一行は暮れ行く歳を送らん爲庫車より烏魯木齊に向へり、烏魯木斉は支那土耳斯坦(新疆省)の主府なり、一行はこヽにて地方官吏と尤も欵切なる交際を結び、且つ有名なる流罪者にして、故光緒皇帝の從兄弟、一九〇〇年團匪の大首領端親王の弟たる瀾公とも接洽を得たり、同しく拳匪亂に與したる爲爵位を削られ、永久の追放に處せられたる瀾公は寫眞道樂に其身を委ね、纔かに罪所の閒日月を消しつヽあり
庫車に次きて久駐し、且つ尤も重要なりしは即ち燉皇の小村落にして、甘肅省の極東境に在るの地なり、是れ實に一行が佛國出發以來目的とせる處にして、最大の獲得を發見せるも亦た此地に外ならず、予等は支那書又欧洲旅行家の所説によりて、豫め庫車城外の千佛洞に類似し、而かも未だ曾て回敎の殘害を蒙らざる千佛洞の存在するは、即ち燉皇の地なることを知り居り、實際に該村落より約十五キロメートルの距離に於て、五百の洞窟を發見することを得たり、其中多數は繪畵を以て掩はれ、或は單に方二メートルの壁龕より成るあり、或は各邊十五メートル以上の大に達するあり、何人も從來是等の浮屠窟につきまじめなる研究を企てたることなきも、其中に蓋藏せられたる秘什珍寶は實に無量數なり、但たその収藏に殘缼あるは痛惜に餘りあり、予等は多少の實驗を積みて裝飾の各時代を分別するを得るに至り、幾部分後人の加へたる不調和なる修復を除くの外、略ぼ十一世紀の前四分の一より後のものならざるを知り、更に同一墻壁を積み上げたる瓦磚の承接次第に依り、各々その樣式及年次を區別し、是に由りて就中その最古なる製作は、紀元五百年頃のものたることを明らかにせり、殊に發見物中の一佛像は其樣式極めて平常の作たりしも、之に附屬せる二箇の小像は印度及支那の一般形式より遙かに懸絶せるものなりき、凡そこの類の繪畵及傳彩せる佛像は、支那に於ける複彩的製作物中最古の部に數ふべきものなると共に、鄙見を以てすれば同時に千佛洞美術の最優時代を代表せるものなりとす、予等は別に魏朝に屬する美術を發見したるが、這は五、六世紀頃北方支那に盛行せるものなるも、近く三四年前までは全く世に知られず、今回燉皇發見の繪畵及壁飾によりて始めて之を明かにするを得たるものにして、彼のシヤヴアン氏が極めて最近に、山西及河南地方に於て研究し得たる彫刻物と同樣なるものに屬す、尚ほ此の洞中の繪畵にして、七世紀及九世紀に屬するものあり、要するに凡ての裝飾的結果は、いたく偉麗の觀あるが中に、最も莊嚴を極めし靈壇と稱すべきは、蓋し九、十世紀に屬するものに在らん歟
但し當時と雖も猶ほ其の技術は、一種の神韻を少ぎ居たるものヽ如く、技工の手は漸く笨重に、輪郭は鋪張過當にして、面貌は肥大となれるを見る、蓋し唐末に及びて文明の退歩が技術方面に於て其跡を示めせしは、猶ほその政治方面に於けるに同しく、即ち一工藝製作の上猶ほ能く之を徴するに足るものあり、十一世紀以後に及び、千佛洞は巡禮者の來り拜する所となりしも、神靈の呵護之をして然らしめたるによるか、靈塲修繕の名に籍りて之を敗壊するに至りしは、遙かに下りて十八世紀の末に於てす、且つその所謂修復を加へられたる部分も、既に最古のもにあらず、又た最美のものにあらざるは何等の幸ひぞや
左あれ一行の使命は、固と此の修繕に負ふこと少からざれば、予は妄りに無益の言を之れに加ふるを喜ばず、抑も燉皇の一道士が、偶然にも古文書及繪畵に充ちたる壁龕を發見せしは、實に一九〇〇年一佛窟の修理を加へんとしたる際に在り、予は此の發見のことを烏魯木齊に於て耳にせる所あり、現に瀾公はその龕中より得たる一卷を予に示めされたるが、是れ公が遣流の途上甘肅に於て贈與を受けたるものなりといふ、かかれば予は只管に如何なる秘寶をこヽに見出たし得べきやとの念に軀られ、燉皇に着するや直ちに右の道士を訪ね、商議の末洞中に入るの許可を得たるに、人頭より稍や高き二三の棚上に幾束の卷軸の堆積せられ在るを見、把りて之を檢せしに是等の古書は収藏の最後の年代、正に十一世紀末に當れるを審かにし得たり、一見の下早く既に支那語西藏語サンスクリット、又は亞細亞高原未知の方言を用ゐて書せられたる古籍を發見し得たる予が、更に進んで所藏の全部を獲得せんことを夢想したるは蓋し無理ならず、左れど道士は居民の恚りを恐れて、固より之を許るすべくもあらじ、幸ひに彼れは寺塔を營み佛窟を修する爲に、いたく金錢の必要を感ぜし折なりしかば、やがて予に告ぐるに、所藏中より予の撰定する所のものを、自由に持ち去り得べきことを以てしたりければ、予今はいかでか猶豫すべき、直ちに身を洞中に進めて引續き二十五日間激度の勉勞に由り、洞中一萬五千の文書は委く予の手を經るに至り、是に於て既に知れ渡りたる佛教の經卷は之を差置き、婆羅門及畏兀兒 ウヰーゲル ( 回紇)語にて書したるものヽ内部、及西藏語のもの大部分と、加ふるに支那語の大部分とを併せて之を携へ歸ることヽしたり、凡そ是等の古文書は其の文書及年代よりして、吾人に與ふるに無上の興味を以てするに足るものなり、予はかくの如く先づ洞中藏書の三分の一、即ち五六千卷の古書を手に入れ得たることヽなり、其中重要なる佛教寫經の外、已知の道敎寫本及歴史地理文學哲學に關する最古の手寫本、其他景敎 子ストリアン の寫經一部摩尼敎 マニズム に屬する零本より、曆書古統計會計冊官私の記錄書等に至るまで、實に紀元一千年頃に於ける支那日常生活を構成せる各種のものを包括し、凡そ是れ皆な支那大帝国に古來の官文庫 アーカイヴス なきが爲に、已むを得ず吾人をして今日までその研究を等閑に附せしめたるものなり、尚ほ絹地の繪畵にして、ルーヴル博物館に現存せるものヽ何れよりも古く、同時に支那に於て知られたるものの内にても、其の古き點に於て第一に算すべきもの、並びに十世紀若くば更に溯りて八世紀に屬する木板彫刻物の如きは、特に此に附記し置くの必要あるものなり
燉皇の地が、徃來の孔道より四日程を要し、千佛洞は更に燉皇より二時間を要するの事實は、流石博識好古の支那學者をして、極東の史上絶えて其比を覩ざる偉大なる古籍の發見に對し、何等の疑を起さずして今日に至らしめたる所以なるへき歟 (終り)
下の文は、明治四十四年八月三十一日發行の雑誌 『燕塵』 第四年 第八號 (第四十四號) 北京 燕塵會 に掲載されたものである。
ポールペリオの新疆探撿略記
支那新疆地方の沙中に堙沒せる史蹟の探撿に就ては、數年以來歐洲學者の注意を攢め、數次の探撿旅行により至大の發見を遂げ、地下千年の秘奥を發し、東西交通の史上に光明を投したるその功、誠に韙とするに堪へたるものあり、予は幸ひに英國滯在中獨逸のグリュンヱーデル氏、瑞典のスウヱンヘツヂン氏、英國のスタイン氏等、各其探撿の結果につき與へられたる講演を聽くの機を得、私かに以て至幸としたり、獨りポールペリオ氏最後の探撿、殊に著大なる燉皇發掘の結果に關しては、氏の歸歐は會ま予が東歸と前後し、再び孤陋寡聞の昔に回へれる予は、今に至るまでその詳細を知るを得ざるを遺憾とし、但た昨年淸國學部の拾集したる燉皇古籍研究の爲來京せられたる、京大教授諸氏に依りてその一端を聞き得たることあるのみ、然るに本年八月十五十六日の北京デーリーニユースに、偶ま「亞細亞高原に於て」と題し、ペリオ氏が親しく佛國一繪入雑誌に寄稿したる探撿旅行記原文の英譯を轉載したるを見、少からぬ興味を感したり、固より繪入雑誌の寄稿なるを以て、其所説は大躰の紀行に止まり、發見物そのものにつき詳細の批評を下すに及ばざれば、專門學者に取りては大なる利益なきものなるべきも、予と同しき程度の素人の爲には興味偏へに淺からざるものあり、殊に是等の探撿旅行に對し、我が日本の學界がインタレストを取りたると同じく、吾が燕塵雑誌も亦た曾て探撿の歸途、北京に立寄りたるペリオ氏の發見につき記載せる所ありたれば、讀者の多くはその興味を分ち有するものなるを疑はず、由りて長夏無事の日に乗じ、試みに之を重譯して該誌に投ずることヽしたるが、但だその時候後れの誚りは予が北京デーリーニユースと共に甘受する所にして、「燕塵」編者の與かり知る所にあらざるなり 長城生
