蔵書目録

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『支那劇精通』 黒根掃葉 (北京) (1921.1?)

2024年09月09日 | 中国戯曲 梅蘭芳他

  

  支那劇精通
 
 〔口絵写真〕

      
  ・靑衣(梅蘭芳) 老生(王鳳卿)、小生(票友袁寒雲君)
  ・淨(劉永春)、靑衣(尚小雲)外(王又宸)
  ・武生(沈華軒)花旦(金少梅)
  ・老旦(女票友林佩卿)、武生(毛韻珂)
  ・武丑(譚永奎)、文丑(夏月恒)
  ・刀馬旦(尚小雲)
 
  本著刊行の經過を叙し、序に代ふ
               黒根掃葉
 
 私は大正八年中、支那劇研究者の爲に、『支那芝居案内』(一名現代支那劇)と云ふ小著の上卷を提供し、續いてその下卷を世に問ふ約束でありましたが、私は不幸にも九年の春その留守中に惡僕の盗難に遭ひまして家具、衣類を初め、書籍、研究資料、原稿筆記の一切を失ふの禍を見、之が爲め近く付梓の運びにあつた下卷の刊行は遂に一頓挫を來すの餘儀なきに至りました、それでも此の計劃は決して斷然中止したのではなく、新に材料を覓めると共に徐々と執筆の步を進めてをつたのでした、ところが十月に入りまして社(朝日新聞、上卷を出した當時新支那社にゐた私はその年の末にこヽの朝日通信部に移り住んだのでした)命があつて大阪の本社に參ることになりましたので、此の計劃をどうしやうかと云ふことを考へさせらるヽことヽなりました、若し出發までに脱稿し畢るとも、印刷の方が出來ねば困る、それに當時上卷が已に一本もないまでに賣れ切れとなつてゐた際であつたので、單に下卷ばかり出すよりも上下卷を一所にした樣なものを出して、一つには下卷續刊の責を果たし、一つには私が離京の記念にもしやうと思ひついた結果がついに這麽ものを出すに至つたのでありました、内容は依然として空虛なものですが、それに印刷の關係(此の書を印刷に廻す時には十二月の十五日までに必ず印了するといふ堅い請合であつたのでしたが、何の事情でか一月半ばになつても出來ぬ、私はたびたび出発を延期して今日に至りましたが、只今の形勢ではまだ此の月いつぱい位はどうしても掛るらしい、それで最後の手段として下の樣なことをすることになつたのは返す返すも遺憾の極みであります)で『新劇の話』の全部、『顧曲叢談』の一部、それに附錄に収めた『民國劇壇發達物語』『大鼓論』の二篇を全然除去するに至つたことを非常に惜みますが、も早仕方ないことであるからこれは何かの方法で発表するか、或は此の書の再版を待つて加入したいと考へてをります、(これ等は決して遁詞でないことを誓ふ)、要之いつもいつもつまらぬものばかりで眞に汗顔の至りですが、たゞ觀劇の栞にもとの私の老婆心丈はおかひ下さらんことを偏にお願ひ致します、尚ほ此の書の刊行にあたりて、貴重なる資料を供給して下さつた波多野乾一氏に深甚の感謝を捧げます、又た此の書の執筆中、辻武雄氏の『中國劇』に據る所尠くなく、村田孜郎氏の『支那劇と梅蘭芳』の一部を借用したところがありましたが、畏敬する此の兩氏に對しこヽに謹んで敬意を表します。
    大正十年一月二十四日午后二時
              北京朝日公館の一室にて之を記す
 
  凡例
  ◎それから私の小著に『支那劇精通』と附題したのは波多野乾一さんの勸めによつたのですが、内容の餘りに貧弱なる爲め折角の好題目に孤負すること尠くないのを思つて誠に慚愧に堪へない次第です。

