上の写真は、大正十一年十月一日発行の『演芸画報』 第九年 第十号 の口絵に掲載された。
九月於帝国劇場公演◆舞踊◆瀕死の白鳥・記事参照 舞踊の天才アンナ・パヴロワ夫人の白鳥
この号には、次の特集で3つの文がある。
世界一の舞踊家アンナ・パヴロワ
・アンナ・パウロワの白鳥 小山内薫
山田耕作が「名人パウロワ」と言つたのは当つてゐる。アンナ・パウロワは誠に名人である。一世紀に一人を期し難いほどの名人である。彼女のトオ・ダンスに至つては、全く天下無敵である。十年前に倫敦の寄席バレエスで、初めて舞台の上に彼女を見た時の驚異を、私はいまだに忘れる事が出来ない。併し、それは単に美の驚異であつた。印象は思ひの外稀薄で、もう今日では色の褪めた写真のやうになつてゐる。ニジンスキイの「フオオンの午後」や「ペトルシユカ」や「ダフニスとクロエ」などの印象の、いまだに強く鮮 あざや かなのとは比すべくもない。それはなぜか。アンナ・パヴロワは、形式の典雅に絶してはゐるが、霊の自由な飛躍に於いて、翼に力の足りぬところがあるからである。所詮パウロウの舞踊は修練を尽した、そして修練を超越した古典の舞踊である、型の舞踊である、或学派の舞踊である。
サン・サアンの「白鳥」。これが彼女にとつては最も扱ひ好いものであつた。最も彼女の内に適したものであつた。実にこれには彼女の独自な力が現れてゐる。これは単に音楽の翻訳ではない。舞踊が音楽に働きかけ、音楽が舞踊に働きかけてゐる。ルビンスティンの「夜」になると、彼女はもう音楽に引きずられてゐる。エルヂのシムフォニィに一度手をつけたが、それは痛ましい失敗を見せた。
彼女は天の成せる「名人」である。どんなむつかしい形式にもひるむ事のない「名人」である。併し、形式の奥に潜む奔放自在な霊の力に於いて、彼女は弱い。所詮、アンナ・パヴロワは「女」である。 (口絵参照)
・パヴロワ夫人の印象 永田龍雄
アンナ・パウロワ パウロアの「瀕死の白鳥」
・名人パヴロアの踊る第一夜 香夢生
尾上菊五郎
パヴロワ夫人ですか。芝居の都合で見られませんでしたが、仕舞つてからは是非見る積りです。
私は横浜へ夫人が乗つてゐる船が着いたとき榮三郎と男女藏とを連れて出迎ひに行つて逢ひ写真を撮り、引き伸ばして夫人に贈りました。
私は初めて逢つた時、たしかに此夫人は踊れる人と思つたのは、部屋の四十九号から出て来たときに非常に足に力がある女と感じましたさうして足が軽く上がるやうな気がしました。
外国人の話は一切為方 しかた 話ですが、取分けパヴロワ夫人は、それが多いやうで、その一々が総て踊 おどり の形で遣つてゐました。
握手をするのも、お辞儀をするのも、部屋へ這入つて戸を締めるのも一切踊の形になつてゐましたから、たしかに踊は旨いだらうと思ひました。
さうして桟橋を大概の人は屈 かが むのを、パヴロワ夫人は反身 そりみ で、爪先を立てゝゐました。
評判に拠ると上手だといふについて、果して自分の感想が当つたと思つて自負しました。
芝の家へ呼んでお茶を上げましたり〔上の写真:絵葉書のもので、撮影日は九月十二日〕、市村座の部屋へも参りました。
新聞で御承知の通りでせうが、家でいろゝの話から、パヴロワ夫人が土蜘 つちぐも の法被 はっぴ を着、私が山中平九郎の鱗 うろこ の着物を着て、是非写真を撮りたいといふので、二人で並んで写ました。〔上の写真は、左が絵葉書の、右が雑誌掲載のもので、「菊五郎とパヴロワ夫人」〕
その時パヴロワ夫人が「日本の着物、綺麗なものばかりあります」と云はれたから、私が「あなたの国、舞 をどり の着物にきたないものもありますか」と聞いたら、「それはない」と答へられました。