支那土耳基斯坦が、地球最高峯中の諸山に圍まれたる四塞の盆地たることは、地圖を一瞥して直ちに之を知らるべく、沙漠を以て國を成せるその地は、幾多肥沃のオーシス處々に散在す、面積は佛國に二倍するも、その保有する人口は極多なほ二百萬を越えず、この沒却されたる世界の一隅は、從來僅かに純乎たる地學上の探撿家シユラヂントウァイツ、プレヴオルキス、ポエトソヴスの徒をして、其力を致さしめたるに過ぎず、彼等はここに土耳古語を操れる人民を發見せり、是等の人民は溫和にして接し易く、柔弱にして婦女子の風あり、蓋しマホメット敎の力と雖も、猶ほ之を化して狂言悍驇の民となすこと能はざりしものヽ如し、爾來歷史家考古學者は別段の思慮なく、この地を通過しつヽありしに、偶然の發見は大なる希望を此の地方より發せしむるに至れり、即ち一八八九年英國の陸軍大尉ボワー、佛敎より出てたる醫學上の古文書にして、寫すにサンスクリットを以てしたるものを、庫車より齎らし歸りたること是れなり、抑も佛敎は印度に起りて、今やその地に亡び、サンスクリット佛敎經典の大部は隨つて泯滅に歸し、但だその敎理は西藏人支那人の傳述に依り、幸ひに今に存するあるのみ、然るに今や歐洲學者は歳月の消磨と破壊的回敎の侵入とを以てせず、印度に亡佚したる原寫經の幾部分なりとも、之れを土耳基斯坦の沙中より發見し得んことの望みを抱くに至れり、蓋し是等の經文は我が紀元一千年の當時に於ては、土耳基斯坦に於て虔信誦習せられ居たるものなるを以てなり、其後グルームギシカイロ、及スウヱンヘッヂンの如き、數々該地方の廢市より貴重なる發見の證示に關する報告を賚らせり、その所謂廢市とは其實古昔佛敎の靈塲たりしものなり、降りて一九九七年以來英獨二国人を始め、日本人に至るまで各々探撿旅行を企て、湮沒せる地方の遺跡を發見せんことを力めて成功する所あり、予の探撿旅行を始むるに至りたるも、亦た全くこの目的を以てしたるに外ならず
一行はモスコー、オレンブルグ、及タシケンドを後にし、アンヂシヤンに出て、それより二年の後靑嶋に達せるまで、再び見ることなかりし鐡道列車を辞したり、右の行程は驛馬により駛走せば、もと六ヶ月を出でざる筈なれ共、一行が古物に對する探索は幾度となき方向の變換に加ふるに、おのづから到る處の淹留を必要としたるにより、かくは長日月を費したるなり、予等は馬背にて進行し、カシュガルに達するに及びて旅具一切を馬車に附し、隊商の行路に随ひ進むを得るに至れり、一行は何等の危險に遭遇したることなし、尤も肉類は時々酸敗し飲水も惡臭を放ち、或は暗黒色を帶びたることあれ共、何人も饑渇の爲に死に瀕するには至らず、強度の低溫は馬匹の爲には甚しき苦痛なりしも予等は毛皮の力によりて三十五度の寒氣を防ぐに足りたり、穏和なる土耳基斯坦の人民は一行を歡迎し、支那官吏も予等に與ふるに十分の助力を以てしたり
噶什噶爾に於て、予は一たひ下手の地點を選定するに困却したり、庫車は勿論佛國出發以前より多くの望みを繋ぎたる地なれ共、尚ほこれより遙かなる東方に在り、殊に何より不利益なりしは、何人か我れに先んじて該地に赴きたりと聞きたることなりき、兎角して一ヶ月餘を噶什噶爾の探撿に費ししも、何等感服すべき結果をも得ずして已み、庫車に向つて出發せしが、その能くこのオーシスに達せるまでには相當の時日を要したり、抑も噶什噶爾庫車兩地の中間多木什克の小村落に近く廢趾の一簇あり、是れスウヱンヘッヂン氏が十二年以前に於て、あまり古るからぬ回敎の故蹟なりと斷せしものにして、其他の旅行家もこヽを過ぎて、ヘッヂン氏の假定説に對し、別段の變更を加ふるところなかりしが、一行は予も亦た試みに之を捜査し得んが爲に、此に止まることヽなり、馬より下りて足を地上に着くるや、予は全く器械的に乗馬用の樹條を以て、地面を爬起せるに圖らずも一小偶像を發見し、而かも明かに佛教的特徴を帶ぶるを知るに足るものなりしかば、予の驚喜は果して如何なりしぞ、茲に記臆の要あるは、回敎殊にその土耳基斯坦地方に行はれたる、ソンナイト派に於ては人身の模像を嚴禁したる一事なり、左ればこの些少なる天與の賜は、その証左と共に結局前述假定的回敎の廢趾は、其實佛敎寺院の遺跡なるに、我が同志の何人も我れに先立ちて其手を下したるものなく、全く一行をして第一に之が發見をなさしめん爲に、備へられたるものなることを明かにせるものなりき、該寺院の發掘は三十人の人夫を使役して六週間を費し、其結果古寫本に就きては何等の得る所なかりしも、數多の木刻及古錢と幾箇の陶器と、其内一は精緻なる水壺に、加ふるに殊に幾多の小佛像と、人身大なるガンダリヱン頭部中の多くは精巧なる彫刻を施したるもの等を發見し得たり、是等の發見物は苟くも多少の經驗を有せる具眼者には、一見直ちに古希臘風 ヘレニツグ の感化其中に存するに驚かしむるに足るものなり、而かも是れ決して膚淺なる誣妄の言にあらず、抑も亞歷山多大王の死後、希臘の王統はバクトリア地方パミール高原の東に連なる地方に散在して、その衰祚を保ちたりしに、我が紀元少許以前に方り、是等の君主は亞細亞高原より下り來りたる、匈奴 ハンス 及突厥 タークス の同族に入寇せられて、その亡ぼす所となりたるが、彼等戎狄は却てその戦勝攻取せる文明の殘勢を擁護し、多少自ら爲に希臘化さるヽに至り、進んで南方印度に向ふに及び、印度河上流に於て更に佛敎に遭遇し、終に復た其敎を奉ずるに至れり、かくて印度佛敎とバクトリア希臘風との觸着に依りて、ガンダリヱン即チ希臘佛敎的 グリーコプヂスティック とも謂ふべき工藝の特種形式を産するに至りたるなり、尋いで我が紀元第一世紀に當り、佛敎は印度以外弘敎の大事業を開始し、延きて東方亞細亞の極偶に達せしむるに至りたるが、尚ほ之を約言すれば、佛敎は古昔のガンダハラ、バクトリア、カラコーラム、及パミール高原に傳播して支那土耳基斯坦を包括し、工藝は宗敎に伴うて進み、かくて瑣尾流離せる希臘文明の流風餘韻をして、一綫の微猶ほ能く遠く支那或は更に遼絶せる日本の地に加ふるに至らしめたるもの、職として佛敎の惠澤に是れ由る、吾人が多木什克の一彫像に依りて、地中海の文化が極東の文化と觸接抱合するに至りたる經路を指點するを得るは蓋亦た是が爲なり
多木什克より庫車に達せしは一九〇八年の一月初旬なりき、庫車の城外山麓に幾多貴重なる人工洞窟の點在するあり、沙丘沙嵓又は沖積層等を穿ちて之を營みたるものにして、一千年前回敎の到來以前に於ては、佛敎寺院によりて管せられたるものなり、彼の千佛洞の處在地は即ち此處にして、洞の墻壁は掩ふに壁畫を以てし何れも七世紀より九世紀に亘るものなり、是等の洞窟に於て ヒンヅー、イレーニアン(古波斯)、希臘及支那各文化の滙流會同せる結果を、その繪畵につき覃究するは最も興味多し、幸ひに是等の繪畵は、その歳月の消磨によりて損蝕せられたること、彼の征戰の餘威に乗せる回敎徒の加へたる、古昔ヴアンダル人が羅馬文藝に對せるに等しき兇殘の所為の如く甚しきに至らず、但たこの千佛洞發掘の業は、既に先着の獨逸人の手によりて成されたるを以て、一行は單にその寫眞を撮影するに止め、同時に千佛洞以外の古佛寺を探撿し、數月間その發掘に從事し、多くの木刻陶器古錢等を發見し、殊に多木什克に於て得ること能はざりし古書を發見したり、是等の古書は長く大氣中に存したる爲損敗を來たし、中には塵土に化したるもの多く、且つその大部分は書するに婆羅門字を以てしたるも、其文は中央亞細亞の方言を用ゐ、今や既に廢語に歸したるものに屬するを以て、之が譯解は至難の業たるを免れず
敦煌石室中の典籍
救堂生
佛國西東方考古學校(在東京河内 トンキンハノイ )教授 Paul Pelliot (伯希和)氏が、甘肅省敦煌縣石室中に藏せられて居つた經卷古文書類を得て、本國への歸途北京に滯在して居られるとのことを聞いたので、早速氏を八寶胡同の假寓に訪うて刺を通じた、實は氏とは未知の間柄であるから會つて呉れるかどうかと思つたが、「請」とボーイが案内をするから客廳へ通つた、氏は年齒三十位の青年紳士で如何にも學者的氣象の有る人である、此方が西洋語が出來ぬから氏は流暢なる北京語で會話を始められた、語つて見ると同氏の友人シヤバンヌ氏メートル氏等を通じて己に自分の姓名職業を知つて居られたから非常に好都合で、遠慮なく語ることが出來た。
氏は淸國西陲の地理古蹟等を研究の目的で一昨年本國を出發し、露領中央亞細亞を經て新彊省に入り、庫車に八個月、烏魯木齊に二個月、吐魯番に數週間滯在して研究を續けられて居る中、烏魯木齊で長將軍に會つて敦煌石室の話を聞き、巴里坤哈密を經て安西に出て知州の某から一卷の古寫本を贈られたのが、どうしても唐寫本に違ひない、で去年の冬敦煌縣へ出掛け三個月餘滯在して、同地三危山下石室の中に藏して居つた寫經其他のものを入手せられたのである、
