寅年の名流(三)
東京音楽学校教授神戸絢子 〔神戸絢〕 の君。独逸 〔実は、仏蘭西〕 仕込みのピアニストとして有名な方ですが、教場以外の楽壇にお出でになつた事はありません。明治十一年のご誕生で、今年は三十七歳、四まはり目の当り年です。
上の写真と説明は、大正三年 〔一九一四年〕 一月一日発行の『淑女画報』第三巻第一号の口絵に掲載されたものである。
頼母木駒子女史 神戸絢子女史 大音楽会出演ノ為 梅田駅到着ノ光景
絵葉書:大阪市東区博労町四丁目 中央写真館撮影 三木楽器店印行、大阪開成館
写真は、左が頼母木駒子、右が神戸絢子である。
なお、ヴァイオリンの頼母木駒子については、田辺尚雄が、東京音楽学校ヴァイオリン選科でその教えを受けた思い出などを記している(『明治音楽物語』〔藤村操や久野久子の思い出なども記している〕また『田辺尚雄自叙伝:明治篇』など、明治三十九年七月撮影の先生や友人らと一緒の写真もある)。
仏国より帰朝せし閨秀音楽家の実歴
東京音楽学校助教授 神戸絢子
東京音楽学校助教授神戸絢子女史(三十二)は、一昨年 〔明治四十年:一九〇七年〕 の三月、文部省から選まれたフランスのパリに渡り、専らピアノを研究されて、六月十七日めでたく帰朝されました。一日 いちじつ 記者はパリ留学中のお話を承 うけたまは はらうと思つて、東京神田駿河台鈴木町のお宅へ伺ひました。まだ木の香の失せない新しい御門、それに続いて青葉若葉のすがすがしい植込。案内を請ふと、間もなくお二階の広間に通されました。
やがて優しい衣ずれの音と共に、薄い緑色の洋装をされた女史は、しとやかに出ていらつしやいました。
『ようこそおいで下さいました。お待たせ申して失礼いたしました。』
と、つつましやかに御挨拶をあそばしました。御縹緻 ごきりやう のお美しいのに、自らなる愛嬌。わざとらしからぬ温情は頬 ほほ に眼に口にあらはれてをります。真の天才は、あらゆる瑣事にまで流露するものであると聞きましたが、女史の如きは、まつたくそれであらうと思ひました。次に掲げますのは即ち女史のお話でございます。
『毎日音楽会が二つ三つある』
申すまでもなく、パリは音楽が非常に発達してをりまして、下流社会の人でも音楽を解しない人はないくらゐでございます。日本で申しましたら、丁度琴三味線をといふ具合に普通の家庭でピアノの一台ぐらゐの備へない家 うち はございません。単に室内の装飾品としても、なければならぬもののやうになつてをります。どんな日でも音楽会の二つ三つない日はございません。男も女も、年をとつた人も、若い人も、皆それぞれ番附を見て、好きなところへ聴きにまゐります。音楽趣味の普及してゐることは、実に驚きますほどで、パリ人で音楽を聴く耳を持つてゐない人は一人もないと申してよいくらゐでございます。
『厳重極まる官立音楽学校』
私のまゐりましたのは、フランスでも有名な巴里官立音楽学校でございます。パリは音楽の盛んなところだけに、私立の音楽学校は数へ切れないほど沢山ございます。けれども私立学校は容易 たやす く入学ができるだけに、生徒の学力もまちまちでございますが、この官立音楽学校は学制が非常に厳重で、毎年幾百人といふ多数の応募者の中 うち から、七十人か八十人かの秀才を選抜して、入学させるのでございます。入学年齢は十八歳までで、二十二歳まで在学することが出来ます。このやうに厳重でございますから、この学校に入学出来たといふだけでも、もう立派な音楽家というてよいので、非常な名誉としてあります。男の生徒も随分多うございます。
私はパリに着きますと直<す>ぐ、その音楽学校の傍聴生となつて、校長のホーレーさんに就いて親しく研究しましたが、その傍ら、ホーレーさんの紹介で、有名なヒリツプ先生にも学びました。