そこで私が「日本の踊の着物綺麗なものありますが、きたないものもあります」と云つたら見たいと云はれましたから、気違ひ幸兵衛の着物を出して見せました。
それから子供を見せてくれと云はれましたから、次男の清晁 せいてう を見せましたら、国へ連れて行きたいと云はれました。連れて行かれて堪まるもんですか。〔上の写真:左は、雑誌掲載の「菊五郎夫妻と菊五郎の愛児を抱けるパヴロワ夫人」、右は、絵葉書のもの〕
さうして気違幸兵衛の踊を遣つて見せましたら、是非遣つて見せましたら、是非遣 や つて見たいなどと云はれましたが、お世辞の好い事。一体日本の芸術家はお世辞が足りません。取分け私なぞはそのー点に就いてはパヴロワ夫人の爪でも煎じて呑みたい位にお世辞の好さ、踊は旨いと聞いただけ、まだ見ませんが慥 たし かに巧いに違 ちがひ がありません。
上の文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文の中のひとつである。
なお、「六代目菊五郎とその家族と共に。」という写真が、マーゴ・フォンテーン著・湯川京子訳の『アンナ・パヴロヴア』(文化出版局 昭和61年)にある。
この写真は、アンナ・パヴロワの踏影会〔菊五郎もその同人〕への御礼状で、大正十二年三月発行の『踏影』 第二号 の口絵に掲載されたもの。
その日本語訳は、掲載写真の裏面にある。 〔手紙の日付は、一九二二年九月十二日〕
若人達よ
兄等の一番御深切な待遇に心から感謝して居ります
美しい会員章の贈り物は私に「好い日本の思ひ出」として役立ちます
私は兄等の計画の目的に深い感銘を覚えました「完全な成功」が兄等の努力を待つて居る事を私は疑ひません
アンナ・パブロワ
踏影会皆々様
下の一文は、大正十一年 〔一九二二年〕 十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に掲載された「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」の三つの文のひとつである。
パヴロワ夫人の舞踊
松本幸四郎
帝国劇場では、十日から僕等が昼間舞台を勤めることになつて、夜は夜で、露西亜の舞踊を御覧に入れてゐます。
僕がその初日を見物すると、或人が僕にパウロワ夫人の舞踊に就いて「日本の踊 をどり と比較して如何 どう だ」といふお尋ねがありましたので、僕がそれに答へたのを、又お尋ねに拠つて申しますれば、
「それは日本の踊に比べることは出来ません。日本の踊は即ち振り所作で、始終表情があつて謂はゞ芝居の元となつてゐるのですが、あちらのは御覧なされた通り、体の鍛錬であり、又一つには特種の体でやるのですから全然 まるで 日本の踊とは趣が違ふのです。今夜見ました『瀕死の白鳥』は得意中の得意のものだと聞きましたが、なるほど結構なものでした。此の前有楽座でしたが、同じ露西亜婦人の『瀕死の白鳥』を見ましたが、あの時は白鳥にも羽が付いてゐたし、色電気を使つて見せました。今度のは羽などもなく淡 あつさ りとした服装 いでたち で、色電気も使はないところに、パヴロワ夫人の最大見識があつたやうに思はれました。稽古も毎日ちよいゝ見ましたが、物凄いやうでした。僕は大陸を歩いて来ませんから受合つて申されませんが、単に云へば、パヴロワ夫人の踊は、世界一だと云へようと思ひます。それは私のみならず、あの初日の夜、見物された名士の方々も大分来られたやうにお見受けしましたが、廊下で「それこそ本統の世界だ」と、どなただか褒めてゐられたのも耳にいたしました。」