大部分は已に本國へ送つたと言つて、手荷物中の數十品を示された、盡く驚心駭目の貴重品で、唐寫本、唐字經、唐刻及五代刻經文、唐拓本等のみで、紙質は黄麻白麻の楮紙の三種を出ない樣に見受た、老子化胡經等は天平經中の最良なるものに劣らない、尚書顧命殘頁は文字雄勁、適確として唐人の書である、西夏兵革の時に石室を封じたまゝで近年に到つたものであるから、在室のものは不殘五代以上のもので、宋以下のものは一つもない、殊に西夏文字のあるものは半片もないのが確な證據で、學術上大した發見であると思つた、自分は内容を役に立てる知識は皆無であるが、趣味眼から見ても物々傍を去ることの出來ぬ珍品のみである、氏が奇籍を齎したと云ふので北京の士大夫中學者は勿論、古典籍に趣味を持て居る人達は續々氏の寓を訪問し、將來の珍品を見て誰も驚かぬ者はない、自分の手控によつて記錄しようと思つたが、我々と前後して見た人の中で、羅叔言氏が書き留められたものがある、其方が我々の見るよりも確であるから左に之を錄することにした、
敦煌石室書目及發見之原始
敦煌石室、在敦煌縣東南三十里、三危山之下、前臨小川、有三寺、曰上寺、中寺、上寺、下中兩寺皆道觀、下寺乃僧刹也、寺之左近有石室數百、唐人謂之莫高窟、俗名千佛洞、各洞中皆有壁畵、上截爲佛象下截爲造象人畵象、並記其人之姓氏籍里、惟一洞藏書滿中、乃西夏兵革時所藏、壁外加以象飾、故不能知爲藏書之所、逮光緒庚子、掃治石洞、鑿壁而書見、由是稍稍流落人間、丁未冰、法人伯君希和、游歷迪化、謁長將軍、將軍曾藏石室書一卷、語其事、繼謁瀾公、曁安西州牧某、各贈以一卷、伯君審知爲唐寫本、亟詣其處、購得十餘箱、然僅居石室中全書三分之一、所有四部各書、及經卷之精好者、則均嚢括而去矣、大半寄囘法國、尚餘數束未攜歸、昨往觀、將所見及已寄囘之書目、略記于左
顔師古玄言新記明老部五卷
案舊唐書經籍志、有玄言新記道徳二卷王弼注、新志又有王肅注二卷、隋志有梁澡玄言新記明莊部二卷、而此書則諸書均不之及、
二十五等人圖
此書名、非圖畵、
太公家敎
辨才家敎
孔子修問書一冊
開蒙要訓
天地開闢以來帝王記一卷
百行草一卷
何晏論語集解存卷一卷二卷六
毛詩卷九✕柏舟故訓傳 鄭注
范寗穀梁集解存閔公至莊公
孟説秦語中晋二
莊子第一卷
文子第五卷
郁知言記室修要
案郁疑郭之訛、日本舊鈔卷子本五行大義、背記所引古韻書、有郭知言其人、
文選李善注存卷二十五卷二十七
冥報記
新集文詞九經鈔
新集文詞敎林
秦人吟
燕子賦
李若立略出籝金
老子道徳經義疏第五卷
唐均 切均小板五代刻本均殘
唐禮圖數頁
輔篇義記存第二巻
新集吉凶書儀二卷
李荃閫外春秋存卷一卷四卷五
案此書宋志著錄
唐律一卷殘
伯君言、無疏義、彷彿記有新增之例、據所云、疑即顯徳刑統之類也
故陳子昴集存卷八至卷十
據伯君言、十巻本係後來分析成卷、非原書之舊、此雖二卷半、然尚多於後來之十卷本、
以上各書、均已送回法國、
沙州志四卷乃一卷斷爲四非四卷也
據伯君言、中有五代地名、然其書法唐人筆也、端制軍已影照、
慧超五天竺國記一卷殘
吐魯番地志殘卷
末尼經一卷
首尾斷爛、然至精、末尼敎經、今一字不存、此雖斷爛、仍至寶也、
景敎三威蒙度讚一卷
唐繡佛説齋法淸浄經一卷
計四十九行、行十七字、藍絹本、先墨書經文、後加繡以白絨爲之、毎行有墨線界格、
尚書顧命殘頁
僅尺許、然異文不少、此頁以精經帙後、
寺歷數卷
中間雜記施主功徳獻納、及傳記、皆表裏有字、茲記一二如下、
一 大潙警策
一 大番故敦煌郡莫高窟處士公修功徳言
一 曹仁貴獻玉羚羊角磠砂表
三種在一卷上 中有沙州□印
一 大唐前河西節度使押衙銀靑光祿大夫檢校太子賓客甘州刪丹鎭遏充涼州西界游奕防採營都知兵馬使兼殿中侍御史唐公諱通信✕眞讚 僧悟眞撰
大唐中和元年
又有文徳二年、中和三年、二✕眞讚、其姓名忘之、
右另一卷
一 □□□□世碑 竇夫子撰
一 隴世李家先代碑記 楊授述
一 翟家碑 唐僧統述
右一卷
又一卷、記本寺収紙發紙數目、皆繋年月日
受罪懺悔文一卷
漢文及囘鶻文、両面對書、此外佛經漢囘對書者、有十餘紙、單囘文者有百餘卷、
又有梵漢對譯、及單梵文者、
陀羅尼經
(一)寫本 其形如旋璣圖、中爲佛象、象旁四周皆咒語、欄外皆經文、倶顚倒囘環書之、又有漢梵對譯者十餘紙
又刻本 共十餘紙
(一)一切如來大尊勝陀羅尼加句靈驗本二朝灌頂 國師三藏大廣智不空譯、毎行十五六字不等、其字似初唐人寫經、又國師國字、上空一格、其爲唐刻無疑
(二)大隨永陀羅尼 經末有□楊法彫印施六字、
(三)大佛頂陀羅尼 經末有開寶四年十月廿八日記十字、
(四)大隨永陀羅尼 經上面、左有施主李知順一行、右有王文沼彫板一行、經末有太平興國五年六月彫板畢手記十三字、
此外無年號者甚多
彫印佛象
几十餘紙、大半曹元忠忻造、茲錄記文一紙、
弟子歸義軍節度瓜沙等州觀察處置管内管田押蕃落等使特進檢校太傅譙郡開國侯曹元忠彫此印板奉爲城隍泰闔郡康寧東西之道路開通南北之兇渠順化勵疾消散刁斗藏音隨甞見聞倶□福佑于時時大晋開通四年丁未歳七月十五日記 匠人雷廷美
共十三行、上畵下記、
唐拓碑三種
(一)唐太宗御製溫泉銘 剪表本、前半殘缼、後半完好、紙尾有墨書一行、曰永徽四年八月圍谷府果毅下缼
案此碑、已載趙氏金石錄、寶刻類編著錄、作溫泉碑、
(二)化度寺邕禪師碑邕僅存剪裝一紙、字畫如隨蘇孝慈碑與流傅宋拓逈異、
(三)柳公權楷書金剛經 石刻本、裝成卷子計十二石、毎行十一字、末署長慶四年四月六日翰林侍書學士朝議郎行右補闕上輕車都尉賜緋魚袋柳公權爲右街僧錄準公書強演邵建和刻字、案寳刻類編、載柳公權金剛經、會昌四年書、年月不同、不知即此否、
以上諸書皆目見
此外有畫板一、畵範一、經板一、均爲罕觀之品、畫板爲印佛象之版、長方形上安木柄、如宋以來之官印、然畫範則以厚紙爲之、上有佛象、不作鈎廓、而當鈎廓處、用細針密刺、以代筆墨、推其意、蓋作畫時、以此紙加于欲畫之紙上、而塗之以粉、則粉必透針孔、而著于下層之紙、便有細點、更就粉點部位作綫、則成佛象矣、經板狀如□ 、兩面共書心經、而文未完、左行墨書、上加以油漆、色白而澤、頗似今日之熟漆、室中又有布畫佛象、紙畫象、及虎珀珠、檀香等物、
又寫經中、有絹本三卷、絹質極細、乃六朝人書、
又有經帙、以竹爲之、與日本西京博物館所藏相同、以竹絲爲之、又有以席草爲之者、蓋古人合數卷爲一帙、此即其帙也、帙之裏面、以舊書糊之、有唐人公據一紙、上有印信、其文不及備錄、
伯君言、渠所得有地契無數、皆有唐年月、又有唐歷書二三冊、皆有年號、惜已寄囘國不獲見也、
伯君言、諸窟壁畵、有繪五臺山圖者、記該山梵刹二百餘、皆記其名、已影印、 羅振玉記録
專門家なる羅氏の記錄に對して彼是言ふ點はないが、其中で畵範は同説の如き用途もあらうが、石へ佛象を刻する時に使つたものだらうとの疑を抱くので、針を刺した痕のあるのは石へ紙を押付けて置いて錐の樣なもので石へ當りを付けて彫刻したものだらうと思ふ、畫板は柄の付いた大形の印判で是を見ても我邦百萬塔中の陀羅尼經の如きも、恐くは鑄物印判の大形のものであつたらうと想像される、羅氏記錄以外に蠟紙に記した印度文字の經文、西漢金山國皇帝勅文書の斷片等を見た、更に石室中に在つたもので筆が一本ある、毛は硬きものらしく穂先は非常に短く軸も現代の筆に比して短い、我邦の天下筆と號するものに似寄つて居る、
北京讀書人の主催で九月四日グランドホテルに同氏の歡迎會が開かれた、當日の出席者は寶侍郎、劉少卿、徐祭酒、柯經科監督、惲學士、江參事、呉寅臣、蔣伯斧、董比部其他十數名で、一時の名流盡く集まる底の盛會であつたが、羅叔言氏が微恙の爲め欠席せられたのは遺憾であつた、惲學士は立ちて伯希和氏に盃を擧げ、斯學に熱心なる伯氏に天の嘉惠如斯厚きを羨奘し、伯氏は謙遜の辭を以て自己は國家によりて研究の爲派遣せられ只偶然寶物を獲得したる迄の事にして、現品は佛國政府の有に歸すと雖も、學問は世界共通たるべきもの故、撮影謄寫等の希望には努めて應ずべしと答へられた、かくて氏は北京の士大夫と應酬して、九月十一日夕前門發の列車で西比利亞經由歸國の途に就いた、定めて向後種々な報告が發表される事であらう、 (完)
上の文と写真は、明治四十一年十一月一日發行の雑誌 『燕塵』 第二年第十一號(第二十三號) 北京燕塵會發行 に掲載されたものである。
