蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「ベートーヱ゛ンの午後」 (久野ひさ子) (1918.12.7)

2021年12月24日 | ピアニスト 1 久野久子

 大正七年十二月七日(土曜日)午後二時
 於上野公園東京音樂學校奏樂堂開會

 ベートーヱ゛ンの午後  東京音樂學校學友會 第二回特別演奏會

 獨奏者 久野ひさ子女史

         曲目     
 

 悲愴奏鳴樂ハ短調,作品十三
                  (カール フォン リヒノフスキー公に捧ぐ)
                                       重々しく,最も快速に且つ元氣付けて
                歌ふ如く流麗に緩徐に
                   旋轉調,快速に  

 嬰ハ短調奏鳴樂,(月光ソナータ作品二十七,第二
       (伯爵夫人ユリア ギッチャールディに寄す)
            支持しつゝ,緩徐に
                快活に
                   昴奮して急速に                     

   ニ短調奏鳴樂作品三十一,第二
            廣く緩やかに,快速に
                緩徐に,
                   快活に

         休憩 (十五分間)

 ワ゛ルトシュタイン奏鳴樂,ハ短調,作品五十三
       (ワ゛ルトシュタイン伯に捧ぐ)
             快速に,元気よく
                序節,大に緩徐に
                      旋轉曲,中庸に快活に
                        最も急速に
            

 熱情奏鳴樂ヘ短調,作品五十七 
       (フランツ フォン ブルンスヰ゛ックに捧ぐ)
                                       最も快速に
                歩む位の速度にて,活氣強く
                   快速に併し餘り甚しくなく
                         急速に

BEETHOVEN MATINÉE
              BY
      MISS HISA KUNO
          THE PIANISE,
     Ⅱ. SPECIAL CONCERT
             OF
                  THE GAKUYUKWAI
          OF
THE TOKYO ACADEMY OF MUSIC,
                     UENO PARK

  SATURDAY, DECEMBER 7, 1918, 
       2 P. M

    Programme

 Sonate Paethétique, C minor Op. 13
      (To Prince Carl von Lichnowsky
         Grave, Allegro di molto e con brio. 
                Adagio cantabile,
                               Rondo,Allegro

 C Sharp minor Sonata,The MoonlightOp.27,  No. 2
      (To Countess Julia Guicciardi
         Adagio sostenuto, 
                Allegretto,
                           Presto agitato

    D minor Sonata, Op. 31, No. 2
         Largo,Allegro,
                Adagio,
                           Allegretto

      INTERVAL(15 minutes)

 Waldstein Sonate,  C major Op.  13
      (To Count Waldstein
         Allegro con brio, 
                Introduzione, Adagio molto,
                               Rondo,Allegretto moderato,
                                                                          Prestissimo

 Sonata Appassionata,  F minor, Op.  57
      (To Franz von Brunswick
         Allegro assai, 
                Andante con moto,
                               Allegro ma non troppo,
                                                                          Presto


「久野久子女史」 下村鐵洲 (1921.1)

2020年12月04日 | ピアニスト 1 久野久子

  

久野久子女史
             下村鐵洲

 我國女流ピアニストの天才たる久野久子女史は漣 さざなみ や滋賀の舊都の片ほとり馬場 ばんば の町にお生れなさいました。それは明治十八年も押し詰つた暮の二十八日のことでム ござ いました。當時お父さんは酒屋と質屋とを兼業して、五十萬圓から財産を蓄へておいでになりましたので、町の人々は、誰一人として女史が神樣に祝福されて此世に生れてゐらしつたことを疑ふものはムいませんでした。
 所が、人間萬事塞翁の馬とはよく申しましたもので、御誕生の御祝が間近に迫つて來た時分、お守の女中の粗忽で、お宅の近くにある藥師堂の緣側から落ちて地上にうつ伏せにおなりなすつた上へ、その女中が轉げ落ちたため、お腰の骨が什 ど うかなつてお了 しま ひなすつて、その後御兩親が金に飽かしていろゝお醫者の手におかけなさいましたが、たうとう治らず了ひで、生れもつかぬ跋足 びつこ におなりなすつたのでした。
 そればかりではムいません。女史が確か七歳の御時分だつたと云ふことですが、『このお子さんは、餘り勉強させては否 い けません、脊髄病になる虞 おそ れがありますから』とお醫者さんの御注意があつたのです。
 ですから、お郷里 くに の小學校で尋常二年迄おやりになつた時、お令兄 にい さんー現今 いま は法學士ーが京都の第一中學校にお入學 はい りなすつたので、女史も京都にお出になり、土地の竹間小學校にお入りになり、此校 こゝ で尋常四年迄おやりになつたゞけで、學校の方は綺麗にお止めになつて了はれたのでムいます。
 何處までも妹思ひでゐらっしゃる令兄さんは、普通の者なら自分の目的さへシッカリと極 きま らない中學生時代であるにも關 かゝは らず、女史の將來について、いろゝお考へになり、早くから、お琴や三味線のお稽古をおさせなされたのでした。什 ど う云ふものか、女史は斯うした日本音樂を餘りお好きになりませんのでした。が、それにも關らず覺えがよく、進歩が著しいので、お師匠さん方の方でも熱心に教へになりました。それで、十七の春にはお琴の奥許しをお取りなすつたばかりか、三味線でも、胡弓でも、八雲琴までも、相當のお技倆 うでまへ になつておいででムいました。
 その頃令兄さんは第三高等學校の一部に御在學で、來年は東京の法科大學にお進みになる筈でゐらつしゃいました。そこで、いっその事、女史を東京の音樂學校へ入らせて、御自分と御一緒に東京で勉強させたいものとお考へになりまして、そのことを女史にお話しなさると、女史は、日本音樂と違つて、この方は我から進んでやって見たいと思ってゐらっしゃるので、『什うぞ然 さ うさせて下さい』とお喜びなさいました。
 が、お父さんは、お足の御不自由な女史に此上お金をお掛けなさることを歡 よろこ びなさらないやうでしたので、この事は御兄妹お二人の外には、お國許 くにもと の姉さんで愛子と仰言 おっしゃ る方だけにお打明けになって、たゞ何氣なく、お父さんの御言葉通り、女史をお郷里へ御歸しになりました。
 姉さんの愛子さんも、女史の御身に禁 とゞ めがたい御同情を有 も つてゐらっしやいましたので、お父さんには琴のお稽古と云ふことに云ひつくろっておいて、十八歳の正月から、女史を土地の小學校の先生たち四五人の處へ毎日お稽古におやりなさいました。
 先生たちは、云ひ合はせたやうに、三井寺附近にお住ひでしたので、女史のお宅のある馬場の町からは一里半程もムいますからお歸途 かへり は什うしても夜が更 ふ けます。それで姉さんは毎晩俥 くるま に乗つて、比良山颪 おろし に身を切られるやうな冬の夜路 よみち を、女史のお迎へに行かれ歸途 かへり は合乗の幌の中で、姉妹仲睦じく將來の事を語らひつゝ、寒さをお忘れなすったのでした。
 斯うして二月 ふたつき ばかり過ぎました。姉さんは、體質の弱い妹御 いもうとご に取つて、それが餘りに過勞な仕事であることを御心配なさいました。で、御自分の京都第一高等女学校時代の御同窓で片山と云ふ御方が、土地の女學校で英語の先生をしてゐらつしゃるのを幸ひ、事情をお打ち明けになつて、女史のお稽古一式を御賴みなさいました。
 かくて其年六月には、女史はナショナル、リーダーの第二を優に讀みこなすことの出來る丈けの英語の力がおつきになりました。その他の學問もそれに準じた丈けの進歩があつたこともお察しを願つて置きます。尋常四年の課程を終つた丈けの少女が、僅々半歳の間に之れ丈けの學力を得たのは、先生方が熱心の力を感謝しなければならないことでせうが、姉さんの督勵、第一は御本人の女史の努力と云ふことを考へるべきでムいます。
 偖 さ て女史は、何のために斯うした勉強をなすつたのですか。それは、その年六月の音樂學校の假試驗をお受けなさるためであつたのでムいます。
 假試驗受驗の願書を出してから、今までの受驗準備の苦心を具に打ち明けて、姉さんの愛子さん、令兄さん、それに女史の同胞 きやうだい 三人が、血の涙を揮つて、お父さんに受驗のお許しをお願ひなされたので、お父さんも『唯 ただ 一回』と云ふ條件で御承知なさいました。
     ※   ※  ※  ※
 假試驗を受けたのは、全國の高等女學校を卒業しておいでなすつた方ばかり、その多數の中から假入學を許されたのは僅かに六人、その中に女史の加はられたと云ふ丈けでも大したものですのに、其年十二月の本試驗にはその六人中で、更に二人丈けが本入學を許されまして、その中に女史を見出したのでムいます。そして御卒業の時は二番と云ふ優等の御成績でムいました。
 學校を御卒業になつてからのことは、こゝでくだゝしく申し上げる必要のないほど、世間によく知られておいででムいますから態 わざ と差控へることに致します。

 上の文は、大正十年一月一日発行の雑誌 『婦人倶楽部』 第二卷 第一號 新年號 の「現代各方面代表的婦人當選披露」の 其評傳及印象記 のひとつとして掲載されたものである。


「卒業証書授与式順序」 東京音楽学校 (1906.7.7)

2020年02月12日 | ピアニスト 1 久野久子

    

 東京音楽学校卒業式に於ける
   選抜演奏者
 (明治三十九年七月七日卒業)

 向って(上の右)久野久子、(上の左)加藤文子
 向って(下右)鳥居津奈子、(仝中)河野秀子、(仝左)川久保美須々子

 上の写真は、明治三十九年八月一日発行の雑誌『女子文壇』 第二巻 第拾号 の 写真口絵 にあるもの。
 
 明治三十九年七月七日(土曜日)午後三時
 卒業証書授与式順序    東京音楽学校 

 第一部

  報告
 一 卒業証書授与
 一 校長告辞
 一 文部大臣祝辞
 一 卒業生総代謝辞

 第二部

 一 箏        器楽部卒業生 河野ヒデ
    嵯峨の秋    ‥‥‥‥‥‥ 菊末調
 一 合唱
    甲 玉匣    ‥‥‥‥‥‥ バハ作曲
                   鳥居忱作歌
    乙 霜の旦   ‥‥‥‥‥‥ ボヘミヤ民歌    
                   旗野十一郎作歌
    丙 征途の夢  ‥‥‥‥‥‥ エー、ヨルク作曲  
                   鳥居忱作歌
 一 ピアノ独奏    器楽部卒業生 川久保美須々
    ソナタ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ベートーフェン作曲
 一 ヴァイオリン独奏 器楽部卒業生 鳥居つな
    ベルソイス ‥‥‥‥‥‥‥‥ ゴダール作曲
 一 オルガン独奏   器楽部卒業生 加藤ブン
    アレグロ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ギルマン作曲
 一 ピアノ独奏    器楽部卒業生 澤田柳吉
    ソナタ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ベートーフェン作曲
 一 ヴァイオリン独奏 器楽部卒業生 吉澤重夫
    甲 サラバンデ ‥‥‥‥‥‥ バハ作曲
    乙 ルール
 一 ピアノ独奏    器楽部卒業生 久野ひさ
    コンセルト ‥‥‥‥‥‥‥‥ ベートーフェン作曲
 一 合唱
    神武東征 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ヘンデル作曲
                   鳥居忱作歌

 GRADUATION EXERCISES of the Tokyo Academy of Music.  UENO PARK.
   Saturday july 7th, Meiji 39, (1906) 3. P.M.

   PROGRAMME.

    PART Ⅰ.

 Ⅰ.Report.
 Ⅱ.Presentation of Diplomas.
 Ⅲ.Address to the Graduating Class by the Director.
 Ⅳ.Address by His Ecellency Mr.Makino, Minister of State for Education.
 V.Response by the Representative of the Graduating Class.

    PART Ⅱ.

 Ⅰ.Koto :
    Saganoaki.
       Miss Kono.(Graduate.)
 Ⅱ.Chorus :
    a. If I shall e❜er forsake Thee ‥‥‥ Bach.
    b. Bohemian folks song ‥‥‥‥‥‥‥‥ 
    c. Heimweh : ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ E.Jork.
 Ⅲ.Piano Solo :
    Sonata in A Major  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Beethoven.
       Miss Kawakubo. (Graduate.)
 Ⅳ.Violin Solo :
    Bercuese ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Godard.
       Miss Torii.(Graduate.)
 Ⅴ.Organ Solo :
    Allegro Maestoso ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Guilmant.
       Miss Kato.(Graduate.)
 Ⅵ.Piano Solo :
    Sonata in E major op. 14. ‥‥‥‥‥‥ Beethoven.
       Mr. Sawada.(Graduate.)
 Ⅶ.Violin Solo :
     a. Sarabande ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Bach.
     b. Loure
       Mr. Yoshizawa.(Graduate.)
 Ⅷ.Piano Solo :
    Concerto in C. Major ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ Beethoven.
    (Cadenz by Kullak.)
        Miss Kuno.(Graduate.) 
 Ⅸ.Chorus :
    Halleluja from the Messiah ‥‥‥‥‥‥ H●ndel. 