この写真は、絵葉書のものであるが、同じ写真が「中村福助とパヴロワ夫人の握手」の説明で、下の『新演芸』に掲載されている。撮影日は、大正十一年 〔一九二二年〕 九月十六日と思われる。
中村福助は、帝劇の初日と三日目〔山田耕作夫妻・父の中村歌右衛門・友人近藤柏太郎らと〕にパヴロワの舞台を見ている。
下の文は、大正十一年十月一日発行の『新演芸』 十月号 第七巻 第十号 に「日本舞踊家の見たるアンナ・パヴロワ」として掲載された三つの文の中のひとつで、写真「中村福助とパヴロワ夫人の握手」もある。
何度でも見たい
中村福助
わたしは「瀕死の白鳥」が一番好きです。第一回の番組では、この「瀕死の白鳥」を見たいために二度見にゆきました。何度でも見にゆきたいと思ひます。
丁度、今度の羽衣会で、新しい舞踊「盲鳥」を上演することになつてゐたので、わたしにとつては、この上もない幸ひなことでした。
「盲鳥」は「瀕死の白鳥」とは殆んど違ふものですが、わたしの考へてゐたことが、こゝに実演されてゐて嬉しかつたことは、舞台の上下に電気を點けないことでした。その明るさは、落ちついた深みのある味になりました。又、唄のない音楽だけであること、つまり、音楽と踊りによつての表現をするといふ事でした。わたしは、ひどく嬉しくなつて、なほ、「盲鳥」のときに用ひる衣裳や、電気の実際的な方面のことをいろゝと考へました。さうしてノートに書いておきました。なほもつと深くつきつめて考へてみるためです。
二度目には、さうした考へを捨てゝかゝつて見にゆきました。丁度山田耕作氏が一緒に行つてくれたのは又幸でした。父も「瀕死の白鳥」を是非見たいといふので、ともゞそろつて出かけました。この時はわたしは「盲鳥」のことなんかの考へを全然すてゝしまつて、のん気な心持で見るつもりでした。しかし、一所に行つた耕作氏にいろゝ質問したりしました。わたしは舞台を前に見ながら、同氏からいろゝと説明されるので、前に見た時よりもよく分りました。又、始めて見た時より落ちついて見ることが出来たのもよかつたと思ひます。
近いうち、羽衣会ではこのパヴロワ夫人の一行の歓迎会を開く筈です。その時は直接に逢つていろゝと聞いてみたいことがあるけれども言葉が通じないのは残念です。いろゝ突ツ込んで聞いてみたいのですけれども……。
下は、大正十一年十月一日発行の『サンデー毎日』 一年 二十八号 に掲載された「パヴロワ夫人と私と」の一部である。
日本の踊は手振りなり顔の表情で意味を描き出しますが、手の働きより足の働き、分けても爪先 つまさき 。トウの力のはたらきを中心にして、手の形は日本舞踊と違つて自然に流し美を描くに任せて置くのです、そして全身の形を統一して美の表現をして居るのが非常に私の参考になりました。 夫人の来朝記念としてパヴロワさんに何か芸術上で頂戴したいと思つていましたが、幸ひ十六日に父が自宅へ夫人をお招きしましたので、種々(いろいろ)と教を仰ぎ啓発される処がありました。そして夫人からも御頼みがありましたので誠に不遜な事ですがお礼の心持で帝劇の稽古場で、日本の舞踊をお見せしたら大変喜んで居られました。
なお、この同じ号には、「東京千駄ヶ谷成駒家邸におけるアンナ・パヴロワ夫人ー向つて左歌右衛門、右福助、中央パ夫人の前が児太郎」という写真もある。
写真は、「六つの花」(SnowFlakes)を踊るアンナ・パヴロワ(Anna Pavlova)とアレクサンドル・ヴォリーニン(Alexandre Volinine) である。