なお、文中の✕印は、このブログでは表記出来ない漢字で、写真参照のこと。
津門 第三巻 第六號 〔明治四十五年六月十五日発行〕
〔口絵〕
上圖は去る明治三十八年六月三日海軍戰勝記念祝日に於ける天津日本租界大和公園の眞景にて前面模造軍艦は當時居留商有馬組、矢尾工程局、淸水洋行、旭組、中村受負業五人の寄附に係るもの其他模擬店等を除くの外一物の限界に遮るものなし下圖は現今の大和公園榮街方面より見たる眞景也
忠孝の革命 傲叟
人物鑑別論 今方皐
革命黨小傳
馮超驤
韋雲卿
革命史談
第六章 陸軍猝に變す
第七章 黎元洪を擁戴して大都督とす
第八章 革命軍武漢を占領す
第九章 軍政府の組織
滿朝宮廷の秘密談 〔下は、その一部〕
問 中國若し改良を求めは何者を以て先務とすべきや
答 家族の改良を始と爲し第一畜妾の制を廢す可きは勿論官制改良の如きも亦要務です政府重歛を人民に取る然れとも政府の得る所の者は實に四分之一に過きず其四分の三は皆官吏が中飽するのです若し官制を改良し中飽の資を以て新政に施せば綽として餘裕有るのです其他財政の如き亦須らく改良すべく宜しく幣制本位を釐定し劃一を謀たなら商民の利益てせふ
革命黨小傳
馮超驤
韋雲卿
天津囘顧路 〔一六五六年七月九日~一九一二年三月二日〕 歸去生 〔下は、その一部〕
一六五六年七月九日 和蘭大使初て來着、我朝後西院天皇御代、將軍徳川家綱の時代に當る今を去る大約二百五十六年前
一八九三年十二月十九日 北洋軍醫学堂開始さる
仝年〔一九〇二年〕八月十四日 袁世凱直隷總督として赴任
一九一二年三月二日 天津大掠奪放火
凉榻閑話 淸風散人
天津から大阪 北嶺
◉文苑
晴獵雨讀園遺稿
白眼黙聽錄 陋巷老人
津門近事 〔六月一日~十五日〕
北京最近職官表 〔下は、その一部〕
總統府 秘書長梁士詒 軍事處總長馮国璋 次長傳良左 諮議官 鈕永建 張紹曾 軍事顧問 舒淸阿 哈漢章 章遹駿 高級副官長 呉鼎元
田中北嶺子を送る 天爵道人
東京音信
謹告 津門編集部 津村宣光
明治四十五年五月天津気象畧表 中央気象臺員 神原矩松調
津門 第三巻 第八號 〔大正元年八月十五日発行〕
〔口絵〕
・大行天皇の御神影
・張家口市街
・八達嶺上京張鐵道より萬里の長城を望む (新家亮氏寄贈)
涙痕餘錄
大行天皇御聖徳の一斑
陛下の御治績
陛下の御日常
御食事 陛下には午と夕には鷄肉のスープを一合宛召し上られ朝と晝は二汁三菜夕にはニ汁五菜の御定にて洋食は深く御好みあらせられざりし二汁中の一は味噌一は醬油にて調へ奉り又三菜五菜と申しても其中の一は野菜のみにて極めて淡白なる御料理なり御用の日本酒は以前は御夕餉の節に灘の一本生とて惣花と銘あるものを聞召されたるが近頃はシャトウローズと聞えたる最上等の葡萄酒のみ食召させ給ひし由
陛下には刀劒の御嗜好あらせられ此頃は御手許の分にても二三百振も御所藏相成りしとぞ御手許中の有名なる鬼丸造は中身は粟田口義光にて御珍重第一と稱せらる又日の御座御劒と呼ふ御太刀は鬼神太夫行平の作なりとぞ尚
陛下の刀劒に關しての御鑒識に就いては黑人の鑒識家も及はざる御眼識ありしこと漏れ承り及ひたる節もあり異日筆を改めて記し奉ることあらん
大喪中の諸感 澹洞生
革命黨小傳
湯化龍 〔下はその最初〕
湯化龍、湖北靳水縣の人北京進士館より選はれて官費生となり日本に留學し東京法政大學に入り速成科を卒業し光緒三十四年國に回り民政部主事に就職す
趙聲
林文 〔下は、その一部〕
光緒三十一年文年二十一姊の命を以て日本に留學し初め成城學校に入り後大學法科に移り專ら國際公法及國法学を修め私法は則ち學ふを屑しとせす
新任五總長の畧歷
財政總長周學熙
司法總長許世英
教育總長范源濂 〔下は、その最初〕
范源濂は靜坐湖南湘陰の人にして湖南時務學堂高材生として日本に留學す
農林總長陳振先
交通總長朱啓鈐
滿洲考 悟堂
◉文苑
支那當代の耆宿馬相伯先生の演説
泥中鬥獸錄 諤堂
最近警報彙錄 愕堂居士
北嶺に代つ北淸日報の寄書家一布衣と云へる闇黑子に質す 熊襲の百姓多気志比古
交通機関の今昔 和田保三郎
共和病夫十不全
午窓漫筆 迂叟
今世説 世外道人 〔下は、その一部〕
孫中山遂に來たり一行上下廿餘人隨員の外令夫人あり其外從僕四五名去廿三日紫竹林招商局の碼頭に着船するや多數の歡迎者と樂隊とに迎減られ直にアストルハウスの旅館に入り翌廿四日は午前九時多數の護衛兵に擁護せられつゝ一行二十餘台の馬車に分乗して英佛日の各租界を過き河北廣東會館の歡迎會に臨み正午より都督府及省議会主催の公園内茶話會に臨みたり
會館歡迎會男女の來會者五百餘名と注せられ近來の大盛況にて孫は一塲の演説を試み流石は大中華民國革命の親玉人々をしてアッと感服せしめ孫先生萬歳の聲は天地も崩るゝ斗りなり今其演説の要旨を聞くに危險は専制時代に比すれば尤も甚し故に千萬倍の力を加へて共に共和建設せんことを望む但我同胞一致して四年の後には世界の一等強國に列でんことを努めんことを希望す云々との事なり
津門日記 〔八月一日~八月十五日〕
大正元年七月天津気象畧表 中央気象臺員 神原矩松調
津門 第三巻 第十號 〔大正元年十月十五日発行〕
〔口絵〕
・山東省の靈嚴(記事参照)
(松下の支那服を着たるは張勲なり)
・泰山の聖廟
反覆異常 迂叟
書畵の鑒定 梅花道人
孫黄は破壊黨なり 叟謝公
靈嚴に遊ふの記
革命黨小傳
林尹民
陳與榮
梁啓超天津民主黨歡迎會の演説
梁啓超と黄興との關係
惡丐八大怪保定を擾す
乞丐征藏隊
乞丐征藏隊組織人物
乞丐征藏隊解散の牌示
蒙古獨立の情況
鱗片雜錄 綠蓑道人
綠林蜂窠錄 銀聖歎
秋燈閑話 睡鷗居士
海軍總司令處條例(十月十五日公布)
艦隊司令條例
法界馬家口隠士の書簡
◉文苑
漢詩
村上眞氏の大農經營
國慶日大總統の宣言書
國民捐強収辦法
津門日乗 〔九月十六日~十月十五日〕
五日 黄興北京より再び來津午後音樂騒きでイムペリアホテルに乗り込む
六日 午後七時過より今井原田西村(博)長峯藤田森川の六氏主催となり革命の首功者として黄興等一行を倶樂部に招宴す
七日 久しく日本に亡命したる梁啓超大信丸にて來津租界榮街梁士詒の宅に入る
九日 午前十時支那人民主黨の連中は梁啓超觀迎會を李公祠に開く聞説く梁の目的は此地にて有力の新聞を發行するに在りと
閑話偶語 大觀居士
大正元年九月天津気象畧表 中央気象臺員 神原矩松調
大正元年九月十五日印刷
大正元年九月十五日發行 (非賣品)
天津日本租界盤常街十九號
發行人劒兼編輯人 津村宜光
天津日本租界常盤街十九號
發行所 津門會
天津日本租界閘口
印刷所 中東石印局
津門 第貳年 第一號 〔明治四十四年一月十五日発行〕
口絵 西藏達賴喇嘛の宮殿、支那風俗高脚
西藏拉薩に於ける達賴喇嘛の宮殿或は普陀羅或は布達刺と稱す
西藏拉薩は圓形にして周囲一里或二里位あり
布達刺は其中央に在り本國は南より見たる正面也拉薩は神の塲所と謂ふなり
支那風俗高脚日本の竹馬或はさぎ足と稱する者なり
◉論説
津門の憲章
我輩は昨年の暮に忘年會を遣り去年のことは綺麗薩張り忘れた、之は去年がどうのこうのと今更に愚痴つたつて何の役に立たんからである、年々歳々送迎する年末年始に對する感慨などのあつて堪まるものか、人生の行路より謂へば一轉瞬の事件ではないか
雖然、歷史は過去の事實を語ると謂ふ如く、舊いからと謂つて忘れる譯には行かぬ、雑誌津門が二拾有餘名の發起者に依つて呱々の聲を揚げたのは去年の二月十一日、號を重ねること拾有壹、茲處に初めて第二年の新春を迎ふ誠に愉快の情に堪へざるものがある、
津門創設當時に於ける發起人は小幡酉吉、菊池季吉、豊田〇吉、福山義春、森本啓太郎、原田俊三郎、矢田七太郎、松村利男、山下竹三郎、田村俊治、吉田良繼、西村博、早川吉次、今井嘉幸、山根虎之助、田添豊造、鈴木藤藏、足立傳一郎、牧野田彦松、西村虎太郎、瀨上怒治、小田切勇輔、岡島光久、嘉悦敏の諸氏なりしも今や森本氏は大連に去り、岡島氏は神戸に去り、矢田氏は北京に去り、嘉悦氏は東京に去り、山根氏は山口に去り、小田切氏他界に逝き、前後六名の發起人を失ひしとは雖、尚ほ十有八名の發起人のあるあり大に我徒の意を強ふするに足る
津門第一號發刊の辭に曰く
〔省略〕
津門は斯の如き宣言を以て生れた、是れ津門の大憲章にして即ち之れ津門の主義主張抱負を語る者なり、我誌の主義主張を知らんと欲する者は乞ふ去つて白河の岸に立て!