 

 上の写真は、「東京音楽学校」とある絵葉書のものである。

 なお、昭和二十七年四月二十日発行の『音楽の花ひらく頃 ーわが思い出の楽団ー』小松耕輔著 音楽文庫38 音楽之友社 の 明治三十九年 に次の記述がある。

 私は明治三十九年七月七日、いよいよ東京音楽学校本科を卒業し、更に同年九月研究科に入学した。卒業式の当日は華頂宮殿下が御臨席になり、校長病気のため富尾木幹事が校長代理として卒業証書を授与された。私はどういう風の吹きまわしか主席で卒業したので、卒業生総代となり謝辞をのべた。卒業生は川久保美須々、久野久子、鎗田倉之助、原田潤、鳥居つな、澤田柳吉その他十一名であった。引きつづいて卒業演奏会が行われ、久野久子、川久保美須々、澤田柳吉、鳥居つな其他の演奏があった。久野久子のベートーヴェンのコンツェルトは中にも非常に見事な出来で、新聞などでも大いに評判がよかった。


「ベートーヱ゛ン研究会」 久野久子嬢演奏 (山口) (1923.4.25)

2019年12月08日 | ピアニスト 1 久野久子

        ・久野女史告別大演奏について

 東京音楽学校教授にして我が国ピアノ楽界の一大権威である久野久子女史は、今度其の不自由なる身を提げて、遠く欧米の楽界視察に出かけられることになりました。先日文部省から留学を命ずる辞令が出ましたが、それはたゞ形式上の事で、更に、物質上の補助は無く、全く私費を以って一切を支辨されるさうであります。女史は、両親から多くの遺産を譲られた事も亦聞いておりません。又他に富豪等の後援などのあることも知りません。剰 あまつさ へ一家の扶養者である女史が、此の壮挙を企てられたのは、全く、其の「きかぬ気の性質」飽くまでも運命と戦ひ、そこに自己の新しき生命を拓かんとする、奮闘的精神の発露であります。此の壮圖一度発表せらるゝや翕然 きゅうぜん として各地に同情者が起りました。東京をはじめ京都、大阪、神戸、名古屋等で開かれました告別演奏会は、各地とも未曽有の盛況を極め此の点に於ては近年来朝したエルマンヂンバリスト、パーロー、等の世界的音楽者の演奏会も遠く及ばなかったさうであります。
 女史は四月十二日を以って愈々東都辨楽壇に別れを告げ、郷里近江に暫時静養し、二十一日の岡山を最初とし中国、九州、朝鮮、満州、支那の各大都市に於て演奏し六月上旬上海より直ちに欧州へ渡航されるさうであります。欧米に於ても単に彼の地の音楽界を視察するに止まらず多年研究のベートーヴェンの奏鳴曲を大膽に発表して批評を乞ふとの事であります。
 今回演奏されるベートーヴェンの作品は彼の月光奏鳴曲(作品二十七の二)ハムマアクラフイーア奏鳴曲(作品百六)最終奏鳴曲(作品百十一)の三曲であります。其の上に近代楽の巨星と云はるショパン、グリーヒ、リスト等の傑作も奏されます。新任の東京音楽学校ピアノ教授パルダス氏は、此のプログラムを見て、「斯の如く、ベートーヴェンの大作を一度に演奏する独奏会は、独逸にても容易に見られない」と驚嘆したさうです。
 女史が此の研究を大成するに当って、如何に苦心されたかは実に想像に余りあります。一切の訪問客を断り、楽室に奥深く隠れて専心研究にひたり、時には指端から血の滲み出るまで鍵盤をうち続けたと申されます。最近は、上州磯部の温泉宿に逃れて、更に研究を続けられました。
 実に女子はピアニストとして偉大なるのみならず、人間として又偉大なる人格を備へられ、其の性格、生涯、境遇は益々ベートーヴェンのそれ等に相似てまゐります。女史はベートーヴェンの説明者にして単に本邦に於てのみならず、世界に於いても一流のやうに考へられます。
 こゝに私共は女史の此の度の壮挙を盛んにするために告別演奏会を開催することに致しました
   大正十二年四月二十五日
            山口高等商業学校音楽部

 

  山口高等商業学校第一回音楽会
  東京音楽学校教授 久野久子女史演奏
 ベートーヱ゛ン研究会プログラム

    期日 大正十二年四月二十五日     会場 山口高女講堂
    時刻 同日午後六時半(開場五時)

  主催 山口高等商業学校音楽部
  後援 桜楓会山口支部
  後援 大阪朝日新聞山口通信部


      Programme

    LUDWIG VAN BEETHOVEN

 1 “The Moonlight Sonata,” Op.27,2.
        Adagio sostenuto
          Allegretto 
            Presto agitato

 2 “Die Hammerklavier Sonata” Op.106.
        Allegro
          Scherzo
            Adagio sostenuto
               Fuga

          Interval(20 minutes)

 3 a) To Spring       Grieg
   b) Wedding March      ”
   c) Etude        Chopin
   d) Fantaisie Impromptu”   ”
   e) Rigoletto Parphrase   Liszt

 4 The Last Sonata, Op. 111. 
         Maestoso
           Allegro con brio
               Arietta

            〔E N D〕

          曲目     

 第一部
             ルードヰツヒ ワ゛ン ベートーヱ゛ン
   月光奏鳴曲 作品 二十七ノ二
      ホ音緩徐調
       小快速調
         激動急速調

  二 ハムマアクラフイーア奏鳴曲 作品 百六 
     快速調
         諧謔調
           ホ音緩徐調
              遁走曲

        休憩 (二十分間)

 第二部

   甲 春に寄す       グリーグ
    乙 結婚行進曲      “
    丙 練習曲        ショパン
    丁 幻想即興曲      “
    戌 リゴレット布衛曲   リスト

   最終奏鳴曲 作品 百十一
         壮厳調
          快速調
            小歌調

         〔以 上〕

    プログラム中の作曲家に就いて

  ルードヰツヒ・ワ゛ン・ベートーヱ゛ン(一七七〇 一 一八二七)は古来世界が出した最大巨人中に数へられる「独逸は亡びてもベートーヱ゛ンは亡びない」とは実に独逸人の天下に傲語 ごうご する言葉である。フレデリック大王、ウヰルヘルム二世の鴻業もビスマルクやモルトケの雄図も今は空しい夢となったがベートーヱ゛ンは燦として天日と共に光を改めず、全世界の音楽会は最大の礼を此巨匠が在天の霊に捧げることを永久に続ける。ベートーヱ゛ンは奏鳴曲に於て古今独歩の大家である。
  エドアルド・グリーグはスコッチの子孫でベルゲン生れノルウェーの作曲家である。初め母に音楽の教育を受け十五才の時ライプチヒ一八六三年にコペンハーゲン、次にクリスチアナに行き教師となりて独立し八年イプセンの親友となった。其後諸国を巡りて後政府より年金をもらひ作曲に一生を捧ぐ。彼の音楽は主としてピアノ曲、唄曲で英国、スコットランド等に於いて特に人気がある。
  シヨパン(一八〇九 一 一八四九)ポーランド人の血を享けワルソー近くに生れ少時より音楽の天才を顕はすピアニストとしてウヰンナで有名となる。次にパリに移る。始めマツルーカ(ポーランド円舞及其の曲)として世に出て仏国サルーンの花形となつた。作曲甚だ多し。
  アベ・フランツ・リスト(一八一一 一 一八八六)ハンガリーに生れ伊太利のバガニーニがヴァイオリニストでやつた程の事をピアノでやつてみやうと考へてピアノに専心し遂に一流のピアニストとなりしのみならず、ピアノ曲を最高完全の境に達せしめた。多くの作曲あり。彼の一生の多くはワイマルで暮したが広く欧州の天地に芸術巡礼を行つた。

 ・久野教授告別ピアノ大演奏曲目梗概〔省略〕


「音楽を学ばうとする婦人へ」 久野ひさ (1916.10)

2017年04月06日 | ピアニスト 1 久野久子

  

 音楽を学ぼうとする婦人へ
       東京音楽学校教授 久野ひさ

 何事に従事する上にも然 さ うでせうが、殊に最も高い又最も深い所のものなる音楽を修業しやうとなさるには、何よりも先づ真面目な努力がなければなるまいと思ひます。軽薄なほんの一時の気迷れな覚悟で行 や るやうでは、何年経つても満足な音の出て来る筈は御座いません。一体ポンと弾く一つの音にも、音を出す人の性質は恐ろしい程不思議に能く現はれるもので御座います。永年錬 きた えた人の出す音でも又は始めて楽器に向ふ人の音でも其の音によつて其人の性質は能く分るので御座います。要するに何処までも真面目に耐忍して、根気よく行り続けてゆくと云ふ事が、第一の要件で御座います
 然し唯耐忍して真面目に努力すれば、それで好いと云ふのではありません。それに伴つて熱と云ふものが無くては駄目だと思ひます。一つの曲を始終一貫して、同一の力で押し進んで行くやうな熱がなければ駄目で御座います。尤も音楽は組立ての定まつた、土台の据はつたもので御座いますから、唯熱許 ばか りあつても、徒 いたづ らに形を破り、組み立てを乱す許りで、迚 とて も整調した音は出ません。ですから炎のやうに燃え立つ熱を、正当に、順序正しく導く真面し目な努力が必要です。従つて真面目な努力と熱とは相俟つて離れる事の出来ない関係に立つてゐます。
 それから音を出す機械の好い事も一つの条件で御座います。機械と申しますのは腕とか指とかを云ふのです。此 この 上肢などの筋肉が均斉に充分に発達して居りませんと、どうも思ふやうな音は出ないやうです。恰度 ちやうど 声音の方で、カスレ声であつたり、嗄 しわ がれ声であつたりしては、十分なる肉声の出ないのと同様で御座います。ですから音楽を修めやうとするには、真面目な努力と熱と機械と、この三つが皆充分に具備 そなはつ てゐて、此中 このうち どれか一つでも欠けてゐては行けないのです。音楽を志望する方に対して、其他申し述べれば種々 いろゝ 細かい要求もありますけれども、私は先づ大体右の三つの条件さへ充分ならば宜しからうと存じます。

 上の写真と文は、『婦人公論』 秋季特別号 (第十号)現代女ぞろひ号 第一年 第十号 大正五年十月号 の 婦人の一芸一能 に掲載されたものである。


「久野久子嬢告別演奏会」 (京都) (1923.3.6)

2017年02月10日 | ピアニスト 1 久野久子

 

 ベートーヱ゛ン後期作品研究発表
 久野久子嬢告別演奏会
   主催 東京音楽学校京都在住卒業生
   賛助 日本女子大学桜楓会京都支部
       京都音楽奨励会

           会場 岡崎公園、京都市公会堂

           時日 大正十二年三月六日 火曜日午後七時

      ルードウヰ〔小文字〕ッヒ ワ゛ン ベートーヱ゛ン            
              (1770-1827)

  一、告別奏鳴曲、作品八十一の甲、變ホ調
      緩徐調              (千八百九年五月四日作)
       快速調
        表現的併歩調
          最疾速調
  ニ、ハムマーグラ井〔濁点あり〕ーア奏鳴曲、作品百六
      快速調              (千八百十八年作)
       諧謔調
        緩徐調(音を支持して)
         遁走曲

      休憩 (十五分間)

  三、奏鳴曲、作品百十、變イ調
      唱謡中庸調            (千八百二十一年十二月二十五日作)
       最快速調
        哀歌調
         遁走曲
  四、最終奏鳴曲、作品百十一、ハ短調
      壮厳調              (千八百二十二年一月十三日作)
       快速調
        小歌調

 
 

 表紙には、「ベートーヱ゛ン後期作品研究演奏会曲目梗概 演奏者 久野久」とある。最終頁の終わりには、「(大正十二年 〔一九二三年〕 一月)」とある。18.5センチ、12頁。
 下は、その冒頭である。

 ルードヰツヒ ワ゛ン ベートーヱ゛ン(一七七〇 - 一八二八)は古来世界が出した最大の巨人中に数へらる。『独逸は滅びてもベートーヱ゛ンは滅びない。』とは独逸人の天下に傲語する言葉である。フレデリツク大王、ウヰルヘルム二世の鴻業も、ビスマークやモルトケの雄図も今は空しい夢となつた。併しベートーヱ゛ンは燦として、天日と共に光を改めない。全世界の音楽界は最大の礼を此巨匠が在天の霊に捧げることを永久に続けるであらう。
  ベートーヱ゛ンは奏鳴曲に於て古今独歩の大家である。ハンス フオン ビユーローはバツハの『平均率洋琴曲 ウヲールテムペリールテクラフイーア』を評して、洋琴曲の旧約聖書となし、ベートーヱ゛ンの洋琴奏鳴曲はその新約聖書であると云つた。蓋し至言である。彼が此形式を特に愛し、之に不朽の生命を與へたことは何人も否むことは出来ないであらう。〔以下省略〕

 〔以下、各曲目の梗概は省略〕

 

 復活の久野女史

 先年『月光の曲』其他の名曲を演奏して以来五年間、鳴かず蜚 と ばず専念研究中であつた東京音楽学校教授ピアニスト久野久子女史は一月下旬ヴエトウベン第三期の作品中大曲四曲を選んで之れを公演することに決定し、目下すべての来客をさけて猛烈な練習をしてゐらつしやいます。それを傳へ聞く音楽ずきは演奏の日を指折りかぞへつて待てゐます。

 上の写真と解説は、大正十二年一月一日発行の『淑女画報』一月号 第十二巻 第一号 に掲載されたものである。

     

 上左:『国際写真情報』 第二巻 第四号 〔大正十二年:一九二三年 四月号〕 「春の婦人界」の写真六枚中の一枚〔その一部〕。

  近く音楽研究の為渡欧する久野ひさ子 〔久野久子〕女史の、送別演奏会に於ける同女史の演奏ぶり。
  Miss Hisako Kuno, a talent pianist and professor of the Tokyo Academy of Music, held a farewell recital on Feb. 17. 〔17日は誤り?〕 

 上中:四月一日発行の『淑女画報』 四月号 第拾貳巻 第四号 の口絵「花環を受けて」にあるのもの。

  今回渡欧することになつたピアニスト久野久子女史は久しぶりに東京音楽学校で送別演奏会を開きました。

 上右:四月一日発行の『写真通信』 四月号 一百拾号 の「大正写真日誌」にある。

  二月廿五日 久野女史告別演奏

  欧洲留学を命ぜられた音楽学校教授久野久子女史は同校講堂で告別の演奏会を催した 

 下は、大正十二年三月廿五日号の『サンデー毎日』二巻十四号に掲載された「◇婦人の世紀◇今泉静江◇  独身の淋しさも覚えず たゞ 芸術に精進する久野久子女史 不具の身の煩悩は今日の地位を占める基石 ベートーヴエンを弾き得る日本での第一人者」中の、女史の発言と思われる部分全てと訪問した記者の記述などである。

 一天才ピアニストと親しく語り得るといふ歓 よろこ びを胸に包んで、久野久子女史のお宅を訪れたのは、音楽学校に職員会議のあつた午後でした。〔以下省略〕

 女史の音楽談

 「私は作曲が出来ませんから、作られたものを弾きこなす丈 だ けなのですが、それさへ只 ただ 、無暗 むやみ に練習して弾くに過ぎませんでした。和声学によつて、一小節づゝの音譜を分解し、研究するやうになつたのは、極 ご く最近の事で、二三年前まではほんとうに幼稚なものでした。この前大正七年に、ベートーヴエンの前期作品を発表いたしました時などは、矢張り、その幼稚な考へで練習してゐたのです。丁度身体の組織を知らない医者が、腫物 しゆもつ を治療するのにその下にどういう腺があるかを研究しないで、単に出来た腫物を切り取るのと同じやうなものでした。一昨年の夏頃それがはつきりと分りましたので、本式に勉強し直して今度の告別演奏会で、ベートーヴエン後期の作品を弾きました。演奏には気分といふ事も非常に大切な事で、曲がしつかりと自分のものになつてをりましても、その時の気分で思ふやうに参りません。この間の会も、自分では失敗だと思つてゐます。ベートーヴエンの物を弾く方がお聴きになつて、嘸 さぞ あはれに思はれた事だらうと恥 はず かしくなります。欧洲へ行けば私位の弾手 ひきて はざらにある、いやざらにゐる方 かた でも私よりずつと優れた腕を持つてをられるでせう。いつでも会の後には恥 はぢ を残します。けれども、以前の時より今度の方が失敗が大きかつたといふものゝ、自分の考へが一歩進み、練習の方法も深い処へ手が伸びたのですから、それだけ、進歩したといふ事が出来るでせう。そして私が全く二心 ごゝろ ない真剣さでピアノに向ふといふ事は、誰れの前にも誇り得ると思ひます。二心を持たぬと云ふことは何でもないやうでありながらなかゝ六ヶしい事で、上手下手は別として、芸術に対する純真な心持ちにおいては、私のやうな小さい一女性でも、ベートーヴエンやゲーテ、ミレーにしろ、ロダンにしろ、どんな大聖人大芸術家とでも伍し得るものだと信じます。どうしても音楽に一生を捧げねばならぬとか、何でも彼でもピアノに全身を委 ゆだ ねゝばならぬものだと、自分を励ました時代もありましたけれど、今ではさういふ消極的な考へはなくなつて、心の全部が音楽に向ひ、真剣に研究する事によつて幸福を感じ、歓 よろこ びが湧いて来て、独身の淋しさも思はねば、世俗の辛さも一向感じられません。私はまだゝ学ばねばならぬ事がたくさん残つてゐますから、これから独逸へ行つて満二年間勉強する積 つも りです。〔以下は、記者の記述と思われ、省略〕