絵葉書の表には、帝国劇場での公演を観たと思われる人物により、「帝国劇場 ウオリニ氏 パウロワ夫人 露西亜舞踊 大正十一年 〔一九二二年〕 九月十七日 [入場]ス」([ ]は推測)と書かれている。
下は、『アンナ パヴロワ』(1922.9)より。
舞踊劇 六つの花 一場
『ナツトクラツカー』より
チャイコウスキー作曲
イワン、クルスチン振附
ウルバン背景装置
役割
六つの花のウォルツ … ブツオーワ゛嬢 スチユアート嬢 グリフヰス嬢 コールス嬢 バートレツト嬢 フリード嬢
レーク嬢 グラインド嬢 ロヂャース嬢 フェドローワ゛嬢 イグネス嬢
二人舞踊 … パヴロワ夫人 ヴオリニン氏
三人舞踊 … スチュアート嬢 コールス嬢 レーク嬢
変調舞踊 … パヴロワ夫人 ヴオリニン氏
五人踊 … ブツォーワ゛嬢 グリフヰス嬢 バートレット嬢 ロヂャース嬢 イグネス嬢
コーダ舞踊 … パヴロワ夫人 ヴオリニン氏 座員一同
梗概
露国の有名なチャイコウスキーは三つの舞踊劇を書いた、第一は五幕物、第二は三幕物、第三は二幕物で最も有名な Nut Cracker と称する舞踊劇である。此第三番目の、而して最も短い作物に於て、彼が天才の最善の努力を集中した舞踊劇の傑作を見る事が出来る。
パヴロワ女史は露西亜舞踊劇に於て、「六つ」の花なる外題を以て上演せらるゝものに有つては、神仙の住む冬の郷土が、斯道の達人ジョーセフ、ウルバン等の力で雪の重さに、枝も撓 た ゆげな樹々 きき の梢など、見るから此世とは思はれぬ美しい舞台装置が與へられて居る、乃ちそれは「クリスマス、ツリー」の国 ランド である、而 そ して全曲を通じて、音楽と、舞踊とが、六つの花其物 そのもの の如く軽く且つ妙へなるものであるから、此舞踊劇に「六つの花」なる名を冠した事は、大 おほい に其当を得て居ると思はれる。
筋はナツト、クラシカ!乃ち耶蘇再誕祭 クリスマス の贈物なる人形に関する事で、此人形は最後に、物に魅 つか れた王子となつて現はれ、可愛い恋人の助 たすけ を以て、呪縛から救ひ出される、此舞踊劇の進行中、又はナツト、クラツカーの解放の後に、チャイコウスキーはクリスマス、ツリーに関する美しい伝説を話して呉れる、而 そ して我々は冬の偉観雪の国へと連れて行かれる、従つて此「六つの花」は舞踊に依つて伝説が解釈せられて居るといふよりはより以上の意味があつて、其音楽と各国の運動に於て、クリスマスの精神たる、快暢 ジエリデイ 、清浄、美麗とを現はして居るのである。
日本芸術の印象
アンナ・パヴロワ
あたしが、お国を訪ふと、もう、月のひとつを閲しました、まことに早いものです。さうして、あたしは、この帝国ホテルにー慕はしい大東京にもー別れねばならぬ、寂しき日が、あたしに近よつてゐるのです。
おもへば、碧い波の上から丹麗な富士山の姿に迎へられて、港にきたあの朝から、いろゝな日本の印象が、あたしの踊る尖頭旋回 シユル・レ・ホアン のやうに、めまぐるしいやうに、あたしの感覚に触れ溢れてゐるのでございます。
エンプレツス・オブ・カナダの甲板で、あたしは、いつも、どこの国に行つても、されるやうに、お国の新聞記者の方に逢ひました、そして写真を撮影させられました。