パリの市中にをりましては、人家は稠密でございますし、それにいろいろな事情が起つて来て、一日音楽を聴いていることができませんから、私は町はづれの或る寄宿舎の一室を借りて、出来るだけ音楽に親しんでをりました。
『流行嫌ひなパリ音楽生気質』
一級の生徒は十人か十二人で、家庭から通つてゐる人が多いやうでございます。学校の授業時間は一週間に三度で、大抵二時間づつ教授を受けます。先生では、校長のホーレーさん、その他、リエーメン、レスリー、ヒリツプなどといふ方が最も有名でございます。
音楽学校の生徒は、一般に極く質素でございます。尤 もつと も中には、流行を追うてゐる人がないでもありませんが、十人のうち九人までは、衣裳でも持物でも、流行を追ふやうなことはないやうです。何しろ流行の中心といはれるパリのことでございますから、流行を追ふとなれば制限がありませんからでもあらうと存じます。
パリの処女は一体に快活で、家庭も何となく晴れやかなやうに感じます。厳格な家もあり放任主義の家もありますが、総じて自由といふことを尊 たつと んでをりますから、皆ある程度までは解放されてゐるやうでございます。
『聴衆の熱心は驚くの外なし』
音楽会は、稀に劇場で開くこともございますが、到る処に音楽堂がございますから、大抵の演奏は音楽堂で開きます。演奏は皆専門的で、ピアノの時はピアノばかり、合奏の時は合奏ばかりといふ風で、一人で数時間づつ演奏をつづけるのが例です。少し有名な人の演奏でもありますと、皆競つて来会する熱心は、実に驚くの外はございません。
音楽会の一番多いのは十一月頃から翌年の三月頃までで、暑中になりますと、有名な音楽家は大抵避暑にまゐりますから、随つて盛んでありません。入場料はなかなか高価ですから、来会者の多くは中流以上の人ですが、中には下流の人も見受けます。
音楽堂で一番大きいのはエラール音楽堂です。これはピアノやハルプを販売する有名なエラールといふ楽器屋で建てたものでございます。
私は今年 〔明治四十二年:一九〇九年〕 の三月パリを去つて独逸の伯林にまゐりました。そして著名な音楽家を訪ひ、または音楽会などにまゐりまして、五月九日、マルセーユ出帆のツーラヌ号に搭乗して、無事に帰国いたしました。
洋楽と家庭
ピヤノと床の間
私の居ました仏蘭西は流石芸術の国と呼ばれる丈御座いまして、彼地 あちら の家庭には中々能く音楽趣味が普及して居ります、大抵な家庭には必ずピヤノが一台御座います誰も弾く人が無くても必ずあります、是はピヤノを以て客間の装飾と迄考へて居るからで、日本なら床の間がないと可笑しく思はれる様に、ピヤノは是非客間に無くてならぬ物となつて居ます、彼地の風と致しまして客の訪問は午後で、お客を招きまするは多く晩餐で御座いますが、其後では必ず奥様とか令嬢とかゞピヤノを弾いてお客を楽しませます、又普通の日でも主人が会社なり店なりから疲れて帰つて参りますと、主婦は晩食を勧めた後で自らピヤノ台を開いて一曲面白く弾じて所夫 をつと の一日の疲労を休めます
音楽の解る耳
何も私の専門がピヤノであるからピヤノでなければならぬ様に申すではありませんが、凡て音楽の原 もと はピヤノでヴアイオリンなども結構で御座いますが、先づ最初にピヤノのお稽古を少しなさいまして、夫 それ からでないとヴアイオリンも上手には参りません、又ヴアイオリンはピヤノの伴奏がないと奏 ひ かれぬ位のものです、西洋では先づピヤノが家庭にも学校等にも全盛を極めて居ると申しても宜しいので、日本では小学校にはオルガンが必ず御座いますが、彼地ではオルガンはお寺にしか御座いません、勿論彼地と日本とは富の状態が大層違ひますから、四百円五百円、少し良いのになりますと千円以上もするピヤノの日本の家庭に入れることは困難の事情も御座いませうし、他の事物との釣合も取れますまいが、私の希望としては夫々の家庭に相応な琴もオルガンでも何でもよろしうございますから、日本の家庭に音楽趣味を普及して、大人や子供も音楽を聞いて楽 たのし む耳を持つ様になりたいと思ひます