  目次
支那劇の沿革
支那劇の組織
 脚色(役柄)
 歌詞(腔調)に就いて
支那劇の見方

  支那劇の見方 
    
歌劇である支那劇は一般に日本の劇に見るやうな種々の道具立てを使はない、然らば如何にして場面の有樣を見するかと云へば、簡單なる椅子や高机を用ふる外、みんな手眞似足眞似で現される、此點は初めて支那劇を觀る者が最も注意してをかねばならぬことだらうと思ふ、
例へば、
一、鞭を持てば馬に乗りたる形を現す。
一、閂 くわんのき を取り外 は づし又は篏めたる所作は門扉の開閉を現す。
一、腰を屈め裾 すそ をとつて舞台を横に小さく步むは梯子段を上下する形。
一、人の訪れたる時未だ門を開きたる所作を爲さずして應答するは必ず門の内と外なること。
一、茶褐色の旗の樣のものヽ間に挾まり、後より人の押し行くは車或は籠に乘りたる形。
一、椅子と高机を並べ其の上に登るは山に登れる形。
一、茶色の長き鉢卷の如きを爲すは病に罹りたるを現す、旅立ちする時にも之を用ふ、女の遠途する時は白き裾を胸高に纏ふ。
一、浪模樣の旗を持ち出でたる時は水中を示し、雲の繪の旗を持ち出でたる時は神仙現る。
一、櫂を持ちたる者附き纏ふは必ず水上なること。
一、黄硝石の粉を燃し、火の玉を見するは魔性の者現れたるを示す。 
一、頭より赤き布を覆ひ掛くるは死したるを示す(別に結婚の場に新婦は赤き布を被ることあり、混同すべからず)
一、白き紙の房 ふさ を兩肩より長く垂れたるは死靈たるを示す。
此の外夜の更 ふ けたる有樣や其他の塲面の變化は囃方によつて現されるものもある。
    
支那劇では大人役になるのも、子供役になるのも年齡や體格の如何に拘らぬことに注意せればならぬ、即ち大人でも子供の裝ひをすれば子供として取扱はれ、また子供役子者でも鬚さへをつければ年寄として取扱はれる。 
    
支那劇には幕がない、一つの劇が終ると直に次の劇にうつり、次から次と連續してどんどん進んで行く、それであるから初めの中は只今何處をやつてゐるのか判斷に苦むことが多い、まだ前のものヽの續きかと思つてゐると藝題が二つも三つも先に行つてゐて開 あ いた口がふさがらぬことがよくある。而して支那劇では劇に仕組まれたものヽ一部分づつを前後の關係にはお管ひなく獨立して演る( 必ずしも全部ではないが )のであるから一幕大抵一時間位で終ると見て差支ひない、尤も長いのになると三時間もかヽるものが無いでもないが、これは殆んど例外で、短いのになると四十分位で終るのもある、それでどうしたなれば幕の切れ目を知ることが出來るかと云へば第一には芝居の筋書を見て筋の大體を呑み込んでをいて役者の所作と對照すること、第二には其の芝居の立役の行動に注意すること、卽ち立役が舞台を下つた時が一幕の終りで、別の立役が舞台に出て來た時が次の幕の初めといふことになるからである、第三には舞台の道具譬へば机とか、椅子とか云ふものヽ位置が變つたり、樂手の入れ代りに氣を付けること、即ち幕の移ると共に舞台の道具は必ず置き直されるし、それから一寸有名な役者になると皆専屬な胡弓拉 ひ きとか皷うちと云ふ樣な者をもつてをり、其等は主人の芝居が終ると共に歸つて了ふからである。 
    
支那劇就中文劇は前にも云つた樣に歌を主とするのであるから、色々なところを歌ひ込んで了ふことがある、劇の筋も知らずにゐたら今何處をやつてゐるのやら酒張り判らなくなる、それだから脚本はどうしてもよく讀んてをかねばならぬ、それに脚本が判つてをると、その歌の調子、節廻し等に對しても一種の興趣が湧いて來るものであるから。
 
