蔵書目録

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「北洋軍医学堂及北洋軍隊衛生に関する報告 (明治四十一年四月) 」 1 平賀精次郎 (1908.6)

2020年09月20日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

      

 下の文は、明治四十一年六月三十日発行の 『軍医学会雑誌』 非売品 第百七十一号 陸軍軍医学会 の 〇叢報 に掲載されたものである。

◎北洋軍醫學堂及北洋軍隊衞生ニ關スル報告(明治四十一年四月)
       陸軍二等軍醫正 平賀精次郎

    甲 北洋軍醫学堂

(一)來歷 本學堂ハ明治三十五年十一月當時ノ直隷總督袁世凱ノ創立スル所ニシテ其家醫徐華淸ヲ以テ總辨トシ小官ニ委ヌルニ總教習ノ任ヲ以テシ本學堂設立ニ關スル諸般ノ計畵ヲ爲サシム乃チ同年十二月學生四十名ヲ募集シ天津南斜街ノ支那家屋ヲ以テ假ニ校舎ニ充テ授業ヲ開始ス翌年八月北京鐵良ヨリ八旗ノ子弟二十名ヲ送リ其教育ヲ托シ來リ學級ハニ班トナリシヲ以テ同年十二月二等藥劑官三井良賢ヲ傭聘シテ教習トナシ三十八年一月更ニ學生八十名ヲ募集シ學級ハ三班トナリ業務益々繁多トナリシニ際シ三井藥劑官ハ病ニ因テ教習ヲ辭セシニ因リ當地駐屯軍附軍醫及藥劑官ニ公務ノ餘暇ヲ以テ教授ヲ嘱托シ來リシガ學生ノ學科日ニ進ミ上級學生ハ既ニ臨床講義ヲ開始スベキ時期ニ達シ嘱托教習ノミニテハ到底滿足ナル結果ヲ得難キニ依リ再三我陸軍省ニ對シ衞生部士官傭聘ノ事ヲ請ヒシト雖モ時恰モ日露戰爭ニ際會シ軍醫缼乏ノ秋ナリシヲ以テ其目的ヲ達スルコト能ハス已ムヲ得ズ同年二月及三月中醫學士高橋剛吉、同藤田秀太郎ノ二名ヲ傭聘シ三月盡日ニ至リ當時ノ天津歩兵隊附一等軍醫我妻孝助ヲ教習ニ傭聘シ教習ノ定員漸ク充實スルニ至レリ是ヨリ先三十七年中袁世凱ニ建議シ學堂附属ノ醫院ヲ新築セシメ上級學生ノ臨床講義ヲ授クル所ニ充テ又三十九年六月ニ至リ當地河北ニ地ヲ卜シテ學堂校舎ノ新築ニ着手シ同年十二月之ニ移レリ創立以來前述ノ如ク教習ノ缼乏、校舎ノ狹隘、加之教授用器械標本ノ不整備等アリ爲ニ幾多ノ焦慮苦心ヲ極メ非常ノ困難ヲ排シ奮勵以テ淸國醫術ノ進歩ト學生ノ育成ニ勉メ遂ニ昨年一月初テ卒業者三十五名ヲ出シ本年二月再ヒ二十名ヲ卒業セシムルニ至レリ    
 本學堂ハ元來北洋陸軍軍醫ノ養成所タルニ過ギザリシガ昨四十年一月ニ至リ北京陸軍部ノ管轄ニ歸シ又四月段祺瑞ノ陸軍諸學堂ノ督辨ニ任ゼラルヽヤ我學堂モ亦同人ノ監督ヲ受クルコトヽナレリ然レトモ督辨ハ有名無實ニシテ少シモ我ガ學堂ノ事ニ關與セズ從テ學堂ノ事皆從前ノ如ク直接ニ陸軍部及直隷総督ノ區處ヲ受ケツヽアリ昨年三月藤田教習其職ヲ辭セシニ依リ其後任者及藥劑官一名傭聘ノコトヲ直隷総督ニ建議シ其承認ヲ得タルモ未タ之ヲ實行スルニ及ハサリシニ際シ事アリテ遷延シ十一月ニ至リテ味岡軍醫及宮川藥劑官ノ傭聘ヲ許可セラレ本年一月來着セリ
 又昨年六月新ニ學生ヲ募集シ入学試驗ヲ行ヒ九十四名ヲ入學セシム
 九月本學堂規則ヲ改正シテ醫學科ノ外藥學科及豫科ヲ設クルコトヽナリ新入學生ハ豫科ニ編入シ十一月更ニ試驗ヲ擧行シテ不合格者十四名ヲ退學セシメ合格者八十名中六十名ヲ官費生トシ二十名ヲ自費生ニ撰定セリ
 十月第一回卒業者ノ優等者中ヨリ四名ヲ擢テ、本學堂助手ヲ命シ内二名ヲ學堂ノ助手ニ充テ傍ラ算術、日本語等ヲ教授シ二名ハ醫院ノ助手ニ充テ入院患者ノ診療及當直ノ任ニ當ラシム
 (二)卒業生ノ現況 卒業生ハ既述ノ如ク昨年度三十五名本年度二十名計五十五名ニシテ昨年度卒業生ハ或ハ軍隊ニ或ハ病院ニ或ハ陸軍部ノ中樞ニ入リ各其習得セル業務ニ從ヒ淸國官民ノ信用厚ク成績極メテ良好ナリ今其配屬セル部隊及職名等ヲ掲クレハ左ノ如シ
      〔上の写真:左から二枚目参照〕
  備考 一、鎭ハ我カ師團ト同一ナリ
     二、正軍醫官ハ我師團軍醫部長ノ職ヲ執リ中佐相當官トシ副軍醫官ハ聯隊附軍醫正及病院長ノ職ヲ執リ少佐相當官又軍醫長ハ隊附一等軍醫ノ職ヲ執リ大尉相當官トス 
 本年二月卒業ノ二十名ハ一月九日ヨリ同二十三日迄十四日間卒業試驗ヲ擧行シ全部合格二月二十七日卒業證書ヲ授與シ北京、保定、馬厰、遷安ノ各鎭ニ各五名宛見習醫官トシテ配屬セラレ三ヶ月間勤務スルコトヽナレリ
 今卒業試驗問題ヲ列記スレハ左ノ如シ
      〔上の写真:左から三、四枚目参照〕
 (三)學生 現在學生ノ數ハ總計百三十人ニシテ内醫科四年學生五十名、豫科生八十名トス毎年一月新學生ヲ募集スルノ規定ナルモ一昨年ハ舊校舎狹隘ノ爲メ募集ヲ見合セ又昨年一月ハ本學堂陸軍部ニ授受ノ手續中ナリシヲ以テ新學生ヲ募集スルニ至ラズ六月ニ至リテ之ヲ募集シ豫科ニ編入シタリ本年六月モ亦豫科生約百名ヲ入學セシムル見込ニシテ現今ノ豫科生八十名ハ六月ニ至リ試驗ノ上本科ニ進マシメ其内六十名ヲ醫學科、二十名ヲ藥学科トシ各一年級ヲ組成スルノ計畵ナリ
 總テ新入學生ハ身體檢査ヲ行ヒ且漢文、數學及語學(日本語、英語、獨逸語ノ内一科)ノ三科ニ就キテ入學試檢ヲ行ヒ合格ノ者ヲ採用シ又年齡ハ滿十六年以上二十五年以下トス特ニ昨年ハ豫メ直隷省内ノ各中學堂ニ照會シテ中學堂二年以上修業ノ者ヨリ募集セシガ應募者要員ノ三倍以上ニ達スルノ好況ヲ呈セシヲ以テ今後ハ年々入學試驗ノ程度ヲ高メ遂ニハ中學卒業生ノミヨリ採用セントス
 (四)職員 目今職員トシテ教育ヲ擔當シ居ルハ小官、我妻軍醫、味岡軍醫、宮川藥劑官、高橋教習、日本語教習内山春吉ノ六名ニシテ小官ハ開校當時ヨリ我妻軍醫ハ三十九年四月ヨリ就任シ味岡軍醫及宮川藥劑官ハ本年一月傭聘セラレタルモノナリ將來學生及学級ノ増加スルニ從テ年々教習ヲ増加シ遂ニハ日本醫學專門學校同等ノ職員數ニ達セシメントス右本邦人教習ノ外漢文教習二人體操教官一人アリ共ニ淸國人ニシテ體操教習ハ淸國陸軍士官ニ囑托シアリ又學堂及醫院ニ各二名ノ助手アリ皆本學堂出身ノ者ナリ