それは、なんでもないことですが、お国の芸術を解せらるゝ知識のある女性にお逢ひしたことが、いちばん、あたしを驚かしたのです、あたしは、お国の女性を人形のやうな女性だとばかり思ふてゐたのでございます、白い顔に夢を見てゐるやうな黒い細い眼をもつた、行儀作法のゆきとゞいた静かな女性で、言葉すらもあまり言はれぬ、はにかみがちな、そんな女性だと思つてゐたのでございます、その女性のすがたは思ひがけないあたしの意表にでた女性でございました、流暢な英語をかたりました、握手を、いきほひよくしました、さうして社交的な礼儀を程よくもつた女性でした、-あたしは欧米で日本の女性によく逢ひました、友もありますーしかしそれは海の外に出た女性ー代表的な分子の女性であつて、進取的な頭脳の所持者であるからこそ、あゝでもあつたのだとーかうばかり思ひこんでゐたのでございますーが、あたしの思想の乏しいものをお笑ひくだされますなー欧米の女性は、まだまだ日本の女性のことは、あたしの知識のやうな方が多いのであることをあたしはお国の女性に告げたく思ふのでございます。
お国の女性はーあたしの接した、はじめの印象の女性はーかほどに、あたしの夢をさましてくれました、決して錦絵のなかのやうな女性ではなかつたのですーあたしは、それであればよいと思ふのですーしかしお国の女性は、錦絵の女であるべく耐忍は、できかぬることであらうと思ふのですーそれは日本に上陸してほど経て、あたしが日本の生活といふものに触れた時、つくゞさう思ふたのですー夢の日本は、遠のむかしに消えてゐると思ひましたー日本は近世のコンマア・シヤリヅムの大きな渦のなかに、くるしく、もがいてゐるやうな姿です。
あくまでも物の価が高うございます、こゝろみに倫敦でもとめる絹のハンカチーフ或ひは絹くつしたのやうなもの、それがことゞくお国のはうが高値をもつてゐるのです、この、あたしが、とまつてゐるホテルとてもさうです、このやうなホテルの料金は紐育の一流のところでございますーあたしが日本が悪い商業主義 コンマーシヤリズム の渦のなかにあるとまおすのは、これのことでございます、かくの如き日本の現状に女性ばかりが錦絵のやうな夢をむさぼつて居られるわけのものではなかつたのです、日本の現状の女性の生活ほどむづかしいものはないとあたしは思ふやうになりました、世界に於て日本の女性こそ目醒むれば目醒むるほど、むづかしい、いろゝな問題に蓬着する女性はないだらうと思ふのです、人生の根本である衣食住の大問題がそこに横はつてゐるのです、世界共通の問題ではなくて日本独自の衣食住を解決してかゝつてからー
日本人の生活が世界共通になるべきかー或ひはその古来からの型を踏襲してゆくべきかー実におほきな問題があります、それをどうしてゆくべきかー日本の女性はその改造に勇ましく進まねばならぬのです、そこに悲痛な闘争もありませう、しかしそこを、あたしが踊るやうなバッキャナルのやうな生活の力の豊悦をもつと、つきすゝむべきではありませんか。
あたしが舞台で踊るのは、ひとつは人生の悲痛を癒すべき任務だとして踊るのですー人類のための芸術です。
あたしは日本に上陸してからこのかた、いろゝな社会組織のなかに迎へられました、東洋と西洋の差が実によくわかりました。
東洋の絵画と西洋の絵画の相違がそこにあります。
三味線音楽 スリー・スツリング・ミユジツク とヴァイオリン音楽の相違がそこにあります。
あたしは藤蔭会に招かれて日本の新らしい舞踊を見ました、さうして“The Dance of the Fn Leavealles’(落葉の踊)を興味をもつて見たのです、あたしの為に、特に刷つて下すつたプログラムには、かう書いてあります。
This is the impresion coaveyed by the fallen leaves as they are lossed up and down and to and fro on the ground by the wind toward the end of autumn.”