稽古に良い年齢
これは私一人の考へかも知れませんが昨今日本の音楽、琴とか三味線とか申す方は洋楽に次第に地盤を蚕食されて居ると思ひます、成程三味線は下町の家庭に深く根ざして居り琴は官吏や純日本的家庭に大層勢力を有して居ますが学校で洋楽を稽古なさるものですから、卒業後も洋楽に趣味をお持ちになる方が次第に増えて参ります殊に上流の家庭にはピアノが今非常なる勢力をもつて居ます、上流の奥様で随分おやりの方もありますけれども、何かと御用がおありなさるもんですから私は止めますから今度は嬢に稽古して下さいなど仰しやいますピヤノのお稽古によい年齢 としごろ はと申しますと、九歳か十歳からですが日本では多く十一二歳からです、夫 それ 以上になりますと指が堅くなつて上達は中々の骨です
音楽よりも芝居
私は此の間フイハーモニーの会で帝国劇場でピヤノを弾きましたが、彼処 あそこ は劇場としては立派ですが、音の響きは建築のよくない為か大層悪う御座います、私のが出来が悪かつたのかとロイテルさんの後ろで聞きましたが、矢張り響きがいけませなんだ、先づ日本で音楽に最も適したのは上野、音楽学校の講堂でせう、彼処は日本一と云はれる三千円のピヤノもあります、音楽学校では毎週音楽会を催しまして、土曜には無料日曜には二円取りますが土曜の日には夫はゝ沢山の人で廊下に迄一杯と云う有様ですが、日曜には只西洋人許りと云うてもよい位です、日本人は未だ音楽の趣味が乏しいもんですから二円出す位なら芝居の方が面白いと大抵な方は仰しやつて来 いら しやいません(神戸絢子)
上の文「洋楽と家庭」は、大正元年 〔一九一二年〕 十二月一日発行の『淑女画報』 第一巻第九号 に掲載されたものである。
なお、東京朝日新聞 大正八年三月十三日(五)面 には、「神戸女史の光栄」良子女王御教育係としてピアノ御教授 という記事がある。
表紙には、「東京音楽学校 創立五十年記念 昭和四年十一月」とある。奥付には、「昭和四年 〔一九二九年〕十一月十五日印刷 昭和四年十一月廿八日発行 (非売品) 編輯兼発行者 東京音楽学校」などとある。19センチ、本文44頁。
目次
・写真の部
行啓記念写真
一、昭和三年十二月十二日
皇后陛下本校行奉迎門御通過
ニ、明治三十二年四月二十一日
皇后陛下本校行啓御座
三、大正五年十一月十六日
皇后陛下本校行啓御座
歴代校長写真
一、伊澤初代校長及其筆頭
一、前校長及現校長
其他の写真
一、音楽取調掛建物
一、音楽取調掛建物内奏楽堂及備付管絃楽器
一、音楽取調掛最初の関係者(メーソン教師外数氏)
一、メーソン教師及同師に就て伝習せる東京女子師範学校生徒
一、新築当時の本校々舎
一、旧分教場玄関及同声会員の一部
一、現在の本校々舎及職員生徒
一、現在の分教場
一、本校奏学堂に於ける本校管絃楽及合唱(ユンケル教師指揮の時代)
一、本校奏楽堂に於ける本校管絃楽及合唱(クローン教師指揮の時代)
一、昭和三年十二月十二日大礼奉祝演奏会予習(能楽及長唄)
一、同上(洋楽)
一、明治十八年以後の卒業生写真
・沿革大要及名簿
一、東京音楽学校沿革大要
一、現在職員名簿
一、旧職員名簿
一、卒業生及修了生名簿
・演奏曲目
一、皇后陛下行啓の際謹奏したる曲目
(一)明治三十二年四月二十一日
一、合唱 卒業生及生徒
惶き御影 モツアルト作曲 中村秋香作歌
一、ヴァイオリン二部合奏 教授 幸田延 研究生 幸田幸
ドッペルコンツェルト バッハ作曲
一、ピアノ独奏 助教授 橘糸重