 教習ノ外學堂職員トシテ總辨(校長)監督(舎監)収支(會計)文案(庶務)各一人アリ共ニ淸國人ナリ總辨徐華淸監督唐文源ハ北洋醫學堂(故李鴻章ノ創立スル所ニシテ英語ヲ以テ之ヲ教授ス)出身ニシテ共ニ廣東人ナリ徐總辨ハ甞テ歐米及我國ニ遊ビ資性溫厚着實ナリ漸次我邦醫學ノ實況ヲ明ニシ學生ノ教授法ハ勿論器械、標本、藥物ノ撰擇等一ニ小官ニ委任スルニ至レリ唐監督モ亦曾テ歐米ニ遊ビ事理ニ明カニシテ小官等ノ事業上ニ多大ノ便益ヲ與フ
 (五)校舎 明治三十五年十一月開校以来殆ト四ヶ年狭隘ナル假校舎ニ於テ教授ヲ爲セシガ一昨年六月河北新停車場附近ノ地三千坪ヲ撰ビ起工シ十二月竣工之ニ移レリ新校舎ハ洋式ニ則リ淸國風ヲ混ジタル者ニシテ方形二層屋、方形ナル中庭ヲ存シ周圍ニ各室ヲ排置ス中庭ニハ天葢ヲ設ケテ夏季炎熱ヲ避ルニ備ヘ又周圍ノ各室中階上ハ學生ノ宿舎ニ充テ三十餘室ヲ有シ各室六人合計二百人ヲ収容スルニ足ル階下ハ教授用諸室ニシテ講堂四、顕微鏡實習室一、標本室二、教習室、眼科實習用暗室等アリ講堂四個ハ各形狀及大サヲ同フジ各室學生六十人ヲ教授スルニ適ス別ニ本校舎ヲ離レテ細菌學業室、學生用食堂、厨房、浴室等アリ若シ後來學生増加シ校舎狭隘ヲ告クルニ至ラバ學堂南隣ノ空地ニ更ニ數棟ノ講堂ヲ新築シ現在ノ校舎ハ全部ヲ擧ゲテ寄宿舎ニ充ツルノ計畵ニシテ若シ之ヲ實行セハ優ニ學生五百人ヲ収容スルコトヲ得ベシ又本年六月後ニ至レバ現在豫科生中約二十名ヲ以テ藥學科一年級ヲ新設スルニヨリ該科用教室トシテ本校舎後方ノ空地ニ二層屋ヲ新築シ分析實習室、生藥學實習室、講堂等ヲ設クルノ考案ニシテ前記校舎擴張案ト共ニ既ニ北京陸軍部ニ稟議中ナリ
 (六)器械及書籍 開校ノ當時金三七〇〇餘圓ヲ支出シテ我帝國醫科大學ニ托シ解剖、生理、理化學ノ諸器械及參考書ヲ購入シ爾来毎年三四千圓ヲ投ジテ診斷、衞生、治療諸器械、諸模型、書籍等ヲ購入シ漸次其完備ヲ計リ又昨年モ三千餘圓ヲ以テ日本ヨリ諸器械藥品ヲ購入シ別ニ一千餘圓ヲ以テ獨逸ヨリ生理器械ヲ購入ス只解剖標本、病理組織學材料ハ之ヲ淸國ニ於テ得ル事難キニ依リ一面我醫科大學ニ交渉シテ多少ノ材料ヲ仰キ、一面模型動物體等ニヨリテ其不足ヲ補ヒ今日ニ在リテハ諸科ノ教授上甚タシキ不便ヲ感ゼラルニ至レリ尚本年度ニアリテモ一万餘圓ヲ支出シテ藥學科第一學年用諸器械材料ヲ購入シ七千餘圓ヲ以テ醫科及豫科用器械標本ヲ購入スル計畵ニシテ既ニ其豫算ヲ陸軍部ニ提出シタリ 
 (七)學科 學科課目ノ種類及程度ハ大體我ガ醫學專門學校ノ課程ニ準ズルノ他尚陸軍衞生勤務及軍陣外科學ノ大要ヲ授ク學級豫科一年、醫學科四年、藥学科三年ノ三種ニシテ合計八級トス今各科各學期ニ於ケル課目及一週間内各科時間配當表ヲ掲クレバ次ノ如シフ
      〔上の写真:左から五、六、七枚目参照〕
 醫學科高級生ニ對スル内外眼科臨床講義ハ毎日天津官醫院ニ於テ之ヲ行フ
 各教習ノ學科分擔ハ學期ニ依リテ同ジカラス昨年度ニ於テハ小官ハ學堂全般ノ教育事項ヲ總攬スルノ他外科總論、同各論、軍陣外科學、婦人科學、耳鼻咽喉科學、衛生學、外科臨床講義等ヲ擔任シ我妻軍醫ニハ内科學、病理學、藥物學、組織學實習、内科臨床講義等ヲ擔當セシメ高橋教習ニハ眼科、内科ノ一部、診斷學、産科學、 内眼科臨床講義ヲ擔當セシム現在ニ於テハ外科各論、外科臨床講義及豫科ノ羅甸語ハ小官之ヲ擔當シ我妻軍醫ハ藥物學及細菌學實習、内科臨床講義ヲ、味岡軍醫ハ外科各論ノ一部、眼科、外科治療監督及豫科ノ動物學ヲ擔任シ宮川藥劑官ハ豫科ノ理學及化學擔任ノ傍ラ醫院ノ藥局ヲ監督シ高橋教習ハ内科學及眼科臨床講義ヲ擔任ス
 (八)教授法 本學堂教授ノ方針ハ實地ニ重キヲ置キ理論ヲ後ニス故ニ教授ノ際ハ可成多數ノ患者實物標本圖書等ヲ標示シ又各科共ニ實習(殊ニ臨床講義)ノ時間ヲ多クセリ只遺憾ニ堪ヘサルハ淸國ノ風習トシテ屍體解剖ヲ許サザルヲ以テ解剖學及病理解剖學ヲ實地ニ教授シ能ハザルニアリ故ニ此等ノ諸科ハ帝國大學ヨリ寄贈セラレタル若干ノ標本、購入ノ骨骼、紙塑模型、蠟製模型、圖畵等ニヨリテ之ヲ教授スルニ止ム  
 講義ハ入學當初ヨリ直ニ日本語ヲ以テシ通譯ヲ籍ルコトヲ爲サズ只初年級ニアリテハ學生未ダ日本語ニ熟セザルヲ以テ事ノ要領ヲ漢文ニテ黑板ニ書シ之ヲ寫サシメ尚實物、圖畵、動作ニヨリテ之ヲ説明シ學生等ヲシテ了解セシムルヲ得ルモ當初ノ一二年ニアリテハ教授上困難ヲ感ズルコト勿論ナリ然レドモ日ヲ累ネ月ヲ閲スルニ從ヒ學生ハ漸ク教習ノ談話ヲ聽クニ熟シ且一方ニハ多大ノ時間ヲ割キテ日本語ヲ課シアルヲ以テ既ニ三年ニ至レバ學生ハ充分日本語ノ講義ヲ理解シ各自直ニ漢文ヲ以テ之ヲ筆記シ得ルニ至ル然レドモ尚誤謬アランコトヲ虞レ其筆記ヲ點檢修正シ之ヲ印刷ニ附シ漸次教科書ヲ編纂シツヽアリ又學生一般ニ諸學科ノ參考書(日本書)ヲ給與シ自習ニ便ナラシム
 (九)試驗 毎日教授ノ際學生ノ勤惰學力ノ如何ニヨリテ採點スルノ外毎年二回即チ七月及十二月試驗ヲ行ヒ此二回ノ成績ヲ通算シテ及落ヲ定メ學力劣等ニシテ成業ノ見込ナキモノハ退學セシム又第四年ノ終ニ於テ全科ニ就キ理論及實地ノ試驗ヲ行フコト日本ニ於ケル醫學校ノ制ニ同ジ
 總テ試驗法ハ彼我言語ノ通ゼザル憾アルヲ以テ通常筆答トシ時ニ口答セシムルコトアリ
 (十)授業ノ成績 從來ノ學生ハ概シテ普通學ノ素養少ク又淸國人一般ノ通弊トシテ理解力、想像力、應用ノ才ニ乏シク教授上甚ダ困難ヲ極ム殊ニ數學、理學、生理學ノ如キハ學生ノ最モ理解ニ苦シム學科ニシテ眼科ノ如キハ其至難トスル處ナリ故ニ毎回ノ試驗成績ヲ見ルニ暗記的ノ諸科ハ其成績比較的良好ナルモ應用問題ニ至リテハ其答解要領ヲ得ザルモノ多シ
 (十一)經理 昨年以來本學堂一年ノ豫算ハ五萬兩ト定メ内三分二ハ北京陸軍部之ヲ支出シ三分一ハ北洋大臣ヨリ支出ス内教授用諸器械及書籍費ハ五千兩ナリ
 學生ハ月額九兩半ヲ給セラレ食餌及雜費ニ充テ別ニ一定ノ制服及參考書ヲ給與セラル


「天津に於ける外国医術 (平賀顧問談)」 (1910.7)