あたしが帝国劇場で踊つた『秋の落葉』と同じ趣をこのダンスがもつてゐるので、あたしは甚大な比較興味をもつたことは、だれしもかゝる場合にあへば、かうあるであらうと思ふのでございます、コト・ミユジツクにつれて静かにミス・シヅエは踊りました、そして可憐な二人のダンサアは落葉のひとつのつとめを完全にはたしました、踊のテクニツクは、実にあたしらもよくわかつたのです、言葉で表現できぬほど、心から心にミス・シズエのテクニツクはわかりました。この踊りで東洋と西洋の相違が実によくわかりました。
おなじ芸術表現で、こんなに表現がちがふのです。
あたしの落葉は生の悩みそのまゝを表現したつもりです。
ミス・シズエの落葉には東洋の静的の瞑想した姿しか見られません。
コト・ミユジツクは、やつぱり印度仏教の響です、亜細亜の光りに照らされた蓮の花のやうな沈黙のなかの悲しいすゝり泣きです。
あたしは芝のシユラインにゆきました、東洋の匂ひです、荘厳でした、マダム・バツタァフライにでる鳥居の大きな門がありました、美くしい塔がありました、神聖の地としての絶好の樹木があたしを慰めました、その門の前を近世の自動車が走りました、褐色の市街電車が埃をあげてゆきました、すべてが、サンダルを穿いた希臘人が靴を見て驚くやうな姿態をこの東京はもつてゐるらしく思はれるのです。
ある日、あたしは能プレーを見ました、立派なパントマイムです、心の芸術です、ところゞ不可知な動作に逢ふのです、しかし意味は囚へ得ました、あたしは能プレーに対して、すこしの知識をもつてゐません、能プレーは簡素であるべきものです、布臘の古代人のマスクの演劇が其処にあります、あのマスクは口を大きくあいて悲劇の物語をしました、この能プレーのマスクは、ひとつも口をあいてゐません、みんな結んでゐます、永久に結んでゐるらしく見えます、そこに心の芸術を見せるものがでたのであらうと思ひます。
ある日帝国劇場の劇を見ました、あたしは其の背景の進歩してゐるに驚きました、その時の劇のテーマは池 ポンド でした、一人の儈とて女の恋の物語は話のやうに思はれました、わからないながらわかりました、あの背景は、まつと広い視野に見せる必要がなかつたでせうかーういらうは興味がありました、あの踊りにも日本の絵の気分がよく描かれて居ります、ういらうのキモノの色彩は、だれの考案でせうか、すぐれたものに思ひます。
日本の劇を見る人々は服装が乱れてゐると思ひました、礼服は日本では、劇を見るにきないのですか、ハオリ、ハカマは、いつ着るのですか。
ある日ゲイシャ・ガールのパアティと呼ばれました、日本の錦絵の姿は、この階級にばかりのこつてゐると思つて愛慕の情をもつて見ました、あたしに、はなしかける女性がひとりもゐなかつたのは寂しうございました、日本のナイフ・アンド・フォクのハシは、なかゝむづかしいものです、あれは一度つかへばすてるときゝました、国民性のひとつが現はれてゐます、日本の下駄もはきにくいものです、あたしの踊り相手のミスタァ・ヴォリイニンに慰めの靴 コンフオタブル・シユーウス だと言つてひました、どうしてゝ慰さめでありませう、ヴオリイニン氏のアイロニイです、箸と言ひ下駄と言ひ、実にむづかしいものを日本の人々はつかふものです。
ある日美術学校を訪ひました、英作和田はいろゝな東洋仏教の絵を見せてくれました、仏像も見えました、あたしは古重襴のカケモノのキレも絵よりも深く愛しました、日本人の祖先の物をつくる魂のこもつたものが見られるからでした渋味のあるあの重襴の色彩は、われゝの生活のうへにも応用ができると思ひます。
ある日ミツコシにゆきました、日本の純なキモノがなくて欧米にゆくキモノがレディ・メードにどつさりありました、そのキモノは心ある女性なら、すぐそのまゝ受けいれかねる安価な色彩と模様がありました、どこに多くゆくのでせうか日本のキモノなら、まだ、なんでもよいと思ふ気軽な女性がまだ欧米に多いのでせう。