ソナータ(パテティーク) ベートーヴェン作曲
一、ヴァイオリン、筝合奏 生徒
雪の朝 八ツ橋検校調
一、独唱 教授 幸田延
甲、船出 フランツ作曲 佐々木信綱作歌
乙、デル、ノイギーリゲ シューベルト作曲
一、ヴァイオリン合奏 卒業生及生徒
甲、アンダンテ グルック作曲
乙、ルール バッハ作曲
一、筝 生徒
都の春 山勢松韻作曲 鍋島侯爵作歌
一、ヴァイオリン、ピアノ合奏 アウグスト、ユンケル フォン、ケーベル
ソナータ ルービンシタイン作曲
一、合唱(管絃合奏) 職員卒業生及生徒
国の光 メンデルスゾーン作曲 黒川眞作歌
(二)明治三十四年六月四日
(三)明治三十五年五月六日
(四)大正五年十一月十六日
(五)昭和三年十二月十二日
写真の部には、「明治十八年以後の卒業生写真」がある。すなわち、「明治十八年七月卒業生」から「昭和四年三月卒業生」まで教職員とともに撮った47枚である。下は、その一枚である。
明治三十九年七月卒業生
東京音楽学校沿革大要〔一頁~十頁〕は、「本校は明治十二年十月文部省内に音楽取調掛を設置された時に始まつたもので、此の掛の創設に就ては当時東京師範学校長たりし伊澤修二氏が主として尽力せられたのである。」という文で始まる。
名簿は、「現在職員」〔十一頁~十六頁:本校ニ就任年月、官職名、氏名、備考〕・「旧職員」」〔十七頁~二十八頁:任免年月、摘要、職、氏名、備考〕・「卒業生及修了生」〔二十九頁~四十一頁〕である。
表紙には、「昭和九年四月二十一日 行啓記念写真帖 東京音楽学校」とある。横内写真館。15.6センチ。
・凡例
皇后陛下に於かせられては去る四月二十一日本校に行啓遊ばされ奏楽堂に於て照宮成子内親王殿下を始め御八方の宮様と陪聴の栄誉を担へる四百の臣子と御共々親しく本校の演奏を聴召された。
願ふに本校は創立以来斯くの如き行啓の光栄に浴すること実に七回に及んで居るが、これ偏に音楽並に教育御奨励の深き思召に依るものと拝察され洵に恐懼感激に堪えない。
而してこれは独り本校のみならず広く我楽界、教育界の光栄とする処と言はなくてはならぬ。仍つて茲に我等はこの光栄を永く記念せんが為に、行啓記念写真帖を謹製した次第である。
昭和九年五月 東京音楽学校
・御前演奏曲目
・陛下
・奉迎門、門内に奉迎の海軍々楽隊
・照宮殿下の御着
・着御
・着御
・台臨の皇族殿下 2枚
・着御を待ち奉る齋藤文相と乗杉校長、職員の奉迎
・御座所、便殿、照宮様の御休憩室
・能楽 小鍛冶、能楽 小鍛冶
・長唄 神田祭、筝曲 奉祝歌
・ヴアイオリンの演奏、パイプオルガン独奏
・三つのピアノと絃楽合奏、児童楽団と合唱団の斉唱
・奉祝歌の演奏
・還啓、還啓
・皇族方の御車、光栄の陪聴者
・職員生徒の萬歳
・萬歳三唱後 生徒達の退散
・皇太子殿下御誕生奉祝演奏会 台臨の各皇族殿下(三月十七日)、皇太子殿下御誕生奉祝演奏会 カイザーマーチの演奏(三月十七日)
絵葉書の袋には、「妙なるかなで」とあり、「六枚壹組 定価 金拾五銭」とある。
・東京音楽学校 Tokyo Academy of Music.
・ユンケル教授ト鈴木ヴァイオリン Prof. Augusut Junker and Suzuki Violin.
・ウエルクマイステル教授ト鈴木セロ Prof. Heinrich Werkmeister and Suzuki Celo.
・ロイテル敎授ト山葉ヲルガン Prof. Rudolph Reuter and Yamaha Organ.
・ロイテル教授ト山葉ピアノ Prof. Rudolph Reuter and Yamaha Piano.
・ペッツオールド夫人ト山葉ピアノ Mrs. Hanka Petzold and Yamaha piano.