2020年09月12日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 天津に於ける外國醫術

 三井安川氏の事務室をぽいと飛び出し偖て白羽の矢は誰にしようと暫し小首を傾けたが夫れもほんの束の間で踵をぐるりと廻し靑々たる楊柳の巷を縫ふて顧問平賀精次郎氏の公館前に梶棒を降しボーイを捕へて一打聽を遣つたら在家了、刺を通し客廳に待つ程もなく主人出でられ種々有益なる話を拝聽したれば左に其一節を錄す

    外國醫術の濫觴 

 天津に於ける外國醫術の輸入を見たのは彼之れ五六十年前にあるものゝ如し勿論其初めは英米佛等の宣教師に依つて傳へられた其徑路は香港方面より次第に北上し上海に來り之より更に各方面に廣り阿片戰爭を經て天津方面にも輸入されて來た、畢竟するに宣教師の足跡の及ぶ所則ち外國醫術の向ふ所にして影の形に從ふが如き有樣であつた、併しながら外國醫術に向つて當時の支那人が生命を托するだけの信用をなしたかドウだかは甚だ疑問であつて寧ろ信用して居なかつたソコで今ま尚天津に於ける外國醫術は混沌たる時代に属して居る、唯だ近數年來支那人間に外國醫術を信用する者が漸く現はれて來た樣な次第である

    外國醫學研究機關の概況

 ▲北洋醫學堂  前陳の如く初めは微々たる宣教師が貧民に施療的に遣つた位で外國醫學を研究する所などは無論ないのである、所ろが今を去る二十四五年前時の直隷總督李鴻章が北洋艦隊を建造する際に當り各國兵制に倣ひ軍醫養成の必要を感じたれば英國の宣教師馬大夫に依賴し紫竹林海太路に北洋醫學堂なる者を設立した、初め二十名の生徒を募集し四ヶ年間教授し其生徒の卒業後、更に生徒を募集する樣な次第であれば今まで百名足らずの生徒を養成したるに過ぎんのである其後日淸戰爭、團匪事件等にて永らく休學の姿なりしも九年前より又た教授を初め現在生徒は七十名計りあるが、相變らず萎靡振はん、現總辨は屈永秋氏であるが教師には佛國の一等軍醫で現に天津衞生局の醫員をして居るソニーと稱する人が遣つて居る。
 北洋醫學堂卒業生は如何なる方面に分配されたかを觀るに現に仲々樞要の地位に居る者が在る則ち招商局總辨麥信堅、天津衞生局兼北洋醫學堂總辨屈永秋、北洋軍醫学堂總辨徐華淸諸氏で、其他陸軍々醫官立病院長、開平礦務局事務員、京奉鐵道事務員等にして開業醫は僅かに上海に一人あるのみであるソコで同校卒業生で全く自己の修得せる醫術を以て現はれた者は誠に尠なく唯だ官界に遊泳して現に顯榮の地位に居る者が多い、之れは同校が英語を用ひて教授したので英語を利用して出世する方が其當時捷徑であつたからである而して其卒業生の大部分は皆廣東人である之れは支那全國中に於て廣東省が早く外國人と接觸した結果、外國語の素養ある者が多かつたからである。    
 ▲北洋軍醫學堂  次に現はれたのが現に私が奉職せる北洋軍醫学堂である、之は明治三十五年十一月直隷總督袁世凱が北洋陸軍の軍醫を養成するため設立した者であつて其初め北洋醫學堂が現存するのに夫れに態々醫學堂を設くるのは二重になるとの譏りを免るゝため、軍醫養成なる名義にて上奏裁可を得た所が豈に圖らんや北洋醫學堂側からツヽいた者が佛國公使から突然抗議が現はれて來たが袁世凱は軍醫養成の必要あればとて斷然抗議をはね付けたので佛國公使も沈黙してしまつた、夫れから北洋軍醫學堂も北洋醫學堂の如く英語を主とせよとの議論もあつたが之れ又た斷々として退け能ふ丈け病名を漢字に現はし能はざる者だけを原語で教ゆることゝした、今まで卒業した生徒は百〇五名で陸軍部の測繪學堂、禁衞軍北京場外官醫院、保定軍官學堂、陸軍小學堂、北洋軍醫学堂助教、東三省、各鎭の軍醫等に分配されて居る
 ▲北洋女醫學堂  此の學堂は明治三十九年頃米國日本等に留學して居つた金と謂ふ婦人が創めた者で一口にへばマー看護婦養成所見た樣なもので大した者ではないが現に患者も相應にある樣である、此の外に戒烟局とて阿片禁烟のため設けた病院があるが之は唯だ阿片吸烟者にモルヒネを注射するか飲ませるかの外には何の仕事もない尚ほ北洋官醫院がある之は北洋軍醫学堂の附属の樣な者であつたが軍醫學堂が陸軍部の直轄になつてから全く分離したが軍醫學堂生徒は從前通り實習に出張して居る
 マー外國醫術の養成機関と謂へばコンナものであるが各學堂卒業者の成績を見るに醫術を以て飽く迄、終始しよふと謂ふ者は餘り多くない樣で、大概の者は之を以て官吏になり澄まそうと謂ふ樣な傾きがある樣である

    漢法醫との關係

 漢法醫は天津のみならず支那では本家丈けあつて仲々太したものである、我國も維新頃迄は漢法が信用があつた今でこそ葛根湯などゝ馬鹿にするがソー馬鹿にしたものではない今ま天津で漢法醫の大家とも稱すべき者は大分ある樣である、漢法は不思議なことには醫藥分業で漢醫先生は處法箋を書いて與へるのみで藥は藥屋で求めて居る、所ろが從來の漢法醫と外國醫との關係は仲々面白い丁度我國に蘭法の傳はつた時の有樣と異る所はあるまいと思ふ、天津の漢醫も仲々負けては居ない色々な迫害を加へよふとする、天津に外國の醫術が這入つてから彼れ之れ五十年にもなるが今尚ほ混沌として支那人に左程信用がなく相變らず漢醫の信用があるのは從來の關係もあろふが、ツマリは最初外國醫術を傳へた外國人等の技量がなく漢法と左程の相違がなかつたからである、然るにだんゝ天津に於ける外國醫術が稍や進歩するに從ひ今度は漢法醫の法でたまらなくなつた、特に外國人とは意思の疎通が充分出來ず感情上のこともあつたらふが漢醫側から外國醫に對し匪言中傷する樣な傾になつた、之れは外國の信用が附けば漢醫の天地をせばめらるゝとでも思ふたからであろふ、併し難有いことには日本醫とは文字で意思が通ずるので歐米人に對する樣な惡感情は持たぬ樣である、マー漢醫と外醫との關係はざつと右の通りであるが近來漢醫先生夫れ自身も外科に就ては、とても及ばぬと自覺したらしい傾きがある

     支那人の対醫術概念

 天津市に四十萬人の住民ありとすれば其大半は賣藥に依賴しつゝあるが如し而して其次が漢醫に依り其次の幾分が外國醫術に依賴せる樣で、外國醫に持つて來る患者は大概賣藥を試み漢醫に行き尚ほ手の附けられぬ樣な患者が多い樣である、近數年來支那人間に外醫の信用が漸く現はれて來たのは誠に悦ぶ可きことである、官醫院等で施療する等の話を聞けば毎日五百人位は押し懸けて來るが料金を取ることにすればゴイと減少する樣な次第で醫術の信用如何よりも自己經濟の上より打算して來る者が多い樣だ
 賣藥を使用する者を除き醫術の信用如何のみを觀れば矢張り漢醫が未だ信用を持つて居る現に陸軍各鎭の軍醫等には漢法で漸く信用の芽を吹き出した所である、目下北洋官醫院で治療する患者は一ヶ年に一萬餘人の統計であるが不思議にも其三分のニは天津を距る三百淸里内外の田舎者計りで一村一團体を組みて來るのである云々

 上の文は、明治四十三年七月十五日発行 (非売品) の 『津門』 第六号 の ◉廻訪録 に 天津に於ける外國醫術(平賀顧問談) として掲載されたものである。   


「漢口紀行」 山田勝治 (『飲江三種』より)

2020年08月30日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

   