即ち我徒は此の大憲章を遵守し一步ゝに津門の行程を進むれば足る又た何う他を謂はん、雖然吾人の微力は未だ以て此の大憲章に副ふこと能はざるを誠に遺憾となすのみ
◉雜錄
天津見物 村會議員 畠野田五平
回鑾記(二) 馬脚散人譯
天津繁榮記 繁華子 〔下は、その一部〕
太沽より白河の九十九折をぐるりゝと廻はつて五十哩の上流に一寒村があつた以前は名もなき荒廖たる地方で長蘆が繁茂して居つた許り、處か明永樂二年に天津衞とかを置き城壁を築き軍事上頗る重要の地となつた、夫れも四通八達の運河の在るが爲めにして、南から船、北から馬と謂ふ調子で大分賑やかになつた、兎角船の着く所は人気か惡い、天津も其選に漏れす遂に衛嘴子と云ふ難有い異名を頂戴した、楊柳靑の田舎娘を天津で仕込み京班即ち北京の藝者たと振れ込む、コンな具合で義和團の時まで來た、聯合軍の都統衙門が天津を占領してから城壁抔は無用の長物だ城内城外の交通を阻害するのだと謂つて遂に取拂つて仕舞つた、其城壁の後が即ち今の東西南北の馬路で電車が通り馬車が往來し昔日とは雲泥の差だ、北京の古色蒼然たると天津の新式のハイカラとは面白いコントラストである、之から少々天津の繁榮を語つて見よふ
▲天津の人口 正確なる調査ではない相であるが天津市及四郷の各村莊を合併すれば戸數が十五萬七千九百五十二戸、人口が八十七萬九千四百五十一人
天津に居留地を有するは日本、墺太利、伊太利、佛蘭西、白耳義、獨逸、露西亞、英國等であるが天津在留の諸外國人は三千五百餘名位の者である勿論此の内には英國兵の千餘名、獨逸兵の二百五十名、佛國兵の二百餘名は筭入し居らす
日本人は男女合せて千九百餘名なるが昨年十二月末日本警察署の調査に依れば左の如し
戸數 男 女 計
日租界 四四四 八八九 七五一 一、六四〇
英同 四六 六四 五三 一一七
佛同 二二 一〇 五 三五
獨同 五 四 五
露同 四 一一 五一 一五
租界外 三九 七一 一二二
計 五六〇 一、〇四五 八八九 一、九三四
前月に比し戸數十一戸、人口二十四名の増加となれり、日本軍隊は此内に在らす
天津の未來記 千里眼
資政院會議(四) 員外郎
淸國内外小史(十二月) 小僧
天子禪と將軍禪 野僧大錢師
病床錄 涙仙
支那の言文一致體 美智春
◉北津紳士錄
ハン子ツケン氏
日淸戰爭の數年前から直隷の陸軍教官として聘はれて居つた獨逸の青年士官中尉フォン、ハン子ッケンなるものがあつた、時の直隷總督李鴻章の信任する所となつて軍事上に献策した事も少なくなかつた、戰爭の始め威海衛に出張して淸國軍の参謀となり又鴨綠江の戰にも参加したりして淸國軍の爲めには随分盡したものだ淸國はサンゞ日本の爲めに敗られ旅順口の陥ちた時分に天津に於て李鴻章はゴルドン將軍の常勝軍に倣ひ外國武官一隊を作つて、下士等の指揮の下に若し日本軍が秦皇島から攻め寄せた時には天津でクイ止むる計畵を、總費用百五十萬兩を支出する事に定まつて居つた其總指揮官にハッ子ッケンが任ぜられて、海關等に居る有志の外人三十名を募集して愈々新常勝軍の組織に取りかゝつたが、ハッ子ッケンは全權を與へよと云つたが、李鴻章の承諾しない爲めに此計畵は遂に失敗に終つた、然し此時一萬圓はハッ子ッケンの手に渡されて、已に太沽ロードなどには日本軍の攻入を防ぐ爲め棚迄造つたと云ふ事である
日淸戰爭後依然淸國軍に雇はれて居つて、時の天津税關長で李鴻章の親友(講和談判で神戸まで出て來て我政府の拒絶する所となつた)デットリングの娘を娶つて夫人とした、
彼は其後陸軍の方をやめて井陘礦務局の取締役となり變り、專ら實業方面に力を伸ばし、其他土地の賣買などでも少なからぬ財産を作つたさうだ、然し個人としては實に親切で愛嬌のある好紳士である、デットリングと幷んで北淸に於ける獨逸の先進者で又目下尚獨逸の勢力の代代表者と云つてよからふ、彼は支那の陸軍少將であるが之は日淸戰爭の當時貰つた官名である TY生
◉各地消息
伯林より (手書の一節) 中島半次郎
雲南府より 十二月七日 佐藤生
東京より 参謀本部副官 岡大尉
雲南省城より 十二月七日 嘉悦生
長江船中より 一月十四日 嘉悦敏
◉文苑
寒月照梅花 津村香雪謹草
湘蕭遊記 日東遊士赤城山人
茶碗酒(三) 凡生
津門日記 〔十二月十四日~一月十五日〕
◉支那女丈夫傳
朱木蘭(二)
津門 第貳年 第二號 〔明治四十四年二月十五日発行〕
口繪 西藏喇嘛の會合、天津金華橋
〔西藏喇嘛の會合の写真説明は、上部欠〕
天津風俗金華橋ジヤンク通過の所なり
◉雜錄
淸國人縦横觀 長髪生
觀津記 西沽次郎
祁州視察記 黑澤兼次郎
甚忙行記 十二月二十七日瀘州を過る時 子龍生
回鑾記(三) 馬脚散人譯
資政院會議(五) 員外郎
天子禪と将軍禪 野僧錢師
淸國内外小史(一月中) 小儈
音樂會お茶評
音樂會感想記 紫竹林子
凡人語 凡生
支那俚諺譯解 津門 美智春 〔下は、その一部〕
〇一枝不動 百枝不搖
譬ば或る事をなすに其の上に立つ一人が承認をせないと其下に居る澤山の人も強て爲す事は出來ないなど云ふ塲合に用ゆ、上に立つ者がシッカリしてさへ居れば其他の者も矢張りシッカリして居る
〇人無千日好 花無百日紅
人間は何時ゝも順境に居るものではないソレハ丁度花は美麗に咲いても其紅を百日保つ事の出來ないのと同じ事である所謂人不能常有好機會の意である
〇南人操船 北人乗馬
南淸地方の人は舟を能く操縦し北淸地方の人は馬に乗る事が上手だ、南船北馬と云ふ句は矢張り地勢より出來たものだと思ふ南方多水、故南人善操舟、北方多陸故北人善乗馬、人は習慣に依り其技能の發達も異なるものである
支那の言文一致體 美智春
◉文苑
漢詩 在京生
◉支那女丈夫傳
朱木蘭(三)
津門日記 〔一月十五日~二月十一日〕 〔下は、その一部〕
十六日 墺太利租界にペスト初めて發す
◉雜報 〔下は、その一部〕
天津のペスト 去一月十八日墺太利租界に於て滿洲歸來の苦力に同病を發するや病毒は次第に蔓延し天津市の洛中洛外毎日ペストに斃るゝの惨狀を呈せり初發以來二月十二日迄公然通報されたる患者は四十餘名に達せり尚ほ此外多數の患者ある見込なり
明治四十四年一月中ノ銀塊相塲及日本向賣爲替相塲一覽表
明治四十四年一月天津気象畧表 中央気象臺員 神原矩松
津門 第貳年 第三號 〔明治四十四年三月十五日発行〕
◉口繪
蒙古多倫諾爾舊制喇嘛廟の大殿の光景
總督外出の光景
蒙古多倫諾爾舊喇嘛廟の一部にして大殿と稱する主要の建築物なり喇嘛僧の家屋三百戸計り東西に廣かれり、喇嘛僧は新舊両廟にて約七八百名明治三十二三年の頃日本に遊へるアザヤ活佛の別院は閑靜涼快塵埃に遠かれり一般人民の市街は約五淸里の處にあり
總督轎に乗り外出儀仗の撮影なり
宣統三年歳入出豫算原案及資政院の審査議決案 編輯者
◉漢詩
訪津村先生不遇 村岡融軒
三浦直隷警務顧問與津村先生俱見過賦此贈謝 仝
村岡翁辱見訪余偶不在翁賦一首而去即步其韻却呈 津村香雪
聞翁與余同郷爲孔子祭典會委員始相逢海外遇亦奇 仝
儒教廻瀾錄(一) 融軒 村岡素一郎著
觀津記(二) 西沽次郎
支那異聞蒐錄(一) 書香の徒
▲桃は五木の精なり 支那家屋の門首に桃枝を挿すは百病を除き邪気を壓伏するの祈禱なり蓋し桃は五木の精にして邪気を壓伏する者なりとの信念に基く古語に謂ふ梟桃樹に在り落ちされは百鬼を教す玉桃を食せは長生不老と言傳へらる、猶ほ酒に桃花を漬けて之を飲めは百病を除き容色を美にすとあり
▲葱嶺の起源 葱は五味を調和する者にて所謂消化作用を助ける者と信せり、春月酒を飲むに葱を加れは以て五臓に通すとは之が爲なり、靑海燉煌の四方八十里にして高山あり山上には大葱を生す故に葱嶺の名之に基く
淸國内外小史 二月中 小僧
▲爆竹 支那人は何事に依らす大に爆竹を鳴らす支那全國に於て一年間に消費する爆竹は非常なる鉅額に及ふだろふと思はれる天津でも爆竹製造者は毎日仕事に追はれて居ると言ふ有樣である、此頃も淸曆正月以來、そこ此處に爆竹の音がする夫れが例年よりも爆竹の鳴らし方が馬鹿に長いのみならず支那官憲は例年の如く爆竹禁制の布告を出さぬのて段々聞き合せて見ると本年はペスト流行せるを以て之を退散せしむるため官憲に於ても却て之を奬勵した樣な傾がある、 开は兎も角として古傳に依れは西山に鬼あり長さ尺餘、之を見た者は直に病気になる此鬼の名を山臊と稱し竹を火中に入れ其爆聲を聞けば山臊も閉口たれて遁け去ると謂ふことがある支那人の爆竹を鳴らすは眞面目に惡魔除けと思ふて遣つて居る、爆竹を鳴らすことも畢竟是等の事から起つた者である
宋代禪風の特色 野僧大錢師
重慶通信 子龍生
淸國内外小史 二月中 小僧
◉各地消息
香港より 兒嶋喜代藏
大阪より(天下茶屋東遊園地) 田中信吉
東京より 莊田三平
東京より 三月三日 嘉悦敏
支那俚諺譯解 美智春
對津水樓 背水樓主
開平礦務最近の情況 編輯者
◉津門たより
天津領事團と審判廳
溫世霖流謪後の始末
直隷省の留學費
直隷省が歐米日本留學經費として支出する者は毎年二十万七千餘兩あり内譯左の如し
米國學生監督薪水 七千〇八十三兩
米國學生經費 八万七千九百十六兩
留英學費 千六百兩
留佛學費 六千兩
留白耳義學費 四千五百兩
留歐米學生監督薪水 五千兩
以上海關道支出
日本留學費 五萬三千百八十兩
歐米留學費 二萬九千七百十兩
以上學務公所支出
財政總滙處海防粮餉股の留日學費 六千八百七十兩
陸軍粮餉局の出洋陸軍學生贍家費 五千百四十六兩
津門日記 〔二月十二日~三月十一日〕 〔下は、その一部〕
十八日 共立病院午前八時全燒す
十九日 本日迄天津市内外のペスト患者は六十一名
三日 天津幼稚園開園
五日 本日迄のペスト患者六十九名
九日 津浦鐵道開通
愚言を樂童村岡君に呈す 茶目坊