  脚本梗槪
二進宮 玉堂春 御碑亭 回荊州 雙搖會 大劈棺 柳林池 連營寨 戰長沙 草橋關 嘆皇靈 落馬湖 花田錯 空城計 洪羊洞 三娘敎子 奇冤報 打鼓罵曹 提放曹 桑園寄子 取成都 硃砂痣
  
  二簧硃砂痣 
      (一名行善得子)
 外(韓員外) 靑衣(江多婈) 病鬼(呉惠泉) 丑旦其他
宋の末。韓員外は官成都の太守まで至つたのであるが、赴任の途上金兵の亂に遭つて妻や子を冲散され、それ以來官を退き故鄕に歸つて優悠自適の生活を送つてゐたのである、けれども子供がないと云ふのは何よりの不安の種であつた、それで妾なりとをいて後嗣をつくらうと考へ出したのである、ところへ土地の仲媒婆媒さん恰度よいのがあると云つて來たので、すぐさまそれを貰ふことにした、花燭の夕、新婦の顔を見るとどうも晴れ晴れせぬ、マサカ俺の年老を嫌ふのではあるまいと訊いて見るとさうではない、彼は江氏と云つて現に夫のある身であるけれど、夫が旅の宿に病んで醫藥の代もないと云ふので此の始末なのであるからお助けを願ひ度いと云ふのである、さうかそれでは無理もないことである、俺はもうお前とは結婚はせぬ、證書は此の通りに燒いて了ふ、また白金百兩を上げるから早く歸つて夫を勞つてやれと、家扶をして送らしめる。
幾千かの藥代は出來ても、可愛い妻を失つて悲嘆に暮れてをる江氏の夫呉惠泉は、妻の聲に驚いて出て見ると、韓家の者に送られて戻つて來てゐる、そしてかくかくであると云ふことを聽いて呉惠泉喜ぶこと限りなく、長い病氣もカラッと癒つて了つた、そして連れ立つて韓家にお禮に行く、韓員外は大に喜んでやる、病氣も癒り旅費も出來たので呉惠泉は直に四川へ向ふ、四川には彼が賣掛の未集金が殘つてゐたのである、四川に着いた後は萬事都合よく行き大口の掛金も収れた、そして何時か韓員外に禮に行つた折よい子供があつたら買つて來て貰ひたいと賴まれたことを思ひ出し、金氏と云ふ婆さんから五十兩で天賜と呼ぶ十三になる子供を買ひ、妻の江氏を此處に殘して韓員外の處へ送つて來ると、その子供は意外にも韓員外が成都へ赴任の當時、靑州街道で見失つた我が子供であつた、それは子供の左の足の赤痣でさうだと判つたのである、此の劇の二簧慢板(借燈光)の一段と二簧原板(勸世人)の一段とは一般に好んで歌はれる。

黄金台 文昭關 天水關 七星燈 戰北原 牧羊卷 淸官册 雙獅圖 柴桑口 烏龍院 李陵碑 四郎探母 祭長江 探寒窰 探陰山 八義圖 魚膓劒 釣金龜 梅龍鎭 白門樓 華容道 宇宙峯 取帥印 打魚殺家 紅鸞禧 祭塔 瓊林宴 羣英會 桑園會 拾黄金 轅門斬子 翠屛山
斷太后 打龍袍 戰蒲關 斬黄袍 彩樓配 滑油山 目蓮救母 獨木關 逍遙津 南天門 徐策跑城 盜宗卷 四進士 落花園 轅門射戟 大保國 忠孝全 女起解 五家坡 浣紗記 天雷報 三疑計 趕三關 賣馬 定軍山 請宋靈 上天台 獨占花魁 虹霓關 法塲換子 貴妃醉酒 孝義節 雙包案 鍘美案 大鎚 別宮 汾河灣 陽平關 算糧登殿 失街亭 十八扯 馬鞍山 廻龍閣 血手印 惡虎村 蜡廟 望兒樓 行路哭靈 戲迷傳 穆柯寨 哭祖廟
  