 邦楽から洋楽へ 〔下は、その一部〕

  来 きた る四月十二日に故国を後にして、渡欧せられますが、途中満州方面で演奏会に臨み、上海に出て独逸に向はれるのでの、渡欧は往復を除いて満二ケ年の予定ださうです。出発迄には長崎へ演奏旅行せられるのですが、腕を少し損 いた められたので、しばらく磯部温泉で静養する事になり、私の伺つた時には、既にトランクが二つ玄関先で女史待つてをりました。四時に上野を発 た つといふので、如何にもお忙しさうでありましたが、不自由な足で廊下を走りながら、先客の去つた応接室へ招じて下さいました。


慈善音楽会 東京音楽学校 (1919.11)

2015年12月24日 | ピアニスト 1 久野久子

 

      会場 於上野公園 東京音楽学校
      開演 大正八年十一月八日(土曜日)九日(日曜日) 午後一時
  慈善音楽会入場券  (参円)

           櫻楓会東京支部  取扱者 二回生

  桜楓会東京支部主催慈善音楽会趣意書

 顧れば、吾が櫻楓会が畏くも、代々木葬場殿一部下賜の光栄に浴し、江湖諸賢賛同の下に府下巣鴨宮下町に託児所を建設致しましてから、既に四年の年月を閲 けみ し其間多少の成績を挙げ得たことを感謝して止まない次第で御座います。
 託児事業は、一つは労働者の子供を預つて保育し彼等の母親達に神聖な働きを続けさせようとする労働奨励の意味と、一つは彼等子弟を教養して堅実なる国民たらしめんことを目的とするものでありまして、目下労働問題を以て紛糾を極めて居りまする我国の社会状態を顧みますれば、益々此の事業を発展させて積極的にそれ等の人々を精神上と物質上との両方面より救済指導することの誠に急務であることを切実に感ずるので御座います。
 以上の趣旨から吾が櫻楓会では更に本事業の第二拡張として昨年来府下日暮里町に常設第二託児所建設の義が起りました所、幸ひにも有志諸氏の御同情によりまして愈々本年十月中旬右託児所は竣工を告げ近々開所するの予定となつて居ります。
 今回更に右新築託児所の設備費並びに経常費募集の目的を以て、来る十一月八、九日(土曜日、日曜日)の両日、東京音楽学校(上野公園内)に於て慈善音楽会を開催致します。
 希 こひねがは くば有志諸賢が此の挙に賛同せられて、あまねく御助勢あらむことを偏 ひと へに懇願致す次第で御座います。

    曲目

  第一部八日、九日

 一、絃楽合奏     大塚淳 外十二名
     A、アンダンテ、カタービル、      チヤイコフスキー作曲
     B、トラウム、デヤ、ゼンネリン、    ラビッキー作曲
 二、ヴアヰオリン独奏 末吉雄二
     コール、ニー、ドライ          ブルッフ作曲
 三、ピアノ独奏    久野久子
    (1)A、春に              グリーク作曲
       B、「ノルウエー」の結婚行列    グリーク作曲
    (2)  リゴレツト(ヴエルの歌劇より) リスト作曲
 四、絃楽合奏     大塚淳 外十二名
     メリー、ウイドウ            レハール作曲

  第二部

    (八日)     (九日)

  一、常磐津     一、常磐津        常磐津松尾太夫 常磐津志妻太夫 常磐津彌生太夫(八日) 常磐津歌妻太夫(九日)
     靭猿        戻り橋  三味線 上調子 常磐津文字兵衛 常磐津文字助

  二、三曲合奏    二、三曲合奏  琴    今井慶松
     松風        根引の松 三絃   山室千代子
                    尺八   荒木古堂

  三、長唄      三、長唄     長唄  吉住小三郎 同 吉住小三蔵 同 吉住小四郎
     綱館の段      時雨西行  三味線 杵屋六四郎 同 杵屋和三郎 同 杵屋六次
                     笛   住田又兵衛 小鼓 望月太左吉 太鼓 望月左吉 同 望月長四郎

  PROGRAM

     PART Ⅰ.

  Ⅰ String Orchestra
     a An dante Cantabile ‥‥ Tschaikowsky.
     b Traum der Sennerin ‥‥ Labitzky.
        Mr.Otsuka and his troups.
  Ⅱ Violin Solo
       kol Nidrei ‥‥ Bruch,
        Mr.Sueyoshi.
  Ⅲ Piano Solo
     1 a An den Fruhling.(op.43) ‥‥ Grieg
         (To Spring)
       b Norwegischer Brautzug im voruberziken.
         (Norwegian Bridal procession)(op.19) ‥‥ Grieg.
     2  Rigoletto
         Oper von Verdi
          Concert-Paraphrase ‥‥ Liszt.
              Miss Kuno.
  Ⅳ String Ochestra
     Merry Widow ‥‥ Lehare.
        Mr.Otsuka and his troups.

     PART Ⅱ.
   (At Ⅰ P.m. 8 Nov.)
  Ⅰ Tokiwazu:-Utsubozaru ‥‥
      Tokiwazu Matsuodayu & his troups.
  Ⅱ Sankyoku Gasso:-Matsukaze
      Koto ‥ Imai Yoshimatsu.
      Sangen ‥ Yamamuro Chiyo.
      Shakuhachi ‥ Araki Kodo.
  Ⅲ Nagauta : - Tsuma yakata no dan ‥‥
      Yoshizumi Kosaburo & his troupus.
     PART Ⅱ.
   (At Ⅰ P.m. 9 Nov.)
  Ⅰ Tokiwazu:- Modoribashi ‥‥
      Tokiwazu Matsuodayu & his troups.
  Ⅱ Sankyoku Gasso:- Nebiki no Mmatsu.
      Koto ‥ Imai Yoshimatsu.
      Sangen ‥ Yamamuro Chiyo.
      Shakuhachi ‥ Araki Kodo.
  Ⅲ Nagauta : - Shigure Saigyo
      Yoshizumi Kosaburo & his troupus.


「ピヤニスト久野久子女史」 (1921.7)

2015年12月03日 | ピアニスト 1 久野久子

 

 「久野久子女史」

  本誌は現代女名人伝の一人として、久野久子女史を御紹介いたします。東京音楽学校教授久野女史が、わが日本の生んだピヤニストの随一であることは、恐らく何人も異論なきところでありませう。わが楽壇の花たる久野女史が名人としての栄誉を得るまでの苦心の物語は、本号の誌上に詳しく発表されてあります。図は弾奏中の女史で、本誌写真部が最近撮影したものであります。

 上の写真は、大正十年 〔一九二一年〕 七月一日発行の『主婦之友』 七月号 夏季特別号 第五巻 第七号 の口絵にあるもの。

 なお、苦心の物語とは、同号掲載の下の文である。文中には、下の写真もある。

 

   (最近の久野久子女史であります)

 現代女名人伝(其二)

  ピヤニスト久野久子女史 記者 松田鶴子 〔下は、その一部〕

 (二)

 天才の生立ちには多くは一種の奇異な事実がまつはり易い。或者はそこに神の摂理を見る。或人はそこに運命の黙示をよむと云ふ。私は久野女史のそれを誇張して、彼女の幼時をローマンスの霧に包まうとは思はぬが、しかし又彼女の未来を今日の境地に釘 つ けた、小さい哀話を逸するわけにもゆかない。
 女史は明治十八年十二月、昔ながらの名にゆかしい滋賀の都大津の町に生れた。山紫水明の地は偉人を生むといふが、小波美しい琵琶の水と、勤行の鉦 かね の音聖 きよ い叡山の神秘な息吹とに擁 いだ かれた大津の自然は、女史が特に天かた與へられた揺籃であつた。家は酒造と質商 しちや を兼ねてゐたが、父君彌助氏の丹誠で鍛へ上げた家運は、女史出生当時は朝日の如く隆隆たるものであつた。
 生後僅かに半歳ばかりの時であつた。一日女史は子守女の背に負はれて、氏神なる大津松本の平野神社に遊んだ。そして琵琶の湖を一眸 いちぼう の下に見晴す社の高い石段の絶頂から転げ落ちて、股の関節を外 は づしてしまつたのである。帰宅ののち、常には機嫌のよいおとなしい赤坊が、細い咽喉を裂けちぎれるほど泣き叫ぶので、少からず親達の注意をひいたが、子守女は不思議に顔にも手にも擦創 すりきず 一つ付いてゐないのを奇貨として、ことの真相を秘しかくしに隠してしまつた。そして両親のそれと気づいた時には、女史は一生回復することの出来ない不具の身となつてゐたのである。
 思へば運命の定めは奇しき限りである。子守女の小さい不正直は、大正の楽壇に最も誇るべき天才の一人を送り出す機縁の一つとなり得たのである。女史の一家が不慮の災難に遭つて悲嘆の涙にかきくれてゐた時、運命の神は、未来の楽星のために適はしい祭壇の用意に急がしかつたのである。
 かうして人並以上に眉目 みめ 美しく怜悧 さか しく生れ来た一人の娘が、不自由な脚 あし を引摺つて遊び戯れるさまは、どんなに両親の心をかき乱したことであらう。それも自分達の不注意がその因 もと をつくつたことを思ふとき、身に代へても償ひたいと嘆き悲しむのは、当然の親心である。両親の慈愛はこの自責の苦悩を伴つて幼い久子女史の上に雨のやうに降り注いだ。けれどもすぐれて聡明で且つ極めて意志の強かつた母堂ふさ子氏は、不憫の涙に咽びつゝも、それを露はに出して不具の娘を盲愛する人ではなかつた。さういう身には一生独りを全うする覚悟と備へが大切だといつて、まだ物心もつかぬ五つ六つの頃から、琴と三味線をきびしく仕込むのであつた。行末 ゆくすゑ はこの芸によつて生きさせようといふのであつた。
 世間では久野女史を晩学のやうにいひ伝へるが、西洋音楽に志したのこそ十七歳の秋であつたが、女史の聴覚が初めて楽の音に目醒めたのは、実にこのいたいけない若い嫩芽 わかめ が漸く春の初光に萌えそめたその頃からであつた。しかも一生をこの楽音の一節に捧げつくさねばならぬ一身の事情は、幼児の胸にも多少の感銘があつたのであらう。女史の音楽に対する感受性は日にゝ鋭い閃 ひらめき を見せ初めた。恐らくは洋楽よりも、伝統的に理解の深い邦楽によつて、女史の幼い官能が培はれ深められたといふことは、女史にとつて寧ろ幸福なことであつたに違ひない。

 (三)

 手ほどきは土地の師匠から受けたが、田舎の町とて名ある師もないので、尋常三年のとき京都に出て、古川瀧齋検校について生田流の琴曲を専心稽古することとなつた。そのとき令兄も小学校を卒へて京都の中学へ入つたので、母堂は、忙しい家業を犠牲にして、兄と妹の監督のため共々上洛したのであつた。全くこの母堂のは、孟母にも劣らぬ賢い人であつた。それだけに子供の勉学については随分厳格で、殊に久子女史に対しては、『お前は人と違ふ体だ。他処 よそ のお娘 こ のやうに嫁入り支度の稽古ではない。生命を賭けての仕事だ。この仕事の他にお前には何にもないのだ』と、朝はほのゞ明けから、夜はあたりの物音が絶え果てるまで、撥 ばち と爪とを離させなかつたといふことである。
 久子女史の篤い天分は、かうした母堂の血のしたゝるやうな励ましをまつて、めきゝと頭角を現はして来た。殊に天性の美音と豊かな声量とは、どんな複雑な唄物でも平然と唄ひこなした。生田流にある若葉の曲などは一つの節を十分ほどもつゞけて引張るので、余程声量も豊かな節廻しの上手な人でなくては唄へぬものとしてある。それを久野女史は十三四歳の頃に立派に唄ひこなしたといふのを見ても、彼女は声楽家としても一家をなす素質があつたものと思はれる。
 十七歳までにはすつかり奥許 おくゆるし を得たのであつたが、母堂はその喜びを俟 ま たず、女史十五歳の秋、苟且 かりそめ の病のため、便り少い我が娘の前途に心残しながら、桐の一葉と共に散つて行つたのは、女史のためにも母堂のためにも限りなき恨みである。

 (四)

 久野女史は既に奥許しを取つたので、母君の遺言を守つて、一生を琴曲の師匠として暮す決心であつたが、折ふし令兄も高等学校を了 へ て東京帝大に入学することになつたので、『これからの世の中に琴や三味線の師匠でもあるまい。東京には官立の音楽学校もあるといふ。兎に角試験を受けて見たらどうだ。是非一緒に上京しよう』とすゝめられ、父君も『お前方のよいやうに』と許されたので、急に規則書を取りよせるやら、大津に帰つて女学校の先生から英語その他の学科を習ふやらまた譜の読み方も少しは知らなければといふので、オルガンなしに一二三 ドレミ を習つたりした。さうし僅か半年間に兎に角一通りの準備が出来たので、父君と令兄とに伴はれ、初めて上京したのであつた。それは明治三十四年、久子女史十七歳の秋九月であつた。女史はその頃の追懐を、
 『まるで無茶でしたわ。第一その頃ピヤノなんて見たことも聞いたこともあれしまへん。父と兄と三人が三等車の隅つこに小さう塊つてなあ。音楽学校てどんな学校やろ、大津の女学校よか立派やろなど噂しながら来ました。翌日上野の学校の前を通つたとき、奥の方から何や知らんエ、音色が幽 かす かに聞えたんで、あゝ入学 はい りたいなあ。入学れたらどんなに嬉しやろとしみゞ思ひました。何が何やら夢中の中に試験もすみ、多分駄目やろと諦めてゐたのが、假入学を許されることになつた嬉しさは、今でも忘れることが出来ません。ですが假入学といふのですから、その試験の成績はほんに危いものでしたやろ。オ、恥づかしい』と何所 どこ までも処女の気分失せぬ久子女史は、羽織の紐をまさぐりながら、美しい瞳をうつとりと見張るのであつた。
 その年の十二月には本入学を許され、甲種師範科に在籍して、中村夫人とハイドリツヒ氏とについて、ピヤノの手ほどきを受けた。在校一年にして、幸か不幸か肋膜を病んだので、大津に帰つて一年間静養し、身も心も新たに健かになつて再び学校に帰つたのは、二十歳の九月であつた。この一年間の休学のためこんどは幸田延子女史に学ぶことが出来たのであつたが、久野女史は『私に本当にピヤノといふものを判 わか らしてくだすつたのは幸田先生です。私は語学の素養もありませんし、従つて譜の読み方などもずつと遅いのです。けれど何 ど うかかうか今日ピヤノの音 ね を出すことが出来るのは、全く幸田先生のおかげです。私の脚を折つて芸術に奉仕する機会を與へて下すつた神様は、一年間私に病気を與へて幸田先生と遭 あ はして下すつたのだと信じます』と、幸田延子女史を甚 いた く徳としてゐる。