また、下の絵葉書は、「大音楽会記念 三木楽器店」とあり、明治四十三年 〔一九一〇年〕 七月十一日の日付印がある。
アウグスト・ユンケル〔August Junker〕、ハインリヒ・ヴェルクマイスター〔Heinrich Werkmeister〕、安藤幸子、幸田延子と思われる。
なお、下の絵葉書2枚は、大正初期の絵葉書と思われる。
・クローン 〔Gustav Kron〕 氏鈴木ヴァイオリン演奏之図 於東京音楽学校奏楽堂
・ショルツ 〔Paul Scholz〕 氏山葉ピアノ弾奏之図 於東京音楽学校奏楽堂
表紙には、「婦人画報 増刊 現代名流婦人 〔明治〕四十四年 〔一九一一年〕 一月十日発行」、また「THE LADYS GRAPHIC NO.51. JANUARY 10TH. 1911」とあり、奥付には「発行所 東京社」とある。26センチ、96頁。
口絵の音楽関係には、次の6人の写真がある〔1頁に2人掲載〕。
・幸田延子女史と柴田環女史 ・安藤幸子女史と神戸絢子女史 ・頼母木こま女史と橘糸重女史
西洋音楽関係の記事には、次のようなものがある。
音楽界の婦人
一 音楽に乏しい家庭の空気 幸田延子
指折り数ふれば早や二十余年
経 た つて見ると造作も無いやうなものゝ、指折り数へて見ますと、早 は や二十何年と云ふ昔、今の女子高等師範学校が東京師範学校と云ふ名義になつて居りました時分、其 その 附属学校へ私は通学致して居りました。当時、音楽を受持つて居られた先生はメーソンさんで、私も此の先生について唱歌を習つたことを記憶して居ります。
その頃また本郷森川町、只今の高等学校の前に、音楽取調掛と云ふものが出来て居りまして、メーソンさんは此処に住んで居られました。この音楽取調掛が後日 のち に音楽取調所と云ふ名義になりました。今日上野に在る東京音楽学校は、この音楽取調所からだんゝと変遷して来たもので御座います。
たゞ何とはなしにヴアイオリンを……
長く女子師範学校の校長として居られまして、昨年物故されました高嶺秀夫先生の御夫人がが、このメーソン先生の一番弟子で在 あ らつしやいましたが、昨年お亡くなりになりました。この奥さんは其の頃には未だ中村さんと仰有 おつしや いまして、私が音楽の手ほどきをして戴 いただ いたのは、この中村さんからで御座いました。
メーソンさんや中村さんに種々 いろいろ 願つて居りまするうち、唯だ何と云ふ気もなしに、私は音楽学校に這入 はい ることになりました。これは私が十五歳の砌 みぎり で、明治十三年のことゝ覚えて居ります。
その頃の音楽学校には、今日のやうに外国から参られた教師がたはお一人も居られませんで、私がピアノの教授を受けましたのは、瓜生男爵夫人からで御座いました。
今日はヴアイオリン専門になりましたが、その時分には、ヴアイオリン専門にならうなぞとは、夢にも思ひませんでした。また、その頃、音楽学校には、今日のやうに大勢の生徒が有ると云ふ譯 わけ ではなく、至つて少数の人で御座いまして、皆さん方大概はピアノばかりを習つて居られました。また、私もピアノを学び通さうかと云ふやうにも思つて居りましたのでした。それが、私ばかり、他の人のしないヴアイオリンを学ばされるやうになりましたから、何ですか、他の人々 かたゞ よりも、余計に課税されたやうに思はれまして、何と無く可厭(いや)に思はれましたのは、今日から考へますと、実に不思議なほどで御座います。先づ斯ういふ次第で、ヴアイオリンをはじめましたのですから、最初から何ういふ考へが在つての、何 ど うのと云ふ次第では無かつたので御座います。他人 ひと から学 やつ て見よと申され、その云はれたまゝに学んだと云ふに過ぎないので御座います。
ヴヰエナ〔ウィーン〕の三年
学校の名義が音楽取調所であつた頃にも、卒業された方もあつたでしやうが、東京音楽学校と云ふ名義になりましてからは、私が一番初めの卒業生であつたものと見へまして、卒業證書は第一號となつて居ります。爾来 それからのち だんゝと大勢 たいぜい の方が卒業されましたのですから、今日の卒業證書は何百號と云ふやうな番号になつて居ることゝ思ひます。ヂツトリツヒさんが、音楽学校へ見えられるやうになりましたのは、私の卒業する少し以前 まへ のことで御座いました。ですから、私はヂツトリツヒさんに就いて学んだのでは御座いませんのです。