打花鼓 小放牛 遺翠花 新安驛 小上坟

秦腔の話
崑曲の話(附、高腔)
顧曲叢談
 臉譜、脚本の出處、禁演劇、役者の産地、

 〇役者の産地 

役者の産地はどの省が一番多いか、試みに調査してみると北の方の省では直隸人及び準直隸人が第一、其の次ぎが山西人、山東や河南人も間々ある、南方の省は江蘇、安徽が第一、其の次ぎが湖北、廣東方面は純粹の廣東人が最も多數を占めてゐる、又た所謂準直隸人なるものヽ中目下北京で最も聲譽のある役者は多くは安徽、江蘇或は湖北等の省に籍を有する者で、純粹の北京人及び純粹の直隸人は極く少い、之が原因は淸の乾隆の時皇室で詔して江蘇、安徽等の各省より名優、樂師を北京に呼び寄せて風雅の發揚を奬勵した爲め、其後此等役者の子孫がなほ北京に居殘つて祖先の業を繼いでをるからで、即ち故譚鑫培及び余叔岩(即ち小々余三勝)は何れも湖北人で、程繼仙は安徽人、楊小樓、梅蘭芳、時慧寶は何れも江蘇人である如きが其の例である、それから有名なる小供役者呉鐵庵も原籍は安徽である、純粹の北京人に至つては僅に故王桂官、小供役者小王桂官及び故張二奎、大奎官等の數名が有るに過ぎぬ。(同上)

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 〇名優の打砲戲  

打砲戲とは舞台に出る初め三日許りその最も得意とする劇を演ることを云ふので、今日何處の舞台では誰の打砲戲があるからと云つては芝居好きの連中は車を飛ばせる、今或る人が調べた男、女優及び小供役者の打砲戲を掲ぐると左の如くである、惜い哉僅に一齣づつしか選んでをらぬ。
▲男優 孫菊仙―魚藏劒、楊小樓―惡虎村、劉鴻昇―斬黄袍、時慧寶―上天台、陳德霖―孝義節、龔雲甫―釣金龜、梅蘭芳―黛玉葬花、郭寶臣―失街亭、王又宸―打棍山箱、崔靈芝―同惡報、俞振庭―金錢豹、許德義―収關勝、郝振基―偷桃、侯益隆―嫁妹。 
▲女優 小香水―拾萬金、金鋼鑽―三娘敎子、李鳳雲―花蝴蝶、劉喜奎―花田錯、雲金紅―摩天嶺、李桂芬―轅門斬子、王玉如―上天台、白素忱―宇宙鋒、金月蘭―女起解、馬素珍―小放牛、王金奎―探陰山、金鳳奎―牧虎關。
▲童優 尚小雲―玉堂春、芙蓉草―辛安驛、呉鐵菴―失街亭、馬連良―桑園寄子、高秋蘋―探茶奇案、趙連升―四杰村、程艷秋―彩樓配、小鳳台―草橋關、五齡童―轅門斬子、呉少霞―陽平關。

票友名士の得意劇、北京の茶樓、科班、處と紅、俳優の飮食、劇塲の經營、税、京戲術語、二三流人物、露不露。
男女名優短評
 孫菊仙、

 孫菊仙 淸末の老生には三派があつた、それは汪桂芬、譚鑫培の兩派に彼の一派を加へたものであつた。只今では汪、譚兩氏とも此の世を去り殘つてゐるのは彼れ丈であるのである、彼れ今年八十一、其の劇界の元老として崇めらるヽのも無理はない、彼の音は却々高くそれでよく長くつゞく、唱ひ振りなど獨特の味を有つてゐる、所作もよく、缼點と云ふ樣なものは捜し出すに一寸困難である、まだ身體も丈夫で、元気がいヽ。たゞ舞台に立つ機會の少いのを惜しむ、天津人彼を老鄕親と呼ぶが故に近頃彼も自ら之を用ゐ、世間にも亦『老鄕親』で通つてをる、彼のお得意劇は『逍遙津』、『法門寺』、『忠烈圖』等である。