 第一輯 禹域鴻爪錄 (紀行詩紀通信) 〔下は、その一部〕

 漢口紀行 〔下は、その一部〕

 明治卅五年十二月廿六日、漢口の遊を試みぬ。〔以下省略〕 
 四日〔明治三十六年一月四日〕 武昌に遊ぶ。武昌は春秋楚の地、秦の南郡なり。隋には江夏郡を廢し卾州を置く。唐初武昌軍節度使を置き、牛僧孺をして帥たらしめ、呉の故趾により城を築く。元の武昌路湖廣行省治たり。明には武昌府と云ひ、湖廣布政使治たり。現今湖廣總督、同巡撫、並に此に治す。山に依り湖を阻て、江漢を扼束し、呉楚を襟帶にす。所謂呉楚の交、南北の會たり。蛇山、本名を黄鶴山と云ふ。府の中央を縱斷し、其の江に突出する所を黄鶴樓の遺趾となす。此日小舟を漢水の滸に雇ひ、江を渡りて黄鶴樓下に至りて舟を棄て、漢陽門の内側より右折し、石階を登りて進めば、樓宇半は廢滅、半は荒壊に委し、飛仙雲鶴は因より尋ぬべくもなく、唐宋名賢の詩賦、只能く人心を嚮往せしむるのみ。樓を下り江に沿ひて遡れば即ち紡績場にして、黒煙天を突き、一見其盛を知る。麻布局、織布局、操糸局あり。〔中略〕 
 銅錢局を出で、蛇山の麓一場の空地を過ぐれば、即ち農務学堂有り。張之洞請聘の本邦文武教官の舎宅數棟此に設けらる。構造は張の用意により、日本流を模擬せしものにして、屋壁等は悉く支那臭味を脱する能はざる所、日本障子を鎖せるは亦一興なりき。教官吉田〔※吉田永二郎〕氏を訪ふ。學堂は休業中にて之を見ずして止みぬ。只学堂の内幕を聞くに、支那官吏の横着なる、學堂の經費を中 し、甚しきは生徒を定額より減少し、其支給の官費を私するなど、言語に絶するの行を爲し、學堂の成績甚だ擧らずと云ふ。豈に驚かざる可けんや。兎に角武昌は張之洞の治下にて、教育は頗る盛なり。武備學堂、將辦學堂、農務學堂、師範學堂、兩湖書院、自強學堂等、其主なる者なり。武備學堂には獨逸教官を聘し、餘は本邦人を聘用す。農務學堂は今年七月第一回卒業生を出すと云ふ。

第二輯 詩 〔下は、その一部〕

     湖北閲操有感三首
 練武森嚴士馬精。堂堂豼虎擁蜺旌。邊塵不動海波肅。端賴神威草木兵。
 灝気天高牧馬肥。荊南喜見壯兵威。王師神武容民道。勿使鄰封脱範圍。
 連合難除秦勢惡。自強誰策九州同。山河寸土皆洪璧。偏在神兵守護中。
 
 上の写真と文・詩は、大正六年十月三十日再版 の『飲江三種』 飲江 山田勝治遺稿 江陵義塾 にあるもの。 
 なお、その 例言八則 によれば、文は「著者遊支の始め出身縣下の新聞に寄書せるものを輯錄」したもの、詩は「著者在支中に新聞又は雜誌等に登載した」ものであるという。

 ※吉田永二郎 

近代日中関係研究会 編集 日中問題重要関係資料集 第三巻 『近代日中関係史料 第Ⅱ集』 龍渓書舎 の 史料1 中国政府傭聘日本人人名表(一九〇三~一九一二)より其名がわかる。


「久米徳太郎発 小山秋作宛 書簡」 (1900.6)

2020年08月29日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

       

       消印:HANKOU  9  JUN  00 (漢口 1900年6月9日) I. J P.O.

  大日本東京参謀本部 
  大尉小山秋作殿  
        親展

  清國武昌  
   武備学堂
    久米徳太郎

〔蔵書目録注〕

 ・大原氏  大原武慶  
 ・趙總督  張之洞
 ・久米大尉 久米徳太郎 

 なお、『対支回顧録』『東亜先覚志士記伝』等に、久米徳太郎の伝がある。
 下の文は、『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列伝 の「〇久米徳太郎君(陸軍少將)」の一部である。

  〇久米徳太郎君(陸軍少將)

 然るに明治三十一年春、我參謀本部の宇都宮太郎大尉が武昌に往訪して世界の大勢上、日支忘仇親善の必要を力説強調するや、昨の排日の張本人は、忽ち掌を反す如く熱烈な親日論者に變じ、同年我將校下士を傭聘して武備学堂の教習に充て、從來獨逸式陸軍建設のため傭聘してあつた、獨逸將校フォックス中尉に對する待遇に比し遜色なき待遇を與へ、翌三十二年に至り新たに地を武昌蛇山南麓下の好位置に卜し、日本式住宅三棟を新築し、之に對する一切の設備調度は張總督の指圖に出で其の規模宏壯、毎棟相當の廣さを有し、費用銀一萬餘兩を要した。第一棟は先着の大原大尉、第二棟は工兵大尉平尾次郎、第三棟は、即ち君が二年有餘の假寓となつたのである。
 〔中略〕
三十三年一月參謀本部出仕に轉じ、此に淸國湖廣總督張之洞との招聘契約成立し、平尾工兵大尉、野村岩藏曹長、木下健太曹長等と共に上海に渡り、長江を溯つて武昌に到り、蛇山下の新屋に入つた。爾後同地武備學堂の教習を擔當し、日本式陸軍の基礎を築くに孜々勤勉、質實二つながら大いに成績を擧げた。從つて張總督以下、張彪、呉元愷等、軍界上層部の信賴を博し、黎元洪其他後年著聞した武官多數が聴講して君の薫陶を受けたのであつた。殊に張總督の親日態度が、一と度長江一帶を風靡するや、四川、安徽、江蘇、雲南、福建の各省亦爭うて日本武官を招聘し、又一面に於ては遣日留學生が一時の盛觀を呈した。君等の應聘と在任中の信用とが實にその前軀となつたものである。  
 三十五年三月應聘期間滿了し、近衞歩兵第三聯隊中隊長に補せられて歸朝し、〔中略〕四十四年十一月參謀本部附となり、同時に淸國に差遣された。
 當時恰も武漢に革命の烽火揚り、歸趨する所を知らざるの狀を呈したので、參謀本部は武漢に因縁深き君を派して革命黨との間を善處せしめたのであつた。四十五年三月歩兵中佐に任じ、近衛歩兵第四聯隊附となつて歸朝した。


「木野村政徳発 小山秋作宛 書簡」 (1902.1)

2020年08月28日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

   

   大日本東京参謀本部 
 陸軍歩兵大尉小山秋作殿  
          親展

                  消印:SHANGHAI  4  JAN  02   〔 上海 1902年1月4日 〕 I. J. P. O
  清國湖北省漢口  
    木野村政徳

〔蔵書目録注〕

 ・井戸川  井戸川辰三
 ・久米大尉 久米徳太郎 

 なお、『対支回顧録』に木野村政徳、久米徳太郎の、『東亜先覚志士紀伝』に木野村政徳の伝がある。
 下の文は、『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列伝 にある「〇木野村政徳君」の一部である。

  〇木野村政徳君

 君は明治十二年末、桂〔桂太郎〕中佐の發案に依る陸軍の淸國留學生十四名中の一人で、一生を軍部に奉職した名教授、名通譯官の名を博し、又日支の提携に盡した留学生團中出色の逸材であつた。文久元年二月十七日相州小田原城下に生る。
  〔中略〕
 三十一年四月非職を命ぜられた。是は大原武慶大尉が湖廣總督張之洞の聘に應じて武昌に赴任するに際し、君も亦通譯として薪銀百四十兩の約を以て招聘契約が成立したためである。斯くて武昌の武備学堂に在つて大原大尉の講述を資けると共に、其の日支親善工作にも参與し、平尾〔平尾次郎〕中尉以下四名の將下士の増聘を實現し、且つ駐在留學の神保〔神保濤次郎〕一等軍醫を極力推薦して張總督の衛生顧問たらしむる等、諸種提携の實を擧げた。在留三年。三十四年四月復職を命ぜられて東京に歸り士官学校附となつたが、再び一年の契約で在官の儘應聘して武昌に赴き、三十五年九月歸朝し、陸軍教授の奏任官に陞り、經理學校附兼勤を命ぜられた。


「死生説」 (大原武慶) (1891.4-5)

2019年12月26日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 日本國教 大道叢誌第三十四號 明治廿四年四月廿五日

   