 (五)

 一年間の静養に加へて、幸田女史を得た久野氏は、天の時と地の利をしめた勇者のやうに、その技もめきゝと上達した。翌年三月甲種師範科の卒業證書授与式に当り、器楽部一年生で、クーラウのソナタを弾いたのなどは、今から考へると何でもないが、当時にあつては異教として衆目を聳 そばだ てしめた。これが女史の初陣であつたが、明治三十九年の夏、第十七回卒業證書授与式には、器楽部卒業生として、女史はベートーヱ゛ンの競奏曲 コンチエルト を弾いたのであつた。これよりさき幸田延子女史やケーベル博士は、競奏曲を弾いてゐたが、それは人も許し自分も許した斯道の権威である教授達であつた。その頃の生徒達は名を聞いたゞけでも身を慄 ふる はして恐ろしがつてゐた競奏曲を、生徒の纎手 せんしゆ に弾奏し得たのは、誠に久野久子女史が嚆矢 こうし であつた。
 音楽学校卒業後は研究生として学校に残りケーベル博士、ロイテル氏、シヨルツ氏と、歴代の教授について研鑽に身命を捧げて余念がなかつたので、技はますゝ進み、人の追従を許さぬ彼女独特の香り高い力の芸術は、この間に次第に形成されて、天才久野女史の名は、上野の杜 もり 深くひゞき渡る美しいメロデーと共に、東都の楽壇に曉の明星のやうにきらめき初めたのであつた。とは云へ久野女史のこの栄誉の陰には、彼女の血を枯らし肉を削ぐ苦悩の戦のあつたことを忘れてはならぬ。
 女史の天分は篤かつたとはいへ、その天分を拓 ひら いたのは彼女絶倫の精力と努力とであつた。それに性来の負けず魂が添つて大成されたためである。久野女史の勉学ぶりが近所の床屋の親方は、
 『久野さんといふ方は恐ろしい勉強家だ。上野の杜に烏が啼かぬ日はあつても、あの人が気違ひのやうにピヤノをかき鳴らさぬ日はなかつた。私も長らく学校の近所にゐますからいろんな音楽家に知合がありますが、久野さんのやうな糞勉強家を見たことがない』と奇蹟のやうに語り伝へてゐる。
 また女史に親しく仕へてゐた下婢の一人は
 『先生がピヤノにお対 むか ひになつたときのお顔はほんとうに凄うございます。目の光が何ともいへぬ色を帯びて、それは到底 とて もこの世の人ではないかと思はれる時があります。そして思ふやうに手が動かぬと、一日でも二日でも御飯を召し上らないのです。演奏会などがあると、もう一週間も二週間も前から誰にも会はないで、家の者にも口一つお利 き きにならず、部屋に鍵をかけて練習なさるんです。私のやうなものは見てゐるだけでも寿命がちぢまります。あんな苦しい修業は、孫子の末までさせないことだとつくゞ思ふことがございます』といつてゐるが、その火のやうな悶 もだ えと、飽くことを知らぬ向上欲と、芸術的執着とがもつれもつれて、女史独特のあの力強い芸術を作り上げるのであらう。

 (六)

 四十二年、即ち女史二十五歳の時、時の音楽学校長湯原元一氏は、女史を抜いて助教授とした。爾来女史は自己の研究と共に後進のために身を挺して訓育につとめたのであったが、何事にも迸 ほとばし るやうに情熱をもって人に迫ってゆく女史は、その子弟を導くに当っても全人的に総て投げ出してかゝった。髪をふり乱して、汗が新調の着物をしみ通すのも知らず、生徒の肩にかぶさるやうにして、そこが違ふかう弾くのだと、一々手を取って教へるのであった。況 ま して自分の教子が演奏の場合などは、殆んど意識を失ったかのやうに、或は手を叩き首をふって狂喜したり、譜を間違ったといっては人目を忘れて悶え嘆くので喜怒を色に現はさぬことを淑女の誇りとする人々からは、一種の滑稽と見られるのであった。されど女史のかうした純真な芸術家気質は、感受性の鋭い若い音楽家の群からは、恋人のやうに敬愛され『久野先生久野先生』となつかしみ親しまれるのである。
 女史は自から常に口にしてゐる通り、妥協の出来ぬ誤魔化しの出来ぬ人である。先頃来朝した世界的のバイオリニスト、エルマン氏の演奏を聞いた時、女史は『私は何だかエルマン氏がお気の毒なやうな気がしました。あれほど偉大なあの人の芸術が、伴奏者なくては出来ぬといふのは、何といふつらいことでせう。私はエルマン氏と伴奏者との間に紙一枚の隔 へだた りのないことは信じますが、それだけにあの方の心のの何所 どこ かに調和の苦労が潜んでゐることも信じます。私のやうな頑固者は、伴奏者の要らぬピヤノを撰んだことを喜んでゐます』といってゐたが、かういふ風に他人と妥協の出来ぬやうに、自分の心とも妥協が出来ぬ。演奏会などの場合も自信のない限りは決して手をつけぬ。従って演奏の数は比較的少ないかのやうである。四十四年の十二月、音楽学校に開かれた第二十五回音楽演奏会にユーバーの競奏曲 コンチェルト を、越えて大正二年十二月、クローン氏の指揮する管絃楽 オーケストラ とともにバッハ、グノーの黙想曲 レヱ゛リー を、五年五月にはクローン氏の指揮する管絃楽の下に独奏者として、ショパンのホ短調競奏曲作品十一の演奏をなし、同年十一月、皇后陛下音楽学校に行啓あらせられた際、グリークの春の曲とショパンの練習曲 エチュード との御前演奏が仕った。これ等は世人の記憶に深く刻みつけられた思ひ出深い、驚嘆すべき演奏であったが、女史の芸術に一区画を齎らしたものは、大正四年一月廿一日の奇禍である。
 この夜女史は、吹きまくる寒風をショールに包 くる まって、赤坂葵橋の停留場で電車をまってゐた。驀然 まっしぐら に走 は せ来た自働車に、脚の不自由な女史は身を転 かは す間もなく、無惨にも轢き倒されて重傷を負ひ、人事不省の身を築地の病院に運ばれたのであった。再三危篤を伝へられたほどの重症であったが、天はこの若い天才を惜しんでか、半年の入院後再び元の健かな心身をもって、芸術の奉仕を許された。この病中、昏睡状態に在りながらも、常にピヤノを弾く手振りをしてゐたといふことであったが、夢寐 むび にだも心を離れなかった、そのピヤノに、再び対 むか ひ得た時の女史の歓喜は、何をもって現はすことは出来ない。以来猛烈なる練習、誠に寝食を忘れてベートーヱ゛ンの難曲に練習をつんだのであったが、大正五年十二月、女子大学桜楓会と音楽学校々友会とは合同して、女史のために恢復祝賀の演奏会を開いて、復活した女史の芸術を公衆に紹介した。この時の盛況は従来のあらゆる記録を破り、久野久子女史の名は、都の大空を春の霞のやうに立て罩 こ めて、若い男女の血を沸かし肉を跳 をど らしたのであった。   

 (七)

 その後沈黙二年、再びベートーヱ゛ンの大曲の研究に心を潜め、難曲五つを拵 こしら へ上げるや、大正七年二月、再度の大独奏会を開いた。この二回の独奏会によって、現代の日本に於てベートーヱ゛ンを弾き得るものは、久野女史を措いて他にないとの定評を完うしたのであった。
 誠にベートーヱ゛ンのあの逆まく怒涛が岩を噛み石を砕き、吹きまくる疾風が野も林も埋めつくすやうな、力の強い線の太い芸術は、久野女史のやうに全人的に曲の精神に突入してゆく人でなくては、現はすことは出来ぬ。女史はこの演奏中、渾身の力と心を、細い十本の纎手 せんしゅ にこめて鍵 キイ を押したので、指先は破れて鮮血がピヤノを真赤に染めたといふことである。それは演奏の時だけではない。女史は一つの新曲の研究に指を染めるや、その曲を通じて作者の精神との強い霊交に接するまでは、指が破れようが五体が疲労しつくして感覚を失はうが、何時までも同じ物を弾きまくって苦心惨憺するのである。その時の女史は、殆んど人間界の人とは見えないほど、物凄く神々しくもあるといふことである。女史は常に、
 『ピーッと自分の胸に響くものを掴まないうちは駄目です。それが掴めないうちは、どんなことがあっても人の前で弾くことは出来ません。』といってゐるが、その芸術的良心と自信とは巌 いはほ のやうに堅く、誰が何といっても、人情を楯としても、決して演奏をしない。況んや報酬などに動かされて心にもない弾奏をするやうなことは決してないのである。
 女史の生活は全く芸術に捧げた聖 きよ められた生活である。物資や権勢や情実などの妥協は少しもない。これが女史の芸術をして力の芸術であらしめ、純真の芸術であらしめる所以であらう。
 これを例ふればロダンの彫刻である。ゴーホの絵である。あの荒っぽいゴツゝした線の味は、普通の女性の手には到底與 あた へられないものである。情調的のセンチメントは少いかも知れぬが、太く深く刻み込んでゆく偉大さは、今の楽壇を通じて、たゞ久野女史の芸術にのみ見出すことが出来る。とはいへ女史の芸術は未完成の偉大である。或は一生を通じて完成されないかも知れぬ。しかしそれが女史の芸術の生命であり、力であり、将 は た意義である。

 (八)

 女史の芸術が男性的であるやうに、女史の性格も男性的である。けれども一面には非常に優しい涙のもろい女性である。打てば響く鳴る鐘や鈸 ねうはち のやうな、溌剌たる生気に充ちた半面には、咲いた花の萎 しぼ むのにも涙ぐむ乙女の情緒がある。研究する時間が欲しいゝといひながら、肉身〔肉親〕の扶養のためには、音楽学校に女子大学に教鞭を執る余暇に、多くの子弟を教育して、物質のため尊い自己を犠牲にして厭はぬ。女史は、
『前にはどう気張っても到底 とて も及ばぬことと諦めてゐた或る曲が、この頃は手を延ばせば掴めるやうな近くにある気がして来ました。この機会にうんと勉強したいと思ひますが、その余裕はまだ與へられません。けれども、どうしても二三年の中には何とかならねばなりません。金と時間さへあれば思ふまゝの勉強も出来るとはいふものゝ、それは金も時間もないからのことで、実際さういふ身になったらほんとの勉強が出来るかどうかは判りません。ですから私は何にも不足を云はないで毎日一生懸命働いてをります』
 與へられた自己の境遇に満足して、何物にも屈託しない楽天的の女史の性格が、芸術に携 たづさ はるものに取って一番つらい世俗的の事情もつひに踏み破り、思ふまゝの修業をつみ得て、女史自身も私達も満足する境遇を拓き得る日の一日も早く来る様に祈ってやまない。そして私達は久野女史の成功が、現在の境地に留 とどま るものとは思はない。人は云ふ、久野女史とベートーヱ゛ンとピヤノとの間には一分の隙もないと、誠にそれに相違ないと思ふ。けれども私達は彼人 あるひと の未来に、更に奥深い幽玄なものゝあるのを想像することは無理ではあるまいと思ふ。


「天才楽師久野久子女史」 (1919.4)

2015年12月01日 | ピアニスト 1 久野久子

 

  東京音楽学校の教授にしてピアニストとして、天才のほまれ高き久野久子女史。
 
 天才楽師久野久子女史 
    《自働車で負傷したのが覚醒の動機》 
                      一記者

 ▽天才ピアニストの遭難

 梅日和の陽光 ひのひかり が空一ぱいに漲 みなぎ つて居る正午 ひる 前を、駒込林町ピアニスト久野久子女史を訪ひますと、女史は恰度 ちやうど 音楽学校へ出られる処でした。折角門口 かどぐち へ来た迎ひの腕車 くるま を戻して、態々訪問子を迎へられた女史は、紫紺地に溢 こぼ れ梅の刺繍 ぬひとり のある御羽織を無造作に、大島にかさねた姿で、洋風の応接間へ案内されました。
 応接には黒く輝いたピアノが一台、其上の美しい花籠が注意を牽きました。卓子 テーブル を挟んだ女史は白い足袋を足焙 あしあぶ りに乗せて、静かに訪問子の問ひに答へられるのでした。
 『強 しど い怪我を致しましてから、身体の不自由を感じます度に、自動車で轢かれた遭難当時を想ひ出し、其遭難が余り惨 いた ましかつたと思はぬことはありませんが、併し轢いた運転手を恨んだことはないのです、却つて深いゝ感謝に咽ぶやうなことがあるんですよ。熟 よ く考へると、妾 わたくし が世に出るやうになつたのも、実は当時の惨ましい遭難が動機となつたのですからね。』
 『遭難は一昨年の春でした。傷 きずつ いた身体を白い病床に横 よこた へて居ますと、何の新聞にも、妾の遭難した記事が大きな活字で書いてあるのでせう(天才ピアニストの遭難)と云ふやうな表題 みだし でね。夫 それ に時々思ひ設けもしない処から御見舞状も届くのです。妾は病床で、其新聞や御見舞状を拝見しまして、非常な感激を覚えたものでした。妾は社会から斯んなに注意されて居つたのかと思ひましてね。然 さ う思ひますと、妾の生命 いのち が大事なものになつて来ました。妾の芸術の尊さが自覚されるやうにもなりました。社会の期待に反 そむ いてはならぬと決心したのも其時でした。然 さ う決心すると、社会に対する責任観念が覚醒 めざめ まして、其覚醒が自分の存在価値を保証づけて呉れるやうでした。無な生存から自覚した生の歓びー妾の胸には歓喜がいつぱいに溢れるのでした。斯うした覚醒の歓喜も、不幸な遭難が與へて呉れた結果なんです。妾の生涯に、あの遭難がなかつたら、妾は或ひは一生生の歓びと芸術の尊さを自覚しなかつたかも判りません。然う思ふと、運転手は再生の恩人です。恨むことは出来ません。』
 『傷が漸次 しだい に快 こゝろよ くなつて退院しますと、田中理学博士が来訪されて、今度の遭難で有名になつたのだから此際 このさい 是非、独奏会をやれと勧誘して下さいました。博士は予 かね て妾の芸術を愛して指導、鞭撻して下すつた方です。妾も其時は、無自覚から覚めて居つた時でしたから、決心して演奏台に起 た つ覚悟をしたものです。作曲はベエートーヱ゛ンのものが、自分の心にしつくり共鳴して呉れるやうでもありましたし、卒業式の時にも演奏して時の文部大臣牧野男爵から美讃 さんび された記念もありますので、其作曲を択んだものです。愈 いよい よ演奏台に起つて、自分の芸術を社会へ発表しますと漸次芸術に対する自信を覚えました。世の中も亦歓迎して下さるので、帝都を初舞台に、各地の演奏にも出張したものです。京都の母校竹間小学校では、同窓の閨秀画家村上松園〔上村松園〕女史や日本画家山元春挙先生と一緒に旺 さか んな歓迎会を催されました。妾は身体が纎弱 かよわ くありました為め、此小学校の四年生で退 ひ いて終つたのです。夫 それ から暫時 しばらく 、郷里の大津市の宅でぶらゝ遊び乍 なが ら、生田流の師匠古川良齋先生に就いて琴と三味線の稽古をしたものです。其纎弱い妾が、昔の夢を残した母校で歓迎会を催ほされたり多くの聴衆を前に、独奏をしました時は、いろゝな意味で万感交々 こもごも 到ると云ふ涙ぐましい心になつたものです。』