天津輸出入月計表
安流廣惠永定河神廟碑文
明治四十四年二月中ノ銀塊相塲及日本向賣爲替相塲一覽表
明治四十四年二月天津気象畧表 中央気象臺員 神原矩松
〔口絵〕
・北洋政法專門學堂〔北洋法政專門學堂〕(記事參照)
・紫竹亭 (記事參照)
◎評論
淸國の華と謂はん乎(一) 各省の匪賊と百姓一揆 編輯小僧
佛字新聞の所論(三) SМ生
經國の大業不朽の盛事論 五十男
◎雜錄
兩宮西南播遷の顚末(二)
聯合軍大沽砲臺を陷るゝ記 馬脚散人
曾國藩日記の一節(四) 一葉生
北方の名儒劉因の從祀 北嶺生
国會速設請願運動の其後 TK生
黄河 北嶺馬
日淸用語對照 洋鬼子
義太夫の話(三) 養軒生
狩水精舎雜筆 狗狼判官
北洋政法專門學堂沿革 編輯小僧
(本校の特色は日本語本位)
學堂設立の目的
建築費用及毎年の經費
各科の成績
附屬簡易科
附屬中学部
幹部及職員
天津案内記 第四回 SH生
(六)天津工巡捐局
天津の下層生活(一) 編輯小僧
支那俚諺譯解 天津 美智春
支那の言文一致體 津門 美智春
◎文苑
紫竹亭之記(挿絵參照) 狩水生
孤獨 血爛生
涙 凡生
俳句
◎諧謔
津門女傑 葫蘆生
照魔錄 玄々道人
◎各地便り
南洋博覽会 子龍生上海便りの一節
上海便り 四月十五日 仝人
風の便り 滿洲太郎
◎北淸紳士錄(一)
直隷總督陳虁龍氏 ▲▲生
津門日記(自四月十五日至五月十五日) 〔下は、その一部〕
二日 ハレー彗星益々世人の視聽を惹
編輯餘錄
社告
常津盤街八十号號へ移轉仕候 津門社
◎行春の名残
天津陸上運動會 (四月十七日及十八日)
運動會委員會慰勞會 一委員
花見船を追ふの記 (四月二十四日) 牛涎居士
〇花見 たべそ
我輩は新河の花である はなゞ子
桃花を觀さるの記 傲霜窟主人
觀桃會 素寒貧生
乗馬會馬塲開塲式 (五月八日午前八時)
天津の庭球界
正金對二引倶樂部の仕合 (五月八日午后)
三社庭球競技 (五月九日午后九時)
三井庭球會 (五月十四日午后一時)
招魂祭 (五月十五日)
音樂會駄評 (十四日午后) 楊蔭漁郎
表紙 満漢文字の津門
〔口絵〕
・秦皇島の桟橋左に微かに見ゆるは軍艦
・張家口外蒙古人テント家屋(河野寫眞館寄贈)
◉天津の将來に關する諸氏の意見
天然と闘ふは不利なり 三井支店長 安川雄之助氏
塘沽築港と農業振促 吉田洋行主 吉田房次郎氏
太沽及秦皇島 郵船支店長 豊田〇吉氏
白河の浚渫は無論必要 大阪商船会社 安田安太氏
白河太沽の改修に就て 大倉洋行支配人 菊池季吉氏
◉論説
東洋思想の將來(上) 五十男
◉雜錄
邦人關係の學堂官衙(三)
北洋高等巡警學堂沿革
▲學堂設立の目的
▲學堂の廢合及沿革
▲本學堂の學生及經費
▲本學堂卒業生
▲教授科目
▲現任総辨及日本教習
學堂の歷代督辦總辦の氏名左の如し
趙秉鈞(後ち民政部右侍郎に昇任し現今閑地に在り)
沈金鑑(現に候補道にて安慶の審判廳長官たり)
徐鼎康(現に吉林省度支使に昇任せり)
徐鼎讓(現總辦)
現在關係の日本人は警務顧問三浦喜傳氏を總教習とし天野健藏原田俊三郎の兩氏教習とし葛上徳五郎氏操法教習として在任せり而して原田氏は目下巡警總局に在りて總稽査の事務に從事し居れり。
両宮西安播遷の顚末(四) 馬脚散人
高柳君譯の「ロバート、ハート」傳 狩水
淸國新舊貨幣の處分 齊東隠士
北淸の気溫 神原生
淸國に於ける日本郵便局 YW生
天津案内記 第六回 SH生
(八)天津知縣衙門
邦人の注意事項 津門生
(支那郵政分局取扱人の不注意)
津浦鐵道分站問題 津門生
武術の秘訣と臍(二) 武狂生
入蜀日記之一節 北京 寒蛇生
草鞋の迹(二) 旋風生
◉北淸紳士錄(三)
天津商務總會 總理王賢賓氏
◉交隣須知
支那俚諺譯解 天津 美智春
支那の言文一致體 津門 美智春
◉淸國叢話
百舌鳥の洗藻 MS生
◉廻訪録 編輯小僧
天津に於ける外国医術(平賀顧問談)
外国医術の濫觴
外国医学研究機関の概況
▲北洋医学堂
▲北洋軍医学堂
▲北洋女医学堂
漢方医との関係
支那人の対医術概念
◉各地便り
口外見聞(二) 豊鎭 漠南生
◉短編小説
緊急問題(二) 北京 血瀾生
◉文苑
漢詩 保定 籾山衣洲
和歌 凡生
発句數編
◉雜報
數件
津門日記 〔六月十二日~七月五日〕
・苗族婦人の機織(在成都社友寄贈)
・大和公園秋の夕暮(噴水、音樂堂、記念碑を望む)
◉論説
淸國に於ける婦人の位置 高柳生
淸國鐵道の現勢 北嶺生
世界に於ける海底電線 YМ生
◉雜錄
兩宮西安播遷の顚末(五) 馬脚散人
北淸人と回回教 五十男
本年八月の気候概要 KK生聞書
苗族 北嶺樓主人
中國商業不振の原因 某清人
邦人關係の學堂官衙(六)
天津高等學堂沿革 涙仙私記
附共立小學堂
開設の由来
日出學館時代
天津普通高等學校時代
天津高等學堂時代
修業年限及び學科目
共立小學堂
現在の狀況と將来の希望
淸國内地旅行 赤城画伯の旅行談
脚力の練習 神田ノ兄イ
二閘行 北京 血爛生
満州演奏旅行記(二) 樂童
孔子祭を觀る 北嶺
支那俚諺譯解 天津 美智春
支那の言文一致體 天津 子方生
◉各地消息
伯林より 八月十一日 中嶋半次郎
弘前より 八月八日 那須太三郎
北京より 九月一日 鉄公鷄
◉北清紳士錄
直隷巡警道舒鴻貽君
◉文苑
關嶺紀遊(二)(漢文) 傲霜窟陳人
亡兒記 凡生
漢詩 崧年
城址 萍村生
舟の一夜 わか子
發句 白水生
◉天津風俗畵報
天津の湯屋
◉支那事情問答
答案及問題
◉筒の音
軍糧城の鴫打 凸坊
秋獮 華兒香
租界の鐵砲組 新參者
◉雑報
國渡淸實業團
秋季陸上運動會
津門日誌 〔八月十日~九月十九日〕
津門 第一号 〔明治四十三年二月十一日発行〕
〔口絵〕
・天津日本租界旭街(河野写真館撮影)
・ 同 白河 (同上)
發刊の辭
敢て『燕塵』の後塵を拝せんとうるにあらす、敢て『江漢』の餘流を掬まんとするにもあらす、津門同好の士か職業の異同と年齒の長幼とを論せす餘暇時に相會して互に闘はす議論雑談放言の類を活字てふ文明の利器を利用して小冊子となし一は以て同好の士に頒ち一は以て無責任なる放論を他日の左驗に殘さんとするのみ
若し世間『津門』の主義主張を問ひ抱負希望の如何を尋ぬる者あらは乞ふ去て白河の流水を見よ、白河の水は未た嘗て其の存在の理由を語ることなくして萬世溶然として東流するにあらすや
唯白河は一なるも水に清濁あり流に緩急あり『津門』と雖も會員の意見は其の面貌の如く異ならん、判斷評価は読者のことにして發行者の知る所にあらさるなり
時事の感 雲外
祝津門發刊 燕京 豊島桑弓
同 在北京 上野岩太郎
謹んで津門の發刊を祝す 東京 無何有道人
津門の發刊を祝す 在津 河東隠士
不要領の記 牛涎居士
天津案内記(第一回) SH生
(一)天津の昔時
(二)直隷總督の起り
(三)天津警察の起り
新雑誌に望む 新来生 〔下は、その一部〕
一時萬を以て數へられたる在日清國留學生は今や僅に千餘に下り日人の清國招聘者は日に其數を減じて又昔日の勢なし日清戰後より日露戰役後に及び清國官民が一時我に信頼したるが如き盛時は復た遂に見る事能はざるか
事の茲に至りたるに就ては其原因固より少からずと雖要するに邦人が淸人に対する途に於て甚だ失當の事多きによる其一は則ち邦人の言議を妄りにするにあり
天津審判廳を觀る 明治四十三年二月四日 SH生
清國民現代の時代精神 木戸郎
明治四十二年の銀塊相塲 小心生
責ふさ記 ひま生
汝斬られても死なむ覺悟あるか NK生
佛字新聞の所論 SМ生
外貌學上より見たる支那馬と價値 冀北道人
支那俚諺譯解 美智春
今の「ハイカラ」と武術 武狂生
津門日記 〔一月一日~二月十三日〕 孔方兄
三日の旅行 古狂生
口外の銃獵(一) 一月二十七日張家口 北嶺
同気會 花外
郷里の友へ ゆき子
天津の名物揃ひ 兩巴生
詞苑
津門の産聲を聞いて 霞堂生
第二回玉突競技會の開催を望む 六十三組の一人
義太夫の話 養軒生
曾國藩日記の一斑 一葉
暖爐問題 哈々道人
租界の三幅對 浮世道三五投
社告
◉本社の簡章
一、天津在留者にして毎月銀壹弗の會費を納むるものを以て正會員とし雑誌若干部を送呈す
一、天津外に在留せるものにして本社に金員を寄附したるものは之を地方會員とし毎月雑誌壹部を送呈す
明治四十三年二月 十日印刷
明治四十三年二月十一日發行
發行兼編輯人 清國天津日本租界常盤街四十九號 田中淸
印刷人 清國天津日本租界壽街三十六號 津田淸之助
印刷所 清國天津日本租界壽街三十六號 北淸印字局
發行所 清国天津日本租界常盤街四十九號 津門社
なお、本号には、次の紙片が挟まれていた。
〔本誌発行の趣意書〕
拝啓刻下日に増し気候緩和に相向申候処貴下益々御清祥の段奉賀候
却説今回当地在留の同好者諸子発起人となり聊かなりとも支那の国勢に関する諸般の状況を洽く周知せしめ度き微衷と且は互に消息を漏らして娯楽の機関に供したき趣旨に基き雑誌津門を発行し之を知己朋友の間に頒配仕候
尚ほ本誌は将来益々改良を施す必要も有之候就ては其維持発展は一に諸君の御同情に基くの外他に適当の方法も無之候に付本雑誌発行の経費を支持するため会員組織となし天津在留会員を正会員とし毎月一弗を会費として徴収うるの外地方に在て本会の主旨を賛成せられ好意を以て金員を寄附せらるゝ諸君を地方会員となし此に対して雑誌を贈呈することゝ定め候に付御賛成の諸君は御申込被下度茲に雑誌一部を贈呈し得貴意候也
清国天津日本租界常盤街四九
津門社委員
各位
〔口絵〕
・禁衛軍大臣載濤貝勤 記事參照
西藏問題の觀測 牛涎居士
清國軍隊の西藏侵入 北嶺生
佛字新聞の所論(二) SМ生
摘食論(一) 呑雷
雙龍寶星(一) 頑骨
在理會(一) 寂寞道人