学校を卒業後、私は更にヴヰエナで学ぶことになりまして彼國 あちら へ出向きました。その頃、音楽学校の外国語は英語ばかりでしたから、彼地へ参るにつきまして独逸語を学んだので御座いました。彼地へ参りますと、何事も当時 そのころ は驚くことばかりで、それに御存知のやうに有名な大家 かたがゞ が居られましたから、留学中の三年間は耳と手との働き、練習に唯だゝ一三昧 いつさんまい になつて居りましたやうな次第でした。申 まを さばヴヰエナの三ケ年間は夢のやうに過ぎたとでも申しませうか、眞 ほん に彼地で音楽の十分発達致して居りますことは、羨しいことで御座います。これは、先頃二度目で欧洲 あちら へ参りました節にもつくゞ左様感じました。
集会に不便な日本家屋
それに、御教授を致して居る方々とも好く左様 さう 申すことで御座いますが、未だ今日の日本には、お互に集つて、お茶でもいたゞき、親睦会とか、談話会とか云ふやうにして、音楽の小集会を催したいと思ひましても、何分にも適当な場所がないので困ります。お互の家屋 うち が、斯ういふ集会の出来るやうに建てゝありますと、何の雑作も無いことなのですけれども、天井の低い日本風の家屋では、何うも斯ういふ集りには都合が宜しく御座いませんので……。
この点から考へますと、欧洲の家屋のやうな建築法 たてかた で御座いますと、何時何処のお家へ寄り合つても、直ぐに打ち解けた、音楽の小集会が出来まして、練習の助けとなるので御座いますけれども、これだけは、催したいと思ふばかりで、何分にも場所の関係が思はしくないので、何時も困つて居るので御座います。
私に取ては音楽が唯一の慰楽
ヴヰエナの三年を夢の裡 うち に過ごしまして帰朝致しました後 のち は先頃、欧洲へ参りますまで、引きつゞき音楽学校教授を致して居りましたので、私に音楽上どんな著しい苦心があつたか、何ういふ考へが有つて音楽を習ひはじめたなぞと申すやうな、むづかしいことは取止めて申上げ兼ますが、唯今の私に取りましては、音楽は確かに心の慰めでもあり、楽しみでも御座います。お酒を上 あが る方は、お酒で心を慰められ、花や植木を心慰 こゝろなぐ さにして居られることゝ思ひますが、それと恰度同じやうに、私も此の音楽をば心慰さに致して居ります。ですから、世間にお一人でも多く、音楽を解せられ、音楽趣味を持ち、音楽を心慰さとする方があるほど、日本の音楽も進んで行きます譯で、私と致しては、左様いふ方々が日に増し殖 ふ え、欧米の家庭のやうに、日本の家庭でも、音楽を一般に家庭の方々の楽しみとさるゝ日が、一日 いちじつ でも早く到着することを望んで居るので御座います。何うも音楽に乏しい家庭の空気は、何か物足りないやうで、何処となく陰気なやうに思はれまして……
二 独逸の三年間 安藤幸子
・欧州の楽壇を風靡したヨワヒス先生
・手を見てヴアイオリンを勧めらる
・私に今少し体力があらば
三 橘糸重女史にお目かかる記 白芙蓉
・名聞を好まれぬ斯道の名家
・眩しい電燈の下にすらりとしたお姿
・音楽家との会見にふさはしき琴の音 〔下は、その一部〕
「その鴎外さんの『即興詩人』のやうに認めることの出来る履歴でも私が持つて居りますと、それは、お話し致すことも有るので御座いませうが、何に致せ、唯だ空しく二十年ばかりも学校を教へて居ると申すばかりで、他には何のお話し致しますほどの経歴もない私で御座いますから……。」
「私は高等師範学校の附属学校に居りました。それから、母や兄から申さるゝまゝに、音楽学校這入つたと云ふばかりなので御座います。入学当時は勿論のこと、在学当時、卒業当時でさへ、母校で今日までも引きつヾき音楽を教へるやうにならうなぞとは、更々思つて居りませんので御座いました。
御言葉は、また途切れた。途切れたお言葉は、また暫くしてから断片的に発せられたのでありました。
・若き楽人の意味深く味はふべきお言葉
「私は音楽が大好きで御座いますが、その好きと申すのは、他の方が上手になさるのを楽しく聞いて居りますことで御座いまして、私が自分で致すのは、楽しみ処ではなく、反て苦痛なほどで御座います。」
四 巴里で学ばれた神戸絢子女史 いくよ 〔下は、一部〕
苦しんだのも音楽、楽しんだのも音楽
