、裁縫の稽古にかゝるやら、非常なものでした。
 又一昨々年向ふへ参りましたが、私が居ました時分とは、余程進歩して居て、何もかも大層相違して居ました。一昨々年は米国に居りました時、英国の貴婦人より招待をうけまして、英国に渡り、彼の国にて有名の人々に面会いたしましたが、其節ナイチンゲール嬢にも御逢ひ申して、親しく御話しを承ったことでした。(記者云其詳細ハナイチンゲール伝に記すべし)

 上の文は、『女子之友臨時発刊第九十二号 第四才媛詞藻』 東京 東洋社 明治三十四年六月三日発行 の 附録 に掲載されたもである。


神戸女学院: (岡田山へ) (1931.10~)

2015年11月26日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

 ○ The New Kobe College  〔新神戸女学院〕

     

 ・ ●
 ・ Cornerstone Laying  〔礎石敷設〕
 ・ The President speaking 〔学院長挨拶〕
 ・ The President receive the school Flag 〔校旗受領〕

    
 
 ・ The New Science Bilding  〔新理学館〕
 ・ Auditorium Frame-work   〔講堂鉄骨作業〕
 ・“Helmet” Mountain from the Observatory platform 〔望楼?からの“甲”山〕
 ・ Miss C B Deforest, President Mr.Hackett, ● 〔C.B.デフォレスト女史、院長 ハケット氏、● 〕
 
 

  KOBE COLLEGE BEGINNINGS AT OKADAYAMA
  神戸女学院定礎式記念絵はかき 昭和六年〔一九三一年〕十月十二日 西宮市外岡田山
  Printed as a Souvenir of the Cornerstone Laying October 12, 1931
     
  
 ・KOBE COLLEGE AT OKADAYAMA FUTURE SITE OF THE MUSIC BUILDING   神戸女学院(岡田山) 音楽部建築敷地
 ・KOBE COLLEGE AT OKADAYAMA(1931) THE IMPERIAL PAVILION FOR THE CROWN PRINCE VISIT IN 1911 神戸女学院(岡田山) 皇太子殿下御野立所(明治四十四年十一月二十日)
 ・KOBE COLLEGE AT OKADAYAMA BEGINNINGS OF THE FUTURE COLLEGE QUADRANGLE 神戸女学院(岡田山) 専門部建築敷地 
 ・KOBE COLLEGE AT OKADAYAMA THE BUILDING OF THE ACADEMY BUILDING 神戸女学院(岡田山) 高等女学部建築敷地  
 ・KOBE COLLEGE AT OKADAYAMA THE BUILDING OFFICES AND THEIR STAFES  神戸女学院(岡田山) 建築事務所及係員 

  

 上は、『神戸女学院新築記念帖』 昭和九年〔一九三四年〕四月十八日納本 英文版と日文版である。
 なお、現在では、『神戸女学院岡田山キャンパス -ヴォーリズ建築の魅力とメッセージ』 学校法人 神戸女学院 2013年10月12日発行 がある。 


神戸女学院: 卒業式、廿年祝会式 (1894~)

2015年07月02日 | 女子教育 神戸女学院、日本女子他

    

 KOBECOLLEGE COMMENCEMENT. June 27th, 1894 2P,M,

 神戸女学院卒業式  明治二十七年六月二十七日午後二時

    PROGRAM 目録

 ORGAN SORO 奏楽 風琴 … Procession Marh.-Scotson Clark. YASU SENO. 妹尾安
 KIMI GA YO 唱歌 君が代 … 
 PRAYER. 祈祷 牧師 海老名弾正君
 KOBE COLLEGE SONG … 神戸女学院歌
 ENGLISH ESSAY … Skibu and Seishonagon. KEI ARAKI. 英文 紫式部と清少納言 荒木慶
 JAPANESE ESSAY … The Treasure of the Country. 邦文 国宝 三宅壽
 PIANO SORO … Le Rossignnol. - Berg. HANA OSADA. 奏楽 洋琴 長田花
 ENGLISH ESSAY … Herbart as an Educator. SETSU FUJIMOTO. 英文 教育家としてのヘルバルト 藤本節
 JAPANESE ESSAY … Valedictory. YASU SENO. 邦文 告別 妹尾安
 KOTO … 奏楽 琴
 ADDRESS … Rev. T. MIYAGAWA. 演説 牧師 宮川経輝
 ENGLISH CHORUS … The Farewell. - Kingsley - Macirone. 唱歌 送別
 PRESENTATION OF DIPLOMAS. 卒業証書与 院長 ヱス、ヱー、ソール
 PARTING SONG … GRADUATING CLASS. 唱歌 留別 卒業生
 ORUGAN SOLO. … Postlude. - Barnby. SETSU FUJIMOTO. 奏楽 風琴 藤本節
 BENEDICTION. 祝祷

    卒業生姓名(イロハ順)

 高等科卒業生
    藤本 節 愛媛県
    妹尾 安 岡山県
 普通科卒業生
    稲見 歌 兵庫県
    林  雄 同
    加藤久廼 愛媛県
    河越 輝 鳥取県
    片桐熊代 宮城県
    多辻壽賀 鳥取県
    永井 松 京都府
    山内千鶴 兵庫県
    丸山 絹 新潟県
    松永 初 福岡県
    藤田 益 同
    荒木 慶 岡山県
    木山多喜 同
    水谷小琴 兵庫県
    三宅 壽 広島県
    人見 谷 京都府
    森田 郷 岡山県
    鈴木幸恵 兵庫県

    

 KOBE COLLEGE  TWENTIETH ANNIVERSARY  November 25th, 1895.  1.30 P.M.

 神戸女学院廿年祝会式  明治廿八年十一月廿五日午後一時卅分

 KOBE GIRLS’SCHOOL. - KOBE COLLEGE.
       1875-1895.
     Order of Exercises. 目録     

 開会の趣旨 山内松鶴
 ORGAN SOLO … MISS RHEES. 奏楽 ドラ、リース
 SCRIPTURE READING AND PRAYER … MISS KOKA. 聖書朗読及祈祷 甲賀ふじ子
 KIMI GA YO … 唱歌 君が代
 HISTORICAL SKETCH … MISS SEARLE. MISS TSUKAMOTO. 女学院小歴史 塚本不二
 ENGLISH SONG … STUDENTS. 唱歌 英
 ADDRESS … MISS TALCOTT. 感話 タルカット嬢
 PIANO AND ORGAN DUET … MISS AKAMATSU. MISS KAMAHARA. 奏楽 洋琴 風琴の合奏 鎌原政子 赤松小夏
 ADDRESS … REV.T.HARADA 演説 原田助君
 JAPANESE SONG … Words by MR.T.HOSHINO 祝歌 生徒一同
 ADDRESS … MRS.JOHNSON. 感話 ジャンソン夫人
 KOTO AND YAKUMO … 奏楽 雲井ノ六段(箏) 御国の誉(箏八雲の合奏) 中島源三郎 外二名
 CONGRATULATION ADDRESSAND POEMS … 祝文 川本辰子
 ENGLISH SONG … STUDENTS. 唱歌 英
 BENEDICTION. 祝祷

 祝歌 〔上の右を参照のこと〕 

  

 Colunbia 電気吹込

    讃美歌 
 第二編 第九十七番(ダビデの●●サナより)
   神戸女学院生徒
    26032-A
    (34110)

    讃美歌 
 第二編 第二百一番(兄弟の愛をもて互に愛すべし)
   神戸女学院生徒
    26032-B
    (34111)