天津審判廳を觀る(續き) SH生
天津案内記 第二回 SH生
(四)天津城壁の今昔
天津の誇り 香圃
津門開く 五十男
娘々宮 松涙生
支那俚諺譯解 天津 美智春
平仄と北京語の聲との関係 馬吉
曾國藩日記の一節(二) 一葉
三日の旅(二) 古狂生
口外の銃獵(二) 北嶺
天津陸上運動會 花外
ひた振ひの記 ぶるゝ生
義太夫の話(二) 養軒生
支那人の迷信と奇談 哈々道人
詞苑
天津の俳樂會 白水津門日記 孔方兄
津門日記 〔二月十四日~三月十二日〕 孔方兄
天津看板のぞ記 慢々道人
天津看板のぞ記 慢々道人
雑報
●載濤
●編輯餘録
社告
〔紙片二枚〕
●明治四十三年淸國天津気象畧表
●明治四十三年十二月中ノ銀塊相塲及日本向賣爲替相塲一覽表
〔口絵〕
・三月二十三日天津尋常高等小學校証書授與式
・三月七日降雪中の大和公園
時事評論
春 茶目坊
英國も亦我を怕る 水天
民團法施行規則の改正を要す 凸坊
英國も亦我を怕る 水天
天津靑年諸君に英語字典の研究を勸む 春子
淸國憲政豫備概觀 NМ生
淸國財政資料
淸國鐵道概觀
鐵道借欵問題 北馬生
雜錄
星龍寶章(二) 頑骨
在理會(二) 寂寞道人
支那人の三特長 五十男
天津案内記 第三回 SH生
(五)天津洋務局の今昔
曾國藩日記の一節(三) 一葉
支那人の迷信と奇習(二) 哈々道人
大聖釋迦 松蘇水
偶感(日記の所々) 蘇の水
有耶無耶論 呑雷
支那の言文一致體 津門 美智春
支那俚諺譯解 天津 美智春
史傳
兩宮西南播遷の顚末(一) 馬脚散人譯
興淸傳(一) 野史子
(一)闖王李自成
(二)奸黨の陰謀
文藝
痛恨 ゆき子
彌生吟集
獵界雜話
天津の銃獵界 新天狗
硝煙餘錄 雪泥散人
津浦鐵道工程車發着時間表
塔爾巴哈台の學堂
話の話
京津似顔の見立 京津飛脚屋
雜報
山東通信 濟南子
津門日誌 〔三月一日~四月十一日〕 〔下は、その一部〕
二十日 濤貝勒一行特別列車にて當地を通過し日本視察の途に上る阿部司令官一行太沽に一行を送り貝勒及薩鎭氷と會談數時
廿七日 保定倶樂部誌第二十八號出づ記文兩がら美
會員彙報
●正會人名錄
證書授與式
唐山セメント公司擴張
社告
盧溝橋附近の沿革並橋の話 三野生
(五月十七日北京日本靑年會員盧溝橋に遠足す、本稿は當日之を會員に頒付せるものヽの一部に係る)
現今の北京は戰國時代に燕と稱し、降つて唐時代には幽州と稱せり、五代の時、遼は滿洲地方に起り太宗の時は既に幽州を併呑し之を南京(今の北京)と稱せり、時に宋は南方に起り(西曆九百六十年)河南府開封府に都せり、其太宗は勝に乗じて遼の幽州等を取らんとし太原より進んで南京を圍む、遼の景宗大に宋軍を高梁河(今の京城の西)に敗り太宗走還す、遼の聖宗に至り太宗再び遼を討ち其數州を取りしが、遼軍遂に岐溝關(涿州の西南にして又盧溝橋の西南に當る)に宋軍を追戰して大に之を敗る、由是觀之、北京の西南五里を距てたる盧溝橋附近の地が宋遼の衝突地點たりしは明かなるべし、
宋の徽宗の時童貫は吐蕃、西夏と戰ひて之を破りしかば遼も亦計るべしとなし、自ら請うて遼に使し窃に其事情を窺へり、燕人馬植童貫に告ぐるに若宋にして今正に北方に起れる金と同盟して遼を挾撃せば成功疑なきを以てす、童貫挾んで以て歸る、徽宗喜んで之に趙の姓を賜ふ、是に於て宋は二國連合して遼に當らんとし、こゝに東北亞細亞全体に關する大戰端は啟かるヽに至れり、當時宋金の約欵に曰く(一)金は北方より遼の上京を征め、宋は遼を南方より征めて其南京を陷るヽ事(二)事成らば宋は甞て契丹(遼の前身)に、與へし十七州を取り、其他の遼の地は金の有となす事等は其主なるものとす、斯くして金は遼の上京、中京を征め次いで西京を降せり、時に遼にては晋王淳なるもの燕京を守れり、宋は金との約に從ひ童貫をして燕京を伐たしむ、遼の蕭幹撃て之を却く、童貫等再び兵を擧ぐ、遼將郭藥師涿易二州を以て宋に降る、童貫進んで良鄕縣(盧溝の西南)に至る史に宋軍進んで盧溝に駐るとあるは蓋し之を指すべし、遼の蕭幹衆を率ゐて來り拒く、宋軍戰敗す、童貫復た郭藥師と師を率ゐて夜盧溝を渡り間道より燕京を襲ひ、黎明其東なる迎春門を破つて入る、蕭幹密報に依りて其事を知り精兵を率ゐて還りて死闘す、郭藥師等敗れて城に縋りて出づ、此時宋軍の劉廷慶は盧溝の南に陣せしが蕭幹其糧道を斷ち、火を擧げて宋軍を驚かす、劉、火の起るを見て敵至るとなし營を燒いて遁る、蕭、兵を縱ちて敵を追うて涿水に至れり、之を要するに盧溝の師遂に大敗して遂に遼を拔く能はざりき、依て金兵は居庸關(北京西方の山關)を通過して遂に燕京を陷落せり、金は宋が出兵の期を誤り且燕京を下す事能はさるを以て約の如く地を宋に讓る事を拒む、宋は止むを得ず歳幣四十萬の外毎年燕の代税銀百萬緡を與へ且燕京を陷れたる報償として糧二十萬石を金に出す事を約し僅に燕京及其附近の六州を領せり、金人燕の職官富民を驅つて東に徏る宋の童貫等燕に入るも得る所は空城而已、
かくて共同敵たる遼の亡るや(千百二十五年)次に來れるは宋金の衝突なり、金が宋代に代りたる後、元、明、淸相次で起るに當ても燕京の屬地にして恰も吾京都に對する伏見の如し、其歷史上の重要地點たるは蓋し想像するに難からず、今は繁を厭ひて僅に沿革の一部分を述べたるに過ぎず他は讀者の判斷に任せんのみ、盧溝橋なる名稱が特に吾國に有名となりしは現在の京漢鐵道が盧漢鐵道と稱せる頃北端の一起點なりしに有るが如し、明治三十年(光緒二十三年)春より第一區線たる盧溝橋保定間の工事に着手し明治三十三年團匪事變の頃は既に保定迄開通せるも土匪の爲め該鉄道の破壊せらるヽや佛國軍は翌年一月迄に是を修築し次いで仝軍は之を北京正陽門外迄延長したり、其結果同鐵道は北漢 ペーハン 鉄道と改稱せられしが一昨年即明治三十八年の夏北京漢口間の全通するに及び復又京漢鉄道と改稱するに至れり。該鉄道は表面は白國シンヂケートの手にて經營せらるヽも實際に於て露國は全部の資金を投せり但し其四分の三は佛國より借り入れたる資本也、
盧溝橋は盧溝河に跨り南北往来の要路に當る、北京外城の彰儀門(廣寧門ともいふ)を距る西南に三十淸里也、初めは船橋なりしが十二世紀の初め即ち千百二十三年火災に罹りて木橋となし十二世紀の終り即ち金の章宗の大定二十九年(千百八十九年)是を石に易へ明昌三年三月(千百九十四年)成就せり、橋を「廣利」と命名す、現存するもの即ち是也、其後元、明皆是を修築する所あり、淸の康熙帝三十七年重修して河名を「永定」と賜ふ、勅して永定河の神祠を橋の側に建てられ御製の文を碑に勒す、 乾隆帝の時代にも重修する所あり帝親筆の「盧江暁月」の四字幷に詩は各碑に勒せらる、是等の碑は黄瓦を以て葺かれたる亭内に在り、何れも橋の歷史を物語るもの也、
歐州人は是を Marco Polo の稿といふ、 Marco Polo は千二百七十四年より千二百九十五年迄元の世祖の朝に在りて厚く待遇せられたる人なるが故に、盧溝橋を見たるは建造後約百年を經たる頃なり、彼の東洋紀行中の一節に曰く
“ This bridge is a marvel, 350 ft. lomg, 18ft. wide, supported upon eleven arches, it descends from the middle to eitder bank. The parapet is divided into 140 parts by as small lions, the roads way of the bridge is 50 ft. about the water. ”
橋は切石を以て作られ東西長さ六十六丈(俗に二百步といふ)南北寛さ二丈四尺あり、橋臺は十一個の「アーチ」を有し橋上なる百四十本の欄杆は各種異樣の獅子を頂き以て橋の兩邊を走れり、早晨毎に波光月を映ず、所謂京都八景の一を爲し盧溝暁月と曰ふ、橋の邊り古樹蒼然として暁星素月と俱に愛しつべし、橋上より遙望すれば西山の群蜂羅列して畵くが如し
過盧溝橋 宋犖
盧溝橋畔雪霜多 今日衝寒又一過
不道郷心南去急 祗疑波浪似黄河
上の文は、明治四十一年五月三十日発行(非売品)祗の 『燕塵』 第五号 北京燕塵會 に掲載されたものである。
なお、写真は昔撮影したものである。
天下の同好に告ぐ
燕塵発行の趣旨は筆写を印刷に代へ相互に分て北京に於ける出来事は勿論是れに関係する事々物々大は国家の体戚に関し小は個人の利害に伴ふ所有事件の報道を専らとし傍ら風雅の道を辿りて光風霽月以て俗情を脱し或は奇言怪語を弄して滑稽諧謔以て人の頤を解き時に暗々裏に彼を諷刺し時に明々地に是を警告す一言にして之を謂はゞ燕塵は我等同人が紙上俱楽部なり此俱楽部たるや実に広量無辺にして恰も天の覆ひ地の載するが如し是を以て世間有ふれたるヘチ矢釜シキ規則規約等の束縛なく苟も同好の志あるものは誰彼の差別なく随意に此仙境に遊ぶを得べし然りと雖も仙境には仙境の道義あり宜しく左の事丈は相互に守らざるべからず
一投書は毎月十五日締切の事
一投書は本会の原稿紙に楷書平仮名にて丁重に認め句読も可成打ち来る事原稿紙は需に応じて何枚にても差上ぐべし
一投書の取捨選択はすべて編者に一任し毫も苦情を言はざる事
一投書家の本名につきては編者言はず看者問はざる事
一仙境に遊ぶ冥加の為め発行の料を負ふ事但し可成御持参を乞ふ
明治四十一年二月 北京 燕塵会
燕塵 第四号 明治四十一年四月三十日発行(非売品) 北京燕塵会
目次
題字(燕塵) 真闇齋
表紙画図案(両把児頭) 秋野外也
燕京耳塵 昴々生
入塵之記 放鶴生
燕塵の報界 燕人
「サー、ロバート、ハート」 江山生
独逸の郵便 附支那郵便 三野生
昔見た北京と今見た北京 畑野杢平
曬背囈語 杢造
十把一束 莫哀生