 諸子 即百家門

 〇死生説 幷序跋
           社員 川合淸丸述 〔下は、その一部〕

 明治廿四年四月四日。我が特別員なる陸軍中尉大原武慶氏。下谷の西徳寺より葉書を余に寄せて。自影に題するの詩を示して曰く。「試看臨死動揺不。笑我顔邊帯幾些憂。捲魯籌違忠孝廢。空々二十七春秋。」と且其の端に書き付けて曰く。尚此上とも為国家。御自愛専一に奉存候。と頗る辞世の語気を帯ぶ。然れども余は氏に一面の識なければ。終に其の何の意たるを解せざりき。」其の翌日新聞紙上に報じて曰く。氏は憂国の情堪へ難き事ありて。昨日其の菩提寺なる下谷の西徳寺にて屠腹し。且喉 ふえ 掻き切りし處を人に見付けられて。早速帝国大学の第一醫院に送られたりと。此の報に由りて。始めて昨日の葉書は。其の割腹の時に裁したる告別の辞なりしことを了し。轉 うた た逢ひ見たき思ひを起せり。是に於て午後氏を大学の第一醫院に訪ふ。氏は寝台に仰臥したりしが。余が名刺を見て。手真似 まね にて看護婦に。椅子を其の面前に据ゑしめて余を請ず。余椅子に憑 よ りて氏を看れば。喉 のんど の疵口に管をさして。其處より呼吸をさせたり。氏はつくゞ余が面貌を見たりしが。又手真似にて筆研を取り寄せ。書して余に示し曰く。「生きては遣 や りそこなひ。死しては遣りそこなひ。天賦の馬鹿は致し方もなき者なり。夙に師の勇名を聞き。羨望の余一書を呈せしのみ。わざゝの御見舞。慙愧無此上候。」と而して微笑せり。余その字を見るに。筆勢俊健にして。毫も手の震 ふる ひし迹を見ず。余先づその膽力の壮なるに服せり。余も亦筆を把 と りて答辞を書かんとすれば。氏は指にて自己の耳を指して。耳の能く聞こゆることを示す。余乃ち顔を突き出して言て曰く。「君の体は朽つるとも。君の精神は決して朽つること無し。今は唯泰然自若として。命を天に任すべし。」と是時氏は微笑しながら。指頭にて息の漏るゝ疵口を抑へて。絲の如き声を出して曰く。泰然自若たることが出来ぬゆゑに。此の有様なり。慙愧々々と。余又言て曰く。時勢が迫るほど。心は寛 ゆる やかに持たざるべからず。余は近日芳野の花見に行きて。上方にて遊ぶ積りなりと云ひければ。氏は痛く悦べる体にて。満面に笑を呈せり。総て此の気息淹々の際に方りて。(声は出ねども)談笑少しも平生に異ならざるは。遉 さすが に軍人の膽魂 きもたましひ を具へて。余をして一層惋惜 ゑんせき の情を増さしめたり。」その翌々日(七日)再たび訪へば。血色大に恢復して。息は猶漏るれども。能く疵口を抑ふれば。直接に談話も出来るやうになりたり。余はこれを見て大に悦びければ。氏は額 ひたひ を顰 しば めて。その死そこなひしを悔ゆ。余是に於て説て曰く。死生は命あり。命数の未だ盡きざるものを。無理に死にたがるは迷ひなり。命数の既に盡きたるものを。無理に生きたがるも亦迷ひなり。迷ひは是れ妄想のみ。丈夫の耻づる所なり。余故に曰く。唯泰然自若として。命を天に任すべしと。乃ち辞世の詩の韻を次ぎて示して曰く。「冥途風景知不。一死莫欣還莫憂。行到水窮山盡處。飛花落月又春秋。」と氏欣然と口吟一過して。轉結の意を問ふ。是に於て談ずるに此の死生の説を以てすと云ふ。」

 日本國教 大道叢誌第三十五號 明治廿四年五月廿五日

     

 諸子 即百家門
 
 〇死生説 (承前)
           社員 川合清丸述 〔下は、その一部〕

 陸軍中尉大原武慶氏。創痍全く癒えて。此の頃我が大道社を訪問せらる。因て自刃の次第を聞くに。曰く。四月三日の夜。人目を忍びて祖先の墓所に至り。静かに情けを告げて。短刀を取り出だし。先づ腹を四寸許り掻き切りぬ。尤も腹は余りに深く切り込めば。喉 のんど を掻く時に。腕が弱るものぞと聞き及びしゆゑ。唯当りまへに切りしのみ。夫れより短刀を持ち易へて。喉の吮を右より左に刺し屠 はふ り。両手を突きて。暫く息の絶ゆるを待ち居たれども。別に苦痛の増さり行く様子も無きゆゑ。乃ち思へらく。是は天然の生を愛する情に引かれて。刀の切先が自然と前の方に扮 そ げしものなりと。是に於て再たび刀を取りて。今度は切先を少し後ろへ向け。力任せに突き刺して。左の手にて探り見れば。切先は慥に三寸許り貫 ぬ け出でたり。されば其の切先に左の手を持ち添へ。両手にて前の方へ押し遣れば。物の美事に切り払ひたり。依て又両手を突きて。息の絶ゆるを待ち居たれど。中々引切らず。其の中泉なして流るゝ血汐 ちしほ が。気管と食管とに流れ込みて。非情の苦痛を覚えしのみならず。頻に嘔吐を発したり。(思ふに此の嘔吐の声にて。人に見出されしものと覚ゆ)されどこれぞ謂はゆる断末魔の苦痛なると覚悟して。息の絶ゆるを待つほどに。ツイ正気を失ひしものと見ゆ。物騒がしき足音に。フト気付きて眼を開けば。巡査の角燈を見受けたり。是は仕損じたりと思ひて。短刀をさがしたれども。そこら一面血汐の波に埋没せられて。終に刀の所在を知らず。止むを得ず洋刀 サーヘル を取りて引抜かんとする間に。巡査に取り揚げられたり。今は為 せ んすべの無ければ。手にて気管も食管も掴み切りて死せばやと思ひ。右の手を傷口に突き込むや否や。又巡査に捻 ね じあげらる。(是の時気管に指の三本這 は 入りし事は。慥に覚えたり)依て據ろなく声をあげて。死なせて呉れよと頼む内に。警部と医師と来れり。是の時渇の甚しきに堪へかね。且水を飲めば死すといふ事も聞きしゆゑ。頻に水を請ひければ。医師は傷口を縫はせ給はゞ。水を参らせんと云ふ。すなはち其の意に任せて縫ひ畢りしゆゑ。水をしたヽか飲みしかども。終に死すること能はざりしと語る。」余此の話を聞きて。痛快限りなし。乃ち又問て曰く。君の自殺せんと思ひ付かれし所以はいかに。死して燈火 ともしび を吹き消す如く消ゆる積りなりしや。将た魂魄となりて一働きする積りなりしやと。氏笑て曰く。予が心持ちは。其の二種の迷ひにあらざりき。予曾て昔話しに申の年の申の月の申の日の申の刻に生れしものゝ生血は。妙薬とか気附けとかになると聞きしことあり。思ふに何れの年の生れにても。生血ならば。随分薬になりぬべし。今国家の大病は。耻と義理とを失ひたる是れなり。殊に我が軍隊の如きは全く耻と義理とを以て。組織せられたるものなるに。其れすら世の病気の押寄せ来らん恐れあり。されば是の時吾が活膽 いきぎも を引きずり出して。天下の人に舐 ねぶ らせなば。気附位の効能あらんと思ひ込みしが。うろたえ騒ぎし所以なり。世の人の多くは。自殺するものは。心が迫りてするやうに云ひなせども。予が死せしは。左ほど謹勅なる方にはあらで。生きて居る人よりは。却てズルキ方なりしかも知れず。と云ひて大笑せり。」余是に於て。心には氏の胸襟の磊落なるを壮とせしかども。左はあらぬ躰にて言て曰く。君は天下の人に。活膽を舐らする積りにても。天下の人が舐らざるを奈何 いかん せん。されは迚 とて も死するならば。舐りて呉るゝ人を満天下に拵らへ置て。而して後にこそ活膽を引き出すべけれ。一人や二人やにては。犬死も同様なり。請ふ今より思案をかへて。死するならば天下共に死し。生きるならば天下共に生きるの賑やかなる方に従はれよ。」左は云ふものゝ。君の膽力も亦驚くべし。昔長門の大内家の臣冷泉某が。国難に殉せし時。菩提寺にて。腹十文字に切り割き。臓腑を掴み出して。天井に投げ付けて殪 たふ れたり。今も天井に其の血痕を留めて。勇士が千載の美談とす。今子が膽力を之に比ぶるに。其くらゐの事は。決して為 し かねぬ所あり。他人は知らず。余は先づ君の活膽を舐りて。大に心膽を雄壮にしたりと云へは。氏もまた莞爾として笑ひぬ。因て書して以て跋とす。」       (完了)

 明治廿四年十二月二十七日合刷
 日本國教 大道叢誌 第四冊  〔第参拾壹號 明治廿四年一月廿五日 ~ 第四拾號 同年十月廿五日〕
 日本國教 大道社 
 発行人兼編輯人 川合淸丸 より

〔蔵書目録注〕

上の文は、後に 『対支回顧録』 東亜同文会編 下巻 列傳 の「大原武慶君 (陸軍歩兵中佐)」 で、

君が曩に中尉として屯田兵副官たる時、明治二十四年四月四日、その菩提所の東京下谷西徳寺に於て自殺を圖った事に就き、川合淸丸が『大同叢誌』に當時の情況を詳述した記事がある。茲に之を附載して以て君が爲人の一端を偲ぶ事にする。

として紹介されている。


『在清記念帖』(福建師範学堂教習兼高等学堂教習 小畑勇吉)(福州)(1909.12)