 

 (演奏中の久野女史)

 女史は熱を帯びた瞳を天井へ凝乎 ぢつ とそゝいで、幼なかつた時の夢を追はれるやうでした 天井には電燈がぽつかり、紅 くれない の花笠を染めて居ました。纎弱かつた女史が、今日の地位を得られる迄には、非凡な努力を続けられたものです。音楽を志す人の為めに、女史の努力された実験を女史の物語の儘 まま に綴つて、参考にしませう。

 ▽幸田女史に囑目され

 ピアニスト久野久子女史が上京されたのは妙齢十八の秋で、都大路の街路樹がうそ寒い風に慄 ふる えて居る頃でした。上京の目的は、音楽学校へ入学される為めであつたのです。併し女史は初めから音楽学校へ入学する準備をして居られたのです。少女時代体質が優れませんでしたから、学校は尋常四年の頃から全く遠ざかつて居られました。然うして、琴や三味線を古川先生に習つて居らしたものです。
 其頃から、琴は先輩の御弟子達に擢 ぬき んでゝ巧みでありました。先生は可愛盛りの乙女を秘蔵弟子として、前途を嘱望されて居ました。『良齋先生の後継 あととり は久子はんやつて』御弟子達も然う言つて幼い久子さんを羨望したものです。処が久子さんの兄さんは、琴や三味線の師匠を妹に有 も つことは喜ばれませんでした。親類やお父さんを説いて、音楽教師にすることに決められたのです。順序として東京音楽学校へ入学せねばならぬのですが、久子さんは漸 ようや く尋常四年の課程を卒 を へられた許 ばか りでした。音楽学校の師範科は女学校卒業程度の学力が要 い りますので女学校四年程度で入学出来る予科から進まれることになりました。尋常四年生の学科より修めて居ない久子さんは、兄さんに督励されて毎日、英語や漢文の勉強を初められたのです。
 『漢文の先生の丁髷 ちよんまげ 姿を未だ忘れません』久子女史は、当時を想ひ起して斯う語られるのでした。夫でも何うにか、予科へ入学は出来ましたが、不自然に勉めた久子さんの学力では、予科の講義も完全に理解出来なかつたものでした。夫 それ で修業の時にも平均五十二点の得点で尾 びり から二番目と云ふ危い瀬戸際から漸 やつ と進級されたのです。修業式が済むと夏休暇 なつやすみ でしたから、久子さんのお父さんは、愛娘の為めに、三百円出してピアノを求めて下さいました。休暇の間にうんと勉強する決心であつた久子さんは、呪はしい病魔の手に酷 さい なまれて、帰省早々病床の人になられたのです。
 病気は肋膜炎で、久子さんの病床生活は七十日余り続きました。幸ひ健康を恢復することが出来たので、帰省後百日目に漸く上京されたのです。学校は勿論始まつて居ました。成績の好くない久子さんは、唯さへ解らない講義を、後から聴く為めに一層難解でした。併し久子さんは夫が為めに落膽するやうな弱い女性ではありませんでした。苦しいゝ努力の日を続けられたが、何うも他の同級生と並行することが出来ないのです。
 唯だ幸田先生だけが特別に久子さんに矚望されて、熱心に指導されたのです。
 『貴女 あなた には強い力が潜んで居ます、其力が自然に発動するまで努力せねばなりません。』
 久子さんは幸田先生の鞭撻に、力を得て蛍雪に苦 くるし まれるのでしたが、『潜んで居る力が何んな力であるか、自分には解らなかつたのです。
 久子さんの努力の効果は着々顕はれました、然うして本科の一学期を卒 を へる時は第三位を占めることが出来たのです。此 この 好成績は幸田先生は勿論、他の先生達も眼を睜 みは つて驚かれたものです。久子さんの成績は夫からぐんゝ進歩して第二期が二番、卒業期には首位の栄誉を荷はれたのです。卒業式の時、臨席の牧野文相は久子さんの独奏を恍惚として聴かれたものです。処が学校を出るとすぐ、久子さんは再び病気に襲はれたのです。それは左の人指 ひとさしゆび が腐蝕する病気でした。蛍雪三年、尾から首位を得る迄、毎日ピアノを弾き疲れた指の痛みが嵩 かう じたからです。

 △再び病院のベツドに

 幸福に満ちた首位の卒業生久野久子女史の前途には又も暗影があらはれて、いたましい病院生活が再び繰返されました。医師も一時は元の儘 まま の指にはなるまいと宣告したこともあつたのです。ピアニストが指を失ふことは蟹が手を挘 も がれるに似た悲惨な事実です、折角苦しい努力を続けて、漸 やつ と学校を出て間もなく、此辛い境地に陥つた久子さんはしみゞ自分の拙い運命を喞 かこ ちました。
 久しい病院生活が続いた或る日の朝『肉が出来た、既 も う大丈夫です。』と白衣を着けた医師が、喜悦に満ちた声を出したのです。久子さんの指は斯うして、漸次 だんだん に肉を着けて来ました。
 『あの時だけは白衣を着た医師 せんせい が、救ひの女神のやうに尊く思はれました』と久子さんは当時を想ひ起して、微笑 ほゝえ まれました。無事に退院した久子さんは、再生した元気で更にゝ今までより以上の努力を続けられたのです。学校を出ても幸田先生の指導で、ロイテル師やケーベル師の薫陶を受け乍 なが ら、学校の大管絃楽 オーケストラ にも加はつて、ピアノの修業をなすつたのです。
 
 △女史の愛読書

 書棚には、音楽史なども見えましたが、その中にはルーソーの『懺悔録』や杜翁 とをう の翻訳物なども見えました。殊にドストエフスキーのものは熟読されたもので『虐げられし人々』は今も尚愛読されるものの1つださうです。
 『黒煙の底に真紅の焔が燃えて居るやうな露西亜の小説が好きです。而もトルストイよりもドストヱフスキーに共鳴されるやうです。杜翁は感情を理性で抑圧したやうな人ですが、ドストヱフスキーは理性を感情の大熔爐に溶 い れて居るやうに思はれます。偉大な感情の尊厳がドストヱフスキーの作には潜んでゐるやうです。妾は感情の尊さをドストヱフスキーから痛切に感ずることを得ました。』
 俯目勝 ふしめがち に語り続けられた女史の瞳は輝やかに再び天井の花笠へ注がれました。
 中庭に接した磨硝子 すりがらす へはもう正午 ひる に近い陽 ひ が静かにゝ這 は つて居ました。

 上の写真と文は、大正八年〔一九一九年〕四月一日発行の『淑女画報』第八巻 第四号 に掲載されたものである。上の写真は、口絵に、下の写真は、文中にあるもの。


「音楽一夕話」「呪いの葉書」  成瀬無極

2013年11月18日 | ピアニスト 1 久野久子

 三 藝檀の人々 〔下は、その一部〕

 音楽一夕話

 〔前略〕
 想へば日清・日露両役の時代から外遊の期間を経て今日に至るまで、随分多く洋楽を聴き多くの洋楽家に接して来たのだが、不思議にも音楽の上で私に深い印象を與へ内面的に影響した人々のうち非業の最期を遂げたものが三人まである。〔中略〕この従兄弟は分教場の出身だが久野久子と同期で卒業演奏会にも出演したが、私はその日初めて久野女史のベートーオヴェンを聴いて感激のあまり即夜「ピヤノ、ソロ」といふ短編小説を書き上げて上田敏・馬場孤蝶両氏監修の同人雑誌「藝苑」へ載せたところ「我れ汝ぢを呪ふ」といふドイツ文の葉書が舞ひ込んだ。(「呪ひの葉書」参照)久野久子の演奏はその後京都の府立第一高女と京大学生集会所で聴いたが、「ワルトシュタイン・ソナタ」では鍵盤が血で染まったやうに記憶する。最後に逢ったのは伯林のフィルハルモニイで、オイゲン・ダルベールの「ベートーオヴェンの夕」が催された時であった。その晩彼女は例の如く日本服で現はれ、近衛秀麿・兼常清佐氏等と賑やかに語り合ってゐたが、これが永遠の別れにならうとは恐らく彼女自身も夢想だにしなかったらう。「呪ひの葉書」の発信者も大学生時代に毒を仰いで死んでしまったのだから、つまり久野女史を中心として三人の男女が自殺したことになる。それから原千惠子は子供のときからの知り合ひだが、これも結局有島武郎に繋がる縁なので西洋音楽と自殺といふことが私の場合不気味な連想を伴ふ。
 〔後略〕

 呪の葉書

 一

 女学校の講堂で東京から入洛した久野久子のピヤノを聴く。女史の揺籃たる京都の某小学校の校長が女史の為めに自作の祝賀の詩を揮毫したのが二葉正面の壁間に掲げられてゐる。聴衆は主に男女の学生でOF会の連中らしい。夫人令嬢達が胸に造花の徽章を附けて斡旋してゐる。才色絶倫と噂されつつ一方にはまたその孤独な寂しい生活のために蔭ながら同情の涙を灑がれてゐる九條武子夫人が自づから主賓となってゐた。貴族らしい気高さと誇りを備へてゐて近づき難いやうに写真などから想像してゐたが案外に謙遜なにこやかな懐かしみのある人で、服装なども寧ろ質素に見受けられた。
 この夫人を見たのはその日が最初であったが、久野女史を演壇で見るのはこれが初めてではない。
 丁度十年前に上野で女史の卒業演奏を聴いたことがある。その時私は金釦のついた制服を着てゐた。女史はオレンジ色の羅衣 うすもの に蝦茶色の袴を穿いてゐた。
 十年振りに女史の姿を見てその演奏を聴くといふことは単なる好奇心以上に私の胸を波立たせた。名古屋から昨夜遅く入洛した女史は非常に疲労して、そのために出演の時間が少し延びた。それがまた聴衆の心を一層緊張させ期待の念を更に深くした。
 待ちに待った女史の姿が演壇に現はれた。十年の歳月は髪の黒い眼の活々した豊頬の少女から、落ち着いた、然し精悍の気が眉宇の間に漂ってゐるやうな三十恰好の小柄な婦人を作った。割れるやうな拍手が一しきり、それから聴衆は水を打ったやうに静まりかへった。女史は徐かに楽器に向ふとしばらく呼吸を整へてゐたが、やがて眠を粧ってゐた猛獣が機を見て電光のやうに獲物に飛びかかる時のやうに微妙な刹那を捉へて力ある指を鍵に触れた。この一呼吸には殆ど崇高に近いものが籠ってゐる。強大な潜勢力が表面の平静を破って迸り出る刹那である。静から動へ移る秒刻の美的過程である。白刃を敵の頭上に閃めかす刹那ばかりでなく、筆端を絹素の上に加へる瞬間にもそれがある。女史の男性的な熱情的な演奏振りは既にこの一弾に現はれてゐた。
 愈々あの恐ろしいベートオヴェンの「熱情曲」が始まるのである。
 聴いてゐる中に私の眼に涙が滲み出た。女史のエキスプレッシーヴな演奏振りと、その暗い半生と不可測な災難と、奇蹟とも言ふ可き快癒とーそれらの事柄に対する感動からでもあったろうが一方にはまた若かった自分を顧る一種の憂愁も交ってゐたに相違ない。
 金釦の制服を着てゐた私は、オレンジ色の羅衣を着た美しい痛ましい少女の心血を灑いだ演奏に熱い涙を流して家に帰って来ると直ぐ筆を執って深更まで書き続けた。感興の一端を作品として現はさうとしたのである。そしてそれを「藝苑」といふ雑誌に発表した。その中にはこんな文句があったー
 「ー実に彼女は自分で自分の楽に酔ってしまった。眼は燃えるようになり、頬は若々しい血汐で彩られ、曲のエキスプレッションにつれて眸動き、眉動き、頭動き、肩動き、腰動く、それに引き入れられて聴衆はまた彼女の動く通りに動くのである。曲が複雑に極め高調に達すると彼女は驚く可き卓抜の技量を示した。その白い手は最も敏捷に最も確実に動き、それにつれてオレンジ色の羅衣の袖長く柔軟 しなやか に飜 ひるがえ り、紅友禅の襦袢の袖口が縺 もつ れれかかる風情は美しい絵を見るやうである。その両袖を颯 さっ と靡 なび かして、身を横に、棄てるが如くに十指を右から左へ鍵盤の上に流せば、丁度河底の小石の上を一個の珠が響を成して弾丸のやうに走り下ルカと思はれて、一瞬の間に無数の音を含め、高音から低音へ移る、その疾さは、専門の大家も覚えず舌を捲き眼を瞠った。音楽の知識のあるものも無いものも一様に幽かな溜息を洩らした。ああ若い、美しい 熱心な 謙遜なーそして痛ましいその姿!満堂の男女は感極まって双眼に涙を浮べた。無骨な書生も不覚 そぞろ に胸の迫るのを感じた。まして年若い女などは竊 そっ と手布で眼を拭ってゐるものもあるーやがて長い曲も弾じ終へると人々は狂せるが如く手に持つ凡ての物を床に抛げ捨てて拍手した。掌の破れるまで、この堂が裂けるまで響けと、男も女も、老いたるも若きも、我先きに讃嘆感謝の念を弾奏者の耳に入れようとしてただその響きの高きを争ったー」
 〔中略〕
 この「ピヤノ、ソロ」と題した作を発表して四五日経つと私は一本の葉書を受け取った。差出人の名は書いていなく、しかも独逸文である。
 「汝は恐ろしい残酷な利用をした。あんまり露骨だ。誰でもすぐ記憶を喚び起こすことが出来る。残酷だ。余は汝を呪ふ。事件は極めて深刻な崇高な発展を持つ可きだった。神のやうな天才を侮辱したことになるではないか。余は汝を呪ふ。」
 〔以下省略〕

 三 〔下は、その一部〕

 「ピヤノ、ソロ」を読むと私の頬は赧らみ、私の心は委縮してしまふ。そこには不具のために恋に破れた少女が自殺の心を翻して芸術に生き、楽壇の勝利者として変心した男を見下ろす話が書いてある。何たる因襲的な構想だらう。それよりも何たる外面的な、型に嵌った、小技巧を弄した浅薄な描写であらう。筆を執った時の感激は何処に認められる。若い血潮の騒ぎは何処に聞かれる。かういふものを書いた私だ。恐らく今もかういふものを書いている私だ。O君の呪ひは深く深く私の額に刻み込まれれてゐる。どんな経験をしても、どんな感興が湧いても、それを描かうとするとき十重二十重に因襲の羇絆が私の腕に搦みつき、筆端を鈍らせ、曲げ、捩じり、掻き回してしまふ。イプセンの所謂「幽霊」がいつも想と紙との間に立つ。私の船はいつも死骸を載せてゐる。私はその臭い重荷に堪へえない。