「巴里 パリー で、特別に、私の心を慰めたものとては御座いません。-苦しんだのも音楽、楽しんだのも音楽……何しろ、この官立音楽堂(コンセルヴアトール)にても這入(はい)つて居らるゝ方々は、皆な立派な素養のある方ばかりなのですから、日本から彼地へ参りたては、何うかして、斯ういふ人々と肩を並べたいものと、随分焦りも致しますし、骨も折りました。」
苦心を苦心とも思はず
「官立音楽堂は、我国 こちら の東京音楽学校とは違つて、皆な専門に習ふやうになつて居りまして、ピアノを終業するものは、ピアノばかり、ヴアイオリンを修業するものは、ヴイオリン一三昧になつて居ると云ふ状況 ありさま なのです。で、他の課目を学ぶと云ふ必要は御座りません。自修時間も十分あるやうでは御座いますが、それでも、私なぞには、未だゝ自修時間が不足のやうに思はれましたので御座います。」
五 音楽の修行から得た苦しい経験 東京音楽学校教授 頼母木こま子
楽みよりも苦みが余計
これぞと申す際立つた考へもなく、何の気もなしに東京音楽学校に這入り修行を致し、別に臨んだわけでもなく、卒業後引きつゞき、今日まで学校を教へて居ると申す他には、私、何とも格別申し上げることも無いので御座います。先輩のお勧めがあつて、そのきつかけに音楽の修業をはじめたと云ふやうなことで私に在りませば兎も角、私の音楽をはじめましたのは、そんなきつかけなぞ有つた譯 わけ では無いので御座います。
今日と違ひまして、私の在学当時には、未だ音楽学校には余計に生徒は御座いませんでした。それに、一時 ひとしきり なぞは、教師の側でも、外国教師の一人もお出でなかつた時も御座いました。何に致せ、音楽のことで御座いますから、他の人が御覧になりましたら、いかにも楽みの多いやうに思し召すか知れませんが、やはり、一つの職業になつて居りますと、楽しみと申すよりも、苦しみの方が余計なので御座いまして、決して他からお考へになるやうなものではありません。それも、何か特別の天才でもあつたらば、また楽しみも御座いませうが、私のやうに天才どころか、何の取り所 え もないものには、決して音楽の楽しみなぞがあらう譯はないので御座います。
併しこれは、何の道でも同じことで御座いませう。それに私なぞは、宅へ帰りますと、主婦 かない で御座いますから、一軒の家相応の用事があるので御座いまして、唯今から考へますと、修業中の方が未だ音楽の楽みがあつたかも知れぬと、斯う思ふので御座います。
第一は天才、第二は忍耐
楽才が御座いませんなら、骨を折つて勉強致しました所であまり効 かひ がないかと思はれます。音楽学校なぞの生徒に致しましても左様で御座います。先づ最初から、この人はと、目をつけた生徒は、進みも充分はか取るので御座いますが、左様いふ生徒で御座いませんもので……。尤 もつと も、最初 はじめ に何うかと思はれた生徒 かた でも、だんゝ練習が積み、勉強を重ねるうちにはじめに考へましたとは違つて、大層見直すやうな人も無いのでは御座いませんが、斯ういふ人 かた はまた格別の人と云つても宜しいので御座いません。
日本の音楽と違ひまして、この西洋音楽の方は、取りかゝりが誠に退屈なもので御座いまして、はじめから、これと一つ纏つた曲 もの を初めると云ふ譯には参らず、練習にばかり時を費すので御座いますから、それを能 よ くも御忍耐なすつて皆さんが好くこそお稽古をなさることゝ思はれるほどで御座います。
それに何か何か一曲まとまつたものが済ました後でも、その次の曲をはじめるまでには、またゝ長い間、単に練習の曲を致さなければなりませんのですから、習ひはじめの方は、決して楽しみがあらう筈はありません。楽しみ所 どころ か、殆んど苦痛ばかりをお感じにならうと思はれます。
斯ういふ次第ですから、何うやら人通り仕あげやうとするのにも、第一幾分か天才がなければならず、第二には、余程忍耐強くなければ、到底 とても 仕上がる理 わけ にはまゐりますまいと思ひます。音楽を学ぶにも、随分な精神上の犠牲が要 い るので御座います。しかも、そんなに苦労をして、どれほど上手になるかと思ひますと、たゞ一通りのことが出来ると云ふまでゞ御座いまして。-誠に音楽の修行も容易なものでは御座いません。
六 柴田環女史の半面 有隣子
・飾り気の無き女史が母堂の物語
・祖母君の声音を遺伝した環女史
・天才の母と趣味の遺伝