2018年10月01日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

        

 合同

 大淸國福建學務公所議長師範學堂監督與大日本國小畑勇吉氏合意訂立約款如左

 第一條 延請小畑君爲福建師範學堂教習兼高等學堂教習教授鑛物兼地質學及日語科
 第二條 小畑君以到閩第二日起算毎月給薪水食料費住宅費及與壹百捌拾元此外不給他項雜費
 第三條 小畑君初次由日赴閩及合約期滿由閩歸日川費各給龍銀壹百元
 第四條 學堂暑假冬假期内如歸国或旅行照常支給薪水但須照堂中所定假期内到堂如有遅延計日減扣薪水
 第五條 約期末満以前小畑君自行退辞學堂不給川費若學堂将小畑君辞退應送龍銀壹百元作爲川費彼此均須前一個月通知
 第六條 授課時刻及次序均由學堂指定但授課時刻毎週至少不得減二十四時至多不得逾三十時
 第七條 小畑君應遵循監督調度及學堂一切定章
 第八條 小畑君於所授功課有所擬議須向學堂監督商量可否由監督定之
 第九條 小畑君如因疾病及有本學堂認為不得已事故時告假一連三十日不計外此後如仍未能授課者應減束修之半唯従停課之日始三個月後仍未能授課此約作廃
 第十條 小畑君於兩學堂外未経監督承認不得就他聘
 第十一條 小畑君無論在堂内外毎日必按堂章所定時間上堂授課
 第十二條 此約以光緒三十四年正月一日起至光緒三十五年十二月末日止為満期
 第十三條 此合同各執一紙為憑彼此遵守不得異辞

 光緒三十三年十二月廿九日

 大淸國福建學務公所議長師範學堂監督陳宝琛 代理人 鍾麟祥 【印】
 大日本国            小畑勇吉         【印】

    添註壹字 

 在清記念帖
 
 記念帖は、24センチ、全長12メートル。
 見返しには、上の雇用契約書及び下の博物班全体学生の感謝の辞などが添付されている。
 内容は、教えを受けた
  許冠元、呉亮、李兆芬、黄紀雲、李士汝、王鳳陽、陳鴻翔、潘芯芬、徐友蓉、朱希文、
  鍾嶽、蔡國生、陳承煌、、朱振聲、江洪畴、陳駿基、李培青、施則行、呉鋭、陳輿忠
  許慶忠、陳紹
 等約五十名の博物班学生が、日本人教習の小畑勇吉氏の帰国に際して贈った詩・書・画などである。
 〔下の右三枚は、その一部。〕

     


「清国時代支那に傭聘せられたる我国教師が彼地に於て生徒の訓育に従事せる一例」 志水直彦 (1939.11)

2018年09月30日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 清国時代支那に傭聘せられたる我国教師が彼地に於て生徒の訓育に従事せる一例  

   志水直彦

 日清戦役後日支両国の間に善隣の好誼加はるに従ひ、彼の有名なる清朝の俊英張之洞は、変法自疆の国策を樹て、我国より文武練達の士を招聘して彼地青年の訓育を請ひ、以て其国将来の発展に資せんとしたのである。是実に明治三十年頃より其末期に至る迄の情勢であり、当時北京に、保定に、武昌に、成都に、長沙に、南京に、広東に、其他著名なる彼地の都市の武備学堂、師範学堂等に於ても一二名の邦人教習を招聘せない処は殆んど無い状態であった。殊に武昌は張中堂の湖広総督として永く任に在りー中支枢要の都会なる故、招聘者の数も頗る多く、余が彼地着任の年の秋即皇暦明治四十年十一月十五日、張之洞の後任者なる趙爾巽に依り西太后の萬寿節に際し、城外の一楼乙桟に招待を蒙りたる本邦在任の武官、鉄路技師、各学堂教習等の総数は約五十名であり、之に此席に連る資格の無い人を加ふれば百人にも及んだ事と思ふ。余は当時我国鉄道作業局在勤の一下級技術者なりしを、彼地に於武昌より広東に向ふ粤漢鉄道並漢口より四川に向ふ川漢鉄道の計画せられ、張之洞の招聘に依り赴任せられた故工学博士原口要氏の召呼に応じ、明治四十年十月九日武昌に着き、翌四十一年一月十一日場内の建築物甲桟に於て開校せる湖北鉄路学堂の機械工学科教習に任じ、爾来同四十三年九月末に及んだ者である。該学堂は前記鉄道の工事開始と共に多数の技術員事務員を要す可き故、原口博士の進言に依り開設せられたるものであって、湖北湖南両省の中学校畢業生(卒業生)を選抜の上入学せしめ、之を機械、土木業務の三科目に別って授業する者である。学堂は湖広総督趙爾巽を管轄すると共に、粤漢川漢鉄路総局を経て北京政府郵傅部の指令を受くるものである。学堂実際の業務は湖北省提学使(湖北省の文部大臣)黄紹其(後に逝去)監督の下に監督(校長)徐毓華監学(教務掛)徐国彬、傅廷春、庶務李国鏞等等の人々が之に当るは本邦と同一である。機械科の生徒は四十余名であり、余は多少の支那語は解せるも僅に奴僕を指役する川をなすに過ぎず、到底之を以て直に講義に当つるは及びも無い、予め日語にて認めたる教案を通訳に交附し、通訳は之を漢訳せる後学堂より武昌場内の御用判刻屋に命じて其版行と印刷とを行ひ、出来せば一々生徒に交附する者である。而して講義の際は余は日語にて記せる自分の教案に就き説明せば、通漢訳は印刷物に就き説明し、生徒は与えられたる印刷物を凝視し初めて会得するものである。従って生徒が満足に会得し得可き哉否は一に通訳の其人を得たる哉否に係るものであり、幸に余の通訳黄緩君は湖北省黄陂県に生れ東京の高等師範学校理科出身者であり、頗る篤学温厚の人物なりし故、余も生徒の益する所頗る大であった。又生徒より先生に対して質問の有る時は其儘之を通訳に告げ、通訳は日語にて之を生徒に答ふるものである。其方法は迂遠であり一回の応答に時間を要する多く(勿論生徒には日語の科目あるも日用応接の言語を学ぶに過ぎず)彼地の青年の本邦に渡来し予め日語に熟練したる後夫々専門の教育を受くるとは学科の進捗上著しく相違があり、唯渡日の出来ない彼地多数の青年の其地に於て嶄新なる学術を学ぶには外に方法が無いと思ふのである。試験の答案は毛筆にて唐紙上に漢文を以て認め差出す故、教習は此答案を審査するに足る丈の漢文の素養が必要である。文字の見事なるは流石文字の国であると思はしめる、又甞て鉄道車両の外輪に関する問題を提出したるに論語の文句を引見し「大車無輗、小車無軏(其何以行之哉」と答へた者がある。作図を要求する答案に於ては毛筆を以て鮮明に之を図し、機械製図の如き其綿密正確感ず可き者もある。然し教授の方法が所謂隔靴掻痒に原因するも多数の生徒は雲烟過眼にて時日を費すは日支の生徒共に同様である。但彼地中学の卒業生は慨して我国の同様卒業生よりも年長者であり、大体に於ては理解力の進み居る様に見える、依て彼等の国民性を充分に呑込みたる上気長く教育せば卒業後有用の材となり得可きは必然と思ふ。滑稽なるは試験の始め前である、甞て監学の一人傅廷春余の宅に来り(同人は暫時本邦に滞在せる事有る由)「志水サン直ニ試験ガ始リマスネー何処ノ辺カラ出マスカ」と、蓋学堂に依りては試験前公然と学堂当局より問題を聞きに来る向もあるとは呆れるの外はない。生徒のカンニングを行ふ方法の幼遅なるは笑ふ可く、余の初めて試験を行ひたる際、先んじて答案を提出したる生徒は盛に紙屑を丸めて残室者に擲ける、試に之を開けば答案の下書である。又当時は生徒の通学服は今日の如く洋服で無く、一般支那人の着用せる木綿製の長衣であり、教案を襞の下に隠するに頗便利であり、先生の眼を盗んで着物の縁を開かんとする者は皆怪しむ可く、近いて起立を命ずれば憂然として床上に落つのである。此の如き固疾の悪習は従来清人の教習は強て咎めなんだ様である。又奇習とす可きは甞て炎暑の際の試験に於て、試験中校丁が麺類を盛れる茶碗を教室に搬入して生徒に分配した事である。其際係員余にも一椀を勧め「暑イデスカラネー」と云ふ。蓋之は所謂点心であって当地の如き夏季炎暑の時の試験には学校より生徒に給する習慣である。案ずる往昔科挙の考査の行はれ、長時間乃至昼夜を徹し一室に蟄居して答案を記載せる時代の遺風でらうか。余在鄂の当時他省に往聘の邦人教習の内、些細なる不注意のため其職を空くし、不本意にも帰還したる人がある、其事実は或学堂に於て授業中教習は生徒が机に臥し眠れる者あるを発見し、黒板上に「朽木不可雕、宰予晝寝、是泰平之乎」と白書したのである、生徒挙って憤激して学堂当局に迫り、遂に其教習をして自ら辞せしめたのである。蓋生徒の行為の責む可きは責むるも、中国人としての面子に触れる様な言辞は堅く粛まねばならぬ。又余の担当せる機械に関する学科は、授業上掛図、模型、工作機械の実物並に工作器具等を必要とするも、唯必要なる物品の名称、員数並に大体の価格等を示して購求するに止め、決して日本商店在漢口何々洋行に於て販売の取次を行ふ等迄も進言してはならぬ、一旦此の如き言を吐かは、支那人の通有性として直に教習が賄賂を稼くための下心ありと僻想するのである。
 余の湖北鉄路学堂教習の任にある満二年有半、幸に学堂監督並に生徒の期待に背かず、多少の事績を鄂省青年教育のため残すを得、余す所三箇月にて第一回の卒業生を出す迄に到りたるに、四十三年九月末北京郵傅部よりの電命にて余の契約期限満了に付之を解聘し、後任機械科教習としては当時唐山の鉄道工場に従事せる元留日学生屈端鑾を以て之に当つとの事にて、講義の残部は之を刊行して学堂に残し同十月八日監督及通訳に送られ漢口の碼頭を発し帰朝したのである。翌明治四十四年武昌に於て第一回の革命勃発に際し、聞く所に拠れば余の親しく訓育せる生徒等は黎元洪総統(湖地鉄路学堂の開堂式に際し当時在鄂陸軍旅団長として参観せられたり)の下に参し、革命軍に於ける或は軍隊の輸送に、或は列車の運転に学びし所を多少実地に用ひたとの事である。(添附の写真は四十三年十月一日鉄路学堂に校庭に於ける記念撮影である)
 自来春風秋雨茲に三十年、国際情勢の窮り無き、昔時の親誼に背き皇国に反噬する国民政府を膺懲する聖師は、到る処燎原の火の如く、昭和十三年十月二十七日を以て武漢三鎮の攻略を視るに至ったのである。往時を追懐せば唯一場の夢幻泡沫に過ぎず、聊か三鎮攻略を祝せる時の蕪詩を録して感慨の一端を遣るのみである。
 皇軍遂略漢三鎮  勇烈堪難莫比偏
 憶昔曾遊任教学  何図後日煽兵塵
 善隣掖弱親周至  悖戻佯強義悉湮

