長岡煙火の栞 長岡市觀光協會
◇煙火の起源
煙火(花火とも書く)は夏の夜の景物で、あのボンボンといふ音を聞くと、如何にも夏の夜のらしく感ずる。一体此の煙火は何時頃から出來たかといふと、その元になる火藥は今から六百年程前に歐羅巴で發明されたのであるから、煙火の所産はそれ以後であることが分ります。成人は煙火を發明したのは支那人であるといつて居るが、どうもハッキリせぬ、どうやら煙火を作つた鼻祖は歐羅巴人で、今から凡そ五百年前だと思はれます。
煙火の我が國へ傳つた最初の記錄は天正年間で、櫟木民部少輔といふ人が南蠻へ渡り、鐵砲や火術を習ひましたが、同時に煙火の術をも習つたと書いてある、當時は戰國時代の末期で、アチラでも戰爭といふ時代でしたから、織田信長や豊臣秀吉は大に之を珍重したといふことである。それで此の煙火が江戸へ這入つたのは、慶長十八年の夏、イギリスの國王の手紙を持つて江戸にやつて來た人があるとの舊記があり、煙火もそのお土産の一つであつた、此の人は同年八月六日の晩に江戸城二ノ丸で煙火を掲げて之を將軍の上覧に供した。此の時大御所家康や將軍秀忠が初めて煙火を觀覧したといふことです。併し此時の煙火は所謂立火(虎の尾)といつて、玩具花火の五色玉の類で、シュツ筒口から火を吹くごとく簡單なものだつたのですが、この「立火」を改良して打揚煙火を發明した。此の打揚煙火は邦人自身の工夫によるもので、鐵砲から思ひ付いたといふことである。
その時江戸には鐵砲火術の師といふ役人が居て、江戸城の大手を固めて居ました。その他鐵砲百人組といふものもありました。此の人達の使つた鐵砲は木の筒で、鐵の玉を火藥の力で發射させたものですが、此の筒を少し改良してその内に鐵の玉の代りに張子の玉を入れて發射して上空で破裂させたのが當時の打揚げ煙火で、その後玉と一緒に花や國旗の形になる紙細工物乃ち今日袋物と稱へるものを入れて色々變つた煙火を工夫する樣になつたが、戊辰前色火の輸入に依て革新の機運に會し著しく發達したのである。
河原に於ける觀覧者
◇長岡煙火の沿革
長岡の煙火は片貝(三島郡)のそれによつて發達したものと云つて差支へない。片貝の煙火は明治初年或る外國人から秘傳を會得し研究せられたもので、技術も進歩してゐたと稱せられる。そして、打上煙火の起因が狼烟から出發したものであることは「煙火の起源」に記した通りであるが、長岡煙火の始まりは、戊辰前長岡藩士中、狼烟方、つまり火術に長じた武井龜右衛門、内田甚彌両氏が上下條(古志郡)の近藤六右衛門、土合(現市内)の熊倉彌太六等に煙火を敎へ現在の協會煙火師中川利夫君の祖父も亦これを習得して村社等のお祭り煙火を製造したのである。そして當時發達してゐた片貝の花火に負ふ處があつたことは前に述べた通りである。長岡に最初川開き煙火として打揚げられたのは明治十二年九月十四、十五日で長生橋下柳島で當時の南郭と稱して居た花柳街が主催したものである。これを記錄(長岡繁昌記)に見るに、約二百發と仕掛花火も行はれ、見世物、露天等で附近は殷賑を極めたものらしく、晝花火が多く、旣に尺二寸が試みられてゐる。
夫れ以來毎年九月十四、十五の兩日が花火大會日となつてゐるのである(年によつて多少變更せられたこともないではないが、殆んどこの両日は一貫してゐるといつてよい)その後全く中絕したことはないが、これが斡旋者には變遷があり、明治四十年長岡煙火協會の組織を見て今日に至つたので(夫れ迄は遊郭組合の主催であつた)あるが大正十四年組織に改革を加へ、整然たるものとなつて長岡の大年中行事として最大名物として益々盛大に赴きつゝあるのである。然るに惜むらくば永年行事日として不文律ながら制定し來つた九月十四、十五の兩日は往々にして雨に祟られて折角の行事も延期の止むなきに至つたり、或は遠來客の失望を購ふ樣な事となるので二、三年來擧行日の變更が叫ばれて居たが長い因襲は容易に代へられず今日に至つたのである。昨年昭和十年此の行事を長岡市觀光協會の設立と同事にその事業の中に抱合せらるヽに至つて再び打揚日の變更説が擡頭して熟議の結果同年より八月五、六の兩日と變更して愈々本格的に市の行事として日本一を目標に邁進する事となつた。
因に本大會の煙火は各一發毎に專任審査員六名、をして採點せしめ優秀なる制作人には毎年多額の賞を與へ居るので逐年其の技術は向上し長岡の煙火は斯界の登龍門と謳はるゝに至つた。
◇花火の見方
煙火を觀賞する上に於ては大体の知識を得て置く事は一層其の興味を增すものであるから玉に對する容量や開發、又は玉の見方を略記して見よう。
玉 重量 高さ 開き
正三尺 百貫 二千尺 千八百尺以上
二 尺 十五貫以上 一千尺 千二百尺
正 尺 三貫 八百尺 千尺