あたしどもは、いかなるときでも美の高上を願はぬ時はないのです。
草の葉のひとつでも美であることをあたしは望みます。
世界は美であらねばならぬのです。
世界は美の宗教に支配さるべきものです。
それならば、だれがこの美の宗教を司さどるべきなのでせう、われゝ芸術にたづさはるものが、その大任務をはたすべきなのです、通常の人が雪烟過眼する万象のなかに美の理想をとらへてこれをその芸術に現はして、美趣をこゝにありと教へるのです。
この理想を発揮して、永遠の常住相をもつて心を感化するのでなければ芸術といふものは成立せぬであらうと思ふのです。
あたしは、極めていそがしい身で、舞台から睡眠それから稽古といふわけで、日本の女性の方々としみゞ物語をするチヤンスがなくて過ぎたことを実に残念に思ふのでございます、あたしは世界の国々を、かうして急がしく旅するのでございます、しみゞと物を思ひ且つ考へることは、まれなのです、疲れた思想は、よくありません、ですからこゝに、あたしが書いた断片は瞥見 グリンプス にすぎないのでございます、グリンプスは、おほしくフレツシユなものです、しかし物の心核は、つかむときを、さうでないときがあるものです。
あたしは、まだ多くの溢れたやうなものがあるのです、しかしそれをまとめる勇気がないのです、日本の暑気は随分強いこともそのひとつです、稽古が日本の舞踊の稽古のためにー割におほくの時をさくのですーそれがために敬愛する日本の女性のためになにごとかのこしたい言葉を、つひやしたく思ふのですが、それがかなはぬのです。
あたしは、あまりペンをとることがありません、言葉がすぐ文字になるのに慣れてをらないのです、ですから、あたしの文意はきつと断片的です、まとまつたものがありません、これは心から深く日本の女性に詫びねばなりません、思想の深味もなく、まして啓発すべき言辞もないのです、ひとりのダンサァが思ひうかべたまゝのかざらぬ印象だと思つてくださればよいのです。
あたしは Virina Reconstruo 〔Virina Rekonstruo 女性改造〕 のために、めづらしくも印象をのべました(あたしには長く感想をのべることがあまりないのです)あたしは有力な、あなたの雑誌を通じて、日本の女性の為に、あたしの日本滞在中の深甚な同情をうけたことを感謝します、さうして永遠にこの地上をすみよからしむることが女性の義務であるべきことを、お互ひに胸ふかく刻みこんで、地上楽園のために、勇ましく闘ふと言ふことを盟ふものであります。 (於一九二二・九・二九東京・帝国ホテル)
上の文は、大正十一年十一月一日発行の雑誌 『女性改造』 十一月号 (第一巻 第二号) に掲載されたものである。
なお、『漠のパンフレット』 第四輯 に、下の文がある。
・世界の顔 アンナ・パヴロヴァ
舞臺と觀客席との間を電気に例へれば磁場 じじやう のやうなものだと、私は何時 いつ も考へる。
私は觀客に呼びかける。私は心から訴へる。さうすると私は、彼等が私に對して抱く關心が、何 ど んな形のものかを、木の葉のやうにデリケートな敏感さで、すぐに知つてしまふ。私が舞臺に立てば、觀客と私の間に電気の回路 サーキット が結ばれるのだ。
私は古いロシアを想ひ出すことがある。其の頃のロシア人は、舞臺に踊る私の言葉を其のまゝに受けて、私と一緒に、狂的に心を躍らせるのだった。古いロシア人は踊 をどり に熱情を感じた。狂的に踊を好んだ。然し新しいロシア人は‥‥‥あゝ私は本當に何んな踊を彼等に見せてよいのか!所詮私はアリストクラットだ。そして彼等は、私とは別な存在なのだ。
私は又東洋人の舞臺で踊ったことがある。彼等は西洋の踊を知らない。私の訴へを彼等は何 なん と受けるだらうー私は寧ろ其處に興味を感じた。
日本のトキオ‥‥‥私は帝國劇場 インピリアル・シアター の舞臺に立つたー思へば既に十年近い昔だがー私は異常に眞劍な眼が、私の心臓を刺すやうに注がれて居るのを感じた。彼等は私の踊を享楽しやうとは思はない。私を知らうとする。私の踊を学ばうとする。じつと哲学的な凝視を注いで、彼等は靜座する。私は踊つて踊り抜いた。私は熱狂した。