虎耶耶 南無加羅漢
偶感 秋香生
日本信局子在那児(承前)
郵便茶話 郵便小僧
文苑
北京めぐりの記(明治三十九年) 金弟生
スケッチ其三(轎上の満州人) 秋野外也
燕会俳句
狂歌 くちのわろ人
哈々騒 思隣仙 ヽヽ坊 楠亭
○ 三尺
北京笑史 微々笑客
前号象評 覆面頭巾
雑報
燕京たより 不倒菴
青年会発会式及余興の記 太郎三郎
園遊会見聞記 城北傖夫
書柬一束
編輯たより 遠甚子
鴻便
湖南たより 小華
遼西たより
燕塵 第五号 明治四十一年五月三十日発行(非売品)
目次
題字(燕塵) 林権助
表紙裏図案(菖蒲) 秋野外也
肖像画(林公使) 池原正利 〔掲載なし〕
特命全権公使男爵林公の東帰を送る序 服部宇之吉
林公使の君の日本に帰へらせ給ふに 服部繁子
林公使を餞するの辞 傍聴生
林公使を送る 没假生
竹蔭星使を送る 燕人
「ボイコツト」の潜因 山崎瞻
日露戦争前後に於ける日本の地位 放鶴生
燕京の医界 夏来生
我が対聯観 素町人
「サー、ロバート、ハート」(承前) 江山生
娯楽場の拡張に就て 秋香生
盧溝橋附近の沿革並橋の話 三野生
曬背囈語(二) 杢造
日本信局子在那児(承前) 藪唐坊
郵便茶話 郵便小僧
燕塵閑評 達観坊
新珍摘録 或人
北京と東京 涙仙
雑報
燕京たより 不倒菴
游船献納式 N生
本願寺に於ける宗祖降誕会 М生
盧溝橋遠足会 S生
春期大射撃会 W生
編輯たより 遠甚子
× × 半駄子
遼西だより(承前)
上海たより 滬上槎客
南清の台湾人 武彝山人
燕塵 第六号 明治四十一年六月三十日発行(非売品)
肖像画(林前駐清公使) 池原正利
燕京耳塵 昴々生
八、敵愾の観念 九、燕京の報界
日露戦争前後に於ける日本の地位(承前) 放鶴生
燕京の医界(承前) 夏来生
「サー、ロバート、ハート」(承前) 江山生
北京消費組合に就て 秋香生
變聲語義 養稼生
十三行記 その一人
三日の旅 驢友
曬背囈語(二) 杢造
幌子(続)
燕塵余聞 又聞小僧
郵便茶話 郵便小僧
北京の配達事務(附北京地図)
燕会不問語 温古生
昔の日記 Ⅹ生
豪興歌 楸村
佗住ひ 楸村情禅
雑報
燕京だより 不倒菴
上諭集、閑語集、人事集、会集
清国海関に於ける日本人 一記者
編輯たより 遠甚子
鴻便
御河橋畔たより 燕人
長崎たより 俳青
新疆たより 林出生
南清の台湾人 武彝山人
スケッチ(其五) 秋野外也
燕塵 第九号 明治四十一年九月三十日発行(非売品)
目次
表紙画図案(獣頭瓦) 秋野外也
飛耳張目 黙笑生
六、紐育「ヘラルド」の米清同盟論 七、燕京の外交社会
新法鉄道問題の真相(其の三) 公平生
独逸の清国開発事業一端(演説速記) 峡籟生
曬背囈語(四) 杢造
黄禍論
清国に於ける電話事業 虚人
北清事変回顧録 随軒
北京在留邦人の消費組合 嗽石
變聲語義(承前) 養稼生
十三行記(続稿) その一人
湯山日記 新泰獅稿
長城観月行 放鴻生
ザックバラン 藪唐坊
豚の膓
盧溝橋の紀 虎屋髯麿
金毛獅子吼 楸村
ありのすさひ 楸村
巌谷博士夫人の柩を送る時 楸村生
塵塚 三面子
雑報
燕京たより 不倒菴
上諭集、人事集、会集
編輯たより 遠甚子
鴻便
東京たより 権助
長沙たより 艸夢
包頭鎮たより 出口生
燕塵 第十号 明治四十一年十月二十日発行(非売品)
新星使を迎ふ
京師新聞 柏菴
〇達頼喇嘛〇法庫門電報
新法鉄道問題の真相(其四)
独逸の清国開発事業一端(承前) 峡籟生
入竺求法の僧侶 桑原隲藏
北清事変回顧録(承前) 随軒
北京に於ける外人設立の学校(承前) 伊知生
北京在留邦人の消費組合(承前) 嗽石
京師電燈公司の事業拡張 KS生
十三行記(承前) その一人
湯山日記(承前) 新泰獅稿
支那宿の落書 松涙生
庭球 七赤子
豚の膓 ヽヽヽ同人
隨感隨吐集 虎屋髯麿
塵塚 三面子
雑報
燕京たより 不倒菴
献芹言 望蜀生
編輯たより 遠甚子
鴻便
京城たより 井上雅三
哈爾賓たより 北冥子
燕塵 第十一号 明治四十一年十一月十日発行(非売品)
表紙画図案 秋野外也
字紙蔞に銀杏の葉
清国立憲予備史(一) 燕人
在清国各国宣教師の医学宣伝現況(演説速記) 峡籟生
入竺求法の僧侶(承前) 桑原隲藏
清国に於ける電話事業(承前) 虚人
北清事変回顧録(承前) 随軒
北京に於ける天主教 幽里人
十三行記(完) その一人
湯山日記(完) 新泰獅稿
變聲語義(五) 杢造
支那宿の落書 松涙生
忙中閑語 没法子
ヨーチャンの気焔 塘沽 その親仁
豚の膓 ヽヽヽ同人
隠し芸 四畳半
門頭溝 狂歌仙
瓦屑 十二月菴
塵塚 三面子
雑報
燕京たより 不倒菴
編輯たより 遠甚子
鴻便
上海たより 平井徳藏
新疆たより 林募勝
滬上たより 含澤生
燕塵 第十二号 明治四十一年十二月一日発行(非売品)
表紙画図案「掛白」 秋野外也
梓宮前に於ける公使団の弔唁式 同哀生
監国考 随軒
時局所感 陣笠
在清国各国宣教師の医学宣伝現況(承前) 峡籟生
清国に於ける電話事業(承前) 虚人
電話度数料金制度に就て 虚人
居庸関の壁文及其彫刻美術に就て 寺本婉雅
北京の本屋 蠛子
ドーダカ叢談 白耗子
ザックバラン 藪唐坊
シンシの徳義 白帽盔
媽々 尺寸先生
雑報
燕京たより 不倒菴
〇清国両宮の崩御附北京市内の状況〇上諭集
〇燕京に於ける二侯一子〇人事会集
編輯だより 遠甚子
鴻便
滞京の諸卿に致す 在阪 高橋天豪
晋豫だより 星川生
新疆たより 在廸化 林出生
附録
清国皇室御系図
表紙には、「写真画報臨時増刊第一巻第三編 清国写真帖 博文館発行」とある。奥付には、「明治三十九年 〔一九〇六年〕 二月廿日発行」とある。26.2センチ。
●清国写真
◎西太后陛下(光沢三色刷) H.I.M. The Empress Dowager of China.
大清国当今慈禧端估康頤昭豫荘誠壽恭欽献崇熙聖母皇太后は清国実際の主権者にて、現皇帝の生母なる醇親王妃殿下の姉に御座しまして、齢既に八十に近きも、なほ不老の仙女に似たりといふ。
Her Majesty is said to be the real ruler of the Empire. She is the elder sister of the consort of the late Prince Ch’un, the mother of his Majesty the Emperor.
◎出洋大臣載澤親王殿下(アート) ◎清国皇室の各殿下(同)◎清国文武の大官(同)◎北京皇城大清門前(同) ◎蘇州城外の方塔(二色刷) ◎杭州海鹽城外の牧馬(同) ◎北京正陽門外駱駝の通過 ◎北京城崇文門内 ◎北京日本公使館門前 ◎故李鴻章伯 ◎北京崇文門外の城壁 ◎北京城外の駱駝群 ◎北京正陽門外大街 ◎北京皇城内 ◎北京皇城の内外 ◎北京城外に偉観
◎北京東文学社生徒 The Students of the Peking Tung-wen College.
前列の向て右端なるは総教習中島裁之氏にて、其の左方に洋服せる二人は何れも日本より聘したる教員なり。
◎日本留学後の清国学生 The Chinese men who formerly at Japan as the students.
是れ皆な曾て北京大学堂より選抜せられて日本に留学し、卒業後帰朝したる人々にて、、記念の為に大学堂前の撮影なり。中央の日本人夫妻は、北京大学堂総教文学博士服部宇之吉氏及同夫人にて、他の諸氏は帰朝後皆な要路に登用せられたるなり。
The Jpanese gentleman and lady in the photograph are Dr.Hattori, the principal of Peking University, and the his wife.
◎北京城外玉泉山 ◎奉天府の宮殿 ◎奉天府の城門と高塔 ◎奉天の楽人と楽器 ◎ 天津城の内外 ◎通州の舎利仏塔 ◎万里長城 ◎蒙古熱河八大廟の一 ◎山海関と秦皇島 ◎芝罘港 ◎上海の全景 ◎上海の湖心亭 ◎蘇州の風景 ◎蘇州の水陸 ◎蘇杭の勝区 ◎西湖々畔岳忠武公の墓 ◎鎮江の金山寺 ◎明朝十三陵の遺跡 ◎長江沿岸の勝区 ◎荊州城と土人の風俗 ◎大冶鉄山の鉱材船積場 ◎漢口市中一輪車の運搬 ◎漢口の芸妓 ◎宜昌港全景 ◎福州附近の光景 ◎山東省青州府附近の光景 ◎厦門港全景 ◎厦門港鼓浪島の全景
◎厦門東亜書院の職員及生徒 The teachers and students of the East-Asia College in Amoy.
東亜書院は日本語を教ふる学校にて本図は厦門の帝国領事館前に生徒を集めて撮影せるなり。最後方の中央なる紳士は、台湾第一の富豪林維源氏、向つて其右は上野領事、生徒の前面五段は予科(幼稚科)後面八段は本科(青年部)総員一百二十六名なり。
The college was established for the purpose to teach Japanese language to the natives. The photograph was taken at the front of the consulate building. The Chinese gentlman in the rear is Mr. Lin, the millionaire of Formosa ; at his right side stands Mr. Ueno, the japanese Counsul of Amoy.
◎汕頭港の全景 ◎広東造幣局 ◎澳門全景 ◎歩兵の制度 ◎百家爛漫の美人叢
●清国記事 〔省略〕
●挿入写真 〔省略〕