 上の文は、昭和二十二年 〔一九四七年〕 四月二十五日発行の『面影草』 成瀬無極著 北隆館 の一部である。

 面影草由来 -序に代へて-

 明治大正時代から今日に至るまでおよそ四十年間に親炙した人々やその芸術を通して印象づけられた内外人の風貌を伝へ残したいといふ念願からこの書を編むことになったが、さて題を何と附けたものかと色々考へたすゑ面影草といふのを思ひついた。〔以下省略〕
 本書の内容はその一部を旧著「東山の麓より」「夢作る人」「偶然問答」「文芸百話」「人生戯場」「無極随筆」「南船北馬」「木の実を拾ふ」等から採って整理改訂し他の一部は新らたに書き下ろした。読者幸に之を諒し給へ。
  昭和十八年初夏 京都室町の寓居にて 成瀬無極識 

  流転の相  -再び序に代へて- 〔下は、その一部〕

 なほ、この機会に本書の全体に亘って校訂したことと、〔以下省略〕
  昭和二十年晩秋 遠州日坂村の旧家にて 無極識


「舞台のピヤニストから聴衆へ」 久野久子 (1922)

2012年11月23日 | ピアニスト 1 久野久子

 舞台のピヤニストから聴衆へ 
      西洋音楽を聴く時の心持
              東京音楽学校教授 久野久子

  

  (ピアノに向かふ久野久子嬢)

  演奏者の名を聞く人

 西洋音楽を聴く人に対して私が望むことは、第一に音楽家を聴かずして音楽そのものを聴くといふ風であつて欲しいと思ひます。
 近頃では西洋音楽に趣味を持つ人が大分多くなりましたが、まだ一般には本当の趣味は更に普及してをりません。大抵の人は、あの人のピアノだから聴きに行かうとか、大家だから名人だから聴いてみようとかいふ風に、人を標準に考へてをります。これでは真に音楽といふものを理解して聴きに行くものとは申されません。勿論人も大切ではありますが、真に音楽に対して感興を持つのでなければ、音楽を聴いたといふことはできないと思ひます。音楽の価値は弾く人によつて決定するのでなく、音曲そのものによつて決定するのであります。勿論弾く人の熱心と技巧にもよりますけれどもー。

  作曲者の前に立つて

 第二に、音楽を聴く時の態度は、たとへてみると、ベエトオヴエンの作曲であれば、聴き手は全くベエトオヴエン自身の前に立つた態度であつて欲しいと思ひます。ややもすれば演奏者の技巧について彼是と批評することばかり考へて、曲に対する敬意と申しませうか、これを厳粛な気持で受入れるといふ気持が少ないやうです。これではどんな名人の作曲でも本当のことは到底諒解されまいと思ひます。
 第三は、ただピアノを弾く人でなく、作曲家自身の前に立つてゐるといふ心持ができたならば、今度は曲そのものに全く同化し得る態度があつて欲しいと思ひます。ただ楽観的に音楽を聞いてゐるといふだけでは、折角の名曲も十分その価値を味はふことができずにしまひます。ですから、シヨパンを聴く時には、私どもがシヨパンの心持になつて初めてシヨパンの曲が理解されるのであります。即ち、シヨパンになつて初めてシヨパンがわかり、ベエトオヴエンになつて初めてベエトオヴエンがわかるのです。
 音楽を聴く人は、その小さい先入主をすつかり捨てて、全く虚心坦懐の気持にならなければなりません。それでこそ人間の魂の奥底から湧き出る悲壮な神秘をキイの響きから聴取ることができるのであります。
 第四に、これから推して考へると、演奏者は全く作曲者の仲介者であるべき筈であります。さすれば聴く人は演奏者の音楽を聴くのでなくて、演奏者に仲介して貰つて作曲者の名作を聴くのでありますから、私はピアノにむかつて演奏する時には、楽聖に対して非常に重大な責任を感じます。この厳粛な心持を聴衆が感じて聴いて下されば幸ひであると思ひます。
 私がピアノにむかふ時は、真にわれもなく人もなく、夢中に曲に同化してキイを打ちます。その時の曲そのものは私の生命の表現であります。そして、それを聴衆がいかに聴くか、如何に感ずるかといふことは少しも考へてをりません。しかし、音楽を聴く人の心得をとのお尋ねに対しては、前に申上げた通りお答する外はありません。
 私の前に美しい花束が飾られるのは取りもなほさず、これを楽聖に取次いだに過ぎません。また聴衆もその意味で楽聖に捧げる態度でゐて欲しいといふことを切望いたします。

 上の文と写真は、大正十一年 〔一九二二年〕 一月一日発行の『婦人世界』 一月 第十七巻 第一号 に掲載されたものである。

  

  忠実に演奏し終つた時 久野久子
      
      ○
 人と相対した時、又人の芸術に触れた時、何とはなしに一種の引付けられる感を抱かせられ、永く自分の印象に残る強さが強いほど、其相手の人が偉いのです。例へば其人が学者であらうと、又事務家であらうと芸術家であらうと、又男であらうと、女であらうと何人たるを問はず、其人の一言一句、又其人の腕から手から、指から沸く芸術は、其人の生まれながらの性格の根底に横たはる真実と、努力から迸(ほとばし)り出たものであるならば、他人を引付け様として意識的に技術をつかうのでも何でもなくとも、真実の波は相手の真実性に電波の様に伝はつて感動させるものです。この様な力ある人は確に偉い人です。
 この真理は音楽に於ても同じ事であつて、人を感動せしむる音楽は、音楽家自身の真実の発露でなければなりません。楽壇に立つて多くの聴衆を相手に演奏しましても、主観的には其の聴衆は相手ではありません。演奏者は自分に向つて集まる何千何万の眼と、耳を超越して、唯ひたすらに自分の内心に動く芸術の波を、忠実に演奏し終つた時が、人を最も感動せしめた時です。それは丁度兵士が戦場での命懸けの戦に等しいものです。
      ○
 此状態は芸術家のエクスターシーであつて、目に見えない偉大な力と、芸術家の力と、不可思議な合一の様に思へます。かうした芸術を生み出す人、又生み出さうとする人は、何時も自分の芸術の根本性の律動に耳を傾けて、より深い、より充実した芸術を生み出さうと努力します。かういふ人にとつて芸術は人と競争すべきものでもなく、聴衆の賛美を目的とするものでもないことは明らかです。
 私は常にピアノと健康さへあれば、それで足れりとします。名誉も、讃美も他のどの様な幸福も敢へて求めません。ピアノのキーに自分の情熱を吹き込む時にも、又練習の何回と数しれぬくりかへしの時にも、私には世界に何ものもありません。唯云ふに云はれない法悦の心に充されます。
      ○
 芸術は人格の発露ですから、真の芸術は善に強い人格から生れ出ます。悪人からは如何に技術や、才能があつても、真の芸術は生み出し得られません。かうした善に強い立派な性格の持主の情熱が、努力によつて理性に結び附けられて、よりよいものを生み出さうとして励み行くところに、真の貴い芸術が生み出されます。
 天才を気取つた放縦な芸術は、真の芸術ではありません。天與(てんよ)の才はより多く所有して居りながら、性格の破産の為に十分其才を育て得ずして終る人が多くあります。又一方に始めは、それ程才が無くとも、性格の立派さが其れを打ち破つて、立派な芸術を生み出す人もあります。私共人間の才も、宝石と同じ様に、磨いて始めて燦然たる光を放つ様になります。一度音楽に志しても、自分の才能が足りないと悲しんで、中途で止めてしまう人がありますが、其様な人も、もつとゝ努力して、自分の才の泉を掘りあててみなければ分りません。或は思ひ懸けない力が潜在して居るかも知れませんから。何しろ根強く自己の才能を開拓して行かなければなりません。その内には自分の性格もよりよく教養され、本当の芸術家に、又人間にもなれます。
      ○
 真の芸術家…云ひかへれば音楽家は、本当に芸術を理解しようとする熱心な人も、又無理解な人をも其芸術の力で陶冶して、つまり修身の教にもあたり無言の内に他の人各を教育して居るのです。どうか私共はかうした関係に於て、お互に自分達の芸術をよりよいものに磨き上げて行きたいものです。此所迄来ると修身の教も音楽も一に帰します。
 音楽は人を情熱的な気高いものに作り、そして其楽音は人の力で生作されます。

 上の一文は、大正十一年二月一日発行の『婦人画報』二月の巻(第百九十四号)に掲載されたものである。

 

 ◇私は何故に結婚しないか 

 ○ピアノが私の生命 東京音楽学校教授 久野久子

 何故に独身生活を、それから今までの心持をまた感想を、とのおたづねに、何とお答へがいたされませう!たゞざつと私の摑み得たことだけを申してお答へといたしたく存じます。
 私は明治十八年十二月二十四日、滋賀県大津市松本の石場と申す(私の家の裏手が琵琶湖でございます)ところで生れました。家から約一丁ほど離れたところにある松本神社が、産神様でございましたが、私が生れて半年目、梅といふ女中が、神社の石段から過つて私を落し、丁度器械体操などをして腕をはづしたときのやうに、私の足のつけ根をはづしてしまひました。まだ赤坊のことゝて、その夜から一週間ばかりは痛さに泣きつゞけました。幸か不幸か外面には傷を受けませんでしたので、家人には私の泣く訳がわからなかつたのでございます。やつと泣き止みはいたしましたが、三歳四歳と年をとつても、一向に歩きませんので家人は初めて不思議に思ふやうになりました。その歩き方が変なので、皆が寄つては心配いたしました。
 私の両親は不具者になつた私を、琴や三味線の師匠にしようといふので、六歳のときから私に琴の稽古をいたさせました。丁度尋常三年生のとき、兄が中学へ入りましたのと、それに京都は古くから生田流の本場でございますので、かつまた母が私を立派な師匠に仕込みたい一念からとで、たうとう私を京都へまで連れてゆき、生田流の名人古川龍斎先生について稽古をいたさせ、遂に奥許しを受けるまでになりました。それは私の十三歳のときのことでした。奥許しには誓書(誓いの証書です)には血判を捺(つ)くことになつてゐましたので、この時私は古川先生のお杯(さかづき)を受けまして母が針で私の人差指を突き、血を出して血判を捺させてくれたものでした。そのときのことを、私は今もはつきりと覚えてをります。そして私は、学校は尋常四年を卒業したきりで、それからといふものは、一年に三四度遊びますだけで、毎日く朝から晩まで、琴と三味線を仕込まれてをりました。私の十五歳の十二月二十一日、母は永らく病気をした上、この世を去つてしまひました。
 けれども兄は京都の高等学校にをり、私はやはり琴三味線を古川先生に就いて学んでをりましたが、兄が友人から、東京に音楽学校のあることを聞いて、そこへ私を入れようと、そのことを父に申しました。そこで私は明治三十四年九月、辛(から)。うじて入学することができました。このやうな訳でございますから、独身でゆく決心などをいたしてゐた訳では決してございませんでしたけれど、自然にさういふ風になつてきてしまつたのでございます。 
 現在の私の感想や心持などは、いろゝありまして、到底も書き尽されません。西洋人と同じやうに年を数へますと、私は今日で三十六年と五日この世に生きてきました。音楽学校は入学して一年後、病気でまる一ヶ年間を休学しまして、明治三十九年七月卒業いたしましたが、それから後十年余りの間にには、私のやうなものにでも結婚の話がないこともありませんでした。心の動揺もいろゝありましたが、それをやつと通り越してきた現在の私には、ピアノのキイを弾つほかに何の興味も希望もありません。どのやうな愛も宮殿も決していやとは思ひませんが、少しもそれらを望まうとは思ひません。しかし現在切に望ましく思ふものはたゞ一つあります。それは時間であります。二三年でもよろしいと思ひますが、専心勉強し得る時間が欲しうございます。それにはいろいろと理由があるのです。
 一昨九年夏、私がピアノの上に長い間の一つの疑問がありましたのが、(それは私のどうしても絶望するより外いたし方ないものと断念めてゐながら、しかもそれを思ひ切れずになほ研究を続けてゐたものでございましたが)それがやつと解決されたのでございます。そのために私は非常に力を得る様になりました。この上は、幸ひ私は身体も丈夫であり、精力さへ続けば、現在の哀れさも、十年のうちには屹度破つてゆかれよう、屹度ゆけると、激しい心に奮ひ立つたのでございます。
 しかし私の現在は、一週間の七日のうち、二日間も勉強のために時間をとることもできないくらゐの忙しい身でございます。といつて自ら身を退いてしまふことはなかゝ困難なことです。さりとてこの切なる望みを捨てゝしまふことは、尚更できないことでございます。是非にも何とかして、心ゆくばかり勉強したいと希つて止みません。
 とは、申せ、私も心の底からの深い幸福をも豊かに持つてをります。それと申すのもピアノのお蔭で、私はオールドミスの寂しさなど感じたことはありません。善と真実なるものゝほか、何ものをもまざらしむべきではない私の心には、世の中の人と人との関係の、余りにもうそ寂しい例の、多くあるのを見せられるたびに、何となく情けない気持をさせられ、自分の独身でゐることを、却て仕合せにさへ思ふほどでございます。そして自分の仕事に、身も心も打込んでゆくことのできる幸福さを、しみじみ有難く思ひます。さうは申上げますけれど、私が大正四年一月、自動車に轢かれましたとき、皆様から受けました深い御同情を、今もなほ感謝してをります。ゴッホが『恨みも愛に云々(うんぬん)』と申してをられましたが、私は如何なる人に対しても、何時(いつ)も喜びの心を持つてお対(むか)ひいたしたう存じます。ましてこのやうなお情けを受けます私は感謝と共に、力の限り勉強して、お礼をいたしたいと燃ゆるやうな心持でをります。

 ○音楽の研究に 東京音楽学校教授 小倉末子

 貴社は私が独身生活を決心したものとしてその感想を聞かせよとの御依頼状を下さいましたが、現在私はまだ音楽研究中の一学生に過ぎないのでございますから、独身生活とか、結婚とか申すやうなことにつきまして、少しも考へましたこともございませんのですから、お尋ね下さいましたことに、お答へいたす何ものをも持つてはをりませぬ。

 上の二つの文は、大正十一年二月十五日発行の 『主婦之友』 二月十五日号 第六巻 第四号 に掲載された四人〔他の二人は、小説家 田中純、小説家 三津木貞子〕の回答中のものである。


「久野久子女史」 三木楽器店 (大正)

2012年11月23日 | ピアニスト 1 久野久子

  

 左の写真: Miss. H. Kuno Stainway Piano スタインウエーピアノ総代理店 大阪 三木楽器店 神戸
 右の写真: 久野女史 山葉ピアノ発売元 三木楽器点 大阪市東区北久寶寺町四丁目
切手を貼る所には、「ピアニスト久野嬢獨奏會記念」とある。  

 ○久野久子愛用のピアノ

 新潟県村上市の村上歴史文化館で展示されている。ドイツ・ベルリンのキャロル・オットー〔CARROL OTTO〕のピアノである。

 

 ○久野久子女史恢復祝賀演奏会

 

     曩に自働車で大負傷の東京音楽学校教授久野久子女史全快後十二月三日同校に一大祝賀会が開かれた中央は同女史也

   上の写真と説明は、大正六年 〔一九一七年〕 一月一日発行の『写真通信』 壹月号 第三十三号 にあるもの。

  久野久子女史恢復祝賀演奏会曲目梗概   乙骨三郎

 一、ベートーヴヱン作ヘ短調ソナータ(作品五七)