正七寸 八百匁 七百五十尺 八百尺
正五寸 三百八十匁 三百六十尺 四百尺
正四寸 百九十匁 三百尺 二百五十尺
煙火の装填(玉込め)
見方
一、座 すは り 玉が昇リきつて、下りかゝつた刹那に開くを最も可とし、これを玉の座りといふ。
二、盆 玉が開いて、其の火光の圓く眼に映ずる面を云ふ。たゞし、菊とか、形物とかの平面的に開くものゝみに於て盆が認められ、立面的に開く柳川とか滿星には勿論盆はない。この盆の大きい程良いやうであるが、技術上さうとのみも云へない。
三、肩 玉が開いて星の飛ぶ刹那、比較的横に水平に飛ぶのを肩が張つたと云ふ。菊の如きは最も肩の張りを要する。
四、光度 同一の距離で、一齊に開き、又は變色するを要する。これが技術上最も苦心の點である。從つて開いた星が一齊に消えることも必要である。そして、星の太さと、光りとが同一程度であることも肝要である。色の明るさは、白色最も明瞭で、靑白、綠、靑、紅、黄、紫の順位である。
五、ぬけ 一齊に、或る間隔を保つて開くべき星の或る一つが、未開のまゝであつたり、又は早く開き、或は早く消えるを、ぬけといふ。即ち要するに亂れとはならぬのである。
六、其他 形の整否、星の配列、變化の調子等に注意しなければならぬが、個々に就て説明するは專門的になつて却つて難解に陥るから略して置きます。
以上が大体見方の基礎をなすもので、次に種類であるが、その各々によつて、見方の要點が異ることは勿論である。
一、破口物 わりもの これに屬するは、滿星、彩星、菊、銀波、柳等であるが、この見方は、盆の大さ、星の數と大さ、光、間隔消え際等に注意する。
二、引物 玉が開いて種々の形の星が飛びながら燃燒して光芒を殘すといふ。これに屬する菊、柳、龍、萩、瀧、川、芒等であるが、菊の中には丁子菊糸菊、錆菊、玉菊霜降菊、眞砂菊、銀波菊、漣等があり、それぞれの名によつて、光芒の細太又は色に區別がある。又菊の形にも十數種ある。
三、釣物 浮けを有つた引火、色火の出るのを釣物といふ、浮けとは風船又は糸に長方形の紙片を多く附着せしめたものである。これには花傘とか、咲分けの藤とか、或は晴夜の松島、花毎の月、田毎の月、龍などがある。
見方は
釣の數、星の大小、火の長さ等を綜合對比し、或は切れ、からみ等を注意する。
四、小割物 本玉が開いて、中に装填せられた小玉及び管類が出ると云ふ。
五、曲物 これは丸玉に装填することの出來ないやうな、所謂曲をなすものでこれを分類すれば、(一)本玉が開發する茲に曲のあるもので、本玉に矢を付ける、登り小菊曲導木落付、焔玉、登り亂玉。登り亂發等である。(二)これも矢を付けたものであるが、本玉に大きな玉を添加したもので、登り何段宙返り何段といふ。(三)矢を用ゐずして背負ひ玉としたもので、亂玉共釣り、二つ玉、三つ玉等がある。以上これ等の見方は、玉が筒から出て開發する位置の如何により注意しなければならぬ。
三尺玉と三尺筒
◇三尺玉の正体 (付 筒の構造)
三尺玉 玉の外徑 正三尺 重量 八十貫乃至百貫
玉の上張に要する用紙 和紙二萬枚、之れを貼るに要する糊 眞米一俵、制作に要する延人員 二百餘人、打揚に要する火藥 四貫八百匁(此玉の中に三寸玉を充填すると約二百五十ケ、四寸玉なれば約百五十個入いる)
昇高推定尺 六百五十米突、開發擴張面積 約六百米突
筒 鍊鐵 厚六分、口徑三尺、長十二尺(三本繼ぎ)、重量千二百貫、此制作費千八百圓也(大正十五年)
◇本年打揚の計劃
八月五、六日の兩夜を通じ
正三尺玉 二 二尺玉 一〇
尺 玉 五〇 七寸玉 三〇〇
五寸 玉 二〇〇 大仕掛、スターマイン 二〇
◇打揚塲
打揚け塲は長岡驛より西へ十二丁(乗合バスあり)其の長きを以て有名な長生橋畔の信濃川中洲にて打揚げるものであるから觀覧者には少しの危險もなく(未だ甞つて些の怪我人もない)全く安全である。
此川の沿岸には協會の招待席を始め有料觀覧席蜒々數十丁の長きに亘り架設せらるゝ又河中には數隻の遊覧船が笛太鼓の音も面白く浮べられ全く一幅の繪卷物と稱してもよい。
〔蔵書目録注〕
下は、長岡煙火の関連絵葉書二種である。
・長岡名物大煙火(一尺玉早打ノ壯覽)
・長岡名物大煙火
・長岡名物大煙火
(三尺玉) 打揚筒 重量一千貫目 長サ十二尺 厚サ八分
・長岡名物大煙火
(三尺玉) 重量九十八貫目 純和紙二萬二千枚 米糊一俵 火藥五十五貫目
製造延人員二百五十人 打揚火藥四貫八百目 打揚高サ二千六百尺 開キ廣サ四千八百尺
見よ見よ空に水に
彩花繚乱
(長岡市長生橋畔大煙火美觀)
發行所 長岡三柏會
・長生橋河畔の大煙火
・長生橋河畔の大煙火
・長生橋河畔の大煙火
・長生橋河畔の大煙火
・長岡長生橋大煙火
・長岡長生橋大煙火