踊りを終つてホツとして、ディヴァンに身を沈めた私だつたが、何時迄も昂奮が消へなかつた。そして考へた。彼等は私の踊を解剖した。然し全體的に私を知つてくれただらうかーかくて私はトキオを去つた。アリガト‥‥‥日本の皆様、兎に角私は眞劍な皆様に心から感謝するのです。
海を渡れば支那。ミステーリアス・チャイナ!本當に支那の皆様は辨髪 ピッグ・テール のやうに不思議だ。彼等は客席に、石のやうな無感覚さで座る。彼等は劇場に何をしに來たのか、何を見に來たのか?多分阿片 オピアム の殘夢を追って、時間を浪費する爲に來たのだらうー。
で、私は、伯林 ベルリン のステーヂに立つ。私の前には無數の化學者と物理學者と數学者が並んでゐる。ドイツ人はドイツ人意識で私の踊を分析しやうとする。伯林人は私の踊を熱心に計算する。私は手術臺に上 のぼ った病人のやうな不気味さを感じる。あゝ彼等は私の踊を通して哲人石を発見し、相對主義の理論を確立しやうとしてゐるのだ!決して踊を見に來たのではない。
そこで私は、逃れの街パリ―へ走るー
私はパリ―で受けた程の好評を嘗て經験した事がない。だけど彼等は實際に私の踊を喜んでくれたのか知ら?私にはチャンと解 わか る。フランス人は世界で一番親切な國民だ。彼等は私をなぐさめる爲に拍手する。よしんば私が經業師であっても象使ひであっても、矢張同じことだ。彼等はいゝ気持で滅茶苦茶に拍手する。彼等は拍手する爲に劇場に集まる。
私は素朴な魂を求めてアメリカへ行った。アメリカ人は赤裸々だ。嫌ひなものは嫌ひだ。好きなものは好きだ。アメリカ人は知ったかぶりをしない。アメリカ人は本當に踊を喜び踊に酔ふ事を知ってゐる。だから私はアメリカ人が好きだ。
さて私は今度何處へ行かふ。も一度オリエントに行って見やうか知ら。それともいっそ南極へ行って、黒いペンギン鳥の中に混って「瀕死の白鳥」を踊らうか知ら‥‥‥。(エンリコ・ロシー譯)
表紙には、「アンナ・パヴロワ 二見孝平訳編 ARS」とあり、奥付には、「大正十一年 〔一九二二年〕 九月一日発行 定価 一円二十銭 発行所 アルス」などともある。19センチ、本文目次・挿画目次目次2頁、挿画〔「瀕死の白鳥」などの写真及びレオン・バクストの衣裳の絵など15枚〕・本文など59頁。※ワは、すべて濁点あり
本書は、大正十一年七月の後序によれば、アンナ・パブロワの来朝を機に、三氏の論文等及び自序の小伝を附して編んだものであり、その原本は、『バレエへの招待』(日本芸術文化振興会 1999)によれば、「“Anna Pawlowa”(Berlin,Verlag Bruno Cassirer,1913)」である。
本文目次
一、アンナ・パウロワ
二、パウロワ嬢自叙小伝 「私の生涯から アンナ・パヴロワ」
三、パウロワ嬢上演のバレー其他の梗概
三の梗概にある作品は、「ダイオニサス、フエアリテールズ、スカンデイナヴイアの牧歌、波蘭土舞踊、魔笛、フエアリドル、レ プレリユード、露西亜舞踊、シヨパニアナ、雪片、コペリア(第一幕)、アマリラ、森に眠る乙女」である。
挿画目次
・アンナ・パヴロワ嬢
・ダイアナに扮せるパヴロワ嬢(衣裳ーレオン・バクスト)
・ノウイコツフとバツカナルを踊れるパヴロワ嬢
・クレール・アヴェリ氏の小品
・セロツフ氏の画(広告紙に用ゐたるもの)
・古典的舞踊 〔上左〕
・「瀕死の白鳥」を舞へるパヴロワ嬢
・パヴロワ嬢のBajadere扮装(バクスト考案)
・エルンスト・オツプラー氏の画
・「バツカナル」に於けるパヴロワ嬢(米国にて撮影)
・パヴロワ嬢の扮せるギゼル(衣裳ーバクスト)
・アンナ・パヴロワ嬢(倫敦にて撮影) 〔上右〕
・パヴロワ嬢の舞へる舞踊「蜻蛉」
・パヴロワ嬢の舞踊姿
・ロバトレオナード氏の画きたるパヴロワ嬢の顔