   一八〇七年に出た此のソナータは作者の成熟期の作品中異彩あるものと評せられて居る。『激情的 アパショナータ 』といふ通称は作者自身の命名でないので、不当又は無用との説がある。曲趣は暗澹たる嵐の夜の様で、ベートーヴェンの作中にも、これ程物凄いものは前後にないとマルクスは言つて居る。この恐ろしさの中で第二の緩徐調は敬虔な祈祷の如くに聞える。

 二、グリーヒ作
  (イ)春に
  (ロ)諾威 〔ノルウェー〕の婚礼行列

   作者は諾威の国民的楽家、本曲は其の秀実なるピアノ小曲の中なり。

 三、ショパンのホ短調コンセルト(作品一一)

   波蘭 〔ポーランド〕 の天才が遺せるコンセルト二二中の一、一八三〇年の作で、最初ワルソー 〔ワルシャワ〕 で演奏せられた今度は第一楽章快速調 アレグロ のみに止む。
   リストはショパンのコンセルトやソナタの作に『神様よりも寧ろ多くの意思』を認むるに難からず為したが、而も『ショパンの古典的企図は稀に見る精美の作風によりて異彩を放ち、非常に興味ある通過句、意外い壮大なる部分を含む』と言うて居る。
   ショパン研究者ニークスはショパンのコンセルトの全体の構造に就て批評し且つ管絃部(殊にピアノと連合せる場合)の独奏部に比して聴き劣りすること等を説いた後、語を改めていふ。『しかも細部の嬌絶可憐纎麗優雅絢爛なるは能く人をして其の全体上の欠点を忘れしむ』と。
   作者は創作当時の書簡に於て自ら此の快速調を、『活溌』なるものと評せり。

 四、リスト作リゴレット改作曲

   ヴェルディ(Verdi)の歌劇『リゴレット』の第三幕に出る美しい歌詞をピアノに移して華美な装飾を加へたもので、一八五九年ビューローの為に作つたといふ。

 五、(イ)ブラームス作ト短調ラプソディー(作品七九ノ二)

   近代器楽のラプソディーといふは普通に若干の民謡調を接ぎ合せたファンタジーの様な曲を指すが、ブラームスのこれは作者自身の考へたバラッド風のピアノ曲で、全体陰鬱の情趣に充ちて居る。旋律 メロデイ が時々停つて考へ込む様なのも此の曲の一特性である。

   (ロ)ショパン作曲短ハ調練習曲 エチュード (作品一〇ノ一二)

   一八三一年ワルソーが露国に占領せられた時、之に檄して(スツットガルト滞在中に)作つたものといふ。ショパンのエチュード中の秀逸に属し、又た全作中の最も壮大なものである。左手が性急に走過する間に右手は激烈な怒声の如き音を打ち込む凡て作者の憤怒に堪えぬ気分を表はすものと見られる。ショパンの作曲上の特性も遺憾なく此の曲に現はれて居る。

 六、リスト作フンガリア 〔ハンガリー〕 (ニ短調)

   所謂『管絃楽の詩』(symphonische Dichtung)を二箇のピアノ曲に改作したるものゝ一である。管絃楽詩はリストの大成した曲体で、詩的内容を器楽にて表出せんとするものである。全篇は三部に分れ、其の第一は圧制を脱せんとして武装するフンガリア、第二は自由の為の戦闘、最後は勝利せるフンガリアを表はすものだといふ。即ちリストが祖国の歴史を概括的に描いたもので、フンガリア風の調に充ちて居る。曲の中頃の戦闘を描いた部分に勢よき国民的軍歌に次で現はるゝ葬送進行曲 フユネラルマーチ (緩徐調)は名誉の戦死を遂げた勇士の弔ひ歌に聞かれる。(十月廿七日)

 上の曲目梗概は、大正五年 〔一九一六年〕 十一月発行の『音楽』七巻十一号に掲載されたものである。

 なお、翌十二月発行の『音楽』七巻十二号 の楽人動静に次の記載がある。

 ■同日〔十一月十六日〕御前演奏を承つた光栄あるピアニストの久野久子女史は予報の如く十二月三日に音楽学校で学友会の女子大学桜楓会主催の大独奏会を終つた後京阪在住同窓及び有志の熱心な需めに応じて十二月九日及び十日の両日同地に於て、盛大な独奏会を開かれるとの事である。

 

 名誉の久野女史

 昨年十一月十六日、皇后陛下が上野の音楽学校に行啓あらせられた時、御前にてピアノを奏して名誉を博したる楽壇の天才久野久子女史です

 上の写真と説明は、大正六年一月発行の『婦人世界』第十二巻第一号の口絵にあるもの。

 

 指から血の出るのも知らずに 東京音楽学校教授 久野久子

  京都で琴と三味線を習ふ

 私は滋賀県の生れで、小さい時は身体が弱うございましたから、学校は尋常四年を終へただけで、上の学校にはまゐりませんでした。母は芸事が好きでしたから、学校に通ふ代 かはり に京都に出て琴と三味線とを習ひました。三味線はさほどでもありませんが、琴は生田流で、古川といふ名人の先生について三百曲以上も修め、奥許 おくゆるし を取りました。
 十八歳の時、兄が東京の大学に入学することになりました。当時、東京へまゐるのは、世界を廻るよりも偉いことのやうに思つてをりましたが、兄は、母も亡くなつてゐましたし、私の末のためを思つてくれまして、一緒に上京して音楽学校に入学させてくれると申しました。
 兄は別に詳しい話はいたしませんでしたが、友人は、『西洋音楽は学校の教師になることができてよい』と申します。その頃、音楽学校出身の人が高等女学校の教師になつてをられるのを見て、『私もああいふ人になりたい』などと思ひました。

  師範科には入学ができぬ

 ところが、中学校や高等女学校の教師になるには、師範科に入学しなければなりません。さうするには中学校なり高等女学校なりを卒業してゐなければなりませんが、私は前にも申します通り、尋常四年を修業したばかりですから、師範科に入学する資格がありません。そこで、『教師は偉いものだ』と思つてゐても、学力がなくてはどうすることもできませんから、技芸教育を主とする本科を選びました。
 本科ならば、高等女学校二年の学力さへあればよいといふので、その入学試験を受けることにしました。普通の人は英語と唱歌さへできればよいといふのですが、私は、国語、漢文、作文、その他いろいろの試験を受けなければなりませんので、半年ばかりいろいろの学科を勉強しました。

  ピアノの音を琴かと思ふ

 明治三十四年 〔一九〇一年〕 の夏に 入学試験を受けました。その時、予科に本入学を許可された人が四十人あまりと仮入学を許可された人が四五人あつて、私は仮入学者の一人でした。九月から通学することになつて、生れて初めて海老茶の袴を穿くやうになりましたが、西洋音楽の素養は少しもありません。国にゐる時分に、オルガンは見たこともあり、その音を聞いたこともありますが、ピアノは見たことがないので、初めてその音を聞いた時、琴かと思ひました。
 しかし、学校といふことを知らないだけに呑気なもので、入学後七八ヶ月も経つのにピアノも買はず、音譜の見方もピアノの弾き方も知らずに過してをりました。それに、先生の講義の筆記ができないで困りました。幸ひに、深切な方があつて、筆記帳を貸して下さいましたので、それを見て勉強して、末から二番目の成績で本科に移りました。

  肋膜を煩つて一年間休学

 それでも及第したといつて、大きな顔をして帰郷しましたが、直ぐに肋膜を煩つて、一年間休学しなければならぬことになりました。慣れぬ学校生活をしたために、そのやうになつたのでせう。皆さんは、『気の毒だ。折角本科になつたのにー。』と同情して下さいましたが、私はそれほどにも思はず、故郷で呑気に暮して、一ヶ年間にすつかり癒(なほ)してしまひました。その時、父や親戚の人たちは、『また病気になつては困るから。』と申しましたが、本科になつたまま退学するのも残念ですから、『身体を大切にする』といふ条件で上京いたしました。そして、何といふ理由もなく、ただ『ピアノがよいから』と、ピアノを選んで選考することにしたのです。

  音譜が読めないで困る

 前に申しましたやうに、予科の時はさう勉強もいたしませず、おまけに一年間休学したので、何が何やら少しも分りません。幸ひに幸田延子先生に就くことになつて、深切に指導して頂きましたが、思ふやうに音譜を読むことができません。仕方がないから手を動かす練習をしましたが、音譜が満足に読めないくらゐですから、自由に手の利かう筈はありません。漸(やうや)くボツンボツンと弾くことができるくらゐのものです。
 しかし、ピアノに向ひますと、次第に身体が引締つて、何ともいへぬ感じがして来るやうになりました。心の奥に潜んでゐる或るものが現はれて、それが自分の手を伝てピアノに移つて行くやうに思はれてー今の言葉でいへば、芸術的感興とでも申すのでせう、知らず識らずピアノに引寄せられて行くといふ風でございます。

  卒業式の演奏で認めらる

 自分ながら拙いと思つて練習してゐるうちに、幾らかづつ上達したのでせう。一年より二年、二年より三年と、次第に成績がよくなつて、明治三十九年に首席で卒業しました。そして、卒業式の時、首席だといふので、貴顕紳士の面前でベエトベンのコンセルトを演奏しました。
 その時の文部大臣は、今度講和会議の委員として巴里にまゐられた牧野男爵で、卒業式に列席してをられました。私はその時は夢中で、お目にかかりませんでしたが、人の話に依れば、男爵は大層立派な方だといひます。大使として外国ににをられて、自然に音楽にも趣味を持たれるやうになつたのでせう、私の演奏に対して、有難いお言葉を下さいましたさうです。また理学博士田中正平先生もおいでになつて、やはり御厚意に満ちた、有難いお言葉を頂きました。

  助手になつて研究する

 私は卒業してから半年経つて、オオケストラ伴奏で音楽学校春季大演奏会に出ました。その時、ユンケル先生は熱心にタクトをして下さいました。これは、私の『門出の演奏』でございます。
 その後、左の人差指に●疽 ひょうそ ができて、骨がボロボロになるところを、当時赤十字病院の部長をしてをられた難波先生に治療して頂きました。指が癒つてから、『補助』として音楽学校にまゐいることになりました。補助といふのは教授の助手をするのですが、私は、『もう少し研究させて貰ひたい。』と申して、研究ばかりしてをりました。それから二年経つて助教授に任命され、一昨年(大正六年 〔一九一七年〕 )教授に任命されました。

  苦しいのは芸術的の煩悶

 音楽家といへば派手な生活をしてゐるもののやうに思はれますが、真の芸術に生きようとすれば、そのやうなことはできません。学校にゐる時にどのような苦しい思ひをしても、卒業してからの苦しみー芸術的煩悶よりは楽なやうに思ひます。私も、次第に自分の貧弱さが分つて来て、自ら進んで演奏会をするやうなことはありません。大抵外の人に勧められて出るのでございます。四年前に自働車で怪我をして、それが全快した時、田中先生を始め皆さんが、『全快祝に「独奏会」でもしたらよからう。』と申されて、初めて個人の演奏会をいたしました。その時、世間から好評を得まして、引続き諸方から『演奏会に出てくれ。』と頼まれます。どうしてもお断りができないで出席することも少なくありませんが、『もつと自分の技術を進歩させなければ申訳がない。』と、自分に寄せて下さる世間の同情を思ふにつけ、自分自身を責めて、苦しみながら生きてをります。

  三時間近くもかかつた曲

 最近に演奏会をいたしましたのは昨年 〔大正七年:一九一八年〕 の十二月七日でした。主催者は音楽学校の学友会で、場所はやはり音楽学校でございました。曲はベエトベンのソナタで、一期の終から二期までの作曲を五曲演奏しましたが、長いものばかりで、他の曲の十六曲分もあります。間に少しづつ休みましたが、全部で三時間足らずかかりました。
 これをいたします時、『少し多過ぎはしないか。』と思いひましたが、『私の力のかなふ限り弾いて見よう。』 と決心したのでした。その時においでになつた方は、『よく弾かれたものだ。』といつて、感心してをられました。

  十一回も演奏会を催す

 それが評判になつて、女子大学の『桜楓会』から演奏を依頼されました。女子大学は一週間に一度づつ、長い間勤めてをります上に、日頃から深い同情を寄せて下さいますので、まゐりましたやうな次第でございます。その音楽会は、寄附するためにも催されたのだといふことでございました。
 続いて、白樺同人の音楽会が催されて、やはり演奏いたしました。それから、名古屋、京都、神戸、広島、奈良、呉、福岡と、各所に熱心な音楽会が催されて、招聘されました。そのために、前後十一回も演奏いたしました。

  鍵盤を血だらけにする

 私は外のことにはさうでもありませんが、ピアノに向ひますと、自分の演奏する曲以外のことは何にも考へません。『どうすれば自分の思ふやうな音を出すことができるか』とか、『どうすれば、この曲を私の心の要求のままに生かすことができるか』とかいふことに夢中になつて、自分の身体のことなど考へてゐる暇はありません。
 ピアノを弾くには随分力が入りますので、感興に任せて一生懸命に叩いてをりますと、指に傷ができて血が流れ出ることがあります。しかし、自分ではさほど痛いとも思はず、終つてから鍵盤に血が着いてゐるのを見て驚くことがあります。

  変つた進みやうをしたい

 私は、まだ成功者と申されるどころか、月日が経つと共に技芸の未熟な点が眼について、自分自身を苦しめてをります。
 『どうしたら音楽の真髄を確実に摑み得るか。』
と、そればかりが気がかりでなりません。
 それて、今後どこまで、形の上にも生命の上にも、摑み得るか分りませんが、できるだけ勉強したいと思つてをります。私どもの到達すべきところは、ズツと遠い、限(かぎり)知れぬ深さと広さがあるので、うツかりしてゐることはできません。
 できるならば、グツと変つた進みやうをしたいと思つてをります。自分の哀れな力を磨き尽(つく)して、行きつけるところまで行き尽すより外に、よい方法はないと思ひます。

 上の文は、大正八年 〔一九一九年〕 三月五日発行の『婦人世界』 第拾四巻 第四号 婦人世界春季増刊 婦人成功号 に掲載されたものである。


「久野ひさ子さんの死」・ 『月光の曲』 南部修太郎 (1925-1927)