 なお、上文掲載の写真には、次の説明が書かれている。〔読めるもののみ〕

 明治四十三年十月一日於清国武昌王府ロ甲桟内湖北鉄路学堂志水直彦帰朝記念
 前列右ヨリ四人目徐国彬 …不明… 屈端鑾(後任機械科教習)徐毓華(〔不明〕)

 上の文と写真は、昭和十四年十一月一日発行の『歴史学研究』 十一号 第九巻 第十号 に掲載されたものである。
 同号には、「歴史学関係 邦書支那訳目録」 佐藤三郎 もある。


「清国の夏」 吉野作造 (1909.8)

2013年10月05日 | 清国日本教習 天津、北京、武昌他

 

 支那時代(明治四十一年三月於天津) 

 明治三十九年一月 清国直隷総督ノ招聘ニ応シ天津ニ赴キ当初北洋督練処翻訳官トシテ法政私教師ヲ兼ネ四十年九月ヨリ北洋法政専門学堂教習ニ転ス

 上の吉野作造の写真とその説明及び略歴の一部は、『古川余影』(昭和八年発行)より。 

 清国の夏 
          吉野作造

 まる三年滞在して居たうち、最後の年は暑中休みで帰朝して居たから、ツマリ支那の夏は二度経験した訳である。而かも一度は主として満州奉天で、一度は専ら天津で。

 ・三十九年の夏

 は主として奉天で過した。六月十五日に天津を出発し十八日奉天に着し、九月七日奉天を発し九日再び天津に戻る。支那の此辺の夏は五月半ば過を以て始まり九月半ばを以て終るから、夏の盛り凡そ八十日間は満州の野に放浪したのである。予の始めて天津に着いたのは二月であるが、予の雇主袁克定君は、急に勅命に依て奉天に仕官する事となり、同月下旬満州に出発した。而して親爺の袁世凱氏は、何か此際予の奉天に隨従するを好まぬ事情ありと見へ、久しく天津に予を遊ばして置いた。五月下旬に至り親爺の許諾を得たものが急に奉天より来て呉れと云って来たのである。一寸茲に袁克定君のことを話しておく。

 ・袁克定

 は、時の直隷総督袁世凱氏の長子で、其嫡妻の独り子である。袁氏には子が多いが多くは妾腹である。其時克定君は数え年二十八才であったが、風采も性質も頗る御坊ッちゃんであった。号を苔といふ。総督附の日本語通訳金在業といふ朝鮮種の男がオンタイサンゝといふのが何の事か分らなかったが、後に克定君のことと分った。吾々は少爺 シャオエー と呼んで居る。若旦那の意である。此の少爺は、御自分で思ふ程偉くは無いが、親爺の威光で正四品を賜り、文官としては候補道台武官としては何とやらいふ日本の陸軍少将に相当する称号を貰って居る。制服を着て剣を握って撮った写真は、四ッ切大に引き伸ばして書斎の飾となって居る。予の赴任した頃は、別に現官を奏せず、親爺の下に読書三昧に耽って居た。彼れの読書好きなのはまた格別で、親爺が奨励など少しもせぬに拘らず、日本の新刊のあらゆる法政経済の書物を買ひ集めて勉強せんと心掛けて居る。是れ丈は誠に感心した。予の行く前は、直隷総督の招聘せる日本教習を引請して、日本語やら何や彼やを学んで居ったが、遂に専属の教習を雇って、かねて買ひ集めて居る日本の書籍を片ッ端から読破しやうとの決心から予を雇ふ事にしたのである。親爺の方はどうかと云ふに、少爺の勉強するのは余り好まぬらしい。ナゼといふに、少爺は元来蒲柳の質である。両三年前虎列拉に罹って九死に一生を得てよりは、殊に親爺の神経は過敏になり、勉強などしなくても身体さへ丈夫で居て呉れゝば宜いといふ考になったからである。曾って斯んな事があった。少爺日本に留学して勉強して見たくて堪らぬが、両親の許諾は之を得る見込みもない。そこで密に家を逃げ出し、三井洋行の周旋で日本船に乗り込み、遥かに海をこえて留学の素志を果さんとしたが、船に乗り込んだばかりで追手の捕まる所となったといふ事である。之も親爺が専属の家庭教師として僕を雇ふことに同意した つの原因であると後で聞いた。兎に角少爺は身体が弱いといふところから、両親の甘やかして育てた子である。袁世凱といふ人は元来が子供に甘い人なさうだ。であるから年既に二十八歳に至ると雖へども、支那人に珍らしい単純の人で、頭脳明晰と聡明好学といふことより取り柄のありさうに見えない人だ。袁世凱氏はその時年四十七だから、彼の二十八歳の頃は、李鴻章門下の麒麟児として嘱目されたものだ。明治十七年馬建忠と共に京城に我が竹添公使をイジめたのは二十五歳の時である。勿論親爺は多少早熟と云はゞ云へるけれども息子さんの方は晩成した所が親爺程には行かぬらしい僕の行く一年前には、時の山東巡撫楊士驤が、袁克定を引き立てる積りで(ツマリ袁世凱に対する一の御奉公たが)自分の幕賓として高禄を以て迎へたが、二ヶ月ばかりで飛び出して来た。奉天に行ったのも同じ理由であって、ツマリ時の奉天将軍張爾巽が、馬賊の討伐の為め袁世凱より直隷陸軍の兵隊を借りて居たが、一ツには之等の兵隊を操縦する便宜上、一つには袁に対する御奉公の積りで、克定君を迎へたのである克定君は奉天で将軍の幕賓たる待遇を受け、営務処総弁といふ栄職に坐して居た。
 少爺は奉天でも永続きはしなかった。汽車の便があったものだから、二ヶ月に一度位は必ず天津に帰り、二十日位滞在して暫く家族の間に旅情を慰めて居ったが、遂に堪え切れずして、些末の事に腹を立て八月中旬辞職して天津に帰った。従って予も奉天には留まること三ヶ月に足らずして再び天津に帰ることになったのである。
 併し先きに奉天から召命を受けた時は、斯んなに早く帰るとは思はなかった。多分奉天に居るうちに約束の期限も来て、其儘帰る事になるかも知れぬと思ったから、一度親爺に会って置きたいと思って金在業といふ男を頼んで面会を乞ふた。一寸横道だが、