 陳德霖

 陳德霖 靑衣界の先達で本年五十七、劇界の元老である、二十年前已に聲譽隆起し、孫菊仙、譚鑫培、王楞仙、汪桂芬等と共に大名を負ふたものであると云ふ、喉は非常によく、所作など却々かれてゐる、彼は崑曲にも詳しく、その右に出る者は無いと云ふ、舞台には上ることは少いが、堂會劇には大抵出る、彼れが手を掛けた弟子は隨分多く、梅蘭芳の如きはその錚々たるものである、其のお得意劇には『孝義節』、『宇宙峯』、『彩樓配』等がある。

龔雲甫、楊小樓、劉鴻昇、余叔岩、王又宸、王鳳卿、譚小培、時慧寶、王瑤卿、梅蘭芳、

 梅蘭芳 彼は支那劇界の寵兒、彼れ多藝多能、靑衣に可、花旦に可、刀馬旦、小生などまでやる、唱の方も二簧、西皮、崑曲、秦腔何でもこいと云ふ有樣、顔目は天下獨一無二、喉も 絕品である、それで名の賣れぬ譯は無い、能戯二百數十、半年位は同じ芝居を二度とは見せないと云ふ勢ひ、向ふに廻つて立ち合ふ役者などのありやう筈がない、彼は大道狹しと劇界を横行し闊歩してゐるが、彼の得意時代が如何頃まで續くかは判らない、或る人は意外に早くは無いかと云つてゐる、それは近頃彼の頬肉が著しく落ちたと云ふのである、要するに彼が年をとつたことは事實だが併しまだ五年や六年の生命はある樣に思はれる、それは兎角彼位人氣を背負つて立つた者は支那劇界に於て前にも後にも人が無いかも知れぬ。

王蕙芳、九陣風、郝壽臣、德珺如、王長林、劉永春、朱素雲、兪振庭、沈華軒、張文斌、蕭長華、尚小雲、 

 尚小雲 靑衣。童伶。もう二十幾つかになるのだし、藝も已に一人前なのであるから子供役者扱ひにしては酷かも知れぬが、まだ童伶の部に入れてをいた方が都合がよさそうだ、梅蘭芳につぐの人氣者、唱も所作も立派なものだ、更に努めたならば立派な役者となれ得よう。

小翠花、馬連良、白牡丹、程連喜、程艷秋、 
 
 程艷秋 靑衣。童伶。却々評判はよく、梅蘭芳第二だなどとの噂だが果して其麽人材であらうか、倒嗓期で暫らく休んでゐたが此頃は已によくなつたとかで家庭で練習してをると聽いた、刀馬旦もやるが一寸見られる、此の男は顔のお蔭を大分蒙つてゐる。

韓世昌、恩曉峰、李桂芬、金桂芬、小香水、金鋼鑽、鮮靈芝、十三旦、金少梅、趙紫雲、李鳳雲、王金奎、金鳳奎。 

勘誤
 
〔蔵書目録注〕
 
 上は、『支那劇精通』 黒根掃葉 の一部抜粋である。(文中の青字は繰り返し、赤字は原文は虫に八の漢字)
 本書には、奥付なく、刊行年等の記載は無い。
 また、最終頁には(十九百二)とあるが、途中(十三百二)と(一十三百二)頁の間に4頁あるので、本文は実際は計294頁である。

  

 なお、本書の口絵には、次の書き込み?が見られる。(●は判読不明:写真参照)
  
 天理大中村敎授、九州旅次●拙著を捜し來り、署名を求めぐる。上梓後冷汗を掻き、刊行を恥じしもの、今この冊子を見て、改めて新汗を流す。中村先生、悪作劇をなすも甚だし。
    昭和廿七年夏大阪にて●掃葉



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