2012年02月17日 | ピアニスト 1 久野久子

 久野ひさ子さんの死

 最近の婦人界の出来事で何よりも私の胸に鋭く悲しい響きを伝へたのは、墺太利 オオスタリイ のウヰン滞在中のピアニスト久野ひさ子さんの自殺であつた。私はピアノを聴くことはとりわけ好きであり、また久野さんの名を知ることも可成り以前からのことであつたが、不思議なことにその弾奏を聴いたのは僅か一度で、而もそれは今度の留学に出発前、上野の音楽学校の大ホオルで催された告別演奏会の席でであつた。その時久野さんは、今は何と言ふ曲だつたか忘れてしまつたが、とにかくベエトオブエンの難曲を三つ弾いた。が、私にとつては初めてでまだ最後のものとなつたそのたつた一度の弾奏を聴いただけで、外の音楽家の誰よりも深い印象と強い感銘とを久野さんから受けてゐたのであつた。そして、私は久野さんを日本の産んだピアニストとしては最もすぐれた、最も尊敬すべき人だと言ふ風に考へてゐたのであつた。で、新聞で突然知つたその悲惨な自殺は私をぎくりとさせた。日本人の内で惜しむべき人をまた一人喪 うしな つたなと言ふ気持ちが、私の心をすつかり暗くしてしまつた。そして、私は思はず涙ぐんだ。
 〔一段落省略〕
 途中の上野竹の台あたりには、あの大震火災の罹災者達のバラックがまだ生生しく立ち並んでゐた頃だつたから、それは昨年のニ三月時分だつたと思ふ。私は聴衆の充ち満ちた音楽学校の大ホオルの一隅の椅子に腰かけながら、初めてその弾奏を聴く久野ひさ子さんの現れを待つてゐた。グランド・ピアノの沢沢 つやつや と光る舞台の上には沢山の花輪が飾られ、通路と言はず、壁際とは言はず、その舞台の上にまでぎつしりと詰め寄せた聴衆の波、それは音楽の国独逸、墺太利へ旅立つピアニストの告別演奏会としては、如何にも盛 さかん に華やかなものであつた。
 やがて正面左手のドアが開 あ いた。劇 はげ しい拍手が突然海鳴りのやうにどよめいた。思はずはつとして、私は視線を移した。と、私の網膜に初めて映じたその人の姿は? おお、何と言ふ強く印象深い姿であつたらう? 丈 せい の低い、ずんぐりした体に地味な裾 すそ 模様のある黒地の着物を着、沢山の髪を無造作な束髪に結い上げ、如何にも無愛嬌に見える浅黒い顔、それが嘗 かつ て自動車のために傷つけられた不具の左足をびつこ引きながら、静 しづか に立ち出 い でて来て、再びどよめき渡つた聴衆の拍手にこたへるともなく軽く、幾らか無様とも見える恰好 かつかう に頭をさげると、すぐにピアノ向つて腰を降 おろ した。
 (何と言ふ無恰好な姿の持主だらう?)
 そこに芸術家らしい気品のそなはるものがあつたにしても、私は久野さんの姿にぢつと視線を注ぎながら、思はずさう考えずにはゐられなかつた。
 日本の人と云はず外国の人と云はず、私がこれまでに接した音楽家達の舞台登場の姿と云へば、いづれも美しい感じのもので、時には堂堂たるものがあり、時には瀟洒なものがあり、時には気高いものがあつた。然し、不具のピアニスト、さう云つただけでも久野さんの姿は何と云ふ痛ましいものであつたらう?まして久野さんは美しい容貌の持主でもなく、すらりとした撫肩細腰の持主でもなかつた。そして、さう云ふすべては日本の婦人としても寧ろ見苦しいと言へるほどの姿であつた。私はいつも音楽を聴く前に感じる処の何となく朗かな、澄みきつた心の明るさもなく、妙に重苦しく抑へつけられたるやうな気持で久野さんの姿を見守つてゐた。
 充ち満ちた聴衆達は一時の劇 はげ しいどよめきから、急に水底のやうに鎮 しづまりかへつた。
 息をひそめて待つ間もなく、久野さんの指は白い鍵盤 クレフ の上を動いて、最初の高い一音が響いたかと思ふと、ベエトオヴエンの曲の弾奏が始まつた。と、その力強い熱のある弾奏振りは? おお、それは前の姿の印象とくらべると、何と云ふ立派な、素晴らしいものであつたらう?その不具の痛ましくも見苦しい姿は弾奏に際してはもう何物でもなかつた。その弾奏振 ぶり は全く熱である、力である、劇しい練習の結晶である。その体は盛 さかん に揺り動いた。その顔は生き生きと血潮をたたへた。その指先は躍るやうに活躍した。そして、やがてその頬には汗さへ流れ始めた。私はその情熱的な、ほんとの意味に芸術家的な弾奏に強く心を打たれて、まるで体を引き締められるやうな気持で身動きも忘れて耳を傾けてゐたのであつた。
 ゴドウスキイやミユンツなどの外国のすぐれたピアニスト達の弾奏を聴いてゐる私は、久野さんの手腕がそれ以上にすぐれたものだとは思はない。然し、およそ音楽家達の弾奏を聴いて、私は久野ひさ子さんの弾奏ほどに深い印象と強い感銘を與へられたことはない。さう云ふ久野さんが突然異郷の空で不幸悲惨な自殺を遂げたと言ふことは、私を驚かす以上に深く深く悲しみ悼ましめたのであつた。そして、更に二度も三度もその弾奏を聴くことを楽しんでゐたその人が生きて日本に帰る日がもうないのかと思ふと、強い愛惜 あいせき の心とともにたゞ涙を覚えるばかりである。

 この一文は、『過ぎ行く日』 大正十五年七月二十日発行 作者 南部修太郎 発行所 寶文館 に、「二つの感想 - 一四・六・八 - 」の一つとして収められたもの、原載は、『令女界』 四巻八号 大正十四年 〔一九二五年〕 八月 である。〔引用に際しては一段落省略した。〕
 なお、告別演奏会の年、演奏曲目数など、記憶違いがいくつかある。

 

 月光の曲 

 ・老楽人の死 〔下は、その一部〕

   風薫る若葉の頃であった。
   赤坂氷川町の樹深い高台にあるクライスト教授の家に、嘗てはあれほど妙やかに聞こえてゐた窓漏るピアノの音がぱったり絶えてしまってから、もう二月近かった。

   ヘルマン・クライスト教授が初めて日本の土を踏んだのは、明治二十四五年の頃であった。その頃まだ三十を超えたばかりの若い教授は独逸の或る貴族の子で、既にピアノの優れた弾奏家として知られてゐたが、不幸な破綻を見せた結婚の痛手を忘れようために、また一つにはロマンティックな性格の故に異邦の風物に深い憧憬を抱いて、ただ一人はるばる海を越えわたって来たのであった。   

   藤枝は丈はさほど高い方ではなかったが、面長な顏の感じや、どっちかと云へばやさ型の身体附から、その姿は如何にもすらりとして見えた。そして、形のいい端正な鼻と、黒味勝ちに澄んだ眼と、引きしまった口元の感じそのままに、快活と云ふよりも冷静な、感情的と云ふよりも理智的な性格を持ってゐた。然し、たとへば白いコスモスの花が静けさ寂しさの内にも、どことなく人を惹きつける清楚な優しみを持ってゐるやうにその聡明な、落ち着いた人柄の中にも何となく人の心を惹くやうななつこい感じが籠ってゐた。

   綾子は麹町の番町に住む或る聞えた実業家の娘で、藤枝より一つ年下の十九だったが、同じやうに昨年の春女学校を卒業してゐた。小柄ながら肉附のいい体格、表情に富んだ濃艶な丸顔、魅力の強い大きな眼、やや厚めな鮮紅の唇、綾子はさう云ふ点で藤枝とは殆んど反対の明るく、強く、快活な容姿の持主だった。自然、正確も感情的で、勝気で、我儘で、ともすれば蓮葉 コケット な処も見えたが、一面にはすべての言行の現れ方が子供のやうにむき出しで、飾りがなくて、歓びは踊り上って歓び、悲しみに対してはまた極端に涙もろかった。そして、クライスト教授に師事しはじめたのは五年ほど前からのことであったが、その負けず嫌ひの熱情的な努力は腕前をめきめき上達させて、今は藤枝と共に教授の愛弟子の双璧となってゐた。

 ・墓参
 ・誘ひ

   二十前後の、まして前の年に女学校を卒へてしまった身には、結婚と云ふこと、或は家庭生活と云ふことが可成り差し迫った問題として時時考へられずにはゐなかった。が、藤枝は学校にある時代から、出来ることなら独身で、生涯をピアノのために捧げようと決心してゐた。それは多くのうら若い処女にあり勝ちな、甘い、感傷的な考へから来たのでは決してなかった。藤枝は全く一生を捧げても惜しくないほどにピアノをーピアノを創り出す芸術を愛してゐた。そして、そのためにこそクライスト教授の熱心な指導の前に全身を打ちこみもし、また何かと修業の煩ひになるやうに思はれる結婚や家庭生活を棄ててしまはうとも考へてゐたのであった。で、学校を卒業して間もない或る日、藤枝はその決心を初めて民子に打ち明けた。

  たとへどんなに苦しみに逢うとも、あたしはピアニストとして世の中に立って行こう。そして、この貴い芸術の修業のために一身を捧げよう。) 

 ・静心なく
 ・競争者
 ・心の影
 ・その夜の花
 ・秘めたる心
 ・侵入者
 ・二つの心
 ・哀歌
 ・誤解
 ・弱き心
 ・青葉若菜
 ・危難
 ・夕立
 ・胸病む友
 ・名残の曲

 この小説は、雑誌『令女界』に連載され、のち単行本として発行された。

 - 月光の曲 -

 昭和二年 〔一九二七年〕 七月十五日発行 定価 一円二十銭
 著作者 南部修太郎
 発行所 宝文館

 また、雑誌『令女界』には、その広告が掲載された。

 南部修太郎長編小説集 = 田中良装幀
 月光の曲 (第一編)
 淑女文庫


「悦楽安靖の道程」 久野久子 (1922.8)

2011年11月18日 | ピアニスト 1 久野久子

 「悦楽安靖の道程 久野久子」は、大正十一年 〔一九二二年〕 八月壹日発行の『改造』 八月号 第四巻 第八号 に掲載されたものである。
 それは、「名人「入神」の感想」の十二人〔久野久子、陶土師 眞清水藏六、新派俳優 井上正夫、落語家 柳家小さん、囲碁名人 本因坊秀哉、官休庵 千宗守、庭球選手 熊谷一彌、撞球選手 山田浩二、剣道師範 中山博道、帝劇俳優 守田勘彌〕のひとつである。

  悦楽安靖の道程 久野久子

 私の音楽に於ける感興は、私がこれまでピアノを奏でて来た中から自然に湧いて来たものです。私がピアノに対してゐる時は、それは絶対無意識の境で、私は只、自分のならしつゝあるピアノの音の中に恍惚の世界を築くことが出来るのです。それは世の中にはいろゝいゝものがあります。私は、人の愛も好きです。宮殿もすきです。併しそれは、好きではあるけれど、決して欲しいとは思ひません。私にとつて、無くてはならぬもの、それは只一つ、ピアノがあるのみです。私はピアノさへあつたら、此の世の中から、ありとあらゆるものを取除いて了つてもいゝ位に思つてをります。決して淋しいこともなければ、微塵の焦燥も感じは致しません。私にとつてピアノは、絶対自由の美しい世界を造つて呉れるのです。私はその世界で思ふさま、自分の生命を研ぎ進めて行くことが出来るのです。そしてそれは、ピアノから離れてゐる時でも私は同じです。只、自分にはピアノがあるといふこと丈けで、私のあらゆる心は満足しそして幸福なのです。ピアノに努力するお蔭によつて人世の悟りが開けるー何だか左うした境地に達したといふ気さへするのです。
 併し、私の今の芸術上の実力は、只思ふさへ、哀れさを感じないわけには行きません。
 私は只今まで三十六年半をこの世に生きて過しました。私は、私のこの哀れさを、私の死する日までに何れ程位の立派さに築き上げることが出来るかと、あわたゞしい心が迫ります。併し、いささか思ひ返したことには、私は仕事の上の若さを充分持つてゐると自信があることです。それは、私は先づ健康な体で居ります。而して心はいつも生きゝして努力に生きて行かれます。私は五十才、六十才まではキツト進歩して行かねば止まぬ決心を堅くもつてをります。私のこれから進み行く道は、わたしの頭にハツキリ鏡の様に映つてをります。私はすこしでも早く望みの進歩を得たいとは思ひ乍ら、一方には、丁度、眼前に美しい山を眺めながら、その山麓に到る道を行くやうな工合で、いさゝかじれつたい中にも今に得たいゝと思う、その道程を楽しみ安ずることが出来るのです。
 私は私の哀れさを感じながらも、其処には何の疑問もなく、不安もありません。私は愉快な気持で、おぼつかない足どりでその道程を歩いて行きます。
 私は健康のつゞく限り、一生懸命ピアノをひいて死にたいと思ひます。健康とピアノーこれは実に私にとつて無上の賜なのです。


「ワグネルソサイエテイー春季大演奏会」 (1919.5)

2011年05月18日 | ピアニスト 1 久野久子

 

 「ワグネルソサイエテイー春季大演奏会 大正八年 〔一九一九年〕 五月二十四日(土)午後六時半 於芝区三田慶應義塾大講堂」とある。18.2センチ、片面刷り。

 曲目

 一、管絃楽 会員
     祭典進行曲‥‥ 大塚淳氏作 
 二、男声二部合唱  岡田壽 渥美鷹夫
     月夜   ‥‥ デイームス
 三、絃楽四部合奏  第一ヴアイオリン 早川義郎 
              第二ヴアイオリン 若杉盛治 
              ヴイオラ       三橋幾之助 
              セロ         山根憲一
     マドリガール ‥‥ シモネツテイ
 四、男声四部合唱  会員
     (イ)ウンテル アルレン ヴヰツフエルン イスト ルー ‥‥ クーラウ
     (ロ)セレナード ‥‥ ウヱツテルリンク
 五、ヴァイオリン独奏 加藤嘉一
     ハンガリアンダンス ‥‥ ドウルドラ
 六、管絃楽  会員
     パイザ リヴワー(ローマンス) ‥‥ モース
      休憩 十五分
 七、男声四部合唱 会員
     フローテイングミツド ザ リリース ‥‥ アトキンソン
 八、中音独唱  柳兼子夫人
     未定 ‥‥ 
 九、ヴァイオリン独奏  杉山長谷夫氏
     (イ)メデイテーシヨン作品八 ‥‥ ネメロフスキー
     (ロ)ガボツト、ロココ ‥‥ ヘッシエー
 十、低音独唱  樋口信平氏
     (イ)歌劇『ラボエーム』中のコートソング ‥‥ プツチニ
     (ロ)歌劇『ロメオとジユリエツト』中の一節 ‥‥ グノー
 十一、管絃楽  会員
      とかげと蛙 ‥‥ モールス
 十二、高音独唱  高折壽美子夫人
      『プロフエツト』の一節 ‥‥ マイヤベーア
 十三、ピアノ独奏  久野久子女史
      ワルドシュタインソナータ ハ短調作品五十三番 ‥‥ ベートーフエン
 十四、中音独唱  柳兼子夫人
      未定 ‥‥
      合唱、管絃楽指揮者 大塚淳氏
       ピアノ伴奏者     ゼームスダン氏 
                    高折宮次氏

      会費 貳圓 壹圓 学生 五十銭
      切符は市内各楽器店及当日会場入口にあり

 なお、この演奏プログラムは、大正八年六月一日発行の『音楽界』 拾九年 貳百拾貳号 にも同様のものが掲載されている。ただし、このチラシと同じく、演奏予定のものと思われる。
 下の写真は、その『音楽界』の口絵にある写真。

 慶應義塾ワグネル、ソサイエチイの会員合奏(五月廿四日夜)