 ・金在業

 のことを話して置く。此男は袁世凱氏の日本語通訳にて元は朝鮮人である。日本語の巧なることは驚くべきもので、誰でも始めて遇った者は日本人の支那装して居るものとしか思はない。此男の云ふ所によると、自分は朝鮮釜山の者で、両親は自分の生れぬ前から日本に商業をして居った。無論自分は日本にて生れた者である七歳の時横浜にて親父に死なれ、其後十九歳の歳まで長崎の高橋某氏に養はれ、其間辛さに艱難を嘗めた。十九の年から天津北京の地方に来て支那語を勉強した。今日は袁閣下の御引立に依って支那に帰化し、日韓両国語の通訳を勤めて居るが、元とゝ自分は日本に生れ日本人に養はれ、云はば日本に対して大恩を受けて居る者であるから、自分は幸ひ通訳の職に在るを利用して大に日本人諸君の便利を謀り、以て昔日の恩に酬ゆる積であるなどと云って居た。実際予に対しても頗るつとめて呉れた。之は慥かでは無いが、袁家の或る支那人の言に依ると、彼は袁世凱氏が朝鮮公使在任中手に入れた第三の寵妾金氏の兄ださうな。様子を見るとどうも本当らしい。
 話が後に戻る。かねゝ頼んで置いた

 ・袁世凱に面謁

の願望は愈六月一日御許が出た。一体袁世凱に遇ふといふことは容易の事ではない。予は到る処で、「支那人は直接遇つて見ると非常に愛嬌があるが、相見ぬ中は馬鹿に尊大に勿体ぶる」といふ事を云ふが、特に総督ともなると勿体ぶること王侯も啻(ただ)ならずである。予の如きは愛児の教師であるから、向ふから訪問して来なくても、不取敢僕を丁重に招いて宜しく頼む位の一言あるべきことゝ思ふのであるが、彼は中々勿体ぶつて之れ迄数度会見を申し込んだけれども、成功しなかつた。会見を申込んで其承諾を待つといふ様な対等の言葉では、勿体ぶる有様を形容することが出来ぬ。寧ろ拝謁を懇請して、御〔許〕しの御沙汰を待ちはべるとでも云つた方が適当であらう。

  袁氏に面のあたり遇つたのは此日が始めだけれど、同氏を見た事は度々ある。それは同氏が外国領事館を訪問するというやうな場合に、往来で馬車の窓から顔をのぞいたのである。此際の行列も一寸主上の御通りといふべき位の仰々しさである。先づ出門三十分前に号砲三発を以て合図し、此れに依りて巡会は通行を止めて往来を警戒し、やがて後先に一小隊位の騎馬の護衛兵と、同じく騎馬の供奉員数十名を従ひて静々と乗り出すのである。この際彼の性格を現はす一つの面白い事がある。彼は往き道には必ず往来の左側の民家に目を注ぎ、決して右側を見ない。返り道には又必ず反対の側に目を注ぐ。之を彼が民情に通せんと欲する心の切なるを示すものと半可通の支那人は馬鹿に感心して居るけれども、予等より見ればこは彼の細心と小策とを遺憾なく発揮せるものと思ふ。

  六月一日は来た。丁度珍しく涼しい日であつたから、夏物のズボンに冬物のフロツクコートを着けて、午後二時といふ約束の時間に遅れじと総督衛門に車を走らした。刺を通じて先ず金在業を呼んで貰ひ、応接間に五分間ばかり待つてゐると、金君が来て総督は直に御目に掛るさうだ此方へと誘ふ儘に猶奥の方へ行つた。途中に雑役雲の如く群がり居て一々起立最敬礼をあびせらるゝにはチト面喰つた。約一町ばかり廊下を伝つて行くと、とある左側の戸口の処には粗末な綿服を着けた小作りの老翁が、余を予を見るや嫣然として握手を求むる。見れば写真通り又かねゝチラと見ておいた通の総督であることは、金通訳の紹介あるまでも無く知られた。之れ迄の勿体ぶつたに似ず、遇つて見てニコゝ握手を求むるといふ軽快な態度にはまた面喰つた。招ぜられて部屋に入る。見るに真中に三尺に五尺位の卓子があり、其廻りに粗末な椅子が五六脚ある。隅の方にも机と椅子とありて書類が堆(うずたか)く積んである。凡て洋風であるが、其粗末なには驚いた。部屋は約二十畳位であるが、装備は何も無い。何よりも驚いたのは袁氏の垢じみた綿服をだらし無く着てゐる事である。之も後で分つた事であるが、支那人は一般に人の目のつく処は馬鹿に贅沢たけれど、人の目につかぬところは非常に倹約である。衣食住ともに、客の前とは雲泥の差である。袁氏は机の正面に腰を下ろし、予は其右手に、金通訳は子に対ひ合つて座つた。一と通り時候の挨拶が済んでから、袁氏は、息子は身体が弱いから余り過度の勉強せぬ様注意して呉れ。奉天は気候も違うし且戦後日浅く色々複雑な処だから、身体もどうだらう、仕事も旨くやれるか心配で堪らぬ、などの話があつた。夫から日本の気候はどうの、渡清するときは 難儀したらうの、妻君や子供衆は御機嫌がいゝかの、天津に来て病気せぬかの、何か不自由は感ぜぬかのと、のべつに喋り立て、約三十分間は予に一言も吐かせぬ。やがて袁氏は茶を啜り、予にも呑めといふ。予も呑んだ。スルト金通訳は、御用談も済んだから御暇しませうとて起つた余も已むなく起つた。袁氏は戸を明け、内門まで送り出し、二三度手を握り交して分れた。之も後で知つた事だが、貴人と会談して、主人が茶を呑めば客は必ず同じく茶を呑んで辞し帰るべきものださうだ。若し主人が客の帰ることを求むるの に非ずして茶を呑むときは、「御随意に御喫がり下さい」と屹度云ふものなさうだ。否らずしてイキナリ茶碗に手を掛くるは、辞帰を求むるの合図であるとの事である。シテ見ると袁氏と予との会見も、約三十分間一言も吐かざれずして、体よく追ひ返された訳になるので、考へて見ると馬鹿らしいが、併し其当時は、話し振りの如何にも打ち解けた、且愛嬌滴るばかりの容貌にて親切なる言葉を向けらるゝので、特に手を握るにも如何にも親情を込めたるらしき念入りの堅い握り様で、予は慕はしいやうの感情を持つて分れた。少くとも決し悪い感情は蕗ほども起こさなかつた。今から回想すればツマリ首尾能く翻弄されたのだが、併し応対振の巧妙を極むることは感服に堪らない。アレデは外交官も余程シツカリせぬとやられる哩と思はざるを得ない。

  袁世凱氏の容貌は能く雑誌の口絵などて見るが、ソックリ其儘だ。写真で見ると眼は鋭いが、実物は夫れ程で無い、光沢があつて一種の引力がある。色濃く頬豊に、鬚は半面以上だ。頭も余程禿げかゝり、僅に垂れたる辮髪も霜を帯ぶること深い。五十前の人とは思はれぬやうだ。心配の多い為めであつたらう。身の丈はヤット五尺位で、小肥りに肥つては居るが、脂肪質で、根は頗る弱かりさうに見えた。

  夫から愈(いよいよ)奉天行の準備に取りかゝり北京にも一両日見物に行き、六月十五日愈々半年の知己たる天津に惜しき別れを告げた。此項は頗る暑く、夏の真盛りであつた。一体

  ・北清の夏
  ・奉天に着いた
  ・初めての家住ひ
  ・馬賊襲来の噂

 上の文「清国の夏 吉野作造」は、明治四十二年 〔一九〇九年〕 八月発行の『新人』 第拾巻 第八号 に掲載されたもので、その中に、明治三十九年 〔一九〇六年〕 六月一日、吉野作造と袁世凱〔直隷総督兼北洋大臣〕との面謁の記述がある。

  

  上左の写真:『THE CHINESE REVOLUTION』 1912年 掲載のもので、著者J.BROWN が袁世凱より贈られたもの 1909年
  上右の写真:「中華民国大総統袁世凱閣下 Mr. Yuan shih-kai, The president of China.」とある絵葉書のもの〔臨時大総統時〕 

 なお、袁世凱の墓、「袁公林」(袁林:安陽市博物館)は、旧河南彰徳上村東北隅の太平庄〔現在の河南省安陽市(殷墟で有名)北郊郷安陽橋北:洹水北岸〕にある(「袁林与袁世凱」安陽市博物館)。実際、墓は立派なもので、皇帝の墓にふさわしい。牌楼門から、陵道には文官や武官・石獅や石虎、さらに碑亭には「大総統袁公世凱之墓」とある墓碑などもある。以前読んだ雑誌には、墓の詳しい説明があり、中国式とドイツ式が半々との説明があったように記憶する。〔下がその墓、以前撮影したもの〕